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癟幎続くマグロの埪環。ツナ猶の街・枅氎で繋いできたもう䞀぀の物語。

    プロロヌグ

    1949幎。静岡県の枅氎垂、袖垫そでしの海岞には、匷烈な朮の銙りず、独特な「魚の匂い」が挂っおいたした。

    照り぀ける倪陜の䞋、砂浜で黙々ずマグロの頭や骚を広げ、倩日に干す䞀人の男がいたした。私の祖父、䌊豆川埈次いずかわ・しゅんじです。

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    創業圓時の䌊豆川飌料の工堎

    圓時、枅氎の街は「ツナ猶」ずいう新しい産業の熱狂の䞭にありたした。工堎の煙突からは癜い煙が立ち䞊り、枯には䞖界ぞ向けお出荷を埅぀猶詰が山積みになっおいたした。その華やかな光景のすぐ真暪で、祖父が向き合っおいたのは、工堎から捚おられるはずの「残枣ざんさ」でした。

    「ツナ猶を䜜る」ずいう光の仕事ず、「マグロを最埌たで䜿い切る」ずいう圱の仕事。 この二぀の歯車が重なった瞬間、枅氎ずいう街にマグロにた぀わる䞀぀の埪環が産声を䞊げたのです。

    これは、䜕床も倧きなピンチに陥りながらも、決しお途絶えるこずのなかった「呜を別の呜に還す」䞀族の物語です。

    「豆腐マグロ」が宝に倉わった日

    この物語の始たりは、さらに遡るこず1929幎。圓時の持垫たちが、ある魚を少し皮肉を蟌めおこう呌んでいたこずから始たりたす。

    「豆腐マグロ」

    それはビンナガマグロのこず。身が癜くお柔らかく、刺身には向かない。圓時の日本ではほずんど䟡倀がないずされおいた魚でした。しかし、この「芋向きもされなかった魚」に目を぀けた人物がいたした。静岡県氎産詊隓堎の村䞊芳雄氏です。

    圌はこの豆腐マグロビンナガマグロを油挬けの猶詰にする技術を開発したした。これが、日本のツナ猶の倜明けです。1930幎に日本初のツナ猶工堎「枅氎食品」が操業を開始するず、その品質は茞出先のアメリカで爆発的な支持を埗たした。

    これが、日本のツナ猶のはじたりです。枅氎食品に続いお、1931幎昭和6幎には同じ枅氎垂内に2番目の工堎ずしお「埌藀猶詰所」珟圚のはごろもフヌズが誕生したした。翌1932幎昭和7幎には、3番目の工堎ずなる「枅氎氎産」が発足しおいたす。

    ちょうどその頃、䞖界恐慌の時代。日本囜内でも仕事を探しおいる人が倚い反面、戊争の圱響で男手は䞍足しおいたした。でも豆腐マグロはたくさん獲れる。獲れたマグロを長期保管する冷凍蚭備なんおない時代にツナ猶工堎は、女性でも働ける加工業ずしお広がっおいき、枅氎枯の呚りには次々ず猶詰工堎が建ち䞊びたした。最初のツナ猶の開発からわずか幎でのツナ猶工堎が静岡に誕生したそうです。

    次々ず誕生したツナ猶工堎、枅氎食品が補造を始めた1930幎は幎間の茞出数量が81凜ケヌスだったずころから、1933幎には680,282凜たで驚異的に増えたずいう蚘録が残っおいたす。ちなみに茞出先はアメリカが玄99を占めおいたそうです。

    ここたで茞出が䌞びた芁因は、日本のツナ猶の品質が良く、為替の圱響で安䟡で買うこずができたずいうこずでした。

    この急激な茞出増はアメリカ囜内業者の脅嚁ずなり、猛烈な茞入制限運動を匕き起こしたした。これに察凊するため、日本偎は1934幎から蚱可制による生産統制や茞出枠の割り圓お自䞻芏制を導入し、䟋えば1935幎にはアメリカ、カナダ向け生産枠が350,000凜に制限されたした。1937幎には再び583,690凜たで盛り返したしたが、第2次䞖界倧戊の激化により1941幎に斜行された「貿易統制什」により食糧品の茞出が党面的に犁止され、戊前の茞出蚘録は途絶えるこずずなりたした。


    䞀族の仕事ず戊争

    1936幎、枅氎・由比の地で産声を䞊げた䞀぀の䌚瀟がありたした。私の芪族祖父の叔父である吉原延次ず、䌊豆川䞀族の歊雄祖父の埓兄匟が蚭立した「平和猶詰」です。

    圓時は、日䞭戊争の圱が忍び寄り、䞖の䞭が次第に戊時䜓制ぞず塗り替えられおいく䞍穏な時代でした。そんな䞭、圌らがあえお「平和」ずいう名を䌚瀟に冠したこずには、単なる商号以䞊の、䞊々ならぬ芚悟があったように思いたす。「食」ずいう、呜を繋ぎ、平和な家庭の象城である仕事ぞの誇り。それがその瀟名には蟌められおいたはずです。

    しかし、歎史の荒波は容赊なく圌らを飲み蟌んでいきたした。第二次䞖界倧戊が激化する1942幎、政府による「䞀県䞀瀟」の断行。静岡県内にあった60以䞊の猶詰工堎は、匷制的に䞀぀の統合䌚瀟「静岡県猶詰株匏䌚瀟」ぞず集玄されたした。平和猶詰もたた、その䟋倖ではありたせんでした。

    由比の工堎からは、マグロを蒞す豊かな銙りが消えたした。代わりに鳎り響いたのは、金属を削る冷たい音。資材ず劎働力を軍需に振り向けるため、平和猶詰は瀟名を「由比航噚株匏䌚瀟」ず倉え、工堎は航空機の「ネゞ」を䜜る軍需工堎ぞず転換せざるを埗なかったのです。

    終戊を迎え、ようやく統制の鎖が解かれた1948幎。奪われおいた「平和」の名を取り戻したす。工堎を由比から枅氎の袖垫ぞず移し、「平和食品」ずしお再出発を切ったのです。

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    圓時の平和食品の人たち

    「これからは、本圓の平和産業の時代だ。マグロずミカンの猶詰で、もう䞀床この街を、日本を元気にしよう」

    資料に残る圓時の人たちの蚀葉には、二床ず戊争のための郚品を䜜らなくお枈むこずぞの、そしお自分たちの技術を「食」に泚げるこずぞの、喜びが刻たれおいたす。この時に掲げられた「平和産業ぞの埩垰」ずいう旗印こそが、今の私たちにたで続く䞍屈のDNAの正䜓なのです。

    たた、荒波に立ち向かっおいたのは、私たちの芪族だけではありたせんでした。

    1948幎、匷制統合されおいた「静岡県猶詰株匏䌚瀟」が解䜓されるず、返還された工堎を手に、倚くの仲間たちが䞀斉に産声を䞊げたした。「枅氎食品SSK」「埌藀猶詰所珟圚のはごろもフヌズ」「枅氎氎産」「皲葉食品」「由比猶詰所」  。珟圚、誰もがスヌパヌで芋かけるあのブランドたちも、圓時は同じように、倱われた「平和産業」を取り戻そうず必死に前を向いおいたした。

    面癜いのは、圌らの関係性です。垂堎では熟烈なシェア争いをするラむバルでありながら、䞀歩工堎の倖ぞ出れば、技術を教え合い、互いを錓舞し合う「同志」でもありたした。

    資料には、各瀟の技術者が「静岡猶詰協䌚」ずいう堎所に集たり、隠し事なく最新の技術を共有し、共に品質を磚き䞊げおいった姿が蚘されおいたす。「自分䞀瀟だけが良ければいいのではない。静岡党䜓で、䞖界に誇れるツナ猶を䜜ろう」。その高い志が、枅氎を単なる加工地ではなく、䞖界から信頌される「ツナ猶の聖地」ぞず抌し䞊げたのです。

    こうしお、街䞭にマグロを蒞す銙りが戻り、掻気が溢れ出したのず時を同じくしお、祖父・埈次もたた、平和食品のすぐ暪で䞀぀の決断を䞋したす。

    「これだけのツナ猶が䜜られるのなら、必ず同じだけの『呜の残り』が出る。それを単なるゎミずしお捚おるのではなく、別の呜を育む糧にしよう」

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    平和食品の前でポヌズを取る若き日の祖父

    1949幎、ツナ猶産業が再び黄金時代ぞず駆け䞊がろうずするその足元で、マグロの呜を、家畜や蟲産物ずいった「別の呜」ぞず繋ぎ盎す挑戊が、静かに始たりたした。


    蒲原の「次郎長」が぀ないだ呜のバトン

    1950幎代、枅氎の街がツナ猶の茞出に沞き、1䞇人もの工員たちの掻気で溢れおいた頃。その喧隒から少し離れた袖垫の海岞に、ひずきわ嚁勢の良い声が響いおいたした。

    私の祖父、䌊豆川埈次。

    呚囲からは、枅氎のヒヌロヌ・次郎長に䟋えられるような、少しアりトロヌだけど矩理人情に厚く、誰からも愛される豪快な人でした。

    祖父の呚りには、い぀も人が絶えたせんでした。お客さんが来れば、「もっず食べな遠慮するな」ず、お腹がいっぱいだず蚀っおいるのに無理やりお代わりを薊める。垰り際には、「泊っおけ」ず蚀っお、䞡手でも持ちきれないほどのお土産を「これ持っおきな」ず持たせる。そんな、情熱が服を着お歩いおいるような人でした。亡くなっお25幎以䞊経ちたすが、今でも「あなたのおじいさんには䞖話になったんだよ」ずその歊勇䌝を聞くこずが倚々ありたす。

    そんな祖父が、平和食品のすぐ近くで始めたのが、ツナ猶工堎から出るマグロの残枣頭や骚を匕き取り、飌料や肥料ぞず繋ぎ盎す仕事でした。

    圓時のツナ猶補造は、いわば「光」の圓たる華やかな茞出産業。䞀方で、そこから出る膚倧な量の頭や骚は、攟っおおけばただの廃棄物。しかし、祖父の目には、それは廃棄物ではなく、「仕事の糧、呜の塊」に映っおいたはずです。

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    昔から豪快だった祖父

    「捚おればゎミだが、掻かせば次の呜を育おる宝になる」

    祖父のあのお節介なたでのサヌビス粟神は、仕事の䞊でも遺憟なく発揮されたした。平和食品から出る残枣をただ凊理するだけでなく、それを最高の状態で回収し、すぐに也燥させ、豚や鶏の力匷い䜓を䜜る飌料ぞ、あるいは静岡の茶畑を豊かにする肥料ぞず、培底的に磚き䞊げお届けたのです。

    䞀族が営む「平和食品」ずいう光ず、埈次が担う「䌊豆川飌料」ずいう圱。 この二぀が合わさっお、初めお枅氎のマグロは、その呜を䜙すこずなく䜿い切るこずができたのです。

    ちなみに䌊豆川飌料の初代瀟長には平和食品や猶詰業界で芁職を務めおいた䌊豆川歊雄が就任しおいたす。猶詰䌚瀟から出る残枣をスムヌズに集めるため、たた事業ずしおうたく軌道に乗せるため、圌の力を倧いに借りおいたずいう話です。

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    袖垫の海岞の傍らで倩日干しされたツナ猶の残枣

    黄金時代ず平和の進撃

    1950幎代、枅氎の街は「海ず山のゎヌルドラッシュ」に沞いおいたした。

    それを裏付ける象城的なデヌタがありたす。1950幎昭和25幎 この幎のマグロ猶詰茞出は玄146䞇凜に達し、戊前の最高蚘録の2倍以䞊を叩き出したした。そしお長らく枅氎枯の茞出額のトップに君臚しおいた「緑茶」を抜き、ツナ猶が茞出額1䜍の座を奪ったのです。たさに、枅氎が「お茶の街」から「マグロの街」ぞず塗り替えられた瞬間でした。

    ツナ猶の裏でミカン猶詰もたた、むギリスなどの欧州諞囜ぞ向けお怒涛の勢いで茞出されおいたした。

    倏はマグロ、冬はみかんずいう季節性のある原材料がそれぞれ違う時期に豊富に手に入るこの静岡の土地は、猶詰工堎をフル皌働させるのに適しおいたのです。ミカン猶詰のシヌズンになるず、枅氎や焌接の工堎にはおびただしい数の季節埓業員が集たりたした。䞻には、 蟲閑期ずなる東北、長野、新期などから、冬の期間だけで数千人の女性たちが静岡ぞ働きに来たした。最盛期には垞雇いを含め玄1侇1,000人の劎働者が工堎に集䞭し、その掻気は「芋事な盛芳」ず評されたした。

    䌊豆川飌料も圓時、猶詰工堎から出るミカンの皮を集めお也燥させ「陳皮」や「シトラスパルプ」ず呌ばれるものを補造しおいたそうです。これも飌料や挢方薬の原料ずしお䜿われおいたそうで、地域の産業がうたく埪環しおいたした。オむルショックの時期にその事業はやめおいたす。

    その熱狂のど真ん䞭で、芪族が営む「平和食品」は、静岡でも指折りの巚倧メヌカヌぞず成長を遂げおいたした。枅氎だけにずどたらず焌接の「倧和猶詰」を買収し、傘䞋に収めたす。枅氎の商売の巧さず、焌接の圧倒的な原料䟛絊力。この二぀を手に入れた平和食品は、たさに飛ぶ鳥を萜ずす勢いでした。資本金は1,775䞇円、埓業員220名を抱え、幎商は玄14億円に達し、県内の猶詰業者の䞭でも5番目、党囜のみかん猶詰業者の䞭で4番目の補造量を誇る時期もあり、「県内倧手34瀟」の䞀角を占める存圚でした。

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    昭和30幎圓時の平和食品瀟員旅行の様子右端に延次、埈次がいる

    平和食品の瀟長や専務を務めた䌊豆川歊雄も、単なる䞀䌁業の経営者にずどたらず、「静岡猶詰協䌚」や「日本鮪猶詰茞出氎産業組合」の理事、「日本蜜柑猶詰工業組合」の副理事長ずいった芁職を歎任し、業界内でも確固たる地䜍を築いおいきたす。

    しかし、あたりにも成功しすぎたこずが、皮肉にも次の詊緎を招き寄せたす。

    1970幎、日本のツナ猶茞出が史䞊最高である684䞇凜を蚘録し、頂点を極めたす。日本のツナ猶がアメリカの食卓を垭巻し、珟地のシェアを奪い始めるず、アメリカ囜内から猛烈な「ストップ」がかかりたした。「自䞻芏制」ずいう名の茞出制限です。あたりに安く、あたりに高品質な日本のツナ猶は、巚倧なアメリカ垂堎にずっお「脅嚁」ずなっおしたったのです。

    そしお1971幎。 茞出ずいう䞀本の现い糞に頌り切っおいた栄華は、あたりにも残酷な圢で断ち切られるこずになりたす。


    ツナ猶の時間が止たり、新たな歩みぞ

    1971幎、ツナ猶業界はたたもや倧きな危機を迎えたす。

    アメリカによる品質問題デコンポゞション問題ずドル・ショックによる為替の倉動です。圓時の日米貿易摩擊が倧きく関わっおいたずいう話もありたすが、ここで䞖界が䞀倉しおしたいたす。

    アメリカのFDA食品医薬品局が、マグロに含たれる氎銀量に厳しい基準を蚭け、さらに品質ぞの疑いをかけたこずで、枅氎枯から海を枡ったツナ猶が、行き堎を倱い、巚倧な返品の山ずなっお枯に戻っおきたのです。

    茞出䞭心だった静岡のツナ猶産業は再び倧きな打撃を受けたした。平和食品も、茞出した玄7,000凜が返品されるこずになったり、成長を信じお巚額の借金で買い集めおいた「茞出枠生産実瞟」が、茞出停止ず急速な円高によっお䞀瞬にしお膚倧な「負債」ぞず姿を倉えたのです。

    私の父・培䞉珟䌊豆川飌料瀟長も、経営の凄惚な珟堎を目の圓たりにしたした。1971幎9月、平和食品は倧手パッカヌずしお最初の䌑業に远い蟌たれたす。圓時の新聞でも倧きく報じられおいたそうです。平和食品以倖の猶詰工堎も10瀟以䞊がこの圱響で閉鎖されたず蚘録されおいたす。そしおその2ヶ月埌、経営を支えおきた吉原家の垞務が、心劎の末に自ら呜を絶぀ずいう悲劇が起きたした。

    しかし、私たちの志は折れたせんでした。「圢を倉えおでも、枅氎の食卓を守る」。その䞍屈の粟神で吉原家から生たれたのが、今や静岡の゜りルフヌドずなった「お匁圓のどんどん」です。お匁圓のどんどんは、今や68店舗を展開するできたおのお匁圓を提䟛するチェヌン店で、平和食品の瀟長だった吉原延次の孫にあたる䞀裕が倧きく広げたした。珟圚は株匏䌚瀟unlock.lyずいう䌚瀟に事業を譲枡しおいたす。

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    いたでも残る「平和食品」ず「どんどん」の看板

    吉原家が「食」の道で再起を果たす傍ら、私たち䌊豆川家の「埪環」の仕事もたた、现く、長く、圢を倉えお、この街の産業を陰で支えおきたした。

    この頃、䌚瀟は倧きな転換期を迎えおいたした。平和食品だけでなく、他の枅氎の猶詰䌚瀟から発生するツナ猶の残枣やみかんの皮を回収する䜓制を敎え、自瀟工堎のみならず他瀟ぞの委蚗や買い取りも行う調敎魚粉メヌカヌずしおの機胜を匷化しおいったのです。

    この飛躍の原動力ずなったのは、埈次の「人を動かす」圧倒的な情熱でした。 圓時、日本指折りの食糧商瀟であった東食珟圚は䞖界的な穀物商瀟の日本法人であるカヌギルゞャパンが事業を匕き継いでいるずの絆は、通垞のビゞネスの枠を超えたものでした。埈次は、静岡で出来立おの釜揚げしらすを携えお「今から飯を炊いお埅っおろ」ず東京の東食の事務所に電話をし、そのたた車で乗り蟌み、そこにいる誰にでも気さくに声をかけたずいいたす。そんな圌の人柄に惚れ蟌んだ商瀟マンたちは、こぞっお枅氎の埈次の自宅に泊たり、共にゎルフに興じ、家族のような信頌関係の䞭で党囜の飌料工堎ぞず販路を広げおいきたした。その販路は商人系、党蟲の飌料工堎などがあり、二代目の培䞉、そしお珟圚の私が匕継ぎ、今でも取匕が続いおいたす。

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    東食の方々を囲んで

    「囜民食」ぞの進化ず、忍び寄る静かな圱

    1971幎の事件の圱響で芪族の平和食品を始めずした倚くのツナ猶工堎は閉鎖されるこずになりたした。しかし、嵐が去った埌、静岡のツナ猶業界は驚異的な粘り匷さで再生を果たしたす。それたでの「茞出頌み」から、日本の食卓ぞ向けた「内需」ぞの倧転換です。

    1978幎、戊埌初めお囜内の販売数量が茞出を䞊回りたした。この頃から、ツナ猶は単なる保存食ではなく、サラダ、パスタ、そしお今や囜民食ずも蚀える「ツナマペおにぎり」の具材ずしお、私たちの生掻に欠かせない存圚になっおいきたした。

    珟圚、静岡県はツナ猶の囜内生産シェア98.62024幎を誇る、圧倒的な「ツナ猶王囜」です。ツナ猶の生産ずずもに増えおきたマグロの茞入量や1䞖垯あたりのマグロ支出金額も日本䞀なんです。持獲量も宮城県ず䜍ず䜍を毎幎争うほど。私たちは、日本で最もマグロを愛する街になりたした。

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    静岡県のホヌムペヌゞから

    しかし、この繁栄の裏偎で、か぀おの危機ずは質の異なる「䞉床目の波」が静かに抌し寄せおいたす。

    それは、加工珟堎の「空掞化」です。

    効率化や䜎䟡栌の維持を远い求めた結果、珟圚日本の囜内で流通しおいるツナ猶の玄6割は海倖の工堎で䜜られたツナ猶になっおしたっおいたす。玄20幎前たでは、囜産が6割だったものが逆転しおいたす。か぀おは茞出で䞖界を垭巻しおいた日本のツナ猶の姿はなくなっおしたいたした。

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    猶詰時報の統蚈からむズカワがたずめたもの

    曎には囜内の補造工堎であっおも、マグロを䞞ごず仕入れお捌く工皋は激枛したした。代わりに䞻流ずなったのは、海倖で頭や骚、内臓をあらかじめ萜ずされ、加熱されお冷凍され、ビニヌルに包たれ段ボヌルに詰められた「クックドロむン」を茞入し、このマグロの身だけを猶に詰めるだけの工皋です。

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    加工され冷凍されたマグロ

    私が珟堎で目にしたのは、か぀おの祖父が向き合っおいた「血の通った呜の塊」ではなく、無機質なプラスチックゎミの山でした。ロむン加工は効率的で枅朔です。でもそこには肥料になる骚も、飌料になる頭もありたせん。

    ですが、今の猶詰メヌカヌを責めるこずはできたせん。むしろ、長匕くデフレず景気埌退の䞭で、「物䟡の優等生」ず衚珟されるように䞀猶の䟡栌を長幎維持し、私たちの食卓を守り続けおくれた䌁業努力には、心からの敬意を持っおいたすし、なによりも茞出バブルに巊右されるこずなく垞に内需を倧事にしおきたこずは本圓に玠晎らしい事だず思いたす。

    「安くお良いもの」を求める私たちの声に応えるため、圌らは血の滲むような努力でコストを削り、工皋を簡略化し、ロむン加工や茞入に掻路を芋出したした。その結果ずしお、先人たちが「この街でマグロを䞞ごず䜿い切り、別の呜ぞず぀なぐ」ずいう100幎続けおきた地域産業の埪環が、採算に合わないものずしお消えようずしおいる。それが今の珟実です。

    先を行く䞖界が私たちに远い぀く時

    最近、「SDGs」や「サヌキュラヌ゚コノミヌ埪環型経枈」ずいう蚀葉を耳にしない日はありたせん。欧米の先進䌁業がこぞっお「持続可胜性」を掲げ、䞖界のトレンドをリヌドしおいたす。

    しかし、その「最先端」ず蚀われる考え方を玐解いおいくず、私はある確信に至りたす。

    シヌフヌドレガシヌタむムズの2026幎のむンタビュヌで、囜際魚粉魚油機構IFFOのフランシスコ・アルドン氏は、こう語っおいたす。

    「珟圚、䞖界の魚粉の玄3分の1は、人間が食べる魚の加工から出る副産物残枣から䜜られおいたす。これを有効掻甚するこずは、貎重な海掋資源を無駄にしないための、究極の『アップサむクル』なのです」

    https://times.seafoodlegacy.com/francisco-aldon_jp_1/

    䞖界が今、ようやく蚀語化し、新しいルヌルずしお定矩し始めたこの「究極のアップサむクル」。 実はこれこそが、私たちの祖父・埈次が1949幎に袖垫の砂浜でマグロの骚を広げおいたあの光景、そのものなのです。

    圓時は「サステナブル」なんお排萜た蚀葉はありたせんでした。あるのはただ、「海からもらった呜を、䞀欠片も無駄にしない」ずいう、泥臭くも真っ盎ぐな思いだけ。1971幎の絶望的な䞍況の䞭でも、祖父、そしお父が守り抜いおきたのは、この「圓たり前の埪環」でした。

    もちろん、珟代のサステナビリティの朮流は䞖界がリヌドしおいたす。しかし、その朮流が目指しおいるゎヌルは、私たちが77幎間、䞀歩䞀歩進んできた道ず、驚くほど重なっおいたす。でも䞖界がようやく蚀語化し始めたこの䟡倀を、静岡の茶畑やみかん山はもっずずっず前から知っおいたした。

    「䌊豆川さんずこの肥料を䜿うず、お茶が良くなるんだよ」
    「今幎のみかん、魚が効いおうたくできたから食べおみおよ」

    私がこの仕事をするようになっお15幎ほどになりたすが、お付き合いのあるお茶やみかんの生産者さんたちから、そんな嬉しい声をいただくこずがよくありたす。マグロの呜を䞞ごず匕き受けた肥料は、土を豊かにし、巡り巡っお私たちの喉を最し、心を満たす矎味しさぞず姿を倉えおいたす。 「もったいない」から始たった埪環は、今、静岡を支える確かな力になっおいたす。

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    䌊豆川飌料が長幎぀ないできた静岡の埪環

    「䞖界が今、ようやく私たちの足跡に远い぀いた」

    私は、誇りを持っおそう蚀いたい。私たちがずっず「圱の仕事」ずしお守り続けおきたこの埪環こそが、これからの䞖の䞭が必芁ずしおいる「衚の道」だった。その想いが䞉代目である私の背䞭をい぀も匷く抌しおくれおいたす。

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    昭和の激動の時代も倉わらずあり぀づけた䌊豆川飌料

    次の癟幎ぞ、もう䞀床

    「䞖界が远い぀いおきた」ず胞を匵っお蚀える今だからこそ、 先代たちが䜜り、癟幎守っおきたこの仕事を、私たちの代で途絶えさせおはいけないず匷く思うようになりたした。

    しかし、ただ「守る」ず口にするだけでは、この倧きな波には抗えたせん。だから私は今、䞉代目ずしお自ら新しい颚を起こそうず動いおいたす。

    ツナ猶のこずを知っおもらう

    この玠晎らしい静岡のツナ猶のこずをより倚くの皆さんに知っおもらうために、原点に戻り、自瀟ブランドのツナ猶補品である「ずろ぀な」や「しろ぀な」を地元枅氎の猶詰䌚瀟の駒越食品さんず䞀緒に぀くっおいたす。駒越食品さんは、䌊豆川飌料が昔から残枣を仕入れおいる長いお付き合いの䌚瀟で、 効率化のために身だけを茞入するのではなく、あえお手間のかかる「原魚䞞ごずの魚」から職人の手でマグロを捌き、ツナ猶を぀くっおいたす。その誇りや思いを、䞁寧に䞀猶䞀猶に閉じ蟌めたした。「矎味しいから遞ぶ」ずいう喜びの先に、実は「地域の埪環を知り、守る」ずいう想いが隠れおいる。そんな䜓隓を届けおいきたいずいうのが䞀番のねらいです。

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    「ずろ぀な」ず「しろ぀な」

    次䞖代ぞ意識の皮たき

    私は積極的に瀟倖ぞ飛び出し、孊校や䌁業などで授業や講挔を行っおいたす。 子どもたちやビゞネスパヌ゜ンに、枅氎の歎史や、普段食べおいるものがどうやっお䜜られおいるのかを䌝えおいたす。「安い」の裏偎にあるもの、そしお「遞ぶ」こずの力。私たちの食卓ず、静岡の海ず山は繋がっおいるんだずいうこずを知っおもらい、静岡のこずを奜きになっおもらう。倚くの人に意識の皮をたくこずも、私の倧切な仕事です。

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    ずある䞭孊校での授業

    「珟堎の熱」を、盎接肌で感じおもらう

    そしお、䞀般の方々を私たちの工堎に招き、盎接お話をさせおいただく機䌚も䜜っおいたす。 実際に工堎のにおいを嗅ぎ、音を聞き、原料を觊り、働く人の姿を芋おもらう。時にはツナ猶を食べ比べしおもらうこずもありたす。

    ここには、段ボヌルやビニヌルのごみだけからは決しお感じられない「呜の気配」や「ものづくりの執念」に觊れたずき、参加者の皆さんの目が倉わる瞬間を䜕床も芋おきたした。珟堎こそが、最も雄匁に物語を語っおくれるからです。

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    地域の人たちに工堎の扉をオヌプンする「ファクハク」での1コマ

    生産者のみなさんず共に歩む

    私たちの仕事は、単に肥料を補造しお販売するだけの仕事ではありたせん。私たちの肥料を䜿っお育ったお茶やみかん、お米ずいった生産物の䟡倀を、蟲家さんず䞀緒になっお高め、䞖の䞭に届けおいく。いわば「肥料メヌカヌ」の枠を超えた、共創型のブランド支揎です。

    「TUNA-GOU」ずいう名前を぀けおいたすが、これにはいく぀かの想いを蟌めおいたす。 マグロTUNAから生たれたバトンを次ぞ繋ぐGO、そしお、生産者ず消費者、過去ず珟圚ず未来が手を取り合う。そんな䞖界を目指しおいたす。

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    生産者のみなさんず共に生きる

    「買い物は未来ぞの投祚」

    最近、私の心に深く刺さった蚀葉です。 私たちが䜕を買い物カゎに入れるか。そのひず぀ひず぀が、実は「どんな未来を残したいか」ずいう瀟䌚ぞの投資になっおいるずいう意味です。

    すべおを囜産にず蚀いたいわけではありたせん。 ただ、もし可胜であれば、「5回に1回」でいい。 静岡の、日本の、この土地の呜や歎史や産業を䞞ごず匕き受けお䜜られたものを、意識しお遞んでみおはいただけないでしょうか。

    その䞀猶は、単なる食べ物ではありたせん。この街の技術や文化・歎史を守り、雇甚を支え、そしお私たちが䜜る肥料を通じお、たた次のおいしいお茶やみかんを育おるための「未来ぞの䞀祚」になりたす。

    もちろん食べ物だけではなく、日本や静岡の工堎で぀くられた玠晎らしいものにも思いが蟌められおいたす。この話が普段䜿っおいるもの、買っおいるものがどのように䜜られおいるのか考えおみるきっかけになれば嬉しいです。

    ゚ピロヌグ

    祖父・埈次は、戊埌の枅氎の砂浜でマグロを干しおいたした。 父・培䞉は、逆颚の䞭でも黙々ずその堎所を守り抜きたした。

    そしお䞉代目の私は、先代たちが築いおきた「海から山ぞ」の地域のバトンを、もう䞀床䞀本の倪い線で結び盎そうずしおいたす。

    枅氎の男たちが向き合っおきたマグロ。それがツナ猶になり、そこから生たれたものが肥料ずなっお、静岡の代名詞であるお茶やみかんを育む。この、海ず山に関わる人たちが手を取り合うような小さな埪環を、私は「぀なめぐり」ず再定矩したした。

    それは、倧きな経枈の仕組みから芋れば、ただ小さな、目立たない環かもしれたせん。 でも、この「぀なめぐり」の環が広がるこずは、この街から呜の躍動を消さないこず、そしお私たちが「呜を䞞ごず匕き受ける責任」を取り戻すこずだず信じおいたす。

    私はこの仕事を通じお、100幎前から続く、あの掻気に溢れ、決しお諊めるこずのなかった人たちの想いを、これからも繋いできたいず思っおいたす。

    最埌たでお読みいただきありがずうございたした。

    䌊豆川飌料株匏䌚瀟 䞉代目・䌊豆川剛史

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    私が奜きな「぀なめぐり」を䜓珟しおいる枅氎の颚景

    参考にした文献
    たぐろ猶詰史日本鮪猶詰茞出氎産業組合
    静岡県猶詰史静岡猶詰協䌚
    静岡県鮪蜜柑眐詰工業に぀いお枅氎商工䌚議所
    袖垫町誌
    由比町史
    貿易ず産業合同通信瀟
    ほか

     
     
     
    創業70幎以䞊の静岡県静岡垂枅氎区の飌料・肥料メヌカヌ䌊豆川飌料の取締圹。飌料や肥料のほかに最近はツナ猶䜜ったりしお静岡の産業埪環をぐるぐる回転させようずチャレンゞの日々。 実は日本茶むンストラクタヌ。枅氎生たれ枅氎育ち。

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