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シュレディンガーはたぶん猫。[第30話]

    第30話

     ただ、そんなとても極甘な幸せと同時に、政信くんという人には全く真逆の、何か底知れない不安が常に存在した。

     政信くんは、私に対して何か隠したいことがある。

     それは彼が私の体に触れる時に、特に「そうかも」って感じられた。本当はもっと他の触れ方をしたいのに、それをやめて別の次善策を選ぶような。まるで手心を加えられているみたいな。ある意味「諦められている」みたいな。

     政信くんと「そういうこと」をする時、政信くんは毎回私の首筋を無意識のうちに噛もうとしていて、でも、途中でハッとして、やめるんだ。本当はすごく噛みたそうなのに。もし爪が引っかかって肌の表面を引っ掻くようなことになった場合にも、泣きそうな顔をして何度も謝ってくるんだ。

    「傷つけるつもり、なかった、本当に、ごめん。ごめんね」

     毎度、重大な過ちみたいに政信くんは言う。とても怯えてる。そんなことをしてしまった自分自身に。

    「最近、ちょっと握力増えてて。力、強くなってて。ごめん」

     特に夏休みに入る直前くらいから、私は政信くんにこの状況で謝られる頻度がグンと増えた。むしろ痛いくらいの力で何かされる方が、私はその執着に安心できそうなのに。

    「体、鍛えてるの?」

     ここ最近は肩や腕、腰あたりに触れると気持ちがっしりしてきたように思えていたので、私は尋ねる。

    「うん、まぁ、そんな感じかな」

     曖昧な笑い方での回答に、どこか誤魔化された気がした。

     辛そうな瞳。私とこういうこと、してるのに。本当は私のことそんなに好きじゃない?触りたくないのかな?

     そんなふうに不安になった。そんなに恐々と触れられると。

     だって、自信がないから。元からして宮本くんから自発的に告白された、ってわけじゃないから……。

     そして私のその不安は、特に政信くんが片山くんのことを語る時や、ふたりがふたりっきりでいるのを知ったり実際に遠目に見たりした時、特に大きく増殖した。

     毎回「何でこんなこと考えるんだろう私、片山くんは政信くんの友達なのに」って考えていた。まるで他の女の子に嫉妬するみたいに、片山くんに嫉妬する私のこの感覚は、絶対おかしいはずだって。

     今にして思えば、私のその勘は全く的外れなものじゃなくて。やっぱり私にとっての片山くんは「天敵」以外の何物でもなかったんだと思う。

     政信くんは私をいつも「まるで壊れものみたいに大事に優しく」扱ってくれる。それはたまに見る少女漫画並みの「溺愛お姫様扱い」みたいな感じで、いっそフィクションなのかも?って感じるくらいに完璧で。サトちゃんにも「実は意外とめちゃくちゃスパダリじゃん、宮本~」なんてからかわれて、他の友達にもそんな優しい彼氏羨ましいって言われたりもして。そういう意味での満足度は毎度すごく満たされる。

     けど、片山くんに対しては「壊れにくいからこそ、側に置いてずっと大事に使い続けるもの」みたいな、すごく対等な感じがある。片山くんも、不良だからと一方的に暴力で脅してるんじゃなくて、政信くんのことをちゃんと信頼してるんだなって。だからつるんでるんだなって。

     それが、異様に羨ましかった。もう宮本くんから受け取るべきものをしっかりと先に手にしているのに、私はどこか物足りないとか考えて人のものをさらに欲しがっていて、そんなことを気付かせる片山くんの存在に、イラッとした。完全に八つ当たりだって思いつつも。

     現実問題として、私は片山くんみたいな殴り合いの乱闘なんて絶対できないし、もし何か荒事に巻き込まれたとしてもそこで役に立つような対抗スキルなんて、全く持っていないのだ。だから、政信くんが私の心身を守ろうとして「あまり良くないこと」からひたすら遠ざけようとするのは、当然と言えば当然と思う。

     ただ、どうしても物足りない。「私の能力が足りないせいで私自身が物足りない」。完全にないものねだりだと理性では分かっているのに、ずっと不満が心の奥底につきまとっている。

     そうして、ものすごく幸せで、同時にものすごく不安に満ちた高校三年生の夏休みが終わっていった。

     そして二学期――事件は起こった。例の猟奇事件の、三件目が起こって、それで片山くんの身内の人が巻き込まれた。

     片山くんのことなのに、ここまで自分事みたいに混乱してるし、その場にいない片山くんを守ろうとして他のクラスメイトに突っかかって行ったりしている姿に、正直ショックだった。彼に守られているのは私だけじゃなかったんだ、って。

     しかも私はただ危険から遠ざけられるだけだけど、片山くんは隣でその危険を一緒に戦いながらも、お互いに守り守られてるような関係性なんだって、知ってしまった。

     ずるい。ずるいよ片山くん。そっちの方が、すごく対等でいい関係性な気がしてしまう。

     それを、政信くんが私に「別れよう」って伝えてきたあの日。私から逃げ出した政信くんを迎えに来たらしい片山くんを見て、痛感してしまった。

     あの黒いドロドロと溶けた、よくわからないものが政信くんの全身から溢れるさまを見ることになった上で、別れようとまで言われて、私は混乱して呆然としていたけれど、すぐに慌てて追いかけた。けれども、もう遅くて。

     見つけたその時にはもう、政信くんは片山くんの腕の中にいた。さっき私と一緒にいた時よりももっとずっと安心した様子で。そして政信くんと同様、片山くんからも、同じくらいの量の良く分からないぐちゃぐちゃした黒いものは出てきていた。その闇色のそれに毛布みたいに包まれて、まるで溶け合うみたいになって、政信くんは明らかにほっとしていた。

     ああ――私より、やっぱり、片山くんの方だったのだ。この状況の政信くんに、よりきちんと対応できたのは。

    「政信くんに、何したの」

     私は訊く。きっと片山くんが何かして、政信くんと自分をそんなおかしな姿にしちゃったんだ、と思って。

    「返してよ……元の彼に」
    「――元に返す、ね」

     はぁ、と吐息をついた片山くんは、おかしなことを言うなぁとか、何言ってんだかとか、そういう少し呆れた表情だった。けれども、一応腕の中に視線を移す。けれども、政信くん自身が黒いそれから全く離れようとはしなかった。それどころか、ますます闇に向かって深く沈んでいこうとしている。

    「返さねぇよ。宮本本人が望んでねぇのなら」

     もたれる形になって体の力を抜いている政信くんを抱え直して、そのまま立ち去ろうとしている。その目の前に、あえて私は立ちはだかるようにしてそれを止めた。

     なんでそんな「コイツ本当に宮本のこと何も分かってないんだな」みたいな目で、彼女の私が見られないといけないの。

    「そんなこと、ただの友達のポジションの片山くんに一方的に言われたって。諦められるわけ、ない」

     私は別れることにはまだ了承していない。答えは出ていないんだから、彼女として譲りたくない。

     キッと強めに睨んだつもりだったけど、片山くんは全く意に介してもいなかった。ただまじまじと私を見返して、言ってきた。やっぱり呆れや失望みたいな表情だった。

    「アンタはさ。いつも自分のことしか考えてねぇのな?」
    「は……?」
    「毎度コイツに要求ぶつけて、何かを与えてほしいって求めてたみたいだけど。自分が宮本に何かしてやろう、って気はないのかよ?コイツは毎度他人に何でも与えてくれる奴なのに。取り分受け取ることしか考えてねぇのか」

     私が片山くんに対して怒っていたはずなのに、何でか、こっちが逆に怒りをぶつけられた。お前が彼女として不甲斐なかったんじゃないのか?とばかりに。

    「返すも何も、俺が奪ったんじゃねぇし。アンタ自身が、宮本が欲しいもの、求めているものを与えられる人間じゃなかったから、繋ぎ留められなかったんだ。それだけのことだろ」

     こうなった全ての責任がそっちにある。そう指摘された状態に、私はとてもイライラする。

    「宮本は、ずっと、今も、泣いてるけどな。本当は別れたくなかったのに、別れざるを得なかったからじゃねぇの?」
    「何それ。やめてよ……」

     それ以上は、聞きたくない。耐えられなくて、私はとうとうその場から走り去る。

     いやだ。いやだ。なんでこんなに私は、全然キラキラできないんだろう。私もちゃんと女の子なのに。お姉ちゃんや他の子たちみたいに、いつかはそうなれると信じたかったのに。

     このまま泣いて自宅に帰ったら「この大事な時期に、恋愛なんかにうつつを抜かして」と両親に言われてしまうと思った。だから私は唯一の親友のさとちゃんに電話する。家にいるからおいで、って言われて、何とかさとちゃん家に辿り着いて。ああ、ここで政信くんにほっぺたにキスされて……なんて、夏祭りの日のことを、思い出したりして。そしたらもう、涙が止まらなくなった。

     その場で立ち尽くす私をさとちゃんが回収して、話を訊いてくれて。さすがに、彼女にはあの黒いドロドロしたものについては説明しにくかったから、ただ、政信くんに別れようって言われた、ということだけしか、伝えられなかった。

    「ねぇ、みずき。私から、宮本に文句言ってやる」
    「やだ、やめて!!」

     憤慨したさとちゃんはそう言ってくれたけど、私は引き留めて首を横に振る。

    「ちがうの。私が傷つけられたんじゃなくて、私の方が傷つけたの。だから、政信くんには非はないの」

     私が彼の心を折ったんだ。あの瞬間に。辛いことがあって傷ついているんだと、経緯を聞いて分かっていながら、追い打ちした。あのドロッとした黒いものも、私は全然受け入れられなかった。目にした瞬間に引いてしまった。

     片山くんの言葉があれだけ痛かったのは、完全に図星を突かれてしまったから。確かに私は政信くんから受け取るばかりで、何かを与えたいなんて思って行動したことは、ろくになくて。漫画や小説やSNSあたりで人から聞いたもの、耳触りや視界に優しい、キラキラしたものを求めてばかりで。

     政信くんはいつもあんなに私のことを気にかけてくれていたのに。あの瞬間、世界中の誰を置いても、この私だけは絶対に、政信くんの手を離すべきではなかった。なのに。

     でも、片山くんは、あの政信くんに対して、全くためらってなかった。その差。だから、負けた――

     泣いて帰っている時だった。
     私は突然、目の前にキラキラと輝く虫を見る。

     それはたぶん、蝶だと思う。けれど足が十対もあって、これまで一度も見たことがない種類だった。半透明の羽が太陽の燃えるような赤オレンジに反射して、キラキラしていた。

     こうして夕焼けの中で見ていると、ちょうど色合いが、「マジカルアニマル」の主人公・リンちゃんの鮮やかな朱赤の衣装の色合いに、少し似てるような気がする。

     その赤みがある透け感の、今まで一度も見たことがなかったキラキラ虫は、私の胸にまるでブローチみたいに止まった。

    「わ、何て蝶なんだろ、光ってる、綺麗……」

     ふうわりふうわり、その羽が動いている。

     これまで虫なんて苦手かも、と思っていたはずなのに、私は自然と誘われるみたいに虫の羽に触れる。嬉しい気持ちで。

    「……ねぇ、虫さん。君も一緒にうちに来る?」

     会話なんてできるはずがないのだけれど、私はあえて訊いてみる。すると、応えるようにまたキラキラと羽が輝いた。

     何だか、耳鳴りのような音が聞こえた気がする……。一体何の音だろう?と思っているうちに、いつの間にか、大量の蝶の群れが私を包み込んでいた。

    「わぁ……っ」

     すごい、まぶしい、こんな大量の、赤いキラキラ。

     もし実写でマジカルアニマルみたいな、魔法少女ものの変身シーンを撮るとしたら。こんな感じのキラキラとした光に包まれて変身する感じに、なるのかなぁ……。

     そういうの、いいなぁ。素敵。
     例えば、もし私が変身するとしたら。どんな感じだろう。

    「たくさんお友達呼んだの?君たちも一緒に来たい?」

     訊いても虫たちはやっぱり声で返事をしてくれることはなくて、だけど、肯定の意思はしっかり示されている気がした。

    「ふふ、いいよ。じゃあみんな、おいでよ……」

     何だか、不思議な虫たち。見ていると、まるで政信くんの隣にいる時みたいな、少し安らいだ気持ちになる――

     彼がいない今、一緒にいてくれる存在が何かしら欲しかった。私だって、何かたったひとつくらいは、誰にも負けないくらいに特別なキラキラしたものが、この手に欲しかった。



    [つづく]

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