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闇 616(先生と呼ばれて編)

    岩上智一郎

    闇 616(先生と呼ばれて編)

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    2026/07/17 fri
    ※1971年から書き始めて、とうとうこのシーンを書けるのだなという喜び。博多の部屋から見える景色がカンカン照りの昼間から、執筆に没頭して気付けばすっかり夜になっていた。でもこれはとても幸せな事である。
    前回の章


    二千二十三年七月二十五日、火曜日先勝。

    最近のやる事といえば、仕事中暇潰しに過去執筆した『先生と呼ばれて』の続きを読み漁るだけ。

    花園新社を辞めた主人公の次の職種は、東証一部上場企業のSFCG。
    もうこれって主人公の名前が神威だけで、あとはほとんど実話になっているよな……。


    【先生と呼ばれて】

     町の片隅でひっそりとトイレのフタを作る工場があった。経営者は左足を悪くした六十五歳の男性。うちで金を貸している契約者でもある。経営が思わしくなく、債権回収をする事になっていた。

     電話を掛ける佐山。俺はその様子を横で聞いていた。

    「あのですね。これ以上入金が滞ってしまいますとですね…。いえ、ですから、金利もうちは下げていますし。ええ、そうですが、決まりは決まりでしょうが。駄目なら別の保証人を用意して下さい。それで穴埋めするしかないじゃないですか?」

     どうやら金が返せないから、他の保証人を用意して一度金をまた借りる。それで不足分を一時的に埋めようとしている訳か。どう見てもただの悪循環である。借りた本人に支払い能力がないから、他の保証人をつけ取り立てる。会社はマイナスにならないが、巻き込まれる人が増えていくだけ。こんな事をするなら、何故最初の時点でそんなに貸付をするのだろうか?

    「ですから、当社まで来て契約をして下さい。足が悪いなんて言い訳にならないですよ。え、無理? 何故ですか?こちらはですね……」

     佐山の声が荒くなる。俺はメモ用紙に『自分が契約に行きましょうか?』と書いて見せた。佐山は受話器に手を当て、「え、行ってくれるのですか?」と驚いている。これ以上責めるのを見ていられなかったのだ。

     詳しく話を聞くと、思った通り借金を返せず、保証人をつけて何とかしようとしているところだった。俺は佐山に言った。「それじゃ悪循環になるだけです」と。しかし佐山も仕事でやっているので、折れる訳にはいかないのだ。ならば俺が間に入り、少しでも相手の気持ちを緩和したい。そんな気持ちだった。

     新規契約書を持ち、その工場へ向かう。実際に契約する本人と会うと、非常にくたびれた感じのする初老だった。

    「まったく頭が固いと言うかね、あなたの上司。こっちは足が悪くていつもこうやってビッコを引いているんだ。それを会社まで契約に来いだなんてさ、酷いよ」

    「おっしゃる通りだと思います。ですから私がこうやって来る事にしました。お気持ちは分かります」

     この人の借金総額は一千五百万を超えていた。こんな状態でいつまで続けるのだろうか? 二百万、三百万といった借金をする度に変わる保証人。会社は支払い能力がない契約者じゃなく、その小分けに分けた金額を各保証人から取り立ててればいい。嫌な仕事だと本当に思う。

     やりきれない思いを抱えながら、俺は会社へ一度戻った。帰り道の途中で七枚に及ぶ契約書の内の一枚をライターで火をつけて燃やした。何を言われても、「え、何ですか?」でトボければいいだけだ。残業時間を過ぎているので社内へ入っても、不機嫌そうに書類をドカッと置き、「あとは明日やりますから」と逃げるように帰った。

     因果な商売。俺はハンバーグやステーキを食べ、エネルギーを補充しておく。

     先日取立てに行った保証人のところへ、再び向かう事になる。以前行った時は姿を見ただけで怒鳴りつけてきた保証人が、俺の顔を見ると笑顔で「おお、あんたが来てくれたんだ」と嬉しそうに言ってくれた。そして契約者が支払えない代金を素直に肩代わりしてくれる。非常にありがたい話である。

    「自分、実はこう見えて小説を書いているんです。いずれこの事は、作品として書きたいと思っています」

     このぐらいしか俺には言えなかった。保証人は嬉しそうに頷き握手を求めてくる。心の底から礼を言い、その場をあとにした。

     上司の狭山から「神威さん、書類が一枚足りないですよ?」と言われたが、「え、ちゃんと佐山さんが揃えて確認してくれた書類にはすべてサインさせましたよ? 不手際あるようなら、あとは自分の顧客ですし、ご自分でお願いします。それではお疲れさまです」と笑顔で帰った。

     日曜日、会社は休みだが、家の家族会議だった。のちにある役員会議の前に話し合ったほうがいいという事で決まったようだ。これに俺も出席をする。

     集まった面子は、俺と真ん中の弟の龍也に、おじいちゃん、おばさん。それと親父、いつの間にか妻になった三村。それと三村の長女の娘婿。家業を辞めた弟の龍彦は出席しなかった。

     親父が社長になるという件はほとんど確定である。何故なら他の候補者を三村が嫌がらせし、すべて辞めさせてしまったのだから。弟の龍彦さえも……。

     俺や龍也は反対した。親父が社長になったら崩壊は目に見えて分かるからである。三村は必死に「この人は才能がある方ですから」と親父をかばっていた。五十後半になって、才能もクソもないだろう。こうやって親父をただ甘やかし、かばう奴がいるから増長する。非常にはた迷惑な女だ。

    「私は神威広龍の妻、社長夫人として言わせてもらいますが……」

     三村が偉そうに発言をしてくる。俺は途中で遮った。

    「おい、三村さんよ。あんた、いつから『神威』の性を名乗っているんだ?うちら子供に何も言わず籍だけ入れて、社長婦人だ?何を勘違いしてやがる。ふざけた事を抜かすなよ」

     面の皮が厚い三村はまったく動じない。いつもやってしまった者勝ちだと思っているのだろう。

    「前に俺は言ったはずだ。この家に入るなと。何をあんたは偉そうに言えるんだ?不思議でしょうがない。こうやってみんなが迷惑しているのに家に勝手に棲みつき、どんどん家の中をメチャクチャに引っ掻き回している。何が目的なんだ。ハッキリ言ってみろ?」

    「私はそんな事聞いてない。あなたはあの時、『俺とは関係ない』って知らん顔しただけでしょ?」

    「おい、ふざけんな。それを言ったのは俺の総合の試合前日の夜中だろうが?おまえがお父さんに捨てられちゃうって不法侵入してきた時だろう!」

    「そんな事は知らない。あなたは関係ないって言っただけ」

     自分にとって都合悪い事はこうやって誤魔化す女。よくもまあこうして話をすり返られるものだ。俺は親父を睨みつけ、ハッキリと言ってやった。

    「おい、親父! 何でこんな女と結婚した? 何故、家にこんなのを棲ませたんだ?」

     親父は俺を一別しただけで何一つ口を開かない。

    「いつも俺の腕は一流だとか自慢してたよな? それなら一辺よそに行って、通用するかどうかやってこい。この馬鹿親父が!」

    「ああ、通用するに決まってんじゃねえか」

     ようやく口を開く親父。俺の挑発に乗ってきた。

    「なら実際に証明してみろ。ただし言った言わないじゃないぞ。ちゃんとこの場で誓約書を書け。どうせできないだろうが?」

    「書いてやらー」

     親父は紙に書き出した。よし、これさえあれば……。

     その時だった。三村がもの凄い勢いで席を立ち、親父が書き途中の誓約書を奪い、グシャグシャに丸めてしまった。

    「何をしてるの、広龍さん!」

     いいところで邪魔しやがって……。

     最悪俺が継ぐ事にして辞めていく従業員に頭を下げるしかないか。俺はおじいちゃんに言った。

    「おじいちゃん、俺が継いでもいい。こんな馬鹿に継がせたら、どんな目に遭うか分かるでしょ?」

    「龍一、もう遅いんだよ……。すべてみんな決まった事なんだから」

     おばさんが口を開いた。おばさんも辞める人間の一人である。十八歳の時から五十後半になるまでずっと家で頑張ってきた。それでも親父にはついていけないらしい。

    「何でもっと早く言ってくれなかったんだ!」

     親父らを除く、家族全員に言った。

    「兄貴は、前に今度の日曜日空けといてと言っても、新宿で仕事だからと全然会議に顔を出さなかったじゃないかよ」

     龍也は静かにそう告げる。

    「……」

     ちょうどその時は都知事が実行した歌舞伎町浄化作戦の真っ只中にいて、それどころじゃなかったのだ。しかしそんな事は言い訳にもならない。俺は言葉が出なかった。

     この日、親父が社長に就任する事がほぼ確定的になった。

     退職が決まった家の従業員に、俺は翌日頭を下げに行った。

    「あの、俺が家を継ぐって言えば、残ってくれますか?」

    「何だよ、龍一ちゃん。急に……」

    「俺、今まで新宿へずっと行ってたから家がこんな状況になっているなんて、何も気づかなかったんです。だから今、何とかしたいなと色々考えました」

     従業員は俺の頭にポンと手を置き、「小さい頃から見ているけど、龍一ちゃんは全然変わらないなあ。でもね、もう俺も次の職場決まっちゃったんだよ。龍一ちゃんが悪い訳じゃない。そんな気にしないで」と優しく言ってくれた。

     もう俺一人じゃ、この現状を何もできないのだ。それを実感した。昔からずっと家で働き家業を支えてくれた人たちが、どんどん消えていく。

    「さすがに龍一ちゃんのお父さんとあの女とは、一緒に仕事できないよ。悪いけどね」

     みんな、そう言って消えていく。もっと早く動いていれば、俺は自己嫌悪に陥った。

     会社に行っても、当然の事ながら身が入らない。上司の言われるように不備是正や債権回収の仕事をした。

     三つの市を回り、不備是正をこなす。会社でもすっかり浮いた存在になっている俺。

     今後の目的の何も見えなかった。

     そんな時期、『真風舎』に応募した出版小説大賞の一次選考合格通知が届く。暗く塞ぎ込んでいたので、俺は飛び上がって喜んだ。手紙も添えてあり、青山にある本社へ一度来てほしい。そして実際に会って話したい。そう書いてあった。

     会社を休み、早速俺は『真風舎』へ向かう。このまま作家生活に入れれば、自由に時間を使う事も可能である。そして自分の書いた作品が世に出回る。これほど嬉しい事などない。

     希望に胸を膨らませた。青山の『真風舎』へ行き、編集プロデューサーと名乗る村田彩という女性と話した。ここはそこそこいい女が多い。しかしどうも話の内容がおかしい。

    「神威さんの作品を世に出しましょう。共同出版という形で。それでまず金額のほうなんですが……」

    「ちょっと待って下さい。俺は悪いけど、自費出版などするつもりまったくありませんよ。本当にいい作品なら、何も作者が金を出す必要などどこにもないじゃないですか」

    「ええ、それはおっしゃる通りだと思います。しかしこのタイミングでなら、お安く経費も済みます。とりあえず見てもらえませんか?」

     そう言って出版プロデューサー村田彩は、分厚い書類をテーブルの上に置く。言われた通り目を通してみた。

    「……」

     五百部の本を作るのに、俺が二百三十万の費用をまかなうと明記してある。普通に考えて、本一冊の値段など、千円から二千円ぐらいが相場だ。それを何故一冊辺り俺が四千六百円も出さなければいけないのだろう。

    「あのさ、俺からも実は提案あってね。君、こういう仕事をしているぐらいだから、小説の一つや二つ書いた事あるでしょ?」

    「ええ、あります。だから作者の気持ちはよく分かりますよ」

    「そう。じゃあ俺がそれを本にして世に出してあげるから、今二百三十万出してくれないかな?ちゃんと本にして世に出すからさ」

    「いえ、私は……」

    「おい、姉ちゃん。自分でできない事を何故、俺に押しつけようとするんだ?」

    「え、あの……」

    「ちょっと立ってみ?」

    「え、はあ…。これでいいんですか?」

     その女が立ち上がったので俺は近づき、いきなり肩で担ぎ持ち上げた。

    「ちょっと、何をするんですか?」

     女は持ち上げられたまま、俺の背中を両手で叩く。

    「ん? おまえ舐めてっから、これからホテル連れて行ってお仕置きする」

    「やめて下さい!」

    「おまえさ、自分たちのしている事について、恥を知れ」

     この騒ぎで奥からお偉いさん連中が出てきた。俺は「作家の魂をくだらないトークやマニュアルで切り売りしてんじゃねえよ、ボケ」と言い残し、『真風舎』を去った。

     当然の事ながら俺の作品は、二次選考で落ちていた。



    新風舎のあの編集女。
    もう名前も忘れたが、いい女だった。

    あのまま本当にホテルへ連れ込んでいたら…、警察に捕まるだけだよね……。

    本当にこの頃を読み返すと、嫌な思い出ばかりだ。
    岩上家が一番気が狂っていた時期だもんな。


    二千二十三年七月二十六日、水曜日友引。

    構成も何もない剥き出しのリアル話『先生と呼ばれて』。

    改めて読み返すと、自分でも中々面白い内容を書けているなあと、変なところで感心する。

    サラリーマン生活を経て、ようやく岩上整体を開業する決意のシーン。
    ここを本当に当時書きたかった部分だもんな。


    【先生と呼ばれて】

     無職になった俺は、次にどの職業をしようか迷った。何一つやりたい事が見つからなかった。小説で食えない今、働くのは必須である。

     ではどうしたらいいか……。

     家でまた親父や三村が無茶をして、おじいちゃんを困らせるかもしれない。だから地元川越から離れる事はできない。

     どうする?

     サラリーマンには向いていない。

     人に使われるのも難しいと思う。

     自分自身は身勝手だけど、人から理不尽な事をされるのは嫌い。

     いつも自分のしている事を多くの人に分かってほしいと思っている。

     夢中になれる事には常に没頭。

     ずっとそうやってやってきた。

     頭の中に風景が浮かんでくる。久しぶりに俺は、その風景の絵を描いてみた。小説も書かず、数日に渡って何枚もの絵を描いた。

     自分で商売をするしかない……。

     地元で何をすればいいか?

     バーテンダーのスキルを活かしてバーをやるか?いや、このご時勢でやっていけるのか自信がない。あれは新宿という土地柄も味方したからうまくいったのだ。

     理想は暇な時、小説を書きながらできる職業がいい。

     考えろ。過去やってきた事を思い出す。どうしても格闘技時代にぶつかってしまう。

     待てよ……。

     人の体を散々壊してきた。喧嘩で骨を折った事もある。ナイフで切られた事もあった。

     人の構造。壊す事に掛けてはリアルにシミュレーションができる。しかしそれはあくまでも破壊行為に過ぎない。逆は何か?治す事だ。壊してきたからこそ、治しも分かる。

     以前総合格闘技復帰する際、近所の腕のいい整体の先生から五年に渡って手ほどきを受けた時代もあった。人の治し方は、ある程度把握している。

     人のいい先生だった。俺とは気が合い。当時新宿から仕事で帰ると、毎日のように顔を出した。先生は俺に自分の技を惜しみなく教えてくれた。中周波の器械も入れ、よくこれで筋肉トレーニングをした。俺からは正規の金額を取ろうとしない先生。いつも「五百円でいいです」と笑顔で言っていた。悪いからたまに「受け取って下さい」と、一万円札を置いていった。

     しかし人の良さが災いし、整体の経営が行き詰まってしまう。もう四年前になるだろうか。先生は整体を閉め、連絡も取れなくなってしまった。何か事情があったのだろう。

     近所のおばさんたちに、「あそこの先生、本当に腕良かったのにね~」と惜しまれていた。

    「龍一ちゃん、肩凝りとか治すのうまいから、自分でやってみたら?」

     そんな事もよく言われた。

     マッサージのような相手を気持ち良くするようなもんじゃなく、本当に具合の悪い人を治してあげたい。それで喜んでもらう仕事っていいんじゃないか?

     整体……。

     もう俺が習った整体の先生はいない。連絡をしてみたが、繋がらない。ではどうしたらいいか?

     決めた。俺は自分で整体を開業しよう。

     患者がいない時は小説を書き、いる時は誠心誠意接する。いい仕事だ。

     自分でブログにこの決意を書き込んでみた。知り合いにも言ってみた。ほとんどの人が、「いいんじゃない」と笑顔で賛成してくれた。

     保健所へ行き、どうすれば商売をできるか聞いてみる。すると整体は特に免許がないので、自由に開業できるらしい。特別に申請をする必要もないようだ。

     やっちまうか……。

     俺はこの日から不動産を回る事にした。外に出た瞬間、大雨が降る。大きな雷まで鳴っていた。

     ずぶ濡れのまま街を歩き、いい物件がないか探す。

     前に技を伝授してもらった整体の先生の失敗は、二階の物件を借りた事だったんじゃないか?エレベータもなく、急な階段しか移動方法がない。元々体の悪い人が来るのだ。だから一階の物件じゃないと話にならない。

     その時、暗い夜空に一陣の雷がピカッと光る。その雷の運命的なものを感じた。その方向を眺めていると、本川越駅前に空き物件があるのを見つけた。本川越駅ビルのぺぺ入口から真正面。駅の改札を出て、真っ直ぐ歩けば到着する場所でもある。俺のよく行くジャズバーはすぐ裏手だ。

     ぜひ、ここを借りたい。自分でムチャクチャな考えと勢いでの行動なのは自覚していた。しかし、俺がサラリーマンをやってどうする?また不平不満を理由に辞めるだけだ。

     俺は物件を管理する不動産へ電話を入れた。


     十一月半ば。寒い日だった。

     不動産へ電話を掛けた俺。探した物件から見える位置にあったので、俺は不動産屋へ向かう。坪数五・二坪の狭さ。見取り図も渡された。ベッドを一台置ければ充分である。

    「この物件、家賃いくらですか?」

    「え~とね~。十三万六千五百円だね」

    「え、そんな高いんですか?一坪二万六千円もするんですか?」

    「駅前で人気ある物件だからね」

     こちらが年下かもしれないが客である。その客である俺が敬語を使い、礼儀を払っているというのに、この不動産のオヤジは何でこうも態度がでかいのだろう。

    「もう少し負けて下さいよ」

    「う~ん、無理だね~」

    「じゃあ分かりました。ここ、抑えて下さい。俺、借りますから」

    「結構金掛かるよ?」

    「どのくらいですか?」

    「ちょっと待ってね」

     オヤジは電卓を取り出して叩き始める。

    「そうだね。八か月分掛かるから、百万飛んで九万二千円だね」

    「え~、そんな高いんですか?」

    「しょうがないよ。人気物件だから。嫌なら借りなきゃいいんだよ」

     こいつ、本当怒鳴りつけてやろうか。人を舐めた態度取りやがって……。

     いやこれから自分で開業しようというのに、こんな事で怒ってどうする。堪えておけ。

    「金を用意すればいいんですね。すぐ契約したいんですけど」

    「ん~、大家には連絡入れておくから。十二月ぐらいになるかな?」

    「まだ十一月は二週間残っているじゃないですか。早めにお願いしますよ」

    「相談してみるよ」

    「分かりました。では、よろしくお願いします」

    「保証人も用意してもらって、あと審査も必要だからね」

    「今日中に用意しますよ。そうすればすぐにでも借りれますね?」

     俺は親戚のおじさんに保証人を頼みに行った。頭を下げ、必死にお願いした。親父に頼む訳にはいかない。あの男に何かしらの借りを作る訳にはいかなかった。

     おじさんは嫌な顔をせず、保証人の書類にサインをしてくれた。心から感謝である。その日の内に不動産へファックスを送った。

     整体を始めるに当たって、何が必要か家に帰って考えた。ベッドは必須。それと高周波の器械もほしい。あとは病院にある移動式カーテンみたいなやつ、パテーションって言ったっけな。

     医療用品を扱っているところなんて知らないし……。

     そういえば介護用品の店ならあったっけ。俺は実際に行ってみる事にした。ベッドはいくらぐらいするのか。そういったものを把握しとかなければ駄目だ。

     物件は何とかなる。次に中身だ。思い立ってからすぐ開業。ムチャクチャな事をしているのは百も承知だ。しかしこの勢いで突っ走りたかった。人を治し本当の意味で笑顔にさせながら、空いた時間をす小説の執筆にも当てられる仕事。実現すれば、最高だ。

     周りから見れば半ばヤケクソに見えるかもしれない。しかしどう見られようと構わない。俺の人生なのだ。やるのは俺。成功しようが、失敗しようが自分でケツを拭くしかない。

     地元川越でずっと育ってやってきた。みんながどう俺に対し考えているかなど、本音の部分は分からない。今までの自分を信じよう。

     三十四歳にして大きな賭けでもあった。

     知り合いに医療メーカーを紹介してもらう。中周波の器械もあれば、高周波の器械もある。実際に器械を自分の体で試させてもらった。治療として使えるだけでなく、筋肉トレーニングとしても大丈夫。やり方次第でダイエットにも使えた。人間の手だけで人を治すのは限界がある。自分の手技と高周波の連動治療。

     俺は二百万弱する高周波をリース契約する事にした。それとズボンのように履き、エアーによって足のむくみ、血行を良くしたり、冷え性を改善したりするエアーマッサージ機。ハイパーメドラーという器械も契約する。これで治すとかでなく、純粋に気持ちいいのだ。患者の嬉しそうな顔が思い浮かぶ。案外高いもので八十万した。

     うつ伏せになった際、息ができるように穴が開いた医療ベッド。これも一台十万円もとられる。医療用品は高いと噂で聞いた事あるが、本当に高いものだ。二台購入したので、単純にベッドだけで二十万である。

     移動式カーテンのようなパテーション。一枚でこれも一万円。部屋の配置を考えると、最低五枚は必要だ。だからこれだけで五万円。

     金が飛ぶように飛んでいく。仕方ない。自分で店を開業するとはこういう事なのだ。

     メーカーの人間は、俺の事を何度も「先生」と呼んでいた。

    「あの、その先生って言うのやめませんか?別に大した事をしている訳じゃなく、器械を契約しているだけなんですから」

    「いえいえ、先生ですよ。白衣も似合いそうで」

    「よいしょとか嫌いなんですよ、俺。神威って名前あるので、名前で呼んで下さい」

    「でも……」

    「お願いしますよ。先生って呼ばれると背中がむず痒くなり、気持ち悪いんです」

    「分かりました、神威さん」

     医療関係はこんなもんでいいか。

     あとは実際に使う備品や冷蔵庫などを買いに行かねば……。

     ご利益も必要か。そう思った俺は、先輩がお坊さんをやっている成田山川越別院へ向かう。この先輩とは俺が高校生時代、ガソリンスタンドでアルバイトをしている時に出会った。坊主のくせに小遣い稼ぎとしてアルバイトをしていたのだ。自分で「生臭坊主」と言っているぐらいだから、さばけた性格である。つき合いはこの頃から現在まで続いていた。

     俺が成田山へ着き、受付に向かうと先輩の姿が見える。向こうも俺に気づき、隣の坊主に「あれが有名な神威龍一だぞ」とニヤニヤしながらほざいていた。

     ご利益アップとして俺も受付に座り、坊主に写真を撮るようお願いする。その写真を俺はブログで載せてみた。



    成田山の有原照龍さん、元気でやってんのかな。

    久しくあそこには顔を出していない。
    川越が何だか懐かしく思えた。


    二千二十三年七月二十七日、木曜日先負。

    今日もあらかた業務をこなし、客が帰ると『先生と呼ばれて』の続きを見る。


    【先生と呼ばれて】

     少ないながらも患者が徐々にやってくるようになった。それでも正直物足りなさを感じる。

     考えてみればインターネット上のブログで整体開業と告知し、あとは駅前とはいえ店頭に自分でデザインしたものを貼っているだけ。まともな宣伝を何もしていないのだ。

     何かを考えていると、弟の龍也が来てあれこれと口うるさい事を言い出してくる。やろうと思っているところへ似たような事を言われるのは、非常にやる気を削がれるものだ。

    「自分の店なんだから、俺の好きにするよ」

    「それは分かるけど、兄貴は自分のしたいようにじゃなく商売なんだから、もっと新聞広告を打つとかさ。それにもうちょっと人の意見聞いたほうがいいよ」

     良かれと思って言うのは分かる。しかし時としてそれが邪魔に感じる時だってあるのだ。

    「だからいいって!俺の店なんだ。好きなようにやるから」

    「家族だから心配して本当の事を言っているんだぜ?」

     一見言っている事は正論だが、龍也の口癖でもあった。「家族だから」という言葉で自分の主張を通し、俺を思うように操りたいようにしか感じない。それにオープン間もないのだ。自分の自由にしたっていい。あまりにもしつこかったので、話の途中怒鳴りつけ、会話を終わりにした。

     弟が帰るとイライラしながら、患者が来るまでの時間を潰す。精神が安定していない時に小説は書けない。文章をまとめるという部分で、どうしても別の事が頭をよぎりうまく文字に魂を込められないのである。

     来年の一月で小説を書き始めて丸四年。結果が出る訳でもないのに、俺は何故小説をこうしてずっと書いているのだろうか?

     処女作『川越デクレッシェンド』は歌舞伎町時代、急に書き始めた小説だった。どうしても人間的に許せないオーナーの元で当時働いていた。激しい怒りを感じていた俺は、従業員に「あの馬鹿のやっている事をそのまま小説にしたら面白くない?」と聞く。従業員は「神威さんならできますよ」と何の確信もない事を澄ました顔で言っていた。

     もう一つの理由。ピアノを捧げたいと弾くきっかけになった女性。その子にただ格好をつけたかったのだ。書く前に『俺、小説をこれから書いてみる』と短いメールを送った。しかし当然返事はこなかった。

     しばらく考える。腐ったオーナーのありのままを書いたとして、それが世に出たとしよう。リアルに書いたはずなのに、読者は漫画か映画の世界だと思い込む恐れがある。何故なら歌舞伎町という街に対し、世間一般は怖い街程度の知識しかないからだ。それでは書く意味合いが何もない。

     始めは歌舞伎町の入門編的な作品を書き、それが世に受けるとしたらどうだろう。ほんの序の口の部分だけで作品を成り立てさせる。それでも読者が面白いと感じてくれるなら、そのあとの続編はすべて受け入れられるんじゃないか?

     歌舞伎町の一角にある事務所の中で、俺はワードを起動し小説というものを何の知識もなく初めて書き始めた。主人公には俺の幼少時代の虐待部分をプレゼントしよう。

     執筆期間十八日間。歌舞伎町にある事務所で書き、地元の行きつけのジャズバーでひたすら書き続けた。間で三日ほど徹夜もした。こうして『川越デクレッシェンド』は完成したのだ。

     当時ジャズバーのマスターの奥さんに罵倒された事がある。こいつは客で通う俺に対し、何か勘違いというか思い違いをしているようだ。

    「あんた、いきなり何、小説なんて書いているの?」

     まず客に向かって『あんた』という言い方、大きな間違いである。そして俺よりも一つ年下なので、タメ口を聞かれる筋合いもない。

     過去ちょっとした経緯があった。俺が三十歳になってピアノを弾き始めた頃、このジャズバーでよくピアノを弾かせてもらった事がある。

     いきなりピアノを始めた俺に対し、常連客は驚きと共に「何でリングの上にあがらないんだ?」と文句も言っていた。それはここの客だけでない。多くの知り合いに言われた事だった。闘う事よりも一人の女の為に格好をつけたかったのだ。

     この時もマスターの奥さんは、対抗意識を妙に燃やし、「私も常連客のピアニストにピアノを習う事にしたの。だからあんたより私のほうが先に曲を弾けるようにするから」と酒を飲んでいる最中に言ってきた。

     俺は二曲だけだが、目をつぶっても弾けるまでのレベルになり、二年半の時間を費やした。毎日同じ曲を七時間弾いた事もある。そして市民会館で発表会をやり、ピアノを封印した。それで食っていけるレベルでないのは自覚している。それに捧げるべき彼女が会場へ来なかったのが、一番の原因だった。

     逆に奥さんは曲が完成せず、「私は歌を唄うほうが合っているから」と、ピアノを途中で辞めていた。俺から見れば、逃げたようにしか見えなかった。

     このような経緯があったので、俺は怒鳴りつける。

    「うるせえ!俺がどれだけ魂込めて書いているのか分からねえ奴が、簡単に口を挟むんじゃねえ。偉そうな事を抜かすなら、途中だけど、読ませてやるよ。読んでから抜かしてみろ」

    「私は完成したちゃんと本になったものしか読まないの」

    「だったら偉そうに言うな」

    「あんたの集中力は認めるよ。ピアノを弾いた時もね。でもね、一つぐらい生涯掛けてこれだってものを持ってみなさいよ?」

    「何も知らずに物事を抜かすな!」

     こんなやり取りがあった。リラックスして飲みに行くはずの酒が、酷くまずくも感じた。

     つい俺は過去の嫌な事を思い出してしまうところがある。そういった陰なものが、憎悪という形で醜く心の奥底に蓄積されていく。

     俺にとって小説は、それを浄化する為に必要な作業なのかもしれない。

     暇だからこんなネガティブな事を思いつくのだ。患者が来たら、笑顔で迎えないと駄目だろう。このままじゃ経営など成り立ちはしないのだ。

     窓を開け、室内の空気を入れ替える。軽く伸びをして椅子へ戻ると、弟の龍也が「兄貴、これ使ってよ」と整体に入ってきた。縦六十センチ横四十センチぐらいの黒い器械を腕に抱えながら持っている。

    「ん、何それ?」

    「空気清浄機。結構高かったんだぜ。俺、あまり金ないからさ。これ兄貴にあげるよ。整体なんだから、空気だって良くなきゃいけないだろ」

    「……」

     先ほど弟に対して恨みつらみを思っていた自分が恥ずかしくなった。

    「早く設置しなよ」

    「あ、ああ…。龍也、ありがとうな」

     今度ばかりは俺の負けだ。でも心地が良かった。



    ここまで読むと、真夜中なのにドッと顧客が入ってくるインカジ『レディ』。

    まだ自身の作品を読む専門のままかよ、俺は。


    二千二十三年七月二十八日、金曜日仏滅。

    確かここでアップした途中で、尻切れ蜻蛉になってしまうんだよな。

    連日続けての速読。
    まだ三十代半ばだった俺が書いた小説は、文章の荒さが目立つまでも中々読み易い。

    こんな自画自賛してどうするんだよ。

    俺は苦笑を浮かべながら続きを読んだ。


    【先生と呼ばれて】

     俺は昼近くまで部屋に籠もり、小説の執筆をしていた。腹も減ったので昼食を取りに下へ降りると、「ねえ、龍ちゃん。またお父さんがおじいちゃんに向かって今朝、どうのこうのって文句言っているのよ」と、パートのおばさんが話し掛けてきた。

    「……!」

     昨日あれほど忠告したのに、親父の野郎め……。

     居間へ行くと、おじいちゃんが疲れきった表情でぼんやりと椅子に座っている。

    「おじいちゃん、また親父が何か文句言ってきたの?」

     出来る限り優しく話し掛けた。

    「いや、そんな事ないよ」

     もうおじいちゃんも九十歳。まるでボケてはいない。しかし、年を取ったせいか、争いやイザコザが嫌なのだ。だから俺にわざと嘘をついている。

    「そう……」

     おじいちゃんの気持ちを汲んであげないと。俺は笑顔で答え、横に座る。ちょうどおばさんがソーメンを茹でて持ってきた。親父と三村を除いた家族の昼食が始まる。

    「おまえはもっと就職活動してきなよ」

    「今度のところは結果来るまで一週間ぐらいだし、受かると思うよ」

    「そんな事言っているから、おまえは駄目なんだよ。受かってから言いな」

     相変わらずの毒舌ぶり。おばさんのこの言い方で、今まで俺はどれほど傷ついたか分からない。毎日毎日顔を合わす度に、小言。食い過ぎでも飲み過ぎでもないのに、口の両端にできた荒れ。俺の顔は、そのストレスにより荒れていた。

     ここ最近おばさんの小言が始まると、俺は反論せず、すぐその場から消えるようにしている。何故ならば、おばさんは自分の意見が絶対。人の話などまるで聞く耳を持たないからだ。

     黙って話を聞いていると、先ほどパートのおばさんが言った親父の話になっていた。

     親父がおじいちゃんに当たる。するとおじいちゃんはおばさんに愚痴をこぼす。そしておばさんは分かっていないだろうが、俺に当たる。いつもこの悪循環だ。

     少しは黙っていられないのだろうか?

     連日に渡っての事なので、俺も徐々にイライラが溜まってくる。

     おじいちゃんが席を立ち、居間から出て行ってしまう。この気まずい空気の中にいるのが堪えられなかったのだ。

    「だいたいいつも殴るほうが悪いって言ってるけどさ、言葉の暴力だってあるんだぜ?」

    「それはおまえがちゃんとやってないからだ。言い方なんて関係ない。ちゃんと分かる人間は分かる」

    「言い分は分かるけどさ、もう少し言い方ってもんをそっちも変えてみたら?」

    「そんなの関係ない。おまえがちゃんとすればいいだけの事だ。借金だって何だって、全部おまえの責任だろ」

     自分の意見や考えを絶対に変えないおばさん。こんな事しか言えないのだろうか。

    「そのぐらい分かってるよ!別に金を出してくれなんて俺は、ひと言も言ってねえだろうが」

    「そんなの当たり前だ」

    「じゃあ、少しは黙れよ。整体だって失敗したくてしたんじゃねえんだよ」

    「おまえがだらしないから、おまえの親父はおじいちゃんに当たるんだ」

    「もういい加減にしてくれよ。じゃあ俺が親父に文句を言ってくれば、それでいいんだろ?もうグチグチ言うのはやめてくれよ!」

    「そんな事したら、また龍一に命令しやがってって、私やおじいちゃんに当たってくるだろ。自分で勝手に動いたってしないと、こっちに迷惑が掛かるんだ」

    「ふざけんな!原因を巻き起こしているのは親父だろうが?何でいつも俺ばかりにしか言わない?分かった。もういい。今、俺が親父に直接言ってくるわ」

    「だいたいおまえはね……」

    「もういいって!黙れよ。あんたの言っている事は正論かもしれないけどさ。でも現実に何一つ解決しちゃいないだろうが?支店の独立の件だって文句を言うだけで、ちゃんとやってきたのは俺だ。言うとやるは違うんだよ」

     感情を吐き出すと、飯も満足に食わず俺は席を立ち上がった。本当にこんな毎日、もうたくさんだ……。

     おばさんと話していると、頭がおかしくなりそうだ。

     何故、俺はこんな風になった?

     何故、俺がいつもこんな目に遭わなきゃいけない?

     何故、俺は生まれた?

     何故、親父は俺ら三兄弟を産んだ?

     今までの憎悪が一気に噴き出した。階段を一歩一歩ゆっくり上がる。深呼吸して自身を落ち着かせようとするが、駄目だった。


     二階の親父の部屋の前まで来る。

     俺はドアを蹴飛ばし、中へ入った。

    「何だ、貴様」

     偉そうに俺を睨みつける親父。横には三村がビックリした表情で俺を見ている。

    「何でおじいちゃんに当たる?何で文句があるなら直接俺に言ってこない?」

    「うるせえ」

    「昨日言ったよな?今度言っている事が分からなかったら、頭を叩いて教育するって」

    「ふざけた事を抜かしてんじゃねえ」

    「ふざけてんのはどっちだよ?」

     ギュッと拳を硬く握り締めた。今まで俺は、親父を殴った事が一度もない。どんなに無茶されても、一度だって手をあげなかった。

     以前親父の首をへし折ろうとした時さえ、殴らなかったのだ。

     自分で分かっていた。

     一度でも殴ってしまったら、絶対にとまらなくなるのを……。

     手を出す時は、下手すれば殺してしまう。それほどの憎悪が昔から今までずっと溜まっていたのだ。

     だから親父を殴っても、誰一人いい事などない。分かっていたからやらなかったのだ。

    「一体どうしたのよ、龍ちゃん?」

     三村がキンキン声を出す。

    「うるせえよ。あんたは少し黙ってろよ」

    「いい?この家はね、本当にバラバラ。お父さんがこんなに頑張っているのに、誰も家族は協力しようとしない。そんなんで本当にいいの?」

    「おい、何であんたにそんな事を言われなきゃいけない?いつからそんな偉そうな事を言える立場になったんだ?家の人間誰一人、あんたなど認めちゃいないんだぜ?」

    「そんな私をここから追い出したいなら、あなたたちのお母さんをもっと大事にして、ここから追い出さなきゃ良かったのよ」

    「はあ?何でそんな事、あんたに言われなきゃいけねえんだ?何故お袋の話がここで出てくる?」

    「そりゃそうよ。みんながもっと大事にすれば、お母さんだって出て行く必要なかったし、私もここには入れなかったわ。何でお母さんをかばってあげなかったの?」

     左の傷が疼き出す。

    「おい、これを見ろよ」

     俺はゆっくりと過去お袋に虐待でつけられた傷跡を指差した。

    「これをやられたのは幼稚園の時か、それとも小一の時か。そんな正確には覚えちゃいねえ…。ただ何でやられたのかは分かっている。八つ当たりでだ。お袋は当時、俺に八つ当たる事しかできなかったんだ。俺がまだ五、六歳の時だぞ?その時、親父はどうしてた?あんたと一緒に遊んでいたんだろうが!そんな俺に、あんたはお袋を大切にとか言うのか?こんな事をされながらも笑顔でずっと我慢しろって言うのか?何度死にそうになったと思う?どれだけ毎日怯えながら暮らしてきたと思う?誰が助けてくれた?誰も助けちゃくれねえから、こんなになったんだろうが!それでもかばわないといけないのか?」

    「何で可愛い子供を置いていったか、それをもうちょっと考えてみたら?」

    「あんた、自分で何を言っているのか分かって言っているのか?」

    「龍ちゃんの小さい時の写真見たけど、大事そうにされているじゃない」

    「あのな、写真を撮る時だけいい顔すれば、それでいいのか?俺はアクセサリー代わりにされていただけだ。お袋の都合いいようにな。好きな時に笑う事さえ禁じられてな」

    「でもお母さんを恨んじゃいけない」

    「もう恨んでいねえよ。小説書いて、お袋の件はいつの間にか浄化できたよ。そんな事よりさ、お袋どうのこうの言うなら親父に言えば?」

    「お父さんだって寂しかったのよ」

     この女とはまるで話にならない。

    「じゃあ寂しかったら子供の面倒も見ず、浮気して家の金を盗んで遊んでいればいいんですか?」

    「それは色々外のつき合いもあるからしょうがないのよ」

    「三村さん…、あんた、頭がおかしいんじゃないのか?」

    「三村さんじゃねえだろ!」

     横から親父が口を挟んでくる。

    「うるせえよ。勝手に黙って籍を入れて、家の中をこれだけゴチャゴチャにしやがって」

    「いいか?人間と言うのはだな。三務だ」

    「何だ、その三務って?」

    「三大責務の事だ」

    「じゃあ、その三大責務とやらを言ってみろ」

    「労働、教育、納税だ」

     邪魔な従業員たちを追い出し、社長になってから自分の為に働いているだけの親父。それまでは家の金を好き放題使い込み、勝手にしたい事だけをしてきた。俺や弟の学費など一銭も出さず、飲み仲間には大盤振る舞いで酒や食い物をご馳走している大馬鹿野郎。

     俺が整体を開業した時も、一年間、一度も顔さえ見せなかった。必死に頼み込んだ時も、「おまえの為にならねえ」と吐き捨て、そのあと近所の焼鳥屋で飲み仲間と楽しそうに酒を飲んでいた。

    「おい、よくおまえがそんな言葉を言えたものだな?教育?じゃあ聞くが、親父の言う教育ってのは、俺が小学校、いやもっと小さい頃から何も面倒も見ず遊び歩き、そこにいる三村さんと浮気しているのが教育か?それに近所の主婦、そしてうち働ていたパートに手を出し、俺が高校三年生の時、三人で乗り込んでくるのが教育なんだな?」

    「当たりめえだ!」

     完全な親父の開き直り。

     親父は罵倒し続けた。



    十数年前のトラウマ。
    これだけ時間が経っても、この当時の事を思い出すと胸が締め付けられた。

    もうおじいちゃんは亡くなって九年。
    お袋が亡くなって何年経ったんだ?

    ここで俺の筆は止まったまま。
    まるで時間が動いていない。

    それでもまだ執筆をしたいという気持ちはまったく出てこなかった。


    二千二十三年七月二十九日、土曜日大安。

    今日、地元川越は提灯祭り。

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