
コルニリ家の旗 ―ルクナイト戦記― 第44話 交渉の席
皇国本星の夏は、白い。
空も、建物も、道路も、そこを走る車まで、光を弾いていた。
宇宙港の出口に立った瞬間、ザバーハは呼吸が浅くなるのを自覚した。気温表示は二十八度。数字だけ見れば、死ぬほど暑いわけではない。
だが、コルニリの冬で育った体には、ほとんどサウナに近い。
礼装の襟元に熱がこもり、袖口の内側へ汗が滲む。黒に近い正装は、皇国本星の白い陽光の中では、何か間違ったもののように見える。
迎えに来たのは、真っ白なリムジンだった。
車体に無駄な装飾はない。濃い窓と、整いすぎた扉の開閉音だけがある。
エンゾが一歩下がり、ザバーハの袖口を整える。
「乱れてはおりません」
「なら、なぜ直す」
「直すためでございます」
それだけ言って、エンゾは何事もなかったように後ろへ控えた。
ザバーハはリムジンへ乗り込んだ。
車内は冷えている。
外の熱が嘘のように消え、代わりに静かな空気だけが満ちていた。冷房の音すら聞こえない。窓の外だけが、白い熱を帯びて流れていく。
皇国本星の街は、異常なほど整っていた。
道路はまっすぐで、街路樹の高さまで揃っている。建物の線も、窓の幅も、門の位置も、どこかで定規を当てたように並ぶ。
コルニリの街は、風と寒さと資源の都合で曲がっていた。
ここは違う。
曲がらなくていい者たちの街だった。
白い石壁の向こうに、学校の建物が見えた。
車内表示に、小さく名が出る。
フィリア第二工業高等学園。
その校門の脇を、やけに大きな斧を担いだ生徒が歩いていた。
暑い中で、平然と。
ザバーハは一瞬だけ目で追う。
皇国本星では、あれも通学風景なのだろうか。
そう思っている間にも、視線は前へ戻っていた。
リムジンは止まらない。
街路には、兵の姿が少ない。
それでも、守られていると分かる。
交差点の角、建物の影、白い門柱の横。どこにも過剰な威圧はない。だがリムジンが近づく前に道は空き、曲がる前に信号が変わり、通るべき車だけが通っている。
権力とは、音を立てずに道を空けさせるものなのだろう。
コルニリでは、何かを動かすたびに音がした。
格納庫の油。精製塔の炎。共同暖房所の鍋。記録監査室の紙。誰かが叫び、誰かが走り、誰かの手が止まる。
ここでは、何も止まらないように見える。
止まっているものを、見せない街なのかもしれない。
皇帝府は、街の中心にあった。
白い建物群の中でも、そこだけはさらに白い。石でも金属でもない、乾いた骨のような色をしていた。正面に立つ柱は太く、窓は高く、影まで整っている。
外の熱は、入口をくぐったところで消えた。
床は磨かれ、壁は白く、足音だけが必要な分だけ響く。案内役の官吏は、礼儀正しく、無駄がない。
「コルニリ男爵閣下。こちらへ」
呼び方は、正しい。
正しいからこそ、逃げ道がない。
ザバーハは案内に従って歩いた。
途中で、窓の外に白い庭が見えた。噴水の水が、陽光を受けて銀色に飛んでいる。そこに寒さはない。泥もない。共同暖房所の湯気も、農業ドームの曇った壁もない。
ここには、凍える順番を決める紙は置かれていないのだろう。
待合室へ通された。
広い部屋だった。
椅子は多い。だが、人はいない。壁際の低い卓には、水差しと薄い杯が置かれている。床に敷かれた布は柔らかく、歩いても音を吸う。
ザバーハは座らなかった。
待つ時間は、思ったより長い。
水差しの表面に、小さな水滴が浮いている。外はあれほど暑いのに、この部屋では水まで冷えている。ザバーハはそれを見ただけで、北精製区の備蓄タンクを思い出した。
満ちているはずだったタンク。
入ったことになっていた燃料。
帳簿の上では温かい冬。
実際には、共同暖房所へ人が寄る冬。
皇国本星の水差しは、冷えている。
コルニリでは、その冷たさを保つにも順番を決めなければならなかった。
ザバーハは、杯に手を伸ばさなかった。
椅子の前に立ったまま、窓のない壁を見る。
待たされている。
その事実だけで、胸の奥が少しだけ重くなる。
三年前の朝、エンゾが言った。
『お座りください』
あの時も、椅子はあった。
ザバーハは座らない。
座れば、次の言葉を受け取らなければならない気がしていた。
父と母の船。
第三ゲート。
通信途絶。
トランスポンダ信号なし。
残骸なし。
脱出艇のビーコンなし。
父と母だけではない。
ロッテも、あの船にいた。
メイド長。フィロメラの母。
ザバーハはその名を、長い間、父母の名の後ろへ置いてきた。忘れたわけではない。ただ、言葉に出すと、失ったものの数が増えるような気がしていた。
白い封筒。
灰色の債務一覧。
空の金庫。
合わない数字。
冬の燃料。
南税倉庫の放火。
小型艦計画の中止。
ストライクビー。
死んだ三人。
戻れなくなった三人。
帰る訓練。
病室の白。
受け取れなかった勝利の値段。
キロヌの印。
ラングハイムの紙。
バロウズとダンメルスの船。
女史。
奥の部屋。
七つの名。
詰問状。
親衛隊。
レイラの肩を隠したディアナの背中。
ラミを抱き上げたフィロメラ。
太古級の空の係留台。
同じゲート。
消えた第五艦。
灰の輪。
HLW。
名称欄の空白。
その途中には、名前のある者と、名前のない者がいる。
ロッテの名は、報告書の主文には出ない。
共同暖房所で毛布を握っていた子どもの名も、病院の廊下で赤い指をしていた看護師の名も、葬儀に来てくれた貴族の名も、皇帝府の席次表には載らない。
だが、ここへ来た紙の下には、その名のない者たちの冬が挟まっている。
七つの名だけではない。
空白の方が重いこともある。
どれも、終わっていない。
ただ、ここまで運んできただけだ。
扉が静かに開く。
「コルニリ男爵閣下。お時間でございます」
ザバーハは顔を上げた。
半歩後ろで、エンゾが何も言わずに頷く。
案内役に従い、廊下を進む。
待合室よりさらに奥へ入ると、空気が変わる。涼しいのではない。静かだった。紙の音も、足音も、服の擦れる音も、すべて壁に吸われる。
第七会議室。
扉の横に、その文字が刻まれている。
案内役が扉を開ける。
帯同できる者は限られていた。
エンゾは扉の外で止まる。
ここから先は、当主一人で入る場所だ。
ザバーハは振り返らなかった。振り返れば、エンゾの顔を見てしまう。そうすれば、三年前の朝に戻る。
『坊ちゃま』と呼ばれた朝へ。
『閣下』と呼ばれた朝へ。
だから、前だけを見る。
この扉の先に、父も母もいない。
ミランもいない。
それでも、コルニリ家の旗だけは、ここまで来た。
会議室の空気は、待合室よりさらに乾いていた。
人を迎える部屋ではない。
結論を置くための部屋だ。
壁に絵はなかった。花もない。窓もない。
ただ白い壁と、長い卓がある。
卓を挟んで、椅子が二脚。
こちら側の一脚は簡素で、反対側の一脚だけが、明らかに別格だった。
ここでは、誰かが泣く場所も、誰かが怒鳴る場所も、最初から用意されていない。
紙が置かれ、読まれ、必要なら国の形が変わる。
そういう部屋だった。
その前の卓上には、二通の書状が置かれている。
一通は、見慣れた封緘だった。
コルニリ家の紙だ。
厚い。
三年分の紙が、その中にある。
もう一通は、見たことのない封筒だった。
皇帝府の封緘ではない。
コルニリ家のものでもない。
薄い。
だが薄い方が、軽いとは限らない。
最初は、正規輸送証明にあった小さな違和感だ。
男爵の印。
空く護衛。
沈めずに捕った船。
口を割らなかった者たち。
紙に出てこなかった名。
社交場の奥にいた、来ていないことになっている女。
それらが、ようやく七つの名として結ばれている。
そして、その下には別の紙が沈んでいる。
灰の輪は誰かの名ではない。
けれど一度机に置かれれば、名のある者より重い。
どちらの書状も、ザバーハを救うための紙ではない。
救う紙なら、もっと軽い。
これは、逃がさないための紙だった。
皇帝も、コルニリも、ここから目を逸らせないようにする紙だ。
紙は、そこにある。
ザバーハは、自分の椅子の前に立つ。
その椅子を見る。
大きすぎるとは思わない。
ただ、逃げ場のない大きさだと思った。
あの朝、椅子は自室にあった。
制服のボタンを留めたばかりで、机の端には解きかけの数学の課題が残っている。
学院へ行くはずだった朝の椅子だ。
今ここにあるのは、皇帝府の会議室の椅子だ。
同じ椅子ではない。
それでも、座るかどうかを決める場所であることだけは同じだ。
まだ座らない。
座るには、向こう側の席がまだ空いている。
扉の外で、足音が止まる。
室内の者が一斉に姿勢を正した。
皇帝が入ってくる。
年齢を読むには、近すぎず、遠すぎる。白い衣、金の飾り、静かな目。絵や官報で見た顔より、人間の形をしていた。
皇帝は、ザバーハを見る。
それから卓上の二通の書状へ視線を落とした。
何も言わず、反対側の椅子へ歩く。
立派な椅子だった。
重い木と白い布と、皇国の紋。
皇帝はそこへ腰を下ろす。
紙の角が、かすかに動いた。
沈黙が落ちる。
ザバーハは立ったままだ。
皇帝は、短く言った。
「座りたまえ」
その声は、命令だった。
だが、取り調べの命令ではない。
ザバーハは椅子の背へ手をかけた。
三年前は、座れなかった。
今は違う。
逃げるためではない。
倒れないためでもない。
交渉するために、座る。
【Fin】
皇帝の前には、二通の書状が並んでいた。
――――――――――
『コルニリ家の旗 ―ルクナイト戦記―』
創作大賞2026応募作
前話:
四十三話
次話:
執筆こぼれ話・あとがき
連載一覧:
マガジン
感想・コメント・スキ、とても励みになります。
noteやXでご感想の際は、#創作大賞感想 を付けていただけるとうれしいです。