
今日は、出るのをやめにした。
母から電話があったのは、日曜日の夜だった。
夕食に買ってきた海苔巻きのパックを捨て、洗うほどでもない湯呑みを流しに置いたところだった。
テーブルの上でスマートフォンが震えた。
母。
私は画面を見たまま、椅子に座った。
電話は十五回ほど鳴って切れた。しばらくすると、また鳴った。
今度も出なかった。
三度目はなかった。
ほっとした。
そのあとで、少しだけ気になった。
でも、こちらからかけ直すほどではなかった。
私はテレビをつけた。日曜の夜に放送している旅番組だった。
知らない町を歩く人をぼんやり眺めながら、来週はどこかへ出かけようと思った。
ひとりで。
そう思って、少し安心した。
母とは、二年近く会っていない。
喧嘩をしたわけではない。「もう会わない」と言ったわけでもない。
電話に出る回数を減らした。
帰省する回数を減らした。
母が不機嫌になっても、理由を説明しないようにした。
それだけだった。
それだけで、ずいぶん楽になった。
母は、悪い母親ではなかった。
少なくとも、そう言うとき、私はいつも「悪い」という言葉の意味を考える。
毎朝、朝食を作ってくれた。
雨の日には駅まで迎えに来た。
風邪をひけば、夜中に何度も起きて額に手を当てた。
大学にも行かせてもらった。
就職が決まったときには、親戚中に電話をしていた。
だから私は長い間、母を嫌う自分の方が悪いのだと思っていた。
「あなたのためを思って言ってるの」
母はよくそう言った。
髪を短くしたいと言ったときも。
東京の大学へ行きたいと言ったときも。
結婚を迷っていると話したときも。
離婚を決めたときも。
母にはいつも、私より先に、私の正解がわかっていた。
「そんな人と結婚して大丈夫なの?」
そう言った母は、私が離婚すると伝えたとき、
「だから言ったでしょう」
と言った。
どちらの言葉も、正しかったのかもしれない。
だから余計に腹が立った。
四十歳を過ぎた頃、私は本屋で一冊の本を買った。
親との関係について書かれた本だった。
そこに、
「親を許さなくてもいい」
と書いてあった。
私はその一文を何度も読んだ。
鉛筆で線を引いた。
翌日、もう一度、上から線を引いた。
許さなくてもいい。
離れてもいい。
自分を大切にしていい。
知らない言葉ではなかった。
けれど、それが自分にも許されているとは思っていなかった。
私は少しずつ、それらの言葉を覚えた。
それから私は、いろいろなものを手放した。
母からの電話。
会うたびに誰かの悪口を聞かされる友人。
行きたくない飲み会。
私が仕事の話をすると、「女がそんなに頑張ってどうするの」と笑った恋人。
最初の頃は、断るたびに心臓が速くなった。
断ったあとで、何度も送ったメッセージを読み返した。
怒っていないだろうか。
嫌われなかっただろうか。
失礼ではなかっただろうか。
やがて慣れた。
断ることにも。
返信しないことにも。
関係が終わることにも。
生活は静かになった。
夜中に、誰かの機嫌を考えながら眠れなくなることがなくなった。
休日に予定がなくても、焦らなくなった。
ひとりで映画を観た。ひとりで旅行をした。ひとりで焼肉店にも入れるようになった。
「すごいね。私には無理」
と職場の人に言われた。
何がすごいのかわからなかった。
ひとりなら、誰かに合わせなくていい。
食べたいものを食べ、帰りたくなったら帰る。
楽だった。
寂しくない、と言えば嘘になる。
でも、以前よりずっと楽だった。
だから、これでよかったのだと思った。
六月の終わり、帰ろうとすると雨が降っていた。
朝の天気予報では、降水確率は二十パーセントだった。
二十パーセントを信じた自分を少し呪った。
駅までは歩いて七分。
走ろうか。
バッグを頭に載せるのは、さすがにこの年齢ではどうだろう。
そんなことを考えていると、
「駅までですよね?」
後ろから声をかけられた。
振り返ると、同じ部署の田辺さんだった。
三つか四つ年下だったと思う。
仕事以外では、ほとんど話したことがない。
田辺さんは人付き合いがよかった。昼休みにはいつも誰かと一緒にいて、週末も友人と出かけた話をよくしていた。
私は彼女を、少し苦手だと思っていた。
一人でいられない人なのだと思っていた。
「入ります?」
田辺さんは透明なビニール傘を少し持ち上げた。
「大丈夫です。ありがとうございます」
考える前に答えていた。
「そうですか」
田辺さんは、それ以上勧めなかった。
「じゃあ、お疲れさまでした」
軽く頭を下げ、雨の中を歩いていった。
私は軒下に立ったまま、その後ろ姿を見ていた。
傘に入れてもらえばよかった、と思ったわけではない。
ひとりが嫌になったわけでもない。
それなのに、なぜか泣きそうになった。
変なの。
そう思って、雨が少し弱くなるのを待った。
駅まで走りながら、ふと思った。
私は、人が嫌いなわけではなかったんだな。
当たり前のことに気づいたような気がした。

その一週間後、兄から電話があった。
母が倒れたという。
買い物から帰る途中で転び、大腿骨を骨折したらしい。
「命に別状はないから」
兄は最初にそう言った。
それから、
「お前は無理して来なくていいよ」
と言った。
「母さんとは、いろいろあっただろ」
その言葉を聞いて、私は少し腹が立った。
いろいろあった。
確かに、あった。
でも、兄に言われたくないと思った。
兄は昔から、母と私の間に何があるのか、ほとんど知らなかった。
知ろうともしなかった。
「行かないよ」
私は答えた。
その夜、眠れなかった。
母を心配しているのか。
罪悪感なのか。
娘としての義務感なのか。
兄だけに任せるのが申し訳ないのか。
考えているうちに、どれも少しずつ当たっていて、どれも違うような気がした。
翌朝、私は病院へ向かった。
病室の母は、私の顔を見るなり言った。
「あんた、仕事は?」
「休み」
「休んだの?」
「今日はもともと休み」
「ああ、そう」
それから少し間を置いて、
「昨日来られなかったの?」
と言った。
来なければよかったと思った。
心から思った。
「昨日は仕事だったから」
「夜も?」
「夜は疲れてたから」
「ふうん」
母は窓の方を向いた。
私は椅子に座り、母の横顔を見た。
母は老けていた。
当たり前だと思った。
私が五十歳に近づいているのだから、母も老いる。
そんな当たり前のことを、私は二年間、見ないで済ませていた。
帰るとき、母は言った。
「雨降るって」
「え?」
「夕方から。傘、持ってるの」
「持ってる」
「そう」
ありがとう、と言いかけて、やめた。
母も、気をつけて帰りなさいとは言わなかった。
昔から、こうだった。
心配するくせに、心配しているとは言わない。
私も、それに気づいているくせに、気づいていないふりをする。
病院を出た。
空はまだ晴れていた。
駅へ向かいながら、もう来ないと思った。
その夜、私は病院の面会時間を調べた。
週に一度、母のところへ行くようになった。
洗濯物を持ち帰り、必要なものを買い、母の話を聞いた。
母は感謝する日もあった。
文句を言う日もあった。
「このパジャマ、首がきつい」
「前のやつがいい」
「みかんは小さい方がおいしいのに」
ある日、
「そんなに嫌なら、行かなければいいのに」
と友人に言われた。
久しぶりに会った大学時代の友人だった。
私は母の愚痴を話していた。
自分から話しておいて、その言葉に少し傷ついた。
その通りだと思った。
嫌なら、行かなければいい。
母とは距離を取ったはずだった。
自分を大切にすると決めたはずだった。
なのに、私は毎週、母の洗濯物を持ち帰っている。
なぜだろう。
母を許したからではない。
過去を忘れたわけでもない。
母に認めてほしいわけでもない。
たぶん。
ある日、兄にも聞かれた。
「無理してないか?」
私は少し考えた。
「わからない」
「何が?」
「無理してるのかどうか」
兄が笑った。
「そんなこともわからないのか」
私は少しむっとした。
でも、本当にわからなかった。
「行きたいわけじゃないんだけど」
「じゃあ行かなきゃいいだろ」
「でも、行かない方が嫌なんだと思う」
兄は変な顔をした。
私も、変な言葉だと思った。
行きたいわけではない。
行かない方が嫌。
そんな選び方もあるのだろうか。
私は長い間、自分を変えようとしてきた。
自分の気持ちを大切にする。
嫌なことには、嫌と言う。
人に合わせすぎない。
自分のいいところを見つける。
毎晩、ノートに三つずつ書いていた時期もある。
今日できたこと。
今日頑張ったこと。
自分の好きなところ。
最初のうちは楽しかった。
小さなことでもいい、と本には書いてあった。
朝、時間通りに起きた。
仕事に行った。
昼休みにちゃんと休んだ。
少しずつ書けるようになった。
けれど、書けない日があった。
何もできなかったと思う日。
人に合わせてしまった日。
嫌なことを断れなかった日。
母にひどく腹を立てた日。
白いページを前にすると、焦った。
何かあるはず。
今日の自分にも、褒められるところが。
探しても見つからないと、
今日もできなかった、と思った。
自分を好きになるために始めたことなのに、
自分を好きになれない自分を
私は少しずつ嫌いになった。
ある夜、白紙のノートを前にして、
私はいつになったら、
ちゃんと自分を好きになれるのだろう、と思った。
そして、少し笑った。
ちゃんと。
また、ちゃんと、だ。
ちゃんと自分を好きになりなさい。
ちゃんと自分を大切にしなさい。
ちゃんと自分の気持ちを優先しなさい。
言葉が変わっただけだった。
私はまた、正しい自分になろうとしていた。
ノートを閉じた。
その日は、何も書かなかった。
母の退院が決まった。
すぐに一人暮らしに戻るのは難しいため、しばらく兄の家の近くにある施設に入ることになった。
兄と二人で実家を片づけた。
「これ、どうする?」
「捨てていいんじゃない」
「これは?」
「知らない」
二人とも、だんだん面倒になっていた。
押し入れの奥から、古い段ボール箱が出てきた。
私の名前が書いてあった。
通知表。
卒業文集。
友達からの手紙。
中学生の頃の日記帳もあった。
「うわ」
思わず声が出た。
「何?」
「日記」
「読んでやろうか」
「殺すよ」
兄が笑った。
捨てようと思ったが、結局持ち帰った。
その夜、缶ビールを飲みながら、一冊だけ開いた。
丸い文字。
色の違うペン。
ところどころに貼られたシール。
忘れていた私がいた。
友達に嫌われたくなくて、本当は行きたくなかった場所についていった私。
母の機嫌が悪い日に、頼まれてもいないのに夕食の片づけをした私。
クラスでひとりになっていた子に声をかけ、そのあと自分まで仲間外れにされた私。
私はページをめくった。
昔からだ。
そう思った。
昔から私は、人の顔色ばかり見ていた。
嫌と言えなかった。
自分がなかった。
ページをめくる手が止まった。
母と喧嘩をした日のことが書いてあった。
次の日、私は母の好きなプリンを買って帰ったらしい。
まったく覚えていなかった。
日記には、こう書いてあった。
「くやしい。でも、お母さんが喜んだので、ちょっとうれしかった。くやしい」
笑ってしまった。
十五歳の私は、二度も「くやしい」と書いていた。
その間に挟まった「うれしい」を私は指でなぞった。
次のページには、仲間外れにされた日のことがあった。
「あの子に声をかけなければよかった。でも、ひとりはかわいそうだったから、たぶんまた声をかけると思う」
私はしばらく、その文字を見ていた。
ずっと、あの頃の自分は弱かったのだと思っていた。
人の顔色ばかり見て、
嫌と言えなくて、
自分より人を優先して。
だから変わらなければならないと思った。
けれど、
母の機嫌を取るためにプリンを買った私と、
母が喜んだことをうれしいと思った私は、
どこで分ければいいのだろう。
仲間外れになるのが怖かった私と、
ひとりでいる子を放っておけなかった私は、
同じ私ではなかったのだろうか。
日記を閉じた。
冷蔵庫から、もう一本ビールを出そうと思った。
やめた。
やっぱり飲もうと思って、出した。
誰も見ていないのに、
少し笑った。

母は退院した。
私は相変わらず、週に一度、母のところへ行っている。
先週は行かなかった。
疲れていたからだ。
母から、
「今週は来ないの?」
と電話があった。
「行かない」
と答えた。
「何かあるの?」
「疲れてるから」
母はしばらく黙った。
「そう」
電話は切れた。
罪悪感がなかったと言えば、嘘になる。
でも、行かなかった。
次の週には行った。
母は何も言わなかった。
帰り際、冷蔵庫を開けた。
買ってきたものを入れる。
牛乳。
ヨーグルト。
小さなみかん。
プリン。
「これ、好きだったよね」
私が言うと、母はテレビを見たまま答えた。
「今も好きよ」
そう、と私は言った。
それだけだった。
雨の日に傘を差し出してくれた田辺さんから、メッセージが来た。
「今度、ご飯でも行きませんか?」
画面を見た。
行きたいような気もした。
面倒なような気もした。
断ったら楽だと思った。
行ったら楽しいかもしれないとも思った。
以前なら、どちらが正しいかを考えただろう。
人とのつながりを大切にするべきか。
自分の時間を大切にするべきか。
自分の心に正直になるべきか。
けれど、肝心の自分の心が何を言っているのか、
やっぱりよくわからなかった。
私はしばらく考えて、返信した。
「誘ってくれてありがとう。少し考えて、また連絡してもいいですか」
送信した。
なんだ、それ。
自分で書いた文章を見て、少し笑った。
翌日。
昼休みに田辺さんが私の席の横を通った。
「昨日、急にごめんなさい」
小さな声で言った。
「いえ」
私は答えた。
田辺さんは、そのまま行こうとした。
「あの」
私が呼び止めると、振り返った。
「来週の金曜日なら」
田辺さんは一瞬、きょとんとした。
それから、
「はい」
と言った。
「金曜日、行きましょう」
嬉しそうに笑った。
私は少しだけ、面倒なことをしたかもしれないと思った。
同時に、
少しだけ楽しみだとも思った。
どちらも本当だった。
日曜日の夜。
夕食を終えて、湯呑みを洗っていた。
テーブルの上でスマートフォンが鳴った。
母。
私は蛇口を止めた。
画面を見た。
先週は、出た。
一昨日も話した。
今日は少し疲れていた。
母が何の用でかけてきたのかは、わからない。
急ぎの用事かもしれない。
ただ話したいだけかもしれない。
私は画面を見ていた。
以前なら、
出る理由か、
出ない理由を探したと思う。
親を大切にした方がいい。
自分を大切にした方がいい。
後悔しない方を選んだ方がいい。
無理をしない方がいい。
どれも、たぶん正しい。
電話はまだ鳴っていた。

私はテーブルの端に置いてあった古い日記を閉じた。
今日は、出なかった。
今日は、出るのをやめにした。
🪡心理士ito|心のコンパス
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