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画面の中で踊るピエロたち

    青白い画面の中で、ピエロたちが踊っている。現代社会において、SNSは「承認欲求の安宿」と化している。

    そこでは今日も今日とて、何万という人々が「いいね」を求めて、食事も旅行も日常のひとコマも、まるで舞台の演目のように差し出している。まず、あの「映え」という名の宗教行為だ。

    目の前に運ばれてきたA5ランクの和牛を親の仇のごとく連写する。肉が冷めていく物理現象よりも、自分のタイムラインに羨望という名の熱を帯びさせることの方が重要なのだろう。もはや彼らにとって、食事とは味覚で楽しむものではなく、レンズを通してフォロワーに捧げる「供物」なのである。
    さらに微笑ましいのは、プロフィール欄に並ぶ華やかな肩書きの数々だ。

    「自由人」「ノマドワーカー」「感謝を形に」。
    なぜだろう、画面の向こうから勧誘の匂いが漂ってくるぞ。これらを翻訳すれば、大抵は「無職」「スタバを転々とする迷子」「ネットワークビジネスの勧誘」に過ぎない。
    虚飾の皮を何枚も被り、誰も見向きもしない自分だけの城を築き上げるその努力には、もはや涙ぐましい執念すら感じられる。

    そして炎上という名の娯楽も欠かせない。
    コタツの中という安全圏から、誰かの失言にシュバババと群がり、正義の鉄槌(という名の罵詈雑言)を叩き込む。その瞬間の彼らは、さながら「全知全能の神」になった気分だろう。だが悲しいかな、スマートフォンの電源が切れれば、そこに残るのは指先の脂でギトギトになった暗い画面と、明日も変わらず続く冴えない日常だけだ。
    彼らが本当に裁きたいのは失言ではない。誰かを叩くことで、退屈な日常の中に、ほんの一瞬だけ「自分にも影響力がある」と錯覚できる快感なのだろう。もっとも、これは彼らだけの話ではない。私のポケットでスマホが震えれば、理屈より先に指が動く。

    我々は「世界と繋がっている」と錯覚しているが、実のところは、シリコンバレーの巨大な実験用フラスコの中で、通知のバイブレーションに尻を叩かれて踊っているだけだ。通知が鳴るたびに、我々は反射的にスマホを手にする。そこに大した用件などないと分かっていても、次こそ何かが起きると信じてしまう。スロットマシンに小銭を入れ続けるギャンブラーとそう変わらないのかもしれない。もし明日、地球からインターネットが消えたら、彼らは一体どうやって自分の生存を確認するのだろうか。鏡の前で自分に「いいね」を言い続けるのだろうか。

    まあ、せいぜい頑張って画面の中の虚像を磨き続けるがいい。その努力の結晶である「いいね」の山は、あの世には持っていけないし、近所のスーパーで大根一本と交換することすらできないのだから

    ……などと偉そうに書いている私も、このエッセイを誰かに読まれたと知れば、真っ先に欲しがるのは、

    たぶん「いいね」だ。

    #創作大賞2026 #エッセイ部門

     
     
    かつてはスーツをまとい、営業マンとして大阪の街を東奔西走。今は小説や戯曲の執筆、劇場での舞台出演を通じ、言葉と表現の世界に情熱を注いでいます。ロゴやポスターのデザイン、ラジオCMの台本や川柳も書いています。好物は冷えたビールと赤ワイン。どうぞよろしくお願いします!

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