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Photo byjoyous_lotus683

仲川啓介氏を「異端審問官」にしてはいけない:日本のゾーニング文化から考える、嫌いな表現と共存するという方法

    ※個人的にかなり危機感を抱いている問題なので、長めに書きます。

    #0. 「差別のない本屋」……聞こえはとてもいい。だが。

    最近、気になっていることがある。

    仲川啓介氏による、書店から「ヘイト本」とやらを遠ざけようとする活動だ。Xなんかでも割と話題、というか炎上気味。

    仲川氏は『差別のない本屋に通いたい。』という著書を出版している。出版社によれば問題意識は「差別を扇動する『ヘイト本』が、本屋に平積みになるのはなぜなのか」というもの。

    元々は書店に対して、「人種差別を扇動する『ヘイト本』を目立つ所に置かないでください」と求める署名活動から始まったという。つまり少なくとも当初は「発禁にしろ」ではなく、「目立つ場所に置かないでほしい」という要求だった。

    ここまでの気持ちは分かる。

    露骨に特定の民族を侮辱し、デマを流し、差別を煽る本が書店の一等地に平積みされていたら、不快に感じる人がいるのも当然だろう。私だって差別や陰謀論は嫌いだ。

    しかし、この考え方を突き詰めていった際、どうしても引っかかることがある。

    何を基準に、何を「ヘイト」と呼ぶのか。
    そして、それを誰が決めるのか。

    ---

    #1. 問題は「ヘイトをなくしたい」ことではない

    仲川氏の問題意識そのものを否定したいわけではない。差別をなくしたい。差別的な言説によって傷つく人を減らしたい。それ自体は理解できる。

    問題は、その目的を実現するために、

    「これは普通の言論である」
    「これはヘイトなので、普通の言論として扱ってはいけない」

    という分類を、必ず誰かに委任しなければならなくなる、ということだ。

    仲川氏は近年、「ヘイト本を他の言論と同じアリーナに上げ、反論すればよい」という考え方にも異を唱えている。反論する過程でヘイトそのものが拡散され、結果的に差別扇動へ加担してしまう可能性がある、という理由である。

    これも理屈は分かる。
    だが、ここには恐ろしい問題が一つ残る。

    「アリーナに上げてよい/駄目な言論」を、一体全体「誰が」決めるのか?

    ---

    #2. 「異端審問官」は善意から生まれる

    ここで私は、少し強い言葉を使いたい。

    異端審問官。もちろん仲川氏本人を、歴史上のそれと同一視したいわけではない。

    私が怖いのは、人間ではなく構造だ。最初は

    「差別をなくしたい」

    だった。次に

    「差別を扇動する本を目立つ場所に置くべきではない」

    になる。さらに

    「差別を扇動する言論を、普通の言論と同じアリーナに上げるべきではない」

    になる。

    すると当然「何が差別扇動なのか」を判定する人間が必要になる。
    そして、その判定者には結果として、

    「社会で流通してよい言論/流通させるべきでない言論」

    を分類する力、極端に言えば「強権的な検閲や焚書の権力を持った者」が生まれる。

    この場合、本人に権力欲などなくてもいい。むしろ本人が心の底から「差別をなくしたい」と思っているほど、この構造は強固になる。自分が行っている排除を「差別をなくすための正しい行為」として認識でき続けるからだ。

    異端審問官は悪人である必要がない。自分には異端を判定する能力と正当性がある、と信じた瞬間に成立する。

    つまり、私の問題意識は以下に集約される。

    仲川氏によって「嫌い」「これはヘイトだ」と主観で決めつけられた作品が、その判断を正義とする仕組みの中で弾圧・焚書されるという「未来の可能性」を孕んでしまう。

    私はそこが恐ろしい。

    ---

    #3. 鬼滅の刃を「2話で断罪」した人が、作品の社会的な危険性を尚早に判定する

    ここで、仲川氏のとあるXの投稿を紹介したい。2020年、氏は人に勧められて『鬼滅の刃』を観たという。しかし、

    「酷い暴力シーンもさることながら、作品の端々に散りばめられる自己責任的論調に耐えきれず、2話で断念」

    したそうだ。
    そして、こう続けている。

    「若者の自殺率の高さや生きづらさと、こうしたアニメ・漫画文化との関連も、真剣に検証した方が良いと思う」

    さらに『鬼滅の刃』自体についても、

    「新自由主義推進のプロパガンダ作品みたいだった」

    と評している。

    『鬼滅の刃』から「自己責任的な価値観」を読み取ること自体は個人の自由だ。作品の読み方に正解はない。炭治郎を見て「家族愛の物語だ」と思う人もいれば、「努力と自己犠牲を要求する物語だ」と感じる人もいるだろう。
    『鬼滅の刃』を「新自由主義推進のプロパガンダ作品みたい」と読む自由だって、もちろんある。

    私が怖いのは、そこではない。
    「2話で断念」した作品について、その思想的性格をかなり強い言葉で判定し、さらに「若者の自殺率」や「生きづらさ」という巨大な社会問題との関連にまで話を広げていることだ。

    2話しか見ていないことより、2話でそこまで分かったと思えてしまうことのほうが私は怖い。

    もちろん、これは仲川氏に限った話ではない。
    人間は誰でも、自分が元々持っている問題意識に合致するものを見つければ、「やっぱりそうだったんじゃん!」と思いやすい。

    しかし、その時本来必要なのは、「自分にはそう見えた」と「この作品は他人にとってはこういう作品である」を区別することではないだろうか。

    さらに言えば、「私はこの作品にこういう思想を感じて不快だった」と、「この種の作品と若者の自殺率や生きづらさには関連があるかもしれない」の間には、かなり長い橋が必要なはずだ。
    その橋を一気に渡ってしまうことこそに、私は危うさを感じる。

    そして、この話が単なる「ひとりの人間による変わった鬼滅評」で終わらないのは、仲川氏が同時に、差別的だと考える書籍について書店へ働きかける活動にも関わっているからだ。

    ここでふたつの話が接続する。

    「何を危険な表現と判断するか」という認識の問題と、「危険だと判断した表現を流通空間から遠ざける」という実践の問題である。

    前者だけなら、思想・批評の自由の範疇。
    私だってnoteで毎週のように作品を勝手に解釈している。「その読み方は無理があるだろ」と言われたら「そうかもしれませんね」で済む。

    だが後者には、他人がアクセスできる表現の範囲を変える力がある。

    だからこそ、このふたつが同じ人物の中で結びつくとき、話は慎重に考えなければならない。

    これは、仲川氏が悪人だという話ではない。
    むしろ逆だ。本人は差別や社会的弱者の苦痛を減らしたいという問題意識から活動しているのだろう。たぶん。だからこそ難しい。

    ---

    #4. ロベスピエールもポル・ポトも、自らを「悪」と認識していたわけではない

    歴史上、表現を検閲し取り締まる人間は、いつも悪そうな顔をして現れるわけではない。

    「これは人を傷つける」
    「これは社会に悪影響を与える」
    「これは弱者を守るために必要だ」

    そういった善意の言葉から始まることのほうがザラだ。もちろん規模も思想もまったく異なるが、極北の例を出すとするならば、ロベスピエールもポル・ポトも、自らを「悪」として社会を破壊したわけではない。「善意」のほうが大きかった。

    問題は、その善意が間違っているかどうかではない。誰が「これは社会にとって有害な表現である」と判定するのか。そしてその判定を間違えた時、誰が止めるのかという仕組みの問題である。

    私が怖いのは、仲川氏のように強い社会的問題意識を持った一個人が、いつの間にか「何が許される表現なのか」を判定する異端審問官になれてしまう構造そのものだ。異端審問で本当に恐ろしいのは、審問官の人格ではない。「異端を決める人間」が存在できること自体にある。

    仲川氏は過去に、ミサイル飛来を想定したJアラートの避難訓練についても「なかなかのヘイト案件だと思う」と投稿している。

    私はここで、Jアラートの是非を論じたいわけではない。政府による危機喚起が特定国への偏見を助長する可能性を論じること自体は、無論自由。

    私が注目したいのは、ここでも「ヘイト」という言葉の射程がかなり広く設定されていることだ。

    仮に異端審問官が鬼滅の刃を悪本とするなら、次の標的はどれか。その基準には際限がない。

    ――――――

    そして、ここから日本のポップカルチャーの独自性の話に移る。日本は、長い間、この問題に対してかなり独特な方法を採ってきたように見える。

    「みんなが許容できる表現だけを作ろう」ではない。そんなことは事実上不可能。その代わりに、「嫌なら見なくていい。見る人間と見ない人間を分けよう」という方法を実施している。
    つまり、ゾーニングだ。

    そして私は、この一見すると雑な「知らんところでは勝手にやってくれ」という仕組みこそが、日本のポップカルチャーを異常なほど多様にしてきた土壌のひとつなのではないかと思っている。

    ---

    #5. 日本には元から別のやり方があった

    日本という国は、良くも悪くも、とんでもなく雑多なコンテンツを生み出してきた。

    幼児向けアニメがある。
    少年漫画がある。
    少女漫画がある。
    青年漫画がある。
    BLがある。
    深夜アニメがある。
    成人向けのエロゲーがある。

    同じ「アニメーション」という技法だけを見れば、ポケモンから成人向け作品まで同じ棚に入ってしまう。是非は置いておいて。

    しかし日本人は、そんな分類をほとんどしない。なぜなら「誰向けなのか」という別の棚を大量に作ってきたからだ。この辺り、アメリカやヨーロッパと比較しても日本はかなり許容度数が高い。

    つまり日本のコンテンツ文化は、表現を均質化することなく、ゾーニングすることで凄まじく異なる表現同士を共存させてきた。

    ---

    #6. 「理解します」ではなく「知らんところで勝手にやって」

    以前、日本文化について考えていて、妙にしっくり来る言葉が浮かんだ。日本的な寛容とは「あなたを尊重します」ではなく、「知らんところでは勝手にやって」なのではないか。

    一見、ずいぶん冷たい。
    しかし、意外と強い。

    私はあなたの趣味を理解しない。
    あなたの性癖にも興味がない。
    あなたの好きな作品を好きになる義務もない。

    だが、「こっちに持ってこないなら、そっちで好きにすれば?」で終わる。

    これは「理解による共存」ではない。
    切り離しによる共存である。

    そして(繰り返しになるが)、この切り離しこそ、日本のポップカルチャーを異常なほど細分化させた一因なのではないかと私は考えている。

    ---

    #7. ゾーニングは表現を「極端」にできる

    ここが重要。すべての作品が社会全体から承認されなければ存在できないなら、作品は必然的に丸くなる。有り体に言えば、つまらなくなる。

    100万人から嫌われない作品を作る必要があるからだ。しかし「この作品は、この棚にいる1万人だけが読めばいい」なら話が変わる。

    その1万人に120点を出せる。
    あまねく全ての人に70点を取る必要がない。
    だから趣味は細分化する。
    ジャンルは細分化する。
    表現は(良い意味で)尖る。

    その結果、日本では世界的に見ても突然変異と思えるほど多種多様な漫画、アニメ、ゲーム、キャラクター文化が育った。

    日本のポップカルチャーが世界へ与えた影響を考えるとき、私は作品そのものだけでなく、「ニッチな表現が死なずに存在できる棚を大量に作ったこと」も重要だったのではないかと思う。

    ---

    #8. 北斎先生、そっちの棚にもいた

    そしてこの日本的な文化生態系は、昨日今日のぽっと出で始まったものでもなさそうだ。

    例えば、葛飾北斎。
    ご存知、日本美術史を代表する世界的絵師。
    その北斎先生、エロ絵(春画)も描いている。

    有名な『蛸と海女』など、現代人の目で見れば「北斎先生、触手エロ描いてるじゃん」となる。

    もちろん、江戸時代と現代の倫理観・出版制度をそのまま連続させることはできないだろう。
    それでも興味深いのは、

    世界が認める偉大な芸術家であることと、性的で猥雑な表現を制作することが、必ずしも文化的に矛盾していなかった

    という点だ。

    日本社会があらゆる性的表現を「尊重」していたわけではない。統制だって幾度となくあった。それでも、性的表現そのものを文化から完全に消滅させるのではなく、ある場所に押し込めながら残す余地があった。その過程には、「自由を勝ち獲るための戦い」もあっただろうけれども。

    要するに、これもまた「勝手にそっちでやって」だったのではないか。

    ---

    #9. ゾーニングと排除は似ているようで決定的に異なる

    ここで仲川氏の話へ戻る。

    実は、書店で「ヘイト本」を別の棚へ置くという発想そのものは「ゾーニング」である。

    実際、仲川氏らのイベントを報じた記事には、ある書店が問題視する本を一箇所に集め、警告のPOPを立てた事例が紹介され、それを明確に「ゾーニング」と表現している。

    私は、この発想自体にはまだ議論の余地があると思う。なぜなら、

    「私はこの本を問題だと思う。だから問題があることを表示する」

    ことと、

    「この本を普通の言論として扱ってはならぬ」

    と思うことには距離があるからだ。

    ゾーニングは境界線を引く。しかし、境界線の向こう側には場所が残っている。
    排除は違う。境界線の向こう側そのものを消す。ここには決定的な差がある。

    ---

    #10. 多様性とは「好きなものを認めること」ではない

    多様性という言葉は、とても耳触りがいい。
    しかし本当に難しいのは、「自分が好きなものを認めること」ではない。「自分が心底嫌いなものにも、存在する場所を残せるか」だ。

    もちろん、脅迫や犯罪の扇動、個人への攻撃まで「表現の自由だから」で済ませるべきではない。社会には境界線(道徳)が必要だ。

    しかし、その境界線を誰かの道徳感覚だけで動かせるようになった瞬間、「多様性」は「私が許可した多様性」へ変わる。「息苦しい多様性」「皆が一律の多様性」と言ってもいい。

    そして「差別のない社会」を作るために、正しい言論/間違った言論、読ませてよい本/読ませるべきでない本を選別する人間が必要になる。

    私は、その人を作りたくない。
    仲川啓介氏を、異端審問官にしてはいけない。

    ---

    #11. 「嫌いだから消す」と「嫌いだから分ける」

    日本のゾーニング文化は、決して美しいものではない。冷たい。無関心でもある。「あなたを理解します」ではなく、「俺には分からん。そっちでやってくれ」なのだから。

    しかし、その冷たさが結果として奇妙な自由を守ってきたのかもしれない。

    漫画を細分化した。
    アニメを細分化した。
    趣味を細分化した。
    性癖まで細分化した。

    そして、その無数の小さな棚から生まれた作品が、現在世界中で読まれている。

    だから私は「不快な表現をどう扱うか」という問いに対して、「消す」以外に「分ける」という選択肢を残しておきたい。

    差別に反対することと、誰かに「異端を決める権利」を与えることは同じではない。

    むしろ差別を嫌うからこそ、誰か一人の価値観によって、社会に存在してよいものと悪いものが分類される構造を警戒したい。

    多様性とは、皆で仲良く同じ棚に並ぶことではない。嫌いなものがある。理解できないものがある。どうしても受け入れられないものがある。

    それでも、「あっちに棚は残しておく」そのくらいの距離感が、案外最も強い寛容の姿であり、多様性なのではないだろうか。

    だから私は、鬼滅の刃を2話で見限る自由は守りたい。だが鬼滅を2話で早々に見限り、尚早とも言える判断をしてしまう人に、次にどの棚をなくすかを決める権力まで与えたくはない。

    そこだけは、強く主張しておきたい。

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