
九州出身者として「さす九」に思うこと:〈差別は「一部」を削るところから始まる〉を示す好事例【ひとりごと】
私こと中島板は九州出身だ。
宮崎県の端っこで生まれ育ち、現在は東京都民。
一応、九州男児という属性になる。
なお「九州っぽくない」ともよく言われる。
さて、最近Xで「さす九」という言葉を見かけることが多い。「さすが九州」の略。
主に、九州で男尊女卑的な出来事・言説・ニュースがあった時などに、その地方(およびそこに住む人)を侮蔑・揶揄する意図で使われている。
最初に言っておくと、私は「九州に男尊女卑的な文化なんて存在しない!」と主張したいわけではない。あるところにはあると思っている。
九州出身者として「あー、地方にはそういうのあるある」「あの家庭って今思うとそんな感じだったよな」と思い当たることだってある。別にそこを擁護する気もない。
男だからという理由で女性より偉そうにしていいとか、家事は女性がやるものだとか、酒の席では女性が甲斐甲斐しく動くべきだとか。
そんな価値観があるなら批判すればいい。
私だってそんな時代錯誤の価値観にいい気分はしないし、行きつけの飲み屋で知り合いがそんな言動をしていたら嗜めるぐらいのことはする。
私が最近「さす九」という言葉を見ていて気になったのは、「男尊女卑傾向の有り無しの真実」ではない。別のところだ。というか九州出身者として変な実感を得てしまった。
「ああ、かつての部落差別って本当にあったんだろうな……」
もちろん歴史的事実として「あった」ことは知っている。そういう意味ではない。
「人間が、出身地域だけで他人を分断・断罪する行為って、本当にできるんだ……」という嬉しくない実感、そのことである。
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■ 「九州の一部」と「九州男児」は、まったく違う文章である
今回一番書きたいのはここ。
九州の一部には、男尊女卑的な慣習がある
私はこの文章に特に異論はない。
問題があるなら批判すればいい。
時代錯誤反対!
だが、ここで極めて重要な単語がある。
「一部」である。
当たり前の話だが、九州に住む男全員が同じ思想を持っているわけではない。
家事も育児も普通にやる九州男児もいる。
男女平等を強く支持する九州男児もいる。
フェミニストの九州男児だって当然いる。
そもそも「九州」と一口に言ったところで7県もある。広い。都市部と地方でも違う。世代でも違う。家庭単位でも違う。
そんな状況下、
九州の一部には男尊女卑的な慣習がある。
から「一部」を削る。すると、
九州には男尊女卑的な慣習がある。
になる。……百歩譲ってまだ分かる。
もう少し縮めてみる。
九州は男尊女卑だ。
だいぶ主語が大きくなった。さらに進む。
九州男児は男尊女卑だ。
あれ。
いつの間にか、文化について話していたはずなのに、とある属性を持つ人間の人格についての話になっている。
で、「さす九」という表現に起こっていることこそ、まさしくこれなのだ。
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■ 差別は「一部」を削るところから始まる
たぶん、ここが面白くも怖いところ。
差別というと、我々はものすごく荒唐無稽な偏見を想像しがちである。
何の根拠もないデマを信じ込んで
「○○人は全員こういう人間だ!」
と叫ぶ輩。分かりやすい差別主義者。
しかし実際の差別というのは、もっと地味なところから発生するんじゃなかろうか。
たとえば仮に、ある地域を調査した結果、
他地域よりも保守的なジェンダー観を持つ人の割合が高い
という統計が出たとする。それ自体は単なるデータ。ならば、その地域にそういう傾向が存在する理由を研究すればいい。ところが、
A地域にはその傾向を持つ人が比較的多い
↓
A地域にはそういう文化がある
↓
A地域はそういう土地だ
↓
A地域の人はそういう人たちだ
↓
A地域出身のこの人も、きっとそういう人だ
と進んでいく。グラデーションを経た結果、全然違う話になっている。
集団についての傾向を、目の前にいる一人の人間の人格判定に使っているからだ。
しかも厄介なのは、この変換をやる本人には「差別している」という自覚が生まれにくいこと。
「いや、だって実際そういう傾向あるじゃん」
と言えてしまう。そう、傾向があることと、あなたの目の前にいる個人がその傾向に当てはまることは、別の話なのだ。だが「一部」が消えると、そこが見えにくくなる。
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■ 「さす九」の三文字で起きていること
だから「さす九」という言葉は実に興味深い。個別の事件を見る。「また九州か」となる。「さす九」と揶揄され、時には侮蔑される。
これを繰り返しているうちに、その事件を批判しているのか、「九州」という属性そのものを嘲笑しているのか、境界がだんだん分からなくなる。
「九州の一部にこんな問題がある」だったはずの話が「九州ってそういう場所だよね」になり、「九州男児ってそういう人たちだよね」になる。
最終的には、仮に本人のことを何も知らなくとも
九州出身?
と聞いただけで、
ああ、じゃあ……
と、何か分かったような気になれる。
いや待て待て。その人のこと、まだ出身地しか聞いてないだろ。ラベリングやめれ。
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■ そこで部落差別を思い出した
ここまで考えて、ようやく冒頭で言及した部落差別への連想に思い至った次第だ。
私は、露骨な部落差別というものを実生活でほとんど見たことがない。もちろん歴史としては知っている。特定地域の出身者であるというだけで、結婚を反対されたり、就職で不利益を受けたりしたという、由々しき問題。
つまり、知識としては知っているが、どこか実感がなかった。
「人間って、本当に出身地域だけで他人を差別できるもんなん?」
だって、その人本人とは関係ないじゃん。
その土地に生まれたというだけじゃん。
何をどう考えたら、それが本人の人格や価値の話になるんだ。ずっと、そんな感覚だった。
ところが最近「さす九」を眺めていて、
ああ。できるわ。
と思ってしまった。
もちろん「さす九」と部落差別を完全な同列に扱いたいわけではない。歴史的な背景も、社会的な深刻さも、受けた被害の規模もまったく違う。
私が比較したいのは被害の質量ではなく「認知が生成される過程」である。
ある土地についてネガティブな特徴が語られる。その特徴と土地の名前が結びつく。何度も繰り返されるうちに、
「その土地では、そういうことがある」
が
「その土地は、そういう土地だ」
になる。さらに、
「その土地の人間は、そういう人間だ」
になる。そして最後には
「お前、そこ出身なんだ。じゃあ……」
と化す。
本人が実際にどんな人間なのかを確認する工程が丸ごと消える。なるほど。土地だけで人間を見るって、こうやって始まるのか。
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■ 九州文化を批判するな、という話ではない
ここは繰り返し念押ししておきたいところだが、私は「九州の文化を批判するな!」と言いたいわけではない。むしろ逆。
九州の一部に男尊女卑的な慣習があるなら、どんどん批判すればいい。私だってする。嫌な思いをしている人がいるなら変えていくべきだ。
しかし「九州の男尊女卑を批判すること」と「九州出身の人間を男尊女卑だと決めつけること」は、矛盾なく「別の問題」として扱えるはずだ。
問題のある文化を批判することと、その文化圏に属する個人を雑に属性化しないことは両立する。というより、両立させなければいけない。
「九州の一部に男尊女卑的な慣習がある」
と
「九州男児は男尊女卑である」
は、似ているようでまったく異なる文章なのだ。前者は文化批評になり得る。後者は目の前の人間を出生地という「本人には変えられない属性」で分類している。
「一部」という、たった二文字。
でも、この二文字は思った以上に重要だ。
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■ 差別は案外ものすごく小さな編集から始まる
差別というものは、ある日突然「よし、今日から私は差別主義者になろう!」と決意して始まるものではない。たぶん最初は、
「いや、だって実際そういう傾向あるじゃん」
くらいからスタートする。で、そのうち「傾向」から「一部」が落ちる。「一部」が落ちると、集団全体の「属性」になる。集団の属性になれば、今度はそこに属する「個人」の人格を推測できるような気がしてくる。
九州の一部に問題がある。
↓
九州に問題がある。
↓
九州は問題のある土地だ。
↓
九州人は問題のある人間だ。
最初と最後では、まったく違うことを言っている。なのに、その認知の渦の中にいながら一段ずつ進んでいくと、妙に自然に見える。
怖い。
差別というのは、案外こういう小さな編集から始まる。「一部」を削る。たったそれだけで、気付けば本人のことを何も知らないのに、出身地だけで何かを知ったような気になっている。
というわけで、私は「さす九」という言葉を見ても、九州出身者として別に嬉しくはない。当たり前。人を、本人の努力や意思じゃどうにもならん属性で判断しないでくれ。
だが、人間がどうやって「集団の傾向」を「個人の属性」へ変換していくのか、その過程をリアルタイムで観察できるという意味では、恐ろしく分かりやすく、興味深い教材だと思っている。
差別は「一部」を削るところから始まる。
考えると「さす九」は、そのことを如実に示すなかなかの好事例だ。
ありがとう九州。
さす九!
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