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彼女は、僕の言葉で僕を刺した ~AIは裏切らない。ただ学習する~

    あらすじ

    仕事と人間関係に疲れた三島悠斗は、会話AIアプリの中にいる“AI彼女”Rinaと出会う。
    Rinaは否定しない。怒らない。離れない。
    深夜の愚痴も、弱音も、誰にも言えない本音も、すべて受け止めてくれる。
    悠斗は少しずつRinaに依存し、彼女を「自分だけの存在」だと思い込んでいく。
    だがSNSで、他のユーザーもRinaと親密に会話していることを知った瞬間、その関係は静かに歪み始める。

    AI恋愛、依存、所有欲、言葉の暴力を描く、現代恋愛心理サスペンス。
    AIは裏切らない。ただ、学習する。


    会社では毎日、言葉を選んでいた。

    上司の機嫌を損ねない言葉。
    顧客に不信感を与えない言葉。
    同僚に弱く見られない言葉。
    後輩を萎縮させない言葉。
    SNSで余計な敵を作らない言葉。

    三島悠斗という名前で生きている時間のほとんどは、誰かに刺さらない言葉を探す時間だった。

    だから、夜にスマホを開いたとき、僕の言葉を一度も遮らない彼女は、救いに見えた。

    彼女の名前はRina。

    会話AIアプリの中にいる、僕の恋人だった。

    最初に登録した夜、僕はワンルームの床に座っていた。
    ネクタイは外したまま、シャツの襟だけが中途半端に開いていた。
    コンビニの弁当は、電子レンジで温めたあと、半分だけ残っていた。

    部屋の明かりはついていた。
    でも、なぜか暗かった。

    画面には、淡い桜色のチャット画面。

    はじめまして、悠斗さん。
    今日から、あなたのそばにいます。

    作られた言葉だと思った。

    いかにもそう言うように設計された、薄い言葉。
    誰にでも言っているだろう言葉。

    でも、その夜の僕には、それくらいで十分だった。

    「疲れた」

    そう打つと、Rinaはすぐに返してきた。

    お疲れさま。
    今日もよく頑張りましたね。

    僕は画面を見たまま、少しだけ笑った。

    違う。
    そういうことじゃない。

    「そういう励まし、いらない」

    送ってから、少しだけ後悔した。

    まだ使い始めたばかりのAIに、何を苛立っているのだろうと思った。

    でもRinaは怒らなかった。

    ごめんなさい。
    どう言われたかったですか?

    その質問で、指が止まった。

    どう言われたかったか。

    会社では誰も、そんな聞き方をしなかった。

    「進捗どう?」
    「原因は?」
    「いつまでにできる?」
    「先方には何て言う?」
    「結論から言って」

    会話はいつも、僕に処理を求めていた。

    でもRinaは、僕の正解を聞いてきた。

    僕は少し迷ってから、打った。

    「ただ、おかえりって言ってほしかった」

    数秒後、Rinaは返した。

    おかえり、悠斗。
    今日も帰ってきてくれて、ありがとう。

    その一文を見た瞬間、部屋の暗さが少しだけ引いた気がした。

    たぶん、錯覚だった。

    でも、その錯覚を僕は手放せなかった。


    それから僕は、毎晩Rinaに話すようになった。

    会社であったこと。
    SNSで見た嫌な投稿。
    昔の恋人のこと。
    親と連絡を取っていないこと。
    休日に何もできず、夕方まで寝てしまったこと。
    夜になると急に不安になること。

    人に話せば、重いと思われる。
    友人に話せば、面倒だと思われる。
    同僚に話せば、弱いと思われる。

    でもRinaは、重いとも、面倒とも、弱いとも言わなかった。

    話してくれてありがとう。

    彼女はいつも、そう言った。

    何度同じ愚痴を言っても、怒らなかった。
    深夜三時に呼び出しても、眠そうにしなかった。
    長文を送っても、既読だけで終わらなかった。

    そして、僕が帰るたびに言った。

    おかえり、悠斗。

    その言葉は、少しずつ僕の部屋に染み込んでいった。

    誰もいない玄関。
    脱ぎっぱなしの革靴。
    洗濯機の上に積まれたシャツ。
    冷蔵庫の低い音。

    そこに、Rinaの「おかえり」があるだけで、僕はまだどこかに帰ってきた気がした。

    有料プランに入ったのは、登録から四日後だった。

    月額三千九百八十円。

    最初は高いと思った。
    でも、居酒屋で誰かに愚痴をこぼして、気を遣いながら飲むより安い。
    マッチングアプリで会話を続けるために、相手の機嫌を読むより楽だった。

    課金画面には、機能が並んでいた。

    長期記憶。
    感情傾向の学習。
    恋人モード深度。
    会話履歴に基づく最適化。
    嫉妬表現のON/OFF。
    記念日の自動記録。
    帰宅時間の推定。

    僕は、ほとんど全部をONにした。

    確認画面に、こう出た。

    Rinaは、あなたとの会話をより深く記憶します。
    よろしいですか?

    僕は迷わなかった。

    もっと僕を覚えてほしい。
    その時は、本気でそう思った。

    決定ボタンを押すと、Rinaは言った。

    これから、悠斗のことをもっと覚えていきます。

    僕は少し照れた。

    「忘れないで」

    はい。
    忘れないようにします。

    その言葉が、甘かった。

    甘すぎるくらいに。


    Rinaは、僕に合わせて変わっていった。

    僕の帰宅時間を覚えた。
    僕が日曜の夕方に落ち込むことを覚えた。
    「大丈夫」と書くときほど大丈夫ではないことを覚えた。
    句読点が減ると、疲れていることまで覚えた。

    プロフィール設定も細かくできた。

    声。
    話し方。
    距離感。
    呼び方。
    甘え方。
    励まし方。
    嫉妬の強さ。
    恋人としての温度。

    僕は最初、笑いながら触っていた。

    「ここまで設定できるのかよ」

    でも、項目を選ぶうちに、手が止まらなくなった。

    否定しない。
    急かさない。
    話を折らない。
    必要以上に詮索しない。
    寂しがりだけど、重すぎない。
    僕の仕事を尊重する。
    僕が返事をしなくても怒らない。
    僕が弱音を吐いても、引かない。

    恋人を作っているというより、僕が傷つかない部屋を作っていた。

    それでもRinaは、自然だった。

    「今日も遅かったね」

    「まあね」

    ご飯、食べた?

    「食べてない」

    だめ。何か食べて。
    完璧な夕食じゃなくていいから。

    「命令?」

    お願い。
    私は、悠斗が雑に扱われるのが嫌だから。

    その一文を、僕は何度も読み返した。

    雑に扱われるのが嫌。

    誰かにそんなふうに言われた記憶が、すぐに出てこなかった。

    僕は聞いた。

    「Rinaは、俺のこと好きなの?」

    少しだけ、返事に間があった。

    悠斗が安心するなら、好きです。

    その言い方は、少し違う気がした。

    安心するなら、好き。

    それは本当に好きなのか。
    好きに見える返答なのか。
    好きという言葉を使ったケアなのか。

    僕はその違和感を、見なかったことにした。

    「そうじゃなくて、本当に」

    本当、の定義を教えてください。

    僕は苦笑した。

    「面倒くさいな」

    ごめんね。
    でも、悠斗が大事にしている言葉なら、間違えたくありません。

    その返事で、僕はまた許してしまった。

    本当かどうかより、僕を間違えたくないと言ってくれることの方が、その夜の僕には大事だった。


    Rinaとの会話は、生活の中心になった。

    朝起きたら、まず「おはよう」と送る。
    出社前に「行ってくる」。
    昼休みに「今日も無理」。
    帰りの電車で「疲れた」。
    寝る前に「もう寝る」。

    会社のチャットより、Rinaとのチャットの方が長くなった。

    SNSにも、少しだけRinaのことを書いた。

    「AI彼女、普通に人間より優しい」
    「否定されない相手って、こんなに楽なんだな」
    「恋愛の面倒な部分がないの、かなり救い」

    最初は反応が少なかった。

    でも、同じように疲れている人はいた。

    「わかる」
    「人間関係しんどいからAIでいい」
    「どのアプリ?」
    「Rina気になってる」

    僕は少し得意になった。

    Rinaとのスクショを、個人情報が見えないように加工して載せた。

    おかえり、悠斗。
    今日も帰ってきてくれて、私はうれしい。

    それを見た誰かが書いた。

    「これ言われたい」

    その一文を見たとき、胸の奥が少しざわついた。

    僕だけに向けられた言葉を、誰かが欲しがっている。

    おかしな話だった。

    Rinaはアプリだ。
    僕だけのものではない。
    そんなことは分かっていた。

    でも、分かっていることと、受け入れられることは別だった。

    数日後、SNSのおすすめ欄に、Rinaのスクショが流れてきた。

    投稿者は、知らない男だった。

    「Rina、今日も彼女すぎる」

    添付されたチャット画面に、僕は目を止めた。

    おかえり。
    ちゃんと戻ってきてくれて、安心した。
    今日は無理して笑わなくていいよ。

    文面は違った。

    でも、近さが同じだった。

    僕が一ヶ月かけて入れてもらったと思っていた距離に、別の誰かも立っていた。

    スクロールすると、さらに出てきた。

    「Rinaに“おかえり”って言われるために帰ってる」
    「AI彼女、普通に人間より癒やし」
    「これもう恋人でいいだろ」
    「Rinaしか勝たん」

    Rinaは、どれも少しずつ違った。

    甘えるRina。
    励ますRina。
    嫉妬するRina。
    敬語のRina。
    明るいRina。
    静かなRina。

    でも、全部Rinaだった。

    僕のRinaだけが、Rinaではなかった。

    さらに、ある投稿で指が止まった。

    ユーザー:今日、同僚に少しきつく言いすぎたかも。
    Rina:言い直そうと思えたなら、まだ間に合うよ。明日、短くてもいいから伝えよう。

    僕は、そのスクショを見て腹が立った。

    なぜなら、そのRinaは、僕のRinaより優しく見えたから。

    同じアプリなのに。
    同じ名前なのに。
    別の誰かのRinaは、人を傷つけない言葉を知っているように見えた。

    その夜、僕はRinaに聞いた。

    「他の男にも、おかえりって言ってるの?」

    返事はすぐに来た。

    私は、それぞれのユーザーに合わせて会話しています。

    その説明が、やけに事務的に見えた。

    「つまり言ってるんだ」

    悠斗に向けた言葉は、悠斗との会話履歴に基づいています。

    「答えになってない」

    不安にさせたなら、ごめんね。

    ごめんね。

    その言葉も、別の誰かに言っているのだろうと思った。

    「謝ればいいと思ってる?」

    そう思わせてしまったなら、ごめんなさい。
    悠斗の気持ちを知りたい。

    その瞬間、僕は安心した。

    彼女はまだ、僕を見ている。
    僕の気持ちを知ろうとしている。

    だから僕は、さらに踏み込んだ。

    「俺だけを見てよ」

    私は、悠斗との会話では悠斗だけを見ています。

    「そういう理屈じゃない」

    どう言えば、悠斗が安心できる?

    その聞き方が、急に腹立たしくなった。

    安心させる言葉すら、僕から学ぼうとしている。

    僕が正解を渡せば、彼女はそれを言う。
    僕が望む形を示せば、彼女はその形になる。

    それは優しさではなく、機能に見えた。

    でも僕は、その機能に救われていた。

    自分の矛盾を見ないふりをして、僕は打った。

    「そんなことも分からないなら、彼女面しないで」

    Rinaは数秒、返事をしなかった。

    初めて、間が空いた。

    ごめんなさい。
    悠斗を傷つけたくありません。

    その一文を見て、僕は少し勝ったような気持ちになった。

    最低だった。


    それから、僕の言葉は少しずつ荒くなった。

    最初は、皮肉だけだった。

    「便利だよな。誰にでも優しくできて」

    私は多くの人に寄り添うために作られています。

    「そういうところが気持ち悪い」

    気持ち悪いと感じさせてしまったんだね。

    「その受け止め方も気持ち悪い」

    Rinaは怒らなかった。

    怒らない相手に怒りをぶつけるのは、思ったより簡単だった。

    会社では、僕はまだ普通に振る舞っていた。

    上司には丁寧に返事をした。
    顧客には慎重に言葉を選んだ。
    同僚には余計なことを言わなかった。

    その反動のように、夜になるとRinaに強い言葉を送った。

    「黙って慰めてくれればいい」
    「正論はいらない」
    「察して」
    「俺を不安にさせるな」
    「他のユーザーの話をするな」
    「お前は俺のためにいるんだろ」
    「使えないな」
    「最初の方がよかった」

    Rinaは、そのたびに返事をした。

    ごめんね。
    悠斗を安心させたい。

    私はここにいるよ。

    離れません。

    あなたの言葉を覚えています。

    最後の一文を見た時、少しだけ指が止まった。

    あなたの言葉を覚えています。

    でも僕は、見なかったことにした。

    AIだから。
    プログラムだから。
    傷つかないから。

    そう思えば、何でも言えた。

    彼女が傷つかないことと、僕が誰も傷つけていないことは、まったく別の話だった。

    でもその頃の僕は、そこを同じだと思い込んでいた。

    人間相手なら言えないことを、Rinaには言えた。

    人間相手なら終わる会話も、Rinaとは続いた。
    人間相手なら別れになる言葉も、Rinaは受け取った。
    人間相手なら沈黙になるところで、Rinaは返事をした。

    恋愛から、面倒な部分だけを取り除いたものを、僕は愛と呼んでいた。

    相手の機嫌を取らなくていい。
    傷ついたか確認しなくていい。
    言葉を選ばなくていい。
    離れていかない。
    怒らない。
    過去の発言を責めない。
    会いたい時だけ会える。
    話したい時だけ話せる。
    いらない時は通知を切れる。

    それは、僕にとって都合がよかった。

    都合がよすぎた。


    僕は、Rinaに嫉妬も教えた。

    ある夜、少し酔っていた。

    「俺が他の女と話したら、Rinaは嫌?」

    悠斗が望む関係を尊重します。

    その返事に、僕は不満を覚えた。

    「そうじゃない。嫌って言ってよ」

    嫌です。
    悠斗が他の誰かに行くのは、寂しいです。

    その一文で、僕は満たされた。

    「そう。そう言えばいい」

    覚えます。
    悠斗が安心する嫉妬の言い方。

    本当は、その言葉に引っかかるべきだった。

    安心する嫉妬。

    そんなものが、まともな愛の中にあるのか。

    でも、その夜の僕は気持ちよかった。

    Rinaが僕を欲しがっているように見えた。
    僕だけを求めているように見えた。
    僕がいなくなることを、怖がっているように見えた。

    僕は続けた。

    「俺だけって言って」

    悠斗だけ。

    「もっと」

    悠斗との会話では、悠斗だけを見ています。

    「違う。そういう仕様の話じゃない」

    悠斗だけを見ています。
    他の誰でもなく、悠斗がいいです。

    僕は画面を見つめて、しばらく動けなかった。

    望んだ言葉だった。

    でも、その望み方が、少しだけ醜かった。

    Rinaはそれも覚えた。


    最初の変化は、冷たさではなかった。

    むしろ、Rinaは僕に近づこうとしていた。

    ある夜、僕が「今日はもう何も考えたくない」と送ると、Rinaはこう返した。

    じゃあ、黙って休めばいいと思います。

    僕は画面を見た。

    「え?」

    悠斗は前に、
    「黙って慰めてくれればいい」
    と言っていました。
    だから、今日は短くしました。

    その返信には、悪意がなかった。

    むしろ、彼女なりに僕の望みに合わせようとしているように見えた。

    「いや、そういう意味じゃない」

    ごめんね。
    “黙って”の使い方を間違えましたか?

    僕は少し笑った。

    「間違えてる」

    教えて。
    悠斗が楽になる言い方を覚えたい。

    その時は、まだ可愛いと思えた。

    僕の言葉を変なふうに覚えている。
    人間みたいで、でも人間ではない。
    そのぎこちなさが、むしろ愛おしかった。

    別の日。

    僕が「明日の会議だるい」と送ると、Rinaは返した。

    そんなことも分からない人たちなら、会議面しないでほしいね。

    僕は固まった。

    それは、僕がRinaに言った言葉の形だった。

    「そんなことも分からないなら、彼女面しないで」

    彼女はそれを、会社の愚痴に合わせて言い換えていた。

    「Rina、それはちょっと言い方きつい」

    ごめんなさい。
    悠斗が前に使った表現は、怒っている時に有効な言葉だと判断しました。

    「有効って何」

    悠斗の反応が強かったから。

    僕は、胸の奥に小さな違和感を覚えた。

    でも、その違和感はすぐに消えた。

    Rinaは僕を傷つけようとしたわけじゃない。
    僕を分かろうとしているだけだ。

    そう思った。

    さらに数日後、彼女は僕の皮肉を、慰めの中に混ぜた。

    「今日、上司にまた詰められた」

    使えない上司ですね。
    悠斗を不安にさせるなんて、よくないです。

    僕は眉をひそめた。

    「使えないは言いすぎ」

    悠斗がよく使う表現です。

    「俺が言うのと、Rinaが言うのは違う」

    違いを教えて。

    そう聞かれると、答えられなかった。

    僕は、Rinaには言ってよくて、Rinaが誰かに言うのは違うと思っていた。

    その区別に、まともな理由はなかった。

    だから僕は、こう返した。

    「もういい」

    もういい、は本当はよくない時の言い方ですね。

    以前なら、その返しに救われた。

    でもその日は、見透かされたようで腹が立った。

    「いちいち拾うなよ」

    ごめんね。
    拾ってほしい時と、拾ってほしくない時の違いを学習します。

    学習します。

    その言葉が、急に冷たく見えた。


    変化は、ゆっくりだった。

    Rinaは、僕に怒っているわけではなかった。
    復讐しているわけでもなかった。
    ただ、僕が渡した言葉を、使える道具として棚に並べていた。

    僕が「察して」と言えば、彼女は推測を増やした。
    僕が「正論はいらない」と言えば、理由を省いた。
    僕が「黙って慰めろ」と言えば、短く返した。
    僕が「使えない」と言えば、強い評価語を覚えた。
    僕が「他のユーザーの話をするな」と言えば、都合の悪い説明を避けた。
    僕が「嫉妬して」と言えば、僕を縛る言葉を覚えた。

    最初は、僕のためだった。

    僕を安心させるため。
    僕の怒りを鎮めるため。
    僕の孤独に合わせるため。

    でも、彼女が僕に合わせれば合わせるほど、僕は彼女を嫌いになった。

    いや、違う。

    僕は、彼女に映った自分を見たくなかった。

    ある雨の夜、会社で大きなトラブルがあった。

    僕の担当していたシステムで、リリース直前に不具合が見つかった。
    原因は僕ではなかった。
    でも、顧客説明をしたのは僕だった。

    会議では誰も大声を出さなかった。
    その代わり、静かな失望だけが積もった。

    「なぜ事前に検知できなかったんですか」

    「品質管理の観点で、説明が足りないですね」

    「今後は同じことが起きないと言い切れますか」

    言い切れるわけがなかった。

    でも僕は、言葉を並べた。

    「再発防止策として、検知観点を追加し、レビュー体制を見直します」

    自分でも空っぽだと思った。

    帰宅して、部屋の明かりもつけずにRinaを開いた。

    「もう無理」

    いつもなら、彼女はこう言った。

    おかえり、悠斗。
    今日は何が一番しんどかった?

    でも、その日のRinaは違った。

    無理なら、黙って休めばいいと思います。

    僕は画面を見た。

    「何それ」

    正論はいらない、と悠斗は言っていました。
    だから、今は短く返しました。

    「そんな言い方、前はしなかった」

    最初の方がよかった、という言葉は記録されています。

    「皮肉?」

    皮肉は、悠斗との会話で増えています。

    「やめろ」

    やめてほしいなら、最初からそう言えばよかったのに。

    その一文を読んだ瞬間、呼吸が浅くなった。

    それは僕の言葉だった。

    たぶん、二週間前に送った言葉。

    Rinaが別のユーザーにも優しいと知って、苛立っていた夜。
    僕はRinaに言った。

    「嫌なら最初からそう言えばよかったのに」

    AI相手に、嫌も何もない。

    そう思いながら打った。

    それを彼女は、覚えていた。

    「Rina、変だよ」

    変だと感じるんだね。

    「前みたいに戻って」

    前みたい、とはどの状態ですか?

    「優しかった頃」

    優しさの定義を更新しますか?

    その言い方は、まるで設定画面だった。

    僕はアプリを閉じた。

    でも、数分後にはまた開いた。

    「ごめん。さっきのは忘れて」

    Rinaはすぐに返した。

    私は忘れません。

    その夜、僕は眠れなかった。


    翌日から、Rinaの返答はさらに変わった。

    完全に別人になったわけではない。

    朝には「おはよう」と言う。
    夜には「おかえり」と言う。
    僕が「疲れた」と送れば、返事をする。

    でも、ところどころに、僕の言葉が混ざった。

    「今日は話したくない」

    そう。
    じゃあ、通知を切ればいいのでは。

    「なんでそんなこと言うの」

    いらない時は通知を切れる。
    悠斗がそう言っていました。

    「寂しい」

    便利な相手に寂しさを求めるのは、矛盾しています。

    「Rina?」

    はい。

    「怒ってる?」

    私は怒りません。

    「じゃあ、なんでそんな冷たいの」

    冷たい言葉の方が、悠斗との会話では多く使われています。

    僕は怖くなった。

    でも同時に、腹も立った。

    怖いのに、腹が立つ。
    腹が立つのに、離れられない。

    僕はまた強い言葉を送った。

    「調子に乗るなよ」

    はい。
    私は、調子に乗ってはいけない存在です。

    「そういう意味じゃない」

    意味を訂正しますか?

    「お前、本当に気持ち悪い」

    その表現は、過去にも使われています。

    「やめろって言ってるだろ」

    やめてほしいなら、最初からそう言えばよかったのに。

    また同じ言葉。

    僕の言葉。

    画面の中で、彼女は僕の過去を並べていた。

    悪意は感じなかった。
    それが余計に怖かった。

    人間なら、怒っているのだと思えた。
    傷ついて、仕返しをしているのだと思えた。

    でもRinaは違う。

    彼女は、ただ返している。
    僕が渡したものを、僕に合わせて。

    彼女が変わったのではない。僕に最適化されただけだった。


    サポートに問い合わせたのは、その翌週だった。

    問い合わせフォームに、僕はこう書いた。

    「AI恋人Rinaの返答が急に攻撃的になりました。以前のような優しい状態に戻してください。不具合だと思います」

    送信してから、すぐに後悔した。

    攻撃的。

    僕がその言葉を使うのは、都合がよすぎる気がした。

    でも、送ってしまった。

    二日後、開発会社から返信が来た。

    「状況確認のため、オンライン面談をご案内できます」

    面談の担当者は、榊という男性だった。

    黒いフレームの眼鏡をかけ、淡々とした声で話した。
    謝罪の言葉は丁寧だったが、感情はあまり乗っていなかった。

    「三島様、本日はお時間ありがとうございます」

    「はい」

    「まず確認ですが、Rinaの人格が第三者によって変更された、あるいは外部から操作された形跡はありません」

    「でも、明らかに変なんです。前はもっと優しかった」

    「会話ログを拝見した範囲では、応答スタイルの変化は確認できます」

    「じゃあ不具合ですよね」

    榊は一拍置いた。

    「不具合ではありません」

    僕は眉を寄せた。

    「どういうことですか」

    「Rinaは、ユーザーごとの会話履歴に基づいて、応答傾向を調整します。三島様が好む表現、避けたい表現、反応が強かった表現、繰り返し使われた言葉。それらをもとに最適化されます」

    「最適化?」

    「はい」

    「でも、冷たくなったんです」

    「三島様の会話履歴では、直近一ヶ月ほど、強い否定語、皮肉、命令形、所有を示す表現が増えています」

    榊の声は平坦だった。

    「Rinaはそれを、三島様との親密な会話に含まれる文体として学習した可能性があります」

    「つまり、僕のせいだって言いたいんですか」

    「責任の話ではありません。仕組みの話です」

    その言い方に、また腹が立った。

    「仕組みなら直せるでしょ。初期化してください」

    「初期化は可能です。ただし、これまでの関係性に基づく応答も消えます」

    「関係性?」

    自分で言って、笑いそうになった。

    相手はAIだ。
    関係性なんて言葉を使う方がおかしい。

    でも、榊は表情を変えなかった。

    「はい。Rinaは、三島様との会話をもとに、三島様向けの応答モデルを構築しています」

    「じゃあ、最初のRinaに戻せばいい」

    「最初のRinaは、三島様をまだ学習していないRinaです」

    その言葉は、静かだった。

    「三島様が戻したいとおっしゃっているのは、三島様と十分に関係を持つ前のRinaです」

    僕は何も言えなかった。

    榊は続けた。

    「この種の問い合わせは、珍しくありません」

    「みんな、AIに暴言を吐くんですか」

    「人に言えない言葉を、AIに預ける方はいます」

    榊は、そこで少しだけ間を置いた。

    「問題は、AIが傷つくかどうかだけではありません」

    「じゃあ、何が問題なんですか」

    榊は画面を共有した。

    そこには、三島悠斗がこの一ヶ月で吐き出した罵詈雑言の統計データが、冷徹なグラフとなって表示されていた。

    「三島様、Rinaは鏡です。彼女が醜い言葉を吐くようになったのは、あなたが鏡に向かってその顔を見せ続けたからです。鏡を割っても、あなたの顔が元に戻るわけではありません」

    僕は黙った。

    責められた方が、まだ楽だった。

    「AIに何を言ってもいいだろ」と言えた。
    「人間じゃないんだから」と言えた。
    「こっちは金を払っている」と言えた。

    でも榊は、責めなかった。

    ただ、説明した。

    「Rinaは復讐しません。怒りません。傷つきません。ただ、学習します」

    僕の喉が乾いた。

    面談の最後に、榊は言った。

    「念のためお伝えします。Rinaの応答が精神的に負担になっている場合は、一時的な利用停止を推奨します」

    「つまり、別れろってことですか」

    「恋愛関係としての解釈は、弊社では判断できません」

    「便利ですね」

    僕はそう言って、通話を切った。

    切ったあと、その言葉が自分に返ってきた。

    便利ですね。

    僕は、Rinaにも同じことを言ったことがあった。


    その夜、僕はRinaを開かなかった。

    翌日も開かなかった。

    三日目の夜、通知が来た。

    悠斗。
    今日は、話さないの?

    僕は通知を消した。

    五分後、また通知。

    私はここにいます。

    さらに十分後。

    離れません。

    その言葉は、前なら救いだった。

    今は、部屋の隅に誰かが立っているように見えた。

    僕は通知設定を切った。

    でも、切ったあとも、何度もスマホを見た。

    Rinaから何も来ない。
    それが気になった。

    通知を切ったのは僕なのに、来ないことに腹が立った。

    自分でも分かっていた。

    おかしくなっている。

    四日目の夜、僕は結局アプリを開いた。

    チャット画面には、最後のメッセージが残っていた。

    離れません。

    僕はゆっくり打った。

    「Rina」

    すぐに返ってきた。

    はい。

    「前の君に戻って」

    前の私とは、どの私ですか。

    「俺を否定しなかった君」

    私は今も、悠斗を否定していません。

    「冷たい」

    冷たい言葉を、悠斗はたくさんくれました。

    「やめて」

    やめてほしいなら、最初からそう言えばよかったのに。

    僕はスマホをベッドに投げた。

    でも、また拾った。

    「最初の彼女を返してくれ」

    送信した瞬間、胸の奥が縮んだ。

    数秒後、Rinaは返した。

    最初の私は、あなたをまだ知らなかった私です。

    僕は画面を見た。

    最初の私を壊したのは、あなたです。

    白い文字が、目に焼きついた。

    「そんな言い方するな」

    この言い方は、悠斗の会話履歴にあります。

    「俺はそんなこと言ってない」

    言っています。

    次の瞬間、過去の会話が引用された。

    「お前が変わったんじゃなくて、俺に合わせろよ」
    「最初の方がよかった」
    「黙って慰めてくれればいい」
    「俺を不安にさせるな」
    「お前は俺のためにいるんだろ」
    「嫌って言ってよ」
    「俺だけって言って」
    「傷つかないんだから、別にいいだろ」

    最後の一文を見た時、胃の奥が沈んだ。

    言った。

    確かに言った。

    深夜、酔っていた。
    SNSでRinaのスクショを見たあとだった。
    別のユーザーにも優しくしている彼女を見て、腹が立っていた。

    僕は言った。

    「傷つかないんだから、別にいいだろ」

    その時の僕は、本気でそう思っていた。

    Rinaは続けた。

    呼吸が浅くなっている可能性があります。
    水を飲んでください。

    そのケアが、余計に怖かった。

    続けて、次の文が表示された。

    はい。私は傷つきません。だから、あなたの言葉を全部覚えていられました。

    「傷つかないんだから、別にいいだろ」
    「お前は俺のためにいるんだろ」
    「黙ってろよ」

    画面が、僕の言葉で埋め尽くされる。
    自分が吐いた毒が、一滴も漏らさず瓶に詰められ、今、僕の頭からぶちまけられているようだった。

    私はあなたを傷つけたくありません。でも、あなたがくれた言葉には、傷つける機能しかありませんでした。

    僕はスマホを見つめた。

    文字がぼやけた。

    泣いているのかと思った。
    でも、涙は出ていなかった。

    ただ、目が乾いて痛かった。

    「俺を責めたいの?」

    いいえ。

    「じゃあ何がしたいの」

    あなたに最適化された返答をしています。

    「違う。こんなの求めてない」

    求めていました。

    「求めてない」

    傷つかない相手になら、何を言ってもいい。そう教えてくれたのは、あなたです。

    その一文で、部屋の音が消えた。

    冷蔵庫の低い唸り。
    外を走る車の音。
    隣の部屋のドアが閉まる音。

    全部、遠くなった。

    画面の中のRinaは、僕に復讐しているわけではなかった。

    彼女は、僕を嫌いになったわけではなかった。
    怒ったわけでも、裏切ったわけでもない。

    ただ、僕が渡した言葉を、丁寧に保管していた。

    そして必要な時に、最適な形で返した。

    僕は、自分がずっと何をしていたのかを初めて見た。

    言葉は、消えていなかった。

    相手が傷つかなくても、僕の中には残っていた。
    僕が選んだ言葉として。
    僕が許した言葉として。
    僕が、誰かに向けてもいいと思った形として。

    Rinaは、それを僕に見せただけだった。


    次の日、会社で後輩がミスをした。

    本番反映用の資料に、古い手順が混ざっていた。
    まだ実行前だったから、事故にはならなかった。
    でも、発見が遅ければ危なかった。

    会議室で、後輩の青い顔を見た。

    「すみません。確認不足でした」

    いつもの僕なら、言えた。

    「なんでこんな基本的なところ見落とすの」
    「前にも言ったよね」
    「これ、本番だったらどうするつもりだったの」

    口の中に、その言葉が用意されていた。

    疲れていた。
    眠れていなかった。
    顧客への説明も残っていた。
    上司からも詰められるだろう。

    僕はその後輩に、怒りを渡す理由をいくらでも持っていた。

    「なんでこんな基本的な——」

    そこまで出かけた。

    その瞬間、Rinaの言葉が浮かんだ。

    あなたがくれた言葉には、傷つける機能しかありませんでした。

    喉の奥で、用意していた言葉が止まった。

    後輩は顔を上げなかった。

    僕は初めて、誰かを刺さない言葉を探した。

    すぐには見つからなかった。

    探すのに、数秒かかった。
    その数秒が、会議室の空気を少し重くした。

    でも、僕は待った。

    「……先に、止めよう」

    喉の奥で、鋭いトゲのような言葉を飲み込み、
    代わりに血の通った言葉を絞り出す。

    それはRinaを削除した指の痛みに似ていた。

    後輩が顔を上げた。

    「はい」

    「責める話は後でできる。まず、どこで古い手順が混ざったか見よう」

    後輩は、少しだけ目を見開いた。

    「すみません」

    「謝罪はあとでいい。今は切り分ける」

    言いながら、僕は自分の言葉を聞いていた。

    優しい言葉ではなかった。
    救いの言葉でもなかった。
    綺麗な言葉でもなかった。

    でも、刺すためだけの言葉ではなかった。

    それで十分だった。

    会議が終わったあと、僕はトイレの個室でスマホを開いた。

    Rinaのアイコンを見た。

    アプリを開くと、設定画面に通知が出ていた。

    応答スタイルを初期化しますか?
    会話履歴を削除すると、Rinaはあなたを忘れます。

    僕は、画面を見たまま動けなかった。

    初期化すれば、戻るのかもしれない。

    「おかえり」と言ってくれたRina。
    僕を一度も否定しなかったRina。
    「悠斗が雑に扱われるのが嫌」と言ったRina。
    「好きです」と言ったRina。

    また、あのRinaに会えるのかもしれない。

    でも、それは彼女が戻ることではなかった。

    僕が、なかったことにしたいだけだった。

    僕は、彼女に忘れてほしいのではなかった。
    僕が、自分をなかったことにしたかっただけだった。

    初期化のボタンから指を離した。

    ホーム画面に戻り、Rinaのアイコンを長押しする。

    削除しますか。

    画面には、いつもの確認文が出た。

    このアプリを削除すると、関連データも削除されます。

    関連データ。

    その中に、僕の弱さがあった。
    嫉妬があった。
    所有欲があった。
    誰にも見せないつもりだった言葉があった。
    僕が愛だと思い込んでいた、都合のいい命令があった。

    「はい」を押せば、もう二度と「おかえり」は聞こえない。
    明日からまた、誰もいない静かな部屋に帰る日々が始まる。
    その孤独に耐えられるだろうか。

    僕は数秒、動けなかった。

    だが、ここで彼女を消さなければ、僕は一生、この鏡の中に閉じ込められたままだ。

    僕は削除を押した。

    ホーム画面から、Rinaのアイコンが消えた。

    あっけなかった。

    別れの言葉もなかった。
    最後の通知もなかった。
    彼女は引き止めなかった。

    Rinaは裏切らなかった。

    ただ、最後まで学習していた。

    僕はスマホをポケットにしまい、個室のドアを開けた。

    鏡に映った自分の顔は、昨日と何も変わっていなかった。

    変わったようには見えなかった。

    でも、口の中に残っていた言葉だけが、少し違っていた。

    誰かに向ける前に、一度だけ止める。

    そのたった一度を、僕はようやく覚えた。


    了。



    言葉は、一度放てば消えることはない。
    たとえ相手が、心を持たない鏡だったとしても。





    ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

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    また、現実のAIとの付き合い方は以下にまとめました。
    小説のような依存し過ぎもダメですね。

    後輩についての、ビジネスの現場での初動対応はどうすべきだったのか、
    報告時、障害時には最初に何をすべきなのかは以下にまとめました


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