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『雨が来る 第四章 後編――「ただいま。」――』


    第四章 後編
    『おかえり』


    高橋《たかはし》は。

    動けなかった。

    目の前の暗闇を。

    ただ。

    見つめていた。

    ⸻

    白い目。

    瞳のない。

    白い目。

    ⸻

    それは。

    確かに。

    笑っていた。

    ⸻

    パチ。

    ⸻

    音がした。

    ⸻

    高橋《たかはし》は。

    そこで初めて。

    気づいた。

    ⸻

    その音は。

    雨の音ではなかった。

    ⸻

    笑い声だった。

    ⸻

    パチ。

    ⸻

    パチ。

    ⸻

    パチ……?

    ⸻

    目が。

    笑っている。

    雨が。

    笑っている。

    304号室が。

    笑っている。

    ⸻

    高橋《たかはし》は。

    叫ぼうとした。

    逃げようとした。

    だが。

    体が動かなかった。

    ⸻

    その瞬間。

    ⸻

    暗闇の奥から。

    誰かが。

    手を伸ばした。

    ⸻

    白い手。

    ⸻

    細い。

    濡れた手。

    ⸻

    その指先が。

    高橋《たかはし》の頬に。

    触れた。

    ⸻

    冷たかった。

    ⸻

    なのに。

    なぜか。

    懐かしかった。

    ⸻

    「……寒かったね」

    ⸻

    声がした。

    ⸻

    高橋《たかはし》は。

    泣いていた。

    ⸻

    なぜ。

    泣いているのか。

    分からなかった。

    ⸻

    怖かった。

    ⸻

    怖い。

    ⸻

    怖いはずなのに。

    ⸻

    その声を。

    ずっと。

    待っていた気がした。

    ⸻

    「……どうして」

    ⸻

    高橋《たかはし》は。

    掠《かす》れた声で言った。

    ⸻

    「どうして……俺なんだよ」

    ⸻

    返事は。

    すぐには来なかった。

    ⸻

    代わりに。

    ⸻

    パチ……。

    ⸻

    雨が鳴った。

    ⸻

    パチ……。

    ⸻

    もう一度。

    ⸻

    パチ……?

    ⸻

    三度目の音だけが。

    少しだけ。

    優しかった。

    ⸻

    そして。

    声がした。

    ⸻

    今度は。

    一つではなかった。

    ⸻

    後ろから。

    足元から。

    壁の向こうから。

    雨の中から。

    ⸻

    無数の声が。

    囁《ささや》いた。

    ⸻

    「寒かったね」

    ⸻

    「寂しかったね」

    ⸻

    「苦しかったね」

    ⸻

    「怖かったね」

    ⸻

    「ひとりだったね」

    ⸻

    高橋《たかはし》は。

    首を横に振った。

    ⸻

    違う。

    ⸻

    違う。

    ⸻

    自分は。

    ひとりなんかじゃなかった。

    ⸻

    家族がいた。

    友達がいた。

    ⸻

    でも。

    その顔が。

    思い出せない。

    ⸻

    「大丈夫」

    ⸻

    声が言った。

    ⸻

    「もう。

    思い出さなくていい」


    ⸻

    その言葉が。

    何よりも。

    恐ろしかった。

    ⸻

    忘れたくない。

    ⸻

    忘れてはいけない。

    ⸻

    そう思った。

    ⸻

    だが。

    同時に。

    どこかで。

    安心している自分がいた。

    ⸻

    部屋の床に。

    黒い水が広がった。

    ⸻

    どこから。

    溢れているのか。

    分からない。

    ⸻

    ただ。

    気づけば。

    高橋《たかはし》の足は。

    その中に沈んでいた。

    ⸻

    黒い水が。

    ゆっくりと。

    高橋《たかはし》の胸を包んだ。

    ⸻

    心臓の鼓動が。

    遠くなった。

    ⸻

    肩に触れた。

    ⸻

    まるで。

    誰かに。

    抱きしめられているようだった。

    ⸻

    優しく。

    ⸻

    あまりにも優しく。

    ⸻

    息ができないほどに。

    ⸻

    そして。

    冷たい水が。

    喉元まで辿り着いた。

    ⸻

    高橋《たかはし》は。

    初めて。

    自分が。

    もう二度と。

    戻れないことを知った。

    ⸻

    「……助けて」

    ⸻

    初めて。

    本音が漏れた。

    ⸻

    返事は。

    すぐに返ってきた。

    ⸻

    「大丈夫」

    ⸻

    あまりにも。

    優しい声だった。

    ⸻

    その瞬間。

    高橋《たかはし》は。

    理解した。

    ⸻

    誰も。

    助けには来ない。

    ⸻

    なぜなら。

    自分は。

    助けを求めているのではなかった。

    ⸻

    帰りたかったのだ。

    ⸻

    ずっと。

    誰にも言えないまま。

    ⸻

    どこかへ。

    帰りたかったのだ。

    ⸻

    骨が鳴った。

    ⸻

    ミシ。

    ⸻

    一度。

    ほんの小さく。

    ⸻

    高橋《たかはし》は。

    何の音か分からなかった。

    ⸻

    次の瞬間。

    自分の右腕が。

    肘とは逆方向に。

    折れ曲がっていた。

    ⸻

    ミシ。

    ⸻

    ミシ。

    ⸻

    ミシ。

    ⸻

    骨は。

    折れているのではなかった。

    ⸻

    動いていた。

    ⸻

    皮膚の下で。

    生き物のように。

    骨が。

    ゆっくりと。

    位置を変えていく。

    ⸻

    「あ……」

    ⸻

    声を出そうとした。

    ⸻

    だが。

    喉の奥から出てきたのは。

    悲鳴ではなかった。

    ⸻

    濡れた呼吸音だった。

    ⸻

    ブチ。

    ⸻

    今度は。

    肩の奥で。

    何かが切れた。

    ⸻

    激痛。

    ⸻

    という言葉では。

    足りなかった。

    ⸻

    体の内側に。

    もう一つの体があり。

    それを。

    無理やり。

    引きずり出されているようだった。

    ⸻

    ブチ。

    ⸻

    ブチ。

    ⸻

    ブチ。

    ⸻

    見えない場所で。

    筋肉が裂けた。

    神経が引き剥がされた。

    骨が。

    きしみながら。

    本来あるべき場所を捨てていく。

    ⸻

    高橋《たかはし》は。

    絶叫した。

    ⸻

    絶叫したはずだった。

    ⸻

    だが。

    自分の耳に聞こえたのは。

    悲鳴ではなかった。

    ⸻

    パチ。

    ⸻

    雨の音だった。

    ⸻

    痛い。

    ⸻

    痛い。

    ⸻

    痛い。

    ⸻

    助けてくれ。

    ⸻

    誰か。

    助けてくれ。

    ⸻

    その時だった。

    ⸻

    頬に。

    冷たい手が触れた。

    ⸻

    「大丈夫」

    ⸻

    あまりにも。

    優しい声だった。

    ⸻

    「怖かったね」

    ⸻

    また。

    一つ。

    手が増えた。

    ⸻

    「寒かったね」

    ⸻

    もう一つ。

    背中を撫でる手。

    ⸻

    「もう。

    ひとりじゃないよ」


    ⸻

    高橋《たかはし》は。

    そこで。

    初めて。

    気づいた。

    ⸻

    自分は。

    この痛みから。

    救われたいのではなかった。

    ⸻

    誰かに。

    優しくしてほしかったのだ。

    ⸻

    そして。

    そのことが。

    この世の何よりも。

    恐ろしかった。

    ⸻

    無数の手が。

    高橋《たかはし》を包んだ。

    ⸻

    頬を撫でた。

    髪を梳《す》いた。

    背中をさすった。

    ⸻

    折れ曲がった腕さえ。

    優しく。

    優しく。

    抱きしめた。

    ⸻

    「もう大丈夫」

    ⸻

    「帰ろう」

    ⸻

    「寒かったね」

    ⸻

    「ひとりで頑張ったね」

    ⸻

    「よく帰ってきたね」

    ⸻

    高橋《たかはし》は。

    泣いていた。

    ⸻

    痛かった。

    ⸻

    苦しかった。

    ⸻

    怖かった。

    ⸻

    それなのに。

    初めて。

    誰かに。

    許された気がした。

    ⸻

    最後に見えたのは。

    ドアポストの隙間だった。

    ⸻

    その暗闇の向こう。

    二つの白い目が。

    じっと。

    高橋《たかはし》を見つめていた。

    ⸻

    その目は。

    恐ろしく。

    ⸻

    そして。

    あまりにも。

    優しかった。

    ⸻

    「おかえり」

    ⸻

    高橋《たかはし》は。

    そこで。

    初めて。

    気づいた。

    ⸻

    自分は。

    連れて行かれるのではない。

    ⸻

    帰るのだ。

    ⸻

    そして。

    そのことが。

    この世の何よりも。

    恐ろしかった。

    ⸻

    パチ。

    ⸻

    パチ。

    ⸻

    パチ……?

    ⸻

    翌朝。

    304号室のドアは。

    開いていた。

    ⸻

    部屋の中には。

    誰もいなかった。

    ⸻

    家具も。

    服も。

    財布も。

    スマートフォンも。

    すべて残されていた。

    ⸻

    ただ。

    高橋《たかはし》だけが。

    いなくなっていた。

    ⸻

    十年後。

    ⸻

    深夜一時四十三分。

    地方都市の小さな管理会社に。

    一本の電話がかかってきた。

    ⸻

    「……すみません」

    ⸻

    若い男の声だった。

    ⸻

    「304号室なんですけど」

    ⸻

    当直の社員。

    佐々木《ささき》は。

    パソコンを開いた。

    ⸻

    そして。

    凍りついた。

    ⸻

    そのアパートは。

    十年前に。

    取り壊されていた。

    ⸻

    「申し訳ありません」

    ⸻

    佐々木は言った。

    ⸻

    「その建物は。

    十年前に。

    なくなっています」

    ⸻

    沈黙。

    ⸻

    パチ。

    ⸻

    電話の向こうで。

    雨が鳴った。

    ⸻

    「……え?」

    ⸻

    男は。

    小さく言った。

    ⸻

    「でも」

    ⸻

    「今」

    ⸻

    「俺」

    ⸻

    「304号室の前にいるんです」

    ⸻

    佐々木の背中を。

    冷たいものが走った。

    ⸻

    「ポストがある」

    ⸻

    「濡れてる」

    ⸻

    「誰かいる」

    ⸻

    「中に」

    ⸻

    そして。

    金属の擦れる音がした。

    ⸻

    キィ……。

    ⸻

    ポストの蓋が。

    開く音だった。

    ⸻

    「やめろ!」

    ⸻

    佐々木は。

    叫んだ。

    ⸻

    だが。

    遅かった。

    ⸻

    「……見えた」

    ⸻

    パチ。

    ⸻

    「白い」

    ⸻

    パチ。

    ⸻

    「目が」

    ⸻

    そして。

    男は。

    泣きながら。

    笑った。

    ⸻

    「ああ」

    ⸻

    「そっか」

    ⸻

    「俺」

    ⸻

    「帰ってきたんだ」

    ⸻

    その瞬間。

    受話器の向こうで。

    無数の声がした。

    ⸻

    「おかえり」

    ⸻

    「寒かったね」

    ⸻

    「怖かったね」

    ⸻

    「ずっと」

    ⸻

    「待ってたよ」

    ⸻

    通話は。

    そこで切れた。

    ⸻

    翌朝。

    佐々木は。

    その跡地へ向かった。

    ⸻

    そこには。

    何もなかった。

    ⸻

    ただ。

    更地の真ん中に。

    濡れた白い封筒が。

    二枚。

    並んでいた。

    ⸻

    一枚には。

    こう書かれていた。

    ⸻

    「おかえり」

    ⸻

    もう一枚には。

    まだ。

    名前が書かれていなかった。

    ⸻

    雨は。

    止んでいた。

    ⸻

    けれど。

    誰かが。

    もうすぐ。

    帰ってくるのだと。

    なぜか。

    分かった。

    ⸻

    パチ。

    ⸻

    パチ。

    ⸻

    パチ……?

    ⸻

    雨は。

    降っていなかった。

    ⸻

    それでも。

    その音だけは。

    いつまでも。

    聞こえていた。

    ⸻

    あの町では。

    ⸻

    今日も。

    ⸻

    誰かが。

    ⸻

    優しく。

    ⸻

    帰されている。

    ― 雨が来る 完 ―

     
     

    issei

     
     
    私は、ただ怖い話が好きなのではありません。 人が心から恐怖を感じる瞬間が好きなのです。 孤独、後悔、愛情、執着、罪悪、安心、絶望。 心が大きく揺れ動く瞬間に惹かれます。 読み終えた後も、小さな違和感や気持ちがが残り続ける物語を目指しています。

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