
『火曜日の二時間』連作短編
毎週火曜日。
京子は家を出る。
三つ目の駅で降り、茶色い鉄のドアを開ける。
部屋には男がいる。
麦茶を飲み、スマートフォンの音を聞き、二時間が過ぎる。
ただそれだけの火曜日が繰り返される。
全24章。
「#創作大賞2026」「#オールカテゴリ部門」
第一章
火曜日だった。
京子は午後一時に家を出た。
駅前のロータリーには、平日の昼下がりの気怠い空気が溜まっていた。タクシーの列が動かずに並んでいる。
京子は自動券売機で切符を買い、改札を抜けた。
ホームへ上がると、ちょうど各駅停車の電車が滑り込んできた。車内は空いていて、吊り革が小さく揺れていた。
京子は端の席に座り、窓の外を流れる灰色のビル群を眺めた。
第二章
三つ目の駅で降りた。
改札を出て、駅前の古い商店街を歩く。シャッターの閉まった化粧品店の前を通り過ぎ、路地を曲がった。
住宅街の細い道に入る。
角にある自動販売機の赤い光が、昼の光の中で薄く浮いていた。
京子はバッグの底から鍵の束を取り出した。金属が触れ合う小さな音が、静かな路地に響いた。
茶色い鉄のドアの前に立ち、鍵を差し込んだ。
第三章
ドアを開けると、部屋の中は少しひんやりとしていた。
工はベッドの上で横になり、スマートフォンを見ていた。画面の青白い光が、彼の顔を微かに照らしている。
「あ、来たんだ」
工が言った。
「うん」
京子はドアを閉め、鍵をかけた。カチャリと音がした。
玄関の隅には、中身の入っていない段ボール箱が一つ置かれていた。
第四章
京子は台所へ行き、冷蔵庫を開けた。
中には、二リットルの麦茶のペットボトルが一本だけ入っていた。
京子はそれを取り出し、ガラスコップに注いだ。トクトクと音がして、茶色の液体がコップを満たしていく。
一口飲み、コップをテーブルに置いた。
工はまだスマートフォンを見ている。指先が画面をスクロールする摩擦音だけが、部屋に響いていた。
第五章
「それ、冷えてる?」
工が画面から目を離さずに聞いた。
「うん、冷えてるよ」
京子はソファに座った。古い合成皮革の座面が、沈み込むときにギュッと音を立てた。
壁のカレンダーは、先月のままになっていた。赤いマジックで、いくつかの数字に丸がつけられている。
京子は自分の膝を見つめた。
第六章
窓の外を、バイクが通り過ぎる音が聞こえた。音は次第に遠ざかり、また元の静けさに戻った。
工が寝返りを打った。ベッドのシーツが擦れる音がした。
「お腹すいたな」
「何か買ってくる?」
「いや、いい」
工はまた画面に目を落とした。
京子はコップに残った麦茶を飲み干した。
第七章
午後三時になった。
京子は立ち上がり、バッグを持った。
「もう行くの?」
工が聞いた。
「うん、結菜が帰ってくるから」
「そっか」
京子はドアの鍵を開け、外に出た。
振り返ると、工はすでに画面に目を戻していた。
茶色い鉄のドアを閉めると、重い金属音が路地に響いた。
第八章
帰りも同じ各駅停車の電車に乗った。
車内は少し混み始めていた。高校生のグループが、低い声で笑い合っている。
京子は吊り革を掴み、電車の揺れに身を任せた。
窓に映る自分の顔は、何も考えていないように見えた。
駅に着き、スーパーに寄った。夕食の買い出しの主婦たちで、店内は活気があった。
第九章
「ただいま」
家に入ると、すでに結菜がリビングで宿題をしていた。
「おかえり、ママ。どこ行ってたの?」
「ちょっとお買い物」
京子は買い物袋を台所に置いた。
真治はまだ帰っていない。
京子はエプロンをつけ、夕食の準備を始めた。包丁がまな板を叩く規則的な音が、静かな台所に響いた。
第十章
夕食の席で、真治が口を開いた。
「今度の週末、出張が入った」
「そうですか。何曜日ですか」
「土曜の朝から日曜の夜まで」
「わかりました。準備しておきます」
結菜はテレビのアニメに夢中になっていた。
京子は自分の箸を見つめながら、ゆっくりとご飯を口に運んだ。
第十一章
次の火曜日も同じだった。
京子は午後一時に家を出て、三つ目の駅で降り、路地を曲がった。
茶色い鉄のドアを開けると、工は先週と同じ姿勢でベッドにいた。
「あ、来た」
「うん」
玄関の隅の段ボール箱は、二つに増えていた。
第十二章
京子はスプーンで、結菜の弁当箱の隙間にポテトサラダを詰めた。パセリの粉が、白いマヨネーズの上に少しだけ散った。
蓋を押し込み、パチンと左右のロックを留める。
真治は洗面所で髭を剃っていた。ウィーンという細かな振動音が、廊下を伝って食卓まで届いている。
「ママ、ハンカチ忘れた」
リビングから結菜の声がした。
「引き出しの二段目にあるよ。ピンクのやつ」
京子は台拭きを四角く畳み、テーブルの上の水滴を拭った。
第十三章
京子は冷蔵庫を開けた。
麦茶のペットボトルは二本とも手つかずのまま、冷えていた。
京子は一本を取り出し、キャップをひねった。バリバリとプラスチックのリングがちぎれる音がした。
ガラスコップに注ぐ。
トクトクと音がして、白い泡が表面に浮かび、すぐに消えた。
「それ、昨日買ったやつ」
工が画面を見たまま言った。
「そう」
京子は麦茶を飲んだ。
テーブルの上には、丸まったレシートがあった。端の乾いた部分は少し茶色く変色して、木目に張り付いている。
工の足首が、ソファの端から床へ垂れ下がっていた。
第十四章
「雨、降ってきたね」
結菜が車の窓に額を押し当てながら言った。
「そうだね」
真治がワイパーの速度を一つ上げた。キュ、キュとゴムがフロントガラスを擦る。
京子は助手席で、自分のハンドバッグの金具に指先を触れていた。金メッキが、曇り空の光を鈍く反射している。
「お腹すいた」
「夜ご飯、何がいい?」真治が聞いた。
「オムライス」
「じゃあ、卵買っていかないとね」
京子はカバンの中からリップクリームを取り出し、キャップを開けた。
唇に二度滑らせ、すぐに引っ込める。
真治は前を見たまま、アクセルを少し踏み込んだ。
第十五章
ゲームの音が止まっていた。
工が寝返りを打った。スマートフォンが床に落ちた。
工は起きなかった。
京子はソファに座ったまま、その画面を見つめていた。画面はしばらくして暗くなり、部屋の明かりだけを反射した。
外で車のクラクションが一度だけ鳴った。誰もそれに反応しなかった。
第十六章
台所のシンクには、小さな水滴が残っていた。
京子はそれを指先で拭い、ズボンで手を拭いた。
工の部屋の換気扇が、低い音を立てて回り続けている。
「ねえ」
工が言ったが、続きはなかった。
京子は何も言わずに、カバンの中の財布の位置を確かめた。
第十七章
「麦茶、ない」
工が言った。
「そう」
京子は立ち上がらなかった。
窓の隙間から、細い風が入ってきて、カーテンの端をわずかに揺らした。
それだけだった。
第十八章
カレンダーを破った。
数字が書かれた紙が、ゴミ箱の底に落ちた。
京子はそれを見ずに、台所へ向かった。
第十九章
茶色い鉄のドアを開けると、部屋の中は少しだけ油の匂いがしていた。
工は床に座り、コンビニの透明なパックから焼きそばをプラスチックのフォークで食べていた。
「食べる?」
工が容器を少しだけこちらに傾けて言った。口の端に、茶色いソースが薄くついている。
「ううん、いらない」
京子は台所へ行き、冷蔵庫を開けた。ペットボトルの水が一本、奥の方に立っている。
それをコップに注がず、ボトルのまま口をつけた。冷たい水が喉を通る間、工がフォークでパックの底をこするガサガサという音が聞こえていた。
玄関の隅に、段ボールが重なっていた。どれもテープが剥がされ、潰されずに置かれている。
京子はソファの端に座った。
工は空になった容器をテーブルの隅に押しやり、またスマートフォンを手にした。
窓の外で、遠くの踏切の警報機が鳴り始め、しばらくして消えた。
第二十章
西日がリビングの床に細長く差し込み、フローリングの埃が白く光って浮いていた。
京子はアイロンのコードをコンセントに差し込んだ。しばらくすると、熱を帯びたスチームの匂いが部屋に広がり始める。
真治のカッターシャツの襟に、アイロンの先端を滑らせる。
生地が伸びるたびに、シュー、と小さな音がした。
「ママ、これ見て」
結菜が学校から持ち帰ったプリントをテーブルに置いた。裏面に、大きく丸が描かれたひらがなの練習の跡がある。
「上手だね」
京子は手を止めずに言った。
シャツのボタンを避けながら、丁寧にアイロンの先を動かす。
カレンダーの文字が、西日の中でかすれて見えた。
洗面台へ行き、手を洗う。
鏡の横に置かれたリップクリームのキャップを外した。
ダイヤルを回した。
何も出てこなかった。
キャップを閉めた。
第二十一章
茶色い鉄のドアを開けると、換気扇の回る音が低く響いていた。
工はベッドの上に仰向けになっていた。スマートフォンは枕元に置かれている。
「今日、暑い」
工が言った。
「そうだね」
京子は台所へ行き、冷蔵庫を開けた。
ドアポケットの隅に、透明なラップに包まれた生姜の切れ端があった。
冷蔵庫のドアを閉めると、マグネットで留められた水道修理のチラシが少しだけずれた。
京子はソファに座った。
工は寝返りを打ち、壁の方を向いた。背中のTシャツのあちこちに、小さな毛玉がついている。
窓の外を、選挙カーの拡声器の声が遠く通り過ぎていった。名前は聞き取れなかった。
第二十二章
結菜が、リビングの床に色鉛筆をばらまいていた。
赤、青、緑。
一本だけ、芯が折れた黄色い色鉛筆が、テレビ台の隙間に転がっていた。
京子は掃除機のノズルを隙間に差し込んだ。ゴトゴトとプラスチックが当たる音がして、それからカチッと、芯の破片が吸い込まれる高い音がした。
真治はソファで、タブレットの画面を指でスクロールしていた。
「週末、実家から荷物が届くって」
「わかりました。何時頃ですか」
「午前中だと思う」
京子は掃除機のスイッチを切った。急に静かになった部屋で、コードが自動で巻き取られるシャーーッという音が鋭く響いた。
洗面所へ行き、手を洗った。
京子は手を拭いた。
鏡の横の棚に、キャップの閉まったリップクリームがそのまま置かれていた。
第二十三章
茶色い鉄のドアを開けると、部屋の中は少し暗かった。遮光カーテンが半分だけ閉められている。
工はソファに座り、スマートフォンの画面を指で叩いていた。トントンと、爪がガラスに当たる音が規則的に聞こえる。
「そっち、雨降ってた?」
工が画面を見たまま聞いた。
「降ってないよ。曇ってるだけ」
京子は台所へ行き、冷蔵庫を開けた。
二リットルのペットボトルが一本、ドアポケットに入っていた。
京子はそれを取り出し、ガラスコップに注いだ。
飲んだ。
空になったコップをシンクに置いた。カン、と軽い音がした。
玄関の隅には、段ボールがそのまま置かれていた。
京子はソファに座った。
工の親指が画面を弾いた。
窓の向こうで、カラスが二回鳴いた。
第二十四章
京子は結菜の弁当箱の蓋を閉めた。袋に入れ、マジックテープを留める。
リュックのファスナーを閉めた。
洗濯物を干した。
ベランダのコンクリートは、白く乾いていた。
昼になった。
洗面所へ行き、手を洗った。
玄関へ向かった。
棚の上の鍵の束を持った。
そのまま台所へ戻り、冷蔵庫を開けた。
ペットボトルを取り出し、ガラスコップに注いだ。
飲んだ。
空になったコップをシンクに置いた。コン、と軽い音がした。
窓の外を、救急車が通り過ぎていった。
京子はリビングのソファに座った。
スマートフォンの画面が、一度だけ白く光った。
(了)