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家出をした認知症の妻を追いかけたら、涙が止まらなかった話。


    新婚生活を始めて、一年。想像と全く違った。
    「おはよう!今夜はね、ローストビーフを……」
    「あーごめん、晩飯いらないや」
    「そっか……わかった。今日も遅くなるかな?」
    「そーね。飲み会あるから帰って来ない」





    妻が子供を産めない身体と知ってから、夫婦仲は悪くなっていった。妻より仕事を優先した。
    平日は仕事に行き、休日はパチンコかゴルフ。
    だから、妻は、ずっと家で一人だった。
    ずっと、孤独にしてしまった。





    長い年月が経ち、俺が定年退職する頃、
    妻は認知症になっていた。
    「あなた誰ですか」
    「俺だよ。佐野カズマ。あなたの夫」
    「何言ってるの?カズマさんはお仕事で家にはいません」





    「ご飯にしよう。今日は魚の煮付けだよ」
    「いい加減にしてください。人様の家に勝手に上がり込んで」
    「いただきます。ほら、冷めちゃうよ?」
    「もう、帰ってください!」



    甲高い声と同時に、茶碗が落ち、皿が砕ける。
静寂のあと、テレビから流れる他人の笑い声
    だけが、やけに鮮明だった。
    足裏に、割れた陶器の破片が刺さった。
血が滲んだが、痛みはほとんど感じなかった。




    「明日、二人で施設に行こうか」
    「何を言ってるの。ここは、私の家です」
    「俺、もう寝るね。おやすみ」
    「あなたなんて知りません」
    妻が言い切らないうちに、
    ドアを強く閉めて自分の部屋へ逃げ込んだ。



    布団の中で、天井を見つめながら、これからのことを考えた。妻がこうなったのは、全部、
    俺のせいだ。彼女の人生を、少しずつ歪ませてしまった。だから、今度は俺が支えたい……。
けど、もう、限界だった。布団の中で、罪悪感だけが重く、静かに、体を押し潰していた。





    俺は、妻の部屋のドアを音を立てずに開けた。
    「サクラ……?」
    返事はない。布団は冷たく、気配がない。
    「サクラ。おい、サクラ……冗談だろ」
    喉の奥が、ひりつく。嫌な予感が胸を満たす。
    玄関へ向かうと、ドアは半分、開いていた。



    考える前に体が動いた。俺は外へ飛び出した。
頬を切り裂くような冷たい風が、前へ進む足を拒む。「サクラ!」声が、闇に吸い込まれる。
「サクラー!」もう、これでお別れだったら……
    嫌な想像ばかり膨らみ、足に力が入る。





    駅前の商店街に、見慣れた背中があった。
蛍光灯の白い光の下を、目的もなく歩き回っている。「サクラ……よかった……」
俺は駆け寄り、彼女の腕を掴んだ。
    「ほら、帰ろう」
「手を離してください」






    「何言ってるの。ほら、早く」
    「今日は、1月7日。急いでお花を買わないと……
    カズマさんが帰ってきてしまいます」
    「え…?」
    「カズマさんが帰ってくる前にお花を買って、ローストビーフを作るの。一年記念日に作ったローストビーフ、カズマさんがね、とっても
    褒めてくれたんですよ」





    俺は、今まで、なんで気が付かなかったんだ。
妻が、どれだけ俺を待ち、どれだけ願い、
    どれだけ準備をしていたのか。俺は知ろうとしなかった。向き合おうとしなかった。
今日、1月7日は、俺たちの結婚記念日だった。




    俺は、何度その日に帰宅しただろう。
何度、彼女に「愛している」と伝えただろう。
    妻は毎年、こうして花を選び、料理を作り、
俺の帰りを待っていたのに。
    「カズマさん…今日は帰ってくるかな」



    込み上げてきていたものが、一気に溢れ出した。嗚咽と共に、涙が止まらない。
    「ごめんなさい…ごめん。今日は必ず帰るから。
    これからも、ずっと二人一緒だから」
    歩き出すと、二人の影が、街灯の下で重なり、
    やがて一つになって、夜の奥へ溶けていった。

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