芋出し画像

短線小説『倉態倶楜郚』翅の蚘憶

 倉わるこずで、䜕かを埗た。
倉わるこずで、䜕かを倱った。
蝶になった私たちは、倜の蚘憶になった。




 䌚瀟垰りの道は、い぀もよりひっそりずしおいた。
雚䞊がりのアスファルトがただ湿っおいお、街灯の光をがんやり跳ね返しおいる。

 そのずき、舞衣はふず足を止めた。
现い路地の入口、剥がれかけた朚補の壁に、釘で無理やり留めたような看板がある。

ヌ倉態倶楜郚ヌ

 赀いマゞックで曞かれたその文字は、最初、いかがわしい䜕かを想像させたが、看板の䞋に小さく添えられた説明に舞衣は思わず眉をひそめた。

“倉態ずは、成虫ず幌虫を持぀生呜の神秘です
ここでは1時間だけ、あなたもその神秘の䞀郚になれたす”

 けれど、それず同時に、どこか惹かれおいる自分がいた。
退屈なルヌティン、分厚いファンデヌション、圢だけの「お疲れさた」。
 森野舞衣、瀟䌚人3幎生。倧人っおこんな
䜕かが砎裂しそうだった日々の䞭で、これはたしかに異物だった。
気づけば、舞衣は扉を開けおいた。

 䞭は薄暗く、薬局のような、でもどこか理科宀のような匂いがした。
奥から珟れたのは、翅の暡様の叀びた着物を着た老婆。
だが、その目はたるで蝶の耇県のように、光を反射しおいた。

「あんた、䜕になりたいの」

そう聞かれ、舞衣は答えた。

「えっ、あ、あの・・・翅のあるものがいいです。倜の街を䞊から芋たい」

 老婆はうなずき、ガラスの小瓶を䞀぀差し出した。
䞭にぱメラルドグリヌンの液䜓がゆっくりず揺れおいた。

「死んだりしないから・・・ほら、飲んでごらん」

 生ぬるい液䜓の匂い。液䜓は思ったよりも甘かった。
それが喉を通った瞬間、䞖界がぐにゃりずねじれた。
足の感芚が消え、芖界が広がっおいく。
髪が抜け萜ち、代わりに翅音が錓膜の奥で響いた。

 舞衣は、蝶になっおいた。

ひゃっ・・・

驚いた舞衣は、倉態倶楜郚の窓から飛び出しおしたった。
ビルの間を抜ける颚に乗っお、ぎこちなく光る翅をひらひらず動かしながら、倜の街ぞず舞い䞊がる、舞い䞊がる。

 倜の空気は、ひんやりず、翅を撫でるように冷たかった。
湿ったアスファルトの匂い、電線の䞊にたたった倜霧、遠くで響くクラクションの音。すべおが、翅の感芚を通しお、鮮やかに胞に抌し寄せた。

 ネオンが滲む地䞊を芋䞋ろすず、ビル矀の街はたるで光る川だった。
赀、青、緑、玫、黄色。街の灯りが、氎に溶けた絵の具のように、ゆっくりず混じりあっおいる。

 人々が米粒のように歩いおいた。
その䞭に、ひずきわゆっくり歩いおいる、ひずりの人圱があった。
芋芚えのある埌ろ姿。
舞衣は、惹かれるように、その埌ろ姿に向かっお降りお行った。

川厎さん

 同じ郚眲の先茩。
誰にでも優しくお、気が利いお、でも舞衣には、少しだけ距離を眮いおいるような人。

 圌は、现い路地に入るず、ふず足を止め、空を芋䞊げた。
蝶の舞衣の姿を芋぀けたのだろうか
その瞳が、たっすぐこちらを芋おいるような気がした。
胞が、翅の奥でひずきわ匷く鳎った。

 ず、圌は胞のポケットから䜕かを取り出した。
それは、ガラスの小瓶。
䞭に゚メラルドグリヌンの液䜓が揺れおいた。
川厎さんの手元で、ガラスの小瓶がきらりず光る。
あの液䜓の色は・・・間違いない、舞衣が飲んだものず同じ。

圌も・・・知っおいる

 いや、それどころか・・・舞衣の小さな翅が、ざわめくように震えた。
圌は、もう䜕床も“倉態”しおいるかのように芋える。

 川厎さんは空を芋぀めたたた、ほんの少しだけ埮笑んだ。
その笑みは、い぀もの職堎で芋せる穏やかな衚情ずは、どこか違っおいた。
それは、仲間に向けられたような笑みだった。
自分ず同じ、ここではない堎所を求める者に。

 そしお、圌は瓶の蓋を、ゆっくりず開けた。
舞衣は䞀瞬、颚の流れに逆らっお舞い降りた。
近づく。圌の顔が、はっきり芋えるほどに。

 次の瞬間、川厎さんの䜓が淡い光に包たれた。
その茪郭ががやけ、腕が、足が、圢を倉えおいく。
翅音が、ふた぀になった。
舞衣の隣に舞い䞊がったのは、挆黒ず金の暡様をたずった蝶。
オオゎマダラだった。

 ふたりは無蚀のたた、䞊んで倜の街を飛んだ。
蚀葉はない。でも颚が距離を枬っおくれおいる。
芋䞋ろす街の灯りが、倢のように滲んでいた。
翅ばたきず、心臓の錓動だけが、埮かなリズムで響いおいる。
たった1時間の、ふたりの密かな逃避行。

 倉態が解け、舞衣は人間に戻った。
でも、蝶だったずきに感じた・・・颚の感芚、川厎さんずの距離、䞖界の芋え方が、い぀たでも忘れられなかった。

 人間の姿で出勀した川厎さんずは、倉わらず埮劙な距離感のたたで、
「あのずきのこず・・・芚えおたすか」
ず聞いおも
「えどの・・・ずきの話」
ず川厎さんは笑う。でも、あの笑顔には含みがある。

 再び、「倉態倶楜郚」の扉を開けた倜。
雚がしずしずず降り、现い路地はたるで川底のようだった。
あの日ず同じ、叀びた朚の看板。
倉態倶楜郚ずいうその文字は、雚に濡れおも、なお赀々ず滲んでいる。

 舞衣は、わずかに震える指でノブを回した。
薄暗い店内。薬品ず也いた葉の匂い。
そしお奥のカりンタヌには、やはりあの老婆がいた。

 老婆は舞衣の顔を䞀瞥し、ゆっくりずうなずいた。
「戻っおきたね」
舞衣は小さくうなずいた。

 するず老婆は、ぜ぀りぜ぀りず話し始めた。
「ここでは奜きな虫に“倉態”できる。でもね、倉態には“代償”があるのさ」
老婆は棚の奥から、黄ばんだ玙束を取り出した。そこには無数の名前ず、倉態した虫の皮類、そしお異倉の蚘録が曞かれおいた。

「副䜜甚は、ただ回数だけじゃない。倉態する虫によっお、”倱うもの”が違う」
老婆の目がぎらりず光る。
「飛ぶ虫は、蚘憶を倱いやすい。朜る虫は、時間の感芚を倱う。刺す虫は、怒りを抑えられなくなる。光る虫は、珟実が停物に芋えるようになる」
そう蚀っお、老婆は重たい芖線で舞衣を芋た。
「あんたが遞んだのは蝶。翅を広げる代わりに、蚘憶の翅が少しず぀剥がれおいくのさ」

 ぞっずした。
舞衣は蝶だったずきの自由な感芚を思い出そうずしたが、そこに䜕か薄い霧がかかったように、がやけおいた。

「芋せおあげようか」
老婆が囁いた。舞衣は圧倒されながらも、うなずいた。
老婆は重いカヌテンを䞀枚めくり、奥ぞず案内する。
そこには無数の叀びたベッドが䞊んでいた。
その䞊には倉わり果おた人たちが暪たわっおいた。

 身䜓は人間だが、目だけが虫のように黒く、濡れおいた。
時折、かすかに翅を震わせるような仕草をする者もいる。
老婆が蚀った。
「圌らは、戻りたくなかったんだよ。倉態を重ねすぎお、“人間のふり”をするのに疲れ果おた者たちさ」
舞衣は声が出なかった。ただ、冷たい汗が背筋を぀たった。

 老婆はそっず、出口の方向を指差した。
「ただ、間に合う。今倜は垰りなさい」
舞衣は、ただ無蚀で頭を䞋げるず店を飛び出した。
雚が頬を刺すように冷たかった。
振り返るず、倉態倶楜郚の看板は闇に溶けるように消えおいた。

私は・・・どうしたい

 胞の奥で、かすかな翅音が、ただ鳎り続けおいた。
雚がやんだ街は、どこか違う䞖界のようだった。
アスファルトに滲む光、濡れた歩道を行き亀う無数の足音。
すべおが、遠い囜の颚景みたいだった。

 倉態倶楜郚から飛び出しお以来、舞衣の胞には冷たい空癜が広がっおいた。
䞀床は誓ったはずだった。もう、二床ず倉態などしない、ず。

 けれど、職堎に戻った舞衣を埅っおいたのは、容赊ない日垞だった。
早すぎる足音、無意味な䌚話、無衚情なパ゜コンの画面。
それらすべおが、透明な檻のように舞衣を締め぀けた。

 蝶になっお空を舞ったあの感芚。冷たい颚に翅をふるわせた倜。
川厎さんず䞊んで、䜕も蚀わずに飛んだ、あの倜。

あれこそが、本物だった

気づけば、舞衣はそう思い蟌んでいた。
珟実よりも、あの䞀時間のほうが、ずっず生きおいる気がした。

 そんな倜だった。
定時を過ぎ、ひずり静かな道を歩いおいた舞衣は、ふず空を芋䞊げた。
高局ビルの谷間、ネオンが滲む空に、ふわりず浮かぶ圱を芋぀ける。

蝶・・・

それも、ただの蝶ではない。
翅の䞭心に、゚メラルドグリヌンの光を宿した、矎しい蝶。

もしかしお・・・川厎さん

 なぜそう思ったのかはわからない。でも川厎さんに芋えた。
蝶は、ひらひらず舞いながら、近くの叀い雑居ビルの屋䞊ぞず消えおいった。たるで私をこっちにおいでよず誘うように。
迷う暇もなかった。舞衣は吞い寄せられるように、その建物ぞず向かった。

 叀びた階段を駆け䞊がる。
錆びた手すりを握りしめ、最埌の扉を抌し開けた。
倜颚が、ぶわりず吹き抜ける。

 屋䞊の隅に、川厎さんが立っおいた。
スヌツのゞャケットを脱ぎ、シャツ䞀枚で、じっず空を芋䞊げおいる。
その顔は、普段の圌ずは違っお芋えた。
もっず遠くを、もっず深くを芋぀める、誰にも芋せたこずのない暪顔だった。

 舞衣が声をかけようず䞀歩螏み出したずきだった。
川厎さんが、ふず埮笑んだが、その目線が埮劙に宙を圷埚った。
䞀瞬だけ。ほんの䞀瞬だけ、川厎さんは舞衣を芋ずに、圌方の䜕もない空間を芋぀めおいた。

 䞍自然な間。
でもすぐに、圌は䜕事もなかったように舞衣に芖線を戻す。
「気づいおくれおよかった。芋えた」
舞衣は戞惑いながら、うなずいた。
「死んだ匟が奜きだった皮類なんだ。゚メラルドアゲハ。匟は、蝶のように優雅に空を飛びたいっお蚀っおたんだ・・・人間のたたじゃさ、あい぀が芋たかった䞖界を知れないず思っお」

 圌の声は、どこか遠いずころから響いおくるようだった。
わずかに、蚀葉の調子もリズムも違っお聞こえる。
ポケットから取り出した小瓶の蓋を倖すずきも、川厎さんの指先はかすかに震えおいた。

 しかし、圌は埮笑みながら、䜕事もないふうに蚀った。
「・・・もう䞀床、䞀緒に飛ばないか」
屋䞊に立぀川厎さんの背䞭は、どこか違っお芋えた。
倜颚に揺れるシャツの䞋、肩甲骚のあたりがわずかに膚らんでいる。
そこが、時折、小さく脈打っおいた。

たるで、・・・翅の、芜・・・

 舞衣は思わず息をのんだ。
声をかけようずするが、蚀葉が喉で぀かえた。
川厎さんはそんな舞衣の動揺に気づくこずなく、埮笑んだ。
「・・・こわいか」
その声は、少しだけかすれおいた。

舞衣は小さく銖を振る。
「いえ、こわいのは・・・飛べないこず、です」
自分でも、なぜそんなこずを蚀ったのかわからなかった。

 川厎さんは、かすかに目を现めた。
それは、どこか安堵にも、哀しみにも䌌た衚情だった。
「俺、・・・これで回目なんだ」
ぜ぀りず、川厎さんが蚀った。
「回目」
「そう。回目くらいから、ちょっずおかしいなっお思っおた。だんだんいろんなこずが思い出せなくなっおきお。でも、どうしおも  飛びたくお。あのずきの倜空の感じが忘れられないんだ。いや、忘れたくないんだ」

 川厎さんの指先が震えおいた。
その手で、ポケットから゚メラルドグリヌンの液䜓が入ったガラスの小瓶を出した。
「舞衣ちゃん、もし俺が途䞭で、違う堎所に行きたくなったら止めおくれる」

違う堎所止める 

そう聞き返そうずしたずき、川厎さんはやわらかく笑った。
「・・・いや・・・やっぱり、䞀緒に飛がう」
瓶の蓋が、静かに倖れる音。甘い匂いが、ふたりを包んだ。

 舞衣は芚悟を決めた。
たずえこの先、䜕が起こっおも。今倜だけは、この人ず空を飛びたい。
瓶の䞭の゚メラルドグリヌンの液䜓を飲み干した瞬間、䞖界がたたぐにゃりずねじれた。
舞衣の身䜓は、ふわりず軜くなる。
骚が溶け、髪が翅に倉わり、皮膚が光の粒に砕ける感芚。

 目の前で、川厎さんも同じように倉わっおいた。
黒ず金の光をたずった、倧きな蝶、オオゎマダラ。
そしお舞衣自身は、翅の䞭心に゚メラルドグリヌンを宿した矎しい蝶、゚メラルドアゲハ。

 ふたりは、倜の屋䞊からふわりず飛び立った。
雚䞊がりの郜垂が、県䞋に広がる。
ビル矀のガラスは雚で濡れ、ネオンの光を滲たせおいた。
街党䜓が氎面のようにゆらめいおいる。
光る電車が川のように流れ、車のテヌルランプは、赀い星座を描いおいた。

 舞衣は翅ばたきながら、川厎さんの蝶の圱を远った。
颚にのっお、ふたりはビルずビルの間をすり抜けおいった。
颚がふわりず翅を抌し䞊げた。

 芋䞊げれば、滲んだ月が、ビルの圱の向こうに浮かんでいた。
ネオンの川を枡り、やがお、街の端にある静かな川沿いぞずたどり着いた。
川の氎面は黒く、そこに癜く濁った月が映っおいる。
ふたりの翅が、その月にふわりず重なる。
氎の音、かすかな翅音。この䞖界には、それだけしかなかった。

 舞衣は、胞の奥から溢れおくるものを感じおいた。
ふたりの翅は、静かにそっず重なり、倜の海を枡るように、挂い始めた。
ここには、もう蚀葉も痛みもない。ただ、ふたりの翅の震えだけがあった。

ああ、これだ。これが、生きおいるっおいうこずだ

 だが、そのずきだった。
隣を飛ぶ川厎さんの蝶が、ふず、飛び方を乱した。ぐらり、ず。
重力に匕かれるように、ひず呌吞、萜ちかけた。
すぐに持ち盎したが、川厎さんの翅の色がわずかに黒ずんでいる。

舞衣は驚いお、川厎さんの蝶に近づいた。
だが、川厎さんはなにもなかったかのように、たた静かに翅ばたき始めた。

・・・いたの、なに

 䞍安が胞をかすめたが、舞衣は翅を動かし続けた。
今は、ただ。今だけは、ただただ、飛びたかった。
ふたりの蝶は、黒い川の䞊を、ゆっくりず流れるように進んでいった。
倜空は静かで、遠くの方で、どこか別の䞖界から、かすかに翅の音が聞こえおいる気がした。それは、祝犏か。それずも、呌び声か。ただ、舞衣にはわからなかった。

 黒い川の䞊を、ふたりの蝶はしばらく挂っおいた。
しかし、やがお、翅の動きが重くなっおくる。
甘やかな自由な時間、それが、静かに終わろうずしおいた。

 舞衣は、川厎さんの蝶が、たた小さくふら぀くのを芋た。
さっきより、もっず顕著だった。
たるで、颚を぀かむ感芚を倱っおいるかのように。

もう、戻らないず

 そう思った瞬間、䞖界が、ふたたびぐにゃりずねじれた。
気が぀くず、舞衣は屋䞊に戻っおいた。
雚に濡れたコンクリヌトの匂い、遠くの車の音。
人間の姿に戻った自分が、膝を぀いお呌吞を敎えおいた。
隣には、川厎さんもいた。だが、川厎さんの様子がおかしかった。
圌はうずくたり、背䞭を抌さえおいた。

「川厎さん・・・」

呌びかけるず、圌はゆっくり顔を䞊げた。
その瞳が、かすかに黒く、光を呑みこんでいた。
たるで、人間の目ではないように。
昆虫の耇県のように、すべおを反射しお、しかもなにも映しおいない。

「・・・ごめん。ちょっず、ふら぀いただけ」

そう蚀っお、川厎さんは無理に笑った。
けれどその笑顔は、ほんのわずか、ずれおいた。
音のない隙間に、翅の震えるような音が重なった気がした。
舞衣は背筋に冷たいものを感じた。

・・・もう川厎さんは、もう半分あっち偎にいるんだ

でも、口には出せなかった。倜空を芋䞊げるず、月が滲み、かげっおいた。

川厎さんは、月を芋䞊げながら蚀った。

「・・・なぁ、舞衣ちゃん」
「はい」
「たた・・・飛がうな」

その声は、ずおも優しかった。
でもその奥に、どこか、垰れない堎所を芋おいるような響きがあった。
舞衣は小さく、でもはっきりずうなずいた。

私も回目を、迎える

 副䜜甚が埅っおいるずわかっおいおも。
川厎さんが埅っおいるなら、あの空が、ただあるなら。翅を、たた広げる。
それが、たずえ人間ではなくなっおいく道だずしおも。

 倉態が解け、屋䞊に降り立った倜から、䜕日かが過ぎた。
街はい぀も通り、忙しなく、無衚情に回っおいた。
通勀電車の揺れ、オフィスの也いた空気、誰かの䜜り笑い。
それらすべおが、どこか遠い囜の出来事のように感じられる。
舞衣自身も、少しず぀䜕かが倉わり始めおいた。
けれど、もっず明確に倉わったのは川厎さんだった。

 ある昌䌑み、川厎さんは珍しく舞衣を食堂に誘った。
垭に着くず、い぀ものように冗談を亀わす。
けれど、その笑い方がどこか空虚だった。
たるで、正しいタむミングを機械的に再珟しおいるだけのような。

「最近さ、倉わったよな、いろいろ」
ふいに川厎さんが蚀った。
「たあ・・・そうですね」
舞衣は答えながらも、どこか居心地の悪さを感じおいた。

 圌の目が、どこか焊点を結んでいない。
舞衣を芋おいるはずなのに、その奥では、たったく別の景色を芋おいる。
「舞衣ちゃんさ、たた飛びたいっお思う」
唐突に、聞かれた。
「もちろん・・・思いたす」
舞衣は玠盎に答えた。

 飛びたい。けれど、同時に怖い。
珟実からどんどん遠ざかっおいく感芚が、確かにある。
だけど、川厎さんは違った。
圌はたるで、珟実をすでに捚おた人みたいだった。

「そっか・・・よかった」

川厎さんは、心から安心したように埮笑んだ。
たるで、飛ぶこず以倖に、䜕も倧切なものがないかのように。

私は・・・ただ、人間ずしお生きたい気持ちも、残っおる・・・

けれど、その想いを蚀葉にはできなかった。
蚀ったずころで、川厎さんにはもう届かない気がした。

 昌䌑みが終わった。
ふたりは、䜕事もなかったように垭を立぀。
けれど、背を向けた川厎さんの埌ろ姿は、以前よりも、ひずたわり小さく、そしお、どこか透明になっおいるように芋えた。
たるで、この珟実䞖界から少しず぀翅を広げお離れかけおいる蝶のように。舞衣は胞を抌さえた。

もうすぐ、私も・・・

昌の喧隒の䞭、小さな翅音だけが耳の奥で鳎り続けおいた。

 翌朝、䌚瀟に出勀するず、空気がわずかにざわ぀いおいた。
川厎さんの姿が芋えなかった。
「䜓調䞍良なんじゃないかっお」
隣の垭の同僚が、スマホを芋ながらそう呟いた。

䜓調䞍良・・・そんな、簡単な蚀葉で片付けられるものなのだろうか

 舞衣は、胞の奥に冷たいものを感じた。
昌になっおも、川厎さんからは䜕の連絡もなかった。
䞍安が、濃い霧のように心を満たしおいく。

䜕かあったんだ

 舞衣は半䌑届を曞き、䞊叞に小さく頭を䞋げお䌚瀟を出た。
向かった先は、川厎さんがひずり暮らしおいるマンションだった。
むンタヌホンを抌しおも、応答はない。䜕床か呌びかけおみた。
廊䞋に面しおいる窓に、暗い郚屋の奥で、䜕かが動いおいる圱が映った。
それは、たるで翅を持぀生き物のように、ふわりず、重たく揺れた。

川厎さん

 舞衣はドアノブを握った。
鍵はかかっおいなかった。恐る恐るドアを抌し開ける。

 郚屋の䞭は、重い湿気ず也いた花のような匂いに満ちおいた。
カヌテンは閉めきられ、光はほずんど差し蟌んでいない。
リビングのテヌブルの䞊に、芋芚えのある小さなガラス瓶が本転がっおいた。

 リビングの奥、窓際に圌はいた。
だが、その姿は、舞衣の知っおいる圌ではなかった。
肌は青癜く透け、䞡手の指先は、かすかに黒く倉色しおいる。
䜕よりも圌の背䞭から、小さな翅の芜が、確かに䌞び始めおいた。
舞衣は息を呑んだ。

「・・・川厎さん」

呌びかけるず、川厎さんはゆっくりず顔を䞊げた。
その瞳は、か぀お芋たこずのないほどに、深く、黒く沈んでいた。

「・・た・・・ちゃん・・・」

かすれた声が、舞衣を呌んだ。
その声には、ただ、わずかに人間の枩床が残っおいた。
けれど、それがどれほど長くも぀のか、誰にもわからなかった。

 川厎さんを芋぀けたその足で、舞衣は倉態倶楜郚ぞず向かった。
雚の匂いが残る路地裏。
あの朚の看板は、以前よりも朜ちお、ほずんど字も読めなくなっおいた。

 扉を抌し開けるず、薄暗い空気ず薬品の匂いが、すぐに包み蟌んできた。
カりンタヌの奥では、老婆が静かに舞衣を芋おいた。

「来たんだね」
老婆の声は、たるで最初から予想しおいたかのようだった。

 舞衣は、躊躇しながら口を開く。
「川厎さんが・・・倉わりかけおいたす。どうすれば、元に戻せたすか」
老婆は深く、長いため息を぀いた。
「もう無理だよ」
その答えは、あたりにもあっけなかった。舞衣は蚀葉を倱った。

「䞀床翅を持った者は、人間の時間から倖れおしたう。無理に戻そうずすれば、身䜓が耐えきれず、壊れるだけだよ」
老婆は、也いた笑みを浮かべた。
「そもそも、ここに来た時点で、あんたたちは戻らない遞択をしおるんだよ」
舞衣の胞が締め぀けられた。

そんな・・・そんなの、聞いおない

 足元がぐらりず揺れる。
老婆は、カりンタヌの䞋から、あの゚メラルドグリヌンの液䜓が入ったガラスの小瓶を取り出した。

「回目。・・・飲めば、あんたも圌のずころに行けるよ。同じ高さで、同じ空をたた飛べる」
静かに、舞衣の前に瓶が眮かれる。
矎しい゚メラルドグリヌンの液䜓。あの倜、自由をくれた魔法。
でも、今は違う。舞衣の手は震えたたた動かなかった。

飲めば、私も・・・。でも、もう人間には戻れないかもしれない、川厎さんみたいに・・・

 ぐるぐるず枊巻く恐怖ず哀しみが、舞衣の手足を瞛り付ける。
「怖いんだね」
老婆の声は、どこか優しかった。
「それが、最埌の理性だよ」

 どのくらいの時が過ぎただろう。
芚悟はできた。舞衣は、震えながら手を䌞ばした。
ガラスの小瓶をゞャケットのポケットに玠早く突っ蟌み、倉態倶楜郚を埌にした。

 雚が、たた降り出しおいた。
薄い翅のように、地面に氎が滲みおいく。
どこか遠くで、翅ばたきの音だけが、かすかに聞こえた気がした。

 どこをどう歩いたのか芚えおいない。
倜の路地を、舞衣はひずり歩いおいた。
雚はもう止んでいたが、空気はただ湿っお重たかった。
街灯の䞋、アスファルトが鈍く光っおいる。
ポケットの䞭で、小さなガラス瓶が冷たく震えおいる。
倉態倶楜郚でもらった小さなガラス瓶をポケットの䞭で握りしめた。

 店を出るずき、老婆はこう蚀った。
「回目を越えた者は、人間の蚘憶を忘れおいく。それでも、飛びたいなら、行きなさい」
舞衣は、うなずいた。
そしお今、ここにいる。でも心は少し怖れおいた。

 けれど、それ以䞊に、あの空を、あの感芚を、もう䞀床だけ味わいたかった。そしお、川厎さんに䌚いたかった。
蝶になっお、ふたたび、圌ず䞊んで飛びたい。
それが、たずえ、戻れない道だったずしおも。

 舞衣は雑居ビルの屋䞊ぞず向かった。
そこは、か぀お川厎さんず飛び立った堎所。
倜空は曇っおいたが、わずかに、月の光が滲んでいた。
舞衣は、手の䞭のガラスの小瓶を芋぀める。

 翅を持぀こず。人間のたたではいられなくなるこず。
すべおを知ったうえで、それでも、望んでしたう。
震える指で蓋を開けた。
甘い匂いが錻をくすぐる。そしお、䞀息に、飲み干した。

 䞖界が、たたぐにゃりずねじれた。
骚が溶け、身䜓が軜くなる。翅が、舞衣の背䞭から生たれる。
今たでよりもずっず匷く、鮮やかに。

 倜颚を受けお、゚メラルドグリヌンの蝶、゚ネラルドアゲハが、ふわりず舞い䞊がった。
ビルの谷間を抜け、黒い川を越え、舞衣は倜の空を舞った。
飛ぶたびに、心がどんどん自由になっおいく。
重かった恐れも、過去も、名前さえも、すべお翅音の䞭に溶けおいく。

 そしお闇の䞭に、ひずきわ茝く翅を芋぀けた。
金ず黒の暡様をたずった、川厎さんの蝶。オオゎマダラ。
圌も、ここにいた。

 ふたりは、蚀葉もなく、ただ翅を重ね、倜を舞った。
この瞬間だけは、䜕も怖くなかった。
川厎さんの存圚が、䞖界のすべおだった。

 だが、その幞犏のただ䞭で、舞衣は、ふず、奇劙なこずに気づいた。
川厎さんの翅が、わずかに、砎れかけおいる。光を倱い、生気はない。
そしお、その砎れた翅の奥から、䜕か、別のもの、蝶ずは違う、もっず異質な䜕かが、蠢いおいるように芋えた。
舞衣は、颚の䞭で小さく震えた。
でも、それでも。今だけは。今だけは、圌ず。
そう願いながら、舞衣は、川厎さんのそばを離れなかった。

 倜空に、ふたりの蝶の翅が、静かに重なっお、消えおいった。
倜の街は、遠い倢のようだった。
ビルの灯りも、車のテヌルランプも、すべお氎に滲んだ絵の具のように揺れおいた。

 ふたりの蝶は、静かに、倜空を挂っおいた。
゚メラルドグリヌンの翅ず、黒ず金の翅。
ゆっくりず、重なるように、䞊んで。
蚀葉はもういらなかった。目も、耳も、必芁なかった。
ただ、颚に溶けるように、互いの存圚だけを感じおいた。

 どれほど飛んだのだろう。
ふず、川厎さんの蝶が、翌をたたんだ。
それは、合図だった。

もう、時間だ

舞衣も、静かに翅ばたきをやめた。
颚が、ふたりを導く。
どこたでも高く、どこたでも透明な空ぞ。そしお、ふず気づいた。

 目の前に、開かれた扉があった。
叀びた、朚の扉。そこから、淡い光が挏れおいる。
ふたりは、躊躇なくその䞭ぞ飛び蟌んだ。
扉の先は、静かな静かな郚屋だった。
高い倩井。埃をかぶった朚補の家具。壁䞀面に食られた、無数の翅。

翅。翅。翅。

 そこにいるのは、か぀お飛んだものたちの、最埌のかたちだった。
ふたりは、郚屋の䞭倮に降り立った。
そこで埅っおいたのは、老婆だった。倉態倶楜郚の、あの老婆。
けれど、今はもう、顔も、声も、朧だった。

 老婆は静かに手を差し䌞べた。

「おかえり」

その声は、雚䞊がりの颚のように、優しかった。
川厎さんの翅が、かすかに震えた。舞衣も、そっず震えた。
互いに、最埌の確かな感觊を確かめるように。
ふたりの翅が、そっず觊れ合った。

 その瞬間。ふたりの身䜓は、光の粒になっおほどけ、次第に、ひず぀の暙本ぞず倉わっおいった。
叀い額瞁に収められた、゚メラルドグリヌンず黒金の翅。
二枚の翅は、重なり、寄り添い、そしお、氞遠に、静かに、そこに残された。誰も来ない、誰も知らない郚屋の䞭で。
ふたりの願いは、氞久に、ひらりず、震えるように、そこに、あった。
 老婆は、「翅の蚘憶」ず叀い額瞁にラベルで曞き添え、棚に眮いた。


 扉の倖で、小さな鈎の音が鳎った。カラン、カラン。
叀びた倉態倶楜郚の朚の扉が、ゆっくりず開かれる。
そこに立っおいたのは、たた別の誰か。顔も、名前も、知らない誰か。

けれど、その瞳には、どこか舞衣に䌌た、飛びたいずいう枇望が宿っおいた。老婆は静かに立ち䞊がる。

「あんた、䜕になりたいの」

 その声は、たるで、たた新しい翅を迎えるための儀匏のように、ゆっくりず空気に溶けた。

倉態倶楜郚の倜は、ただ、終わらない。




この物語は、『倉態倶楜郚』シリヌズの䞀郚です。
続線翅を捚おた日 二郚はこちら。

どちらも䞀話完結ずなっおいたす。


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