
海の瑪瑙と生きていく
かつて好きだった人と海で瑪瑙(めのう)を拾った思い出が忘れられない。だから僕は遠くの海に行ってきみを忘れることにする。波の音も潮の香りも違う海で、また石を拾おう。その時は、過去のものとは違う石を持ち帰って、きみを少しずつ手放すことにする。
「週末、海に瑪瑙(めのう)を拾いに行かない?」
僕がそう誘ったとき、きみは本当にうれしそうに笑った。
「ちょっとした冒険みたいだね」
あの日、僕たちが歩いた浜辺は、波が引くたびにカラカラと小石が心地いい音を立てていた。きみは波打ち際に向かって駆けていき、僕を振り返って手を振った。本当に、宝探しにやってきた子どものような笑顔だった。
スニーカーが濡れるのも構わずに、きみはどんどん波打ち際を進んでいく。
「あ、これじゃない!? 見て、すごく綺麗だよ」
きみがしゃがみ込んで見せてくれたのは、夕日のようなオレンジ色に透き通った、小さな瑪瑙だった。

目が慣れてくると、沢山の石の中でも黄色に輝く瑪瑙が見えてくる。僕たちは時間を忘れてしゃがみ込み、岩陰や砂に埋もれた瑪瑙を探した。
「こっちにもあったよ」
「それ、すごく形が良いね」
そんな他愛のない言葉を交わしながら、二人で石を並べて品評会をしたり、疲れたら手頃な岩に腰をかけて休んだ。
太陽の光を受けて、海面がまぶしい。
きみはスニーカーを脱いで、スカートを手で持ち上げて先ほどとは違い、慎重にしぶきが立たないようにゆっくりと波打ち際を歩いた。
「ねえ、見て。波が引くとき、水面のキラキラが砂の中に吸い込まれていくみたい。私の足もどんどん砂に吸い込まれちゃいそう」
そう言って笑うきみの足元を見ると、白い砂が水の中でふわりと舞い、彼女の足首を優しく埋めようとしていた。
たわいもない一瞬をきみが言葉にするととても美しく、同じ海にいるはずなのに、きみだけがどこか違う世界を見ているような気がした。
人はそれぞれの網膜がとらえる色の幅や脳の処理に違いがあり、同じ景色を見ても実際はまったく同じ世界として見えているわけではないらしい。さらにそこから感情がどう動くかは人によって千差万別だろう。それなのに、僕はきみと細胞レベルで、同じ感情のまま繋がりたいと願ってしまう。
「……きみの瞳と僕の瞳を片方、交換して」
言ったそばから自分の表現に焦った。そういえばかなり前に『猟奇的な彼女』という映画があった。内容は知らないけれど、今の発言は猟奇的ともいえる。
一瞬、きみは目を丸くした。それでも次の瞬間、いたずらっぽく笑った。
「違う二人だからいいんだよー」
その言葉で僕の突飛な言葉の裏にある愛おしさが、ちゃんと伝わっていることがわかった。言葉にしなくても、お互いの胸の奥が特別な力でつながったような満ち足りた気持ち。
このままずっと、きみの隣にいたい。この先どんな景色を見る時も、隣で同じように笑い合っていたい。ずっとその瞳に映る世界を美しい言葉にして雨のように降らせ、僕に供給してほしい。
「ねえ、この海岸、昔からこんなふうに瑪瑙が拾えたのかな」
きみは夕日の光にかざしたオレンジ色の瑪瑙をじっと見つめながら、そう言った。
「どうかなぁ。でも、昔の人も僕たちみたいに瑪瑙を拾って喜んでたんじゃない?きれいな石をお互いに交換してたかも」
僕が答えると、きみは、「じゃあ、私たちと一緒だね」と嬉しそうにほほえんだ。
ただの石ころともいえる小さな瑪瑙が、二人で一緒に拾っただけで何よりも価値のあるものに感じられてうれしくて仕方がなかった。
それから長い年月が流れた。
もう僕の隣にきみはいない。あの日のように、きみの笑顔を見ることも声を聞くことも、もうない。
きみが今、どこで誰と何を見ているのかもわからない。もしかしたら日々の忙しさで、かつて一緒に見た海も、瑪瑙のことも、すっかり忘れているかもしれない。
僕だけがあの海辺にいつまでも取り残されてしまったような気がしてつらい夜もある。
細胞レベルで繋がりたい。
そう願ったあの瞬間、僕たちの魂は世界のどこよりも深く溶け合っていた。あの時の純粋な愛おしさと、世界がとても美しく見えたという事実を僕もいつか忘れていくのだろうか。
引き出しの奥に瑪瑙を押し込んで、失恋の遺物として残っているのはどこか心苦しく、かえって目につかないようにするほど、あの海の思い出をいっそう眩しく感じていた。
あの瑪瑙の思い出を美しい過去として違う形に変えたい。そう思い、僕は一人で遠くの海に出かけることにした。
向かったのは、以前に二人で行った海よりも波が荒く、そのぶん石が美しく磨かれると噂の海岸だ。
波の音も、海の景色も、風の冷たさも違う。
石が激しく波でかき混ぜられてゴロゴロとぶつかる音が響いている。
それでも海から吹く潮風の香りだけは懐かしい。
足元の一つの石をとって海に向かって投げる。……ポチャン。
もう一度振りかぶって投げる。……ボチャン。
今度は丸くて平らな石を拾って水切りしようとした。けれども、1メートルくらいの波が絶え間なく寄せるので、さきほどと同じように、ボチャンという音をたてて波の中に消えていくだけだった。何度試してもうまくいかない水切りはただの作業のようだった。少し疲れて砂浜に座り込み、ぼんやりと海を眺めた。
……単調な海。
一人で来た海は広すぎる。
いや、そうじゃない。それはまだ思い出に目を向けているからだ。
まるで方位磁石に磁石を近づけたら、ビタッと針が磁石の方を向いて動かないように、僕の心はまだ思い出に囚われているだけなんだ。

せっかく遠くの海まで来たのだから、感傷に囚われないようにわざと大袈裟に手を振りあげて波打ち際を歩き出し、綺麗な石を探しはじめた。
今の自分が美しいと思える石、今度はオレンジではない、青や黒といったまったく違う色の瑪瑙を拾おう。
石が無造作に打ち上げられた石溜まりで、ひとかけらの光が見えた。瑪瑙はどんな色でも蛍光色のような独特の反射だからすぐわかる。拾い上げようとしたら思ったより深く埋まっていた。砂利をよけて引っ張り出すと、以前二人で拾ったものよりもずっと大きく、海を感じさせる深い青の瑪瑙だった。波に浸して砂を落とし濡らした状態で見ると、青の中にうっすらと白い線が入っている。
これで何か作りたい。ふと、そんな考えが浮かんだ。
いいんじゃないか。一人でまたいろんな経験を楽しめばいいんだ。そんな決意を形にするのも悪くない。
旅から戻った僕はひとつの決心を胸に、街の貴金属買い取り店へ向かった。
ポケットには、かつて二人でつけたペアリングの片割れが入っている。
買い取り店のドアを開け、ショーケースのガラス越しにペアリングを静かに置くと、カツン、と小さな金属音が響いた。ああ、もうこれで終わりなんだ。そう思うと、指先からふっと温度が消えるよう気がした。でも、これは新しい自分に出会うための、前向きな資金なのだ。
「買い取りを、お願いします」
受け取った店員がじっと指輪を見てから小さなトレーに乗せて奥の部屋に入っていった。待っている間、所在なく店内を見回していたが、こういう店は店舗というより内装が事務所のようだ。一日、何人ほどの客が来るんだろう。客が来ない時はどんな仕事をしているのだろうか。空調の音が静かに響いている。
数分後、店員が戻ってきて、一枚の紙を渡された。
提示された金額は意外と安かったが、書類に記入して店を出た。
手に入れた軍資金を握りしめ、次は予約していた彫金工房のドアを叩いた。
中に入ると、温かい色の照明に木の壁一面に吊るされた色とりどりのネックレスが照らされていた。ガラスの棚にはカットされた石やブローチの作品が所狭しと並んでいる。
「3時にご予約の方ですね。どんなものを作りたいですか」
職人さんに声をかけられて、少し当惑した。何か作りたいという漠然とした思いで来てしまったことを後悔した。壁にある作品を見せてもらうと、職人さんが石の名前や、制作時の苦労話などを話してくれた。
「拾った瑪瑙で何か作りたいんです」
「いいですね。ちょっと見せていただけますか。……へえ、これはよさそうだ。さっそく切ってみますか」
職人さんに教わりながら、中身を調べるために瑪瑙専用のストーンカッターにあてる。
ギィーーーーン、と耳を突き刺す鋭い音が工房いっぱいに響いた。それはまるで、終わった恋を無理やり引きはがされる強い痛みのようだった。
石を押し返す強い抵抗が指先に伝わる。油断すれば石が弾け飛んでしまいそうな拒絶の感覚。それでも僕は怯まずに、指に力を込め続けた。切り終わると、一瞬で物事が大きく変化してもう前に進むしかないような不思議な気持ちになった。
一旦、カットした瑪瑙を洗い、断面を確認すると、拾ったままの時より模様がはっきり見えた。

「この青の色味がいいですね」と職人さんも僕の手の中の瑪瑙をのぞき込む。
「もう作りたいものは決まりましたか」
「ええと、もう一度棚を見てもいいですか」
何を作ろう。
帯留、ブローチ、勾玉……どれも必要ないし、本当に困った。
その時、ふと棚の片隅にある指輪が目にとまった。きゃしゃな地金に小さな瑪瑙がキラリと輝いている。
幅があるごつめの指輪にすれば、休日に男がつけても違和感はなさそうだ。
「自分に似合う指輪を作ってみたいです」
「おもしろそうですね。さっそくデザインを考えてみましょう」と職人さんは答えた。
まずは瑪瑙をルースにしなければならない。イメージが全くわかない僕に、職人さんが、形、大きさ、厚さを矢継ぎ早に聞いてきた。そうか、平たいルースといっても立体的な物だ。何かを作る時は具体的なイメージをもって作らなければならない。漠然と何か作りたい、とやってきた自分が本当に恨めしい。いっそプロの感覚におまかせしようかという考えがよぎる。だが、せっかく気持ちを切り替えるためにきたのだ。これは趣味の世界だから正解はないはず、と不安な心に言い聞かせ、頭をフル稼働させて職人さんの質問に一つずつ答えていった。すると、職人さんが瑪瑙の形を丁寧にカットして整えてくれた。
次は木の棒の先端に瑪瑙をロウでしっかり固定させて表面を磨く。
大きな洗面器の中でろくろのように回転する円盤に研磨剤を塗り、瑪瑙の側面とルースの表になる面をひたすら円盤に押し当てる。研磨剤で手が泥だらけのようになりながら、無心になって同じ作業を繰り返す。研磨剤をより細かいものに変え根気よく磨いていくと、やがて石の奥に隠れていたしま模様がはっきり現れて透明感も出てきた。
手を洗い、一息つく僕に職人さんは言った。
「次は枠のデザインですね。どんな指輪にしましょうか」
用意されたぶ厚い見本のページを見ていくうちに、ようやく指輪の形がイメージできて僕はワクワクしていた。
かつてのペアリングはシンプルなものだった。でも、今回は違う。僕の好きな質感で僕の指に一番似合うデザインにしていい。
見本から選んだのはシルバーの地金にハンマーの痕跡が無造作にいくつも残っている枠だ。光を受けたら表面がさざ波のように輝いて、まるで海を切り取ったかのように青い瑪瑙が美しく引き立つに違いない。
「仕上がりを楽しみにしています。今日はありがとうございました」と工房を後にした。外に出ると、抜けるような青空が広がっていた。
約1ヶ月後、小包が自宅に届いた。
包みを開ける手が、期待でわずかに震える。中には小さな木箱が入っていた。ふたを開けると、中には僕が海で拾い、格闘しつつ磨いた青い瑪瑙の指輪が収まっていた。
「わあ……」
思わず声が漏れた。職人さんの手によって仕立てられたそれは、まぎれもなく世界にひとつしかない僕だけの指輪だった。
さっそく右手の人差し指に滑らせてみる。光の当たり具合でゆらゆらと動く瑪瑙の模様を見ていると、日常が新しく動き出すような、そんな心地よい感覚に包まれた。
何万年もかけてできた瑪瑙の輝き。
火山活動でこの瑪瑙ができるまでの年月や、海の奥底で眠り、激しい波に何度も揉まれて削られてきた時間に比べたら、人生はなんて短く、有限なのだろう。僕たちが付き合っていた時間や、僕が別れの痛みに耐えかねて立ち止まっていた数ヶ月なんて、ほんのひと呼吸、いや瞬きにすらならない。
人間の悩みや傷なんて、大きな時間の流れの中では、本当にちっぽけな出来事なのだ。日常の中で問題にばかり目を向けていると、それが山のように大きく感じられて動けなくなってしまうけれど、見方を変えたり、ほんの少し行動を変えたら、問題と思えたものからあっさりと抜け出せるのかもしれない。
お揃いだったペアリングはこの指輪に姿を変えた。
「違う二人だからいいんだよ」とあの時、笑ったきみの言葉が、今なら別の意味を持って胸に響く。
僕たちは違う二人だったから、別々の道へと歩き出し、僕は僕だけの美しい瑪瑙に出会うことができたのだ。
大きな出来事がやがて思い出になることは、まるで岩が長い時間をかけて砂になっていくようなものだ。
岩がとてつもない時間の旅をして風化し、最終的には指のすき間からサラサラとこぼれ落ちる砂になる。同じように、これまでの経験や感情という「大岩」は、日々の暮らしという波に揉まれながら、少しずつ削られて丸くなり、最後は砂のような細かな記憶として心の奥底に堆積し、僕という人間の一部になっていく。
かつての恋は終わったけれど、あの思い出が消えないように必死になることも、無理に消し去ることももう必要ない。傷ついたことも、永遠を思えるほど誰かを愛せたことも、すべては僕という人間を形作るための大切なプロセスだったと、今なら素直に思える。二人で拾った瑪瑙もやがて青春のやさしい記念品に変わるだろう。
新しい瑪瑙や他の石をこれからも拾い続けるたび、僕の心の中のきみは、少しずつ手放されていく。石を拾うことは、自分の好きなことをのびのびやって前向きに生きていくための僕なりの儀式だ。
窓を開け、生まれ変わった指輪をもう一度、太陽光に透かしてみた。
青空と海のような瑪瑙が溶け合っている。
僕には、僕だけの未来が待っている。この新しい相棒と一緒に、また、日常を楽しむための一歩を踏み出そう。