
悲しみにも、言葉が必要だ。——「本当に愛されているのは、女性と子どもと犬だけだ」という言葉から考えたこと
◾️悲しみの言葉
「本当に愛されているのは、女性と子どもと犬だけだ」
何気なく見かけた、YouTube動画の概要欄に、この言葉はありました。
わたしには、とても絶望的な言葉に聞こえました。
衝撃でした。
この言葉から強く感じられたのは、
「男性の悲しみ」
でした。
「自分は無条件では愛され得ない存在だ」と感じるのはつらいことです。
この痛みには性別の違いはありません。
この言葉は
「(立派な)男性である以上、女性が、子どもたちが、動物たちが『可愛い』と言われて無条件に愛されるような、そんな愛され方をすることはない」
という、絶望と強い諦念——それゆえの悲しみに満ちている、と感じました。
でも、そんなことはないはずです。そう思います。
◾️男性の抑圧は見えにくい
立派な男性であることは、それこそ立派なことですが、人間ですから、その「規範」から外れることはあるでしょう。
その外れること、外すことを、「男性である以上は許されないことだ」と男性自身が心の深い場所で、禁じているのかもしれない、と思いました。
外してしまいたいとき、どうしても外れてしまうときがあるでしょう。人間ですから。
そのときは外せばいいと思うのですが、それがなかなか難しいようです。
社会的なプレッシャー、抑圧のせいか。
あるいは自分自身の禁止によってか。
男性である以上は仕方ない——と、「あきらめて」いる。そんなことが多いように見えます。
女性たちは、社会的な抑圧に対し、「怒り」を表現するようになってきました。
抑圧やプレッシャー、暴力によって自由を禁じられ、尊厳を踏み躙られ、命を奪われることもある、理不尽さへの怒りを表現するようになってきました。
けれども、男性の悲しみはまだ十分に言葉になっていないようにわたしには思えます。
なぜでしょうか。
◾️「男らしさ」という名の呪い
男性が、社会からのプレッシャーに逆らい、反対の声を上げることが多くはない理由には、「男らしい」ことが「美徳」「良いこと」「善なるもの」とされているからではないでしょうか。
美徳とされているものに、反対の声はあげにくいものです。
善なるものを否定すると、それは「悪」ということに、ほぼ自動的にされてしまうからです。
良いものは「正しい」のであり、良いものが害毒、「悪」になることもあるとは、そもそも思いつかない。
自分が良いものに合致しないなら、それは自分が「悪い」のだ、という方向へ意識が向かってしまう。
でも、実際にはものごとはそう単純ではないはずだと思います。
それがあなたを苦しめるなら、傷つけるなら、あなたの心に負担になるなら、どんなに良いもの美しいもの善なるものでも、あなたにとっては害毒でしかないのですよ、と。
わたしはそう思います。
けれども、「男らしさ」は通常、賞賛されるものだからこそ、そこにつらさを感じる自分を責めてしまうのではないでしょうか。
そうやって、男性の悲しみは、より強力に、陰に陰にと押し込められてしまう。
属性をとっぱらった本質で見れば、愛され得ない存在などない。
価値を証明しなくていい。泣いていいし弱音を吐いていいし、誰かにやさしくされていいし、ときには甘やかしてもらっていい。
大人の男は愛されることとは無縁だ、とは、なんという悲しい言葉であり認識でしょうか。
この悲しみは、少しずつでも言葉にされ、癒されていく必要があるのではないか。
そう感じた言葉でした。
◾️悲しみを語れる社会へ
社会には、誰かに「こうあるべき」と求める力が存在します。
それは簡単になくなるものではありません。
でも、それが人を苦しめることもあります。
どんなことに生きづらさや苦しみを感じるかは人それぞれ。
だからこそ、自分が痛み、悲しみを感じたなら、素直に人々に伝えること、ちゃんと手当てされることが必要です。
男性も女性も、泣いていい。
弱音を吐いていい。
助けを求めていい。
そしてもちろん愛されていい。
そんな当たり前のことが、誰にとっても当たり前になるように願っています。