
シティポップの次に海外がdigっていくのは和製シューゲイザーなのか
今回は音楽を素材とした雑談です。よろしければお付き合いください。
意外な気づき
私は作業をする際に音楽を手放せない。
可能な限り何らかの曲をBGMとして聴いている。
そのとき、心地よければいい。
年代やジャンルはそのときの気分でまちまちだ。
演奏のうまさや歌のうまさだってどうでもいい。
音像と空気感が感覚にフィットするか。
私の音楽の評価軸なんて、ほぼそれしかない。
先日のことだが、BGMとして十数年ぶりに cruyff in the bedroom の "clear Light, white cloud"をYouTubeで検索して聴いていた。
懐かしいな、と思いながらコメント欄を見て、少し驚いた。
体感では、コメントの七割くらいが海外のリスナーによるものだったからだ。
いや、cruyff in the bedroom である。和製シューゲイザーだぞ。
失礼な言い方をすれば、日本国内でも本当に好きな人だけが聴いていたようなジャンルの音楽だと思っていた。
少なくとも、誰もが知っているヒット曲ではない。
テレビで流れていたわけでもない。
シティポップのように、海外の若いリスナーが「日本の80年代っておしゃれだよね」的な感じで消費しやすい音楽でもない。
それなのに、コメント欄には英語やスペイン語らしき言葉が並ぶ。
なかなかの違和感、である。
長らく、海外からdigられる日本の音楽といえば、周知のとおり、シティポップだった。
有名どころだったら竹内まりや、大貫妙子、山下達郎、松原みき。
夜の都会、車、ネオン、バブル前後の洗練といったイメージ。
海外のリスナーにとって、シティポップは「失われた日本の都市の夢」のようなものだったのだろう、と想像する。
しかし、その次に海外の音楽好きが掘り返し始めているのは、ひょっとすると、和製シューゲイザーなのではないか、とこのとき思った。
そもそも日本で「和製シューゲイザー」と言って、どれくらいの人に通じるのだろう。
Coaltar of the Deepers の名前くらいなら、ロック好きの一部には知られているかもしれない。
Boris やきのこ帝国、dipあたりまで含めるのであれば、もう少し入口は広がるような気もする。
しかし、cruyff in the bedroom、Luminous Orange、PLASTIC GIRL IN CLOSET、死んだ僕の彼女、Tokyo Shoegazer ・・・と並べていくと、国内でもそれなりに好きな人しか聴いてこなかった類いの音楽ではないかと思う。
それなのに、YouTubeのコメント欄を見ていると、日本語以外のコメントが普通に並ぶ。
ひょっとして。
日本人のほうが知らないのかもしれない。
例えばここ10年ほどの間に海外メインでdigされたであろう、間宮貴子とか、宮本典子とか、山根麻衣といったアーティストの曲。
シティポップの文脈でも、当時の人たちにとっては「いやあ、あの当時その辺はあんまり聴いていなかったけどなあ」という感じではなかっただろうか。
なんというか、「逆輸入」的な感覚だ。
和製シューゲイザーが海外で掘り返される世界線
「シティポップの次に海外で来る日本音楽は何か」という話は、以前からちらほらあった。
そこでよく名前が挙がったのが、たとえば、渋谷系だった。
その気持ちはわかる。
渋谷系は、海外に「説明」したくなる日本の音楽だろう。
有名どころだったら、ピチカート・ファイヴ、フリッパーズ・ギター、ブリッジ、カヒミ・カリィ、オリジナル・ラヴ、ラヴ・タンバリンズ。
フレンチポップ、ボサノヴァ、ソフトロック、ラウンジ、映画音楽、レアグルーヴ。
引用と編集のセンス。90年代東京の洗練。
だから、日本の音楽好きからすれば、「次に海外で評価されるなら渋谷系であってほしい」という願望はよく分かる。
ただ、そんな都合の良い話があるんだろうか。
海外のリスナーが勝手に掘り出していくベクトルは、こちらの願望とは別の場所に進むのかもしれない。
たしかに渋谷系は説明性が高い音楽なのだ。
だから、日本人からすれば「ドヤ顔で語れる」音楽と言えそうではある。
けれど、ある程度の文脈を必要とする音楽でもある。
元ネタ、引用、洒落、デザイン、90年代東京の空気。
そこを含めて味わうには、聴き手の側にも多少の準備がいるだろう。
一方で、シューゲイザーはもう少し乱暴に、かつ直接的に届く。
言葉が分からなくても、ギターの轟音は分かる。
声が遠くても、むしろその遠さが魅力になる。
歌詞の意味が取れなくても、音像の湿度や浮遊感は伝わる。
むしろ、ボーカルが言葉として前に出すぎないぶん、言語の壁が低くなる。
ここが、和製シューゲイザーが海外リスナーに掘られやすい理由なのではないかと感じるのだけど、どうだろう。
シティポップが「明るいノスタルジー」だったとすれば、和製シューゲイザーは「暗いノスタルジー」なのかもしれない。
シティポップには、夜の都会、車、ネオン、洗練された消費生活の夢がある。
対比的に言えば、和製シューゲイザーには、もっと湿ったものがある。
郊外、青春の終わり、轟音、遠い声、言葉になりきらない感情、切なさ。
明るく開かれた都市ではなく、閉じた空間で音に沈んでいく感覚。
こういった湿った感覚は、私たちが海外に見せたいと思っていた日本ではないのかもしれないし、少なくとも「ドヤ顔ができる」感じではない。
もっとマニアックで、暗くて、狭くて、国内でも大きな共有財産にはなっていなかった音楽だ。
けれど、YouTubeやSpotifyの時代には、そういう音楽のほうが、むしろ勝手に届くのかもしれない。
かつてであれば、国内の一部のリスナーとライブハウスと専門店の棚の中に閉じ込められていた音楽。
それが、今では海外の誰かのレコメンド欄に突然出てくる。
そして、どこかの国の若いリスナーが、「なんだこれは」と思って聴く。
コメントを書く。プレイリストに入れる。別のバンドをdigっていく。
そうやって、日本人の多くが知らないまま、日本の地下水脈が海外で静かに共有され、「逆輸入」されていくのかもしれない。
なんて、ぼんやり考えていた。