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少しずつ、話している

    夜になった。
    母の足音が近づいてきた。
    風呂敷をこたつの横に置く音がした。

    私は少し顔を上げた。
    それでも、話さなかった。

    私は宿題の手を止めて、テーブルの上に散らばった鉛筆を端に寄せた。

    母は、きつく結ばれた結び目をほどき、作業を始めた。
    ボタンがテーブルの上で小さく揺れていた。
    一つ一つ縫い付けていく手を、私は見ていた。
    パチンパチンと糸を切る音が、火鉢の炭のはぜる音と重なった。

    保育園のころから仲良しだった友達と、クラスが分かれた。
    その子は、もう別の子と笑っていた。

    私は、何も言わなかった。

    短くなった鉛筆を、何度も削った。


    桜の花びらが風に散っていた。
    ピストルの音が運動場に響いた。
    練習のときから気になっていた子が見えた。
    私は、少し離れて見ていた。

    何度か、名前を呼ばれた。

    その子は、うまく走れなかった。

    私は、うまく喜べなかった。

    お弁当のとき、賞をとったことを褒められた。
    私は少し笑って、おにぎりを食べた。



    長雨の夜、コマーシャルに外国の貧困が、映っていた。
    夕飯を食べながら見ていたが、箸が止まった。

    部屋の中を見回して、うちはまだましなんだと思った。

    欲しいおもちゃのことを、忘れようとした。


    父が鶏小屋の隣に、ブランコを作ってくれた。
    嬉しくて、毎日こいでいた。
    爪先が空に届きそうだった。

    ある日、一人で留守番をした。

    何度ブランコをこいでも、まだ帰ってこなかった。

    太い紐を握る手がしびれていく頃、帰ってきた。

    「留守番できて偉いね」

    麦わら帽子を握ったまま、家の中へ入った。



    学校の帰り道、一人で歩いていると、遠くの山並みが夕陽に燃えていた。
    私は思わず息を飲み、立ち止まった。

    車や人は、ただ過ぎていった。

    私は夕焼けを惜しみながら、山並みを見ていた。


    母が化粧台に座って、髪をとかしていた。
    「お母さん、どこか行くの?」
    と聞いた。

    月に一度、隣町へ買い出しに行く日があった。
    母と二人でバスに乗った。

    私は荷物持ちだった。

    並んで座ると、バスはゆっくり揺れた。
    窓の外の紅葉が静かに流れていった。

    帰り道、母はメロンソーダを買ってくれた。

    背の高いグラスに、アイスクリームがのっていた。
    くびれたグラスが光り、泡が静かにはじけた。

    長いスプーンで、少しずつすくって食べた。

    その時間が、もう少し続けばいいと思っていた。



    雪の日、傘とカバンに積もった雪を払いながら家に帰った。
    踏みしめるたびに、足元で雪が鳴った。

    振り返ると、足跡はすぐに消えていった。

    遠くの煙突の煙も、吐く息も白かった。



    春は一雨ごとに暖かくなっていく。
    秋は一雨ごとに寒くなっていく。

    移り行く季節の中で、私は息をしている。

    あの頃、私は話さなかった。

    それでも今は、
    少しずつ、自分の声で話している気がする。

    その声を、
    いちばん近くで、聞いている。

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