
年末ジャンボ宝くじの絵に選ばれた年の兄の死とその賞金50万円の行方のお話
これは私がうら若き高校生の頃の話。
宝くじの最優秀賞に選ばれて、その年の年末ジャンボ宝くじの絵として8億枚が日本に出回った。
テレビにも恥ずかしながら、出てしまった。
もしかしたら、心理的なブロックとか引き寄せのヒントになるかも知れない。
もしかしたら、家族の死に傷ついたヤングケアラーと言える人たちの例の一つになるかもしれない。
あの時私に嫉妬していた人たちが、指を差して喜ぶ話かもしれない。
あるいは、今、大人が嫌いな子供たちへこの文を送りたい。
これはその時の、ほろ苦い棚ぼたでドタバタの、切ない思い出話である。
6歳年上の兄が1月に亡くなった年だった。
ひときわ寒い時期で、雪ではなく霙が暴風の中降っていた日に救急車で自宅から運ばれて、一週間後に亡くなった。突然の、原因不明の脳出血だった。
父も母も仕事を休み、一か月くらい仕事をしていなかったと思う。
私は高校生で、一日でも休めばついていくのが困難な進学校だったので、通夜と葬式以外は通学していた。
家が暗い、もともと明るくもなかったが、とにかく更に暗くなった。
田舎の出身者の両親の「長男が亡くなった」という打撃は外面にも自身の心にもすさまじかったようだった。
終始パニックで動けず、救急車も私が電話して呼んだし、気落ちした両親の食事の買い出しもしたし、亡くなったときに最初にかけつけたのも私だ。
私も、「家族が早く亡くなってしまった不幸な子」になってしまった。もちろん、当時から親が亡くなった同級生などはいたが、兄貴というのは想定外だった。頼りがいはなく病弱だったが、なんなら兄という存在に、頼って生きていく甘えた妹という立場が崩れて、両親を支える立場に一人なっていたことに動揺して足元がぐらついた。後戻りがきかないことを、どう消化していいか分からなかった。
兄は昔から深刻なアトピーで、あちこちの病院に連れて行かれていた。勉強は好きではなく、漫画やアニメが好きで、定時制の高校に通いながら働いていた。長男なので、生まれて当初は多く買い与えられて甘やかされたようだが、何か親とはうまくいかず、特に昭和の亭主関白の父とは敬遠の中だった。
母はそんな間で悲劇のヒロインで父と喧嘩し、兄が問題起こすたび「こんなはずじゃなかった」とメソメソシクシクと泣いているところばかり覚えている。
かくして私は、父親の機嫌を取ることで居場所を確立し、顔色をうかがうことを覚えて学校でも優等生だったし、勉強も優秀な方だった。地区一番の芥川龍之介などの出身である進学公立校に受かって、突然変異だと両親も兄もドン引きしていた。私もだ。
そして高校は進学高校らしく、予習を明け方までやって学校に行く毎日で、くたくただった。勉強が身に着くというより、難解な話を更に難解にする先生たちやそのテスト内容で、牢獄の中のような日々だった。
兄が亡くなり、テストを受ける勉強の余裕も気力もない。友達はいたが、私はもう精神的にも頼って相談できる人がおらず、先生に何人か相談したが、「もっと他に酷い思いしている人がいるよ」という国語教師の言葉に失望し、テストを免除してもらう約束だった英語はただ受けなかったことになって成績が地に落ちた。他のテストは追試続きで、そこの生徒の登竜門の漢文5ページ長恨歌を暗記して先生の前で暗礁するというなんの役にも立たないことに力を注いでいた。
学校の通学路は飲み屋街で、轢き殺されて衝撃で目をカッと開いて四足を突っ張らせた凍り付いた彫刻のような黒猫の遺体がしばらく収集されずにゴミの集積所におかれていた。
その年は雨がよく降り、例年にない冷夏だった。米が不足で、タイの輸入米の調理の仕方がニュースになっていた。
家の空気がそのまま社会の空気になっていて、明るく生きる要素がない年だった。
父も母も中学卒だというのに、特に父は政治に目を通すたちで新聞も朝夕とっていた。
私は、小学校時代の親友が本が好きで新聞をくまなく読む賢い子だったのに影響を少し受けて、新聞のごく見出しや一部をサッと読むのが習慣だった。その中で、小さな応募要項の記事を見た。それが年末ジャンボ宝くじの記事だった。
私はそのページを取った。親は知る由もない。
私はそれから、予習の合間に絵を描き始めた。
中学校時代、アニメや漫画の好きな子たちは「オタク」として蔑まされている時代だった。私はその立場が怖くて及び腰になりながら、彼女たちの絵や作品、コミケの戦利品を見て分けてもらって、楽しかった。
絵は、学校の画用紙ではなくて、イラストボードというものに描くと水彩でも紙がガタガタにならない。彼女たちはたくさん画材を使っていたが、私の家にあるのは、学校の画材の水彩か、色鉛筆か、ポスターカラーくらいがあるだけだった。
高校は美術部だった私は、確か友人たちに宝くじの募集の話もしたし、絵も見せた記憶があるが、みんな「へーそうなんだね」と興味がなさそうだったし、そのことをすぐに忘れていたと思う。
量子力学は詳しくないが、人というのは確かに観察している世界しかその人の世界でないのだと思う。彼女たちの世界に、その記事も私の絵も無いに等しいものだった。
「そんなのに応募しても無駄」という思いが彼女たちにあったか分からない。今のように情報にあふれていたら、私は応募しなかったと思う。どんな人が応募するか分からず、小学生や中学生から図工で描いた絵が、勝手にコンクールにたびたび出品されて勝手に賞を取っていたので、あまり抵抗がなかった。
せっかく描いた絵なので、カラーコピーを文具屋さんで取った。当時カラーコピーは高価で、その時もB4で一枚700円した。
その時にふと、
「この絵のことを何か言われたら、この絵は一等になる。」
そう思って文具屋さんにお願いすると、
「これは、何の絵ですか?」
と話かけられた。
宝くじの応募の話をすると、また文具屋さんも「へえー」とさほど関心があるいう感じではなかった。
しかし店を出て、私は話かけられた!とそちらの方がドキドキしていた。
保護の厚紙も使うことを知らず、イラストボードが入っていたビニール袋に入れて茶封筒でそれを出した。
絵が好きといっても、そんなに上手いわけではない。
兄に影響を受けた、漫画やアニメのような描くのが好きだっただけだと思う。
兄は天国に行けたのだろうか。
私にとっては、自身と兄への鎮魂、祈りだったのかもしれない。
一番好きなウルトラマリンブルーをたくさん使った。
月や星やら天使を描いて、絵本のようだった。
絵本作家になれたらいいなと思った。
どういうわけか、希望というものが生まれていた気がする。
束の間、楽しい時間だった。
しばらくたった。
音沙汰はなかった。私は賞を取ると確信していたので、(知らないって怖いし幸せ)そわそわ郵便物を待った。
ある日、父が「テレビ局が来る」と言い出した。
宝くじの絵が、賞の一人に選ばれたから取材が来ると、電話があったので、準備をしろと言い出した。
両親には絵を応募に出した話や、絵のカラーコピーも事前に見せたと思うが、やはり関心はないというか、それどころではなかったというところだった。
良くわからなかった。賞に入った人をみんな回るのか、テレビ局って大変だなと思った。
「賞の一人って、何人?」
「さあ、5人か、10人か。」
父は自営業の仕事をしながら忙しいから話かけるなという感じで適当に私や母をあしらった。
母も外行きの服を着て、私もとりあえず安いが一張羅の白いセットアップを着ていた。
郵便屋さんが来たので、私が戸を開けた。
開けた途端、テレビカメラとスタッフに囲まれた。
おいおいおいおい
私はもうこれ撮られているぞと冷や汗を掻きながら郵便物を受け取った。
戸惑う私に、
「開けてみたら?」とスタッフが言う。
開けて見ると封書が一枚入っていて、「最優秀賞」の文字が見えた。
それで取材に来たのか、ようやく理解した。
「何て書いてある?」スタッフがまた聞く。
「最優秀賞」
私は笑った。
この後、兄貴の仏壇に報告しているところも取って、その場面が9月2日、くじの日に放送された。
それから埼玉の工場も見学した。私の絵は8億枚印刷されて出回るそうだ。別の取材で区報にも載った。さらにテレビ取材をというのだが、周囲から冷ややかな態度が増えたり兄の死んだという話が広まり、テレビの前でも少々
演技させられるのが苦痛で断った。(中学校は演劇部だったくせに)
今思えばもっと調子に載ってテレビ出ておけばよかったかも知れない。どうせそんなことは今後ないのだから。
しかしうちは風呂がなく、銭湯通いだった私は近所の人のマウントや冷ややかな目に耐えられなかった。当時は母は乳がんで乳房が半分なかったので、私と一緒に銭湯に行かず、私一人が裸で獣の群れに飛び込んでいる状態だった。
親がいるいないで、大人はこんなにも違うのだと思った。
最優秀賞でテレビに出た私を、喜ばしく思わない大人たちの空気にどうふるまえば正解なのか分からなかった。
銭湯では知らない人にも話かけられ、いかん、有名人になってしまった、泡でも飛ばしたらどういいふらされるか分からん、そう思って気が気でなくなってしまった。
大したことじゃない、しかし、この一年、兄がなくなって学校に行って上がったり下がったりで心が大変だったのだ。人生が進むスピードについて行かれず消化できなくなったのは、この頃からだったなあなどと思う。
テレビ放映前、授賞式があった。これはテレビなし。
そうそう、テレビの取材のことは父だけが知っていて、テレビ局の人に口止めされていたようだ。
母はすぐしゃべってしまうので、母にも黙っていたらしい。
そんな話もした授賞式、母親も一緒に参加させてもらった。親がいるといないではやはり私の気持ちも違うし、対応も違ったと思う。
授賞式は、当時、宝くじは第一勧業銀行が主催していて、覚えていないが偉い人たちがずらっといたのだと思う。場所は赤坂プリンスホテルだったと思う。
3700人以上から選ばれた、最優秀賞の私と、2位と3位の人が呼ばれていた。高校生の私と、イラストレーターの二人だった。
最優秀賞の私は賞金が50万円だった。
食事会があり、フレンチのコースを生まれて初めて味わった。
家では近所の焼肉が最高峰で、他は中華と蕎麦しか食べたことがない。
家庭科で習っててよかった、外側からフォークを使うんだ!知ってる!
フレンチだ。フレンチだ。食器の白が眩しい。
「どういう基準で選ばれているんですかね。」
2位のイラストレーターが口火を切った。そこから私が選ばれたことへの文句がぶつぶつと始まった。空気がすっかり悪くなり、第一勧銀のお偉いさま方が宥めたり、私を気遣っていた。3位の人は終始黙っていた。
こういう大人って本当にクソだ。
さんざ銭湯でも近所でも、人の不幸には「まあ可哀そうに」といいながら声は高く澄んでいる。人の幸福には低い声で「へえ?いつ?あ、そう」と不機嫌を見せる、ああ、大人って大人って大人って!!
まあ、今考えればね、本業で、努力と研鑽を重ねて宝くじの絵に選ばれましたというラベルがどうしても欲しかったのに銀メダル。ビギナーズラックで金メダルを浚ってしまった高校生。
良くある皮肉な風景だが、悔しかったろう。仕事にも影響はあるからね。
私は逆の立場でも年下の、高校生が嫌な思いする言葉なんて発したりしたくないけどね。言葉を凶器に使う人って大嫌いだ。
何でも、ジュディ・オングさんと久里洋二さんが審査員で、特にジュディ・オングさんが気に入ってくださって私が選ばれたらしい。
そんな話を横目に、私と母はフレンチの方が大事だった。
前菜の、ホタテの上にキャビア。キャビア食べた!キャビアだ!と流行る気持ちを抑えて静かに上手に食べる。
トマトの冷静スープには、メロンのボールがいくつもゴロゴロ浮いている。なんかスパイシーな味するけどメロンだった。
母が帰りに、あのイラストレーターの話より先に、
「あんた気が付いた?トマトのスープのあれ、メロンだったわよ。あんた気づいてるかしらと思ってたわ~」
と言い出すほどに私も感動した。
ほど良い大きさの網目がきれいに付いたフィレステーキ。
美味しかった。人生で一番おいしかった。あんな文句言われて場にお味噌がついたが、それでも自分で勝ち取った食事は本当に嬉しくておいしかった。
今は、何か素人が賞を取っても滅多に食事なんてないだろうから、時代的にもまだバブルの微かな香りが残っている頃で恵まれていたんだと思う。
母は私が大学生の時に、亡くなった。
入退院を繰り返して乳がんが転移して骨がボロボロになり、病院へ向かう交差点で自転車に乗っていたところ大腿骨がへし折れて救急車で運ばれて、随分苦しんで半年のちくらいに亡くなった。
約束した温泉にも連れて行ってやれなかった、唯一の親孝行がこのフレンチだったような気がする。
父は母が亡くなってから約10年後に亡くなった。一層仕事が時代に取り残されて立ちいかず、高血圧と肺がんになっても病院へは入院せず、酔っぱらって血だらけになって帰ってきたりしながら、ある日ばったり家で倒れて心臓が止まった。
父は、私に性的虐待もした。あの宝くじの最優秀賞を取った直後だ。
そして、預けていた宝くじの賞金50万円は、父が使い込んでしまった。大学を卒業するときにそれを旅行代にするから返してと告げたところ、「ない。使っちゃった」と言った。火が付いたように怒ったが、父も覚えがないようだった。書類をひっくり返して探していたが、見つからなかった。生活費か、私の学費の足しか、パチンコか、分からないが引き出して、何等かの形で使い果たしたようだった。
性虐の話も、「お前、夢でも見たんだろう」と言った。
父は、嘘ではなく、本当に忘れているようだった。怖かった。割とポックリ死んでくれて唯一最期に、子供孝行してくれたと思う。
人間は、どこでトチ狂うか分からない。
子供を亡くした親というのは、救いようがない地獄の中だったと思うし、何かのせいにもできないことは、体裁悪いことこの上なく、ただただ惨めだったと思う。
私はそういう両親を見て、近所の大人を見て、ずっとずっと日々を出来事を消化できないままに生きて、もういつまで生きるか分からない歳にそろそろなってきた。
様々なことが、宝くじの絵に選ばれるという幸運切符でも洗い出されて見えたものがあった。
翌年だったか、やはり学生が宝くじに選ばれたが、その絵がどうやら却下になったようだった。詳しくは分からないが、いろいろ事情というものが絡むことがある。しっかり印刷されるところまで行き着いた経験をした私は本当に、恵まれていたんだと思う。
賞金分以上の経験は全然出来ている。うむ。
今は家も無くなり、賞金同様、私には何もなくなった。
独身でまともな仕事も子供もいないし、何があっても泣く人もなく困らない。
だいぶ焦ったし、藻掻いた結果でこうなので、まあ、仕方ない。あとは立つ鳥跡を濁さずすっかりきれいにしたいと思う。
残るのは思い出ばかり、この思い、言葉だけで自由である。
今は案外それが、あの世みたいな視点から見たら順調な終着点に向かっているような気がする。
思い出に浸りながら、この先は自分のこんな思いが言葉になって、反面教師でもいいし、共感でもいいし、少しでも若い人や同じ思いをした人にちょっと元気になってもらえたらいいと思う。そして希望を持ってほしい。
私は宝くじの取材のとき、将来の夢を聞かれて、絵本作家になりたいですと答えた。
その後、編集に作品を持っていって希望をへし折られてさんざんだったが、その話はまた今度にしよう。
いつか、出来るなら心から美味しいと思えるフレンチにまた巡り会いたい。更年期ながら、また自分でいつでも希望を生み出せるように気力体力つけて最期まで生きて行こうと思うので、どうか今つらい人も、ここに一緒に藻掻いてるのがいるので、なんとか頑張ってほしい。
母は映画「風と共に去りぬ」が大好きで、最初の、スカーレットが戸田恵子さんの吹替の訳の最後の言葉が私も強く心の残っているので、その言葉を置いておく。
Tomorrow is another day.
「明日に、望みを託して。」