もう触ることのない手たちに捧げる挽歌
「さわる」と「ふれる」は英語だとどちらもtouchだけど、ニュアンスは微妙にちがう。
虫にはさわる、だけど、傷口にはふれる。恋人には、さわりたい、ときと、ふれたい、ときの両方があって、恋をしているあいだ私はその二つを行ったり来たりするはめになる。
これはあくまで私の場合だけれど、無条件に恋人に優しくしたいと思っているときは「ふれたい」モードの私。
「さわりたい」モードのときは、べたべたに恋人を甘やかしてあげたいし、べたべたに甘やかしてほしいとも思う。そのべたべたも、そんじょそこらのべたべたとはわけがちがう。
たいした理由もなしにわあわあと泣きわめいて、むやみやたらに相手を責め立てたあげく、抱きしめてほしいと思うのだから、こちらもきまりが悪い(この場合、恋人のほうには非がまったくない、というのが大事)。まったく、自分でも呆れるくらい身勝手。それに、暴力的。立つ瀬がない。
こころは体につられるから、私の頭はそのたびに混乱してしまう。程度の差こそあれ、人はそれを恋とか愛とか呼ぶのだと思う。人を好きになるということはつくづく可笑しいし、恐ろしい。
日本語を母語にしている私にはtouchという単語にも特別なニュアンスがあって、それは「さわる」と「ふれる」のどちらともちがうものだ。
touchには、肌の表面をすっと撫でていくような、指先でつんと小突くみたいな、触れたと思ったら次の瞬間には離れてしまうような名残惜しさがある(ように感じられる)。
それはきっと「タッチ」という言葉の短さや、「タ」と発音するときに舌を鳴らすこと、小さな「ッ」や「チ」の音の軽さなんかのせいだと思う。
touchにしろ、さわるにしろ、ふれるにしろ、何か(誰か)に触れることはこのうえない触覚の喜びである。でも(だからこそ?)私はずっと、人に触るのも、触られるのも怖かった。
だって、ふれかたや力の強弱、タイミングを見誤れば、触ることはいとも簡単に暴力になってしまうもの。
おいそれと人の肩を抱きこむなんてもってのほか。腰に腰に手をまわされっるのも嫌い。街中で知り合いを見かけても目で追いかけるだけ。声をかけるのを躊躇してしまう。いったい何度、通り過ぎて行く友人たちを見送ったことか。
でもね、私はこうも思うのです。
むやみやたらにそういうことをする男性というのはマナーがてんでなっていないし、友だちなら配慮が足りないし、恋人なら礼儀が足りない。
他人の体は爪の一枚まで他人の体であって、たとえ腑分けされ、切断され、移植されたあとでも、いつまでも持ち主のものであり続けるような気がする。良くも悪くも、人は死にきるまで自分の体を手放せないのではないだろうか。
そういう意味では、愛する人も、子どもも、時には自分の手足だって、本当には所有なんてしていないし、できないのかもしれない。
そんな私には、忘れられない「手」がある。
何年か前。書店でなにげなく開いた雑誌で一枚の写真が私の眼を捉えた。
それは手で、より正確にいえば指先から手首にかけて、さらに細かくいうと、右手なのだった。
撮影したのはカルステン・ソーマ―レン(Karsten Thormaehlen)という耳慣れないドイツ人の写真家で、なにより驚いたのは、写真のもつ存在感。
薄もやのかかった背景に、手は、沈んでいくようにも、溶けていくようにも見える。自己表現や自意識なんて言葉がぞっとするくらい自然で、ありのままの形で完成された手。
時計も指輪もつけていない。写真のためにポーズをとっているようなわざとらしさもまるでない。
手にも顔みたいに表情があれば、持ち主についてもっといろんなことを知りえたのに。でもそれは叶わなかったので(モデルの名前さえ載っていなかった)、私がその手について知りえたことといえば、その手がかなり年をとっているということ。指の細さや肌のきめから想像するに、おそらく女性だということ。それだけ。それで全部。
ごく個人的に言って、私は人の手が好きである。そしてごく一般的にいって、手は持ち主の性質なり心もちなりを映すと思う。体のほかの部分とちがって例外的にむき出しであるせいかもしれない。
これは私の勝手な想像だけれど彼女(あるいは彼)はきっと、社交的な人にちがいない。
そうでなくては、手だけとはいえ写真のモデルなんて引き受けたりしないだろうし、人が好きということは、おそらく子どもが好きで、動物が好きで、ペットを飼っているなら、その動物もまた長年連れ添っているせいですっかり年老いているのだろう。
週末には夫婦で教会へ通うかもしれない。そのあとでスーパーマーケットで一週間分の買い物をする。家に帰って来るなりコーラをふんだんに使ったチョコレートケーキを焼いて、夕飯にはバターを惜しみなく投入した最高のマッシュポテトを作ってくれる。
それで夕方、約束もなしに私が訪ねて行っても、まるで来ることを知っていたみたいに明るくドアを開けてくれ、足もとには年のせいで少し毛の固くなったペルシャ猫が疲れた目をして私を見上げ、「いらしゃい。入って!」と大きな口で笑って抱きしめてくれるのだ。
たくさんの子どもたちを相手に働いているのに疲れをみせず、文句も言わず、夫を失ったときでさえ私の前では涙を見せなかった彼女は、はじめて訪ねて行ったときにはニ匹の猫と暮らしてて、それが一匹、また一匹と増えて、私が帰国するころには猫四匹と犬一匹の大所帯になっていた。彼女は、異国の地で一人きりで生活する私の母親代わりであり、老いた友人でもあった。
きっと良いことばかりではなかった彼女の人生を形にしたみたいな、彼女の皺だらけの手を覚えている。
手首のまあるい骨なんかくっきりと浮き出ていて、触ると不思議にいつもしっとりしていて、頬にあてるとひんやりと冷たい。けれど柔らかいので、風邪のときに額にあてる冷たいタオルのような安らぎがある。彼女はいま、どこの国で暮らしているのだろう。もう何年も前に別れたきり、行方知らずになってしまった。
休む間もなく動きつづける彼女の手が、私は大好きだった。
老人の手は、人間らしさを手放したところにある。と、私が感じたのはそのとき、あの手に頬を包まれた瞬間からだ。
ソーマ―レンの写真の手もそう。そのおおらかな動きには安らかさがあり、植物的な気配すらあった。そしてそれはたぶん、老いた手特有の枯れたかんじと関係があるように思う。
ソーマーレンはドイツ人で、ということは写真の手もまたドイツ人のおばあさんなのかもしれないけれど、私にはもう会うことのない彼女の手のイメージと重なって、泣きそうになる。心のどこかに依然として不安な子どものままの自分がいるみたい。とても孤独な時間だったけれど、同時にものすごく甘美で、たぶん人生でいちばん素敵な瞬間だった。そのすべてに、老いた、彼女の手の存在があったのだ。
すこし前に読んだ本に書いてあった。「味わう(taste)」という言葉は、もともと触れることを意味していたらしい。そうか。触ることは、味わうことでもあるのか。舌のうえでゆっくりとチョコレートを溶かしていくときの、ほとんど快楽といっていい悦びに、それは似ているかもしれない。味わうことと(舌で)触れることは、あのとろけるような食感とどこかで繋がっているような気がする。
これまでの恋人たちの体は思い出せなくても、手のことは覚えていて、そのいくつかには会うたびに見せてもらうのだけど、残りの手には触れるどころか、遠くから見ることも許されなくなってしまった。恋人の手は日常的で、それゆえ堅実なものなのである。
堅実、というのは処女性にも似ているかもしれない。たとえ、相手が男性であり、自分がとっくに処女的女でなかったとしても、手には、なにものにも犯されることのない清潔さがある。あんなにもたくさんの物や場所に触れているというのに、これはとても奇妙なことだ。
わたしの記憶の中の手たち。男性特有のごつごつとした骨、肌に浮き出た青白い血管、折れたままにしていたせいで曲がった親指、手のひらの妙なくぼみ、ピアノを弾いてきた細い指、なにかの怪我の縫い跡、日焼けして皮のめくれた赤い肌を覚えている。
覚えていて、思い出して、悲しくなってしまった。
性格に相性があるみたいに、手にもやっぱり相性というのがあって、手と手がぴたりと重なり合う相手とは、そのほかの部分でも相性が良いことが多かったように思う。これはとても不思議なことだ。
私たちの社会で美しいとされる体はあまりにも限定的で、そのほとんどは布の下に隠されている。
しかし例外的にむき出しになっているのが、顔と手で、結果、私はそこばかり見つめてしまう。レストランで食事をしていても、バスに乗っていても、つい他人の手を追いかけてしまうのだ。
そしてしかめ面や卑屈っぽかったり、根性悪の顔があるのと同じで、そういう顔をしている人をあまり好きになれないように、そういう手をしている人のことも、やはりあまり好きになれなかったりする。
この場合、手の造形の美しさはまったく関係ない。手入れが行き届いているかどうか、ということすら問題ではない。
私の好きな手。
意志をもち、やわらかく、あるいは固く、傷だらけで、疲労していて、使い古されている。
ソーマ―レンはポートレート(肖像写真)を撮影する名人でもあって、きっと彼がレンズを向けさえすれば、どんな手にも、植物にだって人格を授けてしまえるにちがいない、と、私は信じている。
人と人。人と物が触れあうときのあらゆる心のディテイル、そういう細い糸をより集めて、こんなふうに写真に収めてしまえるような仕事は、この人にしかできないと思う。
写真の技術的なことはまったく分からないけれど、これが作為的なのだとしたら、それはそれで、ソーマ―レンという写真家はつくづく天才である。