
今日も、はじめまして。|『ある家に、犬がいた』第2話
この家に来て、十年になる。
もとは、じいちゃんの犬だった。じいちゃんの部屋の隅に、僕の場所があった。今は、息子さん夫婦の家のリビングの隅に、僕の場所がある。
じいちゃんは、去年から施設にいる。
毎週土曜日、車に乗せられる。窓の外の景色が変わるにおいを、僕はもう覚えた。施設のにおいは、消毒液と、古い畳と、たくさんの人の時間が混ざったにおいだ。
じいちゃんの部屋に入ると、じいちゃんは椅子に座っている。
『どちら様ですか』
息子さんに、そう聞く。
息子さんは、笑う。
『父さん、俺だよ』
じいちゃんは、少し首をかしげる。それから、また笑う。困ったときの、じいちゃんの笑い方だ。僕にはわかる。においが、少し揺れる。
息子さんのにおいも、揺れる。でも息子さんは、笑ったままだ。
伝わっているのかどうか、僕にはわからない。
じいちゃんは、僕を見る。
『コロ』
僕の名前だけは、忘れない。
『コロ、コロ』
じいちゃんの手が、僕の頭に乗る。震えている手だ。でも、確かな手だ。僕は動かない。動いたら、この手が、迷子になってしまう気がする。
嬉しい。じいちゃんが僕を覚えている。それは、確かに嬉しい。
でも、その嬉しさの隣に、別のものがある。
息子さんの名前は、呼ばれなかった。
僕の名前と、息子さんの名前と、どちらが軽くて、どちらが重いのか、僕にはわからない。ただ、その二つが同じ部屋の中で、片方だけ呼ばれずに残ったことだけが、においでわかる。
息子さんが、窓のほうを向く。何も言わない。肩だけが、少し動く。
帰り道、車はしばらく走らない。
信号待ちのまま、息子さんはハンドルを握っている。
『コロの名前は、覚えてるんだな』
それだけ言って、息子さんは黙る。
続きは、言わない。でも、言わなかった続きのほうが、車の中に満ちていく。息子さんの名前じゃなくて、僕の名前が残った。そのことが、息子さんの中で、ずっと鳴っている。
僕は、嬉しいと思ったことを、少し後悔する。
僕が覚えられたことが、息子さんの覚えられなかったことの、隣に並んでしまった。
そんなつもりじゃなかった。
でも、それを説明する言葉を、僕は持たない。
だから、後ろの席から身体を伸ばす。届く限り、息子さんの肘に、鼻先をつける。
信号が変わっても、車は動かない。
息子さんの手が、ハンドルから離れて、僕の頭に乗る。じいちゃんの手と、よく似た重さで。
伝わっているかどうかは、わからなかった。
それでも、青信号が三回変わるまで、僕は鼻先を離さなかった。