
短編小説『明後日のゴースト』
コーヒーを飲み終わる直前にかき混ぜる。薄く見えるカップの底を、ティースプーンで三回、時計回りに撫でる。沈殿したコーヒーの旨みを掘り起こすわけでも、最後の一口を惜しむわけでもない。いつのまにか根付いていた小さな癖だ。
茶色く乾いたカップの縁を見ながら、この癖の元の持ち主を思い出そうとした。おそらくは、かつて至近距離に居た人の名残り。けれども丁寧に記憶を辿ってみても、明確な像に辿り着くことはなかった。
文脈を失った動作だけが雨染みのように広がって、元の持ち主と過ごした時間よりもずっと長く、この小さな癖は僕の生活の中に居座っている。
墓所みたいだな、と思った。
名前も日付も刻まれていない、いくつもの習慣の墓標。かつてそこに何かが在ったことだけを示し続ける。それが何なのかはもう知る由もない。
「それ、またやってる」
お風呂上がりの、まだ微かに湿り気の残る髪をタオルで覆いながら、リビングの扉に肩を預けた彼女が僕の背中に声をかけた。
「癖?」と彼女が言った。
「たぶん」
「誰かから感染ったやつ?」
彼女はまっすぐにそう言った。
確かめるでもなく、責めるでもなく、ただ事実として置くような言い方だった。
かも知れない、と僕は同じようにまっすぐに返した。墓標に何も刻まれていない以上、そう答えるしかなかった。
窓の外から、遠くを走る電車の音が薄く聞こえた。終電の時間はとっくに過ぎていた。誰もいない客席を運ぶ回送列車が、幽霊船のように夜の線路を静かに滑る光景がよぎった。
彼女は役目を終えたタオルを畳みながら「ふうん」と短く話題を切ると、ダイニングテーブルの上にある小さな日めくりカレンダーを、いつものように指先で捲った。寝る前の小さな儀式だ。
まだ十五日になったばかりだったが、捲られたカレンダーだけが今日は十七日です、と真剣な顔で告げていた。この家では日めくりが先を行く。休日の予定を立てる時は、このカレンダーが掲げる日にちを信じてはいけない。
なんでカレンダーに嘘を教えるの? と、同棲を始めた頃に一度だけ聞いたことがある。あの頃はまだ、彼女の持ち物や仕草のひとつひとつが新鮮だった。タオルの畳み方や、洗い物のタイミング、作り置き麦茶のパックをいくつ入れるか。一緒に過ごす時間の中で、くたびれた枕のくぼみみたいに、お互いの重さで少しずつ沈んでいく。そしていつの間にか、ちょうどいい形に収まっている。
「もう、慣れちゃったんだよね」
彼女は出鱈目な日付を撫でながらそう言った。
彼女自身も明確な答えを持っていないようだった。
知らない間に誰かから受け取って、受け取った時にはすでに理由は抜け落ちていた。けれども、今更捨てるのにも気が引ける。
そういうことってあるでしょ、と少し困ったように笑いながら彼女が言った。
彼女はカレンダーを元に戻すと、ふと顔を上げてあくびをした。口の端がゆっくりと広がり、目に薄く涙が滲む、無防備なあくびだった。
少し遅れて、僕もあくびをした。彼女の仕草をなぞるような、静かな伝染だった。
「真似したでしょ」と彼女が言った。
「いや、元々は僕のあくびだったのかも」
「あくびのアンプリファイド」
「いいね。フィードバックノイズみたい」
彼女は目を細めて笑うと右手の親指の端で左の目元を拭った。彼女が笑った時によくやる仕草だ。そしてこの癖の持ち主を僕は知っている。
寝るよ、と言って彼女は電気を消した。深い紺色に沈んだ視界の中で僕と彼女はベッドに潜り込んだ。
寝つきのいい彼女とは対照的に、僕はまだ熱を持たないシーツに身体を預け、冷たさが自分の体温に溶けていくのを待っていた。目を閉じ、一定のリズムを刻む彼女の呼吸に耳を澄ませる。
やがて彼女が寝返りを打ち、僕に背中を向けた。示し合わせたわけではないのに同じタイミングで僕も反対方向へ身体を倒した。僕たちはお互いの輪郭を背後で感じながら、テーブルの上でカレンダーが掲げる明後日の背中へと眠りにつく。
(了)