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風をあつめて【#創作大賞2026】 【#エンタメ原作部門】


    〈あらすじ〉
    「妻は子を産み、私は小説を産んだ」――これは実話か、妄想か。
    地方都市で優雅な独身生活を謳歌する52歳の優子。インドの占い師に「80歳まで現役」と予言されるも、婚活は連戦連敗中。そんな彼女が東京の高級ブランド店で出会ったのは、10歳年下の既婚者・桐谷丈二だった。
    禁断の恋に溺れる中、優子は自らの赤裸々な性を曝け出す小説『15年ぶりにセックスした52歳』を書き始める。しかし時を同じくして、桐谷の妻の妊娠が発覚し……。
    虚構と現実、愛と執着が交錯する。滑稽で切実なアラフィフの性を描き出す、大人のエンタメ恋愛群像劇!



    お一人様限定 女子旅 ジャイプル インド

    ジャイプル 別名ピンクシティ。ピンク色に輝くハワー  マハル  (風の宮殿)が、思っていたよりも繊細で、儚げで、まるで夢の中にいる錯覚に陥る。朝の光を浴びるとピンク色に金色が足されて、さらに甘い夢へと私を誘う。300年前からの砂埃が、町全体を覆い、風に舞いつづけ、宮殿を通り抜け、観光客や物売りの頬を撫でながら通り過ぎていく。
    旅先の風に触れるたび、帰る場所のない郷愁が、胸の奥でやわらく揺れる。そして悠久の時の中の一瞬に、自分が存在している不思議さ。旅行は私を少し切なくさせる。
    メランコリーに浸る私の額に、黒く細い腕の男の手が触れた。

    「आपकादिनशुभहो।आपकाफिरसेस्वागतहैu」

    ガイドさんが、

    「これは朝からよかったですね、田村様に祈りを捧げたくれましたよ」

    と教えてくれた。
    手鏡で確認すると、額に大きな赤い粉がついていた。

    移動中のバス中で、ふと、インドは占いが有名なのを思い出した。前に座るインド人のガイドさんに尋ねてみた。

    「インドって結婚する時は、占いをして相手を決めるって本当ですか?」

    「よくご存じでございますですね、ゆこさん、ゆこさん、占いやりたいでございますか?」

    「はい、占い大好きです。ぜひやってみたいです」

    現地のガイドさんがすぐ携帯をかけ、占い師を探し始めた。こういうところも昔のインドではない。20年以上前は酷かった。うそ、大げさ、紛らわしくて、騒々しい。旅行好きな人たちは、その刺激を求めにインドへ行っていた気がする。その雑踏がインドらしくて大好きだったが、今のインドはスピーディーでモダンだ。

    「占いの方を知っているんですか? そんなに簡単に見つかるんですか?」

    「ゆこさん、ご安心くださいますですね、インドは町や村に一人はいますですからね、今から行くレストランに、有名な占いの先生いますですからね、今から予約できるか確認してますね」

    バスがレストランに着いた。昼食が始まった。レストランというより大きな食堂のようで、いろんな国のバスツアーの客が、大きいテーブルを囲んで食事をしている。

    「こんなところに来る有名な占い師っているの? 田村さん、騙されないでよ」

    とツアーで仲良しになった看護師の宏美さんが言った。

    お祈りの赤い粉が私を奮い立たせる。
    当たるも八卦、当たらぬも。

    占い師に近づいて、握手するために手を差し出した。先生は英語が通じる相手とみて安心し、深くうなずいた。

    「では始めましょう。まず生年月日と生まれた場所、時間を教えてくれないかな マダム」

    メモ用紙に、土星の絵やら数字を書き込んでいる。
    先生が顔をあげて突如言った。

    「君は、すきなんだね」

    「先生なんのことです?」

    「わしが言ってること分るでしょうに、最初は17歳だった。早熟だったんだね」

    図星だったので、顔が赤らんだ。

    「おや、数年前の、12月25日から君は3年間辛い思いをしたね」

    貧乏なイギリス人との初デートが12月24日のクリスマスイブ。
    インド時間では25日。彼と出会ったその日から3年間、私の人生の歯車が狂った。ロンドンで一文無しになって、最後の1ポンドを握りしめて、成田空港に降り立った日のことは今でも覚えている。今ではこうして優雅にお正月をインドで過ごしているのがウソみたいだ。

    「ええ、確かに。先生、彼との3年間は地獄でした。愛してはいましたけど。恋は盲目というでしょ?
    先生、私、過去はもういいの。これからなの、結婚できますか?」

    先生は、紙をじっと見つめて、首を大きく横に振りながら答えた。

    「ノー 結婚はしない」

    なぜかふと、ああ、やっぱり……と思った。私は風の宮殿にいるような、男に守られる女性にはなれない。

    「誰も愛してくれないし、私のことを守ってくれないのね」

    「それは違うよ、マイ、レディ。結婚だけが幸せじゃないよ」

    「どの国の、どの宗教の、男も女もそう言うのになぜ皆、結婚するのかしら」

    先生はそれには答えず、大きく息を吸い込んだ。そして慮るように私を見つめた。

    「そのかわり、マイレディ、結婚はできないけど、君は生涯ずぅっとバング、バングできるんだ。わかるだろ?  80歳になるまでセックスするんだ。それは奇跡だよ。それを幸運と呼ばずして、なんというんだ。恵まれてるよ、結婚するよりもずっと恵まれていることだよ」

    「先生、80歳なんてしわしわのおばあちゃんだよ、そんな私とセックスしたい人います?」

    「現れるよ、必ず恋人が現れる。結婚よりも重要なことだと思わないか? 80歳まで愛され続けるよ。バング、バングだよ。ただし注意してほしい。サタンというワードも出ている。
    君は短気で気が強い。だから人に意地悪をすると自分に大きく返ってくる。気をつけなさい。人を大切にしなさい。バング、バング 羨ましいね、最高の人生だよ」

    先生は私が結婚しないと予言した。

    「ねえ、田村さん当たった? なんて言われたの?」

    「当たった。クズの元カレと出会った日まで当てたし、初恋も当たったよ。でも将来のことはどうだろう? 私結婚できないって。それだけはまだわからないから…」

    「私も占いしてもらう。次に入れますか?」

    30代の同じツアーの女子が勢いよく席を立った。
    結婚はしない。でも、一生、愛される。それは不幸なのか、幸福なのか。答えはまだわからない。
    ただひとつ確かなのは――
    私はもう、風の宮殿の奥で、誰かに守られて暮らせない。外の世界で、風にさらされながら生きて行くしかない。額の赤い印が、まだ熱を持っていた。


    時をかける処女52歳 田村優子

    昨年のGW、東京の婚活市場に参戦するために、テレビで観た婚活バスツアーに参加した。そこで出会ったサラリーマンの彼、健さん。15年ぶりにできた恋人だった。地方都市と東京を行き来し、北海道まで婚前旅行にも行ったのに、4か月で別れてしまった。
    15年ぶりにしたセックスは、快楽どころか、驚きの連続で、わからないことだらけだった。高校生の時のように。
    あの頃は、周りも処女だったから、処女じゃない人からの体験談でワクワクしたが、今は……。今はアラフィフでお盛んな人が、周りにいないので、ろくなアドバイスもなく、よくわからないまま、健さんとの初夜を迎えた。
    そしていろいろなことを学んだ。まずアラフィフのセックスは体力がいること。思ったより濡れないこと。抱き合うと、お腹同士がぶつかり合う、中年男女のセックス。どんなことをすればいいのか思い出しながらのセックスで、集中力ゼロだった。再び処女膜が破れた後は、どうにか落ち着きを取り戻した。そこは高校生の時と同じだった。
    そして、桐谷丈二。高級ブランド店で働く悪い男。悪い男なんて昔の演歌歌手の歌に出てきそうな表現だが、それ以外の呼び方が思い浮かばない。

    5月5日の子供の日、婚活バスツアーに参加する前日、東京の高級ブランド店で働く彼にナンパされた。10個年下のイケメン、高身長。洗練された物腰に眩暈がした。地元の友達に散々自慢したら、ロマンス詐欺だから気を付けてと言われ、半信半疑だったけど、騙されてもいいし、もう二度とこんなチャンスがないような気がしたので、健さんとのデートの後に初めて会う約束をした。

    「結婚されてますよね」

    服を試着した日、しっかりと、結婚指輪をしていたのを確認していた。

    「はい。結婚してます。『今日もお客様と食事に行きます』 というと、『どうぞ』  と言ってくれる寛容な妻です」

    と言ったのに、私を抱き寄せてキスをした。
    新宿の春の宵、眩暈がしそうなほど、とろけるようなキスをされ、完全に心を持っていかれた。

    彼の身体の重みを感じた日から、この15年間の意味を悟った。この重みを感じるために私は努力して来たんだ。仕事も親孝行も、アンチエイジングも。更年期も。
    そして結ばれる直前、彼に約束させた。

    彼と交わした3つの約束。
    一つ目、終わりにする時は、言葉で別れようと伝えること。急に仕事を辞めて、連絡を断つようなことはしないでほしい。
    二つ目、ゲームをしないこと。もう52歳だから、恋の駆け引きなどをして、互いの時間を無駄にしたくないから。
    三つ目、デートはしないこと。
    奥様がいらっしゃるのだから、デートや旅行をしてバレて、泥沼にはなりたくない。
    ならば夜の2時間だけでいい。恋人でいて下さいという提案をし、しばらく大人のお付き合いが続いた。
    過去も、未来も、健さんも超えるセックス、洗練されたルックス。

    ところが、9月の下旬から10月にかけて、2回ほどドタキャンされ、彼の気持ちがなくなったことに気づいた。約束したのに……『電話をかけたり、LINEでしつこくしたら、もっともっと嫌われます』  と、友人たちも、チャッピーも、インスタにあがる不倫マスターみたいな輩も皆が、同じことを言うので、黙って泣くしかない。
    彼とのLINEのやり取りを読む日々。LINEを交換した日、デート前の二人のやりとり、デート後の二人のやりとり、そして夜の約束。

    何がいけなかったのか? 
    妻にバレたのか?

    一つだけ言えることは、もう、あの厚いなめらかな胸に抱かれることは一生ないということだけ。
    こうして、彼に『突然消えたりしないでね』  と言ったのに、人生初めての不倫経験は終わった。
    健全な結婚圏内の健さんと絶倫イケメンの桐谷との同時進行だった。
    そして昭和な健さんとの交際も、『俺の食べる肉、焼いてくれないの?』  発言や『ちょっと、我慢できない、しょんべん』  というお爺さんみたいな発言に幻滅し、別れを告げた。
    そうして、いつもの平凡な日常に戻っていった。

    家業の不動産業を兄夫婦に乗っ取られ、老いた84歳の父と母と暮らす、52歳の自分。そして、また、処女になっていくような日々。
    更年期で、明け方の4時にふと覚醒する。そんな時、隣に桐谷がいたら、どんなに幸せかとシーツをまさぐる。きっと今頃、彼の美しく寛容な妻が彼に後ろから抱きしめられているのかと思うと、黒い嫉妬で胸が締め付けられる。
    ああ、でも私の人生はこれから。本来は婚活しようと思って、バスツアーに行ったのに、大きく寄り道してしまった。
    この体験を書いてみよう。同級生たちが皆、私の東京でのお見合いや、桐谷との体験をネトフリのようだと絶賛してくれる。続きが気になると。そうして書き上げた『15年ぶりにセックスした52歳』  これ以外のタイトルが思い浮かばなかった。 

    いつも通り、朝6時、両親がテレビのリモコン探しをしている会話が聞こえる。
    勢いよくベッドから起き上がった。

    「よっこいしょ」


    地方の男に飽きたところよ UKO

    健さんとお別れをした日に、お見合い相談所に登録した。桐谷とのグダグダで先延ばしにしていたが、今度こそ気合を入れてお見合いに挑みたい。

    「一年間選び放題ですからね」

    と紹介所のMさんに言われた。

    「パケ放題みたいな感じですね」

    と言いたかったが、上品で真面目そうな、Mさんには言えなかった。
    このあいだまで、若い男と遊んでいたのがバレませんようにと、借りてきた猫みたいに大人しい自分がいる。

    「まず、県内の方を中心に見ていきましょう」

    とタブレットの端末を見ながら、二人で絞込条件というところにレ点を入れ始める。
    洋服を買う時と何ら変わらない。服はネットで買うと失敗する。

    「年収一千万、年齢は59歳までにしましょうか? 60歳はおじさんですものね」

    Mさんもなかなか強気だ。

    「年下がいいです」

    Mさんの手が止まった。歯の奥に物が詰まったような声で、

    「お見合いで年上の女性がいいという男性はいませんよ」

    と言って、さっさと、50~59歳までという欄にレ点を入れた。
    あとは、私のプロフィールもアップする。

    「そうすると優子さんに興味を持った方から、申し込み申請が届くので、お相手のプロフィールをよく読んで、そのまま興味が湧いたら、『お見合いを申し込む』  の欄を押してくださいね」

    と言って、敏腕仲人Mさんは去って行った。
    ホテルのテーブルには、お見合いハンドブックと、54歳でスピード&大金持ちと結婚した女の体験記の本が置かれている。読まなくともわかる。白や、ベージュのふわっとした服を着て、清潔感溢れる服を着る。とてもじゃないけど読む気になれなかった。

    私も52歳で、新宿のど真ん中で、ベロチュウされる女になるにはという本でも書いてみようかな。『世界の中心でベロチュウ』 略して……。
    そろそろまじめにお見合い用の服でも買いに行こうかな。東京に。その前にこの近場のメンズたちに、きらりと光る何かがあるかもしれない。片っ端から、お見合いOKの返事を入れた。
    こうして桐谷と別れた心の隙間を埋めるように、毎週土曜、日曜とお見合いの予定を組む。仕事、お見合い、近所の習い事に通う子供ぐらい、いっぱいいっぱいだ。
    会う直前に読む彼らのプロフには、 『穏やかで、優しい性格だと言われます』  と、『 お互いをいたわりながら、暖かい家庭を築けたらと思っています』  と判で押したかのように書いてあった。
    ホテルのラウンジに行くと、10組 以上は、お見合いをしているであろう人たちで席がうまっている。あら、あっちもいい、こっちも素敵と、よそ見をしてしまう。

    一人目は、田舎で、印刷業を営んでる2代目の社長さん。ラウンジで

    「コーヒー美味しいですね」

    「そうですね、美味しいですね」

    をずっと繰り返した。
    サラダ記念日のような結婚になりそう ……と思ったが、一生、このラリーをして人生を終わらせるには少し寂しい。おしゃれな人で、スウェードジャケットが印象的だった。最後に、

    「お洋服素敵ですね」

    と言った時に、嬉しそうに、にっこり笑った歯が綺麗で、一人帰るタクシーの中、不成立の理由という項目を書くのに苦労した。
    ひとまず、『価値観が違います』  と書いたが価値観が同じなのか、どうかもわからない。『美味しい』  としか言わなかったから。

    2人目も偶然にも田舎の自営業の男性で、部品メーカーの工場を持っていた。

    「住まいは、++‘<|‘M@#***です」

    なまっていて、よく聞き取れない。

    「すみません、なに区でしょうか? 交通機関だと最寄駅はどこですか?」

    「##***‘線です」

    未だ、赤いほっぺで、愛嬌がいい、優しい社長さんの住んでいるところがわからない。

    地方在住の何人かと会っているうちにひとつ、ずっと感じていた素朴な疑問がわいてきた。さっそく仲人MさんにLINEで質問をしてみる。

    【お世話になっております。温泉が好きです。一緒に温泉に行ってくれるような、穏やかで、優しい方と巡り合えたらという男性がいっぱいいますが、どの段階で温泉に行くのでしょうか? プレ交際に進むと、お泊りOKという暗黙のルールでしょうか?】

    【優子さん、お見合いは順調ですか? シャイなメンズも多いので、優子さんには関東圏でも探してみますね。質問に関しては、大人の男女ですから、お付き合いとなれば、お泊りするのではないでしょうか?】


    弁慶橋の泣き所 優子

    「幸せです。田村様」
    おっぱいに顔を埋めながら、彼が言った。

    東京の方とお見合いをした。日中の待ち合わせ前に、彼の働く高級ブティックに立ち寄り、夜、ホテルに誘った。
    閉店後、彼はホテルにやってきた。ドタキャンから3ヶ月経っていた。ドタキャンの理由はもうどうでもよかった。今日、彼が仕事終わりに寄ってくれたことに意義がある。
    今までずっと聞きたかったことを彼に聞いてみた。実際、小説でもこのシーンは自分の中で気に入っている。

    「あのね、前にワンナイトの女の子たちのことは覚えてないって言ってたでしょ? 綺麗な子と面白い子、以外は。私はワンナイトじゃないけど、私はどっち?」

    「綺麗な方で覚えてます」

    嬉しくて、馬乗りになってキスをした。

    「嬉しい、ありがとう、私、これから桐谷さん以上にセックスがうまい男と出会えるかな? それに桐谷さんも私よりもいいおっぱいの女と出会えるかな…」

    「無理ですね、僕よりも田村様をイカせる男いませんよ。いいおっぱいの女性ですか? どうでしょうね~僕だってもう43歳ですよ」

    「大丈夫だよ、もっとモテるよ、これからも」

    心の中で、私以上の女が現れませんようにと祈った。
    なぜだかわからないけれど、桐谷も自分以上の男が田村様に現れませんようにとお祈りまではいかなくとも、思っているに違いないと感じた。
    年末だからか、なぜかしみじみとした空気が流れる。

    「今日は私、外まで送るわ、その前に一緒に写真を撮らない?」

    今日の桐谷はグレーの上質なセーターにグレーのパンツ、それにキャメル色のコートを合わせている。地方都市ではなかなか見ない配色に見とれた。
    桐谷は意外にもOKした。二人でベッドの上に座って頬を寄せて写真を撮った。

    お腹が空いた。その時ふと、今日のお見合い相手から頂いた紙袋が目に入った。バスローブを纏いながら、初めて紙袋の中身を覗いた。そこには地方には売っていない高級な箱に入った、フランス製のチョコレートが入っていた。
    ピンク色の繊細で美しい包み紙を乱暴に破いた。リボンが床にひらりと落ちた。箱の中には完璧で美しいチョコレートが整然と並んでいる。無造作に選んだチョコレートを彼の口に入れた。自分も、美しい完璧なチョコレートを愛でることなく、ただ口に乱暴に放り込んだ。
    チョコレートを鷲掴みにし、再び彼の口に入れた。間髪入れずに、口づけを交わした。互いのチョコレートが行き来する。桐谷の口に入ったチョコレートはかすかにブランディ―の味がした。

    「田村様のキスくらい甘いチョコレートですね」

    今時、少女漫画でも出てこないクサいセリフを桐谷は平気で言える。これを受け流せるくらい私は彼を愛してる。

    「覚えててくれたの? 唾液が甘く感じる相手の話」

    「もちろん覚えてますよ。遺伝子レベルで相性がいいんですよね」

    「行こう、駅まで送る」

    私も急いで服を着た。ホテルの廊下を歩きながら、彼が私の頭の上をぽんぽんとした。

    「何?」

    と見上げると、

    「ただぽんぽんとしただけですよ」

    と言って笑った。
    女の子のこと、女がしてほしいこと、言ってほしいことをすべて掌握する男。そう、『なかよし』  『りぼん』 の中にいたあの男の子たちのようだ。

    「赤坂見附から乗るの?」

    「永田町まで歩いてそこから」

    彼が一瞬、携帯を覗いた。足が早歩きになった。
    皮肉なことに、ビルの谷間の木々にクリスマスのイルミネーションが飾られ、無理やり愛を押しつけてくる。
    弁慶橋の橋の真ん中まで来た。その時ふと、子供の頃の思い出が蘇った。

    昔、母が幼かった私と兄をボート乗り場のオジサンに預け、ホテルのアーケードに買い物に出かけた。恐らく小学校低学年だったと思う。なかなか戻らない母に、兄が言った。

    「優ちゃん、僕たち橋の下に棄てられたのかな? もらい子になるのかな…」

    アニメで観た、もらいッ子の過酷な運命を思い、必死で涙をこらえた。これから兄と二人で生きて行かなければならないのか……と兄の手を強く握ったその瞬間、

    「おまたせ~ 待った? お腹すいたでしょう?」

    と言いながら、大きい紙袋を抱えたママが戻って来た。安堵と幸せで涙が出た。兄と競うように母に抱きついて甘えた。

    そして今、大好きな男の愛が欲しくて、この橋までやって来た。
    キャメルのコートの襟を引き寄せてキスをした。新宿でしたような、誘惑するような淫らなキスではなく、信頼したもの同士のまるで恋人のようなキスのように感じた。
    いや違う、そう小説には書きたいのに違う。
    2025年の最後のキスは、なんとなく気がそぞろというか、せわしい、そっけないキスだった。
    さっきまで、口の中のチョコレートを交換した相手とは思えない。やはり彼は、オンとオフを切り替えられる、憑依型ロマンチストなのだなと思った。気持ちはすでに妻とペットのウサギに向いている。

    「よいお年をね、桐谷さん」

    「田村様も、良いお年をお迎えください」

    振り向かない。意地でも。彼が振り向かないのがわかるから。こんなシーン前にもあった。
    お盆の終わり、新宿で。
    誰も追いかけてくれないし、振り向いてももらえない。
    健さんだ。健さんと別れたあの日、頭の中では東京ラブストーリーの音楽がリフレインしてた。健さんの平凡なやさしさが今では懐かしい。

    今は状況がまるで違う。私は不倫相手に心奪われた52歳の女だ。お見合い相手からの贈り物を、感謝もせず、不倫相手と貪るように食べる女だもん。罰が当たった。
    ママは戻って来てくれたけど、彼は戻ってはくれない。自分を可哀そうに思うなんて最低だし、卑怯だ。でもだめだ、涙が出る。

    「お兄ちゃん、ママがきてよかったね、もらいッ子になるならどのおうちの子になる?」

    「馬鹿だな、優ちゃんは。わがままだし、食いしん坊だからどこのおうちも優ちゃんはいりませんっていわれるよ。だから僕だけもらわれるよ」

    お兄ちゃん、本当だね。誰ももらってくれないし、迎えにも来てくれない。

    いよいよ涙があふれてきた。イルミネーションがぼやけて、ただの大きい光に見える。念のため、そっと、何か見逃したのではないかと振り返ってみた。
    ママも、意地悪なお兄ちゃんも、キャメル色のコートを着た桐谷もいない。

    2025年、GWにお見合いバスツアーに乗ろうと東京に来た。乗車した運命という名のバスの行先はまだわからない。

    けれども私は大丈夫。

    イギリスで一文無しになったこともあるし、100万円の指輪をプレゼントされた2日後に、指輪代返せって言われたこともある。

    マフラーが涙で湿り気を帯び、ラルチザンの香水が一層、冬の空気に溶け込んだ。


    冬のアナタ 桐谷丈二

    【東京の夜で春の気配を知り
    新宿の夜で理性がほどけました
    赤坂の朝の突然のスコールで夏が終わり
    弁慶橋のキスで季節は冬に
    来年はどんな景色になるのか
    そっと 愉しみ。よいお年をお迎えください】 

    田村様から素敵な年末の挨拶文が届いた。

    12月の上旬、田村様がフラッと店に現れてホテルに誘われた。
    妻が高齢出産ということもあり、安定期になるまで緊張が続き、疲れていた。元気で楽しそうな田村様を見て、また抱けるかと思うと単純に嬉しかった。

    「いつもマスクしてるのね」

    と聞かれ、思わず妻の妊娠を言いそうになったが、まだ安定期に入っていなかったため、言わなかった。しばらくデパートにも現れなかったし、LINEもよこさない。終わったな、と思うと少し寂しかったので、また誘われて安心した。
    久しぶりの情事の後、ホテルの廊下でぽんぽんと頭を撫でた。大抵の女は、ぽんぽんが大好きだ。男がおっぱいと母性を求めるように、女も父親をどこかで求めているのだろう。

    セックスも俺に会うのも2025年の最後だからと、途中まで送ってくれた。外はクリスマスのイルミネーションでキラキラと光っている。田村様がイルミネーションを見て何か言いかけたが、口をつぐんだ。
    クリスマスのイルミネーションに見とれながら、歩くカップルを演じたい田村様の気持ちが痛いほどわかっているのに、妻に呼び出されている自分は、田村様が追い付けないほど早歩きをしなければならなかった。小さい足で懸命について来ようとする田村様が憐れでならなかった。
    きっと『クリスマス一緒に過ごせたね』  とか言いたいんだろうが、自分が先ほどから携帯を気にしているので、遠慮して何も言わないでいる。急に立ち止まった。コートの襟をつかまれた。かがんでキスをした。

    「よいお年をね、ここで失礼するわね、体に気を付けてね」

    後ろを振り向かなくともわかる。きっと彼女は10歩進んだところで俺が振り返るの待っているだろう。分かっていても振り向かないのは、その向かう先には、自分の命を削ってでも母になろうとしてる妻が家で待っているからだ。
    10年という長い妊活だった。途中で諦めたりしたので、まるまる10年というわけではないが、それでも、妻は諦めなかった。『今年で最後だからお願い』 と言われた。

    11月のプレセール、クリスマスシーズン、春夏のコレクションの勉強と年明けのセールで、どこのブランドも忙しい。
    家では飼っているうさぎの調子が悪いし、妻もピリついている。疲れはてピークを迎え、女遊びも、一人で飲み歩くこともしていなかった。そんな時に田村様と久しぶりのセックス。

    そしてあっという間に12月31日になった。

    ロマンティクな年末の挨拶。

    そういえば、ホテルに向かう途中スコールに遭ったことを思い出した。いつナンパしたのかもすっかり忘れていた。
    そういえば、GWの最終日だったかな。子供の日に出会った女と不倫して、妻に子供ができた。シュールだな。 

    どうやって妻が妊娠したことを伝えようか? いや、伝えてはいけない、伝えたほうがいい…
    久しぶりの日本酒で酔いがいつもより早い。
    除夜の鐘がなるテレビの前で、お腹をなでながら妻が言った。

    「あけましておめでとう、赤ちゃん」


    真夜中のドア  桐谷丈二

    夏の日焼けが薄くなってきた胸元に舌を這わせて、二人の時を想った。思ったより長く続いている。

    そろそろシャワーを浴びようかと、上体を起こすと、あまりの気持ちよさに、気を失っていた田村様が目を覚まし、上目遣いで話し出した。
    今までに聞いたことのない愛の告白だった。田村様がロマンチストで、前に本が好きだと言っていたので、小難しい告白だったが、少し感動した。

    「大切に思ってるよ」

    と言った。

    「あなたが愛している世界を尊重して、壊さないのが私の愛し方」

    しゃべっていないでとっととシャワー前のラストフェラしてくれないかな……っと思ったのが、彼女に通じたのか、

    「大切に思ってるよ」

    とつぶやいてフェラをするために田村様が身体をずらした。

    シャワーを浴びて身支度を整えている時、せっかくのムードのところで田村様の携帯電話が鳴った。待ち受けにHIDEKIと出ているのを見てしまった。
    田村様のプライベートの話はしたこともなし興味もないが、先ほどの告白を聞いてせっかく男冥利に尽きると、にやけていたのに興ざめだ。
    電話に出ずに、そのまま電話を切って田村様が言った。

    「HIDEKIさんとは結婚相談所の紹介で知り合ったの。北海道で、それはそれは、素敵なデートをしたのよ。すすきのって雪が降ると、とてもロマンティックなの。なんの因果か彼も今日、東京に来ているの。
    彼は東京でお見合いをした人と交際へ進むそうよ。私は今日、フラれたの。今日は掛けてみたの、あなたからまた、ドタキャンされたら、彼と寝る。あなたが来たら、あなたに抱かれる。
    彼はね、今夜セックスしたいんだって。バカみたい。一瞬でも恋心抱いたのよ」

    自分の中で意外にも激しく嫉妬した。田村様が『HIDEKIさんすごい! 』  と言いながら白い裸体で悶える姿を想像してムカついた。

    「とっととブロックするか、着信拒否にした方がいいですよ、最低ですねその男」

    「ひょとして焼いてるの?」

    やはりいい気はしない。田村様はフフフと笑って、

    「他の男と寝ないで!って私にお願いして」

    と言った。田村様は小学生みたいなことをたまに言う。しかも3回も復唱させられた。

    「棒読みじゃん、演技下手だね」

    と言ってごろんと寝ころんだ。

    田村様がこんな女ったらしに騙されなくて、本当に良かったと思っている。結婚は、結婚というものは。

    『丈二、この日は早く帰って来て、先生からもこの週がベストだって』

    いつものように、バスローブを着た田村様が胸に顔を埋めて来る。妻が妊娠してから1時間の滞在にしている。

    「桐谷さん以外の男とセックスしたくない」

    と甘えるように囁いた。

    毎回儀式のように、ホテルのベッドから、部屋のドアまで手つなぎをして、見送ってくれる。
    帰らないでというような重いことを一切言わない。

    「何か本当に困っていることがあったら助けるし、あなたが愛している世界を、私は壊さない。大切にしてるよ」

    彼女はさっき、そう言った。
    俺は思い切って、長年、胸に秘めていたことを告白した。

    「3Pしてみたいです」

    真夜中のドアが、乱暴にバタンと閉じた。


    「そこに愛はあるんか」 優子

    結婚相談所から速攻でHIDEKI様からの交際終了のお知らせが届いていた。
    最後にLINEを送った。一瞬はときめいた相手だもの、最後に感謝を伝えたかった。

    【昨日はすみません、9コ年下の東京のイケメンとセックスしてました。秀樹さんのお勧め通り、器もチンコもデカいんです。何度もイカせてくれるんですよ。しかも80歳になるまで抱いてくれるそうです。というわけで東京の人とうまくいくといいですね】

    品がない、改めて打ち直しした。

    【いい方と出会えてよかったですね。札幌で手を取って、コートのポケットに手を入れて頂いた瞬間、心が溶けました。大人の男性に守られた安心で泣きたくなるぐらい素敵な思い出です】

    未だに既読がついていない。ヤレないとすぐこれだ。
    【これからお見合い予定】のフォルダーが空になった。

    母と観る『新婚さんいらっしゃい』に出演する夫婦たちをみると、結婚なんてもっと単純なのではないかと思う。
    新婚さんたちは、価値観とか年収とか、容姿とか小難しいことなんか言っていない。好きだったから、その日に電話番号きいて、次の日交際申し込んで、Hしました。
    そのエピソードを、会場の皆様も、84歳の母も笑って聞いている。若いころから、男女交際に厳しかったくせに、何故新婚さんいらっしいの下ネタだけは、母は許せるのだろう?  

    『腫れた、惚れたで結婚するんじゃない』 『金の切れ目は縁の切れ目』両親にそう言われて育ってきた。
    『高卒なのよ、良い人なんだけどね』 『お金はあるけど、狂う血統なのよ』、長年両親によって刷り込まれた、価値観、好きという情熱だけで結婚したいという私オリジナルの価値観。
    アンバランスな自分はどっちつかずのまま、婚活市場で右往左往している。

    このあいだ会った彼も悪い人じゃない。40代まではバリバリ遊んでました、と彼は言った。
    彼が40代の女と結婚したい理由、それは彼自身が一番輝いてて素敵だったた40代を再現したいからだとわかる。それでも優しい言葉の一つでもかけてあげない意地悪な私がいる。それは今若い男に愛されているという傲慢さだ。
    失われた時を求めて、紅茶にマドレーヌを浸して、思い出に浸る時間があったら、それから20年経ったことを把握してほしい。アラフィフ、アラカンの婚活市場は熱い。

    昨日の晩、桐谷にインドの占い師のことを話した。

    「私、80歳までセックスするんだって」

    桐谷は胸に顔を埋めながら、

    「僕、田村様なら80歳まで抱けます」

    と言った。やはり桐谷は、最高だ。

    1ミリの愛もくれない男に恋い焦がれ、その気持ちを乗せたまま、新幹線が出発した。

    【東京の夜で春の気配を知り
    新宿の夜で理性がほどけました
    赤坂の朝の突然のスコールで夏が終わり
    弁慶橋のキスで季節は冬に
    来年はどんな景色になるのか
    そっと 愉しみ。よいお年をお迎えください】


    WHERE IS MY HUSBAND 優子

    『WHERE IS MY HUSBAND』 は結婚を急ぐ女心と、心情を表すかのように、早いアップテンポの曲で、理想の結婚相手を探す必死さがよく表れていて、まるで自分のことを歌っているようで最近毎日聴いている。

    結婚したいというシンプルな願いが、実は、万国共通の女の願いで、その気持ちを代弁する曲が世界中でヒットしたことに、実は驚いている。若くて、綺麗なお嬢さんたちも、
    『どこ、どこにいるの?
    私の旦那は?
    探して、私を見つけて』
    と歌っている。
    52歳のおばさん以上、おばさん未満の私はさらに苦労している。そしてもう一つの課題。

    3Pのパートナー探し。
    ハズバンドではなく、桐谷を楽しませ、喜んでもらう為の女探しに奔走している。
    まず、美人はダメだ。ボインもダメ。Aカップの女がいい、どう寄せてもつかめないサイズのバスト。
    若いのもダメ、ぴちぴちの肌を持つ元気いっぱいの女が飛び跳ねたりするのは不快だ。
    LINEをひたすらスクロールする。若い友達なんかいないし、皆美人だし、ほとんどが貞淑な人妻だ。
    そもそも3Pなんてしたこともないし、想像しただけで、悲しくなる。
    『3Pもしてくれない冷たい人なんだね』と言われそうだし、こんなことで、泣きたくなるくらい切なくなるなんて……涙はもっと悲しい瞬間に取っておきたい。

    『私との一対一のセックスがそんなにつまらないの?』という言葉を飲み込み、桐谷の好みじゃなさそうな、女たちをスカウトしようと、再びLINEをスクロールする。
    年上の友達、華子さんに電話をかけてみたが、潔癖な彼女は、『嫌』と一言冷たく言った。
    彼に3Pを求められた時、思わず、桐谷の同僚の若い男ならいいよ、と冗談で言ったが、

    「僕、何していいかわからないです」

    と生真面目に言うところをみると、ちゃっかり二人の女と楽しむ嗜好らしい。

    「以前やったことがあるの?」

    と聞くと、本当か、ウソかわからないが、経験はないという。

    おっぱいがいっぱいというNHKの歌が頭の中でいっぱいになる。いっぱいおっぱいがあったら、どうやって、4つも愛撫するのだろう。
    映画『トータルリコール』に出てきた3つおっぱいがある親切な女性を入れると、7つのおっぱい。そうすると4Pになる。お見合い相手を探すより、神経を使う。

    スクロールした指先に、加藤ちゃんがいた。以前フッた相手で、今はいい友達になった。
    真夜中の電話もなんだかんだ出てくれる彼。よくお金を払って、セックスすると言っていた。そういうプロなら、引き受けるのじゃないかしら? プロの女性なら?  誰がお金を払うの?  
    以前、いくらするの? と加藤ちゃんに聞いたら、ホテル代を合わせて3万円くらいと言っていた気がする。オプションでと言いかけたところで、話を遮ったから詳しく聞いてない。

    「40代のすごく明るい子でさ、最近指名するんだよ」

    と加藤ちゃんは言った。
    例えば、私がその女性を買う。あなたはプロなんだから、彼に惚れないでって言う。ひたすら下半身だけ触ってて、彼にキスしないでという契約をする。あとは、あとは。やっぱり嫌。買春行為だし、犯罪だ。
    フェラが下手で、体力もないから、桐谷が満足していない悩みを打ち明けた時、加藤ちゃんは言った。

    「いや~プロは違うよ、優子さん。もう素人なんか、敵わないよ、すっごいからプロは。舌の使い方なんて最高だよ。もう骨抜きだよ」


    19時だよ 全員集合 加藤

    バスツアーで僕が恋をして、フラれた優子さんから連絡がきた。東京の彼に会いに行くから夜ご飯しようと言われた。僕らはいい友達だ。

    「いつもありがとうね。加藤ちゃん」

    「これもご縁だからね。しかし桐谷と復活したとはね。あと2時間後に桐谷に思いっきりおっぱいしゃぶられるんだろうな」

    「桐谷3Pしたいんだって、それで私、加藤ちゃんお気に入りの売春婦を……」

    ステーキを置くウェイターの手が止まった。
    優子さん、優しい女、優子さん。
    でもまさか、そこまで桐谷に惚れているとは。重症だな。恋の病。

    「そこまですることないよ、優子さん、惚れてんだろ? はっきり奴に言いなよ。『他の女を抱くところなんて見たくありません』  って。相当惚れてんな。まあ、国宝だからしょうがないか。チンコもデカくて、絶倫とくりゃ」

    「うん、スキなの。心は自由だもの。こうして今、加藤ちゃんと食事をしていても、彼からキャンセルのLINEがきたら、どうしよう……と心配で、怯えて5分おきに見ちゃうの」

    そう言って、携帯を見たとたんに、優子さんは、立ち上がった。

    「加藤ちゃん、ごめん、彼、もう赤坂見附に向かっているって」

    そう言うと、席を立ち、脱兎のごとく走り去った。優子さんの背中に向かって

    「じゃあ、俺もご一緒しちゃおうかな」

    と言ったが、振り向きもしなかった。
    ライスはついておりません、と言ったウェイターが、伝票を置いた。


    走れメロス、優子も走れ

    約束の時間より、だいぶ早い。
    早番ってこと? いつもは閉店後の遅い時間に来るのに。動揺して、手が震えた。
    加藤ちゃんごめん。

    「優子さん……」

    と加藤ちゃんがなにか言いかけたのが聞こえたが、1秒でも無駄にしていられない。
    外でワインを飲んでいた石田純一意識高い系、無理して寒いのにローファー素足男が、何事かと急ぐ私を見た。

    走れメロスも友達を救うために、必死だっただろうが、私も桐谷との情事のために必死にホテルのロビーを奔っている。脳内では運動会で流れる『天国と地獄』がリピートしている。
    チェックイン後、すぐに加藤ちゃんとの待ち合わせのレストランに行ったため、荷解きもしていない。
    『プラダを着た悪魔』の編集長が到着する時のVOGUEの編集室のように、ホテルの部屋の中で右往左往する自分がいる。

    まず、優先順位を考える。彼はエレベーターの中で熱いキスをする。
    まず歯磨き、マウスウォシュ。そして、そして大切な、髭剃り。パナソニックのフェイスシェイバーで口元のひげを剃る。朝剃ったばかりなのに、じょりじょりしている。アンジェリーナジョリー。
    ああもう。集中、集中。そして、下半身だけシャワーを浴びる時間もない。

    それにしても奴は今日、早番だって一言も言わなかった。加藤ちゃんは仕事終わりにわざわざ赤坂まで出向いてくれたのに。
    加藤ちゃんは埼玉に住んでいて、仕事をしに東京に来ているらしい。東京の不思議なところは、勤務先は東京でも、住まいは、健さんのように、○○市だったり、神奈川県だったり、千葉だったり、埼玉で、彼らが必ずしもシティボーイではないということだ。
    加藤ちゃんも

    「赤坂見附に来るのも初めて!」

    と言って、ビルを仰いでみたり、フレンチカフェで、

    「ライスついてないんだね」

    と大声で言ったり、恥ずかしかった。
    地方都市の地元の社長さんたちのほうが、断然洗練されている。
    まあ、そんなことはどうでもいい、もうすぐ桐谷が到着する。

    そして仕込み最後の作業、うるおいジェルをポーチから取り出した。
    焦って手から滑り落ちる。やっとの思いで、膣にジェルを入れた。念のため、もう一つ入れた。

    携帯を覗いた。便器に腰かけたまま息を整えた。ピンク色の携帯用うるおいジェルをまとめてティシュにくるんでドライヤーが入っている引き出しに隠した。そして再び立ち上がり、ロビーに向かった。

    死刑になるのはメロスの友達ではなく私。
    妻帯者の彼に恋をして、一生報われない愛を乞うている。そのためには死刑になってもいい、とロビーで彼に抱き付いた。


    ヤッピー のりピー 好きピー 3ピー 桐谷

    ホテルの部屋までの長い廊下をイチャイチャしながら歩くのは二人の習わしになった。今日も丹精込めて愛撫しようと、早速服の上から乳首を探した。

    「そういえば、こないだセフレって言う言葉嫌だよね、って話したじゃない? 私、いい言葉見つけたの、私たちの関係の」

    「へぇーなんですか?」

    「好きピっていうの。知ってる?」

    聞いたことがなかった。

    「やっぱり桐谷さんもおじさんなのね」

    と言われ、正直52歳の田村様におじさん呼ばわりされてムカついた。田村様は得意げに鼻を膨らませながら、

    「好きピ、私の好きピ」

    と言って、

    「あとからググるか、会社の若い子に意味聞いてね」

    と高飛車に言った。


    「どうしてセフレって言葉嫌いなの?」

    ペニスをいじりながら田村様が言った。

    「田村様に対して使うには、軽い言葉だなと思って」

    「そう」

    と言って田村様は再び股間に顔を埋めた。

    そろそろ時間だ。
    妻の妊娠を告白したら、田村様がこの関係を終わらせるのではないかと思っている。その前に3Pを経験してみたい。その気持ちを見透かしたように、田村様は言った。

    「あのね、一応3Pの相手を探したの。私のアラフィフの友達、皆口を揃えて言ったわ、『もう濡れないし、痛いし、セックスに興味ない』  って。アラフィフで精力旺盛な女って、私以外に斉藤由貴しかいないと思う」

    まじめに聞いてくれた彼女の律義さに、少し感動した。
    バスローブを羽織りながら、彼女が呟いた。

    「やっぱり、あなたが他の女の子とキスしたり、抱き合ったりするのは嫌。私は普通に桐谷さんのことが好きだから」

    妻の妊娠を隠し、関係を続けることはできる。でも彼女には隠し事をしたくない。何故だろう? 
    そこまで悪い男でも、HIDEKIのようなプレーボーイでもない、と正直に伝えたい。テクニシャンなのは、観察力があるということだし、女性が喜ぶ瞬間が大好きだという単純なことなのに、田村様は自分を東京一の浮気男だと思っている節がある。
    たまにはデートをしてみたい。自分という人間を知って欲しいと思った。
    恋や愛ではない。ただ、肉欲だけで自分という人間を決めつけてほしくはない。彼女から尊敬されてみたい。英語も話せて、気ままに、自由を謳歌する年上の女性は魅力的だ。

    家では高齢出産でピリつく妻と、それを感じ取ったようにウサギも元気がない。ウサギはオスなので妻の方に懐いている。夫婦の子供代わりだったウサギは、もうすぐ自分の役目が終わると気づいたのかもしれない。

    セックスの後、笑いながら田村様は言った。

    「ウサギって寂しいから死ぬわけでもないでしょ?」

    ウサギを飼っているとよく人から言われる。『ウサギは寂しいと死ぬんでしょ?』

    「桐谷さんのウサギ、もうすぐ死ぬの?」

    「死なないですよ、ただ元気がないだけです」

    「私、ウサギの気持ちわかる気がする」

    田村様を抱き寄せた。もう少し、妻の妊娠は内緒にしておこう。


    ちょっと待って、プレイバック 優子

    「妻が妊娠5か月なので家にいました」

    お正月をどう過ごしたか? と聞くと桐谷が言った。 

    『妊娠?? ああ、やっぱりそうだったんだ……』
    これまでの記憶と桐谷の不可解な行動の謎が解けて、頭の中での答え合わせが一瞬で終わる。
    『妊娠5ヶ月…』
    なんとなく、前から薄々わかっていたような気がする。

    「今日は残業です」

    と桐谷が言った9月の下旬に『彼は身動きが取れなそう』
    と占った占い師。

    【身内に体調が悪いものがいる】  
    という内容の桐谷からのLINE。
    無視された私から送ったLINE。
    彼が連絡をよこさないので、わざと連絡をせずに、お店まで奇襲をかけた日も、復縁の時もマスクをしていた。身重の妻に、インフルエンザやコロナがうつらないように予防していたのだ。
    分かっていた、最初から。子供がいないことも。子供がいない寂しさを、女で埋めることも。

    ああやっぱり……

    そして大好きな、大きな手がガサガサしていた。
    妊娠した妻の為に一生懸命消毒でもしたのだろう。指の間という間が荒れていた、もしくは家事をすべてこなしていたのだろう。美しく、寛容な妻の為に。
    『今日は時間がない』と言っていたのは、こういうことだったんだ。

    よかった、嫌われてドタキャンされたのではなく、身重の妻の看病で忙しくて、連絡できなかったんだろう。
    そう思った瞬間、私とセックスしてる場合じゃないでしょうに、という気遣いが生まれた。

    「じゃあ、時間ないよね、帰る? ワイン持って帰っていいよ」

    なぜか慌てて素っ気なく言ってしまう。
    桐谷は服を脱ぐの止めない。

    「いや、抱きたいです」

    と言ってベッドのふちに腰かけ、胸に顔を埋めてきた。
    抱きしめた。ぎゅっと。
    のちに何度もテレビで繰り返される、『リクりゅうぺア』   のシーンを見るたびに、この夜を思い出すことになる。

    思っていることが、口からふいに出てしまった。

    「おめでとう、良かったね。パパになるのね」

    「ありがとうございます」

    「他にお子様いらっしゃるの?  一子目?」

    「はい、一子目です」

    「妊活してたの?」

    戸惑ったように顔を上げた。

    「え、ええまあ はい してましたね」

    「おめでとう」

    嫌いだからドタキャンされたわけではなかったという安堵と、同い年の妻との第一子目誕生という告白に、『やっぱりそうだったんだ』 ということだけしかなかった。
    おっぱいの間に顔を埋めながら、桐谷が律儀にお礼を言った、
    『ありがとうございますぅ~』  が
    『はひがとうごぜいますぅ~』  に聞こえる。
    ちょっと待って! プレイバック。
    妻の妊娠を喜ぶ愛人っているだろうか? 愛していないから、友達だから喜んじゃったのかも?  

    しかも、書き始めたばかりの小説の第一話で、妻という存在にあまり触れたくなくて、作中で勝手に流産させてしまった。

    『神様、お願い、無事に産まれますように』
    そう思ったのも束の間、いつもの悪い癖で、感情を後回しに、快楽に身をゆだねる自分がいる。
    彼の乳首を強めに噛んだ。


    残酷な天使のテーイン 桐谷丈二

    田村様が膝の上に乗りながら、甘えた声で言った。

    「ここね、私が20歳ぐらいの時からある、フレンチビストロなの。
    ここに一緒に来る人はぜったい、イケメンで都会的な人で、好きな人と決めてるの。
    ここに何度も来たことがあるけど、デートの場所としては断ってるの。
    だからね、桐谷さん、私とデートしていただけますか?
    あなたとここに行くのが夢なの」

    「今度行きましょう」

    とおでこにキスをするも、内心、そろそろ潮時かな、と思った。というのも不覚にも、彼女のことを好きになってしまったからだ。いつからだろう? 彼女に惚れたのは?

    『父親になるんだ』
    という思いで喜んだのも束の間、そのプレッシャーに押しつぶされる夜。妻が寝た後、ベッドを抜け出して、そっとリビングで缶ビールを飲みながら、非通知にしてあるLINEを開く。

    【あなたのこと、ふと思い出しました。体に気を付けてね、次回お会いするの楽しみにしてるね 好きピより】

    彼女に勘違いさせないように、スタンプ1つおくる。以前のようなハートや、キスのついたスタンプではない。お願いだから、僕に惚れないで下さい、という意思表示でもあるし、俺が愛しているのだと勘違いさせないようにしているからだ。
    ところが、どういう訳か最近彼女のLINEを待ち遠しく思っている。

    子供ができたことにより、ダブルインカムノーキッズで比較的、優雅な今の生活が一変する。
    田村様の情事には一円もかからないし、楽しいが、そこに生まれて初めて、罪悪感という感情がおきたのは、いつからだろう。妻に対してではない。彼女に対してだ。
    妻が身ごもったことを告白した時、『おめでとう』 と言われたからか? 
    『あなたが大切にしてる世界を奪わないからね』 と言われたからか? 

    親友に田村様との関係を打ち明けた時、

    「ラブホ代もデート代もかからない、都合のいい女だな」

    と言われて、その時何故か、親友を殴り倒したくなった。
    それだけじゃないんだ。
    そういうことじゃないんだ。
    優しい人なだけだ。

    連絡するのを忘れた時、急に店に現れて復讐まがいなこともされたが、その後すぐに、スニーカーを買ってくれた上に許してくれた。
    子供ができたことを伝えても、嫌われないだろうと、そのやさしさに甘えた。彼女はどんな気持ちで『おめでとう』  と言ったのか。彼女の身体を求めながら、妻を抱く自分を彼女はどんな気持ちで……。

    俺は残酷なことをした。もう別れよう……つらくならないうちに。
    愛ではなかった。ただ、単純に好きなのだ。

    「お綺麗ですね」

    と正直に言うと、田村様はいつも自信なさげに、

    「本当? お世辞じゃなく本心で言ってるの?」

    と確認する。
    自分だって。毎月妻に生理が来る度、俺は男としての能力がないからだ、と絶望する。
    そんな時、彼女に

    「凄い、桐谷さん流石」

    と言われると、男としての自信がみなぎる。
    そういえば田村様が

    「桐谷さんに会うようになってから、度々生理が来るの。
    もう女を卒業してもいいのにね」

    と寂しそうに言ったことがある。
    きっと僕たちは似ている。交わることによって、男であることを、女であることを、肯定している。

    「お別れする時は、きちんとお話してね」

    ケージにいるうさぎの目に涙が光った。


    どこにでもいるわ 特別じゃない 私 看護師 宏美

    「小説読んでね」

    とインドの旅行で知りあった、田村優子さんからLINEが届いた。そんな趣味があったとは知らなかったので、驚いたが、インド旅行中に

    「本が好きなの」

    と言って、『ブーリン家の姉妹』という本を読んでいたのを、ぼんやりと思い出した。
    noteの小説は、優子が15年ぶりにセックスした話や、サラリーマンの彼氏、イケメンとの不倫話で、夜勤中にこっそり読んだり、明け番の朝、帰宅途中の電車の中で読むくらいの軽い内容で、エンターテイメント的には楽しめた。
    が、しかし、先日、優子から突然電話がきて、彼の妻が高齢出産で子供を産むという話を聞かされ、それでも関係を続けるという優子にさすがに呆れた。
    彼の妻が心配で、お参りに行ったり、変な妄想にとりつかれていて

    「私のおかげで彼の妻が妊娠したのよ」

    とか言い出した。
    「チャッピーに聞いでみたの。そうしたら、それは医学的にはあり得ない、ですって。
    テストロゲンの数値が上がりますか? とか聞いてみたら、『それは違います』だって」

    「優ちゃん、いつも自分の事ばかりで、私の事、1ミリも興味ないから覚えてないでしょうけど、私、病棟から産婦人科診察外来に異動したばっかりなのね。
    察してもらえるとありがたいけど」

    産婦人科で働いて、はや30年。いろんなドラマを見てきているので、さほど優子の小説に衝撃は受けないが、さすがに不倫相手の妻の妊娠を喜んだり、自分が彼の生殖能力をアップさせる能力があるという、あげまん発言にはのけ反った。
    不倫相手に平気で妊娠を伝える桐谷もイカれているが、まあ、居酒屋で人目をはばからず、キスするぐらいだからわからなくもない。
    でもこればかりは何とも言えない。男と女に関しては、本当に不思議だ。

    婦人科で働いていると、生命の神秘どころか、男女間の神秘の、そのヴァリエーション多さに畏怖を覚える。
    どこにでもいる、普通の人間の私には到底理解できない。私はただの看護師なのだから。

    若い時、一度結婚した。
    夜勤明けで帰ってきたら、主人が家で、私たちの寝室で女を抱いていた。

    「妊娠していたから、夜勤はやめます」

    と言おうとしていた矢先に。
    どこにでもある話。

    相手の妻の妊娠を祝う優子の偽善者面。
    いつかあれは実話だと暴露してやる。
    もっと多くの人に読まれるまで、そっと、そっと優子に寄り添いながら、不倫を正当化したあの色ボケ52歳の作品を育ててやる。
    産まれてこなかった私の可愛い赤ちゃんを育てる代わりに。

    「おはようございます、今日は妊婦健診ですね。体調はどうですか?
    先に体重、血圧の測定と採尿は済ませてますよね?」

    「はい、それと今日は、まだ少し早いのですが、実家が名古屋なんですけど、里帰り出産を考えておりまして、紹介状や、名古屋のどこの産婦人科にしたらよいか、先生とご相談しようかと」

    優子のnoteにある小説は、わざとらしく多くの伏線がちりばめられている。
    まさか、どこにでもいる、特別でもない普通のナースの私が、この物語の主人公になろうとは。

    「お間違えないよう、お名前、生年月日をお願いします」


    冷静と情熱と小説の間 優子

    帰りの新幹線の中で、調べものをするという習慣ができたのいつからだろう。15年ぶりにセックスをした日からかもしれない。
    最初はいろいろなことが気になった。フェムケア、濡れる、50代勃起、更年期。そして今日の課題は高齢出産と妊活についてだ。
    チャッピーに、ドタキャンされた日を入れて、

    「ここで性交すると出産日はいつ?」

    と聞いてみた。

    「7月上旬です」

    桐谷が言った日時と一致した。
    ついでに

    「外資系企業の育児休暇の期間はどれぐらい?」

    と聞いてみた。

    「里帰りはいつごろ?」

    と聞いた。
    たまには二人で一晩中、いいやデートをしてみたいと思った。妻が妊娠中の浮気調査で、約半分の男の人が、『チャンスがあればする』  と答えていた。

    そして私の女子友は今まで、イケメンで、絶倫男との不倫をNetflixのドラマを観て楽しんでいるかのように、『続き聞かせてね』 と言っていたのに、最近では、眉をひそめるようになった。
    子供がいる、いないかの違いだけで、こんなにも世間の反応が180度変わってしまうことに、本当に驚いてしまう。

    9月の下旬、桐谷と会う約束をした日に

    「今日は残業です」

    と言われ、ドタキャンされた。
    せっかく東京に来たのだからと彼の店に行ってみた。
    残業すると言う割には、お店にお客さんもいなかったし、スタッフさんと暇そうに話をしていた。
    ウソをつかれたのだ、と察して

    「お元気でね」

    と言って握手するために手を差し出した。
    自分のしわしわの手が恥ずかしくて、ぺちゃんこになった髪の毛がみすぼらしくて、何より涙がこぼれてきそうだったので、急いで店を後にした。

    あの日、彼は妻を抱いた。あの大きな大好きな手で。
    私を抱いた時のように、まずキスをして、甘い唾液で、口の中をいっぱいに満たすの?  
    大きな手で、背中に手を回して、囁くの?  
    どんなふうに奥様を抱くの?
    二人でお風呂に入ったりするのかな。
    時間は果てしなくある。夫婦と言う果てしない時間が。そして、

    「愛してる、可愛いよ、愛してる」

    私には一度もかけてくれたことはない愛の言葉を。

    赤ちゃんができてから、2時間の滞在が、1時間になったのよ。
    それでもいいの、大好きだから。
    『愛してますよ』  の一言の代わりに、愛してるのかわりに、そのかわりに……そこで、代わりなんて、何もないことに気づいてしまった。
    何もない。
    甘い言葉も、ウソの愛してるも。体臭すら残していかない男。私はただのおっぱい。だから皆、眉を顰める。ただのおっぱいなのにまだ気づかないの?

    「私ね、きっと普通の女とは違う愛し方なの。女の人っていろんなものを欲しがるでしょ?  
    愛や、デート、記念日、プレゼント、時間まるごと。
    でもね、私は違う。人を愛することって、その人が愛してる世界を尊重して、その世界を奪わないことだと思う。
    だからあなたのこと、大切に思ってるし、毎日楽しく過ごせるようにと祈ってる。
    困ったことがあったら、言ってね。助けるから。大切にしてるよ、桐谷さん」

    ホテルの天井を見上げていた桐谷は、しばらく黙ると

    「それは、感動しますね」

    と言った。
    いつも通り、芝居がかったような感じでもなく、英語だったら、『How Sweet』ぐらいな感じの受け答えだった。

    私はおっぱいだけじゃない。大人の女性で、しかもきちんと人を愛せる女性だ。

    「私、セフレって言う言葉嫌い」

    「僕も嫌ですね」

    「どうして?」

    「田村様に使うには軽い言葉だと思います」

    目をのぞき込んで、真実かどうかを確認するには、自信がない。これがただの恋の戯れであれば、桐谷はなんて残酷なんだろう?

    私と桐谷を取り巻く世界は、冷静と情熱と小説の間を彷徨う


    やもめの佐藤

    小さかったころ、翔太が言った。

    「パパ、ママのことデパートで買ってきてよ」

    ベビーシッターさん、お手伝いさんの君江、家庭教師のアベちゃんと、たくさんの大人に囲まれて育ってきた翔太だったが、ママが不在である淋しさを抱えていたと思うと胸が苦しくなった。
    心の中で誓った。『ママを探すよ。翔太』  以来婚活をしている。

    これまでにも様々な女性と婚活をしてきたが、9歳という翔太の年齢がネックとなってお見合いが、なかなかうまくいかなかった。
    プロフィールに子持ちOK、バツイチOKとなってはいるが、例えば子供が成人して独立しているケースや、まだ自分が本当の母親と信じ込ませられるくらい幼い年齢だったらいい、というケースがほとんどだ。

    翔太を産んだ母親は母性があった。子供3人かかえて懸命に生きていた。健気で美しい聡子。
    しかし、翔太を、せっかく身ごもったとたん半狂乱になった。中絶したいと泣き叫んだ時、思わず頬を叩いた。

    「私、もう子供が3人いるのよ、いらないわ、43歳でまた子供産んで、もうたくさん。
    堕ろすわ、明日病院に行く」

    次の日、違う病院に連れて行くと、統合失調症と言われた。
    さらに追い打ちをかけるように、今までも薬を飲んでいたことが医師から告げられた。生まれるまで、命がけでお腹の子を守った。母子手帳いっぱいに、気分が悪いだの、産みたくないだの書いてあった。
    必死にそれを消して、お手伝いさんの君江さんに、『パパが毎日早く帰ってきてあなたに話しかけるの。ママは幸せよ』 と書き直してもらった。
    離婚から9年、勉強好きな賢い子に育った。いずれ麻布にある名門校も合格するだろう。東大医学部の家庭教師を雇っている。
    あとは母親だ。綺麗なだけの女はダメだ。育ちのよい、母性がある女。名門校の授業参観にきても恥ずかしくない母親。

    白いワンピースを着た田村優子という女性に交際の申し込みをした。その笑顔からは母性が滲み出ていた。この女性を愛せるだろうか?  
    いや、愛は二の次だ。女が欲しければ買えるだろう。
    息子が幼い頃   『ママをデパートで買って来てよ』 と主張した言葉を実践することはできないが、デパートに女を連れて行き、好きな物を買い与えればいい。たいていの女はなびく。愛は後からついてきてもいい。
    相手は52歳と書いてある。それくらいは理解するだろう。


    佐藤 翔太 9歳

    お手伝いさんの君江さんが、今日の為にデパートに行って買ってきたというラルフローレンのズボンが少しキツイ。
    パパが一生懸命作るご飯は色どりがよくて、こりに凝っているけど実はあまり美味しくない。
    パパの食事より、君江さんとつまみ食いするローソンのコロッケの方が美味しくて、パパが出張に出かける度、ついつい買って食べていたら太ってしまった。

    「なんでも○○在住の方らしいのよ、写真見たけど綺麗な人よ」

    僕のママになってくれる人、どんな人かな?
    授業参観に並ぶ同級生たちの母親を思い浮かべながら、この人がいい、あの人がいいと想像をめぐらせた。
    授業参観には少し嫌な思い出があって、パパがクラス一美人な麗奈ちゃんのママと喋った次の日、隣の席の奴が、

    「お前の父親、スケベだな、麗奈のママと不倫してんだぞ」

    と皆の前で叫んだ。
    麗奈ちゃんは美人で勝気なので、そのまま

    「あんたのパパ、不倫してなかなか家に帰ってこないって、うちのママ言ってた」

    と言い返し、クラスは大混乱になった。
    しばらく誰かが、誰かと付き合うと、不倫という言葉がクラスに蔓延した。

    今日はお母さんになってくれる人に逢いに行く。本当はパパと3人でお出かけ予定だったが、パパが出張で大阪へ行くことになり、お手伝いさんの君江さんと田村優子さんと3人で会うことになった。
    君江さんが車の中で言った

    「翔ちゃん、そんなに緊張しなくていいよ、無理して良い子にならなくていい。いつもの翔ちゃんでいてね。
    悪い継母になりそうな人だったら、その合図に、コーヒーを頼むわ。いい人だったら紅茶を頼むわ。それでどう?」

    そう言って君江さんはいつものように、お尻をポンっと叩いた。

    子供の時はデパートでママも買えると思って気軽に父親におねだりしたが、今はそういうこともなくなった。
    たまに、他の子が『ママがね』  なんて口にするのを羨ましい気持ちで聞いたりもしたけど、君江さんも家庭教師もシッターさんもいるから、普通のおうち子と変わらないんだな、と思ったりする。
    美味しいごはんが作れて、一緒にゲームをしてくれて、お菓子食べたり、そして一緒にたまに寝てくれたり。いやいや、それは無理かも。パパはママと寝るんだろうから。
    昔、見た君江さんの垂れたおっぱいでもいいから、触れてみたいと思った赤ちゃんの時とは違って、今はおっぱいが何なのか知っている。
    目の前にさほど自分と身長差がない女の人が立った。

    「はじめまして、翔太君、田村優子です、優ちゃんてよんでね」


    やもめに何が起こったか? 優子

    あまり気の進まない、東京在住の子持ちのやもめとのお見合いを設定した。

    「こんばんは、田村優子様ですか? 初めまして、佐藤守といいます」

    「初めまして、今日はよろしくお願いします」

    暫く二人でメニューを見た。
    お見合い紹介所のルールで、最初のデートはコーヒーや飲み物のみ、しかも男性が支払うこと、となっている。ただ今日は桐谷に会うついでのお見合いだからノーカウントだ。お腹がすいている。我慢できずに聞いてみた。

    「実は今日、あまり食べていなくて。自分で払うのでごはん食べてもいいですか?」

    佐藤さんは笑って

    「実は僕もお腹がすいているんですよ」

    と言って快く承諾してくれた。

    「わざわざ新幹線でいらしてくれたんですね。関東に嫁ぐのは大丈夫なんですか?
    こう言っては何ですけど、ご両親まだご健在でしたよね」

    「はい、でも父も母も元気ですし、兄も地元に帰ってきました。その点では何も問題ありません。
    週末婚でもいいですし。佐藤様にはお子様一人いらっしゃいますよね? おいくつでしたかしら?」

    「9歳です。中学校受験をさせるため、毎日塾や、家庭教師をつけて勉強しています」

    「差し支えなければ、どうして離婚されたか教えて頂けますか?」

    「僕が43歳の時に離婚しました。翔太はまだ生後3か月でした。
    妻がマタニティーブルーになってしまって。元から情緒不安定だったんです。腹違いの連れ子も3人いました。
    彼女の兄も金を無心してくるやつで、泥沼離婚でした。一家総出でたかり屋というか」

    話を聞きながら、出てきた食事にがっついた。お腹がすいていたし、美味しいしで、どんどんテンションが上がっていく。

    「翔太君の写真、見せていただけますか?」

    写真には、色白で、ぷっくりした、いかにもお受験しそうな、あか抜けた坊やが体操着を着て写っている。
    これだけでなんとなく事情が分かった。一流ではないが、そこそこの大学を出てサラリーマンとして働いた。お父様からの会社を継いだ。
    そこで出会った色白の美しい子持ちのバツイチの女。周りの反対を押し切って結婚した。彼女の成人した子供たちは家を出ている。まもなく身ごもった。
    妻の言動がおかしい、子供が生まれるとますますおかしくなった。箪笥の引き出しから多数の精神安定剤が見つかる。お薬手帳を見て驚愕する。
    結婚する前から色々飲んでいたようだ。もう限界だ。一緒には住めない。おまけに離婚を言い出した途端、彼女の兄から慰謝料として多額の金額を要求され……。

    なにはともあれ、目の前にいる小太りの子持ちのやもめは、

    「多少財産があったので、やもめでも、お手伝いさん、ベビーシッターさんでどうにかここまでやって来れました』 」

    と言って頭をかいた。

    「どうして私を選んだんですか?」

    とただの好奇心で聞いてみた。
    美人だったのでという言葉が聞きたかったが、意外な答えが返ってきた。

    「母性がありそうだったので」 


    優子ママになる

    肌が白い、可愛い眼鏡をかけた坊やだった。私より頭一つ分、小さい。9歳のこの子が年の割には小柄なのか、年相応なのか、私にはわからない。
    想像していたとおりに『こんにちは』 と言って頭を下げる姿。なるほど、野球をやっていると聞いていたが、頭の下げ方も清々しく、一遍で気に入ってしまった。
    父親が言っていた通り、大人に囲まれて育っているせいか、物おじすることもなく、テキパキと好きなものを頼んでいる。
    気になるのは隣に座るお手伝いさんだ。女中ヅラとはよく言ったもので、生まれてこの方、女中になるための人生と思えるくらいの顔立ちで、普段なら、もう少し眉を整えればスッキリ見えるのに、とか相手のことを考えてしまうのだが、そこすら思い浮かばないほどだった。

    「お料理、美味しいね。ここのレモンケーキも美味しいから後で食べよう」

    と勧めると翔太君は、こくんとうなずいた。

    「毎日何時に起きるの?
    好きな食べ物は?
    アニメは何が好き?」

    何を聞いていいのか、わからないけど、一通りのことを聞いてみた。
    白い頬は、当たり前にしわ一つなくコラーゲンたっぷりそうで、思わず手を伸ばし、ほっぺをつまんでしまった。
    翔太君は赤くなって、下を向いた。

    「ごめんね、ついついおばちゃん可愛いものを見ると触っちゃう癖があるの」

    と言い訳をした。

    「大丈夫です」

    と力ない声が返ってきた。

    「私も翔ちゃんのお尻をいつもポンと叩いちゃうの」

    と君江さんも負けじと言った。

    「翔太君と二人でお話してもよろしいかしら?」

    「ええ、私、コーヒー頼んでここでゆっくり飲んでますね。旦那様から食事代いただいてますので」

    二人でホテルのお庭に出た。
    外国人の老夫婦に話しかけ、写真を撮る手伝いをすると、翔太君が手をつないできた。

    「優ちゃん、英語喋れるの? すごいね。パパが言ってた、優ちゃんはイギリスの歴史好きなんでしょ」

    「まあね、でも勉強は嫌い、私も中学受験だったけど、勉強は嫌だったな。
    でもこうして幸せに生きて、50年も生きてる。昔で言ったら、長生きもいいところよ、長老よ」

    「チョウロウって何ですか? 僕はパパの会社を継ぐんだ、だから勉強しなきゃ」

    「ふう~んすごいね。パパを見て幸せだなって思う?」

    「優ちゃん、わからないよ……僕9歳だから。
    でも酔っぱらって、今は糖尿病でお酒飲まないけど『俺は翔太がいて幸せだよ』 って言ってた」

    そう、その存在だけで幸せを感じられる人に巡り合える確率ってどれぐらいなんだろう?  
    むっちりとした、小さい手をぎゅっと握った。ママになれる気がする。今まで一度も考えたことはなかったが、ママになるってどんな気持ちだろう。

    桐谷にフラれたと勘違いをし、日に日にやつれていく私を両親は甘やかした。
    仕事を奪った兄嫁にいじめられてる風に装ってうまくカモフラージュしていたが、意外と男関係で悩んでいることはバレていたかもしれない。
    ローソンで買ったゴルゴ13を片手に85歳になった父が、誰に言うわけでもなく呟いた。

    「娘を傷つけるような奴がいたら、俺はゴルゴ13に殺すように依頼する」

    桐谷はパパになり、私もママになる。
    彼に赤ちゃんが生まれる。7月4日だと産婦人科で働く宏美ちゃんは言った。アメリカ独立記念日に産まれてくる女の子。女の子の気がする。
    彼はあの大きな、綺麗な手で赤ちゃんを抱っこして、産後の肥立ちが悪い妻の為に、急いで帰るだろう。
    妊娠中の妻を持つ男の浮気調査で、チャンスがあればするに答えたのは50%。

    去年、東京のうだるような夏の日、ホテルの部屋で言った。

    「あなたといつかモロッコに行きたい」

    「僕、既婚者ですよ」

    知ってる。
    シルバーの結婚した証の指輪をしながら、私の乳首を弄んだ。冷たい金属の感触が悲しくて、つらくて、私はわざと指輪をくるくる回した。
    オーガズムの歓喜の涙のように見せかけたあの涙は、セックス中にひとかけらの愛ももらえない悲しい中年女の涙。

    「今日も楽しかったですね」

    「また来月ね、桐谷さん」

    重くない女を演じ続けるのはもう限界だった。
    白いぷっくりした手が、少し汗ばんできた。私の尋常ではない様子に不安にでもなったのだろう。翔太君がのぞき込んだ。黒目がちの目が桐谷のようだ。

    「優ちゃんのこと、ママって呼んでもいい?」

    ママになれるだろうか?  
    まずは行動することだ。父と母の顔が浮かんだ。佐藤さんと二人で愛情深く翔太君を育てることができるかな。言葉は出ない。その代わり大きくうなずいて、ぎゅっと抱きしめた。
    いつもは桐谷の顔が挟まる位置に、翔太君の眼鏡のフレームが当たった。
    そして今夜も、何時間後に、私は桐谷を胸に抱く。


    骨まで愛して 優子

    朝から、ずきずきと股関節が痛くなった。昨日の夜、いつも通り、桐谷が乗っかった時に鈍い痛みがあったが、今朝その痛みが、ますます痛くなった。
    昔、ひびが入ったことがあり、そこからは慎重に暮らしてきたつもりだが、おそらく昨日のセックスで、ひびでも入ったかもしれない。
    それにしても52歳のセックスの体力のいることと言ったらまあ半端ない。なかなかハードで大変だ。
    心地いい疲労感と甘い夜の思い出と、激痛の股関節の私を乗せて、新幹線が東京を後にした。

    主治医の先生が今日は当番の日で、安心した。午前の受付にも余裕で間にあった。新幹線を降りてすぐに病院へ向かう。半年ぶりの診察だったので、改めて問診表を書かされた。
    『身長181cmのイケメンでアソコが大きい男と、正常位でやっている時に股関節を痛めました』  と書いたら自慢になりそうだったので、『歩きすぎで、股関節が痛いです』   と、ウソを書いた。

    「田村さん、また股関節が痛むんですね。レントゲンではひびなどは入っていませんよ。いつからですか?  歩き過ぎってことは」

    「昨日の夜からです」

    「昼歩いて、夜痛くなったてこと?  きっかけに思い当たることはないですか?」

    「先生、歩きすぎはウソです。実は昨日の晩、セックスして、それで、正常位だったんですが、足がこう開脚して」
    手で足が開いた様子をデモンストレーションした。
    セックスと言ったとたんに、電子カルテを打つ先生も、看護師も手が止まった。看護師は天井を仰いだ。先生はセックス?  性行為?  とつぶやきながら、どっちの言葉をカルテに入力しようかと画面を見つめた。
    そしてセックスと(正常位)と打ち込んだ。その後、股関節の模型を取り出して、正常位での股関節の圧迫される様子を丁寧に説明してくれた。

    「電子カルテに、セックスで股関節を痛めたって、打つなんて。先生、せつない作業ですよね、すみません……」
    先生はクールに、正確な原因が分かったので、と言いながら、鎮痛剤を処方してくれた。松葉づえを持ってきてくれた看護師さんの頬が赤かった。電子カルテシステムによる情報共有というやつだ。
    永遠に残る私の病歴。『セックス(正常位)を昨晩行った際の、右股関節激痛』

    「先生、いつか先生も、私も、看護師さんも年を取って、私に人工股関節を入れる時、カルテを読み返しながら、田村さんも若かったな、って笑ってくれると嬉しいです」

    先生も看護師さんも笑ってくれた。先生の笑い声を初めて聞いた。

    「先生、来月もセックスする予定です」


    マグダラのマリアの優子VS同級生 弁護士の恵美

    「私、子供ができたのよ」

    弁護士事務所に松葉づえをついた優子ちゃんが訪ねてきて、開口一番に言った。
    一瞬カレンダーを見た。エイプリルフールかと思った。彼女が弁護士事務所に来るという時点で、婚姻外の恋愛関係の裁判の流れをどう説明しようかと資料を秘書に用意させていたのに、内容がすべて吹っ飛んでしまった。
    番組『アンビリーボー』に出演するかもしれない、今年で53歳になる同級生の腹部を見た。

    「まさか、恵美ちゃん、桐谷との子供じゃないよ。私、9歳の息子さんがいるやもめとお見合いしたの。
    彼のことは全然好きじゃないけど、ママになろうと思っているから、法的手続きとか、財産の事を知りたくて」

    何かが、弾けた。ホットフラッシュで、汗がぼたぼたと流れ始めた。

    「いい加減にして、目を覚まして」

    思わず机を叩いた。
    流石の優子ちゃんもびくっと肩が上がった。
    どいつもこいつも、貧しい者も、富める者も不倫して、バレて、離婚して、裁判して、子供を取り合って。弁護士費用払えないとか、会社クビになったとか。バカの一つ覚えのように、皆口をそろえて言う。
    愛してましたと。
    弁護士から言わせてもらえば、これが一番厄介だ。愛を法律で裁く難しさ。今日こそ優子ちゃんの不倫を止めさせる。
    弁護士目線で、この恋愛で優子ちゃんがどれだけ不利になるかを説明するつもりだ。察したかのように優子ちゃんは

    「桐谷とは終わるわ」

    と言って六法全書がある、本棚を眺めながら呟いた。

    「本当は書面で書いてもらいたいくらいよ。皆別れたと言いながら、何十年と周囲を欺いて不倫して、裁判になってるのよ。不倫しながら、お見合いして、子持ちの男の人もその連れ子も不運ね。優子ちゃんみたいな、バカな女に騙されて。桐谷だって、子供出来たんでしょう?皆に聞いたわ。
    今度は産まれてくる彼の子供まで傷つけるつもり?」

    「昔、高校の時の聖書の授業で、マグダラのマリアのこと教わったの覚えてる?  『悪いことしていない人間だけが彼女に石を投げよ』 とイエスは言ったわ。誰一人投げなかった。
    恵美ちゃん私に石、投げることできるの?」

    「投げられるわよ、これでも弁護士よ。今日の1時間、一万円頂くね。一万円で済んだと思ってね。
    桐谷の妻が、優子ちゃんが小金持ちなの知ってたら、1000万円は取られるよ」

    突如、優子ちゃんは言った。

    「恵美ちゃん、子供欲しかった?」

    痛いことろを突かれたような気がした。
    弁護士の夫との間に子供はいない。二人ともキャリアを優先した。自分は浮気はしていないが、清廉潔白であるはずだった夫が2度ほど朝帰りをした。責めはしなかった。昔からそっちは淡泊だったし、プレ更年期で触れられるのもしんどかったので、相手をしてくれる女性がいてくれてよかったと思ったぐらいだ。
    更に汗が額から流れてきた。優子ちゃんはどうやって更年期を 乗り切ってるのだろう? とふと思った。
    そして今、なぜか優子ちゃんが夫の浮気相手に見えてきて、ますます憎たらしくなった。慌てて、いつもの冷静な弁護士の仮面をかぶった。

    「あのさ、人生舐めてるよ。不倫して今度はママになるとか。お相手のやもめの方にも失礼だよ。
    優子ちゃんのことだから、ご両親にも、お兄様にも伝えてないでしょ? 仮に結婚して、次の日、優子ちゃんが死んだら田村家の財産はその子に行くんだよ。そういうの考えた? その子が将来グレて刑務所に入ったら、田村家は破滅だよ。そういうリスクとか考えないの? 53歳だよ、子育てまず無理でしょ。子育て舐めてるよ。
    ひょっとして桐谷の妻が妊娠したのが悔しくて張り合おうとしてる?」

    最後の一撃が効いたようだ。

    「はい、一万円」

    ヴィトンの長財布から、綺麗な新札を出した。

    「死んでも書面に桐谷と別れることは書かないから。私は何にも誓わない。
    一つだけ言わせてもらうね。彼との恋は1000万以上の価値があるし、桐谷を愛したことに悔いはないから」

    その表情は明るく、晴れ晴れとしている。
    もう一言、言ってやりたいが、とっさに思いつかない。
    『皆、優子ちゃんがカラオケ行く度、マイクを独占して、テレサテンの日陰の女三部作を泣きながら熱唱するの嫌がってるよ』   と言いかけた。

    「皆、心配してるし、迷惑だよ」

    「皆って誰?」


    清く、正しく、美しく、なんてったって母性
    やもめ 佐藤 守

    田村優子さんから『至急会いたいです』  という連絡がきた。
    5月5日の子供の日で翔太にプレゼントを買ってくれたのだという。『楽しみにしていてね』  というスタンプが送られてきた。
    翔太と優子さんはLINEでつながっていたので、三人でグループを作ろう、と提案したが翔太は嫌がった。
    先日も夜中までひそひそとしゃべっていた。すっかり二人は打ち解けて仲がいい。
    3年間も婚活した甲斐があった。ただ、自分には彼女の愛情表現に少し疑問がある。あっさりしすぎていて、LINEのやり取りでは、好きとか♡スタンプは一切ない。
    子供の為の結婚だが、一応夫婦になるのだから、そういうことは当然あってもいいし、大切だと思っている。
    自分のことも含めて翔太が好き、という認識でいいのかどうか? 不安になる。遠慮して、まだ二人っきりのデートに誘っていない。

    「子供の日ですけど、今回は翔太君抜きでお願いします」

    「ああ、わかりました。ホテルのラウンジでいいですか?」

    「はい、こないだ翔太君とホテルの庭を散策しました、晴れたらいいですね」

    と言った声は堅かった。

    優子さんと翔太との初顔合わせが終わり、帰って来た翔太が開口一番に、

    「優ちゃんて何歳?」

    と聞いてきた。
    周りの母親は30代から40代前半。明らかに彼女は年を取っていた。『パパはね、若い女にはモテないんだよ……』と言いかけてやめた。

    お見合いから数週間後、会社の事務所に興信所から調査結果が入った封筒が送られてきた。
    翔太の母親の時は、興信所を頼み間もなく妊娠した。情の深い優しい女だったが、情緒不安定だった。周りから、それ見たことか、と言われた。
    今度こそは清く正しく美しい女性と暮らしたい。
    従業員が帰った後、興信所から届いた封筒を開いた。


    サトウの切り札

    デート当日、優子さんはいつもの白いワンピースを着ていた。

    「お久しぶりですね、これ翔太君に」

    と言って紙袋を手渡された。
    中には柏餅が入っている。

    「君江さんの分も入っています」

    と言った。
    子供がいれば、子供なんて和菓子より、アマゾンのカードやゲームの課金カードを欲しがるのに、柏餅をチョイスするあたりがやはり、子供のいない独身女性だ。
    ラウンジの大きな窓ガラスに光が差し込み、優子さんの肌を照らした。年相応に皺が寄っていた。

    飲み物をオーダーし、二人で外を眺めた。

    「ごめんなさい、お時間作っていただいてありがとう」

    「そちらこそ、はるばる来ていただいて、良かったら翔太に会っていきませんか?」

    「いいんです。でも今からお話する内容で決めてください」

    と言って優子さんはレモネードを一気飲みした。

    例の男との不倫の話だと思った。秘密を見合い相手に打ち明けるなんて、なんて愚かな女だろう。そこまでの覚悟をもって、翔太の母になろうとしてくれているのか?  はたまた財産目当てか?  

    「私、翔太君の母親にはなれませんが、翔太君の友達になりたいんです。
    母親代わりとか、そういうことではないんですが、翔太君が大好きです。年に1度、友達としてこれからも仲良くしていきたいと思ってます」

    そこには翔太の気持ちが全く入っていない。
    毎日甘えることも、抱きしめることもしない、都合よく年に一度会うだと? 子育てという苦労を一度も経験したことがない女を初めて憎んだ。

    「あなたは今までお見合いで出会ったきた女性の中で最低ですね。
    いや、男女問わず、今まで出会ってきた中で最低の人だ」

    一瞬前妻の顔が浮かんだ。
    子供を欲しがらなかった妻、不倫をしながら母親になりたい見合い相手。金目当てのベビーシッター。一度の過ちで、クビにしたら口外すると脅す家政婦の君江。最低な人間コンテストのようだ。

    「昔イギリスにヘンリー8世とという王様がいました。チューダー朝という時代です。ヨーロッパ一で一番のイケメンと言われた王様でした。
    最初の妻はスペインの王女で、王妃としては完璧でしたが、子供が生まれなかった。やっとできるも女の子でした。
    次の女性はアンブーリンと言う宮廷に出入りできるほどのいいとこの娘です。彼女は美しくはなかったけど、フランス仕込みの洗練されたファッションとマナーでヘンリー8世を虜にした。
    ご存じでした? 彼女と結婚するためにイギリスはカトリックから離脱したんです。国の宗教をかえてまで、スペインを敵に回すぐらいのことまでして、やっと手に入れた女も結局女の子しか産めなかった。
    だから、首をはねて殺した。その後も4人と再婚するも子供が産めなかった、この話で私が得た教訓なんだと思います?」

    「王様は興信所を頼まなかったから、一生、いい女に出会えなかった」

    なかなか気の利いたとことを言ったなと、我ながら悦に浸った。


    地獄に落ちるわよ 優子

    佐藤さんは思ったより冷静だった。

    「優子さん、とにかく翔太を巻き込まないでもらいたい。それとね、相手の方に子供が出来るみたいだよ。それでも君は彼との不倫を続けるの?  
    僕はね、この話、誰にも言わないけど、彼の奥さんには言おうかと思ってるんだ。どうする? 君次第だよ。84歳の地元でも名士でもあるご両親に伝えるのはさすがに僕にはできないな」

    そう言うと、見慣れた、いつものホテルのカードキーをテーブルに置いた。

    彼が無理をしているのが分かった。額に汗をかいている。こんなことしなくても、お金で目当てで、いろんな女が寄ってくるだろうに。善良でいい人なのかもしれない。一人でよく子育てしてきたと分かる。最後にリップサービスをした。

    「佐藤さん、私、佐藤さんのこと少し好きでしたよ。会っただけで価値観が同じなのがわかりましたし。
    裕福な家に育った。サラリーマンを経験させてくれた親に感謝ですよね。
    そして翔太くん、一人であんなに立派に育てて、素晴らしいです。無償の愛。子供がいる人間といない人間の差。ここ、大きく違います」

    子供産んでも、育ててもいない人間がよく言うよ、と言わんばかりに、急に態度が変わった。皆、子供のことになると、目くじらをたてる。

    「こんな女が翔太の母親にならなくて本当によかった。興信所に感謝だな」

    と言って、更に、

    「そのセリフ、不倫相手の妻にも言ったら?」

    とおちょくる様に言った。

    「本当にそうですね、おっしゃる通りです」

    そう言って深々と頭を下げた。
    ナッツ姫のような、罪人という言葉にふさわしい謝罪の仕方をした。
    で、どうする? と言いたげに、よく見慣れた、このホテルのカードキーを目の前で振りかざした。

    「佐藤さんとセックスしたら、彼の奥さんに言わないで頂けますか?」

    「どうご奉仕してくれるかによりますよね」

    「佐藤さん、ひどい、お願い、なんでもするから、彼と彼の奥さんを巻き込まないで……なんて、私が懇願するとでも思いました?  
    残念、実は田村家も先祖代々興信所を使う習わしです。ちなみに3世代ほどに渡って遡るから、かなりいいお値段するのよ。
    佐藤さん、あなた、何年か前に、翔太君のクラスのママと不倫してたでしょ? 岩本 麗奈ちゃんのママでしたかしら?  
    お手伝いさんの君江さんともねんごろなのねぇ、熟女好きなのかと思いきや、ベビーシッターにも特別料金払ってる。なんの料金かしら?  あなた、地獄に落ちるわよ」

    最近ハマっている細木数子のドラマをマネして言ってみたが、思ったほどうまく言えなかった。
    細木さん、私も佐藤さんも地獄に落ちるのかしら?


    そして誰もいなくなった 優子

    佐藤さんとお別れをし、新幹線に乗った。なぜか丁寧に【息子とはこれからも仲良くしてください】  というLINEがきて、大人になるっていいもんだな、と独り言ちた。
    諦念という若い時にはない感情がうまく作用して、私に9歳の好きピができた。

    佐藤さんをプレ交際中から消した。お断りの理由に、他の人と同様、価値観の違いと書いた。そうして、お見合いのマイページから誰もいなくなった。交際申し込みも、交際中も。仲人Mさんも

    「優子さんが選ぶ男性は個性強めですね」

    と言ったきり、連絡が来ない。
    今日も誰かのために奔走しているのだろう。恨んではいない。費用20万の元は取った。皆いい人だった。もう名前も覚えていない。悪くはない、プロフ通り、皆優しくて穏やかな性格だ。
    ただ、私をドラマの主人公にしてくれないし、咲き乱れるような愛情をくれないだけだ。私は異常なのかもしれない。15年間蓄積された何かが、桐谷によって崩壊してしまった。

    『楽しかったですね』 と、桐谷は情事の後に言う。それは、今日かくれんぼをして楽しかったとか、缶蹴りをして楽しかったとか幼稚な感想だ。
    私には、彼から愛されているからセックスをしていると誤解されないように細心の注意を払っているのがわかる。『桐谷さん、大好き』 と言っても、妻の妊娠を機に『僕もです』 とは言わなくなった。

    今頃、顔をお腹につけて、動いた? 体調は? とか聞きながら、私の大好きな大きな手で、腰をさすっているに違いない。そこには、ひよこクラブだか、たまごクラブとかわからないけど、雑誌が部屋にあって……あ、今どきは携帯で読むのか。
    私の友達たちは、まだ雑誌しかなかった時代だし、自分には子供いないし、結婚したこともないからわからないけど、きっと二人でおしゃれなベビー服でも選んでいるんだろう。

    「僕が今までで一番ですか?」

    って聞いてきた桐谷に

    「うん」

    と言ったけど、ぶっちゃけ覚えていないだけ。
    15年もセックスしていなかったし、今までの男の事なんて、忘れたに決まっている。冷蔵庫に何を取りに来たか忘れるぐらいだもの。
    でも、今、よりによって生理も終わった更年期の、あとは静かに枯れるだけだった女に、あなたが、エレガントにサーモン食べながら、

    「お客様でセックスしたいのは、田村様だけです」

    なんて言うからタガが外れてしまった。52歳にもなって。
    人生いろいろ
    男もいろいろ
    ねえ可笑しいでしょ若いころ
    そう若くもない。

    愛があるからセックスも気持ちがいいの。たった一度だけでいい『愛してます』 って言いながら抱いて。
    そうしたら、もう大丈夫。ゆっくりと老いて、終わるだけ。
    思い出だけで私は強く生きていける。


    ずっとあなたが好きだった 桐谷

    田村様に一目ぼれした夜、久しぶりに、結婚する前の自分に戻れた気がした。
    最初のデート、スペイン居酒屋で飲んだ時にあまりにも好きすぎて、積極的にキスしたぐらいだ。大人の女性だから、すべて受け止めてくれた。
    長く続けたい。そう思ったから、その夜は抱かなかった。7月。

    そして8月。非現実的なホテルの空間でたっぷりと愛し合った。
    愛し合う前に、二人でルールを決めた。
    別れる時は必ず話して別れること。
    恋愛ゲームはしないこと。
    デートしないこと。
    デートできないのは寂しかったが、いつも田村様が行っているような高め設定のレストランには連れて行けないから、丁度よかった。
    田村様は情熱的で、ロマンチストで、セックスは楽しかった。妻との妊活で少し疲れた日常のちょっとしたスパイス。射精しなくてもいいし、どこで出してもいい、遊びのセックス。
    そんな中、妻が妊娠した。嬉しかった。田村様のことをすっかり忘れて、高齢出産の妻の為に、毎日急いで家に帰った。
    つわりも落ち着いたころ、田村様から誘われ、嬉しくてついホテルへ行ってしまった。そしてとうとう、妻が妊娠したことを告白した。

    「何か、楽しいことでもあった?」

    と田村様は聞いてきた。

    「この間、熱海の温泉に行きました」

    と言った後、しまったと思った。
    妻を連想させるようなことを、つい言ってしまった。田村様はほんの一瞬、辛そうに顔を歪めた。

    「本当は銀山温泉に行きたかったんです」

    と伝えると、驚いた表情で

    「そこは、私が愛してる人としか行かない場所。よりによって」

    と呟いた。

    「日本全国にこんなにも温泉があるのに、あなたの口から銀山温泉が出るなんて驚いてしまうわ。
    雪が降るとね、怖いくらい静かで、この世にたった二人しかいないのではないか? と思ってしまうくらい神秘的で素敵なの。今まで一緒に行った人はたった一人だけ」

    妻は旅行中に言った。

    「こんなにのんびりとしてられるのも今のうちね。赤ちゃんが少し大きくなったら、今度は銀山温泉に行こうね」
    と。

    田村様には、誠実でいたいと思っている。俺が父親になることを喜んでくれる恋人。『大好きだよ』 という言葉をグッと飲み込む。別れが来た時、傷つくのは彼女だから。
    これが男の美学。愛してる、好きだ、なんていくらでも言える。ただ、彼女が僕の家庭を、生活を壊さず、大切に思ってくれるのなら、僕もこの関係を大切にしたい。わかってくれているのだろうか?  
    妊娠中の妻が家で待ってくれている。でも、田村様に癒されたいし、素敵って言ってほしいし、好きだから頑張って1時間、田村様のために時間を作っている。

    「お願い、銀山温泉には誰とも行かないと誓って」

    と田村様が言った。

    「行きませんよ」

    と言いながら、優しくペニスを挿入した。
    あの夜、彼女の頬を伝った涙を見ないふりをする俺は、愛される資格がない。そして今も、産婦人科の長い待ち時間の間、妻以外の女性を思う。

    「桐谷さんの旦那様ですね、看護師の高橋 宏美です。 
    名古屋の病院の紹介状の準備ができましたので、奥様にお渡しください」


    時の流れに身をまかせ 優子

    彼と出会っていなかったら、私は何をしてたでしょうか? 一つだけ言えるのは小説を書こうとは思わなかった。意外と健さんと結婚して幸せになっていたかも?  それはないな。

    さあ、聞かせて。神秘的で、刺激的な桐谷さん。あなたのことを教えて。私が愛した桐谷さん、これからが私たちの本当の物語。
    今まで何も始まっていなかったから、終わりもなかったけど、あなたを知ることで、小説が最終章を迎える。二十歳の時、思い描いたとおり、素敵な彼が横に座った。彼の大きい手がたっぷりと肉のついた二の腕を撫でた。

    その途端、全てどうでもいいと思った。

    人は言う、都合のいい女、セフレ、ヤリチン、枕商売、ロマンス詐欺、そして不倫。よく観察する? 彼の本性が見える? 見えなくてもいい、人の心はわからない。
    52歳。15年ぶりにセックスをした。相手はもはや、当て馬になった健さんだったけど、桐谷と出会って、久しぶりに恋をした。あの待ち合わせした時のドキドキした気持ち、何度もLINEを読み返した夜。会いたくて、切なくて涙した明け方。

    二人が出会って1周年記念。念願が叶った。お気に入りのカフェでイケメンの彼が隣にいる。一番目立つ席で、彼はゆったりと微笑んで、私だけを見つめる。

    「今日で終わりにしましょう」

    と言った。
    ほっとした表情を桐谷はすぐに隠し、寂しそうな顔をして言った。

    「残念ですが、田村様がそうおっしゃるのであれば」

    もう限界がきた。
    私が彼に愛されているという、勘違いを起こさないように気を遣っているのがわかる。そのたびに、泣いてしまうし、心が消耗する。彼への愛が1億あった。彼への気持ちがまだ1000ある。だから辛い。

    パパになった桐谷が、私のことを、面倒くさいと思う瞬間が来た時が怖い。私がもう少し抱いて、もう少し一緒にいて、と懇願してしまう瞬間もいつかくる。

    彼を観察した。彼は私を愛しているんだ。最初の頃は大好きと囁く度、『僕も大好きですよ』と言っていた。
    最近は少し悲しそうな、戸惑った表情をするだけで、何も言わない。無責任なことを言うのを止めた彼の誠意に愛を感じた。愛も恋心も互いにあった。出会うのが遅かったとかそういうことではない。
    52歳のおぼこいおばちゃんが、神からの贈り物のような桐谷によって、人を愛することを学んだ。独占することや、嫉妬することじゃない。肩書やステイタスやデートをすることでもない。彼が毎日幸せでいることを本気で願うことだ。彼も私の事を好きだったんだ。
    幸せな一年だった。自由になろう。しばらくはまた泣いちゃうかもしれないけど、バカ高いフランス製のアイクリームの節約と思えば大丈夫。

    「あのね、私、ずっと、あなたがサーモンをエレガントに口に運びながら、『お客様の中でセックスしたいと思ったのは田村様だけです』 と言った時からあなたに惚れたの。
    昔の自分なら、『最後に今夜、愛してると言いながら抱いて』 って情熱的なこと言ったと思う。
    でもね、そんな体力もないし、春の天気で背中に湿疹あるし、裸見せたくない」

    と言いかけてやめた。
    最後まで大人の女を演じよう。

    「愛しているの、どうしてなのか? いつからなのか? も解らないままに、ただ愛している。
    そこには理由も誇りもなくて、ただセックスするだけ。他に愛し方を知らないから」

    さわさわと5月の風に街路樹の木の葉が揺れた。
    大好きな大きい手が頬を撫でた。カフェの片隅で、そっと彼の親指を口に含んだ。


    The Visitor 桐谷

    意外だった。まさか田村様から別れを言い出すとは思ってもいなかった。じめじめとした別れ話になると思いきや、5月晴れの外のカフェにふさわしい、爽やかな別れになった。

    「いいパパになると思うよ。桐谷さん育児休暇取るんでしょ?」

    「年収が下がるので、取らないです」

    「外資系なのに酷いよね、そういうところ、だから結局、皆取らないのよね。でも何とかなるよ。大人の二人が育てるんだからさ」

    43歳の夫婦が、これからたどる苦労も、田村様に語らせると何とかなると思うから不思議だ。

    「今まで楽しかったね」

    と言いながら、レモンパイを大きくほおばった。

    「僕、生まれ変わったら、田村様と結ばれますね」

    と言ったら田村様は大笑いをしながら、

    「松田聖子と郷ひろみじゃん」

    と言いながら携帯で昭和の恋愛の名言というチャッピ―の画面を見せてくれた。

    こんなに愛されて俺は幸せでしたと伝えた。
    今年は素敵な年末のあいさつは届かない。胸がぎゅとした。もっと、もっと伝えたかったことがあるはずなのに。

    「私のことはたまに思い出して、そして80歳まで愛し続けてね。心の中は自由だから。さようなら桐谷さん、私も……」

    と言って席を立った。
    ああ、この香り。最初に嗅いだあの香水ではない。もう少しお香のような、スパイスのような香り。遠慮して、あまり香水をつけないと言っていたが、今日は体からいい香りがした。

    思わず、程よく肉の乗ったウエストを抱き寄せて、引き留めた。私も……の先が知りたい。
    耳元がかすかに湿り気を帯びた。涙に濡れた頬を寄せて、田村様が囁いた。

    「生まれ変わったら一緒になりましょうね」

    そうして僕と田村様の関係は終わった。
    帰りの道、丁度、弁慶橋を通り過ぎたころ、たまたまハスキーで物悲しい女性ヴォーカルの曲が流れてきた。

    『say  that you love me ,
     say I am all you need me
    I will always be a visitor~』

    それが、田村様が僕に歌ってるように聞こえた。
    僕に言ってほしかったことだったんだと、自分も本当は言いたかったんだと。最後に愛してると言いながら、セックスをしよう。慌ててカフェに戻った。


    ナースの宏美

    「名古屋で元気なお子さん産んでくださいね」

    「ありがとうございます」

    と言って噂の患者様、桐谷丈二と妻しおりが病院を後にした。

    その後ろ姿を見送りながら、一瞬、桐谷のお尻に見とれた。誘えばよかったかな。いいや、それじゃあまるで、優子が描いた『近畿地方のとある産院で』みたいだ。
    この作品は50代の淋しい病院の受付事務の女が、妊婦の旦那たちを次々と誘惑するという、エログロ短編小説で、その中に出てくる、医者と不倫するモデルは、明らかに私が経験した話だ。どうせ駄作だし、大したフォロワーもいないのでどうでもいいけれど。

    優子の書いたnoteの小説は、大したスキもフォロワーもおらず、バズりもせず、創作大賞2026年でも佳作すら選ばれず、シーズンが終わった。本人はケロッとして、婚活もあきらめ、ひたすら兄嫁と日々戦いながら、懸命に不動産業を手伝っている。
    意外なのは、子持ちのやもめ佐藤とは会わないが、子供の翔太君とは東京へ行く度、弁慶橋で待ち合わせして、子育てのまねごとをしているらしい。世間では京都で連れ子を殺すという残忍な事件がおきた。

    『女を選ぶから、こういう事件が起こるのよ。母親なんだから』と言ってみたり、『結婚しても不倫続ける』とか言ってみたり。インドの占い師の時もそうだったけど、行き当たりばったりで周りがどんな迷惑しているか。今度は母になるとか、本当に浅い女。子育て舐めてるし。

    「宏美ちゃん、どうしてそんなに私を憎むの? ネットにいっぱい書きこんだAGAG様って、宏美ちゃんでしょ?GAGA様逆にした?」

    馬鹿にした態度で、聞いてきた。

    「憎いとかそういうことじゃなくて、心配してるから、不倫を止めさせたかっただけ」

    「桐谷の事、少し好きだったでしょ?」

    と優子に問われ、図星だったので顔が赤くなった。

    最近の優子がインスタに上がっている。その顎は二重顎で、夏のワンピースの二の腕は、アイドルの太ももぐらいある。妻子持ちの男と不倫して、棄てられて、本人は自分からと言っていたが、おそらく父親になった桐谷に捨てられたのだろう。遊ばれて、棄てられて、52歳で、友達も、恋人もいなくて。あなたの色ボケ話が不快とネットに書いた。

    病院の外を眺めた。黄色の靄がかった東京の空。まるで風の宮殿から運ばれた黄砂が、東京の街を覆い、輪郭をなしていないようで蜃気楼のようだ。
    優子の小説も黄砂のように、幾万と生まれては流されていく恋愛小説の、その砂粒の一つとして、誰にも触れるままネットの海を漂っている。

    朝日に輝くピンク色の町で、風の宮殿見上げながら、同じツアーの女性が呟いた。

    「見たことがある、夢の中にいるみたい」


    田村優子の小説 『風の宮殿 プージャーリー(僧侶)』

    蜂の巣のように連なる小窓が、風を通し、光を砕き、そこに住まう者の気配だけを外へ滲ませる。ふと、窓を見上げた。中にはおそらく、王の庇護のもと優雅に暮らす姫たちが笑い、菓子を食べながら街の喧騒を眺めているのだろう。
    あの人は元気にしているだろうか? と、見えるはずもない窓の中をもう一度見上げた。
    昼、彼は経を唱え、訪れる人の悩みを聞く。子供の病気を心配する母親。愛に裏切られた若者。『すべてはカルマです』 と言うには、まだまだ自分は未熟だ。
    今度、年がいった妻に子供が生まれる。やっとできた子供だ。信者に『なかなか子供ができないんです』 と相談される度、『それはカルマです。受け入れないさい』 と説いてきたが、それだけではないと思っている。
    このあいだ、旅をする高名な学者にカーマスートラという性愛についての古典があることを聞いたばかりだ。男の自分でも赤面するような内容に、街のヴァイドヤ(ドクター)も、ふんふんと頷きながら聞き入っていた。同席したブラフミンも(占い師)何か言いかけたが、今回だけは大人しくカーマスートラの話に聞き入っていた。
    帰り道、占い師は言った。

    「君、奥方が信じられない年で子供産むんだね」

    無事に生まれるかどうか占おうか? と聞いてきた。

    「いいや、すべてはカルマなので」

    と言って丁寧に断った。
    その後、占い師とカーマスートラについて熱く語り歩いた。
    じつは宮殿に住む奥方で、なかなか御子が授からない。医者も占い師も祈祷師も全力を挙げているが、あの年では無理だろう。

    「年がいった妻を孕ませた経験をもつ君なら、少し彼女に希望を与えることができるんじゃあないかい? 金になるしな」

    と占い師は言って、仕事を与えてくれた。

    それから何日かしたころ、宮廷から迎えがきた。宮殿の中は想像以上に涼しく、大理石が素足に心地よかった。召使が2名ほど現れて、みすぼらしい自分の格好を上から下まで眺めて、鼻で笑った。
    妃の部屋に通された。部屋の中は香が焚かれていた。スパイシーな唐辛子の匂いと、甘い匂いに思わずむせてしまった。いつの間にか妃がいて、その様子を笑っていた。挨拶するために頭を垂れた。そして、目の前に立って、祈りを捧げ、ティラカを授けた。あまりの緊張でいつもより強く額に指を押し当てたので、白い額に赤い斑点がいつもより大きくついた。

    年を取ってからの妊娠で日に日にやつれていく妻よりは、ずっと若く見える。

    「緊張しなくていいわ。私も町出身者よ。しかもただの側室だし。
    あの町から抜け出して、宮殿に住みたいと思って願いがかなったのに、宮殿に住んだとたん、もう出たくなったのよ。
    最初は皆、羨んだわ、玉の輿に。しかも毎日、王の寵愛をうけて嬉しかった。王はいびきが酷いのよ、あのいびきを聞かないで済むなら、もう一生愛されなくていいわ」

    そう言ってひらりと天蓋付きのベッドのふちに座った。
    そしてベッドの脇のテーブルに山盛りになったザクロを取って、

    「お食べなさいよ」

    と言ってザクロを差し出した。

    「ご存じ? ザクロを食べると子どもができやすいのよ、あなたの奥さんも召し上がってたの? 妊娠されたのでしょ? 町中の噂よ」

    「すべて、これだけはカルマですので、しかもザクロは私共が滅多に口にできるものではありません」

    そんなことはどうでもいいと言わんばかりに、妃は慇懃無礼に信じられないことを口にした。

    「こちらに来て、私を抱きなさい。あなたカーマスートラという性愛についての知識があると聞いたわ。
    大丈夫どうせ妊娠はしないわ。王を喜ばせる何かを習得したいだけ」

    「それはできません、私は僧侶ですし、結婚しています」

    「知っていますよ」

    と言いながら、サリーをゆっくり脱いだ。
    裸になった彼女が自分の手を取って頬に触れさせた。

    「大きい手の殿方って好きよ。この手で抱かれたら、か弱く、美しかったあの頃に戻れる気がする」

    そう言って、指を丹念に愛撫し始めた。風が妃のザクロ色の乳首を尖らせたのが分かった。

    優しい人、Dayaダヤーと言う名をもつ妃は何度も達した。歓喜で濡れた彼女の頬を撫でながら、『来世では一緒になりましょう』 と誓ったのは嘘ではない。闇の中で、額についたクムクムの赤い粉がルビーのように不吉に光った。

    その後、まもなくして、長く寵愛を受けてこなかった一人の寵姫が妊娠し、死罪になったという話を風の噂で聞いた。

    夜明け前、まだ町の砂が青色に沈んでいる頃、ジャイプルの小さな寺で私は目を覚ます。隣には赤ん坊と女房が寝ている。朝がきて、昼があり、夜が更ける。雨が降り、日が照り、赤子が育つ毎日の中に、妃がそっと訪問し、頬を撫でる。一瞬の風にのって。

    「ザクロの一粒分だけでもいい、愛が欲しいの、何もいらない、宝石も、サリーもマンゴーも、愛だけでいいの。愛されたいだけなの」

    殺されたことで、風の宮殿からぬけ出た彼女の魂が、どうか生まれ変わって、来世では、アッシーサールカー(80歳)まで愛されるような女性になることを僧侶として祈るばかりだ。


    エピローグ 風をあつめて

    2056年、翔太はGWの休みを使って婚約者の悠(はるか)を連れて、母親に会うために地方都市の駅に降り立った。昔は一時間半かかったこの地方都市は、今では一時間で到着するため、もはや地方というには、ふさわしくない。昔の知事が、多くのイスラム教徒を受け入れたため、駅前の大きなモスクがこの都市の象徴となっている。
    月をモチーフにしたお菓子が銘菓として有名だが、最近は『杜のモスク』という名で抹茶味のほぼパクリともいえるお菓子が話題となっている。
    杜の都と言われるだけあって、新緑の緑が町を覆い、ケヤキ並木の木陰が町を覆い、旅行客に涼しさを提供している。温暖化によって5月なのに初夏と表現が変わったのは、ここ10年だ。

    今日会いに来た母は実の母親ではない。30年前、自分が9歳の頃、親父がたった1度だけお見合いをした相手だ。産みの母は自分が生後3か月の時に離婚した。

    9歳の春、新しいお母さんに胸をときめかせ、新しいズボンを穿いて、赤坂見附のレストランにお手伝いさんに連れていかれたのを昨日のように思い出す。
    あの時ママになるって約束したのに、親父は子供の日、優ちゃんと別れてしまった。なぜこの日かを覚えているかというと、親父が酔っぱらって帰ってきて、優ちゃんからのプレゼントだと言いながら、和菓子の紙袋を投げつけるように渡したからだ。LINEで約束した通り、『子供の日だからプレゼントを用意したね』と言っていたので、アマゾンカードやゲームの課金カードだと思っていたのに、プレゼントが大量の柏餅だったので、期待は裏切られた。
    それよりももっと辛かったのは、父親が酔っぱらって、充血した目で天井を眺めたまま、『今度は優ちゃんより、若いママを探すよ』と言って、ソファで寝てしまったからだ。

    急いで部屋に戻り、優ちゃんに電話をかけた。怒りで手が震えた。

    「翔太君、どうしたの?」

    優ちゃんは電話に出てくれたけど、そばに誰かいるみたいで、何かを呟いたのが聞こえた。

    「パパが酔っぱらって帰ってきた、それで、優ちゃん、優ちゃんは、僕のママになるんじゃあなかったの? 嘘ついたの? お金もらって一日だけママになったの? どっきりみたいなことをしたの? 翔ちゃんのこと嫌いになったの?」

    小さい時の癖で、つい、自分のことを翔ちゃんと言ってしまった。
    ひたすら泣いた。ぎゅっとしてもらいたかった。あの日のことを最初から最後まで反芻した。ズボンは新品だったし、歯も磨いた。レストランでも一つ一つ質問に答えたし、ホテルのお庭で、年の離れた血のつながりのない兄弟、お姉ちゃんとお兄ちゃんがいることも伝えた。お母さんのことも。『お母さんとたまに会いたいと思うことがあります』  と正直に言ったのが駄目だったのかな。

    「優ちゃん、パパのことが嫌いなの? 一緒のお部屋で寝るの嫌なの?」

    「翔太君落ち着いて、私はこれからおばあさんになるまでずっと翔太君のママだよ。お兄さんやお姉さんやお母さんと同じで一緒には住まないよ。パパさんが嫌いとかそういうことでもない。いつか翔太君が大人になった時、結婚する人を私に紹介してくれた時に事情を話します」

    「翔ちゃんのこと嫌い?」

    「愛してるし、大切にするよ。いつでも困ったことがあったら助けるし、東京に行く時は、またごはん食べよう。5月5日毎年逢わない? 子供の日じゃなくて、ママの子供、翔ちゃんの日。
    前にイギリスの王様のお話したよね。結婚だけが幸せじゃないのよ。一番王様に愛された女性はね、残された王女たちを教育したの。その一人は、のちにイギリスに大きい繁栄をもたらした女王なのよ。本当の母親じゃないのに立派よね。
    翔太君を立派に育てるわ。私のことママって呼んでくれるのとっても嬉しい。おばあちゃんになっても優ちゃんって呼んで愛してくれる?」

    愛って言葉の重みが、子供の自分には理解できなかった。お手伝いさんの君江さんが、『再婚なんかするもんじゃあないですよ』と言った。
    優ちゃんは親父とは二度と会うことはなかったが、東京にしょっちゅう来てくれた。弁慶橋で待ち合わせをして、赤坂のホテルで食事をおごってくれた。初恋の相談にも乗ってくれたり、他と同様、反抗期には優ちゃんに向かって、ばばあ、うぜぇ、と暴言も吐いた。親の期待通り、いい大学に入り、いい会社に就職できた。親父が肝硬変を患い、亡くなったのを機に会社を継いだ。

    30歳を機に、優ちゃんがしきりに見合い話を持ってくるも、すべて断った。流石に40歳ともなると少し焦りが出てきた。優ちゃんも登録していたという(ここで親父とお見合いしたわけだが)老舗のお見合い紹介所に登録したのは半年前、そこで知り合ったのが9歳年下の悠だ。

    悠は派手な見鼻立ちの美人で、背がすらっと高くて姿勢がよかった。若い時、陸上部だったとかで、今でもスポーツジムに週3回通っているとお見合いの時に言った。
    お見合いなんかしなくとも、すぐに結婚できそうなのにできなかったのは、結婚する時に必要な、ブライダルチェックの結果があまりよくないからだと正直に話してくれた。

    「私の母はずっと子供が欲しくて、妊活してたけど、父はあまり積極的ではなかった。途中で諦めたけど、母はこれで最後だからと言って父を説得し、43歳で私を産んだ。できにくい体質なのは母からの遺伝かもしれないし、できなかった理由は父かもしれないのに。あれから30年経っても男性のブライダルチェックはいらないなんて日本は不思議よね。
    去年インドのジャイプルという都市に旅行したのよ。別名ピンクシティというように町全体がピンク色なの。そこにね、風の宮殿というのがあって、宮殿にいる女たちが町を見れるように、窓がいくつもあるの。逆に男尊女卑のインドでは外からは妃たちの姿は見られない。今の日本と大して変わらないと思わない?」

    少子化が進む日本で、すべてのお見合い相談所やマッチングアプリに登録するのにブライダルチェックの提示を義務化した法案が可決されたのは、光安2年。皮肉にもお世継ぎ問題で大変苦労された天皇陛下の妃が崩御された半年後の事だった。世界各国から批判されたこの法案だが、この制度ができたおかげで、出産率があがり、離婚する確率が減ったと今年に入り、ニュースになった。

    「年に1度、5月5日に逢おう。子供の日じゃなくてママの子供の翔太君の日。どんなことがあってもこの日は、死ぬまで翔太くんの日」

    そう言われて、30年経った。いつもと違うのは母に婚約者の悠を紹介する。それだけではない、今日30年前のあの日、5月5日に何があったのかを知りたい。40にもなってばかばかしいが、いろんな大人の事情が何だったのかを知りたいと思う。
    翔太君が愛した人を連れてくる日。悠には言えないが、これを知りたくて結婚を急ぐ自分がいる。83歳の優子はまだまだしっかりはしているが、いつ何が起こるかわからない。ヘルパーさんから連絡がきて、たまに現実と大好きな紙で作られた小説がごっちゃになるのか、『編集者さんが……』  とか『ノートの作品が……』  とか訳が分からないことを呟くようになったという報告をうけた。

    息を整えてから、部屋をノックした。珍しく悠の手が湿り気を帯びた。

    「どうぞ、翔太君、入ってらして」

    部屋にはお香のようでいて、唐辛子のようなスパイスの香りが混ざった香水の匂いが充満している。すでに廃盤になった香水でラルチザンというパリのメーカーのものだと思う。高校3年生になった時、ママに連れられて、北青山のお店に付き合ったのを覚えている。
    2026年4月に販売された香水。
    その名も『ラ  マン(愛人)』。

    「日本語だといやらしい意味に聞こえるけど、フランス語では愛する人っていう意味なのよ、好きピよ、好きピ」

    と言って何年も前に流行った言葉をつぶやいた。
    母はここの香水の大ファンで、廃盤になる前に大量に購入した。ストックしてあるキュイールグレナと言う、モロッコのレザー調の香りや、ラ マンを気分でつけ替えるらしい。30年経った今もこうして惜しみなく部屋中にふりかけている。

    「優ちゃん、今日もおしゃれだね」

    婚約者には事前に優ちゃんと呼ばないと不機嫌になることと、服を褒めないと施設の人達への八つ当たりが1週間続くと言われたから、このような挨拶になることは伝えてあった。

    「ハグして頂戴」

    と言って抱き着いてきた。
    親父に似ず、おそらく産みの母に似たのか身長は183cmになっていた。母はいつものように抱き着くと

    「やっぱりあなたからは匂いがしない」

    と言って鼻をクンクンさせた。
    一連の流れを呆然と眺めていた悠は、軽く咳をした。

    「優ちゃん、紹介するよ、今度結婚することになっ」

    「悠ちゃんね、私も同じ名前よ、偶然ね、優ちゃんと悠ちゃん」

    「はるかと読みます。父はユウと読ませたかったんですけど、母がとても反対して」

    「美しいお嬢さんね、お母様もお綺麗な方なのね。いつ籍を入れるの?」

    「7月4日です、私のお誕生日に翔太さんがしてくれました」

    「アメリカ独立記念日に生まれたのね」

    「はい、母が高齢出産だったので、大変でしたが、こんなに大きくなっちゃいました」

    と言って朗らかに笑った。

    「翔ちゃん、そこの引き出しからジュエリーケースとってくれる?」

    そう言いながらも、自ら取りに行くために、人工股関節の割にはスタスタと歩き、小さい箪笥から箱を取り出した。
    箱にはとうてい庶民には手の届かないイタリアのブランド名が書いてあり、普段あまり欲がない悠も、箱の中身を見て唾を飲み込んだ。そこにはピンクゴールドのチェーンタイプの指輪が入っていた。そして、いつも通り、柏餅をどうぞ、という感覚で、

    「どうぞ使って」

    と言って悠に箱ごと渡した。
    優ちゃんは一応義理の母になるのだからこれぐらいのことはさせてと言った。

    「この指輪は好きピからのプレゼント。52歳の夏、デパートで買って貰ったのよ。私は大胆に胸の大きくあいたアライアの黒のワンピースを着ていたわ。アライアご存じない? 今はないのかしら? 老舗のデパートも今はほとんどないわね。
    52歳、人生で一番楽しい年だった、ママはね、あの時が一番綺麗だったのよ。今はAIさんがスタイリングをすべてしているけど、あの時代はね、人だったのよ。スタイリストさんにお金を払ってコーデネートしてもらったの。『優子さんは顔がはっきりしているから、こういう指輪が似合いますよ』とか教えてくれた。悠さん、あなたも顔が華やかだから、きっとこれ似合うわよ。
    あなたは誰に似たの?」


    老婆との休日 悠

    翔太と交際した時、翔太は片親だと聞いていたので、まさか継母いるとは思っていなかった。

    「継母と言っても、親戚のおばさんみたいなもんでさっ」

    と出会いから今に至るまでを説明してくれた。

    「確かに幼いころは、1年に1度GWに逢ったりしたけど、大学生や社会人になると忙しくて、何年かご無沙汰してたし、とりあえず気負わなくていい相手だから」

    と爽やかに笑った。

    最初の印象はよかった。『翔ちゃん」  と言って翔太に抱きつくまでは。部屋に漂う香水も、海外の免税店のような、インドの寺院で嗅いだような、独特な匂いで苦手だった。父親似か母親似か聞かれた。

    「体格は、父です、翔太さんと同じくらいの身長です。顔は母かな」

    「ご出身はどちら?」

    「私は東京です、父は横浜、母は名古屋です」

    「昔、名古屋巻きっていう髪型が流行ったのよ。名古屋って独特よね、赤みそって苦手だわ」

    義母というには、少し複雑な関係だったが、婦人は正直と言うか、年寄りの独特な癖と言うか、子供のように無邪気に言葉を発する。母の悪口を言われたようで、少しムッとした。すると唐突に義母が聞いた。

    「あなた、2026年生れ?」

    「はい、2026年7月4日生まれです。東京育ちですけど、名古屋で生まれました」

    「ご両親に愛されて育ったのでしょう?」

    「はい、父は昔モテたらしく、私が生まれる前はよく喧嘩していたみたいですけど、私が生まれてからは、少なくとも私の前では喧嘩もしなかったですし、愛情いっぱいに育ててくれました」

    「そうでしょう、そうでしょうとも」

    と言って義理の母は深くうなずいた。
    そしてもう一度、

    「誰に似ているの?」

    と聞いた。

    部屋の西日が少しずつ、暗い影を落としてきた。夕日がピンク色に染まり、施設の部屋がジャイプルの街のようなピンク色に染まった。
    義母の頬もピンク色に染まり、83歳というのに妙になまめかしい。この違和感は分からない。私の夫となる人を『翔太君』  と甘い声で呼ぶのも不快だし、お香のようなスパイスの香りも、もう限界だった。胸がムカムカしてきた。

    来る途中の新幹線の中で、翔太が言った。

    「こないだ施設の人から連絡がきてさ、俺と会う時お袋、何十年も前のフランス製の下着を取り出してどうしても着るって、いうこと聞かないらしいんだ。『ぼろぼろで不潔だからもう捨てましょうね』 とか、『見るだけにしましょうね』 って言って聞かせるんだけど、子供みたいに泣きじゃくるって。お風呂に入れた後も『これを着せて頂戴』  って威張るらしい。俺を昔の恋人と思うくらいボケたのかな? 」

    と言って、外を見た。
    今日の新幹線の外はVRの設定で近代化したモロッコの風景が眺められる。

    「翔太さん、優子さん、良かったら二人きりでどうぞ」

    今日は二人にとって、何か重要な話があるらしい。
    指輪のお礼は後日、しっかりとすることにして

    「先に駅に行って、お土産を購入したり、お茶したりするね」

    と言って退散した。


    ラマン 翔太

    「優ちゃん、19時には東京に着きたいんだ。その前に聞かせてくれよ、5月5日の話」

    「何のこと?」

    「どうして俺のママにならなかったって言う話、愛する人ができたら教えるって言われて、今日愛する人を優ちゃんに紹介したんだよ」

    「そんなこと言ったかしら?」

    「ボケちゃったのかよ? 優ちゃんしっかりしてよ」

    「大した話じゃないのよ、ただ大まかに言うと、結婚ということと、人を愛することは違うことだと翔太君には知っていて欲しい。愛するって、その人が持つ、愛してる世界を丸ごと尊重して、大切にすることなの」

    そう言ってベッドのふちに腰かけ、召し上がれと言いながら、柏餅を差し出した。
    気分が悪いと先ほど部屋から出ていった悠を、もう30分も放っておいている。なのに体は自然と優ちゃんに向いた。
    柏餅を二人で平らげ

    「もう行くよ」

    と言って、立ち上ろうと腰を浮かすと、優ちゃんは目の前に立ちはだかって、30年前のあの日のように、強く胸に僕を抱きしめた。

    「よかったね、翔ちゃん、パパになるんだね。一子目?  よかったね、おめでとう」

    そう言いながら、背中をぽんぽんと叩いた。

    それからはあまり記憶がない。妻とともに新幹線に乗り、19時には東京駅に着いた。優ちゃんの匂いが原因で気分が悪くなり、それが1週間以上続いたため、病院へ行った。妻の妊娠が分かった。
    予定通り、7月4日に式を挙げ、冬に3200gの男の子が生まれた。悠の父の名前をとり、丈と名付けた。指先に赤い痣のようなものがあり、一家全員で心配したが、生後1か月には消えた。
    丁度そのころ、優ちゃんが息を引き取ったという連絡が入り、急いで新幹線に飛び乗った。悠も悠の両親も建前で葬儀に行くと言ってくれたが、断った。悠が優ちゃんを苦手なのを知っていたし、悠の両親にはあまり優ちゃんの事を詳しく伝えていない。
    新幹線に乗りながら、奇妙な感覚に陥った。
    結婚式のスピーチで、義理父が言った、『人を愛するということは、その人が愛する世界を丸ごと尊重すること、悠、翔太君を大切にしなさい』というセリフが昔、優ちゃんが僕に言ったセリフと似ていて、軽いデジャブに襲われた。
    新幹線はあっという間に、モスクのある大きな駅に着いた。

    「翔ちゃんの大きい手で、ぎゅっとされると、大切にされたあの時の事を思い出すの」

    「へぇ~優ちゃんの恋人?」

    と聞くと、面白くなさそうに、プイっと窓の外に顔を背けた。

    それが優ちゃんとの、ママとの最後に交わした言葉だった。

    眠るように息を引き取ったという、優ちゃんの額には赤い大きな傷がついていて、

    「施設のヘルパーさんが言うには、亡くなる3日前に恐らく、お風呂場で転倒した時のものと思われます」

    と歯切れの悪い口調で、言い訳がましく施設長が言った。
    きっと責任を問われるのを恐れたのだろう。

    「田村様は、昔行った海外の話をするのが大好きで、普通の人は自慢話になるのだけれど、流石、小説家、海外でどんな経験をしたかという体験話は本当に映画みたいな展開で、楽しかったです。
    この額の傷も『インドの町で僧侶につけられたビンディーみたい』  と言って笑っていました。
    『祝福されて天国に行くのね』  と言ったので、そんな不吉なことおっしゃらないで下さいよ、と言ったのですが」

    「さすが小説家ってどういう意味ですか?」

    「佐藤様、ご存じなかったんですか?」

    そう言うと施設長は、引き出しの一番大きなところからヨイショっと言って大きくて分厚い茶封筒を取り出した。

    茶封筒にはネルダと大きく書いてあり、その下に詩が殴り書きされていた。

    愛している、どうやってかも、
    いつからかもわからないままに、
    ただ愛している 理由も誇りもなく 
    こんな風に愛している 
    ほかに愛し方を知らないから

    携帯にかざして調べると、パブロ  ネルーダという有名な詩人の詩の一節だった。きっとこの中に、あの日の優ちゃんの涙の理由が隠されていると直感した。
    施設長は気を遣って、席を外した。

    「優ちゃん、読ませてもらうね」

    この町を象徴するモスクから、コーランの祈りが横たわる母を優しく包んだ。

    7月4日生まれの娘が結婚する。挙式を娘の誕生日に合わせてくれる優しい翔太君に感謝だ。お腹には新しい命が宿っている。月日が経つのは早いもので、父親になったと思っていたらあっという間におじいちゃんか。

    泣きながら妊娠を報告してくれた若夫婦を見て、自分も涙をぐっと堪えた。
    昔からある赤坂の高級ホテルには何度も来たことがある。今は外資系ホテルに買収されて、あの時の面影はない。

    弁慶橋はあの時のままだが、こうやって朝に眺めることはなかった。いつも、あの人に会うのは夜だったからだ。
    あの人は、10歳近く年上だったから、82歳ぐらいか。
    まだ生きているだろうな。手相の生命線が手からはみ出していることをよく自慢していたしな。
    そう言えば、『桐谷さんの手が大好き』  と言ってたな。今はシミだらけだ。

    初めての浮気だった。酔っぱらって、軽く遊んだことはあったが、不倫をしたのは彼女が最初で最後だ。
    子供を作らなければ、というプレッシャーに押しつぶされそうな日々の中で、出会った大人の女性。

    「こんな素敵な男性と付き合えるなんて」
    「桐谷さん、かっこいいね」
    「桐谷さん、凄い」

    と何度も言ってくれた。
    男としての自信が漲った。彼女との情事は、妻に今度こそうまくいくといいね、と言われる妊活の果てしないプレッシャーの中のちょっとしたスパイスだった。
    本当は不器用でモテないのに、つい見栄をはって、都会のモテ男を演じた。何故か彼女はそれを信じて誤解した。愛してるから頑張って時間も作ったし、守りたかった。大切にしたかったけど、43歳で妊娠した妻にバレないように彼女を愛するのは、難しかった。

    ここにカフェがあってここで別れた。違ったかな? 夜の弁慶橋で別れたかな? 弄ぶような失礼なことをあの人にだけはしたくなかったから、正直に妻の妊娠を報告してしまった。
    過ちだったかもしれない。娘の結婚式に昔の女のことを思い出すなんて、俺はどうかしている。でも彼女は度々、こうしてそっと訪れる。
    5月の風に乗って訪れたり、クリスマスのケーキを娘に買ってきた帰りの、商店街のイルミネーションの片隅に。

    「5月の子供の日に出会った女と付き合ったら、子供ができただなんて、人生って皮肉ね、私にもできたの、子供じゃないけど。とあるプロジェクトがね、子供の時から夢だった」

    仕事は何をしている人だったのか、未だに分からない。
    『相手が愛する世界を、そのまま愛すること。大切に思ってるよ』  今日の結婚式のスピーチに付け足そうかな。
    80歳まで愛されたかな。『僕はふと君のことを思い出しますよ』と独り言を呟いてみた。
    グラマーな彼女のことを思い出すこともあれば、お店に来て服を試着しながら挑発するように顔を近づけたりするイタズラな彼女の顔を思い出すこともある。
    『今日はホテルに行けません』と僕が言うと、悲しそうに去っていく後姿も。

    「大好き、人なんていつ死ぬかわからないから、先に伝えとくね」

    とよく言ってた。
    当時はやった『The Visitor』という曲が流れるたびに、田村様を思い出した。間違いなくあなたは私の訪問者ですよ、田村様。

    「生まれ変わったら、一緒になろうね」

    泣きながら去っていったあの人にもう一度逢いたい。そして歌のように、『愛しています』  と言って、抱きしめたい。こんなジジイに抱きしめられたら嫌かな? あなたがもし生きているのなら、Visitorというアプリを使って探してみよう。娘の結婚式なのに、俺も不謹慎だな。
    銀山温泉にもう雪は積もらない。

     
     
    X、Instagramで予告配信中! 50代、独身。恋も老いも更年期も、すべて素材。 ホルモンも感情も乱れに乱れる日々を小説やエッセイにしました。 すべてのアラフィフ女子に捧げたい。私の本を通して、結婚という正しさの内側に制度と、その外側にある体温を感じていただければ幸いです。

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