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一縷

    【1】

    『蜘蛛の糸』を初めて読んだ時、目の前の白い壁がどす黒い赤色にしか見えなくなった。日が当たる教室の窓際にいるはずなのに、暗い赤い海にいるような不安な気持ちを抱いた。これが地獄か。あの頃はそう思っていた。
    本当の地獄は赤なんかじゃない。言うならば、黒だ。色はない。何も見えない。何も聞こえない。自分の呼吸と心拍を辛うじて感じる程度で色などない。ただ闇があるだけだ。もはや絶望もない。だから、何が起きてもびくともしない。

    ドン。

    その音は身体に響いた。確かに身体に硬いものが当たった。鋭利ではないけれど、大きくもない。一瞬の鈍痛はあれど、血の広がりはない。至って服はさらりとしていて、生温かくもなく、音の起点は冷えることもない。闇はこんなにも感じないものだったかと確認するように背後を振り向けば、女がわざと不機嫌な顔をして横を向いていた。そして、ゆっくりと俺に体重を染み込ませるように傾いて
    「誰が買い物に付き合ってって行ったんだっけ?」
    とつぶやいた。言葉に少し棘があるところが可愛らしかった。
    「ごめん。」
    「別に、いつものことですけどね〜。」
    そう言って、俺に服を押し当てては首を傾げたり、全身を見ようと気持ち後ろに下がったりしては、大量の服がぶら下がるラックから器用に服を出し入れしていた。
    「本当に、ごめん。」
    彼女が怒っていないことは分かっている。でも、誠実であることを示さなければならない。真摯に君と、香織と向き合いたいことを伝えるように謝罪をすると、くるっと彼女は振り返って
    「こんなことで警察呼んでもね。」
    とはにかんでいた。
    俺らの喧嘩はだいたい痴話喧嘩で終わる。修羅場のような喧嘩は、出会ってから一度もない。だいたいは俺が折れるし、何より香織は本気で怒りを表す時は、理論整然と話す。その姿は上質なディベートの答弁者そのもので、本当に見事だ。ゆえに拍手を送りたくなるが、それは火種を大きくするだけだから謝るしか讃える方法がない。

    どこにでもある衣料量販店で、香織に服を選んでもらっているのには理由があった。もうすぐ彼女の実家で食事会があるからだ。姪が1歳になるからと、誕生日会を行う。
    「それさ、家族水入らずでやればいいと思うんだよね。父母はおじいちゃんおばあちゃんだから、まぁ家も近いし、参加は分かるんだけど。私は絶対にお邪魔じゃない?」
    「そんなことないだろ。政春くんは香織も大事な家族だから呼んだわけで。」
    政春くんは香織の弟だ。確か5歳くらい離れていたはず。彼の名を言った瞬間、香織は俺に手を差し出した。
    「むしろ、壱希(いつき)がターゲット。」
    「……ターゲット?」
    ドキリとした。恋人であっても、家族が集まる場所にわざわざ呼ばれる理由に心当たりがあるからだ。
    「智成くんの相手だね。壱希、この間たまたま政春と出くわした時に智成もいたじゃない?で、相手してくれたじゃない?あれで味を占めたのよ、怪獣たちは。」
    「怪獣……」
    その表現に微笑みがこぼれていると、
    「笑っちゃうくらい元気で可愛いけどさ。だけどあの元気に毎日付き合うのは大変だよ。たまには離れたくなるし、今回のメインは妹なんだから。私だってお祝いしたいけどさ、でもさ、今回呼ばれたのは絶対に子守りなの。壱希が優しいからってさ、都合がちょっと良すぎない?」
    頷こうか、いや俺はそうじゃない。しかし、否定させる隙も与えずに香織は「お父さんだって孫がかわいいのはわかるけどさ」などと、とめどなく話している。洋服を選んでいた手は止まり始めていた。

    そこまで文句を言うなら縁でも切ればいいのに。

    そんなことを頭の片隅に考えたが、彼女の愚痴は家族仲がいいからこそ出るものであることを感じていた。彼女は、家族を愛している。

    香織は、ちびまる子ちゃんのたまちゃんのような家庭で育っている。ごく普通の家庭に見えるが、裕福で仲がよい家族だ。たまたま街中で会えば、立ち話の延長でそのまま飯へ流れることも当たり前。この間政春くんに出くわしたときは、流れた先が少しいいとこの和食懐石料亭だったこともあり、今度の誕生日会が不安になって今日は買い物についてきてもらった。買い物先が高級店でないことに一抹の心配があったが、
    「実家でやるし、みんないつも結局はここの服着てるから安心して。何より、怪獣が暴れるかもしれないってなったら、手ごろな服に勝るものはないよ。」
    と香織は言う。確かに、彼女が普段着ている服はここのメーカーが多いから信じようと思う。
    その帰り道、声をかけられた。あの時はまたかと思う程度のことだったが、思えばこれからの雲行きが悪くなることへの知らせだったかもしれない。

    「兄貴!」
    声で誰かは分かっていたが、気付かないふりをした。もう2度と戻らないために、少しでも泥を再びつけないために。
    「ちょっと、壱希(かずき)兄貴!!」
    しかし、名前を呼ばれたら振りぬ向かないわけにはいかなかった。急いで声がする車へ駆け寄った。
    「お前、その名前」
    「だって、兄貴で気づかないならこう言うしかないじゃないですか!」
    相変わらず悪巧みを含んだ笑みで話しかけ、車の鍵が開いた。俺は助手席ではなく、後部座席に入る。
    「なんだよ来人(らいと)。これでなにもなかったらどうなるか分かってるのか。」
    「そう言いながら、いつも穏やかに日々の愚痴聞いてくれるじゃないですか。最近は彼女さんと仲良しで、見かけても声かけなかっただけ褒めてくださいよ。」
    「それは感謝してる。だけど、誰が見てるか分からないから。」
    その後にちらっとバックミラー越しに、来人は俺が持っている紙袋に目線を動かした。
    「……寂しいなぁ。なんか服の好みも変わってきてるし。完全にシャバの人間なんすね。」
    「お前もそうだろ。」
    「かおりさん、でしたっけ?チョコミントのアイス好きなんですよね?あの味も好きになったりしてるんですか?」
    黙ってろ。車内だから小声でも届いたのだろう。来人はそれ以上冷やかしはしてこなかった。

    しばらく窓の外を見ていた。もう見慣れた景色が目に入ってくる。この景色をちゃんと見ることができるようになったのは、ここ数年――特に香織と出会ってから――のことだった。この数年で更生の意味を考え、行動してきた。だからこそ、たとえ来人が今では真っ当に社会を生きていると分かっているが、残り香さえ纏いたくなかった。
    「用がないなら降ろしてくれないか。」
    「……。」
    「ここでいいから止めろ」
    「ジョーさんなんですけど。」
    心臓が一気に波を打ち、その弾みで目が見開いた。呼吸を落ち着かせてバックミラーを見たとき、来人の顔は悪巧みは消えて、目には鋭い光が宿っていた。
    「今、この街にいるらしいです。」
    その言葉を聞いて、幼い頃に感じた地獄の風景が車内を覆い尽くしたことは、嘘ではなかった。

    **********

    中学まではごく普通の家庭に育つひとりの人間だった。貧乏ではないし、裕福ではないけれど奨学金を借りずに生活できる家庭だった。中学までの成績をキープできれば、特待生で有名大学進学、おまけに学費免除になった可能性もあったかもしれない。しかし、高校に進学すると成績は落ち込み、分かりやすくグレた。
    高校には行かなくなり、家以外の場所で夜明けを迎えることも少なくなかった。煙草も酒も、この頃に身につけた。辛うじて出席日数を守り、留年しない程度の成績を保ったのは、大人に文句を言わせないためだ。それでも、3年になればせめて大学には行けと言われたが、俺はその言葉よりも停学を食らった仲間が
    「慶応に行って、社長になる!」
    と言ったことが、大学進学への決め手になった。冗談だと思っていたら、本気でそいつは勉強し始めたし、負けたくなかった。グレるのもここが潮時かと思っていた。結果、俺は大学のランクでは優位に社長発言したそいつに勝った。慶応には入れなかったし、学費免除にはならなかったが、世間から見ればいい大学に入れたので、家族は今までのことはチャラにしてくれた。来人、そしてジョーさんに出会ったのは、何事もなく大学生活を過ごし、社会へ出る本当に一歩前のことだった。

    正直、大学に優等生などほぼいなかった。授業をサボることは当たり前、ズルすることも当たり前だった。だいたいの親が子どもが大学生になった瞬間に子どもの手を離すように、俺も野放しなった。どこに行ってもお構いなしだった。
    成績が良ければ就職できるわけではない。心理戦に強いほど就職に有利で、不思議と俺は強かった。グレていたのも悪くはなかったんだなと、有名企業内定を家族にぽいっと知らせたら家族は大喜びだった。解放されて、自由をこれで手にできたと分かれば、金が欲しくなった。アルバイトに精を出せば時間が欲しくなり、割にいい働き口を探したら、黒服のバイトに行き着いた。

    働いていた店のキャストと関係を持つことはなかった。まだ(ギリギリだが)大学生で可愛がられ、こき使われても内定先を知れば未来の客とばかりにお手柔らかになる。仲良くなっても仕事の一線は越えることはなかった。しかし、他店に20歳になったばかりの女の子がいて、その子も大学生だったことから話が合った。他の店で働いている者同士の関係の希薄性が、むしろ相談しやすいところがあったのだろう。話を聞いているうちに、関係を持ってしまったことが全ての始まりだった。
    その子はもちろんキャストで、なかなかに店の成績が良かった。俺は引き抜く気も無かったし、彼女は就活が始まるまでのキャスト生活だと割り切っていたが、まぁまぁ俺に本気だったらしい。

    「黒服のくせになに手ぇ出してんだよ!!」

    怒鳴り込んでくる奴って本当にいるんだなと思った。そう考えている間に俺は殴られた。殴り返すこともできたが、内定は消えるだろうなと未来に足掻いてそのまま殴られることだけを選んだ。すぐに怒鳴り込んできた奴は抑えられたし、示談で話はついたけれど、噂は風のように早く、足が本当にあるかと思うほどに確かに内定先へ届いていた。オレの内定は消えたし、女の子も離れた。その時に唯一手を差し伸べてきたのが、真っ先に男を抑えたヤクザだった。それがジョーさんで、
    「どうせ何もないなら、ウチに来るか?」
    と言われてほいっと俺はヤクザになった。落ちぶれてグレた過去がある。
    どうせ。
    この言葉に同意しただけで、地獄の色を知ることになる。

    **********

    来人は俺よりも早く組を抜けた。女に子どもが出来たからだ。別にヤクザのままでも育てられるが、すでに世の中のヤクザへの風当たりの強さを思うと
    「まだ生まれてないけど、可愛いんですよ。子どもが。」
    と、一丁前に親の顔をして組長の家に頭を下げて出ていった。そんな程度で、と思う奴がいたことは確かで、来人は今も五体満足、指もきっちりある。入れ墨だけが今はない。俺らがいた組は指詰めをよしとはしなかったし、入れ墨も入れたきゃ入れるスタンスだった。ヤクザもシノギを取るのはカタギ相手だったので、取り締まりが厳しくなるならイメージ戦略みたいなものを慈善事業なら大切にしろというのが組長の方針だった。とはいえ、クスリが大元の資金源で、死ななきゃ全部喧嘩とみなすようなところはあったが。そのおかげで、いや、組を抜けてから出会った人たちのおかげで俺は今、真っ当に働くこともできている。

    その来人は、俺も世話になった土木の会社から2年前独立した。本人は「下請けの下請けみたいなもんすよ」と言ってたが、前科者を引き受けたりしながら会社も家族も持続させている。
    「千田組だった奴が入ってきて」
    「ちゃんと切れてんのか。」
    「5年経ってないんで社会的にはまだですし、まぁ、本人次第ですよ。」
    そういうところが今は虫の居所が悪い。ただ、どうしてあの人の名前が出てきたのか気になるので、そのまま耳を傾けていた。
    「ジョーさんのことは盗み聞きなんで確かではないんですけど、千田組に今はいるらしんですよ。それで、こっちのほうの支部に属してるみたいで。」
    「……相変わらず耳がいいんだな。」
    「そうじゃないと、地獄で生きていけなかったんでね。」
    地獄、か。もう遠いように感じていたが、本当は今もつま先程度その沼に入っているんじゃないかと不安になっていた。別にジョーさんがどこにいたって構わないと思いたがったが、体は素直で強張り、血の気が引いて寒さを感じ始めていた。地獄は一気に近づいていた。
    「ただ、顔以外入れ墨だらけだって言うのも聞こえて。兄貴が組を辞めたから組長はジョーさんも組を脱退させたんですよ。それでカタギで働いてた気がするんですけど……違う人かもしれないですね。あの歳で体中に入れ墨入れ直すとか、正気の沙汰じゃないっす。」
    「お前、よく知ってるな。」
    「地獄耳なんでね。」
    ほくそ笑んで言うのが気になるが、こいつはずっとこんな感じだったかと割り切った。お前も正気の沙汰じゃない。
    「兄貴とジョーさん、もう解決していることですけどいざ急に出くわすと危ないから、せめて兄貴の耳に入れたくて。デートの帰りに失礼しました。」
    そう言って静かに車を停めた。俺はこいつには聞こえるような声で「ありがと、じゃ。」と言って、久しぶりかのように外の空気を吸った。


    【2】

    どんどんどん。どた、どた、どた。
    なぜ子どもは軽いのに、こんなにも重い音を立てて走るのか。フローリングは綺麗で凹みなどないが、でこぼこ道をフルマラソンでもしたのだろうか。10分もしないうちに
    「もう無理!無理です!ギブ!!!」
    と床に倒れ込んだ。そんな俺の周りをぐるぐると智成くんは駆け回る。
    「壱希(いつき)くん、変わるよ。少し庭に出て外の空気に触れたほうがいいよ。ともくん、じいじと遊ぼうか〜!」
    ありがとうもすみませんも香織の父に言えずにいた申し訳なさが顔に出てたのだろうか、香織が水を持ってきた時に「気にしなくていいから、ゆっくりしてきな」とひと言添えてくれた。香織の母親と義理の妹は元へ戻っていくと、香織から話を聞いたのか「行っておいで」、「大丈夫だよ」とリアクションが返ってきた。
    芝生があり、子どもが生まれた証の木々たちが生み出す木漏れ日を浴びているともう天国にいるんじゃないかと思う。現実だが、香織は桃源郷にいる人物なのではないかと思うことがある。

    **********

    初めて会ったのは、本屋だった。
    俺がヤクザを辞めるきっかけになった傷害事件で牢屋に入っているとき、読書が趣味になった。テレビもあったが、本が一番の娯楽だった。それしか娯楽がなかったことも大きい。新たに趣味を持つにも気力も無かったから、惰性のように読書が趣味になっていた。
    あの日は雨が降っていた。惰性とはいえ、気になっていた本がやっと店頭に並ぶ日だったので、よく覚えている。やっと読める喜びが勝って、会計の時に財布を出そうと鞄の一番上にあった折りたたみ傘を出したら、ついレジに置いてきてしまった。そのことに気づくのは、レジから少し離れた出口の扉が開く直前だった。引き返そうと振り向いたとき

    「すみません!」

    と小走りで駆けてくる女の人がいた。思わずびっくりした俺を見て、「あ、すみません……!」とまた彼女は言う。
    「傘、忘れてませんか?」
    「あぁ……はい。ありがとうございます。」
    そう言うと、彼女は俺に傘を渡して「よかったです。」と言ってレジの方へ戻った。「急にすみません。傘の持ち主、いらっしゃいました。」「あぁ、そうだったんですか!」そんなやりとりがレジから聞こえてくる。わざわざ会計前に届けてくれたことにそんな優しい人間がこの世にいるんだと驚いたし、何より「よかったです。」の言葉をあんなにもほわっと温かく言う人がいるんだと思うと、心が不思議と温かくなっていたら、店員が彼女と一緒にこっちを向いて
    「よかったですね!お気をつけて!」
    と言ってくるものだから、恥ずかしくなって急いで会釈をして店をあとにした。

    その2週間後くらいだろうか。雨上がりの夜の電車、目の前の席に座っていた女が相当疲れていたようで眠っていた。彼女が電車から降りるとき、手すりに傘がかけたままだった。俺はなぜかその傘の持ち主はその女性だと思って、降車駅ではなかったが彼女に傘を渡さなければと電車を降りた。名前は知らない。必死に「すみません!」と声をかける。もう肩を叩いて気づいてもらうしかないかと思ったとき、ぱっと彼女は振り向いた。「私のこと?」と表情に出ていた。
    「あの……これ……。」
    そんなに距離を走ったわけでもないが、何度も声を出したからか思った以上に息が切れていて、若くないんだと思い知らされた。そんな俺を心配そうに見ていたが、
    「あ、傘……!!!ありがとうございます。よかった。お気に入りだったんです。」
    あ、ほわっとした。その時にあの本屋の彼女だとすぐに気づいた。ただ、そんなことで声をかけるのもおかしなことなのでこのまま去ろうとしたが、
    「あ、そうだ!この間、傘を本屋さんに忘れそうになりましたよね?」
    「……え。」
    「今、なんか驚いた顔が……あのレジのところに」
    「折りたたみ傘です、黒の。」
    素直に答えなければ会話など続かなかったのに、答えてしまった。
    「あぁ、やっぱり!いや、今度は私がありがとうございます。」
    ここで会話は終わって、立ち去れ。なのに、俺はなぜか動きにくい。彼女から別れを切り出してくれればと、他力本願になっていた。
    「あの本屋さん、よく行くんですか?」
    「まぁ……はい。」
    「そうしたら、またお会いするかもしれませんね。」
    「そうですね。」
    そんな立ち話をしていたら、まもなく電車がホームに来るとアナウンスが鳴った。「では。」と足早にホームへ向かうオレの背中に「ありがとうございます!!」と声がかかった。振り返った彼女は少女のような満面の笑みで手を振っていた。
    それが忘れられなかった。本屋で出くわしたところで挨拶をすることもない可能性のほうがあったが、俺なんかと関わらないほうが彼女のためだと思ってその本屋に立ち寄らなかった。しかし、久しぶりに本屋に立ち寄ったとき、彼女から声をかけられた。その彼女こそが香織だった。
    そこから交際するまでに時間がかかったのは、俺の過去のことがあったから。今も彼女は俺の過去は知らない。今の俺しか――ただの会社員の俺しか――知らない。

    **********

    「だいぶ堪えますよね、子どもの相手って。」
    そう言って俺の隣にやってきたのは政春くんだった。
    「元気ですよね、本当に。でも、政春くんは俺よりも全然若いから。」
    「いやいやいや、怪獣ですよ。ゴジラより恐ろしい。」
    政春くんは笑いながら、ポケットから加熱式タバコを取り出した。意外だった。香織はタバコを嫌っていた。
    「吸います?紙が良ければ持ってきますよ。」
    「いや、もう辞めたんで。」
    「へー、意外。」
    言葉と同時に煙草を口にして、煙を吐くように言葉を続けた。
    「嫁には辞めた体なんですけどね。やっぱ見えないとこではまだ吸っちゃうんですよ。仕事でも喫煙所ってコミニュケーションの場所だし。仕事でも家庭でも休まる場所がない。でも、女に逃げるわけにいかないし、俺立場あるんで。」
    そうだ、この家は代々続く地元では知られた工務店で、この人は次期社長になるんだ。
    「ギャンブルは金が絡むから危ない。酒に逃げたらどうなるかわからないt。もしかしたら、人を傷つけつるかもしれないじゃないですか。タバコは……まぁ、副流煙は良くないんで気を付けないといけませんね。でも、場所を選べば大方傷つけない。あ、残り香でバレるし、そこに突っ込んでくるのがいますけど。」
    彼が家のほうをちらっと見た。その目線の先に香織もいた。
    「消去法で、煙草を選んだんです。真っ当に生きるために。」
    「大変だね。僕は、平の人間だから辞められたのかも。」
    世間と取り付くために僕と言い、あの頃に戻らないように強めに言葉を発した。一番言い聞かせるのは、俺自身のためだ。
    「姉のため、ですよね?」
    「……それは、当たり前じゃないのか?」
    言葉通りのリアクションをしてたのだろう。政春くんは「凄いなー
    !愛だなー!」と笑っていた。確か今日は実家に泊まると聞いていたから、酒が入っているらしい。
    「壱希さんって、ワンピースが教科書ですか?」
    「はい?あ、漫画か。昔は読んだかな……。」
    「香織とこれからも付き合っていくなら、コナン読んだほうがいいですよ。あいつ、コナン好きなんで。」
    そういえば、コナンの映画を一緒に見に行かないかと誘われたことがある。今まで見たことがなかったが、今度は一緒に行こうと思った。

    いつの間にかタバコを一本吸い終わっていた。俺もようやく汗が引いてきたときだった。
    「姉のナンパがきっかけなんですよね?」
    「どうしたの、急に。」
    「気になったから聞いたんです。家族でそんなこと、話しません?」
    「うーん……。あんまり話さないかな。」
    俺がグレたこと以外、家族仲は良いほうだったと思う。しかし、両親とはヤクザになってから縁を切られた。妹も両親に気を使って会うことはなかったが、時折手紙が届いていた。その手紙も、傷害事件をきっかけに途絶えることになる。
    『結婚することになりました。もう手紙は送れません。だけど、あなたの健康とこれからの幸せをずっと願ってます。』
    確か、手紙に彼氏のことが書いてあっただろうか。急な紙一枚の別れはインパクトが大きくて忘れてしまった。だが、急に恋人を連れてきたら、政春くんのように聞いていたかもしれない。
    「姉にナンパだろ?って聞くと怒られるんで。何度も会ったから話しかけただけって言うんですけど、それナンパですよね?!」
    酒を口実に聞いていることが分かったから、適当に相槌を打っていた。
    「女でも年齢重ねると急に積極的になるんですかね?今まで誰もいなかったわけじゃないだろうけど。男で連れてきたのは友だち?だったみたいだし。あの時由夏ちゃんもいて。あ、姉の幼稚園からの親友ね?会ったことあるんですね!いやー焦ってんのかなー。」
    この手の話が好ましくなかった。
    「まあ、初めて会ったときに話しかけられたわけじゃないし。それなりのきっかけがあったから、ね。」
    ふーん。その蚊の鳴くような声で興味が反れたと思った。しかし、まだ彼は話を続けてた。

    「とにかく、あんな姉と付き合うって大変なんですよ。」

    政春くんと初めて出くわしたとき、香織が身の上話をしてくれたことがある。大学を卒業して父が社長の会社に就職したが、30代半ばに差し掛かるころ、急に留学を決めた。それも長期でだ。
    「なんか、反抗期が遅れてきちゃったみたいな。弟が大事で、私はおまけみたいな。どうせ結婚したら会社から離れる存在なんだなって。駒だなーって急に思っちゃって。」
    留学後には誰もが会社に戻ると思っていたが、香織は同じ規模のライバル会社に就職した。それはそれで怒りを買ったらしいが、
    「大学までストレートで行ける中学に行きながら、わざわざ高校受験して公立の学校に行った娘だわって、なんかお父さんも吹っ切れて。そもそも、その時にはまだおじいちゃんが生きてたから、窘めてくれたんだよね。父のことも、弟のことも。切磋琢磨になればいいだろうって。何か情報入るかもしれないしって。さすがに情報は渡さないけどね。」
    そう話す彼女は愛おしそうで、寂しそうだった。

    あんなと言いながら、姉を見る目は愛おしくて優しかった。もともと「優」と書いて「すぐる」になる可能性があった話を思い出した。
    「だから、感謝してますよ。だけど、傷つけたら容赦しないんで。」
    彼はその言葉と俺を庭に残して、愛する家族のもとへ戻っていった。タバコのヤニの匂いなど、その笑顔からは感じられなかった。


    【3】

    土木現場で5年ほど働いた後、裁判で目にかけてくれた弁護士が今働いている会社を紹介してくれた。国選弁護人なのになぜあんなに目をかけてくれたのか。「まだ弁護士になったばかりで、若さゆえの理想があったんで。」という言葉は、本当だったと思う。その会社で数年工場勤務を経験した後、本社の商品管理部に配属された。今もそこで商品の在庫管理をしている。いわば倉庫番、つまりは日の目を見ない部署だ。
    「神田くん、うちの部に来て3年目か。」
    部長との面談は、おおよそ在籍年数を話してから業務内容の確認に入る。しかし、この日は違った。俺に経理部への異動の話があるという。しかも、昇格だという。
    「あの、嬉しい話なんですが、俺の昔のことは……。」
    「そのことは確かに社内でも知っている人間と知らない人間がいる。経理部長は知っている。しかし、って話だ。みんな神田くんの働きぶりを評価している。よく気づいてくれることが多いのは、在庫管理だけでなく経理でもほしい人材なんだ。神田くんは適任だと、評価されたんだ。」
    それでもなかなか浮かない顔をいていたのだろう。部長は付け加えるように
    「今の自分を信じなさい。謙遜しないで、堂々と受け入れてあげなさい。よく頑張っているんだから。」
    と言った。その言葉を噛み締めるように、前向きに検討すると答えた。

    香織に相談したら、自分のことのように喜んでいた。過去についてこの時に話していれば、どうなっていたのだろうと今は思う。彼女は「お祝いだ!」と休みの日にランチデートを企画した。そのランチデートに出かけて、香織の家に向かっていた時だった。
    「あれ?久しぶりだな!」
    黒髪で短髪、スーツを着た年上の男と言えば、いい親父に思えるかもしれないが、首元にちらりと刺青が見える。風貌は来人の盗み聞きが確かであれば、以前よりしゃがれている声ではあるがあの人しかいない。無視をしようにも、「カズキ!」と呼ばれてしまった。ジョーさんだ。
    「カズキ!カズキだよな。いやー、久しぶりだなぁ!」
    すぐ隣には香織がいる。明らかにカタギの人間ではないと一目瞭然でわかる相手と過去に関りがあると知られたくない。家に着いたら、懺悔をしよう。そう思い、彼女の手を掴んで帰ろうとするが、香織は動かなかった。桃源郷には、こんな人間はいないから驚いて動かないんだと思っていた。
    「しらこの……おじさん……。」
    震える声で彼女はそう言っていた。しらこ?白子?それは彼女の苦手な食べ物だが、なんのことか。とにかくジョーさんから離れようとしたが、ジョーさんが「え!!!」と叫んだ。その顔は、幽霊を見たような顔をしていた。
    「香織……ちゃん?」
    なぜジョーさんが香織の名前を知っているのか。問いただしたかったけれど、頭も体もついていかなかった。
    「はい……お久しぶりです。」
    丁寧にお辞儀する彼女と、一気に棘がなくなり優しい空気をまとう男が目の前にいる。
    「久しぶり。その……元気だった?」
    「はい、おかげさまで。」
    沈黙はあれど、俺は蚊帳の中に入る隙はない。
    「すみません、お会いすることができなくて。」
    「いや、それは仕方ないことだったから……。叶うなら、せめて」

    「それはできません。ごめんなさい。」

    震えてた声が強くなった。直角を超えそうなほどに腰を曲げていた。その姿は強い意志の表れだった。ジョーさんは気に障るのではないかと思ったが、諦めと受け入れの表情をしていた。
    「そうだよね……。わかった。」
    「すみません、急いでて。」
    「あぁ、ごめんね。じゃあ……幸せになってね。」
    今までジョーさんからあんなにも優しい声は聞いたことがなかった。彼女も呼応して優しく答えるかと思ったが、凛とした声で別れを告げた。「では、さようなら。」と。
    いつか彼女は言っていた。「さようなら」には「左様ならば、別れるしかない」という意味があるのだと。何かの映画でそう言っていたらしい。だから、「さようなら」は使わないと言っていた彼女が、「さようなら」とジョーさんに言った。

    ジョーさんとあった後、少しぎこちない空気はあったが買い物をして、香織の家に着くころにはいつも通りの空気が戻っていた。何事もなかったように食事を作り、アイスも食べ、風呂も入って泊まる。翌朝も何事もなかったように起きて、身支度をして飯を食べて家を後にする。散歩がてら駅まで歩いて「またね!」と別れた。
    その後も仕事帰りに食事したり、互いの家を行き来したり出かけたり、何も変わらない日々が続いていた。何も変わらない。俺は桃源郷にいる。ただの会社員。もう闇とは無縁で生きていけると、勘違いしていた。

    神田壱希
    会社の名刺にはフリガナがなかった。アドレスは書いてあるが、苗字と生年月日がベースになっている。仕事では基本的には苗字でしか呼ばないし、時に名前の読み方がセールストークになることがあると、きらきらネームが問題視された頃にフリガナの表示がなくなったと、今の部署に配属されたときに部長が話していた。その頃のデザインの名刺が、今俺の家の机に置かれている。食後のお茶と交換するように香織から渡された。

    「カンダカズキさん、だったんだね。イツキじゃなくて、カズキ。」

    申し訳なさそうに、彼女は言った。言い訳などしない。まずは、謝ろう。
    「ごめんなさい。」
    「私こそ、勝手に『イツキさんなんですね』なんて言ったからだよね。ごめん。」
    しばらく沈黙が続いた。どうしてわかったのか。今の時代、簡単に調べれば傷害事件のこともわかるだろう。

    **********

    ジョーさんには組に入ってから本当によくしてもらった。そのことには感謝してもしきれない。しかし、許せないことがあった。
    よく組に顔出している女性がいた。名前は玲子。組の人間に血縁関係があったわけでも、組の息がかかった場所で働いていたわけでもない。警察関係者でもない、不思議な存在だった。ただ、とりわけジョーさんに懐いていた。
    「君、大卒なんだってね。」
    「いや、あと少しで卒業のところで退学。で、ヤクザになった。」
    「あほだね~!!」
    カラッと笑っていた。さっぱりとしていて、姉のような存在だった。俺らのやり取りを見て、よく来人は「付き合ってないんですか!?付き合ってくださいよ!!」と言っていた。来人は結婚して組を抜けるとき、こんなことも言っていた。
    「おふたりさん、恋人よりも夫婦がいいんじゃないんですか?」
    その言葉が俺と玲子を結びつけた。

    ジョーさんに交際を報告すると、祝福の言葉はなかった。「そうか。」と言っていた。ただの照れ隠しだと思っていたが、ある日事務所に立ち寄った時、玄関から勢いよく出ていく玲子を見かけた。髪は乱れ、見たこともないほどに怯えた表情をして、声をかけられなかった。――事務所の中でドンパチでもあったか。
    そう考えて事務所に入ったが、血痕も血まみれの道具もなかった。代わりに、ジョーさんが居間でお茶をすすっていた。
    「どうした、カズキ。」
    いつもは第一ボタンが外れていることなど気にならないのに、この日は気になった。玲子が死んだのは、その一週間後のことだった。

    「四十九日過ぎたんだから、ここに玲子はいないぞ。」
    俺に呼び出されたジョーさんが飄々という姿がさらに鼻にかかった。
    「わざわざ死に場所で決闘しようなんて、ヒーローにでもなったのか。」
    「決闘ですか。玲子は戻ってこないし、あいつのいるところにロリコンなんて送るわけないじゃないですか。」
    「ロリコンね……。俺が殺したと思ってるんだ、お前に嫉妬したって。」
    ずっと言葉を交わすように話すのがムカついた。気づいたら殴り合いの喧嘩になっていた。記憶が途中でなくなったのは意識が無くなっていたのもあった。病院の次は、牢屋に入っていた。

    **********

    あれから、特段悪いことはしていない。ただ俺は本気でこれからを考えて、彼女を見つめていたが、彼女の家柄を見れば、名前も詐称していれば詐欺を狙っていたと疑われてもおかしくない。彼女がいつものように「警察を呼んでもな。」と言えば、黙って110番をしようと思っていた。
    「私さ、白子食べないでしょ。政春とごはん食べたときに知っているだろうけど、弟は白子大丈夫で、私は苦手なの。」
    「人には、好みがあるから。」
    「うん。まあ、お父さんもお母さんも食べられるんだよね。おじいちゃんも。」
    ただの身の上話だと思っていた。だが、白子が出てきたということは、
    「この間会った人なんだけど」
    ジョーさんのことを話し始めようとしたら、彼女が話を続けていた。
    「白子のおじさん。おじいちゃんと関りがあったんだよね。」
    「……え?」
    「見ての通り、ヤクザの人。昔会ったきりなんだけど、今も反社リストを調べたら、入ってた。」
    彼女は俺が反応していることをわかりながらも、話を続けた。
    「暴対法のこともあって、おじいちゃんの代からヤクザとか、反社会勢力の繋がりは絶っていたの。そもそも、建設業って古くからそういうのと関りがあって、持ちつ持たれつなところはあったと思うんだけど、この国は法治国家でもあるからさ。
    でも、なぜか白子のおじさんとはよく会っていて。その場所に幼稚園くらいのときに私もついて行ってて。和食居酒屋に行ったとき、おじさんが白子を頼んだの。結構大きくて、それを一口で食べようとしたら……喉詰まらせて。本当に、本当に怖かったの。死にかけそうな顔と、そのあとに店主に『殺す気か!!』って言った顔が。」
    「……。」
    「私はヤクザの人だって知ってのは、高校生くらいのときで。もうその頃にはおじいちゃんも付き合いはしてなかったの。その白子事件で私、本当におじさんのことが怖くなって食事にもついていかなかったし、本当に怖がったことがきっかけで付き合いを絶ったって聞いたの。
    ただ、おじいちゃんが亡くなった時にお葬式に来た。家族は出席も香典もご焼香も拒んだ。それ以来、会ってなかった。以上、黙っていてごめんなさい。」
    彼女は席を立った。帰るんだ。見送るべきか考えていたら、アイスが目の前に置かれた。
    「チョコミントは私ね。」
    少し緊張が残った笑顔だっただけで、いつものように「おいしい」とアイスを食べている。
    「俺のことは」
    彼女の手が止まった。あぁ、もう調べたんだ。
    「……帰ったほうがいい。駅まで、いや、タクシー呼ぶから。」
    「帰らない!!!」
    今まで彼女から聞いたこともない声だった。怒号の中で生きてきたこともあったのに、もう大声を出すことすら忘れてしまった。
    「香織、今誰といるのかわかっているか?」
    「……わかってる。壱希(いつき)といる。」
    声は震えながらも、しっかりと届く声だった。
    「違う、神田壱希(かずき)だ。」
    「私は、神田壱希(いつき)しか知らない。」
    「俺は、俺は!!!」
    彼女が一瞬委縮したことはわかったが、そのまま続けた。
    「俺は、ヤクザだった。前科者だ。世間なんて組を抜けて5年経っても、10年経っても、一瞬でもヤクザだったら一生ヤクザなんだよ。」
    声を張り上げて言ったつもりが、狼狽になっていた。
    「じゃあ、今もヤクザなの?」
    「世間は」
    「私は、ヤクザだと思わない。出会った時から今も、ヤクザだと思ってない。今、目の前にいる神田壱希(かずき)も。」
    「家族は、そう思わないだろ。」
    香織を思えば、ここで切るべきだった。目の前にジョーさんが現れた今、ここが潮時だったんだ。
    「私の人生だから。私が選ぶ。私は、今目の前にいる人とこれからも生きる。」
    本当はこの波に飲まれるべきではなかった。理由を問われたら「愛だった」としか答えられないが、本当の愛し方は他にもあったはずだった。


    【4】

    変わらず平穏に過ごしていた。変わったことと言えば、経理部への異動が決まり、香織と本格的に同棲に向けて動き出していた。だから、俺は動き始めた。ジョーさんと本格的に縁を切るために。

    「事務所に顔出すなんて初めてだから、本当にびっくりしたっすよ。しかも、プライベートの連絡先も渡してくれるなんて……兄貴!!あい」
    「辞めろ、気持ち悪い。」
    来人と会うのは変わらず車内だが、会おうとするためには来人の会社に行くしかなかった。社用の連絡先にメールや電話があったら困るからってだけで、私用の連絡先を教えるほかなかった。そして、ジョーさんと連絡を取る方法がない中、少しは可能性が残ってそうな来人を頼るしかなかった。
    「一件が片付いたらまた来るから。その時に連絡先を消してもらうからな。」
    「はーい。」と気の抜けた返事が相変わらず気に食わないが、唯一の綱なので仕方なかった。

    ジョーさんからの連絡は、来人に連絡先を渡してから思いのほか早くに来た。季節の挨拶などなかった。
    『命日にあの場所で待ってる。正午。』
    名前もなかったが、ジョーさんだとすぐにわかった。ジョーさんと会う前日、眠りにつく前に香織に
    「明日、会うことになった。」
    と伝えた。目を大きく見開いていた。誰とは聞かずに、もうジョーさんに会うと分かっていたのだろう。「大丈夫。」と俺は呟いて、子供をあやすようにそっと彼女を包み込んだ。声を上げなくても、彼女が涙を流していることはわかっていた。会わなくて済むならそれでいいが、ふたりで歩むと決めた意思のためには必要な再会だった。
    翌朝、いつもと違うことは俺のほうが早く起きて朝ご飯を作ったこと。一緒に朝食をとり、テレビを見て他愛のないことを話した。
    「今日は、うちに戻る?」
    香織は今日、一日家にいる。出かけるのは俺だけだ。そういう時は、玄関先で別れる。
    「うん、必ず帰る。」
    「よかった。」と聞こえた気がした。今日は少しだけ、ほわっとしていた。
    「じゃあ……いってらっしゃい。」
    「行ってきます。」
    しっかりと目を見て、抱擁をする。それが、いつもよりお互いに力強くなっている気がした。そのあとのキスも、いつもより長く感じた。
    いつもはそれで駅へ歩いていくはずだった。香織のマンションを出たときだろうか。

    「壱希(かずき)!!」

    香織の声が降ってきた。ベランダは道に面していない。ふとマンションのルーフバルコニーに香織がいた。
    「壱希!!実はね、いつもここから見てたんだ!!!」
    少し泣きそうだけど、懸命に笑顔でいようとする姿が愛おしかった。
    「ありがとう、香織!!!本当にありがとう!!!!」
    名前も呼んでくれて、もう怖いものはない気がした。
    「私こそ、ありがとう!!!!」
    ふたりして大声で感謝を述べて、大振りで手を振って。今、こんなにもメロドラマな人間はいないと思った。それが幸せで、しかしなぜか最期な気もした。それでも感謝をし続けた。「気を付けてね!!!」と、遠足前の母親のように最後は言い合った。


    【5】

    正午10分前。
    俺が屋上に来た時、すでにジョーさんは屋上にいた。
    「玲子の命日、覚えていたんですね。」
    ジョーさんは頷きながら煙草をポケット灰皿に閉まった。
    「ちゃんと持ち歩いているんですね、灰皿。」
    「組の方針はイメージ戦略だからな。」
    「今、千田組にいるんですよね?そこでもそうなんですか。」
    ジョーさんは鼻で笑って否定した。
    「正式には入ってないよ。手下だし、反グレの、世間じゃもうトクリュウか。そいつらと千田組のパイプ。」
    終始優しい口調で話しているが、ジョーさんも結局は闇に戻ったんだ。俺も、あの弁護士がいなかったらこうだったかもしれない。真っ当に生きられているから、真っ当に縁を切るためにジョーさんと連絡を取り合ったんだ。話し合えば、誓約書を交わせば終わり。そのことを切り出そうとしたときだった。

    「あの子と別れてくれ……!!!」

    目の前に土下座をするジョーさんがいた。この人がなぜそんなことを言うのかもわからなかった。
    「……あの子って、香織ですか。」
    「あの子は大切な人なんだ。だから、別れてくれ。」
    大切な人ならば、なぜ拒絶されているのか。
    「香織のこと、欲しくなったんですか。玲子のときみたいに。」
    ジョーさんにとって、やはり玲子は大事だったのだろう。急に顔を上げてきた。
    「玲子に手を出そうとしてたんだろ?玲子がいなくなって、香織に手を出すんですか。昔のこと引っ張り出して、彼女を傷つけるんですか!!!」
    「違う!!!」
    「じゃあ、なんですか!俺のことで何か気に食わないことでもあるんですか!!!」
    殴りたい、蹴りたい。でも、必死にその思いを抑えて、代わりに声にした。すると、ジョーさんは信じられないことを言い出した。

    「玲子と、香織ちゃんのおじいちゃんは同じ人だ……。」

    香織の祖父は、学生の頃に付き合っていた人がいたが結婚には至らなかった。会社を大きくしたかったから、仕事に集中したかったからだそうだ。しかし、別れてから交際相手が妊娠していることがわかった。彼女は誰にも知らせずに一人で産み、育てることにしたが、子どもがまだ小学生の頃に他界してしまう。亡くなる前、せめて子どもの存在だけでも知ってほしかったのだろう。香織の祖父に知らせて認知もしたが、曾祖父たちが育てることに反対をした。縁談が決まっていたからだ。
    それでも血のつながりがある子だから気になり、孤児院に入ったと知れば寄付をし、彼女が18歳になって働くとなれば店を紹介した。その店に出入りしていた男と出来た娘が玲子だという。
    「俺もお前と同じで黒服からこの世界に入った。玲子の母親には世話になったし、だからあの子のじいさんとも面識があった。俺はもともと家族とも縁が薄いから、家族みたいに慕っていたんだ。」
    「じゃあ、玲子が許嫁だったのか?」
    男は静かに首を振った。
    「ボディーガードだ。玲子の父親はすぐに蒸発したし、母親も病弱だった。それに、夜の世界にいたから心配してたんだよ。ヤクザに関わらないように。」
    「……あなただって、ヤクザじゃないですか。」
    「本当は玲子とお前が付き合ったときは祝福したかったよ。だけど、約束を守りたかった。だから別れろと、今の話もしたけど頑なに話を聞かなかったから……。」
    手を出したのか。俺の目には殺意があったと思う。それを見てか、本当なのか弁明をしていた。
    「少し口論が過ぎて、引っ張叩くくらいだ!!」
    小さいころから慕っていた人が、急にヤクザの本領を垣間見せた。それがどれだけ怖かったことか。そして、命の危機を感じたのだろうか。
    「あいつが、それでショックでここから……。」
    「カズキ、お前がもう真っ当な人間だと分かっている。だけど、真っ白じゃないだろ?あの子がこれから苦しむことは、わかるだろ?」
    至極その意見は正しい。真っ当な人間になったからこそ、俺は今が誓約書を交わす時だと思った。
    「わかってます。だから、今日はこの誓約書を」
    急にジョーさんが近づいて抱擁してきた。気持ち悪いと感じたのは、気持ちだけではなかった。どん、と抱き寄せられた背中にジョーさんは手を押さえ、俺の腹は冷たい鋭利なものがゆっくりと入る感触があった。生暖かさと冷たさが合わさって気持ち悪い。
    「……ジョーさん……。」
    最期に言った言葉はあの人の名前になるのだろうか。
    「ごめんな、カズキ。でも、恩人との約束と、あの子のためなんだ。」
    せめて、最期に名前を呼んでくれた人は香織がよかった。だんだんと視界が狭まる中、ジョーさんが落ちていくのが見えた。ドン、と思い音がしたときだろうか。雨が降り始め、雨音が強くなり出したころ悲鳴が聞こえ始めた。


    【6】

    牢屋生活は短かったはずなのに、何年もの間入っていたような気がした。物的証拠である防犯カメラもあって無罪は証明されたが、そこに至るまで――殺意の有無など――で裁判が難航していたのは確かだった。
    少しは無罪へ希望を持ちたかったが、ヤケを起こしていたこともあった。
    「神田さん、あなたはもうヤクザじゃないんです。無罪ならしっかり無罪と言いましょう。」
    そう言うのは、以前の事件でも世話になった弁護士だった。国選ではない。彼が自ら弁護を名乗り出た。金など出せないと言えば「独立したばかりなんで、気にしないでください。」と、引き下がらなかった。
    「過去ヤクザだったら、もうヤクザなんですよ。」
    証人になったのは来人しかいなかった。会社の部長は人物像の証言はしてくれたが、俺は解雇になった。香織たちが出てくることはなかった。
    「カンダタのほうがマシです。」
    カンダタ。それは蜘蛛の糸に出てくる男の名前だ。天国へ向かう糸を自分以外にもいると知って、蜘蛛の糸を切った男。
    「弁護士は、カンダタも救おうとするんです。仏のように蜘蛛の糸は切らずに。たとえ自分本意の最悪な人間にも、弁護人の最良を考えるんです。」
    「とんでもなく尊い仕事ですね。」
    「そんな話をしているんじゃないんです!!!」
    あの空間にいた誰もが、弁護士先生に視線が行った。そのくらい、大声が似合わない人だった。
    「自分のために、生きていいんじゃないんですか。そう生きてたんじゃないんですか、ここ数年は。愛する人がいて、生活が充実して。そんな人生を、あなたは歩んでいい人間なんです。それが難しいなら、無罪は私のために勝ち取ろうとしてください!!!」
    言葉だけ見れば、成果がほしい人に思えるだろう。でも、この人は違うことを俺は知っている。
    直接の交流はなくとも、年に一回の年賀状を欠かさなかった。俺も彼に年賀状を欠かさずに出していた。それが、まるで文通のようになっていた。彼の発言は、俺が生きるための最後の切り札だった。

    無罪を経て釈放されたとき、来人が迎えに来た。
    「弁護士先生じゃなくて、俺でよかったんですか?光栄ですけど。」
    「いいんだよ、もう迷惑かけられないから。」
    ふーん。その音に「俺ならいいのか」と言われた気もしたが、無視をした。その代わり、助手席に座ると、来人は凄く嬉しそうに笑っていた。
    「そういえば、かおりさんなんですけど」
    「その話はいいから。早く出せ。」
    はいと小声で言うと、車はエンジンを吹かせて進んだ。

    **********

    弁護士と来人以外に面会に来た人間がいた。
    「姉が妊娠しました。」
    政春くんだった。その言葉に俺は久しぶりに目を見開いて、大粒の涙が流れた。
    「嬉しいですか。もう会えないのに。」
    無罪ならば、と思ったが、どうやら桃源郷では疑惑の目もいけないらしい。しかし、俺は殺してない。だから、会える可能性を抱いて塀の中の鬱陶とした世界でもなんとか生きていた。
    「あなたが親なのは間違いないので、あくまで報告です。」
    「香織は、元気ですか?」
    そっと彼は頷くと
    「名前、参考程度に希望を聞いておきます。」
    と言った。驚いた。でも、それは確かに希望だった。「いちる……」と言ったつもりだが、届いていなかったらしい。仏頂面で「え?」と聞き返された。
    もう一度「一縷」と言おうとしたが、ハッとして違う名前を呼んでいた。

    「光(ひかり)……。」

    政春くんは呆れたような顔をしていたと思う。それでも
    「わかりました。ヒカリ、ですね。字はこっちで任せてください。」
    と言って立ち去ろうとした。
    「ただ、姉の年齢も年齢なんで。まぁ、妊娠、出産は危険がつきものなので、そのことはちゃんと分かっていてくださいね。」
    そのことをわかりながらも、希望を持ちながら戦いに望んでいた時だった。

    そろそろ産まれてもおかしくない頃、また政春くんがやってきた。
    「流産しました。これで本当にお別れです。」
    その一言を伝えるためだけに来た。
    「香織は……香織は無事なんですか!!!」
    扉が開いた瞬間だった。彼は少し振り向いて「安心してください。」と言った。ちゃんと俺には届いていた。絶望の中のわずかな希望だったが、それ以来弁護士と来人以外に面会は誰一人来なかった。

    **********


    力仕事は疲れる。年齢的にも堪えるほかない。しかし、生きるためにやるしかなかった。その帰り道だった。
    信号待ちの対岸に、彼女がいた。彼女も俺に気づいたと思う。俺は動けなかった。横断歩道を渡らなければならないのに、元の道を戻ろうとしていた。ラッシュに重なったこの時間に、急な身動きの変化は厳しい。人にぶつかり、荷物が散らばった。
    腰も、膝も仕事のあとはより曲げにくい。しんどかった。人が俺を避けていく中、一人の女性が荷物を拾ってくれた。
    「大丈夫ですか。」
    分かっていた。彼女だと。
    「はい、大丈夫です。」
    涙ぐんでいることを悟られぬように、下を向いたまま言った。しかし、
    「よかった。」
    と、あの頃と変わらずにほわっと言うものだから、思わず顔を上げてしまった。その目は少し潤んでいた。荷物をすべて拾い上げて確認をし、
    「ありがとう……ございます。」
    と礼を言えば、
    「どういたしまして。」
    と優しい声が返ってくる。言葉を続けたいが、もう叶わない。叶えてはならないと思った。
    「じゃあ……さようなら。」
    俺はそう言って彼女の元を去ろうとした時だった。
    「元気ですか?」
    そう聞く彼女は笑顔が素敵だった。それが眩しくて頷くことしかできなかった。
    「私も元気です!では……。」
    口元のご文字は確かに俺に聞こえていた。
    喧騒のなかに彼女は消えたが、その後にあの名前を彼女が呼んだ気がした。彼女のそばに複数人の温かな笑い声が聞こえた。それを聞いて、俺は涙を飲み込んで前へ進んでいった。
    彼女は俺にとって、どうか永遠に仏でありますように。






    ―――





    師匠の部屋を整理しているとき、この手紙を私は見つけた。師匠はとても驚いていた。そして、私にこの手紙を託した。
    なぜなのかは知らないが、知らないのに知っている気がした。
    私は、この人を忘れないでおこう。








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