
妄想N3 「3秒の奇跡に命を燃やす男」
妄想大陸ドキュメンタリー『3秒の奇跡に命を燃やす男』
【番組冒頭】
(♪チャッチャッチャッチャッ… 葉加瀬太郎のバイオリン)
ナレーター(窪田等ボイス):
東京、港区。
名だたるアーティストたちが集う、とあるレコーディングスタジオ。
張り詰めた空気の中、ブースに一人の男が座っていた。
彼には、歌詞カードがない。
譜面もない。
あるのは、スタジオの湿度計を見つめる鋭い眼光だけだ。
男:
「……湿度、58%か。あと2%足りないな。加湿器、強にしてもらっていいですか」
彼の名は、轟 響(とどろき ひびき)。54歳。
職業、Ahhhティスト(アーティスト)。
数分の楽曲の中で、彼がマイクに向かうのは、ほんの数秒。
サビ前や大サビに訪れる「あーーーーー」という咆哮。
その一瞬のためだけに、彼は人生のすべてを捧げている。
【タイトルロゴ】
『妄想大陸』
Ahhhティスト・轟 響

【スタジオ内部・午後2時】
(BGM:ピアノの静かな旋律)
レコーディングが始まった。
流れてきたのは、人気ロックバンドの新曲。
アップテンポなドラム、歪んだギター。ボーカルがAメロを歌い始める。
しかし、轟は動かない。
腕組みをし、目を閉じ、地蔵のように固まっている。

ディレクターの声:
『Bメロ入りますー』
轟は動かない。
首を少し回し、ポキリと鳴らす。まだだ。まだ彼の出番ではない。
ナレーター:
彼は「歌詞」を歌わない。
彼に言わせれば、歌詞は「説明」であり「ノイズ」だという。
轟(インタビュー):
「『愛してる』とか『会いたい』とか、言葉にした瞬間に嘘になるでしょ?
人間の感情が極まった時、口から出るのは母音だけなんですよ。
赤ちゃんの産声も、死ぬ時の最期の言葉も、だいたい『あー』か『うー』だ。
俺は、その純度100%のソウルを、曲の隙間にねじ込んでるんです」
【スタジオ内部・午後4時】
(BGM:緊張感を煽るパーカッション)
テイク数は既に50を超えていた。
しかし、轟が歌った時間は、トータルでまだ3分にも満たない。
ディレクターの声:
『次、ラスサビ前のブレイク入ります。ここ、一番の聴かせどころです』
スタジオの空気が変わる。
轟がヘッドホンをきつく締め直した。
カッと目を見開き、マイクとの距離をミリ単位で調整する。
曲が流れる。
ギターソロが終わり、静寂が訪れる一瞬のブレイク。
轟:
「……………(息を吸う)」
轟:
「Ahhhhhhhhhhhhhhhhhhh!!!!!!!」
(静寂)
轟の声が消えた瞬間、バンドの演奏がドーンと戻ってくる。
完璧なタイミング。
完璧な倍音。
ガラスがびりびりと震えるほどの声量。
ディレクターの声:
『……OK! いただきました! 最高です!』
轟:
「お疲れっした」
言うや否や、ヘッドホンを外し、轟はブースを出ていった。
曲はまだ続いているが、彼にはもう関係がない。
彼の仕事は終わったのだ。
【帰り道・夜の六本木】
(BGM:エンディングテーマ『Etupirka』)
仕事を終えた轟は、コンビニでのど飴を一袋買った。
これが今日の夕食だという。
スタッフ:
「今日のギャラは?」
轟:
「5,000円。時給換算すると安いけど、秒給換算するとビル・ゲイツより稼いでる計算になるかな(笑)」
スタッフ:
「次の夢は?」
轟:
「うーん…。
いつか、一曲まるまる『あーーーー』だけで構成されたアルバムを出したいね。
1曲目『あ』、2曲目『あー』、3曲目『あーー』みたいな。
……ま、今は目の前の『あー』に全力で挑みます」
そう言って彼は、夜の雑踏へと消えていった。
ナレーター:
轟 響、54歳。
今日も彼は、誰かの曲の隙間で、命を燃やしている。
(提供:イナマキビール)