
短編小説|サヌールの曇り空
サヌールの曇り空
(1598字)
バリ島南東部、サヌールの海岸通りから一本入った路地に、小さなマッサージ店があった。
八月のある日の午後、ひとりの青年がその扉を開けた。
店主のマッサージ師・ヨシュアは、その青年を店の中に迎えた。青年は仕立てのいい綿のシャツを着ており、黒縁の眼鏡の上部には、小さな円筒形のレンズのようなものが装着されていた。
「マッサージをお願いできますか」と、青年は流暢な英語で言った。
ヨシュアが「どうぞ」と英語で答え、青年をベッドに案内した。
青年はベッドに近づいた後、足元に視線を落としてゆっくりと靴を脱いだ。
ヨシュアは、施術台の上でうつ伏せになった青年の背中にタオルを敷き、その上に自分の両手を置いた。
指先を沈め、自らの触覚を頼りに、青年の全身をほぐしていく。青年の背中の筋肉はしなやかで若々しかったが、肩甲骨の内側から首の付け根にかけては凝り固まっている部分があった。
「ずいぶん張っていますね。普段はデスクワークですか?」
「ええ、いつもはハーグでコンピュータを使う仕事をしています」と青年は答えた。
ヨシュアは親指の腹で背骨の際をゆっくりと押し流しながら、「そうなのですね」とだけ返した。
「私の祖母がスラバヤの出身で、数年に一度、こちらに来るんです」と、青年はうつ伏せのまま語った。
「サヌールには初めて来たんですが、明日の朝も曇りですかね」
「どうでしょう。今年は曇りの日が多いので、綺麗な朝日を見るのは明日も難しいかもしれません」と言った後、ヨシュアは足元の荷物籠に視線を移した。籠の中の鞄の上には、青年の眼鏡が置かれているように見えた。
「それならよかった。曇ってるのが私にはちょうどいいので」と青年は答えた。
天井のシーリングファンが、空気と擦れる音を静かに発し続けていた。
しばらくの沈黙が続いた後、青年が口を開いた。
「私は眼鏡をかけても0.2くらいなんです。少し離れるとほとんど見えない」
『正常』を1として、そこからの離れ具合を示すその小数。
「子供の頃から弱視でしてね。コンピュータは、フォントを拡大して、白黒を反転させて何とか使っているんです。だから、こんなに体が固まってしまうんですかね」
ヨシュアは、マッサージを続けながら、青年の話の続きを待った。
「でも少し前からね、その特殊な眼鏡を使い始めたんですよ。遠くを見たい時は、顎を少し引いてその眼鏡の上についた望遠レンズを通して見るんです。私の国では、これを使えば自動車の免許も条件付きでとれるんですよ」
「なるほど。でも、眩しい太陽の光を見られるわけではない、ということですね」
「そう、そうなんですよ。だから、私には曇り空がいいんです」と、青年は言った。
ヨシュアは再び指を動かし始めた。凝り固まった肩の筋肉を、時間をかけて丁寧にほぐしていく。
一時間弱の施術が終わると、青年は驚いたように首を回し、肩を上下させた。
「体が羽のように軽い。素晴らしい技術ですね」
そう言った青年は、チップを多めに残して、店を出ていった。
その日の仕事を終えた夕方、ヨシュアは一人で海へと続く突堤へ歩いた。
空は均一な白灰色に覆われていたようだった。強い直射日光がなく、光が拡散している感覚から、ヨシュアはそう判断した。
コンクリートの突堤の先には、古びた鉄製の手すりがあった。
ヨシュアは立ち止まり、両手を左右に広げてそのパイプを掴んだ。潮風にさらされてざらついた金属の感触と、昼間の熱をわずかに残した温度が、手のひらを通して伝わってくる。
目の前には、白い空と鈍い銀色の水面が溶け合う水平線が広がっていた。
その先の遠い国では、自分と同じ視界を持ちながら、自分とは違う人生を送る人間がいる。そのうちの一人、かつてこの海を渡って異国へ移り住んだ者の子孫に、今日出会った。
ヨシュアはそんな物思いに耽りながら、両腕で手すりを支えたまま、いつものように白く霞む海と淡く輝く空を、しばらく見つめ続けていた。
(了)
こちらの「個人文学賞」に参加させて頂きました。花澤薫様、よろしくお願い致します!