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美味幻想奇譚集(仮)⑧母ちゃんのハヤシライス


    そう、俺はこの洋食屋の店主さ。ただのコックじゃないよ。言うなれば一国一城のあるじってとこかな。そりゃまあ古くて小さい、どこにでもあるような店かもしれないけどさ。

    この店は母ちゃんから譲り受けたんだ。母ちゃんは中卒で青森から上京してきてさ、最初は上野の洋食屋でウェイトレスとして働き始めたんだよ。ウチなんかとは違って、白いコック服を着たコックが何人もいるような立派な店さ。母ちゃんはそこで食べさせてもらったハヤシライスに感激したんだって。世の中にこんな夢のようにおいしいものがあるのか、って。こんなところで働かせてもらえるなんて自分は幸せ者だ、ってね。

    だから一生懸命働いた。ウェイトレスの仕事だけじゃなくて、勝手に厨房の手伝いまでしてたんだ。ウェイトレスの出勤時間は10時だったんだけど、コックさんの出勤時間に合わせて朝7時前には店に来てさ、コックさんたちに頭を下げて仕込みの手伝いをやらせてもらってたんだって。

    もちろん料理なんてやらせてもらえないよ。鍋磨きとか、芋の皮剥きとか、そういう仕事。でもそれをやりながら、コックさんたちの仕事をずっと見てた。店の営業中も、ウェイトレスの仕事をしながら、すきあらばコックさんたちの手元を見てた。母ちゃんはたぶん、料理の天才だったんだよ。そうやって洋食屋の仕事をすっかり憶えちまった。

    そんなこんなで働いてるうちに、コックのひとりといい仲になってさ、そんで結婚した。初めはそのまま同じ店で共働きしてたんだけど、そのうち俺を妊娠してさ、店は一度辞めたんだ。ところがこの俺の親父ってのがロクでもないやつでさ、コックとしての腕は確かだったんだけど、大酒飲みで酒癖も悪くて、しまいには俺が生まれてすぐに他所で女を作って、店も辞めて家も出ていっちまった。それから母ちゃんは、女手ひとつで俺を育ててくれたってわけさ。

     
     
    料理人・文筆家 エリックサウスの中の人 近著は 稲田俊輔のおそうざい十二ヶ月(暮しの手帖社) 東西の味(集英社)

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