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図書館司書とチベットスナギツネ

    【内容紹介】「図書館司書」はOA化が進んだ時から「誰にでもできる仕事」になってしまった。この物語は、大学の図書館司書として勤務してきた大石史郎が主人公。アウトソーシング化が推し進められ、史郎は体調を崩し難病を抱えてしまう。正規職員の史郎たちも異動を命じられ、司書の仕事を続けたい史郎は退職を決意する。派遣スタッフの三宅真湖は、史郎に仕事を教えてもらううちに好意を寄せるようになる。史郎も真湖のことが気になるようになり、趣味のフィルムカメラを通じ、心を通わせるようになった。退職後に真湖との将来を意識するが、司書の仕事は、病気のこともあり採用が難しい。史郎が図書館司書の仕事に就くまでのお話。

    【ペンネーム】小盛(こもり) ちさ
    【監修】   ごん色カメラ・山盛公夫
     

     
    【プロローグ】
     「いいね、あんたたちはのんびり本を読んでるだけで……」図書館司書によく向けられる言葉だ。本を読むだけで給料がもらえるたやすい仕事ではない。給料だって高いわけではない。むしろ低い方だ。司書の求人を見るとほとんど派遣、時給は低い。しかし、司書たちは資料を探しに来た人に最大限のアドバイスができるよう見えないところで、努力を惜しまない。資料を探しやすく分類し、探す人のために登録する。汚れを防ぐためにブックコートフィルムで装備し配架、探す人を待つ。そして多くの人の目に留まるように紹介をする。資料を探したり、自館にない資料は他大学に借りたり、コピーを取り寄せたりして、利用者の求める情報を提供する。そんな本を探す人のサポートをするのが図書館司書の仕事—―。
     
    【十月】
     僕の大学は東京郊外にある私立の文系総合大学「国分寺大学」。偏差値はそれほど高くはない、だからと言って低いわけでもない。歴史も古く、文学・経済・法・教育・社会学部がある。文系を希望する学生は減少傾向にあるが、元々募集が少なく少数精鋭を売りにしているから東京六大学やMARCHには入っていないがそこそこの人気はある。少子化のため大学の将来は明るくはないが、法学部の司法試験合格率も結構高いし、教員や公務員などの堅実な仕事に就く卒業生は多い。学生たちを支えてきた大学図書館も、学生がパソコンやタブレット端末を持つのが当たり前になった昨今では、利用者は年々減っている。本を読まなくても、調べものの答えはネットの中にあふれているから。
     僕は大学では文学部歴史学科・旧石器~弥生時代の先史考古学を学んだ。特に好きなのは縄文時代。約一万年も続いたこと。昔は狩猟民族と言われていたが、定住していた遺跡が見つかり、作物を栽培していた形跡もあった。黒曜石やヒスイなどが広範囲で見つかっている。このことから交流が盛んに行われていたと推測されている。古い学問と言われるが新しい発見により、教科書が変わるほどの新しい学問だ。発掘情報にはいつも注目している。学生時代のアルバイトといえば、発掘調査ばかりで暑い日も寒い日も授業の合間に、調査活動をしていた。自分の研究にも繋がり一生の仕事にしたいと考えていたが、大学院へ行けるほどの実力も資金もなかったため、母校の職員採用試験を受け図書館に採用された。図書館司書の資格は在学中に取得していたし、卒論では司書のみなさんにずいぶんお世話になったから、図書館に就職できたことは幸いだった。まず配属される前に、他の大学の図書館司書も参加した目録の研修を一週間受け、目録の約束事を頭に叩き込む。自分で目録が作成できるように……。「図書館の仕事はスピード重視ではない。ゆっくりでいい、丁寧に目録を作って資料を探している人がたどり着けるように、目録データを作っていかなければならない」
    はじめの配属先は、図書館の顔ともいえるサービス課・閲覧係。受付・貸出・返却が主のカウンター業務。相互貸借やリファレンスもこなした。大学に入ったころに、図書館がこれまでのカード目録から、図書館資料がデータベース化され、検索するのが年々楽になっていったが、古い資料は仮データだったので、通常業務のかたわら、遡及入力も担当し蔵書を登録した。閲覧係の仕事はカウンター業務以外に、新刊本の紹介や展示スペースでテーマごとに本を集めては紹介していた。当時の上司の久保田課長が「図書館の仕事はね、手を抜けばどれだけでも抜ける。カウンターに座って利用者を待っていればいいのだから。でもね、やれることはいっぱいある。本を紹介し興味を持ってもらう、その手助けをする努力をしてほしい」とよく言っていた。いろんな学部の生徒が利用するので、誰かの心に響くように積極的に本を紹介していた。今も、目録を登録しながら、この本は歴史学の生徒に読んでほしい、この本は国文学の生徒に読んでほしいと思うことは多い。
    目録係は図書館の中で、とても重要な係。担当者はそれぞれ得意分野があり、英文学はこの人に、古典資料はあの人へ、北欧の資料はこの人に、アジア文学はあの人にと分類には絶対の自信を持って先生からも信頼されており、Librarianの中でも職人とも言えるポジションだった。自分で目録を作ることに憧れて、異動希望は毎年目録係にしていたが、仕事にも慣れた五年目に念願の目録係に異動することが叶った。目録の神と思っていた石原さんがお辞めになったからだ。できれば石原さんから教えを乞いたいと思っていたから、それだけは残念だった。昔はそれぞれの図書館で目録を作成し、目録カードを手書きしていたが、手書きの目録カードは、データベース化されるようになると印刷されるようになった。やがて目録カードそのものが不要になり、目録カードやそれを入れていたカードボックスは図書館から撤去されてしまった。国立情報学研究所が総合目録・所在情報データベースを共有し、大学図書館の参加機関が共同で登録したNACSIS-Web CATから目録データを共有することになり、どこかの大学が作った目録をダウンロードすることが目録係の仕事になった。自分で目録を作りたいと思っても、すでに登録されていることがほとんどだった。目録がプロフェッショナルの仕事ではなく、誰にでもできる仕事となり、職場には派遣社員が入ってきた。ここ数年は派遣の人たちに仕事を教えるのが、僕の仕事。正規職員は課長・係長・僕、あとの四人は派遣スタッフ。昔、目録係には十人以上の正規職員がいたとは思えない。
     目録係だけではなく、閲覧係にも、図書館全体に派遣が占める割合がどんどん多くなっていった。大学全体、社会全体にアウトソーシング化進んでいた。今や目録係はデータをダウンロードするだけの仕事。使いやすく便利になった反面、目録を作成することはほとんどなかった。少数の参加館が年間の図書書誌レコード作成数の半分近くを占めている。一方、図書書誌レコードを作成していない参加館もある。うちの大学は残念ながら後者だ。専任の司書が僕だけになってからはなおさらだ。派遣スタッフはほとんどの人がパソコンを使いこなすので、パソコンの操作に関しては教えることは少ない。図書館システムを使いこなせるようになれば簡単な仕事だ。派遣の人たちは、そんな仕事が退屈なのかしょっちゅう人が変わる。そのたびに仕事を教えるが、一日あればほとんどの人ができるようになる。日本図書館協会の統計によれば、専従職員よりも非常勤職員、業務委託・派遣職員の比率は年を追うごとに高くなり、私大では正規職員の倍以上になっている。https://www.jla.or.jp/wp/wp-content/uploads/2026/03/2025uni_shukei.pdf
    日本の図書館統計・2025大学図書館統計(日本図書館協会HPより)
     
     目録係には常に四人の派遣スタッフが配属されている。登録している人は十名ぐらいだが、旦那さんの扶養の範囲で働いている人が多く、週に二回、一回だけ働きに来る人が多い。その人たちは与えられた決まった仕事しかしてくれない。イレギュラーなことには対応できないのでその都度対応している。この頃からもともと胃腸が弱かったが、食事をするたびにトイレに駆け込むようになり、ずっと下痢が続いていた。時折強い腹痛や発熱があり粘液のような便をすることもあったので、健康診断の際に相談したところ、すぐに病院へ行くように言われた。精密検査を受けた結果、「潰瘍性大腸炎」と診断され、そのまま半月ほど入院することになった。入院中も職場から問い合わせがあったが、パソコンが目の前にあるわけではないので答えられないこともあり、退院後に対応するから別置しておくよう指示を出した。入院前に図書館から十冊ほど本を借りてきたが、一週間ほどで読んでしまった。普段、ネットで本を買うことは少ないが、この時は仕方がないので十冊ほど購入した。定期購読している『発掘された日本列島』の最新号を買ってしまった。いつもお願いしている光文堂書店さんに届いているとは思ったけど待てなかった。光文堂さんの本は誰かにあげればいい。新しい発見は胸が躍る。病床の僕だけど心は縄文時代に飛んでいる。退院後は食生活に注意することを看護師さんや栄養士さんから注意するよう説明を受け、入院時に出されていたものを選んで食べるようにしていた。消化に良いもの、腸に負担をかけない低残渣・低脂肪・低刺激食、加えて栄養バランスを整えつつ個人に合った食材。この生活に慣れてくると気づいた。美味しいものほど油分が多くカロリーが高い、僕にとっては危険な食べ物だということに。
    「大石君、ちょっといい?」横山課長に呼ばれた。係長と話すことはあっても、課長と話をすることはあまりなかった。
    「はい」
    「会議室へ来てくれる」
    「はい……」
    十人以上入れる会議室の一番奥に招かれると
    「体調どう?」
    「難病と診断されましたが、食生活に注意するようになり、最近は調子が良くなっています。ご心配をおかけしてすみません。ありがとうございます」
    「実はねぇ、人件費の削減で、正規職員を減らすことになってね……もうわかっているとは思うけど、今はアウトソーシングの時代だ」
    「クビですか?」
    「いや、いやそうじゃないよ。配置転換。総務に空きができたから、次年度異動だよ」
    「総務の仕事ですか……図書館の仕事がいいんですが、異動しないといけませんか?」
    「学校にはいろんな仕事がある。私だって図書館の仕事をずっとしてきたわけじゃない。考えておいてね。君も身体のことが不安だと思うけど」
    「はい……」今、この図書館にいる役職以外の職員は三人。たった三人。他の二人も異動なのか? リファレンス担当の濱島さん、相互利用の藤岡さん聞いてみようかと思っていたら
    「大石君ちょっといい」相互利用の藤岡さんだった。あの話か……。
    「先週、課長に呼ばれて、次年度異動だって言われたんだ」
    「僕もさっき課長から総務に異動と聞きました」
    「そうか。濱島さんもだよ。役職以外の正規職員三人ともか……」
    「僕は図書館の仕事がしたいんです」
    「俺も、濱島さんもだよ。昔と違って職員は派遣ばかりになって、これも時代の流れなのかなって。図書館司書の仕事はそんなに簡単じゃないよね」
    「はい、学生時代に藤岡さんや濱島さんに大変お世話になりましたし、卒論が書けたのはお二人のおかげだと思っています」
    「学校の組合の人に掛け合ってみるよ」
    「よろしくお願いします」こんなときだけ頼って組合活動全然しなくてすみません。
     
     翌週、発送する郵便物を見つけたので、
    「郵便物、持っていきますね」八つの封筒を持って、本館一階へ。総務の郵便置き場に置く。図書館宛の封筒と小さな箱を二つ抱えた。相互貸借の資料だ。
    「持てますか?」郵便の仕分けをしていた若い女性が声をかけてくれた。
    「大丈夫です」
    「あ、これも図書館参考調査係宛です」A4サイズの封筒を渡してくれたので、脇に挟む。
    「ちょっと伺っていいですか? あなたは正規職員?」
    「いえ、派遣です。総務課は課長以外全員派遣です」
    「そうでしたか。ありがとう」
    図書館へ戻るとそれぞれの係に郵便物を配付して回った。
    「藤岡さん、郵便物です」
    「おぅ、うん? お前、なにやってんだ?」
    「ついでがあったから、総務に行ってみたんです。総務も派遣社員ばかりでした」
    「偵察か……」
    「そういうわけでは……」図星だった。
    「俺は経理課に行けって言われている。会計業務なんてやったことないんだけどな……」
    「僕は図書館から離れる気はありません」
    「組合に話してみたけど、どこもアウトソーシングで正規職員が少なくなっているよ。ずいぶん前からひそかに進行していたんだよ。定年で辞めた人のあとは新規採用がなくて、派遣社員が代わりに入って今の状態になったんだ。目録もそうだよね。石原さんのあとに大石君が行ったけど、それが最後だよ」
    「藤岡さん、経理課に行くんですか?」
    「嫌だけど、仕方がないじゃないか。俺のとこは子ども二人もいるんだよ。辞められないよ」
    「大石君はどうするの?」
    「僕は図書館の仕事が好きなので、辞めたくはないんです」
    「そうなると派遣しかないんじゃないの。派遣の仕事をするの?」
    「違うんです。先月、入院したときに思ったんですが、退院してきたら僕の机の上どうなっていたと思います? 目録で判断に困るものが山積みになっていたんです。係長はみえるけど目録の仕事ができるとは思えない」
    「大石君がなくてはならない存在だって言うの?」
    「そうです。こんな身体ですけど……」
    「今日ねぇ、濱島さん休んでるの。今日だけじゃない、出勤できない日が増えている」
    「どこかお悪いんですか?」
    「はっきりわからないけど。異動の話があってからずっとふさぎ込んでいたから。出勤したら本人に聞いてみて」
    「はい」リファレンス担当濱島さん、学生時代僕がうろ覚えのことだって、何でも調べてくれた気丈な濱島さんが体調を崩されたとは……。
     
    目録係に戻ると
    「大石さん、どこ行ってたんですか? 聞きたいことがあったのにぃ」
    「ごめん、なに?」派遣のスタッフは僕の机を指した。
    机の上に五冊の新刊本があり、書誌データの判断がつかなかったものだ
    「書誌が二つもあるっておかしくないですか? どっちか消せばいいのに」
    「これは僕がやっておくから、他のをやってください」そういえば、週に二回くる彼女は一年近く来てくれているけど、名前はなんだっけ? 名札を下げているけど、女性の胸元を見るのは気が引けるため見ないようにしているから名前が覚えられない。
    「これもやってください。わかんなくなっちゃった」この人は週に一回来る人でまだ新しい人だ。
    「はい。やっておきます」課長は出張、係長はみえるけど目録の仕事はしていない。派遣のスタッフはわからないことは全部僕に聞く。必要なのはどっちなのか?
     
    「大石君、総務に行くんだね」係長に声をかけられた。
    「行きたくありません。ここに残りたいと思っています」
    「決定だよ」
    「じゃぁ、こういう派遣の人が判断つかないものはどうするんですか? 係長がやってくれるんですか?」
    「困るよねぇ。そういうのも対応できるようにしておいてね」
    「……」
    六冊の書誌をダウンロードして、挟んであったIDラベルを所定の場所に貼る。登録済の棚に並べておけば、派遣スタッフが背ラベルを印刷し装備にかかる。
    自分の担当する本をブックトラックいっぱい書誌のダウンロードをする。派遣スタッフの人たちはがんばってくれているけれど、四人で仕事量は僕の一日分にしかならない。また、お腹が痛い。なんとか仕事を終えるとトイレに駆け込んだ。ケチャップのような血便が出た。寛解したと思ったのに、またダメかも知れない。今日、帰りに病院へ行こう。
     
     
    【再燃】
    「ケチャップみたいな便が出て……」
    「いつ?」
    「今日の夕方」
    「さっきじゃない。内視鏡検査しましょう、和田さん、準備してください」
    「はい、こちらの検査承諾書の書類にサインをして着替えてください」
    検査着とお尻に穴が開いている紙パンツに履き替える。診察台に横になり、身体を丸める。
    「おっ、準備万端だね。はい、楽にして力抜いてね~」
    先生はモニターを見ながら、内視鏡を進めていく。お尻から内視鏡が身体の中に入ってくるのがわかる。モニターが目に入り直腸に入ったところで、腸の壁が赤くなっているのがわかった。
    「粘膜の発赤が見られますね。再燃ですね。潰瘍はないようです。見えますか? 念のため奥も見るね」
    「はい」
    「直腸炎型だったね。脾彎曲部も、横行結腸もいいですね。和田さんプレドネマ準備して」
    「入院しないといけませんか」
    「そんなにひどくないから薬でなんとか大丈夫でしょう。明日も来れる?」
    「はい」よかった。職場はストレスが多いけど、やらないといけないことがある入院している場合ではない。
    「食生活は気をつけていますか? お独りだよね」
    「気をつけています。食事規則正しく食べるようにしていますし、低脂肪・低残渣・低刺激・高カロリーのものを摂取するよう心がけています。あとアルコールや炭酸はもともと飲みませんし、コーヒーは止めました。豆腐やうどんをよく食べています」大好きだったコーヒーを止め、診断されてから買ったばかりのコーヒーメーカーを捨てた。
    「大丈夫そうだね。ストレスは?」
    「仕事を失うかもしれなくて、ストレスを感じています」
    「そうか、ストレスは厄介だね。職場の配慮が必要だね」
    「はい、そうなるといいんですけど……」
     
    「係長、昨日の夕方血便が出まして……」
    「えぇっ、また入院?」
    「いえ、そんなにひどくないので、薬でなんとかなりそうです」
    「そう、よかった。で?」
    「僕の病気はストレスがいけないんです。異動の話……」
    「この職場がいけないんだね。異動の話、前倒しができないか聞いてみるよ」
    「そうじゃなくて、異動の話がストレスなんです」違う、違う、そうじゃない。
    「でも、この環境が悪いんだよね。昨日血便が出たって……」
    この人にはわかってもらえない……。課長は? 今日は会議か。今度話してみよう。
    「もういいです」お腹が痛い。持ってきた水筒から白湯を少し飲んで書誌のダウンロードにとりかかる。本当は一から目録を作りたいが、NACSIS-Web CATにはすでにどこかの大学が書誌レコードを作ってくれている。
    「書誌が見つからないんですけどぉ」
    「貸して、僕がやるから」ISBNをスキャナーで読み取ってもヒットしない。念のため、タイトルで検索してみる……ヒットした。版が違う本だった。一から目録を作るわけではないが、版違いのものを修正して登録する。これでこの版の書誌は僕が作ったものだ。参加機関のみなさん、ダウンロードしてください。ささやかな満足だった。いつの間にか腹痛はなくなっていた。ストレスが解消されたのか。そのとき、ふと気づいた。人件費の削減のためにアウトソーシング。派遣のスタッフは一日四人かかりで、僕一人の仕事と同じくらいの仕事量だ。僕は派遣の人がやってくれた仕事の再チェックもしているし、イレギュラーなことにも対応できる。アウトソーシングは必要ないんじゃないか! 大学も電子書籍が導入されて紙媒体の資料は減っている! 目録係にアウトソーシングは必要ない!
    「ちょっと相互利用係に行ってきます」
     
    「藤岡さん、ちょっといいですか?」
    「おぅ、何?」
    「僕、気づいたんですけど……」さっき僕が思いついたアウトソーシングは目録係に必要ないんじゃないか論を話した。
    「人件費削減って、派遣会社に払うお金と、大石君の給料とボーナスだってあるよね。それを比較するとどうなのかな? 大学全体がアウトソーシングになっているからね。この流れを止められるのかってこと。俺が心配しているのは、この大学若い人全然採用しないでしょ。あと二十年もしたら、正規職員0になるよ。そうしたら誰が運営してくんだろうねって上に話したけど、ダメだったよ。隣の市の公共図書館、館長以外全員派遣だって。ここもそうなるのかな」
    「僕は給料だってそんなにもらっていません。ボーナスだって……」
    「そんなことはわかってるよ。正規職員にかかる費用はそれだけじゃないからね。それに他の人じゃダメ論は、俺も濱島さんも何度も上に掛け合ったよ。そうしたら、派遣スタッフには俺らの仕事を難なくこなすスーパー派遣のスタッフがいるらしい。だったら早くその人連れてこいっていうの。相互に来てる人、コピーはやっとできるようになったけど、本を探しに行くのが下手で、書架整理がきちんとできていないのが悪いんだけど、見つけられない。俺らがしょっちゅう探しているよ。二度手間三度手間!」
    「藤岡さん、うるさい!」
    「濱島さん!」
    「大石君も、うるさい!」
    「すいません」小声で謝った。濱島さんがバックヤードの入口で手招きしている。
    「大石君、体調どう?」
    「はい、なんとか。濱島さんは?」
    「心療内科に通っているわ。こんな仕打ち許せないもの」
    「濱島さんは異動するんですか?」
    「しないわよ! 教務には行かない!」
    「大石君、目録係から電話。戻ってこいって」
    「はい、すいません」濱島さんどうするんだろう?
     
    「戻りました。遅くなってすいません」
    「大石君、課長が呼んでるよ。会議室だって」
    「はい、すぐに行きます」会議室のドアをノックして、
    「課長、お待たせして申し訳ありません」
    「大石君、また体調悪いんだって? 大丈夫なの」
    「大丈夫です。それより私の話を聞いていただけませんか?」
    「なに?」
    「アウトソーシングは必要ないと思います。派遣のスタッフが四名来てくださっていますが、四人がかりで一日の仕事量は僕一人と同じくらいです。電子書籍が増えていますから、紙媒体の資料は減っています。私一人でも対応できる量です」
    「……大石君、難病抱えているんでしょう。治ったわけじゃないんでしょう。休んだらどうするの?」
    「それは……」
    「それに次年度から、今の派遣スタッフより仕事のできる人が来ることが決まっていますから。異動は決定事項です。総務の課長さんは大石君の身体のことを承知の上で、総務に迎えてくれるんだよ。ありがたいと思わないと。じゃぁ、そういうことで、いいね!」穏やかだった課長を怒らせてしまった。もう、総務に行くしかないのか……。
    部屋に戻ると、机の上には二冊の本。できないんじゃないか。いい加減に覚えてくれ!
    「食事に行ってきます!」大学の学食は揚げ物が多いので、行くことはなくなった。大通りからちょっと入ったところにある「輪島庵」といううどん屋さんに行くことにしている。おじいさんとおばあさんがやっている小さな店。学生時代から変わらないおふたり。うどんは柔らかめにしてもらって、お出しが美味しい。うどんを食べ始めたら濱島さんが入ってきた。
    「大石君、ここいい?」
    僕の前に座るとランチを注文した。
    「うどんだけで足りる? 学生の頃に比べると瘦せたよね。ちょっとうらやましいって、そんなこと言っちゃダメだね。ごめんね」
    「いえ、お気になさらずに……」
    「相変わらず丁寧だこと。のびちゃうよ」
    「はい」いつもの通りにゆっくり食べた。濱島さんはランチを美味しそうに食べる。イワシフライ美味しそうだ。こういう揚げ物は久しく食べていない。今日課長に話したら怒らせてしまった件を話し、総務に行くしかないのかと言うと
    「行かないよ、行かせないよ!」
    「えっ、どういうことですか?」
    「ちょっと時間をちょうだいね。悪いようにしないから」
    「わかりました」行かせないってどういうことなんだろう。
    「今月末ぐらいに、夕方一緒に食事でもしない?」
    「僕、食べられないものがあって。それでもいいんなら」
    「何がだめ?」
    「全くダメっていうわけではないんですが、消化の悪いものや油もの、刺激物とか生ものとか……」
    「いろいろあるのね。じゃあ食べていいのは? うどん?」
    「うどんとか豆腐とか……」
    「つまんねぇ男だなぁ」
    「すいません」
    「冗談よ。身体が大事よ。豆腐ねぇ……駅前に豆腐料理の店があったよねぇ、そこはどう? 私もダイエットにいいから、そこにしよう! 藤岡さんにも言っておくね」
    「はい、お願いします。三人ですか?」
    「もっと増えるかもね、じゃぁまたね。あっ、図書館では静かにしてよね」
    「すいません……」
     
     食事から戻ると、机の上にあった本を手に取る。ISBNをスキャンしてもヒットしない、タイトルでもヒットしない。奥付を見ると初版だ。ドキッとする。一から書誌レコードを作っていく。書誌情報をタイトル・副題・件名・内容・本のサイズ・ページ数……丁寧に入力していく。ローカル項目も登録して、久しぶりに書誌レコードを登録することができた。この満足感は何事にもかえがたい。目録係の醍醐味だ。もう一冊こちらもヒットしない。こちらも初版、丁寧に書誌レコードを作成して登録した。今日はいい日だ。これで書誌レコードを作成していない大学とは言わせない。
    今日の仕事と決めたブックトラックの本の書誌をダウンロードして、登録を終える。派遣スタッフの仕事のチェックをして、今日はみなさんミスなし、お疲れさまでした。今日も病院へ行かないと。トイレに行って血便でないことを確認した。病院へ行くと看護師の和田さんに座薬を入れてもらう。若くて美人の和田さんにそんなことをしてもらって、恥ずかしく申し訳ない気持ちでいっぱいになる。自分でできますと言うと先生に言ってもらって一週間分の薬をもらう。今日は帰りに買い物をする。光文堂書店にも寄ってみよう、三内丸山遺跡の本が出ているはずだ。ごはんと栄養士さんおすすめのえごま油でささみを焼いて、魚肉ソーセージを食べよう。野菜も少しなら大丈夫だけど、まだ心配だから今日はこれだけ。田舎から米や野菜が時々届くけど、食べられないのでアパートの人にもらってもらっている。ビタミンのサプリメントを飲んでおこう。三内丸山遺跡の本はわくわくしてくる。縄文の民の暮らしを想像する。今日は嫌なこともあったけど、トータルでは良い一日だった。その日はよく眠った。体調の悪いときは、夜中に目を覚ますことが多かったが、朝までぐっすり眠った。
     
    【フィルムカメラ】
     その日から黙々と仕事をこなした。派遣スタッフよりもたくさんの仕事をやり、派遣スタッフの書誌データのチェックをして、仕事ぶりをいつか誰かが見てくれるかも知れないと願いを込めて。薬の効果もあり体調もいい。食生活に気をつけていれば、このまま寛解するだろう。週末、天気が良さそうだから久しぶりに写真を撮りに行こう。その日仕事から帰ると、防湿庫の中からフィルムカメラをいくつか取り出した。祖父の遺品のカメラ、自分で買ったカメラ。ここにはデジカメはない。すべてフィルムカメラ。祖父の遺品のニコンF、キャノンF―1、オリンパスOM―1、Penシリーズなど。国産メーカーのものばかり。今では買えない高価なカメラだ。ブロワーで埃を飛ばし、レンズにカビがないか、チェックして動作確認。自分で買ったカメラは昭和四十年代・五十年代に発売されたやっぱり国産メーカーのものばかり。OLYMPUS、Nikon、KONICA、YASHICA……学生時代に発掘のバイトをして、少しずつ買い集めたものだ。その頃中古カメラはずいぶん安く、程度のいいカメラが安く手に入った。五十年以上前のカメラは手を入れれば今も使えるということがすごいと思っている。一時期フィルムカメラがブームになり、以前は千円で買えたカメラが五千円あるいはそれ以上になっていた。そうなってからはカメラを買うことはなくなった。今あるだけで十分だ。フィルムがないから明日帰りに買ってこよう。一台一台シャッターを切って、巻き上げてみる。フィルムカメラは時々こうして動作確認する必要がある。油で固着してしまうからだ。こうしてカメラをいじっていると心が落ち着いてくる。
     
     翌日、仕事帰りに「コンドーカメラ」へ寄る。
    「こんにちは」
    「大石君、久しぶりだね。フィルムカメラやめたのかと思ったよ」
    「ご無沙汰しています。ちょっと身体を壊しまして……久しぶりにフィルムカメラで撮りたくなりました。フィルムをください」
    「FUJIフィルム?」
    「はい、三六枚撮り・ISO 100をください」
    「高くなってるよ~いい?」
    「はい、五本ください」
    「今は三本しか売れないよ。注文出しても入荷しないから、一人三本までにしてもらってるんだ。ごめんね」
    「じゃぁ、FUJI三本とKODAK二本」
    「新しいフィルムも出てるよ。評判いいよ。フィルムが売れなくなって、メーカーが作らなくなったからね。でも欲しい人はいる。国産メーカーだよ。MARIX。 うちは応援してるんだ。感度もいろいろ出しているし、リバーサルもあるよ」
    「KODAKはやめて、そのMARIXにします。ISO 100はありますか?」
    「三六枚撮りの一〇〇ね」おじさんは電卓を叩くと液晶画面をこちらに向けた。
    「合計九〇二〇円? 全部で五本なのに? 今、そんなにフィルム高いんですか?」一万円札を出して小銭を探していると
    「二〇円はおまけするね。フィルムカメラを使う人が減ってるからね。メーカーも生産量を減らしててね……」千円札を返してくれた。
    「デジカメのせいですか?」
    「デジカメ一時はよく売れたけど、持ち歩く人減ったね。今は高級化しているから、うちみたいな小さい店では売れないよ。それより大石君も持っているよねスマホ。スマホはみんな持ってるじゃない。性能良くなってるしね」
    「なんか時代が変わったんですね。取り残された気分ですよ」
    「でも昭和がブームだから。フィルムカメラに興味を持つ若い世代もいるんだよ。面白いものあるから見ていきなよ」
    店の奥の中古カメラのコーナーにカラフルなカメラが並んでいた。OLYMPUS? えっ? Pen EES-2? EE-2? TRIP35?
    「これって、新しいカメラじゃないですよね?」
    「新品同様にレストアしてあるカメラだよ。修理をしてくれる人がいるんだけど、若い人が興味を持ってくれるように、表皮を貼り替えてカラフルにリメイクしてね、フィルムカメラを知らない若い子が買ってくれるよ」
    「すごいピカピカですね。触ってもいいですか?」ファインダーを覗いてみるが、チリ一つない。裏蓋を開けてみると新しいモルトが貼ってある。僕のカメラは、モルトがボロボロでコンドーカメラさんに相談したら、自分でやってみたら? と言われて教えてもらいながらなんとか交換したが、ファインダーにはいくつか小さなゴミがあり気になっている。
    「修理もやってくれるよ」
    「EE-2のファインダーが気になっています」
    「大事にしているもんね」
    「週末に撮影してきますから現像をお願いしますね」
    「月に1回ぐらいフィルムカメラの撮影体験会をやってるの。よかったら参加しない? 若い女性が参加するよ」
    「はぁ、都合が合えば……」コミュ障の僕には知らない人は難しい……。
    「実はさぁ、使い方をわからない人に教えてくれる人いないかなって思ってたんだ。大石君ならいろんなカメラ持っているから使い方もわかるし、写真も上手いじゃない。今月二十八日の日曜日、朝九時にここに集合ね」
    「……はい」
    「楽しみにしてるよ、身体大事にね」
     
    土曜日の朝、天気は晴天。神代植物公園へ行くことにした。まだ紅葉には早いけど秋の花が咲いているだろう。OLYMPUS OM-1にMARIXフィルムを装填。どんな色見か楽しみだ。ハーフカメラのPen EE-2にはFUJIを装填。三六枚撮りだから、七二枚撮れる。公園内はトイレがあるから安心だ。潰瘍性大腸炎と診断されてから、いつもトイレの心配をしている。トイレがどこにあるかが大事。ひとりだと自由にトイレにも行けるし、誰にも気を使わなくていい、ひとりは気が楽だ。水筒とおにぎりを持ってきた。外食はよほど安心できるものしか口にできない。秋だからコスモス、ダリア、バラも咲き始めている。大きなススキだなぁと思ったら「パンパスグラス」という案内があった。光に穂を透かすように撮影。知らない名前の植物が増えている。公園はそれぞれの草花に案内表示があるからいいな。案内がないものは図鑑で調べないと……今は画像をググれば教えてくれるんだっけ、便利な時代だ。本も売れないはずだ。写真を撮っていると仕事のことは忘れることができる。画角を決めて撮影。露出はカメラに任せて、シャッタースピード・ピントを合わせてパチリ。シャッター音は心地よい。フィルムが高いからこれまでよりも慎重に撮影していく。身体も調子いい。暑くも寒くもないこんな気候がずっと続けばいいのに。この日、OM-1は撮りきったけど、EE-2は半分以上撮りきれなかった。ハーフカメラの七二枚はなかなか難しい。しばらく持ち歩くか。大学にも何かあるだろう。ピントも距離合わせも何もすることがないのは気が楽だが、それでは物足りなくなってくる。でもシャッターを切るのは楽しいひとときだ。僕には友だちらしい友だちもいないし、恋人もいない。しかし、他人に合わせるのは疲れるから、ひとりは気が楽だ。良く言えば独身を謳歌している、悪く言えばこじらせている、それはわかっている。このまま年を取って、ひっそり死んでいくのかなとぼんやり考える。芥川龍之介の自殺理由は「ぼんやりとした不安」と言われているけど、僕は不安には思っていない。病気のこともあるし、仕事のことも不安と言えば不安だけど、どこか他人事のように思っている。なんとかなると————。
     
    大学へは徒歩十分、途中で猫をパチリ。大きな家で飼われている犬が、塀に開けられた穴から鼻を出している! これもパチリ、でもすぐ吠えられて慌てて退散。シャッターチャンスを逃さないPen EE-2なら大丈夫。もっとアップで撮りたかったけど、ハーフカメラでは限界だ。三mぐらいにピントが合う固定焦点だから、あまりアップは無理だけど撮れているはず。アップの写真は一眼レフがいいかと思うが、露出・シャッタースピード・ピントを合わせていたら、間違いなくあの犬に吠えられるに違いない。公園には黄色い細かい花がびっしり咲いている。これもパチリ。ググってみたら、セイタカアワダチソウ……雑草か……いや、雑草という植物はないと牧野富太郎博士や昭和天皇が言われていたじゃないか。朝だから遊具は誰も遊んでいない。ジャングルジムやシーソーはない。公園の遊具も安全なものになっていた。エビフライみたいなのなんなんだこれ? 楽しいのか? これもパチリ。いつもの倍ぐらいの時間をかけて出勤した。早めに家を出てよかった。今日も仕事をしないと。専用のブックトラックに午前中にできるだけの量を新刊の棚から移して没頭した。書誌をダウンロードしていくだけの仕事だけど、これが僕の仕事。この本は先生か学生、誰かが待っている。その週は毎日EE-2を持ち歩き、通勤時にちょっと遠回りしたりして、ハーフカメラで七二枚撮影した。金曜の帰りにコンドーカメラさんに寄って現像をお願いする。
    「現像をお願いします。データで」
    「CDに入れればいいね」
    「一時間ぐらいでできるよ」最近はカメラ屋さんの店内に現像する機械を置かない店も多くなったと聞く、フィルムカメラはもうダメなのかも? でもコンド―カメラさんがある限り続けていきたい趣味だ。
    「買い物をしてきます」光文堂書店に行って、メキシコ文明のムック本を手に取る。人工衛星からピラミッドが発見された新しい遺跡の特集だ。国内だけでなく海外の遺跡も興味がつきない。エジプトのピラミッドもアステカの遺跡も新しい科学技術を使って発見が相次いでいる。こんなにわくわくする学問はない。豆腐屋さんへ行って、絹ごし豆腐を買い今日はちょっと寒くなったから湯豆腐にすることにした。コンドーカメラさんに戻ると
    「大石君、もうちょっと待っててね」店内を見て回る。フィルムの売り場はずいぶん狭くなって、数本ずつしか置いていない。まだ三本あるからまだいいか。気になるのは奥の棚。OLYMPUS Penシリーズは全部揃っている。SもDも、35DC、35SPも!値段は結構するな。KONICA C35も数台、おーFDもある。いいなぁレンジファインダー。KONICAのカメラはレンズがいいからキレイに撮れる。その最高峰FDはいいなぁ。
    「現像終わったよ。上手く撮れてるね。面白い写真もいっぱいあったよ。あっ、FDは持ってなかったっけ?」
    「C35はE&Lだけです。レンジファインダーいいですね~、この配色渋くていいですね。紺と緑いいなぁ~」
    「いいでしょう。丁寧な仕事をしてくれるからおすすめだよ」
    「でもなぁ~。仕事失うかも知れないから今は買えないなぁ」
    「そうなの? 大学だったよね。安定してるかと思ったけど」
    「アウトソーシング化に負けそうなんです。もう負けたかも知れないけど」
    「そう、世知辛いね。カメラ屋も厳しいよ。お互い辛いね」
    「おいくらですか? 現像代」
    「二本で千二百円+データ化で八百円」
    「値上げはしていないんですね」昔と同じだ。
    「フィルムカメラ使って欲しいからね、頑張っていますよ」
    「ありがとうございます」
    「フィルムカメラの撮影体験会、二十八日来てくれる? 参加者は今のところ六名、五名は女性、一名は男性。男性は高校生。写真部だって。そのカメラをリメイクしている盛山さんも参加してくれるよ。私だけじゃ六名も対応できないからお願いしたの。大石君も来てくれると助かるんだけどなぁ」
    「どこに行くんですか? 僕はいろいろ制約があって……」
    「神代植物公園。この前撮影に行ったでしょ。バラがキレイだって。近いし入場料が安いしね、どう? カメラは自分のでもいいけど、ここにある盛山さんのカメラを使ってもいい。フィルムと現像はサービスするからさぁ。フィルムは期限切れのフィルム。売れないからね。」
    「お世話になっているコンドーカメラさんのお願いですから、参加します」言ってしまった……。断れない僕……あとで後悔すると思うけど……でも週末はいい天気だ。
     
     帰ってパソコンで写真データを見る。夕食を先に済ませようと思ったけど待てなかった。OM-1いいねぇ、天気が良かったから絞りもバッチリ! ピントが怪しいのが数枚あったけど、目が悪くなっているのかも知れない。まさか、老眼? まさか。EE-2もハーフとは思えないほどの写りだ。神代植物公園内よりも通勤途中の写真の方が面白い。猫も犬も写っている。公園のわけのわからない遊具も。今度夕方行ってみよう。あのエビフライみたいな遊具でどう遊ぶのか気になるところだ。久しぶりにしてはまぁまぁだ。もっと撮りたいけど、フィルムが高すぎるから、そんなに贅沢はできない。撮影会には参加してみよう。
     ごはんを一合炊いて、半分は冷凍しておく。今日も湯豆腐、最近多いな豆腐。豆腐は潰瘍性大腸炎にはおすすめの食材なので安心だ。最初は豆腐ばかりは飽きるかと思ったが、種類も豊富でなかなか飽きない。むしろ好物と言ってもいいくらいだ。だししょうゆを少し垂らしていただきます。食べながら三内丸山遺跡の本を読む。大型掘立柱建物の再現はすごいな? これを何に使っていたんだろう? 考古学でありがちな説明のつかないことは、祭事につかっていたという推測なんだろうか? 柱穴は直径約二メートル、深さ約二メートル、間隔が四.二メートル、中に直径約1メートルのクリの木柱が入っていたからこの大きさになったのか。すごいなぁ見に行きたいなぁ。縄文人のすごさに敬服する。近年、「北海道・北東北の縄文遺跡群」が世界文化遺産に登録されたのは納得だ。僕が行くまで大切に保存してほしい。ホームページを見ると、解説員と埋蔵文化財整理作業員が募集されていた。いいなぁこういう仕事! 詳しく見たらどちらも期間が半年……半年だけは厳しいなぁ。青森だから冬は雪に埋もれるから開館していないのか? そんなことはないはず。こういう仕事があったら応募してみるのもいいかも知れない。縄文の施設は楽しいだろうなぁ。この日はついつい夜遅くまで検索してしまった。そういえば、濱島さんが行っていたことは何だったんだろう? 行かない、行かせないって。行かないのは濱島さん、行かせないのは僕のこと? どうやって? 今度聞いてみよう。食事会はいつだっけ?
     
    もうすぐ終業時間というくらいに電話が鳴った。
    「はい、目録係・大石です」
    「参考係・濱島です。今、電話大丈夫?」
    「大丈夫です」
    「来月の一日、夕方空いてる?」机の上のカレンダーを確認する。
    「金曜日ですね。大丈夫です」
    「この前話した食事の件、行きましょう!」
    「仕事が終わったら、寄ってください。この日、残業しないでね」
    「承知しました」
    濱島さんの行かない、行かせないの話を聞いてみよう。楽しみだ。
    「あの~それってフィルムカメラですか?」机の上のEE-2。最近撮り歩きを日課にしている。
    「そうですよ。ハーフサイズのフィルムカメラです」
    「おじいちゃんが持っていたのに似てて……」
    「おじいちゃんかぁ。五十年以上前のカメラだからね」
    「今も使えるんですか?」
    「撮れますよ」OLYMPUS Pen EE-2は良いカメラだ。
    「フィルムカメラっていいですよね」
    「いいよね。興味あるの?」
    「ちょっと」若い人が興味を持っているって、コンドーカメラさん言ってたな……。
    派遣スタッフの人と雑談をするのは初めてだった。セクハラ・パワハラに注意するように厳しく言われていたから、話しをするのに躊躇してしまっていた。なんだ話してみると感じのいい人じゃないか。名札を見たけど裏返しになっていて、名前はわからない。話はそれっきりで、お疲れさまでしたと帰ってしまった。
    次の日、昨日の派遣スタッフがこれなんですとカメラを差し出した。
    「これはPen EE-3ですね。人気のあるカメラですよ。きれいに使われていますね。五十年以上前のカメラだから、ここまでキレイなのは貴重ですよ」
    「五十年? 大石さんのとは違うんですか?」
    「僕のは表皮がグレーでしょう。あなたのカメラは僕のカメラの後継機種です。ハーフカメラですよ」
    「ハーフカメラってなんですか?」
    「ハーフっていうのは、昔フィルムが高かったので、一本のフィルムで倍の枚数撮影できるように作られたカメラです。これってフィルム入ってる?」
    「入ってないと思いますけど……」
    「念のため確認するね」キャップをしたままシャッターボタンを押してみると赤ベロが出る。露出計は生きている。窓を開け、中庭に向けてシャッターを切ってみる。ガリガリと巻いてみるが、フィルムを巻いている感覚はない。裏蓋を開けてみると案の定フィルムは入っていなかった。裏蓋を開けて、
    「これ見て、これが通常のカメラの画角。これ半分しかないでしょう。これがハーフ。覗いてみて。縦の画角でしょう」
    「そういうことなんですね。やっとわかりました。大石さんがハーフって言われたけど、何のことかわからなかったから」
    「ファインダーもキレイだし、露出計も生きているから使えますよ」
    「ファインダー?」
    「覗いてみてください。こっちは僕の。黒い点がいくつかあるでしょう。あなたのカメラはキレイでしょう」
    「覗くとこなんですね、ふ~ん」
    「フィルムが高いから、ハーフサイズのカメラがいいですよ」
    「フィルムっていくらするんですか? どこに売ってるんですか?」
    「駅の向こうにあるコンドーカメラさんに売ってますよ。一本二千円ぐらいです。フィルムによっても写真の色目が違うから相談してみるといいですよ。ネットでも買えますけどね……」
    「わからないからコンドーカメラさんに行ってみますね」
    最近フィルムカメラを持ち歩くのが日課。夕方公園に寄ってみるが、あのエビフライみたいな遊具は誰も遊んでいない。あれはなんだろう? 夕日に照らされたエビフライをパチリ。
     
     今日は晴天、撮影日和だ。カメラは何を持って行こうか。EE-2のフィルムがまだ余っているから、これは持って行くことにして、一眼レフは重いから、YASHICA ELECTRO 35 MC小型で写りの良いカメラ。コパルの電子シャッターでシャッター速度は自動制御される。ファインダーの中の距離合わせの目安のイラスト表示がかわいい、これにしよう。フィルムはMARIXを入れよう。あっ、電池がない! コンドーカメラさんに売っているといいけれど……。フィルムは今日、買わないと。カメラを貸してくれるそうだけど、電池があったらMCにしよう。今日は少し肌寒いから、薄いジャケットを着ていく。
    「おはようございます。YASHICA ELECTRO 35 MCなんですけど、この電池ありますか?」
    「4LR44か今はないね。取り寄せるね。今日はそのカメラ使う予定だった?」
    「Pen EE-2も持ってます」
    「この前FD見てたよね。使ってみる?」
    「いいんですか?」
    「大石君ならいいよ、今日はありがとうね。こちら盛山さん」優しそうな男性だ。
    「はじめまして、大石です。盛山さんのカメラすごいですね。新品かと思いました」
    「フィルムカメラはまだ使えるからね。手を入れないといけないけどね、おっ、YASHICA ELECTRO 35 MC! 良いカメラを持ってますね。小型で写りもいい。名機ですよ」
    「僕はあんまり手が大きくないので、小さめのカメラがしっくりきます」
    「カメラは電池を使うようになってから適正露出が出るようになりましたが、電池を入れっぱなしで液漏れしてダメになることが多くなりましたね。KONICAのC35とかね」
    「これは祖父が使っていたカメラなんですが、使わないときは電池を外すように言われました」
    「良いご指導ですね。今もお元気ですか?」
    「いぇ、十年以上前に亡くなりました。カメラが趣味だったので、OLYMPUSとかNikonとかたくさん残してくれました。国産のものばかりです」
    「それはいいですね。フィルムカメラを楽しんでください」
    「はい」
    「参加者のみなさんお揃いです。今日は参加者が七名です。よろしくお願いします。今日指導してくれるのは、盛山さんと大石君です。操作や撮り方でわからないことがあったら何でも聞いてください」
    「出発しましょう」
    神代植物公園に到着するまで、盛山さんとカメラの話で盛り上がる。こんなにフィルムカメラのことに詳しい人は初めてだ。コンドーカメラさんより詳しいかも知れない。盛山さんは今日、Zenza Bronica S2 良いなぁ中判カメラ。僕が持っている中判カメラは、RICOH FLEX Ⅶだ。使い方がわからなくて一度も使っていない。盛山さんに相談すると、一度診てあげようと言ってくれた。今日、参加して良かった。神代植物公園に到着すると、この前よりバラがキレイだった。参加者の半分ぐらいは、盛山さんが貼り替えたカメラを持っており、実際に使ってみて購入するという。高校生の男の子はお父さんから譲られたNikon EM、リトルニコンと呼ばれた名機だ。写真部だそうで、積極的に写真を撮っている
    「こんにちは」参加者の女性に声をかけられた。わからないこと?
    「なんでしょうか」
    「三宅ですよ~、わかりませんか?」そういえばこの声、あっ、Pen EE-3! 図書館の派遣スタッフの人だ! 
    「三宅さん、いつもと雰囲気が違うからわかりませんでした」と誤魔化す。彼女の名前が三宅さんだと初めて知った。
    「大石さん、私の名前知らなかったでしょう」図星だった。
    「そ、そんなことはないですよ。同僚じゃないですかぁ……どうですか? フィルムカメラ。撮ってみた?」
    「まだです。よくわからなくて」このカメラは何もしなくていいんですよ。
    「三mぐらい先に焦点があっていますから、三mを意識してください。ここからだと、そこのベンチまでが三mぐらいですね。多少ずれても大丈夫ですが、あまりアップでは撮れません。一・五mぐらいまでなら大丈夫です」後ろに三歩ぐらい下がってこっちにレンズを向けた。
    「このくらいですか?」
    「もう少し離れた方がいいです」また三歩ぐらい下がって
    「このくらいですか?」
    「いいですよ。そのぐらいの距離を覚えてくだ……さい」今シャッター押した?
    「撮っちゃいました(笑)」
    「フィルムが高いんだから無駄なことしちゃダメですよ」フィルムを巻くように教えていたら、
    ガション! と大きい音がして振り向くと
    「撮っちゃいました(笑)」
    「盛山さん~! 」
    「おふたりがいい雰囲気だったので。バラをバックに……」
    なんだか気恥ずかしくなって、
    「バラ園以外にも植物はたくさんありますから、自由に撮ってください」と三宅さんから離れて写真を撮ることに集中する。
    KONICA C35 FDはいいカメラだ。レンジファインダーも合わせやすいし、使いやすい。パンパスグラスもいい感じだったのでパチリ。高台から、バラ園をパチリ。コンドーカメラの撮影会の参加者があちこちで写真を撮っている。三宅さんも他の参加者の人と撮影して楽しそうだ。ハーフカメラだからがんばって撮影してください。この日は三宅さんと話すことはなく、昼前に解散になった。みなさんは神代植物公園近くのレストランで食事をするという。コンドーカメラさんおすすめのカレーを食べに行くとか。カレーかぁ。僕は……
    「みなさん、すいません。今日はお先に失礼します。カメラはお店に返却しますので。楽しんでください」そそくさと神代植物公園を出た。体調は良かったけれど、気を許してはいけない。食生活に気をつけないと。コンドーカメラさんにFDを返却して、フィルムの現像を依頼する。バイトの佐川君も長く勤めているな。カメラが好きなんだろうな。
     
     駅を抜けて、手打ちうどんのチェーン店に行く。コシのあるうどんがウリのお店だけれど、柔らかいうどんを作ってくれるようお願いした。天ぷらも魅力だなぁ、ちょっとぐらいはいいかなぁ。スマホで潰瘍性大腸炎:食べていいもの、いけないものを検索してみる。油ものは、はやりHG……残念。まだこの前下血してからあまり経っていないから不安だ。うどんはコシのないうどん。ゆっくり食べる。だしはいつもの輪島庵の方が美味しいな。ちょっと辛い。もう少しいろんなものが食べられるといいけれど、病気のことを考えると手が出ない。帰りに光文堂書店に寄って、歴史の雑誌を購入。奈良の古墳からすごいものが出土されたらしい。富雄丸山古墳から全長二三七センチの蛇行剣。すごいなぁこの長さのものが、そのまま発掘されたなんて。見てみたいなぁ。古墳時代はあまり詳しくはないけれど、出土情報は気になる。国内には約十六万基の古墳が確認されているから、それらの古墳を再発掘したらすごいものが見つかるかも知れない。楽しみだ。
     
    通勤途中に声をかけられた。
    「大石さん! おはようございます。昨日楽しかったですねぇ」
    「おはようございます。フィルムカメラどうでしたか?」
    「写ルンですみたいなもんですね~。あっ、あれもフィルムカメラですね。お近くなんですか?」
    「徒歩十分ぐらいです。学生時代からずっと同じアパート、三宅さんは?」
    「JRで三十分ぐらいです。混むから嫌なんですけど」
    「ところで三宅さんは司書の資格を持っているんですか?」
    「持っていません。でも司書っていいなと思って、通信教育で頑張っています」
    「へぇ~そう……」図書館には司書の資格は必要ないんだ。頑張っている人に司書という仕事には未来がないとは言えない。
    「はい! また、撮影会行きたいですね」
    「そうだね」撮影会は確かに楽しかった。
    「ところで三宅さんたちは時給?」
    「はい、時給一二五〇円です」
    「えっ、一二五〇円って、最低賃金の時間給だね。そんなに安いの?」知らなかった。派遣の人はもっともらっていると思っていた。
    「そうなんですよ~人気のある仕事だから、時給が安くても人は集まるんです。吉本さんだけは、司書の資格を持っているから、一三〇〇円」
    「吉本さんってどんな人だっけ?」 
    「毎週水曜日だけみえる方」よくわからなかった。
    「資格を持っていてもあんまり変わらないんだね」
    「でもあった方が採用される確率高いから」
    派遣スタッフも大変だ。
     
     【冬】
    今週は慌ただしくてコンドーカメラさんに行けなかった。現像はできているはずだ。土曜日にでも行こう。FDの写りが楽しみだ。
    今日は濱島さんと約束した日だ。仕事を終えるとすぐに、参考係に向かう。
    「濱島さん、今日でしたね……」電話中だったので、しばらく待つことにした。藤岡さんがみえたので
    「今日……」
    「俺、行かないよ。もう図書館の仕事はあきらめた。経理課に行くよ、じゃぁ、濱島さんによろしく!」
    「大石君、お待たせ。今日、藤岡さん行かないんだって。経理課に行くんだって」
    「決めたんですね」
    「さぁ、美味しものを食べに行こっ!」
    駅前の豆腐屋さんが経営する居酒屋は、豆腐料理が中心ということで僕にも安心できる。
    「予約したハマジマです」
    「お待ちしておりました! お連れ様みえていますよ!」
    「石原さん、お待たせしました。今日はありがとうございます」
    えっ、石原さん? 目録の神と言われた尊敬する石原さん。
    「ご無沙汰しております」
    「大石君久しぶりだね」
    石原さんの横には、東大理学部出身の目録係の丹下さん、国文学の山本さん、閲覧係でお世話になった久保田さん。定年や個人の事情で退職されたみなさんだった。
    「大石君、大変な時代になったね~」久保田さん。この方に閲覧係で図書館の業務のことを教えていただいた。濱島さんが、
    「みなさんにお願いしていたことに参加していただけますでしょうか?」
    「図書館を救うために!」
    「大石君、このメンバーで派遣会社を設立します。大学に図書館専門の司書を派遣するのです。もちろん大石君も」
    「はい。司書の仕事ができるなら!」
    「私たちも定年で辞めてから退屈でね。もう少し働けるんじゃないかと思っていたら、濱島さんに相談されてね。派遣しか仕事をさせないのなら、派遣会社を作ってしまえばいいんじゃないかってことになったんですよ」
    「石原さんに派遣元責任者講習を受講してもらって、派遣元責任者の資格を取ってもらいました。実際には三年以上の雇用管理経験が必要で、人事や労務の担当を三年以上経験しないといけません。石原さんは退職後に奥様のご実家の会社で、人事を担当されましたので、これはクリアしています。厚生労働省から『労働者派遣事業許可』という認可を取得するんですが、その条件も概ねクリアしていますので、先週申請したところです」
    「会社はうちのかみさんの弟が継いでいるんですが、会社の一部として設立します。社長もやってもらいます。実は辞めてから人事の仕事をやっていたんですけど、合わなくてね。そうしたらこの話をいただいて調べたら、なんとか行けそうだったので、うちも人材派遣で多角経営です」
    「石原さん、ありがとうございます。図書館の危機なんです。派遣されているスタッフは司書の資格を持っていない人が多く、最低賃金の時給で働いています。よろしくお願いします」
    「会社のことは石原さんと久保田さんが中心になってくれます。私たちは派遣スタッフです。他にも退職された元司書のみなさんにも声をかけています」
    「私も派遣してくださいね」と山本さん。
    「図書館を取り戻りましょう!」
    「図書館を救うために!」みなさんの思いに胸が熱くなる。
     この日は五人で今の図書館の状態、今後の図書館をどうしていくか、それぞれの近況のことを話した。僕を除く四人はお酒も入って楽しそうだ。豆腐中心のお料理も美味しくいただいた。豆腐は安心できる。
    「僕のことですが、数年前に難病の『潰瘍性大腸炎』になってしまって……、油ものとか食べられなくなってしまって……、それで今日豆腐料理のお店にしてもらったんです。すいません」
    「聞いてるよ、気にするな。美味しいじゃないか? 私たちだってそろそろ健康に気にしないといけない年なんだからちょうどいいんだ。大石君には働いてもらわないといけないからね、身体は大事にしてもらわないと」
    石原さんはお腹をなでながら言ってくれた。
    「ありがとうございます、がんばります。藤岡さんは参加しないんですか?」
    「経理課に行くそうよ。声かけたんだけどね」
    「そうでしたか。ご家族のことがあるっておっしゃっていましたから」
    「しかたがないね」
    「このメンバーは目録三名、閲覧二名だけど、みんなどっちも経験しているからいいね。丹下さんはコンピューターに強いから、そっちの仕事も大丈夫だね。もう少し増えてもいいね。元職員に声をかけよう」
    「年末にもう一度集まりましょう」
    「お願いします!」
     
     翌日、コンドーカメラさんに撮影会の現像を取りにいった。
    「EE-2もFDもよく撮れていましたよ。大石君、写真を撮るのうまいね~。構図がいいよ」
    「ありがとうございます。確認しますね」プロにそう言ってもらえるなんて嬉しい。店内のパソコンでデータを確認した。
    FDの写りはさすがで、植物の色合いや質感がとても良い。人物も良い感じだ。三宅さんが写っている写真が何枚かあるから、プリントしてお渡ししようか? そんなの迷惑かな。OLYMPUSのカメラと比べると色が濃い。KONICAは元々はっきり写るが、MIRAXフィルムの影響かもしれない。通勤途中に撮り歩いたEE-2もいい感じに撮れている。
    フィルムカメラはやはり楽しいと思う。
    「大石君、また撮影会やりたいけど、参加してくれる?」
    「はい、参加させてください。盛山さんとお話しできて本当に良かったと思っています。今度は二眼レフで参加したいと思っています」
    「盛山さんにお会いしたいのですが、連絡先をお聞きしていなくて……」
    「ちょっと連絡してみるね。ついでがあるから」
    「急ぎではありませんので……」コンドーカメラさんは電話をかけはじめた。
    「今からみえるそうです」
    「今からですか? じゃぁ、僕うちに帰ってカメラ取ってきます」
    急いで店を出ると急いでうちに戻りRICOH FLEXⅦを持って店に戻った。
    「あぁ、盛山さん。お待たせしました。お忙しいのにすみません。これこの間お話ししたRICOH FLEXです。使い方がわからなくて」タオルにくるんだカメラを見せる。
    「コンドーさん、店の奥のテーブル貸してくれる?」
    「どうぞ」
    「おっ、これ珍しいよ。RICOH FLEXⅦはよく売れたカメラだけど、普通はシャッタースピード1/100までなんだけど、これ1/500だ。この1/500は台数が少ないんだよね。ヘリコイドも回るけど固いね。それにレンズは曇っているから、修理しないといけないレベルだね。このままだったら写真は撮れないよ。有料だけどどうする?」
    「使いたいのでお願いします」
    「見てごらん、レンズがくすんでいるし、カビもあるね」レンズは白っぽい。
    「はい、お願いします。使ってみたいんです」
    「これ全部バラさないといけないから持って帰ってもいい?」盛山さんはRICOH FLEXをタオルにくるんでカバンの中にしまった。
    「Pen EE-2も見せてごらん。レンズはいいね。問題なく写真は撮れてたもんね。モルトも替えてあるね」
    「コンドーカメラさんに教えてもらって、ここでやってみました」
    「うん、上手に貼ってあるね。あぁ、ファインダーにゴミがあるね。これはモルトのゴミだね。これも取ろう。すぐにできるけど自分でやってみる?」
    「いえ、僕は不器用なのでできないと思います。お願いできませんか?」
    「こっちも有料だけど……RICOH FLEXがあるからサービスしておきます」
    「ありがとうございます。お願いします」
    盛山さんはカバンの中から、精密ドライバーや液体の入った小瓶をいくつか出してテーブルの上に並べた。コンドーカメラさんが電気スタンドを持ってきてくれて、修理作業が始まった。いくつかあるネジをつぎ次に外して、パレットの上に順番に並べていく。カメラの上の軍幹部を外す。僕はその作業をじっと見つめるしかなかった。
    ブロワーでゴミを飛ばす。ファインダーのガラスを綿棒でさっと拭いて
    「どう?」
    「キレイになりました。ありがとうございます」
    「いいね。このカメラもおじいさんの? 大切に使われていたね」外したネジをもとの位置に戻して完成。
    「今日はありがとうございました」
    「フィルムカメラは今も使えるから、使ってほしいんですよ」
    先日の撮影会の現像を見てもらった。
    「大石君、センスいいね。近景も遠景も構図良く撮れていますね」
    「ありがとうございます。カメラがいいんですよ。FDですから」
    カメラのプロに褒めてもらえて嬉しかった。FD欲しいなぁ。盛山さんのブローニーフィルムの現像はコンドーカメラさんではできないので、外注に委託して一週間ほどかかるとか。その現像が仕上がったら撮影会の写真を参加者と見る会があるらしい。
     
    年度末に退職することを、係長と課長に伝えると、すんなり納得してくれた。引き止められると思っていたのだけど、残念ながらあっさりしたものだった。大学は専門の司書の価値はないと言っているようなものだった。年度末は会計課が繁忙期ということで、藤岡さんが会計課に年内に異動することになった。
    「大石君、サービス課が手薄になる。年明けに大学院春季入試や後期試験が控えているから、濱島さんを手伝ってやってほしい」藤岡さんの依頼だった。サービス課は貸出こそ自動貸し出し機が導入され、電子書籍の貸出しも増えて仕事量は減ったが、相互貸借とリファレンスは専任職員の手を借りないとできない仕事だ。
    「会計課が繁忙期って、図書館だって繁忙期ですよね。納得できませんが目録課に話しておきます」
    藤岡さんは僕の肩を、ポンと叩いて寂しそうに仕事に戻った。
    「係長、サービス課の藤岡さんが会計課に異動されるので、サービス課が忙しく学生の対応ができないそうです。手伝いに行ってもいいでしょうか?」
    「サービス課の課長から聞いています。年度内に購入する図書をすべて、登録して装備を終わらせてくれるなら許可します」
    「わかりました。学生は午後に多く来館しますので、午前中に目録の仕事をして午後からサービス課に行くのはいかがでしょうか?」
    「大石君ができるならそれでいいけど、目録係の所属だってことを忘れないでね」
    「わかりました」
    藤岡さんの移動後から目録係とサービス課の二足の草鞋の仕事が始まった。いつもより一時間早く出勤し、午前中にその日分の目録の仕事を終える、昼食後はサービス課でカウンター業務、勤務時間終了後に派遣スタッフによる書誌データの確認。それが退職までのルーチンワークとなった。朝早く、夕方は遅くなることもあったので、EE-2は常に持っていたもののなかなかシャッターを切ることはなかった。週末に撮影会の写真を参加者と見る会があるけど、しんどさを感じていた。僕の腸大丈夫か? いつも以上に食事には気を遣っているけど……。金曜日の夕方腹痛があり、トイレに行くとまたケチャップみたいな便が出た。下着を汚してしまったので取り換える。病院に行くと再発。今回も炎症だけなので安堵するが、熱があるので入院する必要があるとのこと。このまま入院することになった。プレドニゾロン坐剤を入れて横になる。食欲はなかったので点滴をしてもらう。週末の撮影会の写真を参加者と見る会は行けないな。残念だ。月曜までに退院出来たらいいのだけど……。土日は入院して身体を休めることになった。土曜日の朝には熱も下がり、食事も取れるようになったので、日曜日の夕方に退院することができた月曜日から仕事に行く予定だ。今の働き方は自分には無理かもしれないけど、年度内はがんばろうと思った。
    「先生、ありがとうございました」
    「大石さん、無理は禁物ですよ。食生活はずいぶん気を遣っているようだから大丈夫だと思うけど、お仕事がストレスって……」
    「年度末で辞めることにしました」
    「そうですか」
    「今日は夕食後に退院していいですよ。和田さん、手続きしてください」
    「退院の書類と退院後の注意です。読んでくださいね。支度ができたら教えてください」
    今回は持ってきたものもなく、着て来たものに着替えた。
    「準備できました」ナースステーションに声をかけると、私服に着替えた和田さんが
    「一緒に行きましょう。ちょっと付き合ってくださる?」と先を歩き、病院前のドラッグストアに入っていく。ついて行くと大人用の紙おむつや尿取りパッドのコーナーだった。こういうものが必要になるのか……
    「こっちに来てください」そこは生理用品のコーナーだった。何人かの女性が僕を見る。思わずうつむいて目を逸らす。
    「さっきの大人用の紙パンツもいいけど、こっちの方が種類も多いし、状態に合わせることができますからおすすめです。下着を汚してしまったと言ってみえたけど、大量に漏らしたわけじゃないんでしょう。それにテープが付いていてずれないからいいんですよ」一人の男性が店員さんに聞いて二つのパックを買い物かごに入れた。
    「今は男性だって女性に頼まれて買うこともあるし、男性だから使えないわけじゃないんです。これにしましょうか」
    「……はい」普通の日用パックを一つ買うことになった。たったこれだけのことなのに、ものすごく勇気のいる買い物だった。
    「普通のスーパーにも売っていますから、彼女のものを買うんだっていう感じで買えばいいじゃないですか」
    「……はい」ドラッグストアには豆腐や牛乳、食パンも売っていたので、それらでかごを埋めるようにしてレジを済ませる。エコバックに入れてもらって、汗が出てくる。和田さんはこの買い物に付き合うために来てくださったのか。
    「和田さん、ありがとうございました。すいません」
    「大石さんはこういうものを買うことがないかと思って。おせっかいです。大石さん、がんばりましょうね」
    「ありがとうございました。お気遣い感謝します」
    家に帰って生理用品を装着してみる。ナプキンというのか、肛門が中心になるようにテープをはがしおしりに貼る。袋の説明書を見ると、接着面は下着に貼ると書いてあったので、ベリベリ剥がして……うっ、意外と接着力強し。失敗、失敗。トランクスに貼ってこの日は安眠することができた。トイレの心配、粗相するという屈辱からの脱出、おむつはさすがに抵抗があったからこういういいものがあるとは。
     
    起きて、まずトイレに行く。相変わらず下痢は続いていた。汚れてはいなかったけどナプキンを新しいものに換える。一応予備のナプキンも持って行こう。でも、誰かに見つかったら嫌だなと、カバンの奥にしまう。
    午前中に一日分の目録の仕事を片づけてトイレに行くと少し漏らしてしまっていた。ナプキンを換える。この汚したものはどこに捨てればいいのか? 女子トイレには汚物入れがあるけど、男子トイレにはない。トイレットペーパーでぐるぐる巻きにし、使い古しの封筒に入れてロッカーに入れる。明日からはジップロックを持ってこないと。自分専用の汚物入れを用意しないといけないな。そんなことを考えていると三宅さんが
    「大石さん、昨日この前の撮影会の写真を参加者と見る会があったんですよ」
    「らしいですね」
    「どうして来なかったんですか? 写真キレイに撮れていましたよ」
    「ちょっと用事が出来て・・・・・・」
    「昨日おみかけしましたよ。きれいな人とご一緒でしたよね。デートですか?」
    「えっ、ち、違います。和田さんは看護師さんなんです。いろいろ教えていただいたんです」
    「そうだったんですか。てっきり彼女さんがみえるのかと思いました。よかった」
    「じゃぁ、お昼に行ってきます! 昼からはサービス課です。夕方戻ります」
    早口でそれだけ言うと、輪島庵に急いだ。僕なんかにデートなんてあるわけがない。僕より背が高くて誰が見ても美人の和田さんに相手にされるわけがない。
    「いらっしゃい~」
    「いつものうどんをお願いします」
    「へい」
    輪島庵は落ち着くな。昔話に出てきそうなおじいさんとおばあさん。学生時代から通っているから、二十年以上? おふたりはおいくつなんだろう? 駅前のチェーン店が人気だが、僕は断然輪島庵派だ。ふと、さっき、三宅さんが言った言葉を思い出していた。
    「(彼女じゃなくて)よかった?」ってどういうことだろう。まさか、僕はもうおじさんだぞ。まさかね。違う! 期待をしてはいけない! 意識してしまうから誤解するようなこと言うのはやめてほしい。
     
    大学に戻ると直接サービス課へ行き、カウンターに座る。他の大学から、相互の文献の複写依頼が五件入っていた。ブックトラックを持ち出し館内に該当の本を探しに行く。書架はずいぶん乱れているが、なんとか見つけて派遣スタッフにコピーの指示を出す。書架整理もお願いしていることなんだけどな。カウンターに大学生が資料探しに来た。次年度の公務員試験の資料探しの手伝い。この学生は地元に戻るんだね。うちの大学にない資料だったので他大学に相互貸借の依頼をする。学生時代に藤岡さんや濱島さんにお世話になったことを思い出す。濱島さんは准教授の依頼の対応に追われている。学生がリファレンスに来たので、対応する。コピーが完了した分のチェックをして、発送するよう指示を出す。派遣スタッフにその本を返却するよう伝えて仕事は一段落。濱島さんから休憩するよう言われ、バックヤードでお茶を飲む。お菓子を置いてくれているけど、身体のことを考えると手が出ない。トイレに行って、大丈夫なことを確認して濱島さんと交代する。夕方までにリファレンスが一件、相互の図書の取り寄せが三件、そのうちの二件は濱島さんが対応していた准教授の依頼だった。誰かの役に立つ司書という仕事は素晴らしいと思う。残念なのは、そのことを大学や公共図書館などの司書を雇用する側がわかっていないことだ。図書館って、何のためにあるのか? 誰のためにあるのか? 年内最後の出勤日の夜に、石原さんたちと忘年会を兼ねた食事会をすることになっていたが、この日は朝から腹痛があり、下血もみられた。さらに夕方から熱っぽくなってきたので、早退し病院へ駆け込んだ。またも体調を崩してしまった。今年、三回目の再燃だ。そのまま入院し、治療することになった。石原さんの会社のことも気になっていたが、濱島さんにメールをした。解熱剤が投与され、明日内視鏡の検査をすることになるだろう。身体がだるい、目を閉じたらすぐに眠りについた。
    「大石さん、おはようございます。血液検査しますね。腕を出してください」
    採血しながら、熱を測り、昨日の便と尿の回数の確認、酸素飽和度と血圧を測定。入院したときのいつもの朝だ。
    「午前中に内視鏡の検査をしますね。歩いて行けますか? 車イス用意しましょうか?」
    「大丈夫だと思います」
    「朝ごはんは検査後になります。食べられますか?」
    「はい……」そう言ったものの食欲はない。ほとんど食べることができなかった。
    「点滴しますね」
    「お願いします」
    点滴スタンドに寄りかかるように歩いてトイレに行き、下血はないように思うが、水のような便が出た。熱は下がったもののだるさは続いている。濱島さんからメールが届いていたが、スマホの充電がなくなってしまったので内容を確認することはできなかった。売店で充電ケーブルを買ってこないと。
    「大石さん、内科検査室へ行ってください。行けますか?」
    「大丈夫です」点滴スタンドが杖の代わりになるので、ひとりで行けた。
    「内視鏡の検査着に着替えて書類の記入もお願いします」
    「はい」検査台に丸くなり検査態勢を取る。
    「楽にしてください」直腸に内視鏡が入ってきた。直腸だけでなく脾彎曲部の壁も赤くなっているのが見えた。
    「脾彎曲部まで広がってきましたね。重い潰瘍にはなっていませんが、炎症を起こしていますね。憎悪の間隔が短くなってきましたので免疫調節薬を始めましょうか? 保健適応外の薬なので高価ですから、特定疾患を申請してください。和田さんベタメタゾン坐剤を」
    免疫調整剤は保健適応外の高価な薬ということで、特定疾患の申請をしないといけないとのこと。市役所に申請に行かないといけないらしい。家族が近くにいないので、自分で何とかしないといけない。検査後に売店に寄り、スマホの充電器を買った。調べたけど、特定疾患の申請は窓口でやらないといけないそうだ。
     
    「大石君、また身体を壊したって? 大丈夫ですか? 心配しています。目録だけでなくサービス課の仕事もやってくれて、無理をさせてしまいました。ごめんね。
    昨日の夜、石原さん、久保田さん、丹下さん、山本さんと一緒にお食事会をしました。宮原さんも来てくれて、私たちの派遣会社に参加してくれることになりました。『労働者派遣事業許可』を取得できましたよ。
    みなさん大石君のことを心配されていました。落ち着いたら連絡ください。」
    いよいよ派遣会社がスタートするのか、次年度から仕事ができるといいなぁ。もう今年度で辞めると言ってしまって、すんなり承認されてしまったからなぁ。
    そんなことを考えながら眠ってしまった。ベタメタゾンの効果か起きるとだるさがなくなり、食事も取れるようになった。体重を量ると三キロ近く減ってしまっていた。 濱島さんにメールをしたら、グループLINEが出来ており、招待されて、司書の派遣会社のメンバーとも個別に連絡が取れるようになっていた。
    みんなで会社名を検討する。登録は石原さんの奥様のご実家の会社で、その中の別部門、みんなで考えた誰が見ても意味がわかる会社名『Librarian PRO』に決まった。『Librarian PRO』、自分もこのメンバーの一員であることを誇りに思う。結局、年内いっぱい入院することになり、退院後に特定疾患受給者証の申請書類を用意して、医師の診断書を添えて、外出許可を取り区役所に提出した。退院までに提出しないと今回の入院費は返還されないらしい。受理されるといいのだけれど……。認可には二ヶ月かかるという。そんなに時間がかかるのか……。
     
    年明けは退院直後ということもあり、田舎には帰らなかった。時間が取れたら帰ろうとは思うものの、年老いた親に自分の病気のことを打ち明けることはできないだろう。田舎の人だから、それとも子を思う愛か、田舎に帰るといつも食べきれないほどのごちそうを用意してくれる。それは僕が昔好きだった唐揚げや天ぷら……もう、それを食べることはできないんだ。そうを考えると帰れない。数年前に比べて十キロ以上痩せているから。家には正月の挨拶と忙しいから帰れないとだけ連絡を入れた。姉はすこぶる元気で三人も子供がいる、その子たちにお年玉を渡さないといけないけど、学校が始まるまで身体を休めることだけに集中した。EE-2のフィルムが入ったままになっていたので、近くの小さな神社に初詣に行き、商店街や昭和時代のものと思われる古い看板などを撮影し、撮りきったのでそのままコンドーカメラさんに向かった。
    「おめでとうございます!」
    「おめでとう。大石君、久しぶりだね。どうしてたの?」
    「体調不良で。実は年内も入院していたんです」
    「そう……ちょっと痩せたなって思ったよ。もういいの? 盛山さんから写真とRICOH FLEXを預かってますよ。あと遅くなっちゃったけどYASHICA ELECTRO 35 MCの電池4LR44入りましたよ」
    四角い写真。写っていたのは、紺色のジャケットの僕とえんじ色のコートの三宅さん、背景には白いバラが咲いていて色合いや構図、ふたりの表情がいい写真だった。三宅さん可愛く撮れているなぁ。僕だって結構いいかも。これがZenza Bronicaの写りか、中判カメラいいなぁ。
    「いい写真でしょう」
    「僕以外は……」
    「ふたりともいい表情ですよ。いい写真だと思うけどなぁ。三宅さんはあれから何度か来てくれていますよ。フィルムカメラが楽しいようです」
    「そうですか。フィルムの現像をお願いします」
    「お正月で佐川君が休みだからちょっと時間をもらってもいい? ネットで現像を受け付けることにしたんだ。そうしたら全国からフィルムが届くようになって。現像するところが減っているんだね。急ぐ?」
    「急いでいませんから、大丈夫です」
    「明日の夕方にはできるから」
    「そのころ取りにきます」
    「千百円です」
    「明日盛山さんにRICOH FLEXの修理代をお支払いしますね」
    「今月末に撮影会があるよ。参加する?」RICOH FLEX撮ってみようかな。でも体調どうかな? 返事はできなかった。
     
    病気のことを考えると気が滅入ってくるので楽しいことを考えよう。アパートに戻り、久しぶりに防湿庫からカメラを出して、空シャッターを切って動作確認。フィルムカメラをいじっているのは楽しいなぁ。癒される。フィルムが高いのは困るが、何十年も前のカメラがこうして使えるのはすごいことだと思う。今日は十台ぐらいにしておこう。やりだしたらきりがない。修理してもらったRICOH FLEXもピカピカ! レンズもクリアだ。今度撮影してみよう。ブローニーフィルムを買わないと。明日買っちゃおう。今度の撮影会はYASHICA ELECTRO 35 MCで参加しよう楽しみだ。でも体調が不安だ。
    仕事は来週からだから、今週はのんびりしよう。朝食後に昨日の続きのフィルムカメラの動作チェックをする。盛山さんに修理してもらったRICOH FLEXを出してみる。完全マニュアルカメラだから露出計がいるな? おじいちゃんの防湿庫の片隅にセコニックツインメイト L-208。小型で使いやすい単体露出計。一眼レフのマニュアル撮影の時はスマホの露出計アプリを使うけど、二眼レフは単体露出計が似合う。RICOH FLEXを専用の革ケースに入れて、持ったら革ひもが根元からブチっとちぎれて、危うくカメラを落とすところだった。このケースもカメラ同様に古いものだから仕方がない。このケースを買うことができるのか? 修理できるのか? コンドーカメラさんと盛山さんに相談してみよう。午前中は洗濯や片付け、掃除をした。昼食はうどんにしよう。もはやうどんと豆腐は主食になっている。乾麺の茹で時間十分のところ、三十分ぐらい茹でてクタクタになった麺をゆっくり食べる。福岡のうどんは柔らかいそうだから一度食べてみたいな。頭の中は消化にいいものしかない。病気の苦しみを考えたら、食事の節制は全然苦にならない。食事規則正しく食べるようにして、低脂肪・低残渣・低刺激・高カロリーのものを摂取するよう心がけ、食事規則正しく食べて生ものは避けている。肉なら鶏のささみなどの脂肪分の少ないものならいいとか野菜でも食物繊維の少ないもので量をたくさん食べないなら多少は良いらしいが、その加減が難しいので、なかなか手が出ない。
    夕方現像ができるということだったから、その前に銀行へ行って入院費を振り込んだ。当面の生活費+RICOH FLEXの修理代を引き出した。光文堂書店にも寄ろう。書店に行くだけで癒される。それほど大きな書店ではないが、日本十進法の0類から9類までが網羅されており、おすすめ本や新刊案内、手づくりのPOPが楽しい。それまで手に取ったことのない本にも興味を持たせてくれる。大学には生協もあり大型書店も行ける距離だけど、書籍のラインナップは光文堂書店の方が圧倒的に優れている。奈良の小さな出版社が発行している考古学の本も取り寄せてくれたし、絶版になった本を探してくれたこともある。書店がどんどん少なくなっている昨今なので、僕はやむを得ないとき以外は光文堂書店で買うことにしている。いつまでもここにあってほしいと思う店だ。店内にトイレがあるのも安心できるから。青木マリコ現象用なのか? 青木マリコさんは名を残したけど、あまり名誉なことではないかな?
    光文堂書店を堪能する。単行本・文庫の新刊・おすすめ本をチェック。シュリーマンの『古代への情熱』が角川ソフィア文庫から出版されている。翻訳は池内 紀、ドイツ文学者でエッセイストだからわかりやすい。岩波文庫や新潮文庫のものは持っているが、違う訳者だと印象が違ってくる。持ち歩くにも気楽でいい。ソフィア文庫のラインナップはいいな。中公文庫から現代語訳-豆腐百珍 が出版されている。僕の主食の豆腐。豆腐百珍を開いてふと思いつき料理のレシピコーナーへ行く。『クローン病・潰瘍性大腸炎の安心ごはん』を一冊手に取る。本が出版されているくらいだから患者も多いのかもしれない。症状に合わせた料理を食べることができる。もっと早くこういう本を購入すれば良かった。三冊を手にレジに向かおうとすると、
    「大石さん! 明けましておめでとうございます」
    「おめでとうございます。お買い物ですか?」
    「えぇ、コンドーカメラさんに……」
    「僕もこれから行くところです」支払いを済ませて、三宅さんと一緒に店を出る。三宅さんが赤と紺の表皮のEE-3を下げていた。
    「買ったの? EE-3持ってたよね」
    「盛山さんに表皮を貼り替えてもらったんです。剥がれてきたから、接着剤で貼っちゃおうと思ったんですが、盛山さんに相談して、かわいくしてくれることになって……」
    「いいですね~」
    「ですよね~、フィルムカメラが楽しくなりました。いつも持ち歩いています」コンドーカメラさんに行くと盛山さんがいらっしゃっていた。
    「おめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
    「盛山さん、RICOH FLEXの修理代をお支払いします。遅くなって申し訳ありません。あとご相談があります」
    「奥どうぞ。現像できていますよ」
    「まず。修理代一万円ってお聞きしていましたが……」
    「はい、一万円です。この写真見てくれる?」そこにはバラバラになったRICOH FLEXが写っていた。
    「うわぁ~こんなにバラバラにするんですか?」
    「そう、まる一日かかっちゃうので、一日分の作業代として一万円いただいています」
    「はい、こちらをお納めください」
    「ありがとう。領収書いりますか?」
    「いぇ、必要ありません。実はご相談があって。早速使いたいと思って、皮ケースに入れたら、ひもがブチっと切れてしまって……修理できますか?」
    「根元で切れてるね。これもカメラと一緒で八十年ぐらい前のものですからね。皮が限界でしょうね。たとえ切れたところを直しても他のところがだめになるから。中古が売っていることもあるけど、同じように古いものだから」
    「そうですか。じゃぁ手で持ち歩くしかないんですね」
    「方法はありますよ。ちょっとこれ見てくれる。改造したんです。こうすれば皮ケースは必要ないから」盛山さんはショーケースから一台のRICOH FLEXを出した。僕のカメラと同じⅦ、サイドにストラップをつけられるように吊り金具が付いている。
    「これを付けられるんですか?」
    「はい、できますよ。修理したばかりだからサービスしておきます」
    「いいんですか? お願いします」
    「これはそんなに手間がかからないから、明日にはできますよ」
    「お願いします」
    三宅さんは、フィルムを巻き戻し、現像を依頼していた。
    「大石君の現像もできていますよ」
    店内のパソコンで、早速チェックする。公園のエビフライの遊具や、古そうな看板などが写っている。ふと気づくと三宅さんがのぞきこんでいて、顔がすぐ近くにあった。
    「うわっ、近い、近い」焦ってしまう。
    「あ、ごめんなさい」
    「いえ、すいません」うわって言ったのは失礼だったな?
    「大石さん、センスいいですね~。昭和レトロって感じですよ」
    「どれどれ? いいね。これPen EE-2? キレイに取れていますね」と盛山さん。
    「ありがとうございます」
    「あ、そうそう、おふたりが揃っているからちょうどいい。お願いがあるんですが」
    「何でしょうか?」
    「この前の神代植物公園で撮ったBronicaで撮ったおふたりが写っている写真をコンテストに出してもいい?」
    「えっ?」と僕。
    「いいですよ~。ぜひ!」嬉しそうな三宅さん。
    「バラもおふたりの雰囲気や表情がとてもいい感じだったので。今も募集していますから、おふたりも出すといいですよ」
    「はぁ……」
    「ダメですか?」
    「いぇ、そうじゃなくて、恥ずかしいなと思って」
    「いい写真ですよ。それに選ばれるとは限らないから……」
    「はい、わかりました」
    「明日のこのくらいの時間に、これ持ってきますね」僕のRICOH FLEX。
    「じゃぁ取りにきます」
    「私も現像を取りにきますから、明日もお会いできますね」
    「そうですね、ではお願いします」コンドーカメラさんに現像代を支払い、店を出た。三宅さんがあんなに近くに……意識してしまうじゃないか。
     アパートに戻り、買ってきた『クローン病・潰瘍性大腸炎の安心ごはん』を開く。「安心ごはん」のタイトルに惹かれた。僕が求めているのは安心して食事がしたいということだ。自炊の腕を磨かないといけないし、外食の参考にもなればいい。いつまでも豆腐やうどんではいけないと思いつつ、今日は寒いから湯豆腐にしよう。でもやっぱり豆腐になってしまうな。ちょっと勉強しなくては! 田中可奈子先生ありがとうございます。がんばります! 明日もコンドーカメラさんに行って、RICOH FLEXが改造されるのが待ち遠しい。盛山さんと知り合うことができて本当に良かった。三宅さんにも会えるのかな? 会うのが楽しみ? まさか、僕は昭和生まれのおじさんだぞ。病気持ちだし、背もそんなに高くない、いやむしろ低い方だ。眼だって小さいし、鼻も低い。さえない男だってことは自分が一番知っている。悪い条件が揃っているんだから、恋愛なんて無理に決まっていると自分に言い聞かせる。ただ今年に入ってから身体の調子はいい。このまま完治するなんてことは夢のまた夢だけど、寛解の状態がずっとずっと続くことを祈っている。
     Pen EE-2の写真を確認する。この町のいろんなところを撮った七十二枚だ。普段は交通量の多い大通りも、正月休みの朝は、閑散としている。固定焦点のEE-2は三メートル先に焦点が合わせてあるので、なんとなくその距離を意識してしまうが、近くも遠くも全体によく映っている。一眼レフのように、前ボケ・後ろボケはないから、強調されたところはない。自分が見た風景そのまま、それがいい感じだ。この前の撮影会の写真も良かったし、センスがいいかもと自画自賛。町もファインダーを通してみると、魅力的なところが目につく。
     翌日の午後、ドラッグストアに寄りナプキンを購入する。この前と同じものとちょっと大きい二種類を購入。やっぱりドキドキしてしまう。以前男の人も買いに来てたことを思い出し、彼女の生理用品を買いに来たふりをして堂々としないと。これがあると安心できる。コンドーカメラさんに向かう。
    「こんにちは」
    「いらっしゃい。できてますよ」
    「FUJIの35㎜フィルムを三本、ブローニーフィルムはどれがいいのかわからないから一本ほしいんですが……」
    「ブローニーフィルムだけど、カラーがいいのか、モノクロがいいか、リバーサルという選択もありますよ。カラーだとKodak Ektar 100 120 5本パック一一九〇〇円。モノクロは一本ずつ販売します。FUJIFILM120 ACROS100 が二〇〇〇円、MARIX ネガフィルム 120 ISO100 が一二〇〇円ですね」
    「ブローニーフィルムも結構高いんですね。でも、35㎜とあまり変わらないかな」
    「ブローニーは元々高かったんだけど、こっちも少し値上がりしていますね。ごめんね」
    「じゃぁ、お値打ちなMARIXを一本ください」
    「一二〇〇円ね。これ一本で十二枚しか撮影できませんからね。慎重に撮ってくださいね」
    「十二枚! 初めてなので、フィルムの入れ方を教えてください」
    「あっ、盛山さん」
    「私から説明しましょうか」
    「お願いします」
    「まず練習ね。このフィルムは練習用だから安心してね。まず、裏蓋を開けてください。横のフィルムを巻きとるノブを引いて、中枠を取り出します。そう、そう。今、下にスプールがあるよね。それを、上側に移動してください。さっきスプールがあったところに新しいフィルムをセットします。そう、そう。フィルムの端を空のスプールのスリットに差し込んで、少し巻いて下さい。中枠をカメラにセットする。裏蓋を閉じてロックして、背面に小さな窓があるでしょう。それを開けて、巻き上げノブを回すと数字が出てくるから、1に合わせてください。いいね。フィルムによって数字の大きさが違うからね。シャッターはレバーを上げてチャージして、下げる」カチッと小さな音がしてシャッターが切れる。
    盛山さんの説明通りに、装填していく。フィルムがむき出しなっているので感光しないか心配になる。一応できたけど、念のためもう一回やってみる。
    「大丈夫そうだね。それで終わりじゃなくて、ここで絞りの調整ね。被写界深度が変ってくるから。シャッタースピードはここね。このカメラは1/500まであるから、手ブレを防ぐこともできるし、スピード感のある写真にも対応できて写真の幅が広がるね。じゃぁ、新しいフィルムを装填してみてください」
    「やってみます」さっきやったことを思い出しながら、中枠を取り出してスプールを移動させて……。盛山さんがその様子をじっと見ている。緊張ながら、フィルムの装填が完了した。
    「緊張しますね」
    「慣れですよ。大石君、ちゃんと出来ています。大丈夫! 気をつけないといけないのは、巻き上げノブは戻せないから、数字をきちんと合わせることと、撮影するときに巻き上げるか、撮影してから巻き上げるか自分でルールを決めてね。二重取りになったり、撮影していないのに巻いてしまったりするからね。おすすめは撮影する前に巻き上げる方がいいですよ。ちなみにカラーフィルムも使えますけど、このカメラが発売されたときは、まだカラーフィルムがなかった時代なんですよ。モノクロは白から黒のコントラストが細かくないと表現できないから、カラーフィルム入れてもはっきりくっきりとはいきません。柔らかい雰囲気の写真が撮れます。それがいいんですけどね」
    「はい、やってみます。でもBronicaは鮮やかにきれいに撮れていましたよね」
    「RICOH FLEXⅦは八〇年ぐらい前に発売されたカメラなんです。その頃は一般にはモノクロフィルムしか発売されていませんでした。Bronica S2は一九六〇年代かな。カラーフィルムが一般に販売されていましたからね。あと使ったフィルムがKODAKだから鮮やかっていうのもありますね。そういうこととおふたりの一瞬がいろいろ重なった奇跡の一枚なんです。今のコンテストはデジカメばかりで、提出もデータですけどね。大きく引き伸ばしてプリントするのはけっこう高いから助かるけどね」フィルムカメラは機種によって撮れる写真が違うから、撮りたい写真によってカメラとフィルムを選ぶ、そこが楽しい。
    「では、また」ドアが開き、三宅さんっだ。
    「いらっしゃい、現像できていますよ」
    「盛山さんありがとうございました」
    「えっ帰っちゃうんですか……」
    「三宅さん、また明日ね」RICOH FLEXを抱えてアパートに帰る。袋からタオルにくるんだカメラを取り出す。袋の中にブルーのストラップが入っている。メモがあり『ストラップをサービスします。真田紐で作りました。二眼レフ楽しんでね 盛山』。真田紐で作ってあっていい感じだ。盛山さん、ありがとうございます。早速カメラに取り付けてみる。カメラを撮影できるのは十二枚。大事にシャッター切らないと。ワクワクしてくるな。モノクロフィルムは久しぶりだ。何を撮ろう。カメラに夢中になって今日は身体のことを心配しなかったな。こういう日がずっと続くといいな。はっ、買い物したナプキンを忘れてきた~。明日取りにいかないと……。
     
    年明けからも午前中は目録、午後はサービス課だ。二月中に今年度分の目録を全部取らないといけないから、焦ってくるが仕方がない。のんびりしてはいられないが、こなさないと……。
    「おはようございます。今年もよろしくお願いします」
    「おはようございます」
    「おはようございます」
    派遣スタッフのみなさんに頑張ってもらわないと!
    「大石さん、お忘れ物です」それは昨日忘れてきたエコバック。エコバックに入れただけだから、袋をのぞき込めば、何かわかる……
    「み、三宅さんありがとう」
    「彼女さんのですか?」
    「えっあぁ、う、うん、ありがとう」はぁ~失敗、失敗。自分が使用しているとは言えない。三宅さん、このことは忘れてください。冷汗が出る。さぁ、午前中にこの棚の一段分はやってしまおう。そこから集中して目標達成。お昼はやっぱり輪島庵でうどん。午後からはサービス課でカウンター業務。休み中に届いていた相互利用の依頼は午前中に濱島さんが処理してくださったので助かった。ブックディデクションが鳴りゲートが閉じたので行くと、学生が持ち出しはしていませんと言っている。派遣スタッフが困り顔だったので対応する。
    「確認のためにカバンの中を見せてください。誤作動することもあるので確認させてね」
    学生が渋々カバンを開けてくれる。カバンの中にはスマホと折り畳みの傘が入っていた。
    「たぶんこれだね。一旦預かるね。もう一度通ってみて」鳴らなかったので、ゲートの外に出た学生にスマホと折り畳みの傘を返した。古いブックディデクションなので誤作動はけっこうある。
    「ごめんね。機械が古いから誤作動でした」
    受付に他大学の学生が紹介状を持ってやってきた。この大学の資料を見たいとのこと。事前に予約があり貴重書だったので濱島さんに引き継ぐ。濱島さんが対応しているときは、参考カウンターに座り、文学部の院生と研究生の対応をする。試験期が近いから学生の利用は多い。派遣スタッフに返却された本を棚に戻すよう指示を出し、選書の出版情報に目を通す。選書も専任職員がいなくなってしまうとどうなるのか? そういうことも考えているのだろうか?
    「大石君、ありがとう」
    「今日はもういいわ。目録に戻っていいよ。」
    「今日やるべきことは午前中に終えたので大丈夫です。貸出も増えているし、返却も多いからもう少しいます」
    「そう、ありがとう。でも身体を一番大事にしてね」
    「ありがとうございます」
    他大学からの相互協力の依頼を三件対応し、館内のコピー機の用紙の補充などやることは多い。目録もいいけど、最初に配属されたサービス課の仕事も図書館を感じられていい。それに利用者の顔が見られるのもいい。あと三〇分で勤務時間が終わる。サービス課でやることはたぶんない。あとは濱島さんと派遣スタッフにお任せしよう。挨拶をして目録係に戻る。派遣スタッフがやってくれた目録データを確認し、正しい書誌がダウンロードされているかチェックする。今日はミスなし、イレギュラーなこともなかったとみえて、僕の机の上には何もない。派遣スタッフのみなさんの勤務時間は終わっているから、明日使うであろう備品の補充をしておく。派遣スタッフのみなさんが困ることがないようにしておくのが僕の仕事。今日はコンドーカメラさんに寄ることはなくなったから、真っ直ぐアパートに帰ろう。エコバックを見てため息をつく。図書館を出ると真っ暗だ。暗いとフィルムカメラで撮り歩くこともできないから、つまらないな。「安心ごはん」の本で何か作って食べようか。
     それからしばらくはこんな毎日が続いた。派遣スタッフの三宅さんとはフィルムカメラのことで一時は距離が縮まったと思ったが、忘れ物の一件以来溝ができてしまった。このところ週末になると天気が悪くなるので、RICOH FLEXの撮影にも行けないままだ。「安心ごはん」の本を見ながらの自炊生活のおかげか、体調は良かった。早く春になるといいな。いろんなことがうまくいくといいな。
    濱島さんからのLINE
    「Librarian PROのことでお話があります」
    「どうしたのですか?」
    「ごめんなさい。先週末に次年度の派遣会社の入札があったらしくて、派遣会社が決まってしまったの」
    「入札に参加しなかったのですか?」
    「入札があったことを知らなかったんです。秋に派遣会社向けの説明会があったそうですが、その頃は会社が設立していなかったから参加できなくて……というより、ある派遣会社に仕事を取らせるような筋書きがあったようです」
    「えっ」
    「実はこの情報、経理課に行った藤岡さんが教えてくれたの」
    「そうだったんですか……僕、退職届出しちゃいました」
    「本当にごめんなさい。次回の入札は一年後だから、次年度までどうする?」
    「どうしましょうか……なんとかしてみます」頭の中に三内丸山遺跡センターの学芸員募集のことが浮かんだ。一年無職か……。大学卒業してからずっと図書館の仕事しかしていないから、他に仕事ができるのか? 貯金はあるし退職金も出るだろうけど一年間遊んで暮らせる額ではない。退職するのを早まったと思ったけどあんなにあっさり退職を認められては、もう戻ることは考えられない。新しい仕事を探してみよう。僕には養う家族もいないから気が楽だ。早速三内丸山遺跡センターのHPを見てみるが、学芸員の募集は終わっていた。司書の求人を探すが百%派遣会社の求人ばかり。大学図書館・公共図書館すべての求人が、最低賃金の時給。未経験でもOK、司書資格なくてもOK……司書の仕事はそんなものじゃないのに……。反対に学芸員は大学院での研究実績が必要不可欠。院に進学しなかった僕には仕事はなかった。博物館で検索すると、未経験でもOKの仕事はあったものの清掃やレストランの仕事、時給は司書と同じく最低賃金に近い。前途多難だ! 良い仕事が見つかることを祈るのみ。退職したらやることと検索するとまずハローワークに行くとあった。雇用保険がもらえるらしい。これを利用すると次の仕事が見つかるまで給料全額ではないが給付金がもらえるらしいからなんとかなるかな。辞めたら就職活動をしないと……。濱島さんはどうするんだろう。
     二月中旬になり、今年度の図書の受け入れも終わりが見えてきた。今月中に終えることができる。試験期も終わり、サービス課の方も落ち着いてきた。三月に二週間休館し、蔵書点検を実施する。持ち出し防止のブックディデクションはあるものの、紛失本は毎年数十冊、多い年は百冊を超えてしまう。今年は本が紛失していないよう祈るばかりだ。派遣スタッフのみなさんにハンディーターミナルを一台ずつ渡し、図書館内の書架に配置して書架整理をしつつ、読み込むようお願いする。休館しているものの、他大学や公共図書館からの相互協力の依頼は受け付けているので、濱島さんと手分けして対応する。貸出・返却・相互協力・学外者の利用・目録の統計資料をExcelで作成しそれぞれの課の上長に提出、あとは紛失本のリストと、報告書を作成するだけだ。一週間ほどで館内の図書データの読み取りは終わり、今年度の紛失本は十九冊、これまでで一番少ない。念のためもう一度書架を確認して、三冊見つかったが、十六冊は紛失。この中には新しく入ったものや、ロシア文学全集のうちトルストイの三巻、研究書も含まれていた。残念なことだ。リストと報告書を作成。
    「派遣スタッフのみなさん、お疲れ様でした。みなさんは四月からもこちらでお仕事ですか?」
    「いいえ、次年度はうちの派遣会社が入札で負けたので……」
    「そうでしたか。僕も今年度で辞めることになりました」
    「えっ? 大石さんが?」
    「アウトソーシング化の波に勝てませんでした。今までありがとうございました」
     
     【春】
    明日は次年度の図書館の派遣スタッフに引継ぎをし、明後日から図書館全体の清掃のため立ち入り禁止となる。図書館を出て持ってきたRICOH FLEXで図書館の入り口や、庭越しの図書館、桜が咲き始めていたので校内を撮影した。慎重に撮ったつもりが十二枚はあっという間に撮りきってしまった。今日は単体露出計を持ってこなかったので、スマホの露出計アプリを使った。カラーフィルムで撮影した方が良かったかなと思いつつ、来年撮ればいい、また戻ってくるから待ってろよ! 
    「お疲れさまでした」
    「三宅さん忘れ物?」三宅さんもPen EE-3で撮影をしていた。
    「今日が最後なので思い出に撮っておこうと思って」
    「僕もです」
    「二眼レフですねぇ」
    「初めて撮影してみました」
    「上から覗くんですね。レンズが二つあるのはなんでですか?」
    「下のレンズで実際に撮影して、上のレンズは見るためのレンズ。持ってみる?」三宅さんにカメラを渡して、
    「ギザギザのヘリコイドを回してみてください。見えますか? 左右を見てみて」
    「あれ? 逆?」
    「そう。昔のカメラはレンズが一体になっていないし、鏡が入っているだけだからね。何かと不便ですが、そこがいいんです」
    簡単に二眼レフカメラの説明をした。
    「大石さん、これからどうするんですか?」
    「僕はここに戻ってきたいと思っています。すぐには無理だけどね。あ、図書館司書の資格は取れましたか?」
    「はい、レポートも試験も受かりましたので単位を取得することができました。これから司書の仕事を探します」
    「僕も四月から就活です。良い仕事があるといいですね」
    「よかったら、今日食事に行きませんか?」
    「……食事か……どうしようかな」
    「彼女さんに悪いですか?」
    「彼女はいないよ、実は食べることに制限があって。普通のもの、みんなが好きなものが食べられない」
    「彼女さんいないんですか? だって……」あぁ、あのことか。
    「ナプキンのことだよね。恥ずかしながら、実は僕が使うんだ。『潰瘍性大腸炎』って病気で、漏らしてしまうことがあってね。看護師さんに教えてもらって使っている。実は今も着けているよ。安心できるし、大人用のおむつは大きすぎるから」
    「そうでしたか。でもお昼は外食されていますよね。どちらへ?」
    「近くの輪島庵っていううどん屋さんへよく行っています」
    「じゃぁそこへ行きましょう」
    「でも輪島庵はお昼だけの営業なんだよね……そうだ! 豆腐好き?……ですか?」
    「大好きです」
    「濱島さんに連れてってもらった豆腐料理のお店があるんです。そこはどうですか」
    「ぜひ! 連れてってください!」
    「ごめんね。消化に悪いものや油もの、刺激の強いものはダメなんだ。前はうどん、豆腐の繰り返しだったけど、『安心おかず』っていう本を買ってから、自炊もするようになって、食べられるものが増えてきたよ」
    「私は食べることが大好きなんです。大石さんが食べられるものを勉強します! 探します!」
    「えっ! どういうこと?」
    「わかりませんか? 私、大石さんが大好きなんです。司書になりたいと思ったのは、大石さんが図書館の仕事を教えてくれたからなんです」
    「はぁ……ありがとう。僕はこんなさえない奴なのに……女性に対して自信がありません、ましてや漏らしてしまうこともある恥ずかしい病気です。一生治らない病気で……そんな僕が恋愛なんて考えたことない。考えられません。僕はいろんなことをあきらめているんです。自分のことで精いっぱいなんです。三宅さんは若いし、可愛いし……」
    「私のことをそう思ってくれるってことは、脈がないわけじゃないってことですよね! よかった! さぁ、ごはんを食べに行きましょう!」
    「はぁ……」三宅さんはなんてポジティブな人なんだ。僕ときたら……。
    駅前の豆腐料理のお店まで並んで歩く、三宅さんは僕と一緒ぐらいの背の高さだ。いやちょっと高いかもしれない。横を見るとすぐ顔があって、照れてしまう。
    「ここです」
    「うわぁ~美味しそう! 良いお店ですねぇ~」
    「美味しいですよ」
    「いらっしゃいませ~! お二人さまですか? こちらへどうぞ! お決まりでしたらお知らせください」メニューを渡された。
    「どれにしましょう? 三宅さん食べたいものを選んでください」
    「大石さんが食べられるものを……」
    「ここのものはだいたい大丈夫です。汲みだし豆腐やザル豆腐が美味しいですよ」
    「じゃぁ、いろいろ入ったセットメニューにしましょう! 大石さんが食べられないものは全部引き受けますから!」
    「飲み物はどうしますか? お酒飲みますか?」
    「アルコールはダメなんです。大石さんは?」
    「僕もアルコールは……」
    「じゃぁ、お茶でいいですね。すいませーん! コレとコレと……飲み物はお茶をください」
    「かしこまりました。こちら食前酒の代わりに豆乳です」
    「ありがとうございます」紙パックの豆乳より濃い。美味しいな。
    「いただきま~す」次々と運ばれてくる料理を三宅さんはパクパク気持ちがいい食べっぷりでたいらげていく。それを見ているのは楽しい。
    「豆腐は安心して食べられるからいいね」僕も箸が進む。仕事のこと、カメラのこと。大学で勉強したこと。いろんなことを話した。この日は僕の方がおしゃべりだった。話しているうちに三宅さんのことが知りたくなってきた。
    「三宅さんの好きなことは?」
    「食べること」
    「それはわかった。他には? 趣味とか……」
    「なんかお見合いみたいですね」三宅さん、明るいなぁ。お見合いなんて言われたら照れてしまう。
    「三宅さんは背も高いし、おしゃれじゃないですか」
    「えーっ、おしゃれじゃないですねー 見てわかりますよねぇ」
    「おしゃれですよ。派手じゃないけどセンスが良いと思います。正直、そういうことはよくわからないんだけど」
    「あはは、褒められてるんだか?……私がですか? おしゃれには興味がないんですよ。私にもいろいろ制約があって、脚が太いからミニスカート履けないとか、足が大きいとか……」
    「靴のサイズのこと? 何センチ?」
    「それ聞きます? 気にしてるのに……」
    「あぁ、ごめん。気遣いできなくてすみません!」
    「いいんですよ。二十六㎝……うわっ恥ずかしい!」
    「僕と同じサイズだよ。ごめん、でもそんなに気にしなくてもいいと思うよ。だって背が高いじゃないですか。それは必然だと思います。他に好きなことは? 本は読む?」
    「活字中毒です。いつも目で文字を追ってしまいます。カバンの中にも必ず一冊入っています」
    「どんな本を読むの?」
    「今読んでいるのは、小川糸さんの『ライオンのおやつ』です」
    「余命宣告された若い女性が、ホスピスに行くお話でしたね」
    「余命宣告される重い話ですけど、みなさん不思議に明るいんです。私もそんな状況になったら、そんなホスピスを探したいって思っています」
    「三宅さんはとてもお元気そうだから、大丈夫じゃないかな」
    「人生、どうなるかわかりませんよ。大石さんは?」
    「今読んでいるのはシュリーマンの『古代への情熱』。本としては結構古い本なんだけど、最近新訳で出版されたんだ。考古学が好きで、シュリーマンの功績は大きいと思っているよ。ただ考古学の専門家ではなかったから、遺跡を傷めてしまったという功罪もあるけどね」
    「トロイヤ遺跡を発見した人ですよね」
    「そう、興味ある?」
    「この前大石さんの机の上にあって、ちょっとだけ勝手に見てみたんです。どんだけ大石さんのファンなんだか」と三宅さんは笑った。
    「そう、ありがとう。なんだか照れるね。女性が僕に興味を持ってくれるなんて、今までなかったことだから」
    「そういうところが好きなんです。私が以前お付き合いしていた人とは違う」
    「そう……」
    「聞かないんですか?」
    「聞いてほしいの? 言いたくないことは聞かないですよ」
    「その人と大石さんは一八〇度違うって思ったら、もうその人のことを考えなくなったんです。私は誠実な人が好きなんだとわかったんです」
    「誠実かなぁ」
    「誠実ですよ。優しいし、仕事は手を抜かない。図書館の仕事を丁寧に責任持って取り組んでみえます。私はそういう大石さんが一緒に仕事をしていて、大好きになったんです。カメラのことも教えてくれたじゃないですか。一緒に撮影会に行ったとき、本当に楽しかったんです。盛山さんが一緒の写真を撮ってくれて本当に嬉しかったんです。私の宝物なんです。だから彼女さんがみえると知ってどれだけ落ち込んだか……もう、付き合ってください!」
    「えぇ? 本当にこれまでこんなに褒められたこともないし、僕は自分に自信が持てなくて、女性とお付き合いするのは無理だと思っていました。でも三宅さんのことはかわいい人だと思っていましたし、今もお話していて楽しい方だと思っています……」でも、でも、でも……
    「じゃぁ、いいですよね。お付き合いするって言ってください! もう職場で会えないんですよ。連絡先だって知らないし、今日で最後になるかも知れないんですよ」三宅さんはそう言うと泣き出してしまった。
    「ごめん。泣かないで。どうしたらいいかわからないよ」
    「付き合ってください!」
    「その前に僕のことを知ってください。そして三宅さんのことを教えてください」三十六歳で、性格はのんびり屋で穏やかな方だと思うけど、頑固なところもある。出身が長野県の諏訪市であること、両親は健在で姉がひとりいること、姉には子どもが三人いること、好きなことは考古学、なかでも縄文時代が好きなこと、そして「潰瘍性大腸炎」という難病を持っていることを伝えた。話しているうちに興奮気味だった三宅さんが落ち着いてきたので
    「今度は三宅さんの番ね」三宅さんの名前は真湖さん。真の湖と書くこと。三十二歳ということ、双子のお兄さんがいて一人は半年ほど前に結婚して近くに住んでいること、もう一人は九州大学の理学部の大学院で研究員をしているということ。お父さんは三宅さんが大学生の時に亡くなり、今はお母さんとふたりで住んでいること。健康状態は良好ということ、好きなことはフィルムカメラと僕ということを教えてくれた。自分のことを恥ずかしそうに話す三宅さんがかわいくてもっと知りたくなってきた。僕は君のことを何も知らなかった。
    「三宅さんはお若いしキレイだし、僕はおじさんです。こんなおじさんでもいいんですか? 病気持ちで次年度から無職ですよ。本当にいいんですか?」
    「大石さんはおじさんじゃないです! そんな大石さんがいいんです! 一緒に就活しましょう!」
    「実は、三宅さんのことは前から素敵な方だと思っていましたが、僕が女性とお付き合いできるなんて考えたことがなかったので、勝手にあきらめていました。でも三宅さんが僕に好意を持ってくれて、本当に嬉しかった。撮影会の時や今だってお話していてとても楽しいし、僕ももっと三宅さんのことが知りたくなりました。こんな僕でよかったら、こちらこそよろしくお願いします」言ってしまった……。
    「はい! やったぁ!」三宅さんはまた泣いてしまった。
    「泣かないで。どうしたらいいの?」
    「嬉しくて泣いているんです!」今度は笑った。
    「あっ、三宅さん十時過ぎちゃった! こんなに遅くなるなんて……電車ありますか?」
    「まだ大丈夫です。あっ、連絡先を交換しましょう」携帯の番号を教えるとすぐに電話してきて
    「それが私の番号です。登録してください」メールもLINEもすべて三宅さんのペースで連絡先の交換ができた。
    「はい、できました。じゃぁ急ぎましょう。僕支払いますから、駅へ急いでください」
    「半分お支払いします」
    「いいから急いでください」支払いを済ませて店を出ると三宅さんが……
    「ごちそうになってもいいんですか?」
    「大丈夫です。早く駅へ急いで!」
    「ごちそうさまでした!」スニーカーで小走りに駆けていく三宅さんは美しい人だと思った。家に向かって歩きはじめるとLINEが
    ピコン!
    ――すぐに電車がきました。今日はありがとうございました。お会いできるのが最後かも知れないと思ったら焦ってしまいました。思い切って告白して良かった! すごく良い一日になりました。お付き合いしていただけるなんて夢のようです。よろしくお願いします♡
    ――こちらこそよろしくお願いします。
    ――末永くよろしくお願いします。
     僕に彼女ができるなんて、嘘みたいだ。三宅さんが、真湖さんが、僕の彼女なんて……。追い立てるように帰ってもらったけど、あれでよかったんだろうか? こういうとき送って行くのが彼氏なんじゃないだろうか? そんなことを考えながらアパートに戻ると、盛山さんが撮ってくれた中判写真を取り出した。六×六の四角い神代植物公園の撮影会の時の写真、Pen EE-3で僕を撮った三宅さんにフィルムの巻き上げを教えている僕。後ろの白いバラがキレイだ。感じの良いカップルに見える。このときからこうなることは予想されていたのかもしれない。仕事のことは不安だけど、三宅さんのことは嬉しいことだ。でもこれからどうすればいいのか? 女性と付き合ったことは、高校生の時と大学生の時の二回だけ。どちらも淡い恋で、その後は女性と縁がなかったから戸惑っている。とりあえずこの写真を飾れるような写真立てを買おう。
    ピコン!
    ――無事に家に着きました。まだ夢なのかと思ってしまいます。これからもよろしくお願いします。
    ――本当は送らないといけなかったかなと反省しています。無事に帰れてよかったです。帰ってすぐに盛山さん撮ってもらった写真をみていました。今だといいカップルに見えます。ここから始まったんですね。これからもよろしくお願いします。気がつかないとことが多いと思うのでご指導ください。
    ――ご指導(笑)大石さんは面白いですね。ちなみにその前から好きだったんですよ。
    ――気がつかなくてすみません!
    ――史郎さん、おやすみなさい。
    ――真湖さん、おやすみなさい。
    ――きゃぁ! 名前で呼んでくれるなんて嬉しい!
    僕も名前で呼んでくれて嬉しい。彼女ができるなんて夢みたいだ。史郎さんか、自分の名前なのになんだか照れるな。今日は一日が長かった。でも記念すべき一日だ。「僕のことを好き」と君が言ったから三月三十一日は彼女ができた記念日なんてね。ちょっと長いか。真湖さんのことを思いながら、眠りについた。
     
     【四月】
    「おはようございます。目録担当の大石です。よろしくお願いします」
    「今年度から担当します。カレッジスタッフ社の田中と葛西です。引継ぎよろしくお願いします」
    「うちの学校の図書館システムは、……」
    「存じております。うちのスタッフは全員そのシステムに慣れています。こちらのローカル登録のルールを教えていただけますか?」
    「あっ、はい。NDC10 版に準じて分類番号を付与します。基本的には小数点以下は二ケタまで。文庫は例外で小数点以下は付与していません。新書は岩波・中公・講談社・ブルーバックスは叢書の扱いです。それ以外のレーベルは一般図書として扱っています。NACSIS-CAT総合目録のデータベースからダウンロードしてください。書誌レコードがないものは登録をお願いします。こちらにマニュアルを用意しておきました。すべてのパソコンのデスクトップにこのマニュアルのPDFがありますので、参考にしてください」
    二人のスタッフはメモを取り、パソコン上のマニュアルを確認していた。
    「備品はこちらです。蔵書印・図書館印・寄贈印など必要なものです。背ラベル・IDラベルのストックですが今年度分あると思います。タトル磁器テープ・ブックコートフィルムも同様に各種サイズをストックしています。総務課に品番を伝えるとまとめて発注しくれます。あまり頻繁に発注すると嫌な顔されますから、できるだけまとめてください」
    「一般図書と研究用図書の区別はどうされていますか?」
    「選書の際に研究用図書として販売されているもの、学内の教員からの購入希望のものは研究用図書にしています。実際に書架を見ていただければわかると思います。行きますか?」
    「お願いします」
    館内の書架の位置、配架を説明し、研究用図書コーナーで本を取り出すと、
    「これは経済の檀先生の購入希望で購入したものです。先生の名前が書いてあると、受講している学生は借りにきます。ローカルの備考欄に先生のお名前を入れますので、検索は容易です」
    見返しの地に近い位置に希望図書の印と見返しに経済学部:檀浩太郎と明記してある。
    「こちらは社会学の舟橋先生の寄贈図書です。この学校のほとんどの先生はご自分の著作物は一冊寄贈してくれます」見返しに寄贈図書の印と社会学部:舟橋佳孝寄贈と明記。
    「背ラベルの一段目に請求記号番号、二段目に著者記号:名字のアルファベット記号二文字、三段目は巻号です。上・下巻は一巻・二巻としています。」
    こうして目録の仕事のやり方は、これまで派遣スタッフが新しくみえるたびにその都度説明していたことだ。カレッジスタッフのお二人は、その都度メモを取りながら確認し、疑問に思ったことは質問があった。この人たちの会社がスーパー派遣なんだ。これまでの派遣スタッフとは質問の質も違うし、理解度も違う。
    「お二人はこれまでどちらで司書をされていたのですか?」
    国立大学と私立大学、どちらも偏差値の高い大学だ。そこもアウトソーシング化で正規職員が削減されたのか? もっと話をしたいところだったが、二人で話し合って仕事の段取りを進めていた。
    「大石さん、だいたいのことはわかりました。ありがとうございました。わからないことは係長と課長にお聞きすればよろしいでしょうか?」
    「お二人とも目録の実務を実際にはやっていないので難しいと思います。もちろん聞いていただいても構いませんが」
    「では、今後お聞きしたいことが出てくるかもわかりません。連絡先を教えていただけますでしょうか?」
    メールと携帯の番号をマニュアルの最後に記載し保存。できるだけメールをくれるように伝えた。
    「ロッカーは、備品の棚の後ろのロッカーを使ってください。四名分のロッカーがあります。廊下のロッカーは僕が使っていますが、今日中に中のものを出しておきます。他よろしいですか? 一旦サービス課に行ってきます」濱島さん一人では大変だろうと思ったからだ。
    「大石君、来てくれたの。ありがとう。今、カウンター業務の説明をしていたところ。ILLとリファレンスはこれからです」
    こちらにはスタッフが五名来ていた。
    「ILLを担当します」藤岡さんが作ってくれたマニュアルに濱島さんが追記してくれたものを配付して、他大学からの相互貸借が届いていたので、実際にやりながら説明した。こちらのスタッフも優秀で、二人のスタッフはILLの経験者だった。
    リファレンスの方もどちらも経験者で、任せても問題ないように思った。
    「明日から清掃が行われるため立ち入り禁止となります。みなさんには四月五日から出勤していただくことになります」
    「よろしくお願いします」
    「よろしくお願いします」
    「では、濱島さん目録に戻ります」
    ピコン!
    ――史郎さん、お疲れ様です。引継ぎは順調ですか? 私は派遣会社に行ってお仕事の紹介をお願いしてきました。今は図書館の仕事はないそうです。でもせっかく司書の資格を取ったのだから、図書館の仕事を探そうと思っています。午後からは市の図書館に行く予定です。
    ――お疲れ様です。スーパー派遣のみなさんは司書の実務経験もあり、優秀な方たちです。僕の出る幕はないようです(涙)。明日から僕も就活です。
    ――了解しました。
    ――よろしくお願いします。
    「大石君、ちょっといいですか?」係長が手招きしている
    「はい」
    「派遣のみなさんにわかるようにしておいてね。私に聞かれても困るから」
    「先ほど説明しましたし、マニュアルもあります。僕の連絡先も伝えてありますから」アナタハ ナニヲ スルンデスカ!
    「あっそぅ、じゃぁ大丈夫だね。引継ぎ終わったら帰っていいから。私も失礼しますね」
    「お疲れ様でした。係長お世話になりました」頭を下げているうちにさっさと帰られてしまった。係長の机の上にあった出版情報を見ると、購入すべき図書にチェックが入っていない。コウイウシゴトガ アナタノ シゴトジャナインデスカ? 赤鉛筆でチェックを入れておく。
    「大石さん、備品の発注ですが、このリストでよろしいですか?」
    「こちらの発注用紙に記載して総務課に持っていくか、メールすると届けてくれます」
    「ブックコートフィルムですが、私たちはこれまでオオハラ社の製品を使っていました。こちらのコバヤシ社のものは使っていなくて……」
    「ほとんど変わりませんよ。ただオオハラよりコバヤシが安いからなんです。同じようなものなら安いものしか買ってもらえませんよ。どうしてもやりにくかったら、総務に交渉してください」
    「わかりました」
    「学生・教員の次年度のデータは入っていますか?」
    「今年度の開館が終わった時点で統計資料を作成後に、教務からデータをもらっていますので、登録済です。卒業生のデータは削除して次年度のデータになっています。新入生のデータも入っています。登録のやり方もマニュアルがあります」
    「統計資料とは?」
    「大学に一年分の図書館の利用状況などを報告します。提出する統計データは、これまで提出しているものはこちらに入っています」
    「目録の受入れ統計、貸出・返却統計、相互利用統計、リファレンス統計、あと蔵書点検の際の資料の紛失統計・除籍統計です。紛失・除籍はリストを作成し、決済が必要になります。係長・課長の印が必要になりますので、指示を仰いでください。決裁書類は作ってくれると思います」
    「サービス課がやるべき仕事がありますね。それを目録でやる必要はありませんね」
    「それは相談してください。あと、これもサービス課の仕事なのですが、毎年新任教員・新入生のオリエンテーションがあります。新入生は毎年千人ほど入ってきますので、学部・学科に分けて図書館のオリエンテーションを受けてもらうことになっています。これまでは目録からもオリエンテーションの説明には参加していました。サービス課が年度始めは忙しいので」
    「サービス課のことはサービス課で対処してもらいますので」
    「やりやすいようにやってください」
    目録の仕事だけしかしないんだ。割り切ってやるんですね。職員が多かったときはそうだったけど、少なくなってからは助けあってやってきたんですよ。
    「では、時間ですので、失礼します。あとは任せてください」
    「よろしくお願いします。」ロッカーを片付け拭き掃除して名札を外す。十五年働いてきた職場に別れを告げた。一年後に絶対戻ってきてやる。「Librarian PRO」として!
    「大石君、お疲れ様。ILLの引継ぎありがとう」
    「みなさん経験のある方ばかりで、教えることはありませんでした」
    「リファレンスも市大のリファレンスの担当者だったって。出る幕ないわね。でもどこもアウトソーシングなのね」
    「大学専門の派遣会社だと聞きました。図書館だけじゃなくて大学のいろんな部署を熟知したスタッフで、次年度はこの大学を丸ごと業務委託だそうです」
    「私たちは大学図書館専門の派遣会社よ。一年後に必ず戻ってくる! カレッジスタッフには負けない!」
    「濱島さんは一年どうされますか?」
    「私は退職届出す前だったから、とりあえず教務で働きます。大石君は?」
    「就活です。一年だけ雇ってくれるところがあればいいんですけど」
    「では、お疲れさまでした。またね。連絡しますね」
    「お疲れさまでした」
     
    図書館のカギを守衛室へ返却して、振り返ると
    「お疲れ様です!」
    「みや……真湖さん! どうしたの? 図書館に忘れ物でもあった?」
    「まだ慣れないんですね。呼ぶの」
    「まだ初心者ですから……どうしたの?」
    「会いたかったから待っていたんです……ダメですか?」
    「真湖さんの一言一言が、ストレートで……僕は戸惑ってしまいます」
    「困らせているんですね」
    「そうじゃなくて、嬉しいんですよ。ただ、慣れていないんです。こんなときどうしたらいいのか……」
    「お茶しませんか?」
    「お茶……」
    「大丈夫ですよ。私、勉強したんです。和のものなら大丈夫ですよね。ここから歩いてちょっとのところに甘味処があるんです。緑茶やほうじ茶がメニューにあって、和菓子を食べられるんです。いかがですか?」
    「真湖さんはケーキじゃなくていいの? 若い人はカフェとかそういうところじゃないの?」
    「そんなに若くないですよ。昨日、年は伝えましたよね。この年になると『和』が落ち着くんです。行きましょう!」
    「連れていってください」
    「えっと、ここを真っ直ぐ行って、途中で左に曲がるとあるはずです」そう言いつつ、その辺りをうろうろ。スマホで地図を確認しながら、右手に古い日本家屋があり、よく見ると門の横に小さな看板があった。
    「あそこですか?」真湖さんは小走りに看板を確認し、
    「そうそう、ここ!」
    「来たことなかったの?」
    「今日図書館で調べて、史郎さんが食べられるものを探したんです。和菓子が良いと本に書いてあったので・・・・・・」
    「心遣いありがとう。楽しみだね」
    「はい! ここ和菓子屋さんが経営していてあんみつとかわらび餅もあるんですよ」
    「よく知ってるね」真湖さんは得意そうだ。
    「いらっしゃいませ~。どうぞ、お好きな席に座ってください」
    「庭が良くみえる縁側にしましょう!」
    「いいね」席に着くと西日が差し込んで、真湖さんがとてもキレイに見えた。
    「どうしたんですか?」
    「いや、キレイだなって思って」
    「庭? もうすぐ桜が満開ですね」
    「そうじゃなくて、真湖さんが……」
    「えっ、きゃぁ……」頬を赤らめる真湖さんがキレイだ。しばらく見てしまう。
    「何にしますか?」
    「水羊羹と玄米茶にしようかな」
    「私は豆大福と緑茶にします。すいませーん」昨日と同じように真湖さんがてきぱき注文してくれた。
    「今日は私が支払いますね」何から何まで真湖さんのペース。
    「すいません」
    「お仕事見つかるといいですね」
    「図書館の派遣会社は毎年入札があることは知っているよね」
    「うちの派遣会社負けましたから」
    「来年は僕が登録している派遣会社が入札で勝つよ」
    「史郎さん、派遣会社に登録してるんですか? Uキャリアですか?」
    「実はね、大学図書館の元職員で、派遣会社を作ってね。次年度には間に合わなかったけど。さっさと退職願いを出したら、すんなり受理されてしまってね。それにもがっくりだったよ。さ来年度はうちの『Librarian PRO』が勝つ」
    「『Librarian PRO』?」
    「そう、大学図書館司書専門の派遣会社」
    「そうだったんですか? その派遣会社はPROっていうくらいだから、登録するのは難しいですか? 私はダメですか?」
    「どうかな? 真湖さんは司書資格があるし、目録の経験もある……」
    「公共図書館でカウンターサービスの経験もあります! 子どもたちに読み聞かせもしたこともあります」
    「そう、知らなかった。代表の人に聞いてみるね。でも一年後だけどね」司書の経験は十分だ。自分は大学図書館しか経験がないから、読み聞かせはやったことがないな。
    「公共図書館の仕事はどうだった?」
    「司書資格がなくてもいいっていうことでやったんですが、三ヶ月しか持ちませんでした」
    「持たなかった?」
    「嫌な仕事が全部回ってくるんです」
    「嫌な仕事?」
    「よくホームレスの人が入ってくるんですけど、その人が触ったもの・使ったものを消毒しないといけなくて、ずっと消毒液を持ってついて回っていました。その人たちも利用する権利がありますから。失礼なことをしてしまいました」
    「出入り禁止にはできないの?」
    「それはできませんよ。本を読むのが好きな方もみえましたし、暑い時や寒い時、かわいそうじゃないですか。『図書館の自由に関する宣言』公平性の確保です。知る自由です」
    「それもそうだね」
    「それだけじゃなくて、職員の人にずっと怒られてばかりで、辛くなってしまったんです。私、そんなに強くないんです」
    「そうか、大変だったね」
    「はい、私……根性がないんで」
    「そんなことないよ。目録の仕事はよくやってくれました。助かりましたよ」
    「役に立ちましたか?」
    「すごく! 司書の資格も取ったのだから自信持ってね」
    「はい! 前の会社辞めてから司書の資格を取り始めて、向いてないのかも知れないって、心が折れそうでしたけど。史郎さんが教えてくれて、やっぱり司書になろうって思って勉強再開したんです」
    「真湖さんが司書の資格を取ろうと頑張っていると聞いた時、司書の仕事に未来はないと思ったけど、言えなかった。頑張っている人に無駄だとは言えなかった。でもね、『人生には何ひとつ無駄なものはない』これは遠藤周作の言葉だけど、本田宗一郎も同じことを言っています。だからその努力は無駄じゃないよ」
    「史郎さん、前から思っていましたが、先生みたいですね」そういうと真湖さんは笑った。そういうところが好きです。真湖さんのことを知るたびに少しずつ好きになっていくよ。
    「お待たせしました。水羊羹と玄米茶は……」僕ですと手を上げる。
    「福井県の水羊羹です。福井は一年中水羊羹を食べますので」
    「いただきます」
    「いただきます」
    「一年中水ようかんを食べるって、へぇ~知らなかった。真湖さん知ってた?」真湖さんは豆大福にかじりつきながら、首を横に振った。そのしぐさもかわいい。
    「おぃひぃです。豆大福」
    「水羊羹も美味しいよ……」思わず笑ってしまった。
    「福井県行ってみたいですね」
    「そうじゃなくて水羊羹が食べたいってことじゃないの?」
    「違いますよ! カニとかソースカツどんとか……」
    「食べることが好きなんだね。真湖さんは」
    「はい、確かにそうですね」屈託のない笑顔が素敵だなぁ。
    「福井は良いところだよね。石川も富山も北陸はいいね」
    「はい! 海の幸が美味しいですよね」
    「行ったことはあるの」
    「デパートの物産展に……」二人して笑った。楽しいな真湖さんとお話しているのは。
    「僕は行ったことあるよ」
    「何を食べたんですか?」真湖さんの目がキラキラ輝いている。
    「やっぱりそこが気になりますか(笑)ソースかつ丼は食べましたよ。あとおろしそば……油あげ」
    「油あげ?」
    「食パンぐらいの大きな厚い油あげに、大根おろしと醤油をかけて食べるんだ。油あげというより厚あげに近いかな。郷土料理だよ」
    「美味しそう! 『郷土料理』は私の大好きなワードです」
    「あとホルガライスって、オムライスの上にとんかつが乗っていてソースがかかって……」真湖さんは目を閉じて聞き入っている。
    「どうしたの?」
    「想像しているんです。いいですね~油あげとホルガライス。私の『死ぬまでに食べたいものリスト』に入れました」
    「『死ぬまでに食べたいものリスト』?」
    「はい、食べたことのないものをいつか食べるぞっていうリストです」
    「他にどんなものがあるの?」
    「青森の『いものおづけばっと』、宮城の『つゆはっと』、福島の『どぶ汁』、島根の『わにの刺身』……」聞いたことのない料理名はどれも想像がつかないものばかりだった。
    「島根にワニ?」
    「島根ではサメのことをワニと言うそうです。サメのお刺身は食べたことがないので……」食べ物のことを熱く語る真湖さんは本当に食いしん坊だと思った。
    「因幡の白うさぎの話にワニってでてきたよね。島根はサメが多いのかな?」
    「ですね。テレビやラジオで聞いた料理名を覚えているんです。忘れないようにリストも作ってあります」
    「すごいね。うらやましいな」
    「あっ、ごめんなさい。食べることは私のライフワークです、史郎さんのライフワークは何ですか?」
    「考古学が好きだって言ったよね。中でも縄文時代が好きなんだ。約一万年続いた縄文時代は、平和だったんじゃないかと思うんだ。毎日の生活は助けあわないといけないから。遺跡から農耕の形跡やクジラやマグロなどの魚の骨が見つかっているし、シカやイノシシ、クマも食べていたよ。今科学の力で、人工衛星や航空レーザ計測を使って新たに古墳や遺跡が発見されている。世界でも、アステカのピラミッドが新たに発見されたり、エジプトのピラミッドの内部に部屋が発見されたりね、これからも遺跡からいろんな発見があると思うよ。教科書が変わるかもしれない。縄文時代に限らずそういう考古学ニュースは楽しみなんだ。学生時代は発掘のアルバイトをしていたよ。縄文遺跡発掘の機会はなかったけどね」
    「社会の先生みたいですね」
    「じゃぁ、真湖さんは家庭科の先生だね」
    「食べ物専門ですね」この日も楽しく一時間ほど話して、真湖さんと話すことが楽しいとあらためて思った。美味しいものを食べる旅に行けるときが来たらいいなと思う。真湖さんが食べるのを見るだけで楽しい旅になると思うんだ。
    「お仕事ですけど、事務ならすぐに紹介できるって派遣会社に言われたんですけど、やっぱり司書の仕事がしたいと思って、求人が来たら紹介してくれるようお願いしました」
    「そう……求人があるといいね。この辺は大学がいくつかあるから。僕も探さないと」
    「一年後に復帰できるんですよね。それまでの間だけ働くんですか?」
    「そんな都合のいい仕事があるかわからないし、それに一年後に本当にLibrarian PROが落札できるかどうか。百%じゃないからね。今日、カレッジスタッフのみなさんに引継ぎをしたんだけど、かなり優秀な人たちだったから……」
    「そうですか。でも何とかなります。私だって何とかなってきましたから!」
    「そうだね。真湖さんを見習ってポジティブに考えることにするよ」
    「今日も楽しかったです。史郎さんとお話しするの楽しい。今日思い切ってきてよかった」
    「こちらこそ、会いに来てくれてありがとう。楽しかった」
    「お願いなんですけど、勉強しますから、今度料理を作らせてください。外食は不安でしょうから私作ります」
    「ありがとう。真湖さんはグルメだから料理も上手なんだね。それは楽しみだな。実は少し前から自炊を頑張っているんです。前は豆腐とうどんが主食で、他のものにはなかなか手が出せなくて……これではダメだと『安心ごはん』っていうレシピ本を買ったんです。そうしたら意外と大丈夫だったんです」
    「『安心ごはん』って良いタイトルですね」
    「本当に」
    「いつにしますか? 明日? 明後日?」
    「えっ? ちょっと待って、片づけないといけないから。今まで誰かが訪ねてくることはなかったから、散らかし放題なので。ごめん」
    真湖さんは積極的だな。たじろいでしまうよ。でも決して嫌ではないんだよ。
    「ちょっとからかってみたくなって……そんなに慌てなくても大丈夫ですよ。私も料理を勉強しないといけませんから」
    「楽しみにしています。よろしくお願いします。」真湖さんはそう言うと支払いをスマートに済ませてしまった。
    「ありがとう。ごちそうさまです」
    「では、また」
     
    仕事を探さないといけないな。日本図書館協会の求人情報を探してみるが見つからず、求人サイトにいくつか登録してみた「図書館・司書」というキーワードで……。新年度だからかこれといった求人はない。「博物館・学芸員」というキーワードでも見つからない。ここから通えそうなところで……。ハローワークに行こうかな?
    真湖さんが料理を作りに来てくれるから、片づけないと。まず冷蔵庫の賞味期限が切れているものや切れそうなものを廃棄して、調味料とか揃えておかないといけないな。まともな食器がない。買いに行かないと。午後からは買い物だ。午前中に洗濯をし、部屋を片付けはじめたものの積読の山を見はじめると、なかなか進まない。こんなことをしていたらいつまで経っても終わらないぞ。棚に本を並べる。棚がいっぱいだから処分しないといけないな。気がつくと分類順・著者順に並べてしまう。司書の習性か? もう司書じゃないのにと苦笑する。古い本で絶対に読まないだろうと思われる本をまとめて、ひもをかける。ゴミの日はいつだ? とりあえず本の縛りをベッドの下に入れる。布団もそろそろ暑くなってきたから変えないと。低脂肪の牛乳を飲んでしばし休憩。ふと、最近身体の調子が良いことに気づく、でも来週病院に行かないといけないな。あっ、保険証を国民健康保険に切り替えないと。役所も行かないと。やることは結構あるな。
    ピコン!
    ――おはようございます。ご報告があります。図書館の求人を検索したら、私立高校の学校図書館のお仕事があり、学校図書館は初めてですが応募してみようと思っています。採用されるといいな。
    ――おはようございます。真湖さんなら大丈夫ですよ。僕もがんばって探さないと! 離職票が届いたら、ハローワークに行ってきます。それまで片付けをのんびりやっています。
    ――こちらは史郎さんに召し上がっていただく料理を勉強中です。
    ――期待しております。よろしくお願いします。楽しみです。
    ――今日は母と買い物に行ってきます!
    真湖さんは次のステップに進めるといいな。僕も頑張ろう。まず、この部屋を片づけないと! 真湖さんが来てくれるという目標があるから、作業はサクサク進む。机の中から石がいろいろ出てきた。黒曜石を加工した石器、これは祖父の蕎麦畑や星糞峠で拾ったもの。僕が考古学に興味を持ったきっかけになった石。旧石器時代か縄文時代か。誰かにもらった鳩サブレの缶に入れてある。これは大事なので捨てられない。坂角のゆかりの黒い缶には、新潟や富山のヒスイ海岸で拾ったヒスイの石。キレイな緑色の石は結局見つけられなかったから、本当にヒスイかどうかはわからない。でもヒスイかも知れないと思うとこれも捨てられない。ヒスイが日本のあちこちで発見されていることから、交易が盛んだったと言われている。これが僕の卒論のテーマ。カメラと一緒で時々取り出しては、旧石器や縄文時代に心が飛んで癒される。またヒスイ海岸に行きたいなぁ。真湖さんは興味がないかな? グルメ情報があったら付き合ってくれるかも知れないな、でもそれは失礼か。新潟から福井まで日本海側をのんびりといつか旅ができたらいいな。
    メールを見てみると、百件近く新着メールが届いていた。図書館の求人がこんなにあるのか? 一件一件開いてみると、「図書館・司書」ではなく、地名の「図書館通り」のお仕事、美容師や保育士など……司書ではない仕事……。地域を登録していなかったのか、遠くの県の情報、仕事も司書の専門職はなかった。司書とあっても未経験可、司書資格不要、賃金は最低賃金。百件のメールをチェックするのは大変だ。見当違いの情報を送ってきたサイトは、受信拒否。それをやっていたら、昼過ぎになってしまった。お昼ご飯は何を食べよう。規則正しくしないとね。冷凍ご飯でリゾットを作った。意外と美味しい、自画自賛。仕事が見つかるといいな。部屋を片付け……半分ぐらいは見えないところに押し込んでようやくすっきりした。いらないものは捨てないといけないな。そして必要なものを揃えないと。明日買い物に行こう。今日は疲れたな。録画しておいた『あの本、読みました』を見る。作家・出版社の編集者・書店員などと、本が好きな女優さんとのブックトークの番組。今回のテーマは歴史小説。人気の歴史小説作家、司馬遼太郎も藤沢周平も葉室麟も亡くなってしまったけれど、今、若い人がよく読んでいるそうだ。全国の城にイケメンを集めた「武将隊」や「鉄砲隊」などのイケメングループが観光に貢献しているらしく、またはゲームの『戦国BASARA』の影響? 幕末はドラマや映画の影響か? 新選組の人気は、昔も今も女性に人気だとか。滅びの美学なのか? 土方歳三がイケメンだからか? 個人的には司馬遼太郎の『燃えよ剣』より、浅田次郎の『壬生義士伝』が良かったな。 そういえば最近斎藤一の晩年の写真が発見されたけど、かなりのイケメンだった。きっかけはなんであれ本に興味を持ってもらえることは良いと思う。縄文時代以前の歴史が好きだけど資料が残っていないから、物語は難しいかな? 
    ピコン!
    ――お片付けの進捗状況はいかがですか? 
    ――なんとか。足りないものもあるので明日買ってきます。区役所や銀行にもいかないといけないね。ニート生活もなかなか忙しいね。
    ――お買い物一緒に行ってはいけませんか? 迎えに行きます!
    ――いいけど。迎えに来てくれるの? 僕が行こうか?
    ――行きます! 史郎さんのお部屋に合うものを探しますから。住所を教えてください
     真湖さんに住所をLINEで送って、もう一度部屋を見渡し、片づけ作業を再開した。明日買い物に行くなら、銀行でお金を下ろさないと……。
     
    翌朝、真湖さんからのLINEで目が覚めた。
    ピコン!
    ――おはようございます。今から出ます。三〇分ぐらいで到着します。
    ――はい。楽しみにしています。気をつけてね
    えぇっ! まだ支度していない! 慌てて顔を洗って着替え、食パン一枚と低脂肪乳で慌てて朝食を済ます。あと十五分! トイレに行って歯を磨いて、よし間に合った~!
    あれ? 昨日待ち合わせの時間決めたんだっけ?
    ピコン!
    ――たぶん近くまで来ました。今、セブンイレブン川田町店です。
    ――すぐ近くです。今から行きます。
    ――待っています!
     慌てて戸締りをして、コンビニに向かった。
    「史郎さん!」声の方を振り返ると、駐車場の白い車の中に真湖さんが。
    「真湖さん、車で来てくれたの? えっ? 真湖さん車持ってたの?」
    「乗ってください」
    「かっこいい車だね。なんていうクルマ」
    「兄の車なの。会社に行くときは使ってないから借りたの。スズキのスイフト」
    シートの間のシフトレバーが目に入った。
    「えっ! マニュアルなの? 真湖さんすごいね」
    「うちはずっとマニュアルの車しかないものだから。この辺にコインパーキングはありますか?」
    「この隣りにあるよ」
    「あ、そこね」
    真湖さんはゆっくり発進し、コインパーキングに車を入れ、
    「まず史郎さんのお部屋に連れてってください」
    「あっ、はい。どうぞこっちです」築二十五年の古いアパートに案内し、
    「お茶でも入れるね」電気ケトルのわく子さんでお湯を沸かし、
    「私やります」
    真湖さんは僕の小さな食器棚をチェックして、
    「お茶碗・お皿すべて一つずつしかないんですね」
    湯のみとマグカップにお茶を入れると、にっこり笑って
    「女性の影なし! よかった!」と言って笑った。
    「大学の時は友だちが来ることあったけど、最近は誰も来ていません。自慢じゃないけど……」
    「足りないものをチェックしておかないと」とメモをしていた。冷蔵庫もチェックして、またメモを取る真湖さん。
    「本がたくさんあるんですね」
    「昨日だいぶ片付けたんだけどね」
    そう言うと真湖さんは本棚をチェックして、
    「考古学や歴史の本が多いですね。好きなんですね。読んでみたいな。貸してください」
    「何でも持っていって」
    「おすすめはありますか?」真湖さんの視線はベッドの下の縛ってある本に……
    「それは古いものだから捨てようと思って」
    「この縛ったのください」
    「いいけど、古いよ」
    「読んだら処分します。車だから積んでいきます」
    「じゃぁ、どうぞ」
    一つ持って入口に置いた。
    「史郎さんのお部屋、想像通り。勉強になる本ばかり。真面目なんだなって改めて思いました」
    「つまんないよね」
    「そんなことないです。必要なものはチェックしました」
    「今日はどこへ行けばいいかな?」
    「ホームセンターへ行けばだいたい揃うと思います」
    「食料品も買わないと」
    「あっ『安心ごはん』! この本を参考にしてるんですね」
    「難しいのは作れないけどね」
    「がんばります!」
    「よろしくお願いします。そろそろ出ようか?」
    「はい」
    真湖さんの運転で近くのホームセンターへ行き、お茶碗や湯飲みなど食器を二人分揃えた。
    「こうしていると新婚さんみたいだね」
    さっきまでマニュアルの車を颯爽と運転していた真湖さんは、顔を赤らめ僕の肘のあたりを掴んだ。てきぱきする真湖さん、積極的な真湖さん、食いしん坊の真湖さん、かっこいい真湖さん、そしてかわいい真湖さん。いろんな面があってとても魅力的な女性。君を知っていくにつれ、どんどん好きになっていくよ。
    「スーパーに行きましょう」
    「うん。何を作ってくれるの」
    「『安心ごはん』を持ってきたの! ここから選びましょう!」てきぱき真湖さんだ。
    「じゃぁ、作戦会議だね」
    車の中で『安心ごはん』を見ながら、
    「中華料理も食べていいのか。しばらく食べてないな」
    「中華と言えば炒め物が多いけど、蒸し料理もありますよ」
    「良いですね。できますか?」
    「任せてくださ~い。嫌いなものはありますか?」
    「ありません。何でも食べたいところですが……あっ、せいろとか中華鍋を買わないといけない?」
    「なくても大丈夫です。道具をいっぱい揃えるとキッチンが大変になりますから。史郎さんのキッチンに置くところはないですよ」
    「そうだね。必要なものは言ってね。楽しみだな。では、スーパーへ連れてってください。すみません」
    「いいんですよ。私が好きでやっていることなので。史郎さんは車の免許は持ってますか?」
    「持っているんですけど……。ほとんど運転していなくて、恥ずかしながらペーパードライバー。大学に入って最初の夏休みに諏訪で取って、家の車で運転したんですが、東京と田舎は違うから……車の量は多いし、車線変更なんてしたことないですよ。そんな広い道はなかったから。それにマニュアル車は自動車学校で免許を取ったとき以来で……」
    「私は高校卒業の頃に免許を取ってから、ずっとマニュアルの車を運転しています。車で結構遠くまで行くんですよ。これからドライブデートをしましょう。運転するの好きなんです」
    「すいません……」
    「謝らないでください。私が好きでやっているんですから。はい、到着しました」
    ショッピングモールではなくてスーパーマーケット。真湖さんはカートに必要なものを次々と入れて行く。
    「油はありますか?」
    「えごま油と亜麻仁油とオリーブ油があります。真湖さん、食べたいものがあったら遠慮なく買ってね」
    「はい」
    鶏のひき肉、豆腐、中華だし、卵……真湖さんは迷うことなくどんどんカゴに入れる。僕はカートを押しながらそのあとをついて行く。低脂肪の牛乳を入れて、振り返った真湖さんが
    「アレありますか?」と小声で言った。アレ? 何のことかわからなかった僕を、その商品が置いてある場所に案内した。これか! ナプキンだった。
    「いつもどれを使っていますか?」
    「これです」
    「買っていきましょうか」カゴに一つ入れた。なんて自然なんだ。僕はいつもおどおどしていたというのに……
    「真湖さん、前から思っていたんですが、この羽根つきって何ですか?」
    「くすっ、あとから説明しますね。もう一軒行ってもいいですか?」
    「ここにはないもの?」
    「ないものです」
    レジを済ませて、エコバックに入れる。僕のエコバックは小さくて入らなかったら、真湖さんが持っていた大きめのエコバックに入れた。アレも……。
    車に戻って、次のお店へ。業務スーパー? えっ? 何買うの?
    「すぐ戻りますから、待っていてください」
    「一般の人も入れるの?」
    真湖さんは小走りにお店に入って行ったと思ったらすぐに出てきた。手には紙パックを一つ持っていた。それをすぐしまうと
    「エコバック忘れちゃった」
    「牛乳?」さっき買ったよね?
    「うふっ、いいもの」なんだろう。真湖さんはいたずらっぽく笑った。
    「さぁ、帰りますね」
    「お願いします」
    「お昼ご飯は、そうめんにしようと思います。いいですか?」
    「はい、今日はちょっと暑いくらいだから、いいですねぇ。楽しみです」病気になってから食べることは、生きるためとお腹を壊さないように気を使うばかりで、楽しみになったのは何年ぶりだろう。
    アパートの近くのコインパーキングに車を停めると
    「荷物は僕が持つから、開けてくれる?」土偶のキーホルダー付きのカギを渡した。
    「土偶ですよね。かわいい♡」
    「かわいい? そう思ってくれる? 嬉しいなぁ。これはね遮光器土偶。青森県亀ヶ岡遺跡出土したもので、教科書に載っているくらいの有名なものです」
    「片足がないんですね」
    「見つかった土偶の多くが足や腕など体の一部が欠損している状態で発見されているんだ。儀式なんかで投げたりしたのかな。想像だけど」
    「また史郎先生」
    「ごめんね。知っていることは話したくなっちゃうね。つまんないよね」
    「そんなことないです。知らないことを教えてもらえるのは楽しいですよ」
    「あっ、こんにちは」下の階に住んでいる大家の住吉さんというおばあさんだ。
    両手を胸のところに上げている。このポーズは……
    「真湖さん、糸を通してあげてくれる?」
    「はい、どうぞ」
    「ありがとうね。大石さんのお嫁さんかぇ?」
    「そうなるといいんですけどね」
    「下の階に住んでみえる住吉さん。目がお悪いから時々針に糸を通してあげているんだ。僕と、隣のブラジル人のベルナルドさんとかアパートに住んでいる人で。あのポーズは糸を通してほしいんだなって。他にも蛍光灯が切れた時とかね、みんなで助けてるよ。お互い様です」
    「ご近所付き合いですね」
    ポストに大学から書類が届いていた。離職票だ。一週間はかかると思ったのに早いな。
    「お腹空いてきたね」規則正しく食べること、腸に優しいものを食べることだけ考えていると、義務のようなものだから、空腹感は久しぶりだ。
    「一緒にやりましょうか?」
    「キッチンが狭いから任せてください」ふんふん楽しそうに手を動かしたり、レンジを使ったり、楽しそうに支度をしてくれる真湖さんに心がときめく。
    「すいません」お昼はそうめん。焼きナスが乗っている。
    「皮は食物繊維が多いから、全部むいてあります」
    「ありがとう。美味しいです。真湖さんありがとう……美味しい」真湖さんの気遣いに泣けてきてしまった。
    「そうめんで泣かないでください~。こんなの料理じゃないですよ! でも、うん、美味しいですね~。野菜も食べないといけませんからね。うちでは夏によくそうめんを食べるんですが、焼きナスが乗っていることもあります」
    「うちはそうめんだけだったな。あっ片付けはやります」
    「そろそろ冷えたかな?」そう言うとさっき業務スーパーで買った謎のパックを取り出した。
    「どうぞ」
    水ようかん? パックに入ってるの?
    「へぇ~こんなのあるのなんて知らなかった。美味しそうだね」
    「安心のデザートです! この前、史郎さんが福井の水ようかん食べたでしょ、いいなぁと思ってたんですよ! いただきます!」
    「いただきます」ふたりで顔を見合わせ、
    「おいしい~!」しかもお腹に優しい! 最高じゃないか!
    「いいねぇこれ。緑茶に合うね」
    「うふっ、でしょう」得意そうな真湖さん。かわいいなぁそういうところ。お茶を飲みながら、就活のこと、食べ物のこと、真湖さんが研究してくれた潰瘍性大腸炎のレシピのこと、そしてお互いのことを話した。
    「そうそうさっきの質問の答えなんですけど……」
    「? なんだっけ?」
    「羽つきの」真湖さんはバッグの中から小さなポーチを出して、その中からナプキンを取り出した。
    「あぁぁ」
    袋を開けると、ナプキンのサイドにヒラヒラしたものが付いている。
    「この羽根、ショーツの股ところをくるむようにして装着するんです」
    「へぇ~そうするとズレないんだね」
    「漏れを防ぐんです」
    「考えられているんだね。これはずいぶん薄いね」
    「生理は日によって軽いから重いまで量が違いますから、使い分けるんです。最近は薄くても吸収がいいものもあるんですよ。『生理用品の社会史』って田中ひかるさんが書かれた本があるんですが、その中に生理のことやナプキンの開発•普及のことが載っています。読んでみますか?」
    「持っているなら貸してください。僕らの年代は性教育ってほとんど受けていなくて、女性の身体のことはよくわからない」
    「今度お持ちしますね。ナプキンって開発されてからまだ五十年ぐらいなんですよ」
    「それまではどうしてたの?」
    「そういうことが書いてあります。ぜひ男性に読んでいただきたい一冊です」
    そのあと祖父から譲られたカメラを見せて、これを触っていると癒されるという話。話は尽きなくて、気がついたら夕方になってしまった。
    「そろそろ夕食の支度をしましょうか? 今日は中華で~す」
    「はい、よろしくお願いします。お手伝いすることがあれば何でも言ってね」
    トン、トン、トン、トン、トン、トン、包丁を使うリズムが心地いい。幸せだなぁ。僕のためにごはんを作ってくれるなんて信じられない。仕事のことや病気のことを忘れてしまうよ。真湖さんが作ってくれたのは、鶏のひき肉を使った豆腐料理、刺激のある香辛料は入っていない。野菜は極限まで細かくしてくれている。優しい味、安心できるおかず。中華料理は本当に久しぶり。中華スープも美味しい。真湖さん、ありがとう。
    「真湖さん、今度フィルムカメラで撮影に行きませんか?」
    「いいですね~。どこへ行きますか?」
    「小金井にある東京たてもの園はどう? 行ったことある?」
    「確か中学のとき、遠足で行きました」
    「その頃より建物が増えていると思うし、展示会も定期的に開催されていて僕はよく行くんです。東京には残っていないような建物ですが、田舎の諏訪にはまだ現役であるんです。あんな感じの建物。だから懐かしくなるんです。ここにあるカメラどれでも使ってもいいよ」
    「いいんですか? 写真撮るときにみなさんピントを合わせたり、ちょっといじたりして撮影してみえたから、いいなぁと思っていました」
    「二眼レフ撮ってみる?」
    「初心者なので無理です。ちょこっといじるくらいのカメラがいいです」
    「KONICA C35E&Lはどうかな? 目測で距離を合わせるだけです」 
    「そのくらいなら大丈夫かな。フィルムを買いに行かないと!」
    「明日、市役所とハローワークに行く予定なので、買ってきます。二眼レフの現像もお願いしたいから」
    「はい、お願いします。あっ、私も行っちゃおうかな?」
    「明日もデートする?」
    「うん! うん!」真湖さん、嬉しそうだ。僕も嬉しいよ。無職も良いな。
    「後片付けはやっておきます。遅くなっちゃうから……」
    「史郎さん」真湖さんが僕の胸に飛び込んできた。
    「真湖さん……」トクン、トクン、心臓が高鳴る。そのまま抱きしめた。真湖さん、いい香り。
    「提案があるんですけど……」
    「はい?」
    「敬語止めませんか?」
    「は、い」真湖さんにキスをした。
    真湖さんが驚いたように目を見開いた……
    「ごめん、嫌だった?」
    「違うの、違うの史郎さんが積極的になってくれて嬉しい」今度は真湖さんからのキス。さっきより長めのキス。真湖さんをぎゅっと抱きしめた。
    「今日はありがとう」もう一度。
    駐車場まで真湖さんを送り、駐車料金を支払った。部屋に戻ったら玄関に本の山。あっ、本を持っていってもらうの忘れた。また来てくれると思うからその時に渡そう。LINEを送ろうと思ったけど、まだ運転中だろうからやめておいた。今日は楽しかったな。美味しいものをいっぱい食べることができたし、何より真湖さんのいろんな面を知って、真湖さんをより近くに感じられた。真湖さんの香り、真湖さんの温かみを感じることができて、嬉しい一日となった。明日からも良いことが僕らにありますように……。もう家に着いたかな? LINEで感謝の気持ちを伝えよう……
    ピコン!
    ――到着しました。今日はありがとうございました。史郎さんとの距離が縮まったと嬉しく思っています。幸せな一日でした。
    ――今日は本当にありがとう。僕にとってもこの上なく幸せを感じています。料理も美味しかった。おかげで体調もいいよ。感謝! 感謝! 感謝! これからもよろしく! 今日は疲れたでしょう。おやすみなさい。
    ――おやすみなさい。
     
    ピコン!
    ――おはようございます。昨日のことは夢のようでした。史郎さんの匂い、なんだか安心できて癒されました。私が積極的だから、史郎さんに嫌われないかと心配でしたが、受け入れてくれてよかったと思っています。
    ――おはよう! こちらこそありがとう。真湖さんにしてもらうことばかりで、僕が何かできないかと思っています。今日も良い一日になりますように! 
     朝ごはんは食パンと低脂肪牛乳、食器棚に赤と紺のストライプのお茶碗、ペアカップ、湯飲み、お皿、お箸何でも二つずつ。本当に新婚のようだなと思い顔を赤らめる。今日は市役所に行って健康保険証の手続きをしないといけないな。いつ必要になるかわからないから。離職票を持っていけばいいのか。学校の保険証は返却しないと。支度をしてアパートを出た。ベルナルドさんがサッカーボールを抱えている。
    「おはようございます。今からサッカー?」
    「おはようございます! 今、やってきました。暑いですね。桜キレイでした」
    サッカーに一回誘われたけど僕の運動神経のなさに呆れたのか、二回目の誘いはなかった。
    「コンビニの夜勤大変だね」
    「慣れました。今からお仕事ですか?」
    「辞めたんだ。これから市役所」
    「先生辞めちゃったんですか。そうですか……いってらっしゃい。お気をつけて」大学で働いているって言ったから、先生と思ったんだね。
    「日本語ずいぶん上手くなったね」
    「ありがとうございます。難しいけど住吉さんが教えてくだちゃるね」
    「そう。これからもよろしくね」住吉さんにとっても良いことだ。そのせいか今の若者よりずっと丁寧な言葉遣いだ。
    今日はいい天気だ。市役所まで歩くと三十分ぐらいかかるけど、ゆっくり歩いて行こう。桜がまだ咲いているな。カメラを持ってくればよかった。市役所の国民健康保険課で手続きをする。十分もかからないうちに国民健康保険証が発行された。国民年金の切り替えも同時に完了した。お役所仕事は遅いと思っていたけれど、早くて驚いた。保険証が即時に発行されたことはありがたい。今申請している「特定疾患申請書」はどうなるのだろう? 確か保険証の番号を記載したはずだ。福祉課に問い合わせてみると、再申請が必要とのこと。書類を記載して提出する。こちらの手続きは一ヶ月ほどかかるとか。潰瘍性大腸炎の予防薬として免疫調節薬をすることになっているが、保険がきかないため特定疾患の認可が下りるのを待っている状態なのに。さっきはすぐに保険証を発行してくれたのに、特定疾患受給者証は一ヶ月か。病院でも準備を進めてもらっているので、一度行かないと。夕方寄ってみるか。
    ブブッ、ブブッ メールだ。真湖さんならLINEだけど、誰?
    「国分寺大学 サービス課 河原です。至急お聞きしたいことがあります。連絡いただけますか?」サービス課なら、濱島さんも藤岡さんも学内にいるはずなのに……
    「大石です。何かありましたか?」
    「社会学部の名誉教授の今野先生がお見えになっていて、去年見せてもらった本をみたいとのことで、貸出記録を調べたのですがなく……男性の司書が対応したということだったので。藤岡さんに問い合わせたのですがわからないと言われて……」今野先生……山本作兵衛だ!
    「準貴重書に山本作兵衛の『筑豊炭坑絵巻』をはじめ、炭鉱の絵を描いた巻物や本がいくつかあります。山本作兵衛で検索してください。今野先生にお見せしたことがありますので、それだと思います」
    「ありがとうございます。作者もタイトルも覚えてみえなくて……すいません」
    去年の春「山本勘兵衛」の本を探しているとリファレンスがあり、検索してもヒットしなかったのでよく聞いてみたところ、『炭鉱の絵』というキーワードが見つかり、「山本作兵衛」にたどり着いたことを思い出した。今回も先生のお話にじっくり耳を傾ければたどり着けたと思う。濱島さんや藤岡さんが学部生だったころの僕の話に耳を傾けて、資料を探してくれたことを思い出す。サービス課の係長だった久保田さんが「探している利用者が求めるキーワードは利用者が持っている。それをいかに聞き出すかがリファレンスの一歩」だとよく言っていた。学生も先生も結構うろ覚えでリファレンスカウンターに来ることが多いから、カレッジスタッフのみなさん、頑張ってください。『Librarian PRO』のスタッフならば、こんなことはたやすいはずだ。
    ブブッ、ブブッ またメール。サービス課の河原さんだった。
    「ありがとうございました。山本作兵衛でした。今、貴重書室で見ていただいています」よかった。今野先生が山本作兵衛の巻物に目を輝かせて見ていたことを思い出す。きっと今もそうしてご覧になっていると思う。ユネスコ記憶遺産(世界の記憶)の登録を受けてから、資料が発行されて貸出できる資料が増えたけど、紹介してくれただろうか。
     
    【ハローワーク】
     さぁ、今度はハローワーク。隣駅の前にあるらしい。受付に離職票を出して、必要事項を用紙に書いて提出。名前を呼ばれてカウンターに行くと、若い男性が
    「異動を拒否したから退職ということですね」
    「職場がアウトソーシングで派遣会社に仕事を任せることになって、学内の他の部署に行くように言われたのですが、私はこれまで図書館司書の仕事をやってきました。司書の仕事を続けたいんです」
    「大学卒業後は、そのまま母校の図書館に勤務されていたのですね」
    「そうです。十五年です。派遣スタッフがどんどん増えて、体調も悪くなってしまいました」
    「体調が悪くなって就業出来なくなった?」
    「いえ、難病になってからも働いていました」
    「難病? 障がい者手帳はお持ちですか?」
    「持っていません」
    「そうですか、それでも難病ということでしたら、五階の障がい者の窓口へ行ってください」
    「障がい者……」
    五階のフロアに行くと、車イスの方や、目の不自由な方、耳の不自由な方などが待合室に座っていた。中には座っていられなくて、ブツブツつぶやきながら歩き回っている人もいれば、うつむいて固まっているような人もいる。しばらくしてから名前を呼ばれ、カウンターに座ると
    「担当の芝田です。難病ということですが、がんばりましょうね。まだお若いからお仕事はすぐ見つかりますよ」
    「はい、よろしくお願いします」
    「えっと、大学卒業後は母校の図書館で勤務されて十五年ですね。図書館以外のお仕事はやったことはありますか? アルバイトでもいいですよ」
    「学生時代に発掘のアルバイトをしたことがあります」
    「司書に発掘ですか。探してみますね」
    「お住まいの近くですと、図書館司書のお仕事は九件ありますね。リストをお出ししますのでお待ちください。発掘の仕事はないですね~。はい、こちらから気になる仕事があったら声をかけてください。紹介状を出しますので……」
    図書館司書のリストは、公共図書館六件、大学図書館三件だった。どれも派遣会社、最低賃金。
    「ちょっと考えます」
    「ゆっくり考えてください。雇用保険の手当の支給は自己都合による退職ですので、一ケ月の給付制限があります。二週間後が受給資格決定日となり、二十二日に雇用保険の説明会がありますので、こちらの受給資格のしおり、筆記用具、マイナンバーカード、写真をご持参ください。もちろんそれまでにお仕事を決めていただいてもかまいません。その際は就業前日にこちらにお越しください」
    「はい」
    「何か質問はありますか? いつでもお問い合わせくださいね。それから病気のことをオーブンにしますか?」
    「月に一度病院へ通院しているので、職場の理解は必要だと思います」
    「オープンにすると仕事はなかなか見つからないかも知れません。でもその必要があるなら、オープンでいきましょう。途中でクローズにすることも可能です。障がい者ではないんですよね」
    「この程度では障がい者の認定は取れません」
    「障がい者枠なら、政府から企業に障がい者を雇用することを推奨されていますから、見つかる可能性が高いんですけどね」
    「これ以上悪くならないよう、予防薬の免疫調整剤を始める予定です」
    「お大事にしてください。いい仕事があるといいですね。ハローワークの大石さんの担当はこちらですので、認定日にはこちらの窓口へ直接お越しください」
    「わかりました」障がい者の人を差別するわけではない。蔑むわけでもない。ただ健常者だと思っていたのにその枠ではないと言われたことがショックだった。でも事実だから仕方がない。『Librarian PRO』にかけるしかないのか。一年間どうしようか。司書の求人は未経験可・司書資格がなくても可、誰にでもできる仕事の求人しかない。仕事を見つけるのは難しいかも知れないな。ため息をついていると、
    ピコン!
    ――コンドーカメラさんに到着しました。史郎さん今どこ?
    ――今、ハローワークを出たところ。ちょっと落ち込んでいます。
    ――何かあったの?
    ――難病があると障がい者の窓口対応になるそうです。仕方がないね。就職は難しいかもわかりません。『Librarian PRO』にかけるしかないかも。
    ――コンドーカメラさんでお待ちしていますね。
    ――今から向かいます。
    カバンの中に仕事の最後の日に撮影したブローニーフィルムが入っていた。
     
    「こんにちは」
    「史郎さん!」
    真湖さんが駆け寄ってきた。
    「大丈夫?」
    「大丈夫だよ。ちょっとショックだっただけ」
    「えっ? ふたりそういうこと?」
    「そういうことです」同時に言って笑った。
    「あっそう。いいよね。神代植物公園の写真も良かったし、趣味も合うしね。お似合いだよ」
    「ありがとうございます。まだ始まったばかりです。ブローニーの現像と証明写真をお願いできませんか?」
    「ブローニー、一週間かかるけどいい?」
    「はい、お願いします」
    「証明写真はこちらで撮ります。店の奥の棚の前にロールカーテンを下ろして、椅子を持ってきてくれた。大型のデジタルカメラで
    「はい、写します……ちょっと襟が乱れてますね。髪の毛も寝ぐせ? 直さないと……」真湖さんが小型のスプレーと櫛で頭髪の乱れとシャツの襟も直してくれた。
    「ありがとう。これでいいですか」
    「さっきよりずっと良くなりました。愛の力だね~」そう言いながら、何枚か撮影してくれた。
    「履歴書用?」
    「まず、ハローワークの書類に貼るのが一枚と、履歴書用も要ります」
    写真のサイズ伝えたら、すぐプリントしてくれて、切ってくれた。かすかに笑みを浮かべている真面目そうな青年に見える。もうおじさんだけど……。真湖さんが
    「一枚ください」と。
    「証明写真を?」仕方がないので封筒の中から一枚渡すと、パスケースの中に入れていた。なんだか照れてしまう。
    「いいね。仲良くて。おじさん、うらやましいな」
    そう言われると嬉しくなってしまう。
    「これからどうするの?」
    「今から病院に行かないといけなくて……」
    「えっ? 史郎さん、体調悪いの? 昨日のごはんがダメだった?」真湖さんが心配そうに言うので
    「違うよ。おかげさまで体調は良好。保険証が変わって、特定疾患の再申請をしたんだ。一ヵ月かかることになってね。再発しないように免疫調整剤を始めることになっていたけど。認可が下りるのが一ヵ月先になるから、病院に言っておかないと。薬が高いからね」
    「よかった。病院一緒に行きます!」
    「はい、行ってらっしゃい。また撮影会に参加してね」
    「はい」同時に言って笑った。
    「本当に仲良しだね」
    「ではまた」店を出ると病院に向かった。
     
    「ここがお世話になっている『大隈内科クリニック』」
    受付を済ませ、名前を呼ばれる診察室に入ると、
    「大石さん、何かありました?」
    「体調はすこぶる良いんですが、仕事を辞めて保険証が変わったんです。今特定疾患の申請をしているんですが、保険証が変わったことで再申請になってしまって、交付まで一ヵ月かかることになりまして。免疫調整剤の開始を遅くしたいとお願いにきました」
    「大石さん、免疫調整剤は早めにした方がいいと思います。病院の支払いは特定疾患受給者証が発行されるまで待ちますから、来週からでも始めましょう」
    「わかりました」
    「来週から注射を一週間おきに二回、二週開けて一回、そのあとは四週間おきになります」
    「わかりました」
    「薬が合わないこともあるので。大石さんに合う薬を探さないといけないかもわかりません」
    真湖さんは待合室の片隅で不安そうにしていたので、子どもにするように頭をポンポンして
    「大丈夫だよ。免疫調整剤を来週から始めることになったよ。高価な薬だから支払いは待ってくれるって」
    「よかった」安堵の表情を浮かべた。来週の予約をして病院を出た。これから毎週水曜日が病院通いだ。薬が合うといいな。
    「お腹空かない? お昼ごはん食べようか?」
    「うん!」真湖さんは明るくなった。いつもの元気な真湖さんだ。
    「さぁ、どうしようかな?」
    「大学の近くのうどん屋さんはどう?」
    「行きつけの?」
    輪島庵を案内する。
    「こんにちは!」
    「へい、らっしゃい!」
    「おや、めずらしいですね」
    「彼女ができました!」
    「そりゃめでたい。何にしましょうか?」
    「ぼくはいつもの。真湖さんはどうする? ランチもおすすめだよ」
    「今日のランチは、鶏の山賊焼きです」
    「山賊焼き! それにします」
    「やわうどんとランチ!」
    厨房からご主人が顔を出したので、会釈した。
    「史郎さんのお知り合いの方に紹介してもらえて嬉しい!」
    「僕も紹介出来て嬉しいよ。学生時代からよく来ていたんだけど、病気になってからは特にね。柔らかめのうどんを作ってくれるから。お出汁も美味しくて、優しい味なんだ」
    「優しい味大事ですね」くんくん! 真湖さんが鼻を厨房の方に向けた。
    「お肉を焼く匂いですね。初めての山賊焼き、楽しみ!」
    「おじさんとおばさんはずっと変わらないんだ。学生時代から。おいくつなのかわからないよ」
    「いいですねぇ。おじいさんとおばあさん。あんな風になりたい」
    「一気におじいさんとおばあさんかぁ。それもいいけど、真湖さんはまだまだ若いんだから」
    「史郎さんだって。まだまだこれからです」
    「これからか……」
    「ランチお待たせしました。お嬢さんね」真湖さんの前に置かれた山賊焼きは、美味しそうな匂いがした。
    「冷めちゃうから食べて」真湖さんは鶏肉を一つ口に入れると、
    「美味しい~史郎さんにも食べさせてあげたい」
    「ありがとう。実はね食べたことあるんだ。山賊焼き。だから味は知っている」
    「えっ?」
    「信州の郷土料理。僕も信州の出だから。食べたことはある」
    「知らなかった山賊焼き。リストに入れる前に食べてしまった……」
    「食べるリストに入れる前に食べちゃいけなかったの?」
    「そんなことはないんですけどね。今まで食べたくて楽しみにしていて、やっと食べられたっていう喜びがあったんです。その過程をすっ飛ばしたから。でも美味しいからいいや」真湖さんは屈託のない顔で山賊焼きとご飯を交互に口に運んでいる。本当に美味しそう。その顔を見ているだけで幸せだよ。
    「小鉢のおからも美味しいです。漬物も」
    「その白菜漬けも煮物も手づくりだよ」
    「はいお待たせしました」
    「いつもすいません」
    「なんも、なんも。来てくれるだけでええんよ。遠慮せんと、さぁ」
    「いただきます」いつものお出汁が美味しい。柔らかめのうどんも。これも安心できる味だ。
    「お嬢さんはもういいの? おかわりできますよ」
    「ありがとうございます。お腹いっぱいです。山賊焼きもおからもお漬物も美味しかったです。ごちそうさまでした」
    「きれいに食べてくれたねぇ。ありがとうね」僕が食べている間、真湖さんはメニューを見ていた。
    「注文するの?」
    「そうじゃなくて、今度来た時に何を食べようかって……」
    「らっしゃい!」もうすぐ二時だから閉店だけど……
    「まだいいですか? ランチありますか? あれ? 大石君……」
    「濱島さん、お疲れ様です」
    「えっと彼女、会ったことあるわ。どこで?」
    「目録の派遣スタッフの三宅さんです」
    「あぁ、そうそう。目録にみえた美人さんだ。へぇ~大石君に彼女がいたとは……。お知らせしないと!」
    「ど、どこへですか?」
    「何をうろたえているのだ。冗談だよ。で、いつからなの?」
    「最近の話です」
    「最近とは?」
    「最後の出勤日から」
    「そう、最後の日に食事に誘おうかと思ったんだけど、誘わないでよかった。感謝しなさいよ」濱島さんはいたずらっぽく笑った。
    「えっ?」
    「冗談だってば。うどん、のびちゃうよ。さぁ、今度は三宅さんに尋問するね」
    「尋問?」
    「どっちが告白したの?」
    「私です。最終日に連絡先も知らなかったので、会えるのが最後になると思ったら……」
    「あなたまだ若いよねぇ。大石君もうおじさんだよ。それに身体のことも知ってるの?」
    「はい、全部承知しております」
    「そう、あなた美人だし若いけど、それでも大石君がいいの?」
    「いや、美人だなんて……。大石さんがいいんです。まだお付き合いを始めたばかりですが、大石さんのいいところたくさん知っています」
    「大石君、よかったね。いい子じゃない。こんないい子もったいないくらいだよ。大石君は息子のようなもんだから、よろしくお願いします」
    「濱島さん……ありがとうございます」
    「うどんがのびるだろ! 食べな!」あっ、濱島地雷踏んだ……。
    「濱島さん、よろしくお願いします」
    「ランチ、お待たせしました~」
    「美味しそう! 何これ?」
    「山賊焼きです。私もさっきいただきました。信州の郷土料理だそうです」
    「そうなの。詳しいね」
    「さっき大石さんに教えてもらったんです」
    「そうか、大石君、長野だったね」
    「諏訪です」
    「じゃぁ、御柱祭とか出るんだ」
    「出ませんよ」
    濱島さんは忙しいからと食べるとすぐに支払いを済ませて大学へ戻って行った。僕らの食事代も払ってくれていた。お店を出て歩きながら、
    「濱島さんは学生時代にお世話になって、卒論を書くのに資料を探してくれてね。卒業できたのは濱島さんのおかげ。いつも忙しそうで、てきぱきしていて、ちょっと怖いところもあるけど、優しいんだよ」
    「良い方ですね。史郎さんのことを心配してくださって」
    「うん、教務課忙しそうだね。会計課の藤岡さんはどうかな?」
    ピコン!
    ――大石君、結婚するんだって! おめでとう!
    ピコン!
    ――おめでとう!
    ピコン!
    ――Congratulations!
    ピコン!
    ――結婚式いつですか? 決まったら早めにお知らせください。
    ピコン!
    ――大石君、結婚おめでとー!
    LINEが続けざまに届いた。『Librarian PRO』のグループLINEだった。
    「濱島さん~。真湖さん、これ見て」まいったな。
    「うぁ~史郎さんはみなさんに愛されているんですね~。ご期待に応えましょうか?」
    「えっ?」
    「なんてね。私はいいですけど」
    「そういうことは僕の方からちゃんと言うから。今は言えないよ」
    「待ってま~す。ちなみに答えはYESですから!」
    「まだ早いから。待ってて。真湖さんはせっかちなの?」
    「ええ、かなりせっかちで~す。早くしてくださ~い」明るく真湖さんが笑った。
    「今日は帰る?」
    「昨日のアレ、まだありますよね」
    「アレというのは……」
    「ナプキンのアレじゃなくて、昨日食べたアレです」
    「甘いの? ごめん、アレ食べちゃった」
    「えーっ。全部?」
    「ウソ、ウソ食べてません!」
    「ひどーい! 食べにいきます!」
    「行こうか」
     
    いつの間にか今日落ち込んだことなど忘れていた。真湖さんパワーはすごいなぁ。僕も真湖さんの心の支えになれるだろうか。そうなれるように頑張ろう。そして真湖さんと結婚できるように――。今まで結婚したいと思うような女性には巡り合わなかったから、結婚を意識したことはないけど、濱島さんのおかげで、真湖さんとの未来を夢見ることができた。みなさん、感謝です!
    「大石さん、おかえりなさい。おおっ、噂の奥さまですね」隣のベルナルドさんだった。
    「まだですよ。噂ってそんなことになってるの?」
    「住吉さんがお祝いをしないとっておっしゃってました」
    「真湖さん、隣の部屋のベルナルドさん。サッカーが上手なんだよ」
    「はじめまして。真湖です。私サッカー部でした」
    「本当に! 本当に! 嬉しい! みんなサッカーできません。今度やりましょう。うちのチームに入ってください」
    「真湖さん本当なの?」
    「はい。中学・高校サッカー部でした」
    「ホントですか! マコさん、ぜひサッカーやりましょう! 明日の朝待っています」
    「明日は無理ですよ」
    「明後日は?」
    「ベルドナルドさん、コンビニのお仕事いいの?」
    「いけない、遅刻する」そう言うとアパートの階段を駆け下りて走り出した。
    「ベルナルドさ~ん、サッカーやりましょうね!」
    「マコさん、約束ね~!」
    「前にベルドナルドさんに誘われて一回サッカーやったんだけど、パス回しが全然できなくて……それから誘われてない」
    「あははは~なんとなくわかります!」どういうこと? バレてる?
    「そっかぁ。真湖さん中・高サッカー部ってすごいねぇ。運動神経良さそうだもんね」
    「インターハイに出ました」えっ?
    「すごい!」
    「うちのチームが……」あ、チームかでもすごいなぁ。
    「真湖さんのポジションは?」ゴールキーパーぐらいしかわからないけど。
    「うふっ、マネージャー。でもマネージャーも選手と一緒に活動するんです。だからできますよ」
    「ベルナルドさん、嬉しそうだったな。明日きっと来るよ。昨日会った住吉さんに日本語を教えてもらってるんだ。だから丁寧な言葉遣いでしょう」
    「明るくて良い方ですね」
    「コンビニの夜勤を長く続けているがんばり屋さん」
    「真湖さん、良かったらこれ……この部屋のカギ」土偶のキーホルダー付き。
    「いいの。毎日来ますよ。夜這いに来ちゃおうかな。あははは~これ縄文のビーナスですね」
    「わかる? 嬉しいなぁ」よ、夜這い? 
    「土偶の勉強をしたの」
    「ありがとう」その真湖さんの気遣いが嬉しいよ。真湖さんは僕のビーナスだから。
    この日は真湖さんと水ようかんを食べて、僕の石のコレクションを見せた。でも真湖さんはそれが入っているお菓子の缶が気になったようだ。
    「鳩サブレの缶、これはどの家庭にもありますね。うちでは裁縫用具と筆記用具を入れている。おっ、これは愛知の名菓・坂角のゆかり! 美味しいんです!」
    「そこに目をつけたか。さすが食いしん坊・真湖さん!」
    ふたりで笑っていると、携帯に電話があった。母親からだった。
    「正月も帰ってこんし、最近連絡もないからどうしとるんかと心配してたんよ」
    「あぁ、ごめん。忙しくて……」
    「あんたにいい話があるんよ。新田さん知っとるよね。可愛らしい姪御さんがいらっしゃるんよ。でね……」母親の声は大きいから真湖さんに聞こえていた。
    「あ、忙しいっていうのは、付き合っている女性がいるんだ。そういうことだから」Vサイン。
    「なに、あんたそんな大事ことなんも言わんと……本当なの?」
    「本当。今一緒にいるよ。素敵な人だよ」真湖さんがスマホを奪い取って、
    「はじめまして、三宅真湖と申します。史郎さんに大変お世話になっております」
    「あれぇ、本当だ。はじめまして。史郎の母でございます。史郎がお世話になりまして。ぜひ一度こちらにお越しください。諏訪も良いところですよ。へぇ~史郎がねぇ……史郎は女性に縁がなくて……結婚できんとあきらめておったんですよ。それが……えっ、えっ、」母親は泣きだしてしまった。
    「じゃぁ、そういうことだから。父さんにもよろしく」
    「史郎~マコさん連れて一度帰ってらっしゃい! お父さん! お父さん! 大変だ! 史郎に嫁さんがぁ~&J'%CMO”’%$CMHWv.&`#”O+NBSC`」母親は混乱していた。無理もない女性に縁のなかった僕に女性の話ははじめてのことだから……
    「史郎、本当か? 本当か……いつ結婚するんだ? &$=JNV’$#HX%FGFO)」父親だった。こちらもパニックになっている。
    「まだ始まったばかりだから、決まったら報告するから」
    「彼女に代わってくれ、早よぅ」
    「はぁ……」
    「はじめまして、三宅真湖と申します。よろしくお願いします」
    「はっ、はじめまして。史郎の父・大石信郎でございます。マコちゃん、いたらぬ息子ですが史郎をよろしくお願いします。マコちゃんに会いたいな。史郎と一緒でなくてもいいから、マコちゃん遊びにおいで」気安くマコちゃんを連呼する父親……。
    「あははは~ぜひ伺いたいです。こちらこそよろしくお願いします」
    「じゃぁ、切るよ。邪魔しないでね」
    「わかった、わかった。早く孫の顔を見せ……」余計なことを言いかけたので、慌てて電話を切った。
    「真湖さん、びっくりしたよね。ごめんね。あ~疲れた」
    「いつ行く?」
    「えーっ$=JNV’$#HX.&`#”O+N」
    「あははは~親子だ~、なんて言ってるの。聞き取れない」
    「秘密」気がつけば電話の間、ずっと顔を寄せ合っていたので、そのまま抱きしめた。
    「実は病気のことは親には言ってない。帰ると山のようにごちそうを作るだろう。昔からそうなんだ。食べられないとは言えないんだ」
    「どうして? 言えばいいじゃない」
    「心配させると思うとね。最後に会ってからずいぶん痩せたから、心配すると思うんだ。この状態で会うのは怖い」
    「わかりました。史郎さん太りましょう! 高カロリーのものを食べて……」
    「そんな簡単じゃないよ」
    「じゃぁ、私が行ってきます。ごちそうを作ってくださるんでしょ!」
    「真湖さん……」なんか今日は一気に真湖さんとの「結婚」を意識してしまった。
    「孫の顔を見せないと……」聞かれていた……
    「真湖さん、待ってそんなに急に進むのは、心の準備が……待って……」
    「あははは~なんか史郎さん、乙女みたい。合鍵渡してきたくせに」
    「無職の状態を脱して、収入も安定させて、それからだと思っている。体調も整えないと。来週から免疫調整剤を始めるんだ。なんか今日は急に時間が早く進み始めて戸惑っているよ」
    「心の準備を整えて、収入を安定させて、体調を整える……やることがいっぱいね。私はせっかちなんですからね!」
    「真湖さんと時間の進みが違うような感じがするよ」
    「時間はみんな同じでしょ。私がせっかちだから?」
    「僕がダメなだけだから」
    「史郎さんはダメじゃない! 史郎さんの周りの人に愛されているって。今日はそれを感じましたよ」
    「ありがとう。頑張るよ」
    「うん!」ぎゅっと抱きしめてキスをした。
    この日は冷蔵庫にあった残りもので、真湖さんが豆腐中心の安心おかずを作ってくれて、一緒に夕食を食べた。帰りは駅まで送って、途中でベルドナルドさんのコンビニに立ち寄って、低脂肪の牛乳を買った。ベルナルドさんはお客さんの対応で忙しそうだった。頑張っているなベルナルドさん。僕も見習わないと! 夕方から雨が降っていたけど、だんだんとひどくなってきた。
     
    ピコン!
    ――駅に着きましたが、電車が動いていません。いつ動くかわかりません。
    ――真湖さん、今から駅に行く。電車が動いたらそのまま乗って。とにかく行くよ。
    ピコン!
    了解しました! 
    ――今から行くから、待ってて!
    いつもなら十分くらいかかるけど、雨の中走っていったら五分で到着した。駅前は電車に乗れなかった人、迎えに来た人、タクシーを待つ人でごった返していた。
    ――駅に着きました。真湖さんどこ? 駅の階段の下にいます
    「史郎さん! びしょ濡れ!」真湖さんが駆け寄ってきた。
    「タクシー拾えるかな?」タクシー待ちの長蛇の列が目に入った。
    「無理ですね。歩いて帰ります!」
    「えーっ、この雨だよ。どのくらいかかるの?」
    「一時間ぐらいかかるかな?」
    「こんな夜遅く、危ないよ」
    「じゃぁ、泊めてください」
    「いいけど……狭いし、布団一組しかないし……」
    「嫌なの? じゃぁ、どうして来てくれたの?」
    「それは……心配だったから。何にも考えていなかった」
    「やっぱり歩いて帰る!」
    「真湖さん、待って。とりあえずうちに行こう。電車が動くようならまた駅に来ればいいから。ダメそうなら泊まってください」
    「うん!」
    「あとからお母さんに電話してね。きっと心配されていると思うから」
    「うん!」
    うちに帰って、真湖さんにタオルを渡し、テレビをつけると、線状降水帯が発生したらしい。ネットで調べてみると今夜雨は止みそうにない。
    「雨止みそうにないよ。今日の天気こんな予報だっけ?」
    「史郎さん、びしょ濡れだから先にお風呂に入って」
    「真湖さん風邪ひくから、お先にどうぞ」
    「史郎さんの方が濡れているからお先に!」
    「お客さまだからお先に」
    「いえ、どうぞお先に」
    「そう。真湖さん、タオル使ってね」お湯を溜めて髭を剃って、お風呂掃除をする。あっ、男用のシャンプーしか置いていないから、真湖さんに悪かったな。コンビニに寄っていろいろ揃えてくればよかった。
    「真湖さん、お先に。シャンプー男性用しかないけど、買ってこようか?」
    「史郎さんと同じ匂いでいい。お風呂借ります」
    「あっ、はい。着替えは僕の着てください」新品のスエットの上下を渡す。
    「あの~パンツも替えたいので貸して?」
    「えぇっ? パンツって僕はトランクスだけどいい?」
    「はい。トランクスで」これも新品を渡す。
    「タオルとバスタオルです。使い古しで悪いけど。洗濯してあるから。ゆっくり入ってください。僕は片づけをしていますから……」
    「史郎さん、あと……アレありますよね。分けてください」あぁアレね! サイズが二種類あったので、袋ごと渡した。こういうときナプキンが用意できるのはいいな。はぁ~急な展開に戸惑っている。でも、アレが必要ということは、そういうことか。これ以上急な展開は心臓に悪い。ふたりとも濡れてしまったから、風邪を引かないといいけれど。掃除機をかけながら、あと何がいる? と考えを巡らす。歯ブラシはいるだろうから新しいのを出して、髪の毛を乾かさないといけない……あっ、ドライヤーがない! 押し入れからサーキュレーターを出して、これで乾かしてもらおう。風邪ひいてしまわないかな。なんだかいろいろ心配だ。ベッドは真湖さんに使ってもらって、僕はこの辺に寝ればいいな。押し入れから夏用の掛布団を出した。あと、何がいるんだ? 足りないものは買ってくるぞ。母親や姉の風呂上りを思い出していた。風呂上りは何か飲むんじゃないだろうか? 冷蔵庫には低脂肪の牛乳があるし、あとはお茶が用意できるから、お湯を沸かそうと思ったら頭にタオルを巻いて真湖さんが出てきた。
    「いいお湯でした~ありがとうございました~」お風呂上がりの真湖さんは、頬がちょっと赤くてかわいい。
    「ドライヤー持ってないから、これで乾かして。何か飲む? 低脂肪の牛乳か、お茶が用意できます。あとこれ歯ブラシ使ってください」サーキュレーターの電源を入れた。
    「いたれりつくせり♡」
    「あっ、お母さんに連絡しないと……」
    「もしもし、お母さん?……うん、大雨で帰れそうになくて……ニュースでやってるよね……史郎さんのおうちに避難したの……そう……そう……」
    真湖さんに電話を代ってもらう。真湖さんは僕に顔を寄せて電話を聞いている。
    「こんばんは。はじめまして。大石史郎と申します……はい大学図書館で……そうです。ご挨拶が遅れて申し訳ありません。先日から真湖さんと真剣にお付き合いさせてもらっています……あっはい……真湖さんに食事を作っていただいたり、買い物に付き合ってもらったり、大変お世話になっており、僕の心の支えになってくれています。……本日はもっと早くお帰りいただいたらよかったんですが、お引止めして申し訳ありませんでした。…………駅に着いたら電車が動かなくなってしまっていて……本当に申し訳ありません……歩いて帰られるっておっしゃったのですが、何分この時刻ですし、この雨です。…………それで本日は真湖さんにお泊りいただくことになりまして……あっいえ……はいこちらこそよろしくお願いします」
    「そういうことで、今日は帰れないから……国分寺女学園から郵便? 読んで?…………うん、うんわかった。 うん、仕事。ありがとう……じゃぁね。おやすみ」真湖さんが僕にキスをして
    「明日面接! 高校の図書館!」
    「明日? 急だね」
    「最近は郵便が遅いからかな」
    「良かったね。採用されるといいね 僕も仕事探さないと! 何か飲む?」
    「ホットミルクを自分で作ります」
    「はい。」メールのチェックをしながらホッと一息。今日はいろんなことがあって目が回るような一日だった。、歯を磨く。今日はなんだか疲れてしまったけど、電話とはいえお互いの親に挨拶することもできて、よかったな。本当は会いに行けたらいいのだけど……。真湖さんと一緒の部屋で眠るなんて緊張してしまうな。真湖さんはサーキュレーターで髪を乾かすと僕のベッドに横になっていて、顔の半分ぐらいまで布団にもぐっていた。ベッドの脇に座って
    「もう眠る? 今日はいろんなことがあって。お互いの親に挨拶することになってしまったけど、それもよかったと思っているよ。お母さんにお伝えした、真剣にお付き合いさせてもらっているっていうのは、僕の本当の気持ち。今までありがとう。そして、これからもよろしくお願いします。」真湖さんはうんうんとうなずいて僕の話を聞いてくれている。
    「こちらこそよろしくお願いします。史郎さんの匂いを吸っています」
    「加齢臭?」
    「ううん、史郎さんの匂い。安心できる匂い。職場でさりげなく匂いを吸っていたの……私、フェチかもしれない」と言って笑って、身体をずらした。
    「真湖さん、今日は床で寝るよ。そっちで眠って」
    「生理だから?」
    「違うよ。大事にしたいんだ。大切なんだよ真湖さんが。こんな突発的にじゃなくて……今日は本当にいろんなことがあったね。疲れたでしょう。おやすみ」床の夏蒲団をかぶって眠ろうとしたら、真湖さんが隣に滑り込んできた。
    「一緒に眠りたい……だめ?」
    「真湖さん……」ぎゅっと抱きしめた。
    「史郎さん、今日私たちの距離が一気に縮まったみたいで。嬉しかった!」
    「そうだね、なんだか一日が長かったよ。あっ、お腹痛くない? お腹が痛くなるんでしょ?」
    「ありがとう。よく知ってるね。大丈夫。さすってくれる?」
    「鎮痛剤のコマーシャルでやってるから。どこ?」真湖さんは僕の右手を自分のお腹まで持っていった。
    「この辺を……」
    「わかった。こうでいい?」そっと触れてみる。
    「うん、そんな感じ……手が温かくていい感じ。温めるといいの」
    「柔らかいね」
    「そこは骨がないから」真湖さんは笑いだしてしまった。
    もう一度ぎゅっと抱きしめて、キスをした。女性の身体に触れることはないと思っていたけど、腕の中に真湖さんがいて、幸せだ。いろいろ不安もあるけど、これからよろしくお願いします。真湖さんが寝息を立て始めた。真湖さんも疲れたんだね。今日は本当に疲れた一日だったけど、とても良い日。こんな日が続くといいな。これまでのこと、今日一日の目の回るようなことを思い出していたらなかなか寝付けなったけど、いつの間にか眠りに落ちた。その夜はお互いが寝返りを打つたびに、目が覚めたこともあったけど、ずっとくっついて眠った。
    翌朝、身体の痛みで目が覚めた。固い床はやっぱり痛かった。雨は止んだようだ。真湖さんを起こさないようにそっと布団から出て顔を洗って、着替えをしていると、
    「おはようございます」真湖さんが目覚めた。ちょっとぼんやりしている真湖さんがかわいい。
    「おはよう。気分はどう? 雨は上がったよ」テレビでニュースを見ると、
    「この辺は大丈夫だったけど、東北の方ではまだ、大雨が続いているよ。被害がないといいけど」そう言いながら肩を回していると、
    「ハネムーン症候群?」
    「ハネムーン症候群って?」
    「腕枕してくれてたから、腕が痛いのかなと思って」
    「そういう名前なの? ロマンチックだね。確かに、腕枕のせいかも……肩から腕が痛い」
    「途中で腕枕を外したけど遅かったみたいね。ごめんね」
    「大丈夫、昨日真湖さんがずっと一緒にいてくれてたと思ったら、むしろ幸せな痛みだよ」
    毎日の日課になっているメールをチェック。図書館司書では相変わらず低賃金・未経験OK・扶養内そんな求人ばかり。正規職員の募集はない。図書館司書はそんなたやすい仕事じゃないのに……。
     真湖さんとパンと牛乳で朝食を取り、交通機関も回復したので真湖さんを駅まで送った。今日は面接、君ならきっと大丈夫! さぁ、今日は何をしようか? 
    洗濯をして、掃除をした。今日は天気がいいから、写真を撮りに行こう。
    トン、トン、トン ノックがあったので
    「はい?」開けるとベルナルドさんだった。
    「マコさんは? いない? サッカーやるよ」
    「残念、さっき帰りました。今日は忙しいって」
    「本当? サッカーやりたかったのに……」
    「また今度ね。夜勤でしょう? おやすみなさい」
    「はい……」
    「真湖さんに伝えておくね」
    「よろしくお願いします。楽しみにしています。」
    真湖さんにLINEで、ベルナルドさんがサッカーの誘いに来たことを伝えた。明日も来るんだろうか? YASHICA ELECTRO 35 MCを取り出すと、電池を入れて、フィルムを装填する。フィルムはMARIX色目が濃いので最近のお気に入り。久しぶりだな、このカメラ。金属製のしっかりした作りで重さと質感がいい。今のカメラはプラスチック製がほとんどだから、金属製は良いとあらためて思う。距離は目測式でファインダー内の三点ゾーンフォーカス指針表示がかわいい。この頃のカメラは一台一台が個性的だ。小さいので持ち歩きも気にならない。さぁどこへ行こうか。今度、真湖さんと「江戸東京たてもの園」に行くから下見をしよう。江戸東京博物館の分館の江戸東京たてもの園は三十年以上の歴史があるのか。昼食はうどん屋さんがあるし、疲れたらカフェもある。
    武蔵小金井駅からバスに乗って玉川上水を越えるとすぐ。下町中通りで商店の写真をパチリ、銭湯の子宝の湯のタイルをパチリ、農家の台所をパチリ、日差しが良い感じ。さすがにかやぶき屋根の農家はほとんど見なくなったけど、長野県には大きな農家はけっこうたくさんある。商店街も懐かしいけど、農家も懐かしく感じる。
    高橋是清邸は立派な和風建築だ。僕の尊敬する政治家のひとり。世界恐慌で混乱した日本経済を、デフレから最速で脱出させた功績があり、その当時大蔵大臣だった高橋是清が軍事予算を抑制しようとしたために二・二六事件で殺害された。この建物の二階で……。高橋是清が生きていたら、参戦しなかったかも知れないなと思うけど、当時の軍部の力を抑えることは難しかっただろう。政治に興味はないけれど、理不尽なことには腹立たしい。東京裁判でA級戦犯として有罪判決を受け死刑となった広田弘毅もしかり。城山三郎の『 落日燃ゆ 』を読むと、無念さが伝わってくる。そんなことを考えながら歩いた。二・二六事件では他に、海軍の齋藤 實、鈴木 貫太郎、教育総監 兼 軍事参議官だった渡辺 錠太郎らが殺害された。渡辺 錠太郎の娘さんは、カトリック修道女になった渡辺和子さん。この事件を目の当たりにしたという。だから修道女になられたのか? 著書の『置かれた場所で咲きなさい』の一文「置かれたところこそが、今のあなたの居場所なのです。咲けない時は、根を下へ下へと降ろしましょう。咲けない状況の中で「咲く」努力をしてほしいのです。どうしても咲けない時もあります。雨風が強い時、日照り続きで咲けない日、そんな時には無理に咲かなくてもいい。その代わりに、根を下へ下へと降ろして、根を張るのです。次に咲く花が、より大きく、美しいものとなるために」今の自分も咲けない状況だけど、咲く努力をしていこうと思う。
    今日は遠足か社会見学か、小学生・中学生が結構多い。真湖さんも遠足で来たって言っていたな。今日は早めに退散することにしよう。フィルムは残っているけど、また次回にしよう。今度真湖さんと撮影に来るのだから。駅までゆっくり歩くことにした。小金井公園のSLをパチリ。D五一は有名だけど、D五七こっちの方が新しいんだな。昨日の雨で桜はほとんど散ってしまっていた。この公園は梅林もあるし、桜の園もある。撮影スポットにいいな。小金井街道まで出て、駅までゆっくり歩いた。バスに乗るのもいいけど、歩いてもいいな。相変わらず、腕から首にかけて痛みはあるものの、幸せな気分だった。真湖さん、面接うまくいくだろうか? 真湖さんならきっと大丈夫。就職祝いをしないといけないな。僕も早く仕事を探さないと。帰ってネットで探してみよう。
    アパートに戻ると、なんだか部屋の感じがいつもと違うような気がした。あぁ、真湖さんの残り香だ。お湯を沸かして、お茶を飲む。少し歩いたせいか疲れたな。ネットで求人検索をする。相変わらず司書の求人は見つからない。あっても公共図書館・未経験未資格可・扶養内・週三日……いつから図書館司書の仕事は経験や資格がなくても良いことになったんだろう。近隣の大学のHPにアクセスして、図書館司書の求人を探す。四月は新入社員が入ったばかりだからか、求人情報はなかった。少し遠くの大学も検索してみるが、はやり見つからない。昨日、【結婚】を意識したせいか、早く仕事を探さねばと焦ってしまう。退職金も出るし、しばらくは貯金を切り崩せばなんとかやっていけるだろうが、それもそんなに悠長なことはしてられない。博物館も検索してみるが、やはりない。今週水曜の午後に病院で予防薬の免疫調節薬の注射を始める。効くといいけれど。でも真湖さんと付き合うようになってから、ストレスがなくなったのか、身体の調子が良い。真湖さんに感謝、免疫調節薬よりも効果があるんじゃないだろうか? 来週は金曜日の午前中にハローワークへ行って、雇用保険の説明会。ハローワークで仕事が見つかるといいな。
     
    ピコン!
    ――面接終わりました。今から行ってもいいですか?
    ――はい、どうぞ。お待ちしています。
    三十分ほどしてノックが、トン、トン、トン
    「はい」出てみると真湖さんだった。リクルートスーツの真湖さんはキリっとして見えた。
    「お疲れさま、どうだった?」
    「今日は面接に五人ぐらいみえてて、あと三日面接があるんだって。希望者多すぎ」
    「真湖さんなら大丈夫だよ、きっと。僕なら採用!」
    「あははは~うん、元気出た! たぶんダメだって落ち込んでたの」
    「大丈夫だって!」君なら絶対大丈夫!
    「うん、お腹空いてきた!」
    「お昼、どうしようね。うちにはうどんと米しかない」
    「冷蔵庫失礼しま~す。ふふっ、そんなことだろうと思って、用意してあるんですよ」
    「真湖さん……」
    「あ~こういう服嫌い。服貸してください」
    「昨日着たのでいい?」スエットの上下を渡すと、
    「ちょっと失礼」と言い着替え始めたので、慌てて目を逸らす。真湖さんは大胆だな。
    「ふぅ~やっぱり楽な服が一番! スエットとかジャージが一番楽! さぁ、ごはん作るよ~ 冷凍ごはんがあるから……」
    「よろしくお願いします。真湖さん、服のサイズ教えてくれる?」
    「どうして?」
    「お古じゃ悪いと思って。服を買っておこうと」
    「サイズは史郎さんと一緒。ほら、これちょうどいい」
    「だけど……」
    「いいのよ。昔からジャージばっかり着てたから。こういうのが一番!」
    「豆乳と鶏の胸肉とお味噌でリゾットを作りました~」
    「早っ! なんて手際がいいの?」
    「だって、お腹空いたんだもん」
    「いただきま~す」
    「美味しい!」
    「うまっ!」
    「安心ごはんですよ。高たんぱく! 低脂質食!」真湖さんは得意げだった。
    「ありがとう」
    「だいぶ勉強して、本を見なくても食べていいもの、避けた方がいいものをインプットしました」
    「真湖さん……」
    「お茶で~す。はぁ~落ち着く~」
    「ありがとう。ごちそうさまでした。美味しかった」
    「史郎さんの安心ごはんって、美味しいものがいっぱいなんです」
    「本当? 病気になってからこれまで、食べることは義務のようなもので、規則正しく身体にいいものを口にするだけだったから」
    「輪島庵のおうどんは?」
    「あれもどちらかと言えば、安心できるからかな。美味しいけど、ものすごく美味しいわけはない。真湖さんが作ってくれるものは全部、ものすごーく美味しい。さらに一緒に食べるとものすごーく、ものすごーく美味しいんだ。ありがとう」
    「これからもがんばるぅ!」明るく笑って、僕の胸に飛び込んでくる。
    「よろしくね」ノックが、トン、トン、トン
    「はい」
    「マコさんみえますか?」ベルナルドさんだった。
    「はい。ベルナルドさん、こんにちは!」
    「マコさ~ん! 会いたかった!」
    「サッカーやりますか?」
    「やりましょう! やりましょう! 良い天気だよ」
    「ちょっと待ってくださいね。準備します。史郎さん、スニーカー貸してください」
    「はい。これでいい?」ニューバランスのウオーキングシューズを渡す。真湖さんは紐を締め直すと、
    「ちょっと行ってきます」
    「ベルナルドさん、けやき公園?」
    「けやき公園! 早く!」
    「あとから行くね」ベルナルドさんはボールを蹴りながら、真湖さんと行ってしまった。タオルとフィルムが残っているカメラYASHICA ELECTRO 35 MCを持って追いかける。もう二人の姿は見えない。小走りで追いかけると公園から真湖さんが笑う声とベルドナルドさんの
    「マコ! マコ!」いつから呼び捨てなんだ! 僕はさん付けなのに! 真湖さんを追って、シャッターを切る。あまり近くに寄れないから、アップの写真は撮れないけど。僕に気づいて手を振る真湖さんをパチリ! 足元が昨日の雨でぬかるんでいて転んでしまった。カメラだけは落とさないように……。
    「大丈夫?」真湖さんの足元も泥だらけだ。
    「……大丈夫」かっこ悪い僕。
    「あはっははっ! 大石さん、なぜ転ぶ?」ベルナルドさんに笑われてしまった。
    「マコ! パス!」真湖さんとベルナルドさんは、互いにパスを出しながら、楽しそうだ。マコ、マコ、マコと気安く連呼するベルナルドさんのことをちょっと嫌いになってしまった。カメラを持つ僕の前でポーズを取るけど、シャッターは押してやらない。意地悪な僕。嫉妬なんだろうな。つまらない男だと自己嫌悪。反省してシャッターを切る。午前中に「江戸東京たてもの園」に行ったからあまりフィルムは残っていなかったので、すぐに撮りきってしまう。
    二人はほぼ走りっぱなしじゃないだろうか? 疲れないのかな? 汗でびっしょりになった真湖さんが
    「あ~疲れたぁ~。でも久しぶりに走って楽しかったぁ。顔洗ってくるね」
    公園の水道でバシャバシャ顔を洗っている。持ってきたタオルを出したら、さっき転んだので泥だらけだった。真湖さんがそれを取ると、水道で洗って絞って顔を拭いた。
    「タオルありがとう。助かった~。何にも持ってこなかったから」
    「飲み物買ってくるよ。何がいい?」
    「水がいいです」
    「わかった。ベルナルドさんは?」
    「綾鷹かお~いお茶」
    「はい」自販機で水と綾鷹を買って行くと、ベンチに並んで二人が座っていたので、
    「はい、綾鷹! はい、お水」その間に割り込むように腰を下ろした。
    「マコすごいね。プロになれるよ」
    「無理、無理。でも一緒にやっていたチームの中にはプロになった子がいる。大けがをしてその治療をしてくれたお医者さんと結婚して辞めちゃったけどね。去年二人目の子どもが産まれて、いいママになりました」
    「本当なの? すごいよ」ベルナルドさんも顔を洗いに行った。
    「へぇ~すごいねぇ。運動神経いいんだね」
    「だからぁ、マネージャーやってたんだって。選手にはなれなかったんです」
    「レベルの高いチームだったんだね」
    「私はサポートする方が向いていたみたいです」
    「だから司書? 司書はサポートをする仕事だから」
    「かも知れない」ベルナルドさんにタオルを渡すと、顔から身体まで拭いて、汗臭いタオルを返してきた
    「もう帰ろうか?」
    「マコ、今度いつ会える? サッカー楽しかった」
    「今度はいつかな? 私も楽しかったベルナルドさんありがとう」ベルナルドさんが立ち上がると
    「マコ~」と抱きしめようとしたので、間に割り込んで
    「真湖さんは僕のだから、ダメです」
    「あいさつです」
    「日本ではダメなんです」
    そんな僕らを見て真湖さんが笑った。
     
     泥だらけの僕らは、アパートまでマコ、マコとふざけるベルナルドさんと一緒に戻った。
    「あら~楽しそうね~まぁ、三人とも泥だらけ」住吉さんが呆れている。
    「マコとサッカーしました。マコ、とても上手です」
    「ベルナルドさん、ちゃんとマコさんって呼ばないと。大石さんが怖い顔してますよ」
    「ごめんなさい。大石さん。お許しください」
    「いいんです。私がマコって呼んでと言ったんです」
    「僕は気にしていませんから!」
    「ほら、やっぱり怒ってる」
    「怒っていませんって」住吉さんが笑っている。あれ? からかわれたのか?横で真湖さんが身体を震わせて笑っている。
    「マコさん、僕たちのチームとサッカーやりましょう」
    「はい、喜んで。ベルナルドさん、またね」
    「またね。約束ね」
    「大石さんもサッカーなさったの?」
    「いえ、見ていただけで……」
    「なのに泥だらけ?」
    「転んでしまって」恥ずかしい!
    「泥だらけだから、洗濯しないと!」
    部屋に戻ると、真湖さんがシャワーを浴びたいというので、その間に洗濯機を回した。真湖さんは来た時に着ていたリクルートスーツに着替えた。
    「アレってまだある?」
    「甘いやつ?」
    「そう、美味しいの」
    「切るね」紙パックの水ようかんを切ってお皿に乗せて、お茶を入れる。
    「お茶美味しい! 水ようかんに合う」
    「疲れたんだね。動きっぱなしだったもんね。真湖……さん」
    「あっ気にしているんだ。真湖でいいよ」
    「そうじゃないけど……」
    「じゃぁ、練習。呼んでみて」
    「真湖さ……ん。やっぱり、だめだ。ついこの前まで三宅さんだったのが、真湖さんって呼べるようになって、呼び捨てはまだ無理。もう少し真湖さんって呼ばせてください」
    「あははは~ベルナルドさんはすぐに呼んでくれたよ」
    「(真湖、真湖、真湖……)」小声で練習していたら、真湖さんが僕にくっついてきて、
    「こっそり練習してるぅ~、史郎さんかわいい!」かわいい? なんかばかにされている?
    「ま、真湖」
    「はい、史郎?……う~ん、呼び捨ては難しいかも?」
    「やっぱり慣れるまでは真湖さんって呼んでいい?」
    「うん! 史郎さん!」
    「真湖さん!」
    「史郎さん!」二人で笑ってしまった。
    「さっき、写真撮ったから現像に出さないと」フィルムを巻き戻す。
    「このカメラ小さいですね。かわいい!」
    「OLYMPUS Penシリーズよりも小さいよ。Rollei35と同じくらいかな? 使ってみる? これも目測式。ファインダーを覗いてみて」
    「重い」Penと同じくらいだけどな。
    「イラストがあるでしょう。それに合わせて写すんだ」
    「う~ん」
    「これはKONICA C35 E&L レンズの上にイラストがあるでしょう。1メートル・1.5メートル・3メートル・無限遠の四段階を撮影するときに合わせるんだ」
    「これの方がわかりやすい。今度貸してください」
    「東京たてもの園に行こうか。実は今日の午前中に下見に行ってきた」
    「下見?」
    「デートするなら必要かと……」真湖さんは笑いだしてしまった。
    「そんなにおかしい?」
    「いや、まじめだなと感心してるの。で、どうでした?」
    「今日は小学生・中学生の遠足か社会見学かわからないけど、人が多くてすぐ退散したよ。桜は残念ながら昨日の雨で散ってしまって……。残ったフィルムで、サッカーをしている真湖さんを撮った。でも……」
    「でも?」
    「ベルナルドさんが真湖さんとすごく親しそうにして、名前を呼び捨てにしたからベルナルドさんを撮ってあげなかった。意地悪というか、小さい男だなって自己嫌悪。ポーズも取ってくれたんだけどね。反省して数枚だけ撮ったけど」
    「焼きもち焼いてくれたんだ! それって私が好きってことでしょう! 嬉しい!」なんか照れてしまうな。
    「今度サッカーするときはちゃんと撮ります」
    「じゃぁ、今日は失礼しますね」
    「そうだね。あっ、洗濯終わったね。コインランドリーで乾燥するから一緒に出ようか」フィルムをポケットに入れ、ランドリーバッグに洗濯ものを入れた。廊下をバタ、バタ、バタっと走る音がしたので見たら、ベルナルドさんが走って行った。今日は仕事だったんだな。
    「ベルナルドさんが走って行ったよ。あれは遅刻だな」ベルナルドさんも今日は疲れたんだろう。
    「行きましょう」玄関に置いてあった本の縛りを見て、
    「今度取りに来るから捨てないでね」
    「捨てないよ。ついでの時に取りに来てね」
    「あっ忘れてた。これ……読んで」カバンからブックカバーがかかった文庫本を取り出した。中表紙を見ると田中ひかるの『生理用品の社会史』だった。
    「ありがとう。勉強するよ」
    「真面目なんだからぁ」笑いながら僕の頬にキスをした。
    「駅まで送るよ。これもあるし」ランドリーバッグを持ち上げた。
    駅まで歩いて十分。途中のコインランドリーの乾燥機に洗濯ものを入れた。
    「あのコンビニ、ベルナルドさんが働いているんだ。夕方から朝まで、ここに来てからずっと頑張っているよ」
    「あっ、ベルナルドさん」品出しを一生懸命やっている。
    「邪魔しちゃ悪いから行こうか」
    「うん、送ってくれてありがとう」
    「じゃぁ、またね」改札口で見送る。
    駅の向こうのコンドーカメラさんによって、現像をお願いする。今日は遅いので明日取りに来ることにした。コインランドリーで洗濯ものを回収してアパートに戻った。玄関には泥だらけのスニーカーが二足、泥が落ちないように気をつけながら、お風呂場で洗う。真湖さんと靴のサイズが一緒なんだね。服も同じくらいか。背の高さも同じくらいかな。真湖さんの方が少し高いかも知れないな。アパートの窓の外に落ちないようにして干した。ベルナルドさんが越してきたとき、最初に挨拶したのはこの窓からだったな。その頃はまだたどたどしかった日本語が、今ではきれいな日本語を話すようになった。住吉さんに教えてもらったからだろう。彼にとってこのアパートに来たことは成功だな。
    さて、今日は何を食べようか……。最近食べることが楽しみになってきている。「潰瘍性大腸炎」に勝てるかもしれない。勝てるといいな。借りた田中ひかるの『生理用品の社会史』を読みかけて眠ってしまった。
     
    【就活 1】
     目覚めるとまずメールをチェックする。図書館の求人は相変わらずだ。1件だけ気になる求人があった。市大の図書館の産休・育休職員の代理の求人。時給は低いけど一年間の限定というのは、僕にとっても都合がいいのではないか? 必要書類は履歴書・職務経歴書・ハローワークの紹介状の三点。朝食後にパソコンで履歴書と職務経歴書を印刷した。ハローワークはもうやっていると思うので、支度してアパートを出た
     ハローワークの障がい者のフロアの受付に、紹介状の発行をお願いしたいと伝え、待っていると耳の不自由な方、目の不自由な方が盲導犬を連れてみえる。みなさんが採用されることを祈る。順番が来て、要件を伝えると、前回の担当者とは違う広川さんという女性の方が対応してくれた。印刷してきた求人票を渡し、履歴書と職務経歴書を見せると、アドバイスがあり、修正が必要になった。
    「大石さんの経歴でしたら、大丈夫! 行けると思いますが、難病のことを確認してみますね」相手先の担当者に問い合わせてもらい、病気のことを伝えてもらった。
    「応募して大丈夫だそうです」紹介状を発行してくれた。
    「はい、送ってみます。ありがとうございました」
    「大石さん、がんばりましょうね!」
    「はい」
    エレベーターホールに盲導犬を連れた目の不自由な方がみえた。下へ行くボタンを押し、
    「下へ行きますか?」と聞くと
    「すいません、1階へ」
    「はい、あっ、来ましたよ。こっちのエレベータです。案内しエレベータに乗ってもらった。
    「あなたはどこに障害があるの?」
    「僕は腸が悪いんです。難病です」
    「そう、それも大変ね。でもがんばって」
    「はい。頑張ります」一階に到着したので、扉を押さえ
    「到着しました。そのまま真っ直ぐお進みください」
    「ありがとう、ロン! GO!」
    「駅まで行かれますか? ご一緒しますか?」
    「ロンが連れてってくれるから大丈夫よ。親切にありがとう、がんばってね」
    ロンのご主人さん、就職が決まるといいですね。祈っています。
    ピコン! 真湖さんからのLINE
    ――おはようございます。今日の予定を教えて
    ――今、ハローワーク。これからコンドーカメラさんに向かう予定。
    ピコン!
    ――了解しました。私も今から行く!
    ――はい。昨日の写真ができているはず
    ピコン!
    ――楽しみ! ではまた
    「おはようございます」
    「大石君、おはよう! 写真出来ているよ。機種は?」
    「YASHICA ELECTRO 35 MCです」
    「やっぱりうまいね。いい写真が多いよ」
    「確認します」プロに褒めてもらうと嬉しいな。東京たてもの園の写真はまぁまぁ。真湖さん、かっこいいな。あとから真湖さんに渡そう。ベルナルドさんの写真も三枚あったので、プリントを依頼する。真湖さん・ベルナルドさん・僕の分すぐプリントしてくれた。FUJIとKODAKの三六枚撮りフィルムを購入した。支払いをしていると外の駐車場に車が入ってきた。真湖さんだった。
    「昨日の写真出来たよ」
    「見たい! 見たい!」
    「うちに行く?」
    「うん!」
    「乗せてください」
    「どうぞ」
    「ちょっと買い物しませんか?」
    「いいね。どこへ?」
    「スーパーともう一軒」
    「もう一軒?」
     真湖さんとこの前行ったスーパーに行って、もう一軒は業務スーパーだった。
    「アレ買うの?」
    「そう、アレ」
    「僕も行くよ。へぇ~はじめての業務スーパー。すべてのものが大きいサイズだね。一般の人は入れないと思ってたよ」
    「あっ二つしかない! 買っておきましょう。他にもコーヒーゼリーとかもありますよ」
    「定番のおやつだね」
    「今日は新しい食べ方で」
    「新しい食べ方?」
    「お楽しみに!」
     近くのコインパーキングに車を停めてアパートに行ったら、宅急便の車が停まった。ドライバーさんが大きな段ボールを持って階段を上がっていく。あっ、うちだ!
    「すいませーん! 大石です!」不在者通知を書いていたドライバーさんが顔を上げた。
    「大石さんですね」
    「はい、ごめんなさい」
    「サインお願いします。ありがとうございました」足元の大きな箱は実家からだろう。こんな重いもの運んでもらってごめんなさい、ドライバーさん。
    「真湖さん、これもらってくれる?」
    「何が入っているの?」
    「野菜とか、野菜とか……野菜とか」
    「野菜とか? 開けてみましょう」
    「キャベツ、ダイコン、タケノコの水煮、リンゴ……お菓子……味噌……蕎麦……うわぁ~ ふぅ~」ため息が出てしまう。
    「親の愛ですねぇ」
    「はぁ~」
    「さぁ、これどうしましょう」
    「年に二回ぐらい送ってくるんで、いつもは住吉さんとかベルナルドさんにもらっているんです。何回もいらないと言っているんですが……」
    「うちも二人だから、全部は……」
    「いるものをこの袋に入れて。あとはいつも通りに分けます」
    「お手紙が入ってますよ」
    「史郎へ
     元気そうで安心しました。お付き合いしている方がいることを聞いて、本当に嬉しく思っています。女性の話が全然なかったので、以前お父さんと史郎は女性に興味がないのかも知れないって話したことがありました。今は男性同士のカップルも増えているとニュースで聞いたので、史郎もそうなのかと。史郎が帰ってこないのは、もう女性になってしまったから、帰ってこられないのかと……。それでもいいから帰ってきてほしいって思っていたんです。
     それが、女性とお付き合いしていると聞いて、本当に嬉しくて。今年一番の吉報でした。お話した真子さんはお声を聞いただけで、優しい方と思いました。きっと可愛らしい方だろうなと想像しています。今は早く真子さんにお会いしたくて仕方がありません。老い先短い親の願いを叶えてくれませんか? 
     美和子に真子さんのことを話したらびっくりしていました。美和子も会いたいと言っています。
     一度、真子さんと一緒に帰ってきてください。
    母より」
    手紙を読んだ真湖さんが
    「美和子さんはお姉さん? 史郎さん、一度諏訪に行きましょう」
    「でも……」
    「こんなに言ってくださっているんですよ。行きましょう」涙目になっている。
    「……そうだね。まず、身体のことを知らせないと……」気が重い。
    「お手紙を書いて。病気のことをお知らせすれば大丈夫ですよ」
    「そうだね。ねぇ、お腹空かない?」
    「じゃぁ、簡単にできるそうめんで……」
    「僕がやるから、それ適当に分けてくれる? あとで住吉さんとベルナルドさんに持っていくよ。あっ、リンゴとジュースはベルナルドさんにあげてね」
    「まず、電話でお礼を言わないと」
    「そうだね」お湯を沸かしながら、家に電話をかけた。
    「もしもし、史郎だけど。……荷物届いた。…………いつもありがとう…………真湖さんに持って行ってもらうよ……」電話を奪い取って
    「真湖です。こんにちは。野菜やお菓子、いろいろとありがとうございました。…………えぇ、はい……そうですね。はい……」電話を奪い返し
    「そういうことで! 伝えることがあるから手紙を書くよ。……あっ、真湖さんの名前は、真実の湖と書いて真湖だから、子どもの子じゃないから。じゃぁね」お湯が沸いたので電話を切った。
    「茹でるよ。何分? 一分~二分……なんて、アバウトな。二分でいい?」
    「うん、うん」手紙を読み返している真湖さん。目が涙目になっている。
    「真湖さん、出来たよ~。それ後にして」
    「はい。諏訪に行きたい。お母さんとお父さんにお会いしたい」
    「ありがとう。手紙書くね。あっ、その前に履歴書と職務経歴書を直さないと!」
    「仕事あった?」 
    「市大図書館の産休職員の代理の求人。任期は一年。ちょうどいいかなって」
    「ちょうどいいじゃないですか。採用されるといいですね」
    「食べようか?」
    そうめんを食べながら、
    「史郎さんの性的マイノリティ疑惑……考えすぎですよね」
    「昔から、うちの親は何かあるといろいろ想像しちゃって、困惑することは多々あった」
    「例えば?」
    「小学校の時、転んだことがあったんだ。その時はケガの手当をしてくれただけだったんだけど、いじめられているんじゃないかって想像しちゃって。当時の友だちたちに、正直に言ってって聞きまくって……僕がどんくさかっただけなんだけどね」
    「昨日だって……」
    「だよねぇ。情けないよ。運動神経が発達している真湖さんがうらやましいよ」
    「私は史郎さんがうらやましい。いろんなこと知っていて、みんなに愛されて……」
    「そうかな?」
    「そうです! あっ、荷物分けないと」
    「とりあえず片付けよう! まず、そろそろベルナルドさんが起きるから、リンゴジュースとリンゴ。前にすごく喜んでくれて。ブラジルにはリンゴはないのかな?」
    「あるんじゃないかな?」
    「住吉さんは難しいな。いつも箱ごと持って行って選んでもらっている」
    「そうしましょうか? お米は史郎さん食べますよね……」リンゴジュースやお米が減るとだいぶ軽くなった。
    「行ってくるよ」
    「私も行く」
    箱を持って階段を慎重に下りて、
    「住吉さん! こんにちは。大石です」
    「はぁ~い」
    「田舎からまたいろいろ送ってきたんで、もらってください」
    「まぁ、いつもすみません」
    「食べきれないんで」
    「じゃぁ、遠慮なく……おダイコン葉っぱ付きいいわね。タケノコも水煮にしてくださって助かるわ。……お味噌もいい? リンゴもいただこうかしら」
    「助かります」
    「まぁ、お嫁さんもご一緒だったの? お茶でもいかが?」
    「今日は忙しくしておりますので、また今度にしますね」真湖さんは後ろでニコニコしていた。
    「そぅ。じゃぁ、これだけいただきます。可愛らしいわねぇ。サッカーがお上手なんですってね。ベルちゃん喜んでたわよ」
    「ベルナルドさんがお上手なんです」
    「大石さん、いつもありがとうございます。親御さんによろしくお伝えくださいね」
    「こちらこそ、いつももらっていただきありがとうございます」
    「では、ごきげんよう」ドアを閉めた。
    「はじめて、ごきげんようって生で聞きました」
    「住吉さんはお嬢様だったのかもね」
    「品の良い方ですね」
    「これ、あともらってくれる?」
    「はい! 今野菜高いんですよ。母が喜びます。今日兄に車返しに行くから、真衣さんにもあげようっと。真衣さんは兄のお嫁さん。可愛い人です」
    「そろそろベルナルドさんが起きる時間だ。僕が持って行くよ」
    「私も行きます」
    「ダメ。前に裸で出てきたことあるから」
    「あはは~」
    「マコさん? マコさん来てるの?」
    「あ~見つかっちゃったぁ。一緒に行くか……」
    「ベルナルドさん! おはようございます! 史郎さんのご実家から送られてきました。プレゼントです!」
    「マコ~……さん」
    「マコでいいって」
    「マコありがとう! リンゴ! 大石リンゴおいしいよ」そのまま齧り始めた。
    「そんなに喜んでくれて、嬉しいよ。じゃぁね」
    「マコ、サッカーやる?」
    「今日はやりません。史郎さんとデートです」
    「そう、あっ、ぼく今から仕事だから、留守だから安心してね」ベルドナルドさんがウインクした。
    「いやだぁ! もうっ! じゃぁね」
    「真湖さん、どういうこと? 留守だからって……?」
    「史郎さん……わかんない? あはは~」
    「……」なに?
    「アレ食べましょう。今日はちょっとひと手間加えま~す」僕はよくわからないまま、履歴書と職務経歴書を修正し印刷した。写真を貼って、ハローワークの紹介状をクリアファイルにセットした。封筒を買いに行かないといけないな。
    「できました~」
    「えっ? お汁粉?」
    「アレを火にかけると、お汁粉になるんです。私も食べるのはじめてなんだけど」
    「いただきま~す。うん、美味しいね。そう、さっきのベルナルドさんの言ってたことよくわからなかった。どういうこと?」
    「本当にわからない? もうぅ」真湖さんが顔を真っ赤にした。
    「お汁粉熱かった?」
    「そうじゃなくて! ここで愛し合っても、僕はいないから安心してってことです」
    「……あっ、そう。そういうことだったの……あっ、今日暑いねぇ」汗が出てくるよ。
    「あはは~かわいいなぁ 史郎さん」
    「……はぁ」
    「履歴書と職務経歴書、見せてください」ファイルを渡すと
    「うん、採用! よく書けてる。採用! でも、こういう書類を送ります、よろしくお願いしますっていう挨拶の文書がないですね」
    「付けないといけない?」
    「あった方が心証はよくなります」
    「あと、封筒を買ってこないと……」
    「郵便局のレターパックがいいですよ。切って貼らなくていいし、追跡できるから」
    「それを買わないといけないね。郵便局まだ間に合うかな」
    「コンビニで買えます」
    「真湖さんは何でも知ってるね。野菜持って帰るなら早い方がいいね。今日はもう帰りなよ。野菜の箱持てる? 本を持って行くから」
    「そうね。今日の夕食になるね。じゃあそうする」
    「夕食は自分で作るから大丈夫だよ」
    「うん。本もらってきます」
    「あぁ、行こうか」なんだか恥ずかしくなってしまって……
    野菜の箱は真湖さんが持って、僕は古本の縛りを二つ持って、アパートを出た。車に本と野菜を積んで
    「今日もありがとう。真湖さん、気をつけてね!」
    「うん、あっライトですよ。レターパック!」そう言い残すと真湖さんは行っ 
    てしまった。真湖さんも恥ずかしかったのかな? かわいいな。レターパック
    を買わないと! コインパーキングの隣のコンビニでレターパックライトを買った。よし、あと挨拶のビジネス文書だ! 帰ってすぐにネットで例文を探して、ちょっと内容を変えて完成! 真湖さんありがとう! すぐにセットして、ポストに投函! 最終の集荷に間に合った!
    ――真湖さん、ご指導ありがとうございました。挨拶文を付けてレターパックライトで送りました。採用されるといいな。
    ピコン!
    ――こちらこそ、たくさんの野菜やお菓子をありがとう。兄に車を返したときに真衣さんに半分渡して、半分は母に渡しました。今年は野菜が高くて助かります。真衣さんも母も喜んでいます。
    ――どうがんばっても僕は食べられないから助かりました。病気になる前から量が多くて食べられなかったから。最初に野菜やリンゴをあげてから、ベルナルドさんと仲良くしてるんだ。親に感謝だね。
    ピコン!
    ――いただいたキャベツを切ったら、青虫くんを発見しました。無農薬? 
    ――家庭菜園だからたぶんそうです。
    ピコン!
    ――真衣さんが喜びます。わざわざ高い無農薬の野菜を買っているくらいだから。
    ――みなさんに喜んでもらってよかった。これから食事を作ります。安心ごはんを参考に……食後に親に手紙を書きます。言えなかった病気のことをカミングアウトします。
    ピコン!
    ――がんばって! 誠実な史郎さんならきっとわかってもらえるはず……うちも今からごはんです! 
     頭の中は親に書く手紙のことでいっぱいだった。夕飯、何を食べよう。今日買ったものは……豆腐があった。ご飯は冷凍のものを解凍。親に送ってもらった諏訪のタケヤ味噌をつけて食べる。味噌、懐かしいな。昔はご飯に味噌を付けて、野沢菜漬けと食べるのが好きだった。夏休みや冬休み、少しでも連休があれば、祖父母の住む下諏訪へ遊びに行っていた。そこでタケヤ味噌と野沢菜、そばばかり食べていた。味噌はともかく、野沢菜は繊維質が多いから無理だな。そんなことを考えながら、パソコンを打った。
     
    【カミングアウト】
    「父さん、母さん
     いつもたくさん送ってくれてありがとう。
     
    報告しないといけないことがあります。ここ数年、諏訪に帰ることができなかったのは、体調を崩していたからです。心配させると思って言えなかった。『潰瘍性大腸炎』という難病になってしまいました。腸が炎症し、症状は血便・下痢・腹痛・発熱です。良くなったり、悪くなったりを何度か繰り返して、ずいぶん痩せてしまいました。帰ることができなかったのは、そのせいもあります。この病気は治療薬も予防薬もない難病です。原因不明で誰のせいでもありません。ただストレスがいけないそうです。完治する内科的治療はありませんが、腸の炎症を抑える有効な薬物治療は存在します。医学の進歩で悪くなった時に投与する薬でなんとかなっていますし、免疫調節薬の投与を始める予定です。この病気は苦しんでいる人が多いので、これから特効薬が開発されることを祈っています。
     
    残念だけど、昔母さんがよく作ってくれた唐揚げや天ぷら、野菜の煮物など油っぽいもの、繊維質の多いものなど消化に悪いものを食べることができない病気です。僕の好きだったおかずのほとんどを食べることはできません。病気になってから、僕にとって食べることは義務のようなもので、消化にいいものを選んで食べるだけなので、豆腐とかうどんばかり食べています。再発することを考えたら、食事制限も全然苦ではありません。こうして気をつけていれば、長生きもできると思います。今日は豆腐にタケヤ味噌を付けて食べました。諏訪の味だと懐かしく思いました。
     
     病気が原因ではありませんが、先月大学図書館を辞めました。今は求職中です。図書館しか知らない僕ですが、なんとかなるのではないかとのんびり考えています。
     
    悪いことばかりではありません。先日挨拶したとおり、僕に恋人ができました。今まで女性に縁がない僕は、病気になってからはなおさら、女性とつきあうことをあきらめていました。
    真湖さんは、大学図書館で一緒に働いていた方です。三宅真湖さん、三十二歳。明るくてかわいくて素敵な女性です。スポーツ万能でかっこいい女性でもあります。僕の病気のことを承知で付き合ってくれました。僕の身体に合う料理を勉強して、時々美味しい料理を作ってくれます。思いやりのある優しい女性です。僕の心の支えになってくれています。そんな女性が僕のそばにいてくれるので安心してください。今は求職中なので、結婚は考えられませんが、早く仕事を決めてプロポーズしたいと思っています。フラれないよう祈っていてください。
    いつも送ってくれる野菜は、これまでアパートの人に差し上げていました。おかげで隣室のブラジル人のベルナルドさんと友だちになれました。彼はリンゴが大好きで、「大石リンゴ美味しい」と喜んでくれて、今日も早速齧ってくれました。階下に住む住吉さんも喜んでくれています。ちょうど荷物が届いたときに真湖さんが来てくれたので、半分ぐらいは真湖さんに持って行ってもらいました。真湖さんのお母さんやお兄さんにも差し上げたそうです。みなさん喜んでくれました。本当にありがとう。
    近いうちに諏訪に行こうと思っています。真湖さんも一緒に行ってくれるそうです。真湖さんも母さんや父さんに会えることを楽しみにしてくれています。
    史郎
    追䟸
    僕が食べていいもの・いけないものをわかりやすくまとめておきましたので、添付します。
     
     何度か直しているうちに気がついたら午前二時、明日の朝もう一度見直して送ろう。風呂にも入らずに眠ってしまった。
    カチャ……誰か入ってきた? う~ん、誰? 誰かいるの? 起きると真湖さんがいた。縄文のビーナス付の合鍵を手にしている。
    「おはようございま~す。もう八時過ぎてますよ」
    「おはよう。昨日遅くまで手紙を打っていたから。シャワー浴びてくるよ」
    昨日は風呂にも入らずに寝てしまったんだ。髭も剃ってない。だらしないな。
    机の上には野菜のスープとパン、ヨーグルトが並んでいた。美味しそう!
    「昨日いただいた野菜でスープを作ったの。たまには野菜も摂らないとね」
    「美味しそう! ありがとう」
    「こちらこそ。たくさんありがとう。母も真衣さんも喜んでくれて」
    「う~ん、おいしいね。スープおいしいよ」
    「大石リンゴも入っていて、栄養満点。味付けもいいでしょ!」
    「うん、料理上手だね」
    「昨日お手紙書いたの? よかったら見せて」
    「長くなったからパソコンで……ちょっと待ってて、印刷するから」印刷して真湖さんに読んでもらう。
    「シッ~! (小声で)ベルナルドさんが帰ってきた」隣で物音がしている。
    「そうね」隣の物音が聞こえる。どこかに電話をしているようだ。
    「こんなに壁が薄いの」
    「うん、これまで生活時間がズレていたから、気にしてなかったけど」しばらくすると、いびきが響いてきた。真湖さんが体を震わせて笑っている。
    「起こさないように静かにしないと」手紙を読んで真湖さんが目をうるうるさせて、
    「うん、うん。きっと、わかってくださる。すごく誠実なお手紙。私もお礼のお手紙を書いてきたの。同封してくれる?」
    「いいけど、読んでもいい?」
    「だ~め」
    「なんで? 僕の手紙を読んだのに?」そう言うと手紙を渡してくれた。水色の便せんにきれいな手書きの文字。
     
    「大石史郎さんのお父様、お母様
     このたびは信州の野菜や果物、お味噌・お菓子をありがとうございました。たくさんいただき感謝しております。今こちらでは野菜が高く、助かりました。家族一同感謝しております。
     
    自己紹介致します。
     三宅真湖 三十三歳。武蔵野体育大学卒 スポーツをすることが好きです。中・高はサッカー部で、大学はスキー部でした。
    家族は現在母と二人暮らしです。兄弟は兄が二人(双子です)、一人は昨年結婚してすぐ近くに住んでいます。もう一人は九州大学の理学部の大学院で昆虫の研究をしています。父は十年ほど前に自動車事故で亡くなりました。
    性格は明るい方でそそっかしいです。おせっかいなところもあります。史郎さんとは「国分寺大学」の図書館で仕事を教えていただいたご縁で、私が史郎さんのことが好きになり、強引に交際を申し込んで、OKしてもらいました。
    史郎さんは優しくて真面目で誠実な方です。図書館司書の資格も史郎さんを見ていて同じ仕事に就きたいと思い司書資格を取得しました。今、就活中で、司書の仕事に就きたいと思っております。史郎さんの病気のことも理解しているつもりで、安心して召し上がってもらえる料理を勉強しています。
     先日お電話でご挨拶させていただき、ご両親の優しさや思いやりを感じました。早く諏訪に行ってお会いしたいと思っております。
     不束者ですがよろしくお願いします
    三宅 真湖
     
    「えっ? ちょっと待って。三十二歳だったよね。三十三歳って……誕生日いつ?」
    「四月十日」
    「今日? 今日じゃないの!」
    「シッ~! (小声で)ベルナルドさんが起きちゃう。……うん、今日誕生日」
    「ごめん、知らなかった。何にもプレゼント用意してない。本当にごめん」
    「言ってなかったから。交際してもらえることになって、すぐ誕生日っていうのも……私にとっての誕生日プレゼントは、史郎さんに付き合ってもらえたこと。だからもういただいています」
    「それじゃぁダメだよ。真湖さんにしてもらうことばっかりで、僕は何もしていない。少し待ってね。何か探すから。こんなとき何か美味しいものでも食べに行こうって普通はそうなるけど、本当にごめん」
    恋人の誕生日を祝って食事に行くこともできない。情けない。
    「手紙、修正しないと……」ん? 真湖さんの年齢のところに手書きで、棒が書いてあり、三十三歳になっていた。
    「いつの間に……」真湖さんは笑っていた。
    「そうだ、昨日の写真出来てるよ。見る?」パソコンにCD を入れて、
    「まず東京たてもの園で撮ったもの。覚えてる?」
    「懐かしい~。こんなに近くにあるのにずっと行ってなかった!」
    「サッカーの時の。真湖さん、かっこいいし、かわいい!」
    「あっ、ベルナルドさん。ベルナルドさんの写真これだけ?」
    「うん、焼きもち焼いてシャッター押せなかったんだ。途中で反省して、これだけ」
    「またチャンスがあるでしょう。今度はいっぱい撮ってあげてね」
    「プリントしたからあとで郵便受けに入れておくよ」
    「これ真湖さんの」もう一つの束を見て
    「これは? 僕の。そうだ真湖さんの写真一枚送ってやろうっと」
    「もっとちゃんとした写真がいいなぁ。スエットで……泥だらけ。まっいいか」確かに真湖さんの顔には泥がついているけど、楽しそうに笑っている真湖さんはとても魅力的だ。真湖さんらしい写真。
    「ちょっと貸して」真湖さんは写真の裏に、
    「隣室のベルナルドさんと雨上がりにサッカーをした時の写真です。
    なので泥だらけです。(^^)/               真湖 
    とサラサラ書いた。
    「じゃぁ、送ろうか」真湖さんが封筒を出してくれた。実家の住所が書いてある。
    「えっ? なんで知ってるの?」
    「昨日の宅急便の送り状に書いてありましたよ」
    「そうか、そうだったね。じゃぁ一緒に送ろう」切手も貼ってくれている。差出人の真湖さんの名前の横に僕の名前を書いた。字はかなり下手だ。恥ずかしい……
    「手紙と写真入れたら結構重いけど。切手大丈夫かな?」
    「郵便局に行こうか」
    「その方が安心ね」
    「じゃぁ出してくるよ」
     
    【江戸東京たてもの園】
    「今日は何か予定がある? ないならデートしてくれる?」
    「何にも予定はないけど?」
    「じゃぁ、デート! ほら、ベルナルドさんを起こしちゃ悪いから……」
    「そ、そうだね。どこか行きたいところはある?」
    「たてもの園は?」
    「行こうか。昨日フィルム買ったから、今日はこのカメラ使ってみて」KONICA C35 E&L。僕はOLYMPUS OM-1にした。駅まで行く途中で郵便局により、重さを計ったらちょっとオーバーだったので、切手を追加した。
    JRで一区、武蔵小金井駅。
    「バスに乗る? 歩いても行けるけど」
    「歩きましょう!」真湖さんはいつも元気だなぁ。感心するよ。一緒にいると僕も健康になれるだろうか。小金井街道を歩きながら
    「今日のお昼は、うどんでいい? ごめんね。誕生日なのに」
    「下調べしてくれたんだ」
    「カフェにも行こう。好きなもの頼んで」
    「大丈夫? 無理してない?」
    「大丈夫だよ。任せなさ~い。この前の大雨で桜はみんな散ってしまったけど、ユキヤナギがキレイだったよ。真湖さんの写真楽しみだ」
    「大丈夫かな。Penにやっと慣れてきたけど、あれは何もしなくていいから」
    「目測で距離を合わせることだけ忘れなければ大丈夫! まだカメラはたくさんあるから、ステップアップしていこう。二眼レフも撮ってみて」
    「できたらいいなぁ。でも大変なんでしょう。ピントだけじゃなくて合わせるものが他にもあって。やることがいっぱい。できるかな?」
    「シャッタースピード・絞り・ピントの三つを合わせてやっと写真が撮れるんだ。今日、二眼レフも持ってくればよかったねぇ」
    「まだまだ無理無理。今日は距離を合わせるカメラをマスターしてから、次をがんばります」
    「これも撮ってみる? 一眼レフカメラ。キレイに撮れるんだ。今日は真湖さんを撮りたいと思って、これにしたんだよ」
    「たてものを撮りましょうよぉ」
    「真湖さんを撮らせてよぉ」
    「史郎さんを撮らせてよぉ」
    ふざけていると、正門に着いた。入園チケットを二枚買って、
    「今日はお誕生日だから、全部任せてね」
    「すいません」
    「謝ることないよ。楽しもうよ。どっちから見る?」
    「じゃぁこっちから」園内マップを見ながら
    「奥から行こうか。下町中通り」
    「かわいい建物がいっぱい。村上精華堂……化粧品屋さん。昔のパッケージかわいい。お店の中写る?」
    「あまりアップでは撮れないけどね。レンズの上を見て。絵と数字があるでしょう。一メートル、一.五メートル、三メートル、それ以上の無限大。距離によって合わせてからシャッターを切ってね」
    「うん」真剣そうに距離を合わせている横顔をパチリ。
    「撮っちゃいました(笑)」
    「もう! 真剣なのにぃ」お店を覗きながら、店の外観や看板を撮り始めた。そんな君の様子を目で追ってシャッターを切ってしまう。
    「昭和の建物って、タイルが使ってあって、なんだか新鮮」
    「諏訪には今もこういう店構えのところはあるよ」
    「行ってみたーい!」
    「タイルが好きなら、あっちに銭湯があるよ」タイルは多治見あたりが生産地だ。
    「子宝の湯? タイルきれい! 絵が書いてある」
    「モザイクのタイルだけじゃなくて、絵も書いてあるね。こっちは女湯かぁ、入ったことないなぁ」出ようとしたら
    「照れているの? 本当の銭湯じゃないんだから」笑われてしまった。
    「じゃあ、男湯入る?」
    「うん!」……抵抗ないんだ。
    「何枚撮った?」
    「どこでわかるの?」
    「カメラの上の右横に数字があるよね。Penは丸い表示だけど」
    「九枚かな?」
    「三十六枚撮り入れたから。これはハーフじゃないよ。まだまだ撮るところはたくさんあるから」
    「はーい」撮影するのは楽しそうだ。景色を撮りながら、さりげなく君を写す。なんだかストーカーみたいだなって苦笑していると、パシャ!
    「撮っちゃいました(笑)」
    「もう! フィルムを無駄遣いしないでよ」
    「無駄じゃありませーん。思い出し笑いしている史郎さん。素敵です」
    「参ったな。ねぇ、そろそろお昼にしない?」規則正しく食事をしないと。
    「賛成! うどん屋さん、どこ?」
    「こちらでーす。ここの二階。階段気をつけてね」
    「うわぁ、街並みが良くみえる! 景色いい!」シャッターを切って楽しそうだ。
    「何にする? 僕は温かい武蔵野うどんにするけど」
    「かき揚げうどんにします」
    注文するとかき揚げうどんは売り切れとのこと
    「どうする?」
    「う~ん、山菜つけ汁うどんと……誕生日だから、笹大福追加してもいい?」
    「いいよ」というと、真湖さんは目を輝かせた。そういうところ、かわいいなぁ。二人でうどんをすすり、
    「今日、お手紙を書いてきたのは、母に言われたからなの」
    「そうなんだ」
    「うちの母は、誰かに何かしてもらったら、お返しをしないと気が済まない人で、送付状はすぐに剝がしたんだけど、何か送るって言うのでまずお手紙を書くことにしたの」
    「気遣いできる方なんだ」
    「父が事故で亡くなってから、すぐに返さないと返せなくなるかもっていう気持ちが強くなって……今度何か持たされるかも知れない」
    「ありがとう」
    「とんでもないものかも知れない」
    「どんなもの?」
    「真衣さんのご実家に、書家が書いた大きな額を贈ったことがあって、困惑させてしまって……。マンションにお住まいだから。他にも新築祝いに庭に置く置物とか……その時見たものを、「あっこれ差し上げよう!」って思うらしくて……。ちょっとセンスが……。その前に相談してくれたら止めるんだけど」
    「額は置くところがないなぁ。狭いアパートだからって言っておいてね」
    「最近は消えるものがいいんじゃないって? アドバイスするようにしてる」
    「消えるものって食べるもの? それも困るなぁ」
    「最近は好みがいろいろだから、カタログギフトをすすめているの」
    「だったらいいかもね。あれも選ぶのが大変だけど……」結婚式の引き出物にもらって迷っているうちに期限が過ぎて、花瓶が送られてきたことがあった。実家に送ったから、どこかにあると思う。笹大福が運ばれてきて、嬉しそうな真湖さんがかわいい。
    「笹大福って知らなかったから、食べておかねばって思ったの」
    「この至福の時を史郎さんにも味あわせてあげたい」
    「粒あん? 無理だな。ごめんね」
    「言ってみただけだから……」くれる気はないんだね。
    「そういえば、この前の面接はどうだったの? まだ連絡ない?」
    「応募者が多いから来週かな?……」
    「採用されるといいね。僕も決まらないかな……」
    障がい者のグループが見学しているのが目に入った。
    「あの方は……」
    「お知り合い?」
    「ハローワークで一緒だった人だ。視覚障がいだとお仕事難しいかな?」
    「でも、障がい者の人を雇用するようにすすめられているから求人があるはず」
    「ハローワークでも言われたよ。障がい者手帳はないかと。この程度じゃ障がい者手帳はもらえないと思うけどね」
    「特定疾患ではダメなのかしら?」
    「どうかな」
    「あっ、入ってみえた」偶然すぐ横のテーブルに座られた。ロンは足元で伏せの姿勢で待機している。
    「かわいい~!」手を伸ばしかけたので
    「ダメだよ。お仕事中だから」
    「あっ、間違っていたらごめんなさい。先日ハローワークでお会いした方ですか?」
    「そうです。よくわかりますね」
    「やっぱり。お声に覚えがあって。目は悪いけど、耳はいいんです」
    「声を覚えてくださったんですね」
    「お声から、三十代半ばぐらいの真面目そうな青年だとか。身長は一六五センチぐらいとかがわかります。お話から優しい親切な方というのもわかりますよ」
    「当たっています!」
    「あら、可愛らしい声の方……奥様ですか?」
    「いえまだ。今日はデートで、写真を撮りにきました」
    「写真がご趣味なの……うらやましいわ」
    「あっ、ごめんなさい……」
    「こちらこそ、余計なこと言ってごめんなさい」みなさんにお弁当が運ばれてきた。
    「ご飯は右手前、おかずのサーモンフライとサラダはその左、豆腐の白和えと漬物はご飯の奥、その左手にデザートの桜餅があります。お弁当の右手にお吸い物を置きます。ではごゆっくりお召し上がりください」お店の方は、わかりやすく説明されて、何人か視覚障がいの白杖を持った方がみえたが、みなさん安心して召し上がっている。
    「わたしたちは障がいがあるおかげで、こうして親切にしていただけるんですよ。ここも無料で入れていただきました」
    「そうでしたか。 ごゆっくりお楽しみください。では失礼します」
    「またどこかで、お会いできるかもわかりませんね」
    「その時はまたお声がけしますね」
    「失礼します」
    ロンは微動だにせず、椅子の下でおとなしくしている。ロンだけじゃない、他の三匹の盲導犬も。
     
    「目の不自由な方がここへ来ても楽しいかな?」
    「試してみる? 僕の肘のあたりを持って」目を閉じた真湖さんは、恐る恐る歩き始めた。
    「怖い~。あっでも石畳の様子とか、わかります。あっお出汁の匂い……」
    「ぷっ、うどん屋さんの近くだからね」さすが食いしん坊!
    「でも、写真が撮れないから、目を開けます。さっきの方もいつか見えるようになるといいですね」
    「これからの医学の進歩でなんとかなるといいね。ねぇ、『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』っていう本知ってる?」
    「名前だけは聞いたことが……本屋さんで見たのかな?」
    「目の見えない白鳥さんと美術館に行って作品を説明していくと、作品をより深く知ることができて、白鳥さんにアートを見せているつもりが、見せてもらっているって感覚になるんだって。美術館に行ってやってみたら面白かったよ。ちょっとやってみる?」
    「じゃぁ、あの建物を説明してみて」目を閉じて真湖さんの肘のあたりを持った。
    「花市生花店……昭和初期に建てられた〈看板建築〉の花屋です。建物の前面は花屋らしくデザインされています。店内は昭和三〇年代の様子を再現しています」
    「看板建築? 花屋さんらしく? 昭和三〇年代の様子? 伝わらない。説明を読んだでしょ。 それじゃぁ、白鳥さんに伝わらないね」
    「難しい! えっとぉ壁に 銅板が貼ってあって、緑色になっていて……」
    「緑色とは?」
    「えっ? そこから? この白鳥さん意地悪!」
    「ごめん、ごめん。前に色はどうしたら伝えられるかなとか、形とか……触るわけにはいかないからね。どう言ったら伝わるかって思ったんだ。最近は触れる展示もあるそうだけど。当たり前のことが当たり前じゃないから難しいね。特に現代美術はお手上げ。そもそも僕がわかってないから」
    「今度、岡本太郎ミュージアムに行って、白鳥さんごっこをやりましょう!」
    「川崎の?」
    「そう、岡本太郎は天才です。どんな作品も、岡本太郎の作だってわかるもの」
    「そうだね、今だと草間彌生もそう。唯一無二の天才だ」
    「史郎さん、美術も詳しいの?」
    「詳しくはないよ。ただ、美術館とか博物館には足を運ぶようにしている。知らないことや美しいものを見る機会は貴重だ。付き合ってくれる?」
    「私もミュージアムは大好きです。ぜひ、行きましょう!」
    「白鳥さんごっこやる?」
    「この白鳥さんは意地悪だから……次のゾーンに行きましょうか? あっ、待って、電車を撮る!」
    「真湖さん、鉄っちゃんなの?」
    「乗り物はみんな好き。電車も車も船も。ちなみに鉄道好きの女の子は鉄子と言うんです」
    「鉄子さん、諏訪に中央線で行く? 時間かかるけど」
    「うん! いつ?」
    「まず、手紙読んでもらってわかってもらわないと。うちの親もなかなか厄介だ」
    「厄介だなんて! 親だったら心配するの当たり前!」
    「わかっているんだけどね。気が重い、ふぅ~」ため息が出てしまう。
    「史郎さん、大丈夫だから。わかってもらえるから」
    「うん、次のゾーンは……大きな農家だね」
    「一八世紀後半ということは、江戸時代?」
    「幕末ぐらいかな。今はさすがにほとんど残っていないと思うけど、僕が子供の頃に、諏訪にはまだあったよ。ここまで大きな家はなかったけど。かやぶき屋根の家はあった」
    「岐阜? 富山? その辺の白川郷に家族で行ったことがあるけど、もっと尖がったおうちだったけど」合掌造りのことだね。
    「あっちは雪が多いからね。確か、あそこの名物は豆腐! 固い豆腐」
    「じゃぁ、史郎さんも行けますね! 行きましょう」僕も連れてってくれるの?
    「行けたらいいね」
    「行くんです! いろんなことあきらめないで。ふたりで乗り越えましょう。史郎さんが食べられないものは、全部引き受けますから」
    「ありがとう。心強いな」万世橋交番とユキヤナギをパチリ。真湖さん越しのユキヤナギパチリ。シダレザクラはこの前の大雨で散ってしまったけれど、来年また来ようと思う。武蔵野のハケに群生するシャガもパチリ。高橋是清邸前の樹林ゾーンのムラサキハナナをパチリ。
    「春はいいね。桜だけじゃなくて花が多くて。過ごしやすい良い季節。真湖さんはいい季節に生まれたね」
    「ムラサキハナナ、キレイですね~。名前もかわいい」
    「高橋是清邸行く?」真湖さんは門の方に歩いて行った。
    「さっきのロンの一行!」 障がい者のみなさんは、ボランティアスタッフの解説を聞いている。ロンたち盲導犬も飼い主の横にピタッと寄り添っている。
    「(小声で)解説聞こうか?」真湖さんが頷いた。高橋是清の人となりや政治家としての活躍、そして二・二六事件のことを聞いた。
    「ここで? 殺されたの?」
    「そう、この二階で」
    「あっ、先ほどの……」ロンのご主人だった。
    「お耳がいいですね。大石と申します。解説聞かせてもらいました」
    「大石さん、写真を撮られているんですよね。もしよかったら、私たちを撮っていただけないかしら」
    「いいですよ。フィルムカメラなのですぐには現像できませんが、あとでお送りします」
    「みなさん、写真を撮ってくださるって。並んでください」
    「ちょっと待ってくださいね」真湖さんが、みなさんの顔が見えるように、手を添えて並んでもらった。もちろん、盲導犬たちも。
    「こちらを見てください。写しますよ。はいチーズ!」横で真湖さんがオーバーアクションで手を叩いた。そうしたら目の不自由な方も耳の不自由な方も、盲導犬たちもみんなこっちを向いてパチリ。真湖さんグッジョブ! 
    「ありがとうございます。きっといい写真だわ。お嬢さん、ナイス! 気遣いができる方なのね。素晴らしいおふたり。お似合いだわ」
    「ありがとうございます。どちらにお送りしますか?」
    「ご面倒だけど、こちらに」名刺をいただいた。
    「プリントした写真を送りますか? データを送ることもできます」
    「じゃぁ、データでいただける? こちらからみんなに送りますから」
    「承知しました」
    「大石さん、ありがとうございました。お嬢さんお名前は?」
    「真湖です」
    「マコさん、ありがとう。あなたがしてくださったこと、本当にうれしかった」
    「ありぃ、がぁと、ござぁい、あした」聾の方からもお礼を言ってもらえ、みなさんに喜んでもらえたことで、僕らも気分がよかった。
    「じゃぁ、送りますね」
    「待っています」
    「では、また」次のゾーンへ移動した。
     
    田園調布の家・大川邸。
    「かわいいおうち。明るいですね~」
    「これだけ明るいと、室内でも撮れると思うよ。今日はKODAK ISO感度 200のフィルムが入っているから」室内から庭をパチリ、外観がかわいいからパチリ。真湖さんをパチリ。前川國男邸をパチリ。建築家だけあっておしゃれなたてもの。洋風の小出邸をパチリ。建築家・堀口捨己設計。また真湖さんをパチリ。おしゃれなたてもの。僕の好きな常盤台写真場をパチリ。洋と和が融合した素敵なたてもの。明かり取りの窓からの光が柔らかい。ここでも真湖さんをパチリ。
    「わぁ~ボンネットバス! かわいい!」真湖さんが写真を撮りに走って行ってしまった。真湖さんは時々子どものようだ。乗り物が好きなんだね。そんな君がかわいいよ。ボンネットバスと真湖さんをパチリ。三井八郎右衞門邸をパチリ。庭園もいい感じ。やっぱり真湖さんをパチリ。
    「真湖さん! 休憩しない?」
    「史郎さん! カメラ、動かなくなっちゃった。壊した?」
    「見せて……もう撮り終わっているね」
    「壊したと思ったぁ~良かったぁ」
    「休憩しよっ」デ・ラランデ邸のカフェへ……
    「史郎さん、大丈夫?」調べてあるから大丈夫。
    「お好きなものをどうぞ」
    「僕はカルピスにするよ。安心だし、懐かしいよね」真湖さんはメニューを見て、
    「カフェ・オ・レ……いや、待って。後悔したくないから、アップルパイもつけて。いい?」
    「いいよ。今日は真湖さんの誕生日だから、遠慮なく。他は?」
    「十分です。ありがとう」注文して、運ばれてくるまでに、フィルムの巻き戻し。
    「底に黒い小さなボタンがあるでしょう。それを押して、巻き戻して。これはPenも一緒だから大丈夫だよね」真湖さんはフィルムを巻き戻して、裏蓋を開けた。
    「フィルムは現像に出すから貸して」OM-1はまだ三枚ぐらい撮れるはず。
    「このカメラで撮ってみる? 教えるから」
    「難しい?」
    「大丈夫だよ。やってみよう!」
    「初めての一眼レフカメラ」
    「レンズが交換できて、ズームレンズも使えるよ。今日は持ってきてないけど遠くも撮れるよ」
    「お待たせしました。カルピスは?」
    「僕です。あとは彼女です」
    「美味しそう~! いただきます」
    「真湖さん、お誕生日おめでとう!」
    「ありがとぅ。美味しい!」
    「そう、良かった」
    「久しぶりのカルピス美味しいな。子供の頃を思い出すよ。うちは薄めのカルピスだったけど、友だちのうちはお金持ちだったから、濃いめだった」
    「カルピスウォーターはよく飲んだけど、水で薄めるのは飲んだことないかも?」
    「うっ、ジェネレーションギャップ。言わなきゃよかった」
    「そんなに違わないじゃない」真湖さんはアップルパイを美味しそうに食べている。
    「昔、お中元にカルピスをもらうことが多かったよ。ビンを水玉模様の紙で包装してあってノーマルとフルーツのカルピスが並んで入っていたよ」
    窓の外を見ると、中学生か高校生の女の子たちが歩いている。中には日傘をさしている子もいる。
    「日傘! 中学生くらいなのに? 信じられない」
    「大学生は結構いたよね」
    「私は、中学や高校の頃、真っ黒に日に焼けてた」スポーツが好きだからね。
    「僕はすぐ赤くなって、ヤケドみたいになるから嫌だったけど、日焼けしてたな」
    「色が白い方だからね。うらやましいな。私、色黒だから」
    「そう? 健康的でいいじゃない。僕の方がうらやましい」
    「ごちそうさまでした」
    「どういたしまして。あとフィルム三枚ぐらい残っているけど、撮影してみよう!」
    「うん」パンフレットを見ながら、
    「どこ写す? あと八王子千人同心組頭の家と綱島家・吉野家、どちらも農家だね。奄美の高倉これは倉庫」
    「史郎さんを撮りたい。モデルになって! だめ?」
    「恥ずかしいな。でもいいか。撮って。まずフィルム感度は合わせてある。露出計は付いているので、カメラの上にON・OFFってレバーがあるから、ONにしてね。ファインダーを覗くと左の下の方に針があるよね。わかる?」真湖さんの表情は真剣だ。 
    「レンズの根元に絞りの数値があるからこれを回すと、針が動くのわかる? この針が真ん中にあるときが適正露出。それが一番いい状態。次にシャッタースピード、今日みたいないい天気の屋外で撮影するときは、シャッター速度は1/250ぐらいでいいと思うよ」頷く真湖さん。
    「ちょっとこれ見てくれる。スマホに露出計のアプリがあるんだ。うちに来た時露出計って見せたっけ?」
    「ストップウォッチみたいなの?」
    「そうそう、今日は持ってきてないから、スマホの露出計を使うね。写す方に向けてここを押すと、絞り・シャッタースピードの数値が出る。フィルム感度を合わせると数値が変わるのわかる? ほら、さっきシャッタースピード1/250って言ったよね。1/250になってる」頷く真湖さん。
    「あとはピントね。今日のC35 E&Lは目測式だったけど、ピントリングを回すと、くっきりしたりぼやけたりするよね。ピッタリ合わせてシャッターを切る」
    「写真を撮るのって大変なんですね~。こんな難しいとは……」
    「真湖さんなら大丈夫だよ。撮ってみて。どうすればいい? 立ってればいい?」
    「自然にしてて。一番素敵なところを撮るから」カメラを構えて僕を見ている。
    「緊張してきたよ。勘弁してよ」笑ってしまったら、シャッターを切られた。
    「うん、今のいい感じ。いいよ、いいよ」と言いながら近づいてくる。
    「なんかプロのカメラマンみたいだな」笑ってしまうと、またシャッターを切られてしまった。
    「もうフィルムないと思うよ。今日はここでおしまい。帰ろうか」振り返ったらまたパチリ。恥ずかしいなぁ。
    「帰りましょう。三枚だったけど、一眼レフカメラ堪能しました。ご指導ありがとうございました!」
    「駅までどうする? バスに乗る? 歩く?」
    「歩きます」真湖さんは、
    「♪歩こう 歩こう わたしはげんきぃ♬
     歩くの だいすきぃ どんどんいこう~♪」ご機嫌だった。
    「トトロだっけ?」ちょっと外れた音程。それがかわいい。
    「そうトトロの『さんぽ』。今この気分なの」歌詞を忘れたところは誤魔化して歌ってる。
    「電車好きだったね。ここに機関車があるよ。D57」
    「フィルム残ってない。残念!」
    「OM-1まだあるかも? シャッター切ってみたら?」
    「うん、えーと、ここの数字を合わせて、ピントを……史郎さん早く!」
    「え~また? もういいよ」
    「練習なんですから、モデルになって! 機関車を見る……」
    「こんな感じ?」
    「うん、いいよ~。いいよ~」またカメラマンになりきっている。
    「どこで覚えてきたの? それ」笑ってしまったら、シャッターを切られた。
    「あ、動かなくなっちゃった」
    「フィルム終わったね。巻き戻そうか」
    「今日、コンドーカメラさんに寄って、現像をお願いする?」
    「えっ? 今日の写真……」恥ずかしいけど、付き合っていることはばれているんだから、まぁいいか……。今までの僕のキャラではないから驚かれると思うけど。真湖さんと付き合うようになってから、僕は変わったような気がする。いや確実に変わった。
     
    「昨日の夕飯は何を食べたの?」
    「昨日は手紙のことが気になって、簡単に済ませたよ。豆腐を買ったでしょう。あれに送ってもらった諏訪の味噌をつけて、おかずにして食べたよ。懐かしかった」
    「お味噌を?」
    「昔はキュウリとかキャベツとか、野菜につけて食べていたんだよ」
    「美味しそうね。今度やってみる」コンドーカメラさんに寄り、今日はバイト君しかいなかったので、現像をお願いして、現像代を支払った。明日取りに来ることにした。内心ドキドキしている。
    「今日は帰って。今日、誕生日でしょう。三十三年前の今日、お母さんは大変な思いをして真湖さんを産んだんだよ。お母さんに感謝してもいいんじゃない?」
    「うん、そこまで言うんなら。今日は何食べるの?」
    「安心ごはんを作るよ。心配しないで。大丈夫だから」
    「うん」
    「今日は本当に何も用意してなくてごめん。C35 E&L使ってみてどうだった?」
    「距離合わせるのだいぶ慣れたけど。Penの方が何もしなくていいから楽かな」
    「現像ができたら、Penの写りと比べてみて。気に入ったらあげるから」
    「おじいさんの遺品でしょ?」
    「見たでしょう。あんなにたくさんあるんだよ」
    「うん。現像楽しみにしてる。じゃぁ、バイバイ」
    「じゃぁね。お母さんによろしく!」改札で真湖さんを見送った。
     
    朝イチでコンドーカメラさんに行って、昨日の現像を受け取りに行った。
    「大石君、表情も明るくなったし変わったねぇ。写真見てびっくりしたよ。真湖さんの愛の力だね」
    「はぁ。恥ずかしいな。乗せられてしまって……」
    「いいんじゃない。体調も良さそうだし、何といっても明るくなったよ」
    「はぁ、ちょっと確認してもいいですか?」パソコンを借りて恐る恐る見てみる。まず、OM-1、たてもの園と撮影する真湖さん。真剣な表情もいいなぁ。プリントしてコレクションしよう。……障がい者のみなさん・ロンのご主人の和田さん、みんな良い表情。撮影の時の真湖さんのおかげだな。よく思いついたもんだと感心した。早速送らないと。最後の四枚……僕はこんな顔してるんだ。自分じゃないみたいだ。露出もピントも構図もいい。悔しいけど僕が撮った写真よりうまいかも知れない。
     KONICA C35E&L。距離が合ってないものもあったけど、全体的にキレイに撮れている。KONICAならではの色ノリがいい。KODAKのフィルムのせいもあるかな。写真のあちこちに僕が写っている。お互いに隠し撮りをしていたのか。
    「いいよねぇ、二人で写っているのがないけど、お互いに撮影しあって仲良しだねぇ。おじさん、うらやましいよ」
    「プリントをお願いします」
    「真湖さんだけでいいの? 大石君のは?」
    「僕の写真はいいんです」
    「いらっしゃい~見えてますよ」真湖さんだった。
    「おはようございます。ここだと思った。」
    「現像できてますよ」
    「見せて」
    「真湖さんが写っているのはプリントをお願いしたよ」
    「史郎さんのは? それを確認したかったのに……」
    「自分で確認してみて。よく撮れてました」
    「これがOM-1・1眼レフね。こっちがC35 E&L。確認して」逃げるように店の奥の盛山さんのリメイクしたカメラを見る。……最近の昭和カメラブームのせいか、OLYMPUS Pen EE-2・EE-3は売り切れていた。35DCやPen D、Pen Sはそのままだ。KONICA C35もFD以外は売れていた。台数はだいぶ減っている。追加されるだろうか?
    「大石君、プリント出来たよ」
    「はい。おいくらですか?」
    「十四枚で七〇〇円です」プリンターが動いている……
    「真湖さん、プリント出来たよ」
    「二〇枚で一〇〇〇円です」そんなにたくさん?
    「母にも見せようと思って」
    「二人ともアルバムサービスするね。毎度ありがとうございます。最近プリントする人が少ないから、嬉しいよ。ありがとう」
    「こちらこそ、ありがとうございました」
     
    「今日はこのために?」
    「だって気になったんだもん」
    「僕は心配だった。変な顔で写っているんじゃないかって……」
    「言ったでしょ。一番素敵なところを撮るって」
    「ありがとう。自分じゃないみたいだった」
    「私、写真上手くない?」
    「うん、上手い。構図もいい、悔しいけど僕より上かも知れない……中古で悪いけど、KONICA C35E&Lを進呈します。ぜひ使ってみて。あのカメラには真湖さんの方が合うのかも知れない。今回は僕の負け」
    「本当?」
    「本当。悔しいけど。今度は負けないから! もう使いかた教えてあげないんだから」
    「意地悪! カメラどれでも使っていいって言ったじゃない! 負けず嫌いなんだから」
    「ごめん。言い過ぎた。負けず嫌いでした。初心者の人に負けるなんて、悔しかったんだ。おとなげない」
    「勝ち負けじゃないでしょ。フィルムカメラを楽しみましょう。また貸してくれる?」
    「うん。また撮りに行こう」
    「で、今日は何をしましょうか?」
    「仕事の連絡はない?」
    「来週じゃないかな? それまで遊ぶ。史郎さんは?」
    「連絡なし。送ってからずいぶん経つけど」
    「最近は郵便遅いから、もう少し待ちましょう」
    「そうだね」
    「そう、昨日早く帰ったじゃない。母に史郎さんが言ってくれたことを伝えたら泣かれちゃった。私が生まれた時のことをいろいろ思い出して、その時のことを聞いたの。母子手帳とかへその緒とか大事にしていて……そんな話ができたのは史郎さんのおかげ。ありがとう。でも兄たちは双子だからもっと大変だったって」
    「そう、よかった。僕の大学時代の友人が、誕生日は家族で過ごすと決めていて、どうしてって聞いたら、すごい難産で産まれたんだって。だから誕生日のその日は自分を祝うんじゃなくて、母親に感謝をする日にしているって。それちょっといい話だなって前から思っていて……」本当は友人じゃなくて彼女だったけど、それは言わなかった。その子は僕にはそう言って、別の人とデートしてたから。
    「自分も電話ぐらいしようって思っているけど、いつも自分の誕生日は忘れちゃう。親不孝者だよ」
    「そうだったの。今年の誕生日はお電話しようね。それとも会いに行っちゃう?」
    「そうだね。その日に行けるかわからないけど。電話はしようと思っている」
    「大丈夫! 私がちゃんと教えてあげる。見てこれ」真湖さんのスマホのカレンダー八月九日・史郎さんの誕生日!
    「えっ? なんで、知っているの?」
    「史郎さんファンとして当たり前ですよ……実は前に、健康診断の用紙だったかな。机の上にあって、名前の横に生年月日記載してあるじゃない。こっそり見ちゃったの」
    「個人情報なのに……」
    「ごめんなさい。でもその用紙を裏向けておいたのは私です」
    「そうだったんだ。何かあると忘れちゃうんだよね。反省」
    「しっかりしているところと抜けているところがある。そこがいいんだけどな」
    「そのとおり。よく言われる。その都度反省しているんだけど」
    「なんか今日、史郎さん弱いね。心配ごと?」
    「あぁ、うち行く? ベルナルドさんはそろそろ帰って眠っているはず」
    「うん!」なんかあったのかな? パトカーが何台も走って行った。そのあとには救急車も……なんか嫌な予感。
    「そろそろうちに手紙が届いているんじゃないかと思うとね。あと仕事の連絡があるかなって」
    「どちらも良いことじゃない? 楽しみ!」
    「真湖さんはポジティブだね」
    「あんまり深く考えていないからかな?」
    アパートに着くと住吉さんが出てみえた。不安そうだ。
    「おはようございます」
    「大変! さっき、警察の方がみえて、ベルナルドさんがケガをされたって」
    「えぇっ? じゃぁさっきのパトカーとか救急車?」
    「そういえば、ベルナルドさんが働いているコンビニの近くだった」
    「ベルナルドさん、大丈夫かな。心配」遠くで救急車のサイレンが……
    「ちょっと見てきます!」そういうと真湖さんは駆け出して行った。すばやいな。5分ほどして真湖さんが戻ってきたので聞いてみると、コンビニ強盗があって、ベルナルドさんがケガをして救急車で運ばれたとか。それ以上はわからない。
    「住吉さん、大丈夫。ケガをされたそうです。ベルナルドさんなら大丈夫ですよ」
    部屋に戻って、ネットで調べてみたけどまだ何の情報もなかった。
    「またサッカーできるよ。あんなに元気で明るいベルナルドさんだもん。すぐ帰ってくるよ」
    「そうよね、またサッカーやりたいし、チームに入れてもらってないんだから」
    「真湖さん、大丈夫。ベルナルドさんのことは大丈夫だから」
    不安そうな真湖さんをそっと抱きしめる。何分ぐらいそうしていただろうか。
    「真湖さん、大丈夫だよ。落ち着いたらお見舞いに行こう」
    「うん、うん……うん」泣き出してしまった
    テレビをつけると、お昼のニュースでコンビニ強盗のことが報じられた。犯人に金属バットで殴られたベルナルドさんは重傷。犯人は確保されたと。重傷なら命に別状はないはず。真湖さんが不安になったのは、お父さんが交通事故で亡くなったからだった。救急車のサイレンを聞くと不安になってしまうと……。ベルナルドさんの回復を祈るのみだ。
    「昨日の写真をロンのご主人・和田さんに送るよ。みなさんレンズを見て微笑んでいる。盲導犬たちもカメラ目線だ。真湖さんがとっさにみなさんに伝わるように工夫してくれたからだね。きっと喜ばれるよ」
    写真をメール添付で送信した。みなさんに見てもらえるといいな。
    真湖さんはまだ不安そうにしている。さっきまであんなに元気だったのに……。僕は真湖さんを笑顔にすることもできない。
     
    携帯が鳴った。親からかと思いドキッとしたが、先日応募した図書館だった。
    「はい、大石です。……お世話になります。…………はい、明日十二日の午前十一時……かしこまりました。……何かお持ちするものはありますか?……身分証明書のコピーですね。マイナンバーでよろしいでしょうか?…………承知しました。…………はい、よろしくお願いします」
    「面接の連絡?」
    「市大図書館の面接。明日の十一時だって」
    「きっと採用される!」
    「スーツで行くべき?」
    「行くべき」
    「スーツなんて全然着てないから、サイズ大丈夫かな?」
    「着てみないと!」押し入れに入れてあったスーツは、ぶかぶかになっていた。無理もないスーツを作ったときから十キロ以上痩せたのだから。
    「スーツを買ってくるよ。これじゃぁみっともない」
    「そうねぇ、直すのも時間がかかるから。買いましょう。一緒に行く」
    「お昼から付き合ってくれる? 安い量販店、駅の方にあったかな?」
    「国道沿いにあったはず。ご飯作りますね。安心ごはんを!」よかった。真湖さん、元気が出てきたようだ。スキャナーでマイナンバーを読み込んで、コピーを取った。
    「司書資格のコピーも持って行った方がいいかも?」
    「え~どこにあるかな?」大事なものが入っている引き出しにあったのでこれも用意。
    「ごはんできました。ちょっと遅くなっちゃった」鶏団子入りのスープとご飯。優しい味。
    「真湖さん、ありがとう」
    「安心ごはんって簡単なものが多い! スパイスとか凝った調味料は使わないし、食材も限られているから」
    手間をかけているのは知っている。それを僕にそう感じさせないように言う君の優しさ、感謝!
    「おかげで最近身体の調子がいいよ。感謝しています! ストレスも軽減したからね」
    「あとはお仕事が決まったら言うことなし!」
    「そうだね」
    「行きましょうか?」
     
    スーツは真湖さんに選んでもらった。チャコールグレーの落ち着いた感じの色。事情を話して急ぎで裾を直してもらい、待ち時間でシャツとネクタイを選んでもらった。図書館で働いていると、職場でスーツを着ることはまずない。気楽ではあるけど、社会人としてはスーツの一着もないといけないだろう。頭もカットすることにして、いつもの床屋さんに行き、真湖さんも顔を剃ってもらうことにした。僕はご主人に、真湖さんは奥さんに担当してもらった。顔がつるつるになって、眉をかっこよく整えてもらって喜んでいる。
    「今日はいろいろあったね。はじめてケンカもしちゃったし、ごめん。おとなげなくて……」
    「あんなのケンカのうちにはいらない」
    「許してくれる?」
    「うん! 許す。最初から怒ってないけど」
    「あとはベルナルドさんの回復を祈るのみだね。コンビニ行ってみようか」
    さすがに店はやっていなかった。店長が店内にみえたので、ベルドナルドさんの隣人で仲良くしていると自己紹介して、ベルナルドさんの容態を聞いた。頭と左腕を殴られて、全治一ヵ月だけど元気にしているとのこと。労災だから入院中も給料が出ると聞いて安心した。アパートに戻り、住吉さんに報告すると、住吉さんは心配で食事もできなかったそうだ。安心してこれからご飯を食べるという
    食事をするってことは、元気が出るってこと。大事なこと――。
    「おやつにしない?」
    「アレ、行っちゃいますか?」
    「アレね」
    「アレ」最近のお気に入りの紙パックの水ようかんを、今日はこのまま。つるんと入ってしまう。
    「まぼろしみたい」
    「本当にまぼろしだ」病気になってから、おやつを食べることはなかったけど、真湖さんといるとおやつが欲しくなる。甘いもの、幸せだな。お茶も美味しい。
    「写真をベルナルドさんにまだ渡してないから、お見舞いに行くとき持っていくよ」住吉さんも行くかな?
    「きっと、これだけ? って言われると思う。今度はちゃんと撮ってあげてね」
    「その件は反省しています」
     
    【市大図書館】
    身支度を整えて、予定より早い時間に出て、ゆっくり駅に向かう。駅からバスが出ているはずだ。スーツを着ていると、サラリーマンになったようだ。
    ポケットの中には真湖さんに借りている田中ひかるの『生理の社会史』。ナプキンが開発されてからまだ五十年ぐらいとあり、それまではどうしていたのか知ることができた。でも生理のことは今でも正直なところよくわからないままだ。今でこそコマーシャルが流れているから、生理用品の存在は知っていたけれど、開発がこれほど大変だとは。ふと、この本は男が読んでもいいものかと思ったが、男性にこそ読んでもらいたい。
    「はじめまして、大石史郎と申します。図書館職員の面接に伺いました。よろしくお願いします。こちら提出書類です」
    「そちらでかけてお待ちください。担当の井上がまいりますので」
    指示された席の壁には、岡本太郎のレリーフが飾られている。TAROとサインがあるから本物だろうか? 丸・三角・四角の単純な組み合わせでありながら、生命力が感じられる作品だ。
    「大石さんですか?」
    「はい。はじめまして大石史郎です。よろしくお願いいたします」
    「では、こちらへ」小さな会議室には三人の面接官が待機していた。
    「大石史郎です。よろしくお願いいたします」
    「大石さん、おかけください。人事部の田崎・松田・蜂谷です。よろしくお願いします。いくつかお伺いしたいことがありますがよろしいでしょうか?」
    「はい、よろしくお願いします」
    「まず、前職をお辞めになった理由を教えてください」
    「前職の国分寺大学図書館に十四年勤務してまいりましたが、年々アウトソーシング化が大学全体に進み、図書館もその対象になりました。昨年度、図書館司書の正規職員三名に対し他部署への異動が命ぜられました。私は大学を卒業してからしてから図書館でしか働いたことのない人間です。図書館のあらゆる仕事をやってきました。図書館司書の仕事を続けたいと思い、異動を拒否し退職した次第です」
    「今回の募集は産休の職員の代理、一年間の限定の業務ですがよろしいのでしょうか?」
    「はい。一年間という勤務は私にとっても都合のいい期間です。図書館司書を辞めざるをえなかった司書の仲間で、大学図書館専門の派遣会社を設立しました。今年度の入札には間に合いませんでしたが、来年度は私たちの派遣会社が落札できると思っております」
    「落札できなかったらどうしますか?」
    「…………できると思っております」
    「思っているだけですか?」
    「今のところは、そうとしかお答えできません。それが一年間だけの業務を志望した理由です」
    「そうですか……」
    「では、体調面でお聞きしたいのですが、難病を抱えていらっしゃるとのことですが、具体的な病名と経過をお聞かせください」
    「病名は『潰瘍性大腸炎』という特定疾患の難病です。原因は不明ですが、ストレスがいけないと言われています。発病するとどうなるかと言うと、腹痛・下痢・血便・発熱などの症状があります。ここ数年で四回ほど再発・寛解を繰り返しておりまして、現在は寛解している状態です。日常生活に支障はありません」
    「治ったわけではないということですか?」
    「この病気は完治の難しい難病です。ですが、食生活に気をつけること、ストレスをためないようにすることに気を配れば、寛解の状態を保つことができます」
    「でも、数年で四回も再発しているんですよね」
    「再発の間隔が短くなりましたので、今週から免疫調整薬を始めることにしました。予防薬です。月一回注射をします。そういう理由で、履歴書に記載しましたとおり、平日に月一回通院するためにお休みをいただきたいと思います」
    「絶対再発しない?」
    「それはわかりません。まだ投与していませんので。新薬ですがある程度の効果がみられると医師から聞き、投与することに決めました」
    「障がい者ではないの?」
    「この程度のことでは障がい者認定はされません」
    「障がい者ではないの、そう。病気のことはこれくらいで……みなさんよろしいですね」
    「図書館の業務で得意なことは何ですか?」
    「目録作成・リファレンス・ILL・選書など図書館のほとんどの業務に対応できます。中でも目録業務を一番長く担当していました」
    「通勤時間はどのくらいですか?」
    「家から駅まで徒歩一〇分、駅からバスでこちらまで十五分。三十分以内です」
    「何かご質問はありますか?」
    「貴校の図書館システムを教えてください」
    「……ちょっと待ってね」担当者にきいてと指示を出した。
    あぁ、この方たちは図書館のことはご存じないんだ……
    「富士通だそうです」
    「富士通のiLisWaveですね。前職で使っておりましたので、即戦力になると思います」
    「他は?」
    「今回の産休職員の代理の募集ということでしたが、その方はどのような業務を担当されていましたか? また、その方の業務を引き継ぐということでしょうか?」
    「図書館業務全般に対応できる人を募集しています。具体的に何の担当かは決まっていません」担当が決まっていない? どういうこと?
    「現在、どこもアウトソーシング化が進み、派遣社員が増えています。今回の募集は契約社員ということですが、それはなぜですか? こういう短期の仕事なら派遣会社の方が最適だと思いますが」
    「それはあなたには関係のないことです」
    「失礼しました。では、図書館を見学させていただくことは可能でしょうか?」
    「いいですよ。ご案内します。どうぞ」
    「きれいな図書館ですね。吹き抜けですか。おしゃれですね」
    「三年前に新築しました」
    「職員の方にお話を伺うことは可能ですか?」
    「それはちょっと……許可が出ておりませんので」
    「そうですか。失礼しました」話しをしてはいけない理由はなんだろう。
    「採用・不採用のご連絡は後日改めて致します。しばらくお待ちください」
    「はいよろしくお願いします。失礼します」
     面接はダメだったかも知れない。聞かれたことは、図書館というより病気のことが多かった――
     
    ピコン! 真湖さんからLINE
    ――面接どうだった?
    ――ダメかも?
    ピコン!
    ――なぜ?
    ――面接してくれた人が、人事の人たちで、病気のことばかり聞かれたよ。
    ピコン!
    ――今日はどうする?
    ――今日は疲れたから帰るね
     あぁ……反省。すごく嫌な奴に思われたかもしれない。ダメだなぁ。お腹が痛くなってきた。ストレスだな。アパートに戻ってうとうとしていたら眠ってしまった。眠ったらお腹の痛みは和らいだ。お昼ご飯を食べないと、規則正しく食べないと……。軽くそうめんにしよう。お湯を沸かしていると、ノックの音が……真湖さんだった。
    「史郎さん、元気出して。まだ他に仕事はあるよ」真湖さんを抱きしめるというより、抱きしめられて慰めてもらっている。
    「ありがとう。真湖さんパワーをもらったよ。今お湯を沸かしてる。そうめんでも食べる?」
    「うん!」真湖さんは元気がいいな。食べながら今日の面接で聞かれたことや、面接してくれた人が人事の人ばかりで、図書館のことを何も知らない人たちだったことを話した。真湖さんの面接も図書館の人は参加されなかったそうだ。図書館の人には人事権はないのかと残念に思う。図書館で仕事ができるかどうか、現場の人が判断しないと――
    「アレも食べようか」一パックの残りがまだあるはずだ。
    「あと一パックあるから、まだ楽しめるね」
    「ベルナルドさん大丈夫かなぁ。お見舞いに行けるといいけど、最近は家族以外の面会は難しいかも……」
    「何か欲しいものあるかな?」隣の部屋で物音がした。
    「えっ? ベルナルドさん?」ドアを開けると、ベルナルドさんにどこが似ている少年だった。
    「ベルナルドさんのご家族の方? 。隣りの大石です」
    「オトオト」
    「ベルナルドさん大丈夫?」
    「ダイジョウブ、ダイジョウブ。イマ、ヒドイカオ シテル」
    「ベルナルドさんに渡してほしいものがあるから、待ってて」
    この前のサッカーの時の写真を持って行ってもらう。
    「オオイシリンゴ ナンデスカ?」
    「持ってきてって? 入ってもいい?」
    「ドーゾ」
    冷蔵庫の上の籠に入っていたリンゴ二個と、冷蔵庫のジュースを持っていってもらう。部屋の中にコンビニの制服がかけてあり、サッカーボールが転がっている。
    「ベルナルドさんに会いに行くことはできる?」
    「イッショニ イク?」
    「行きます!」
    「真湖さんベルナルドさんの面会に行くって。ついて行こう!」
    「マコ? マコ。サッカー上手なマコ?」
    「そう、サッカーの上手な真湖さん」
    三人で荷物を持って、ベルナルドさんの病院に向かった。真湖さんが嬉しそうにしている。
    「ベルナルドさん!」頭から顔にかけて包帯が巻かれていて、左の腕はギブスで固定されて痛々しい。
    「マコ~! マコ~!」真湖さんの方からベルナルドさんに抱きついていって
    「痛いケド、うれしい。会いたかったマコ」僕のことは眼中にないようだ。今日だけは許すよ。
    「大変だったね。早く元気になってね。また、サッカーやりましょう!」
    「マコ~。サッカー、手いらないからダイジョウブ」
    「ベルナルドさん、住吉さんが心配されてね。ご飯も食べられなかったんだよ。早く元気になって会いにいってね」親指を立ててポーズをした。カシャッ。スマホで写真を撮る真湖さん。
    弟さんとポルトガル語で何か話している。あっという間に面会時間の十五分になったので、看護師さんに促されて、病室を出た。
    「大石リンゴ!」ベルドナルドさんが歓喜の声を上げている。そんなに好きなら送ってもらおうか。
    「ベルナルドさん、元気でよかったね」
    「ねぇ、何か必要なものがあったら言ってね」
    「シンセツナ オトナリサン。サッカーデキナイ オトナリサン」ベルナルドさんは弟さんにそう伝えていたらしい……
    「ボクノナマエハ セレソン コウコーセイ サッカー ベルナルドヨリ ジョーズ」
    「サッカーチームに入れてくれる?」
    「マコ、チームノメンバー」
    「本当? よろしく!」
    「Até logo (アテ・ローゴ)」
    「chau (チャオ)」
     
    「セレソン君かわいいね。住吉さんに伝えないとね」
    「サッカーすぐにでもできそうね。安心したわ」二人で住吉さんを訪ねて、
    「ベルナルドさんの弟さんがみえたので、一緒に病院に行ってきまました」
    「お元気でした?」
    「左腕をギブスで固定していて、骨折したそうです。頭も殴られたそうで、包帯を巻いていました」こちらですと真湖さんが見せているのは、さっき撮った笑顔の写真だった。
    「まぁ包帯巻いてパイナップルみたい」住吉さんが笑っている。言葉よりもその方が伝わる。真湖さんは賢いなぁ。
    「ではまた」
    「ごきげんよう」生ごきげんようだ! 
     
    部屋に戻ると真湖さんが
    「史郎さんは草食なの?」と聞いてきた。
    「肉も食べられるよ。油っぽいのやたくさんは無理だけど」
    「そういうことじゃなくて!」
    「私に興味がないのかってこと!」
    「大いに興味はあります。あまりガツガツ行くと嫌われるかと思うと慎重になってしまうよ」
    「今日、ベルナルドさんいないんですよ。明日もいないんですよ」
    「あっ、そういうこと。ちょっと待って、準備が必要だから……」
    「もう!」真湖さんにタックルされて、押し倒されてしまった。そのまましばらく抱きしめられて。何度かキスをして、抱きしめて……
    「真湖さん、レスリングやってた?」
    「史郎さん! すっごく勇気出した結果がタックルなの。もう知らない」
    「待って、この前言ったでしょう。仕事が決まって収入が安定したら、必ず僕から言うから」
    「結婚するまで何もなしってこと?」
    「自信がないんだ。心の準備が必要だし、自信を持ってから。僕だって我慢している。真湖さんにもっと触れたいけど、今の僕では自信がない。それにこんな汚い部屋じゃダメだよ。ムードとか……」ムードとかはいいのか?
    「また襲うから。もっと頑張るから! ガオ~ガォ~」真湖さんは野獣になってしまった。
    「ガォ~って」思わず笑ってしまった。
    「ガオ~お腹が空いてきた~! ガォ~ガォ~」ふざける真湖さんがかわいい。真湖さん、僕は女性と深く付き合ったことがないんだ。どうしていいかわからない。カミングアウトしたら嫌われるだろうか。いい年をしているのに、どうしよう……。普通の人はアダルトビデオとかで勉強するんだろうか……。
    どうしたらいいんだ……。
     
    スマホが鳴った。出てみると『大隈内科クリニック』の看護師の和田さんだった。
    「大石です。あっ、…………お世話になります。……はい、体調はとてもいいです。…………えぇ、明日免疫調整剤を始めるんですよね。予約の時間に伺います。……はい。では明日よろしくお願いします。失礼します」。
    「看護師さんからだった」
    「その看護師さんって、背の高いきれいな方?」
    「そうだよ。真湖さんお知り合いなの?」
    「そうじゃなくて、写真を見る会に史郎さんがみえなかった時があったでしょう。その時史郎さんが背の高い女性と歩いているのを見かけて、史郎さんにはこんな美人の彼女さんがいるんだって、落ち込んだんです」
    「そのときはじめてナプキンのことを教えてもらったんだ」
    「だから、コンドーカメラさんに忘れていったとき、てっきり彼女さんのものだと思って……史郎さん、否定しなかったし……」1ヵ月ぐらいずっと悩んでいたことを聞いた。
    「僕が使うって言えなくて……ごめん」
    「史郎さんは付き合いはじめてまだ半月と思っているけど、私の恋愛期間は一年以上なんです。だからガォ~って感じなの」
    「……はい」勇気がなくてすいません。僕は、僕は、どうしたらいいんだ。
    「おかず、鮭でいい?」急に素に戻るんだ……空気が変わったのでほっとしている。たまには魚も食べないと。魚の脂はいいっていうし。この日は真湖野獣に襲われることはなく、駅まで送っていった。ベルナルドさんが働いていたコンビニも再開していた。もう強盗に襲われることはありませんように……。
     
    ピコン! 真湖さんからLINE
    ――今日は襲ってごめんなさい。兄たちとのプロレスごっこや、大学では格闘技系のいろんなスポーツもやってきました。史郎さんより強いはずです。恋愛感情が高ぶったら、また襲うと思います。覚悟してください!
    ――僕が襲うかも知れません。覚悟してね(なんて言ったけど僕が君を襲うなんてできるのだろうか)
    ピコン!
    ――無抵抗で待っています。
    ――おやすみなさい。
     
    【公共図書館 1】
     翌朝、いつものように求人検索をしていると、公共図書館の募集があった。市の公共図書館が建て直してリニューアルオープンしたとのこと。最低賃金だけど派遣ではない。フルタイムのパート職員。本当は正規職員を希望するけど、図書館司書の正規職員はあきらめた方がいいのかも知れない。早く仕事を決めたくて仕方がない。真湖さんが公共図書館で嫌な思いをされたってことだったけど。申し込んでみようかな、初めての公共図書館の仕事。履歴書・職務経歴書・図書館司書資格・運転免許証が必要。すべて揃うけど。昨日の市大図書館は絶対無理だろうから。ハローワークで紹介状をもらわないと――
    「昨日、市大図書館の面接を受けたのですが、病気のことばかり聞かれて、たぶんダメだと思うんです。結果が出る前に他のところの申し込みをしてもいいんでしょうか?」
    「構いませんよ。こちらにも選ぶ権利はありますから。多い人には十社以上も紹介状を発行することがありますよ。こちらの公共図書館ですね。これは大石さんにおすすめの案件ですよ。少々お待ちください。今日は職業相談にみえたので、求職活動の実績になります」
    「ありがとうございます」
    「大石さんはお身体のことがあるから、やはり民間より公的なところの方が、お休みが取りやすいし、なにかと配慮がありますからね。がんばりましょうね」
    紹介状と履歴書等一式をレターパックライトで送付し、その足で公共図書館に向かった。昔の建物と比べると、おしゃれなデザインの建物だった。天井は高く、丸みのある書架は低いからずいぶん広く感じる。子どもたちに読み聞かせをしている職員、貸出・返却も忙しそうだ。走り回っている子どもたち、眠っている年配の人たち、高校生も勉強に来ている。大学図書館より活気があるようだ。リファレンスカウンターも忙しそうだ。ここにいる人たちは、正規職員? 公務員になるのか? パート職員? それとも派遣か? そんなことを考えていたら
    「何かお探しですか?」とキリっとした女性に声をかけられた。髪を一つに結んでポニーテールというより侍のような雰囲気の人。
    「いえ、そういうことではなくて、求人があったので応募したんです。どんな様子か見にきたんです」
    「ふ~ん。子どもたち見てるから危ない奴かと思ったよ」さっきは丁寧な話し方だったのに…… 
    「すいません」書架をひと回りして、乱れている図書を直してしまう。図書館司書の習性か。
    「あんちゃん、あんちゃん」年配の方と目が合った。
    「ワタシですか?」
    「そう、方言を調べてぇの」方言は分類番号818だ。館内の地図を探して,配架場所にあたりをつける。
    「こちらですね。全国のものもありますし、地域別のものもあります。どんな方言をお探しですか」
    「『てげてげ』って、囲碁仲間がよく言うんだけど、意味がよくわかんねくて」全国のもので調べてみると、宮崎・鹿児島の方言で〔ほどほどに〕とか〔適当に〕とあった。
    「こちらでしょうか?」開いたページをお見せすると
    「字が小させぇな。読んで」
    「てげてげは〔適当に〕とか〔ほどほど〕、〔いい加減〕とあります。鹿児島や宮崎の方言だそうです」
    「そうか、いつも囲碁が終わった後に片付けをするんじゃけど、『てげてげに』って言うんだわ。聞いてもその人耳が遠いから、よう伝わらんの」
    「そうでしたか、適当に片付けてってことでしたね」
    「あんちゃん、ありがとな」それだけ調べるとその人は帰ってしまった。
    「ちょっと、勝手なことしないでよ。ここの職員でもないくせに」侍に注意されてしまった。
    「でもリファレンスは解決しましたよ」
    「余計なことだって言ってんの! 忙しいから邪魔しないで。でもあんたみたいなトロそうな奴はここでは使えないかもね」トロそうな奴……初対面の僕のことを何も知らないのに、人からはそう見えるのか。
    「すいません」真湖さんが怒られてばっかりって言っていたことを思い出した。忙しいからイライラするのかな? カウンターを見ると、働いている人とそうでない人に分かれていた。さっきの女性は、ブックトラックに本を載せて、忙しそうに返本作業をしていた。ここで働けるかな? 書類送っちゃった。翌日、公共図書館から連絡があり、面接に来てほしいとのことだった。昨日のこともあったので、断ろうかと思ったけど話だけでも聞きに行くことにした。スーツを着て午後から出かけた。事務部門の受付で名前を言うと、すぐに会議室に通された。面接は気の弱そうな四十代後半の男性とシルバーブロンドの女性だった。
    「大石史郎と申します。よろしくお願いします」最初に聞かれたことは、前の仕事を辞めた経緯だった。市大図書館で説明した同じことを話した。
    「大石さん、国分大の図書館で十四年勤務されたんですね。カウンターの仕事、レファレンスとかできますか?」
    「はい、サービス課の勤務経験もありますし、正規職員が少なくなってからは目録課の仕事をやりつつ、カウンター業務全般も担当していました」
    「明日からでも来てもらえますか?」
    「えっ、構いませんけど、いくつか質問があるのですがよろしいでしょうか。募集はパートですね」
    「はい、フルタイムのパートを募集しています」
    「正規雇用にはしてもらえる可能性はありませんか?」
    「大石さん、三十六歳ですね。公務員試験の採用年齢を過ぎていますね」
    「そうですか」
    「司書の仕事がしたいんでしょう。とりあえずいらっしゃい」ずっと黙ってみえたシルバーブロンドの女性がはじめて口をはさんだ。どこか学校の先生のような雰囲気の女性。
    「目録の仕事はありますか?」
    「こういうところは、目録なんてないの。書店に丸投げして、登録も装備もされた本が入ってくるんだから」
    「そうですか、わかりました。どんな仕事がありますか?」
    「カウンターに入ってもらって、リファレンスや貸出・返却をやってもらうことになるね」
    「わかりました。履歴書にも書いてありますが、、僕は持病がありますので月に一回は通院しないといけません。かまいませんか?」
    「あのねぇ、あんた働きたいの? 働きたくないの? どっちなの?」
    「働きたいと思っています」勢いにつられて言ってしまった。
    「じゃぁ、採用でいいね!」女性はそう言うと席を立ってしまった。男性に伺ったところ、先ほどの女性は副館長とのこと。厳しい方だそうだ。
    「手続きがありますので、来週の火曜日に九時にこちらまでお越しください。3ヶ月間は仮採用です」
    「はい、よろしくお願いします」とりあえず一年間働いてみよう。フロアに出てまた館内を見て回っていると、
    ピコン!
    真湖さんからのLINEだった。着信音に反応した昨日の侍に睨まれてしまった。
    ――今、どこ? 会いたい。
    慌てて図書館から出て返信する
    ――僕も会いたい。電話してもいい?
    真湖さんから着信があった。
    「どうしたの?」
    さっきの出来事を話して、なりゆきで働くことになったことを伝えた。
    「就職おめでとう。だけど大丈夫かな」
    「真湖さんが公共図書館は『怒られてばっかり』って言っていたのを思い出したよ」話しているうちに、僕の中のストレスが溶けていくようだ。真湖さんパワーすごいな。
    ブブッ、ブブッ メールだ。また大学の図書館?
    「メールだ。かけ直すね」開くと盛山さんからだった。
    ――盛山です。今週末の土・日2日間、お忙しいでしょうか? コンド―カメラの佐川君に誘われて『デザインフェスタ』というイベントでカメラを販売することになっているんですが、その佐川君の都合が悪くなってしまって、手伝っていただけないでしょうか? お忙しいと思いますがご検討ください。よろしくお願いします。
    『デザインフェスタ?』真湖さん知っているかな? 聞いてみよう。
    「メールは盛山さんからだった。『デザインフェスタ?』ってイベント知ってる?」
    「東京ビッグサイトで開催される大規模のイベント。1回だけ行ったことがあるけど」
    「盛山さんがカメラを販売するんだって。佐川君の都合が悪くなったからって、手伝ってほしいって」
    「面白そう~私も行ってみたい」
    「ふたりなら心強いね。聞いてみるよ」
    盛山さんにOKのメールを送る。
    ――いつもお世話になっております。『デザインフェスタ』の件、承知しました。真湖さんも手伝ってくれると言っています。よろしいでしょうか? 詳しいことを教えてください。
    ――大石さん、ありがとうございます。朝六時に会場に行かないといけないのですが、大丈夫でしょうか? 無理なら一〇時までに来てください。
    六時~? そんなに早くからやっているの? 始発に乗れば大丈夫かな?
    ――始発に乗れば間に合いますでしょうか?
    ――大石さん、コンド―カメラさんのすぐ近くでしたよね。車でお迎えに伺いましょうか? 搬入があるのでその方が助かります。ただ後部座席に荷物を置いているので、お一人しか乗せることができません。ご検討ください。
     
    ――真湖さん、盛山さんの件です。車に乗せていってもらうことになったんですが、ひとりしか乗れないそうです。どうしようか? やっぱりあとから電車で行ったほうがいいかな? 搬入があるから一緒に行った方が助かるそうですが。
    ――史郎さん、盛山さんと行って。私あとから行くね。
    ――わかった。そう連絡するね。
     
    ――ではお願いします。真湖さんはあとから来てくれることになりました。コンド―カメラさんの前で待ち合わせはいかがでしょうか?
    ――承知しました。では土曜日の朝5時にまいります。
    朝5時! 多少時間は早いけど、早く寝れば大丈夫かな。
     
    ピコン!
    ――デザインフェスタ楽しみです。 
    ――今から病院へ行って、注射を打ってきます!
    ――行ってらっしゃ~い。
     
     『大隈内科クリニック』で受付、保険証の確認をして、胃腸科の前の椅子にかける。田中ひかるの『生理の社会史』。第二章の月経タブー、月経不浄視の歴史を読み始める。世界のなかには、女性というだけで差別を受けたり、生理中の女性を閉じ込められたりする国もあるという。日本も月経のことについては後進国だ。小学生の時女子だけのひみつの授業があって、男子は校庭でサッカーをやらされていた。だから月経のことはほとんど知らない。
    「大石さん~」和田さんに呼ばれた。
    「まず、こちらの薬を飲んでください。痛み止めとアレルギーの薬です」
    「はい」痛み止めを飲むってことは、痛いのかな。水筒のお茶で飲んだ。
    「あと十分ほどお待ちください」また『生理の社会史』を読む。読み進めるにしたがって、女性に頭が下がる思いが強くなる。この本を読んだら、女性には絶対に勝てないと思う。
    「大石さん、体調はいいですか」
    「はい、調子はいいですよ」
    「和田さん、注射の準備をしてください」
    「注射ですが、ゴリムマブという皮下注射です。お腹や太もも、上腕部の外側のどこかに打ちます。自分でできるけど、しばらくやり方を覚えてください。今日はどこに打ちましょうか?」
    「注射のやり方を見たいので、お腹にします」
    「おへそのあたりを出してください。おへその周り5センチは避けてください。このあたりにしましょうか? アルコールはダメでしたね」
    「はい。赤くなります」
    「ノンアルコール消毒の脱脂綿で広範囲を拭います」今日は和田さんのやり方を見る。
    「注射器のキャップを回して、カチッと音がしたらキャップが取れますので、外します。もう一度念のために消毒します。ここに打ちますね。動かないでください」お腹にキャップを外した本体を押し付けると、針が下りてお腹の中にちゅ~っと冷たい液体が入ってくるのがわかる。しばらくするとカチッと音がした。
    「痛みますか?」
    「いえ、全然痛くありません。大丈夫です」痛みはほとんどなかった。細い針なんだろう。すごい技術だ。そのことに感心してしまった。
    「もう少しこのままにして…………そろそろいいかな」本体を外したら針は収納されていた。消毒でちょっと押さえて……終了。自分でも出来そうだ。念のため刺したところに小さなテープを貼ってくれた。
    「気分が悪いとか、熱っぽいとかありませんか? 変化があったら教えてくださいね」
    「大丈夫です」
    「しばらく外でお待ちください。まだ、帰らないでくださいね」
    「はい」
    「特定疾患受給者証の発行はまだですか?」
    「申し込んでいますが、保険証が変わったので再申請です」
    「高額になりますから支払いを待ちますので、受給者証が届いたら支払いに来てください。もうしばらくお待ちくださいね」待合室でまた『生理の社会史』の続きを読む。アンネナプキン登場から一気に道が開けて自由になったようだ。三十分ぐらい経ってから、和田さんが来てくれた。
    「お腹見せてください」さっき打ったあたりがうっすらと広範囲に赤くなっている。
    「気分悪くないですか? 痒みは? 頭痛は? 蕁麻疹は出ていないようですね」
    「大丈夫です。何ともありません」
    「先生に報告してきます。変化があったら教えてください」診察室に入られて、二~三分後に
    「大石さん、帰られてもいいそうです。少しでも違和感があったら連絡ください」
    「はい」
    【デザインフェスタ】
    土曜日の早朝、コンド―カメラさんの駐車場に行くと、一台の軽のワンボックスが停まっていた。
    「盛山さん、おはようございます」
    「大石さん、ありがとう。朝早くからすみません、あ、乗ってください」
    「はい、『デザインフェスタ』すごい規模だそうですね」
    「年二回開催でこの前の秋に初めて出展して、結構若い人が興味を持ってくれましてね。続けてみようかと申し込んだんです」
    「その時は佐川君と一緒に?」コンド―カメラのバイト君はカメラが好きなんだ。
    「そう、今回もそのつもりだったんだけど、学校の方が忙しいらしくて」
    「佐川君学生?」
    「あ、知らなかった? 武蔵美の院生です」
    「へぇ~芸術家なんだ」フリーターかと思っていた。
    「ナビ見ててね」
    「はい、府中スマートICから高速に入ります。700m先です」
    「はい」後部座席の方でカチャカチャ音がしている。
    「後ろ大丈夫ですか? 音がしていますけど」
    「梱包はちゃんとしたつもりです。棚が安物だからかな」
    「今日は何台ぐらい持ってみえたんですか?」
    「五十台です。がんばりました。前回初日に半分近く売れてしまったから」
    「そんなに売れるんですか? すごいですねぇ」フィルムカメラに興味を持ってくれる人がそんなにいるんだ。
    「フィルムカメラの存在を知らないような若い人に販売するんです」
    「そうなんですか」
    「年配の人は『これ持っていた。これも、これも』って言われるだけで、デジカメやスマホの便利さを知ったらフィルムには戻ってきません」
    「コンド―カメラさんも、若い人が興味を持ってくれるって言ってみえました」
    「その若い人はフィルム自体見たことがなくて、使い方を一から説明しないと。なので大石さんに来ていただいたんです。一人では対応が難しいので」
    「いいんですよ。今無職ですから時間はたくさんあります」
    「大学にお勤めではなかったの」
    「辞めたんです。今は就活中です。いちおう来週から働き始めます」
    「そうでしたか。無理しないように頑張ってください」
    「はい、がんばります」
    「佐川君がマニュアルをコピーしてくれて、フィルムの入れ方を動画で撮ってQRコードを作ってくれたんですよ」
    「佐川君すごいですね」
    「佐川君もフィルムカメラが好きで、三台くらい買ってくれたかな」
    「佐川君も若い人ですもんね~」
    「カメラ沼にはまったと言っていました。コンパクトカメラから始まって、レンジファインダー、一眼レフとステップアップしています。次は二眼レフが欲しいそうです。手伝ってくれたらあげようと思っていたんですが」
    「二眼レフは楽しいですよね」
    首都高に入り、もはや方角がわからない。ナビだけが頼りだ。東京タワーが見えてきた。ということは芝公園のあたりか?
    「大石さんは車の免許持っているの?」
    「恥ずかしながらペーパードライバーです」
    「東京だと維持費もかかるしね」
    「田舎で取ったので、東京の道を走る自信はありません。真湖さんは運転が上手なんです。マニュアル車を運転できるんですよ」
    「へぇ~すごいですね」
    「あっ、そろそろ有明ICです。左の側道を行ってください」
    「ここに来るのはまだ二回目だからね。助かります」
    東京ビッグサイトの建物が見えてきた。大きいなぁ。車の列が見えてきた。ほとんどの車は車内に荷物を満載にしている。その最後列についた。
    「6時から搬入だからちょっと一息だね」前の車のナンバーは神戸
    「遠くからみえているんですね~」
    「全国からみえてますよ。この前出展した時、隣のブースの人は北海道だったし、後ろのブースは石川でした」
    「北海道!」自分の作品を販売するために、全国から集まるクリエイターの人たちは、どんな方たちなんだろう。
     
    「そろそろ搬入出来ますね」ゆっくり発進した。
    「大石さん、後ろに封筒がありますよね。その中に出展者の搬入車両用の紙があります。出してください」
    「このブルーの紙ですか」
    「それ、明日の。黄色いのない?」
    「ありました」ダッシュボードに置く。係の人に案内されて、搬入口へ。
    「よかった。ブースの近いところに駐車できた。荷物を下ろすの手伝ってくれる?」
    「はい。指示してください」
    「さっきの封筒から出展者パスを出してください」一枚を盛山さんに渡し、首にかける。盛山さんの指示で、棚とワゴンなどを下ろし、ゴロゴロと会場の入り口まで押していく。周りは個性的な雰囲気の人ばかりで、気後れしてしまう。M―152……床のブースナンバーを探しながら進む。
    「ここです」
    盛山さんの指示で、ブースに必要なものを設置していく。棚とワゴンを結束バンドで固定し、看板を設置。
    「この看板ステキですね~」写真ではなく、盛山さんのカメラのスケッチ。色鉛筆で描かれたもの。
    「佐川君が描いてくれたの」
    「絵を描く人だったんだ。文字のデザインもいいですね」
    「専攻はプロダクトデザインだったかな」才能ある人なんだ。将来が楽しみだね。什器の設置ができたので、いよいよカメラをならべ始める。丁寧に梱包から出して盛山さんに手渡していく。コンパクトカメラのOLYMPUS Penシリーズ、TRIP35、Konica C35、C35EF、一眼レフ、二眼レフ……いろんな種類のカメラがならんだ。
    「車を駐車場に置いてくるのでゆっくりしてて」すべてのカメラに価格とQRコードが付いている。フィルムの入れ方? スマホのカメラで読み取ってみるとその機種のウェブサービス『note』にアップされた撮影見本の記事が見られるようになっている。フィルムカメラは、メーカー・機種によって写りが全然違うことがわかる。OLYMPUS DC35の写りはいいなぁ。
    「おはようございます。よろしくお願いします」右隣のブースの人が到着した。
    「おはようございます。よろしくお願いします。どちらからみえたんですか?」
    「広島です。そちらは?」
    「遠くからいらっしゃったんですね。私たち東京です」
    「近くていいねぇ。へぇ~フィルムカメラ! 使えるんですか?」
    「はい、使えます。QRコードを読み取ると撮影見本を見てもらえるんです」
    「アイデアですね~若い人は違うなぁ」その人はそう言いながら、大きなスーツケースの中から、プラスチックのケースを出した。見ているとその中から小さな木彫りの動物が出てきた。
    「かわいいですね~」ざっくりした木彫りの犬・猫・羊・馬・ペンギン・ライオン……いろんな動物たち。真湖さん、動物好きかな? 誕生日プレゼントにいいんじゃないか。そんなことを考えながら、設置作業を見学していた。
    盛山さんが戻ってみえた。両手にコーヒーを持っている。
    「コーヒーどうぞ」
    「ありがとうございます。せっかく買ってくださったんですが、身体の都合でコーヒーはダメなんです。ごめんなさい」
    「あっそうなんですか。気がつかなくてごめんなさい。これ、どうしようか」
    「お隣の方に差し上げてもいいでしょうか? 広島からみえたそうです」
    「あの~よかったら、コーヒーいかがですか?」
    「いいんですか! ありがとー目が覚めますわ」よかった。喜んでもらえて。盛山さんに言っておいたほうがいいかな。
    「盛山さん、僕持病があって、食べるもの・飲むものに制限があるんです」
    「そうなの。大丈夫? こんな朝早くからすみません! 無理しないで、途中で帰ってもいいから、辛くなったら言ってね」
    「食生活に気をつけていれば大丈夫なんです」
    「本当? 聞いてもいい? なんていう病気?」
    「潰瘍性大腸炎なんです」盛山さんはスマホで病気について調べてくれている。気を使わせてしまった。すいません。カメラを機種ごとにならべ直し。展示の様子を撮影していく。Facebook、Instagra、Xに準備完了の記事をアップしている盛山さんは、QRコードといい今どきのSNSを活用している。すごい人なのかも知れない。僕の方が遅れているだけだと思うけど。
    「お客さんにカメラの使い方の説明をすればいいですか」
    「はい、よろしくお願いします。カメラのことを全然わからない人、フィルムすら見たことがない人に説明するの大変だから覚悟してね」
    「おはようございます。よろしくお願いします」左隣の人だ。
    「おはようございます。よろしくお願いします」あと三〇分ぐらいだけど大丈夫? 流木を使った作品。こっちもいいなぁ。三重県から徹夜でみえたそうだ。
    ピコン! 真湖さんからLINE
    ――おはようございます。今、会場の外、お客さんすごくたくさん並んでみえます。
    「真湖さんからです。会場の外に到着したそうです」
    「出展者パスがあるから、渡して入ってもらってください」
    ――盛山さんが出展者パスを用意してくれています。持っていきます。どこにいる?
    ――タリーズコーヒーの近くです
    ――タリーズね。待っててね
    タリーズ、タリーズ。総合案内の人に聞いて、見つけた
    「真湖さん!」
    「史郎さん! 朝ごはんはちゃんと食べた?」
    「パンと牛乳を」
    「お弁当を作ってきたの」
    「ありがとう」ビッグサイトにうどん屋さんがあることを調べていたので、そこで済まそうと思っていたけど、感謝!
    「野菜スープとおにぎり」食事のこととなると頭の中では大丈夫かとすぐ考えてしまう。でも真湖さんが用意してくれたものならきっと大丈夫。出展者パスを首にかけて、二人で会場入り。準備を終えたお店が多く、見たことのないような作品や、絵を描いている人もいる。お祭りのような雰囲気だ。
     
    「出展者のみなさまにお知らせです。あと五分で搬入口を閉鎖します。お車の移動をお願いします」
     
    「盛山さん、おはようございます。今日はよろしくお願いします。わ~こんなにたくさん!」
    「ありがとうね。こちらこそよろしくお願いします」
    「真湖さん、見て」右隣の木彫りの動物を見てもらう。
    「かわいい。いいですね~特徴をつかんであって。これはマヌルネコ?」
    「最近はこういうへんてこな動物が人気なんだよね」
    「チベットスナキツネ! あははは~史郎さんにちょっと似てる!」
    「えっ? 似ている?」
    「史郎さん、大学図書館にいたとき、しょっちゅうこんな顔してた」
    「お姉さん、お目が高い!」
    「マヌルネコとチベットスナキツネとツチブタ……いいですね」
    「その3つお願いします。おいくらですか?」財布を出そうとした真湖さんを制し、支払いを済ませた。3つで二千四百円。僕に似てるのコイツか。
    「お誕生日おめでとう。受け取って」
    「お姉さん、誕生日なの。じゃおじさんからも」もみじ饅頭だった。真湖さんの目が輝く。マヌルネコ・チベットスナキツネ・ツチブタが負けたかも?
    「広島の方でしたね」
    「だんだん、おせわんになりました」
    「ありがとうございました。史郎さんありがとう」
    「変わった動物が好きなんだね……」マヌルネコ・ツチブタをこっそり検索した。僕はチベットスナギツネかぁ。真湖さんにはそう見えるんだね。個性的な動物が好きなんだね……。
     
    盛山さんから商品が売れた場合にやることを、レクチャーしてもらう。梱包用のプチプチ、フィルム、ストラップ、レンズキャップ、紙袋……現金のお釣り・カード決済のやり方など。スマホでカード決済ができるなんて驚いた。コンド―カメラの案内も入れる。フィルムの現像代三割引き付。
     
    「出展者のみなさま、準備はよろしいでしょうか。十時になりましたので、デザインフェスタ開幕です!」英語・中国語・韓国語でも放送があった。入場者入口から人がどんどん入ってくる。
    「売れますかね~。慣れてないから不安になります」気弱な盛山さん。
    「大丈夫ですよ。こんなに素敵なんだもの」
    「へぇ~フィルムカメラ? 使えるの」早速お客さま。
    「整備・調整して、表皮を貼り替えてあります。すぐに使ってもらえるようにストラップ・フィルムをセットにします」お客さんに説明する盛山さん。
    「ふ~ん」気のない返事。
    「きゃぁ~かわいい! かわいい!」
    「気になるカメラがあったら、手に取ってみてください」
    「重っ!」
    「金属製ですからね……」かわいいを連呼していた女の子はどこかに行ってしまった。
    「あんなにかわいいって言っていたのに……」
    「この前出展して思ったんですが、『かわいい!』って言う人はまず買ってくれないんです。佐川君が『かわいいの法則』って言っていました」
    「そんなもんなんですか」観察してみよう。
    「あのぉ~インスタにあったこのカメラありますか?」ブルーとネイビーの濃淡のTRIP35。
    「こちらですね。このカメラはキレイに撮れますよ。QRコードを読み取ってみてください。どんな写真が撮れるのか見ていただけます。どうぞ手に取ってみてください」
    「インスタでこのカメラが気になっていたんです。これください」
    「ありがとうございます」真田紐のストラップを選んでもらい、キャップをつけ・フィルムを選んでもらう。使い方を説明し、梱包は真湖さんにお任せした。
    「素敵な配色ですよね。私もいいなって思っていました」真湖さん、上手!
    「ありがとうございました!」
    「売れましたね~」盛山さんは目を細めている。
    「フィルムカメラ? 使えるの?」何度も聞かれた。
    「はい使えます。整備・調整して撮影できるようにしてあります」何度も答えた。
    「なんで表皮を変えてあるん?」これも何度も聞かれた。
    「オリジナルのままでは、こういうイベントでは販売できないんです」これも何度も。
    「フィルムってまだ売ってるの?」何度も聞かれた。
    「FUJIもKODAKも新しいMARIXっていうメーカーもあります」何度も答えた。
    「今フィルムって一本いくら?」
    「二千円前後です」
    「二千円! 高っ! 昔は百円・二百円で買えたよなぁ、二千円は無理だわ」そうですよね。僕もそう思います。フィルムメーカーさん、昔のような価格でとは言わないけれど、もう少し買いやすいお値段にしていただけませんか?
    「うゎ~ぁ、カメラ、カメラ!」三歳くらいの男の子が目がけて走ってくる。その後ろからお父さんが追いかけてきて
    「ゆうくん、触っちゃだめだよ! わかった?」興味ありげにカメラの前に座り込んだ。この子が写真を撮ってもらうのは、スマホかデジカメだと思うからフィルムカメラを見たことがないはずなのに、すぐカメラと認識するのは不思議だ。いろいろあるけどカメラはレンズが付いていて、こんな形でって、遺伝子レベルで刷り込まれているのか?
    「お子さん何歳ですか?」
    「三歳半です。走るようになってくたくたですわ」
    「元気でいいですね~。ゆうくんを撮るのにいいカメラがあるんです。OLYMPUS Pen EE-3。ハーフサイズカメラなので三十六枚撮りのフィルムを入れると七十二枚写真が撮れます。3mぐらい先に焦点が合っていますから、元気なゆうくんを撮れますよ。カメラを向けてシャッターを切るだけです。シャッターチャンスを逃しません。それにゆうくんがもう少し大きくなったら撮ってくれますよ。シャッターを切ったときのことを忘れても、現像された写真を見た時にその時のことを思い出すんです」真湖さん、なんて上手なんだ。流れるようなセールストーク。
    「かっこいい! パパ買って、買って!」
    「操作が簡単なんですね」
    「はい、簡単です。私も初心者ですが愛用しています」
    「ゆうくん、何色がいい?」
    「オレンジとミドリの」
    「派手だなあ~。こっちのミドリの濃いのは?」
    「やだ、やだやだ! ママはオレンジが好きだから」ゆうくん優しいなぁ。ママが大好きなんだね。
    「じゃぁ、このオレンジください」
    「お買い上げありがとうございます!」真湖さん、売ってしまった。
    「かわいい~!」あっ、かわいいの法則。そんなお客さんはやっぱりすぐにいなくなってしまう。午前中はこんな感じで、二台売れた。
    「交代で食事にしましょうか。お先にどうぞ」
    「盛山さんは?」
    「コンビニでおにぎり買ってきました。お先に」
    「真湖さんお先にどうぞ」
    「史郎さん、今日朝ごはん何時に食べた?」
    「四時半ぐらいかな?」
    「私は八時前だから、史郎さんの方が早いから。規則正しくですよね」
    「はい」
    「保冷バックにおにぎりと野菜スープが入っています」
    「ありがとう」ゆっくりおにぎりを食べながら、盛山さんのカメラの説明に耳を傾ける。真湖さんも接客して、カップルに売ってしまった。それも彼女と彼氏一台ずつ。盛山さんもびっくりしている。真湖さんはいろんな才能を持っているなぁ。また新しい君を見つけたよ。盛山さんが二眼レフカメラの説明を始める。上からのぞいて見せるとお客さんも興味を持ってくれる。後のブースは石? いや化石だ。小さな化石をアクセサリーに加工している。斜め後ろは、ペーパークラフト。紙を折り曲げたり切ったりして、ドラゴンが生まれる。目の前で作品を作って、販売している。いろんなお店があるなぁ。真湖さんが作ってくれた野菜スープは、優しい味で本当に美味しい。いくらでも飲めそうだ。安心スープだ。梅干しのおにぎり美味しいなぁ。目の回るような忙しさだったから、ちょっと疲れたけど、さぁ、僕も頑張ろう。
    「盛山さん、真湖さん交代します」
    「真湖さんどうぞ」
    「盛山さん、どうぞ」さっきと同じことを言っている。盛山さんは手伝ってもらっているから遠慮があるのかな。
    「盛山さん、朝が早かったからお先にどうぞ。真湖さん、野菜スープもおにぎりも美味しかったぁ~。梅干し久しぶりにいただきました」
    「あれ、母の手づくりの梅干しなの」
    「美味しかった。よろしくお伝えください」
    「喜ぶわ。今、売っている梅干しは国産のものが少なくて、あと塩分控えめで甘くなったから。うちは年に一回漬けているの……」
    「あの~やっぱり買います」さっき二眼レフカメラをのぞいていたお客さんだった。
    「あっはい。盛山さん、先ほどのお客様です」二眼レフはRICOH FLEX NEW DIA。RICOH FLEXの高級機。触ったことないなぁ。
    「ありがとうございます」おにぎりは半分フィルムを剥かれていた。盛山さんが接客されているので、真湖さんが休憩に入った。後ろの化石アクセサリーの若者とお話している。君はすぐお友だちができるんだね。盛山さんは二眼レフカメラの使い方の説明をして、フィルムの装填をやってもらっている。コンド―カメラで僕が教えてもらった時のことを思い出した。
    「お買い上げありがとうございます。わからないことがあったら、メールでお問合せくださいね」
    「ありがとうございました」今日五台目ですね。盛山さんも嬉しそうだ。
    「ごはん途中になっちゃいましたね。あとは僕が引き受けます。真湖さんと盛山さんが並んでおにぎりを食べている。真湖さん楽しそうだな。
    「あの~フィルムカメラを使ったことがないんですが、始めたくって。どのカメラがいいのかわからなくて」気の弱そうな女性。あなたに合うカメラを提案します!
    「では、どんな写真が撮りたいですか? レトロな雰囲気の写真? きれいな写真?」
    「きれいな写真が撮りたいんです。今度姉が結婚することになって、結婚式の写真を撮りたいんです」
    「それはおめでとうございます。会場は室内ですか?」
    「ガーデンウェディングなんです」
    「そうしますと、一眼レフカメラはいかがですか?」棚にあったNikomat ELを手に取ってもらう。
    「重いですね」
    「ではこちらはいかがでしょう。Nikon EMです。女性やお子さんが使いやすいように設計されたカメラです。リトルニコンの愛称があるくらいです」
    「さっきのカメラより軽いですね。色もこっちがいいです」赤とベージュの配色はあなたの雰囲気に合ってみえます。
    「直進ズームレンズが付いているので、遠くのものを写すこともできます。カメラの横にQRコードが付いていますので読み取ってみてください。露出が足りないと警告音が出ます。そんな時は絞りを回してください」実際にレンズを動かしてもらい、ピント合わせを確認してもらう。レンズは36-72mm F3.5。QRコードで撮影した写真を確認してもらう。
    「このカメラにします!」
    「ありがとうございます!」僕が初めて販売したカメラ。えっと……ストラップを選んでもらって、フィルムを
    「ISO感度が100・200・400のフィルムがあります。どれにしましょうか?天気の良い屋外ならFUJIの100、暗いところなら400、200はその中間です」ガーデンウェディングならFUJIの100かな?
    「う~ん、『日中、屋外での撮影に』とあるからFUJIにします」
    「ストラップはお付けしますか?」
    「はい、お願いします。フィルムはどこで購入できますか?」
    「ネットでも購入できますが、こちらのコンド―カメラさんがおすすめです」コンド―カメラさんのチラシを見てもらう。
    「国分寺にあるんですね。うち小平だからこちらに伺います」
    ストラップを付けて、レンズキャップを付けて、フィルム・ショップカードを入れる。
    「こちらどうぞ。三万円になります」
    「お支払いはカードでもいいですか?」
    「はい。えっとぉ……」どうやるんだっけ? 白い四角いのどこだっけ?
    「ICチップ付きのカードですね。こちらの上に置いてください」真湖さんがサポートに来てくれた。盛山さんのスマホを使って、サクサク手続きを進めていく。頼りになるなぁ。それに比べて……
    「マニュアルのコピーは入れた?」
    「まだです」さっとNikon EMのコピーを探して入れる。プチプチの袋にカメラをいれて、
    「ありがとうございました。わからないことがあったらご連絡ください」ふぅ~販売完了!
    「大石さん、電池入れました? LR44を二個」
    「えっと……入れてません」お客さん、どこ行かれた?
    「探して渡してきます!」真湖さんが電池を持って小走りにお客さんを探しに行った。こんなに人が多いのに探せない……
    「盛山さん、すみません!」
    「カメラに入っているからいいんだけどね……」
    「お渡ししてきました!」真湖さん、ありがとう。僕はダメだなぁ。いつも君に助けてもらうばかりだ。
    「大石さん、一眼レフ売りましたね。これで六台目ですね~」半分は真湖さんのお手柄だ。結婚式の写真キレイに撮れるといいなぁ。お天気が良いといいな。それからしばらくは「かわいい~」・「本物のカメラ?」・「うちにあった」・「フィルム高っ!」そんなお客さんばかりが続いた。お客さんが途切れた時は、盛山さんにたてもの園で障がい者のみなさんを撮影したとき、真湖さんのアイデアでみなさんいい顔で写すことができたことを話したり、真湖さんのグルメっぷりを話したりした。盛山さんは愛知県出身だから、愛知のソールフードをいくつか真湖さんに教えてくれた。ひつまぶしや手羽先は有名だけど、五平餅は初めて知ったそうだ。ちなみに五平餅は長野の方にもあるから、僕は食べたことがあるんだ。真湖さんはスマホで検索して、美味しそう! を連発して楽しそうだ。食べたいものリストに入れたんだね。いつか行けるといいね。
    「三時ですね~休憩してください。お客さんも落ち着いてきたから、ひとりで大丈夫です」
    「これ! これ! 見て!」メイドさんの衣装の華やかな三人組。
    「めっちゃかわいい!」あ~かわいいの法則……
    「本当に写せるんだって」こっちも三人でニコニコ。
    「マジ?」
    「マジですよ~。気になるカメラがあったらどうぞ手に取ってみてください」真湖さん、参戦。
    「カメラに付いているQRコードを読み取ってみてください。どんな写真が撮れるのか見ていただけます」僕も参戦。出展者パスを下げている。
    「出展されているんですね」盛山さんも参戦。
    「はーい。うちら四階で~す。お父さんも見に来て。めっちゃかわいいから」お父さんって盛山さんのこと?
    「どんな商品ですか?」指さす先は彼女たちの頭の上の髪飾りや、持っているバッグ。原色のキラキラした作品。
    「お姉さんに似合うと思うわ~ お兄さん買ってあげて」
    「う~ん、かわいすぎて私には無理かな」真湖さんバッサリ。似、似合うと思うよ。
    「はっきり言うよね~そうだと思ったキャラ違いすぎ~キャァ~ハハハハッ」三人は営業に来たの? 
    「ここで撮れるカメラはある?」その中の一人が聞いたので、
    「フラッシュ撮影できるカメラはいかがですか?」キラキラしたのに対抗するにはフラッシュだ。KONICA C35EFを見せる。フラッシュを出してキュィ~ンってパイロットランプが点く、シャッターを押すとフラッシュ炸裂!
    「キュィ~ンもいいし、ピカッもええやん! ええやん!」
    「どうやって使うん?」
    「フィルムを入れて……」三人組の目が点になっている。
    「何それ~」35mmフィルムに、感光させて画像が保存できるんです。そんなことを詳しく説明したら
    「画像はどこで見るん? ふた開けたらええの?」また写真の原理を説明して……
    「ムズイな」その一言で嵐が去ったように、三人組はどこかへ行ってしまった。僕の説明したことが、何もわかってもらえなかった。空しい。
    「史郎さん、チベットスナギツネの顔になってる!」あぁこういう気持ちなのかチベットスナギツネくんは。
    「大石君、お疲れさま。疲れたよねぇ。若い人はフィルムを見たことがないから仕方ないよね。休憩して」それから夕方までに、ハーフカメラ三台が売れた。
    「今日は八台か。まぁまぁだね。ありがとう。大石君、体調大丈夫?」
    「はい、大丈夫です」真湖さんは斜め後ろのペーパークラフトの実演を見ていた。
    「あと一〇分でおしまいですから、そろそろ準備をお願いします」
    「はい」
    「カメラを倒して、レンズキャップを付けてください」真湖さんと手分けして四〇台のカメラを倒し、レンズキャップを付ける。その上から布をかけて、このまま帰るという。カメラを置いたままにしておくのは心配だけど、周囲を見ると、きちんとしまっている人もいれば、布すらかけていない人もいる。この日は荷物がなくなった盛山さんの車で、真湖さんを送り届けたあとアパートまで送ってもらった。
     日曜日は六時に迎えに来てもらって、真湖さんをピックアップして会場についたのは七時半を過ぎていた。
    この日も「かわいい!の法則」との戦いが続き、午前中は一台も売れなかった。昨日あんなにたくさん売れたのに……。
    「出展者のみなさまにお知らせです。みなさまの商品を『ワンコインランウェイ』でアピールできます。参加される方はステージ横までお越しください」
     ワンコインランウェイ?って何だろう?
    「前回、佐川君が出てくれたんですよ。カメラを何台かぶら下げて・・・・・・仕方がない。ストラップ取り付けてくれる」盛山さん出るんだ! 長さの違うストラップをカメラに付けて、盛山さんに装着した。
    「重いけど頑張るよ」7~8台の各種カメラを、ぶら下げた盛山さんがステージをランウェイして、途中で見ているお客さんに向けてシャッターを切るパフォーマンス。紙テープみたいにブローニーフィルムを投げて会場は盛り上がった。最初は仕方がないって言ってみえたけど、案外ノリノリじゃないか。真湖さんを留守番にしたけど見せてあげたかった。
    「あ~恥ずかしい~」カメラを外して、ブローニーフィルムを巻きながら
    「仕方がないからねぇ」いや、けっこう楽しそうでしたよ~。
    「真湖さん、盛山さんけっこうノリノリで、お客さんに向けてシャッター切って。『安心してください。フィルム入っていませんから』ってあのパンツの芸人さんのギャグを真似して」
    「あ~恥ずかしい~」
    「へぇ~見たかったなぁ、他の人も出ているのよね。見てきていい?」
    「行っておいで。いろんなパフォーマンス見られるよ」
    一〇分ぐらいして、金髪の青い目の女性に肩を貸しながら、真湖さんが戻ってきた。
    「どうしたの?」ワンコインランウェイで転んでしまったそうだ。
    「史郎さん、コンビニでロックアイスを買ってきて。捻挫しているから冷やさないと」
    「ダイジョウブ」女性はそう言うと立ち上がろうとするが、左足に体重をかけると崩れ落ちそうになる。
    「ダイジョウブじゃない。腫れてきたでしょう。足首を固定しないといけないわ」
    「じゃぁ、ロックアイスを買ってくるね」入口近くのローソンで、ロックアイスを一袋買って戻り、真湖さんに渡すと女性の足首に当てる。
    「サッカーやっていた時は、こんなことしょっちゅうだったから。固定するものがあればいいけど……」
    「タオルでいい?」盛山さんが、タオルを提供してくれた。それで縛って固定し、
    「病院行かないと。折れてはいないと思うけど」
    「お客さん、待ってるから……」あっ、日本語上手な方だ。
    「じゃぁ、ブースまで一緒に行くね」真湖さんが肩を貸して、女性のブースに行くことになった。この日、真湖さんは夕方まで戻ってこなかった。LINEがあって、今日は夕方まで彼女の手伝いをするとのこと。
    ワンコインランウェイの効果か、カメラは昨日より売れて、昨日迷って買わなかった人や、出展者が買いに来てくれた。僕も、KONICA C35 Flash Maticを一台、Pentax MEを一台、OLYMPUS Pen EE-2を一台、EES-2を一台売ることができた。盛山さんはRollei FLEXを一台、RICOH A-2を一台、OLYMPUS OM-10を一台、OLYMPUS Pen-Dを一台、Pen-Sを一台、35DCを一台販売した。気がつけば昨日よりも売れて、持ってきたカメラの半分以上売れてしまった。ハーフカメラ・コンパクトカメラ・レンジファインダー・一眼レフ・二眼レフいろんなカメラがそれぞれのお客さんのところに買われていった。みなさん、フィルムカメラを楽しんでください。
    「お疲れさまでした。撤収します。コンパクトカメラはこちら、一眼レフ・二眼レフはこちらに入れてください」
    一台一台慎重に箱の中に収める。来るときは什器やカメラの箱でいっぱいだった車内も、カメラの収納ケースが減ったことで、昨日と同じく三人乗ることができた。
    「おふたりともありがとうございました。助かりました」
    「こちらこそ勉強になりました」
    「疲れたでしょう。体調は大丈夫ですか?」
    「真湖さんが安心できるお弁当を持って来てくれたので、大丈夫、絶好調です」ふと後部座席を見ると、真湖さんは眠っていた。疲れたんだね。がんばったもんね。
    「おふたりにお礼を差し上げたいのですが、失礼だけど現金でよろしいでしょうか」
    「いえ、いただくつもりはありません。僕らも楽しかったし、良い経験ができました。『かわいいの法則』は本当に当たっていましたね。結局その人たちは買ってくれませんでしたね」
    「不思議なんですけどね~。かわいいって言うのは社交辞令なのかもしれないなって思います。真湖さんが言っていた『シャッターを切ったときのことを忘れても、現像された写真を見た時にその時のことを思い出す』っていい言葉ですね。今度から使わせてもらいます」
    「フィルムカメラをはじめてから実感したんでしょうね」
    「本当になんかできることありませんか? 考えておいてください」
    「はい」
    アパートに戻ると隣の部屋から楽しそうな声が聞こえていた。ベルナルドさんが退院したらしい。真湖さんにLINEでベルナルドさんが退院したようだよって伝えて、僕は泥のように眠ってしまった。
     翌日はやはり疲れていたのか、だらだら過ごしてしまった。明日から初めての公共図書館の勤務。職員の「侍」と「アナと雪の女王のエルサを怖くした感じの副館長」どちらも苦手なタイプの女性。早くも人間関係がピンチだけど、仲良くなれる可能性はゼロではないと思うから、頑張ろう。初日はスーツで行くかな。お弁当を持って行った方がいいかな。真湖さんが作ってくれたような、野菜スープを作ってみよう。『安心ごはん』を開き、食材をリストアップ。エコバックを持って買い物だ。階段を下りていくと、住吉さんのお宅から、ベルナルドさんと住吉さんの楽しそうな声が聞こえた。住吉さんも安心だね。
     
    【公共図書館 2】
     開館前の公共図書館は、職員のみなさんが忙しそうにしている。
    「今日から、カウンターのお仕事をしていただく方を紹介します『大石さん』です。大学図書館で長いこと司書をしてみえました。よろしくお願いします」
    「大石です。よろしくお願いします」頭を下げたが、反応はなかった。みなさん開館準備に追われている。
    「あはっ、すいません。みんな忙しくしてて。山田さん、カウンターに入ってもらう大石さん。大学図書館にお勤めだった人。なんでもできるそうです。よろしくお願いします」
    「はぃ、こっち来て。ここに座ってやり方見ておぼえてくれる?」
    「はい、大石です。勉強させていただきます」その後、話かけられることなく、一時間ほど貸出・返却・リファレンスの仕事を見せてもらった。
    「今日、鹿島さんお休みだっけ? 読み聞かせ、誰かやってくれる?」
    「その人にやってもらったら?」その人って……僕?
    「読み聞かせやってくれる?」
    「やったことないんですが」
    「朗読ぐらいできるでしょ! 何でもできるんでしょ! 絵本ならなんでもいいから、みんな待ってるから早く!」
    「はい」真湖さんに聞いておけばよかった。
    小さなお子さんを連れたお母さんたちが、読み聞かせコーナーに集まっていた。棚にあった絵本を一冊手に取る。
    「えっと、はじめまして」『ぼくはくまのままでいたかったのに……』を読みます。」
    はる、くまが 冬眠から目をさますと、
    もりは あとかたもなくきえ 
    工場が たっていました。
    「あのぉ~今ここにいる子たちにはちょっと難しいから、もっと簡単なのにしてくれる。冬眠とか言われれも、わからないから」確かに、難しいか。
    「失礼しました。では『ぼちぼちいこか』カバさんが主人公の本です」
    ぼく しょうぼうしになれるやろか
    なれへんかった~
    ふなのりはどうやろか
    おもすぎましたな どうもこうもあらへん
    ピアニストになるちからは
    ありすぎやったな
    絵を見せながら、読み進めると、子どもたちが絵の面白さと、僕の下手な関西弁が面白かったのか、楽しそうに聞いてくれてなんとか読み聞かせをすることができた。これからは事前に、参加者と本の内容があったものにする必要があるな。
    「お粗末様でした~」拍手をいただきホッとした。絵本も勉強しないと。またカウンターに戻り、みなさんのお仕事を見せてもらう。気がつくと午後一時半を過ぎていた。規則正しく食べないといけないのに……
    「大学図書館の人! レファレンス入って」名前は憶えてもらえないんだ。
    「はい」
    「アイヌのことを調べたいそうです」民俗資料でいいかな?
    「はい、お待たせしました。アイヌのどのようなことをお調べになりたいですか?」
    「『ゴールデンカムイ』を読んで、文化が全然違うから知りたくなって」大学生かな?
    「私も『ゴールデンカムイ』を読みました。映画もいいですよね。アイヌ文化が取り上げられていて。ちょっとお待ちください」検索してみると、最適な本が見つかった。
    「『アイヌ文化で読み解く「ゴールデンカムイ」』という本があります。ゴールデンカムイの作者のイラストも入っていますよ」
    「いいですね~。読んでみたいですね」
    「では、書架をご案内します。すいません、書架を見に行きますのでお願いします」他のスタッフに声をかけて、書架を案内した。
    「382というコーナーが、民俗学の分類です。民俗学って面白い本がいっぱいあるんです。あ、これですね。表紙もアシㇼパさんです。他の例えば衣食住のことでしたら383になりますし、伝説は388になります。日本史だと211になります。あとおすすめは、北海道の地名って変わった名前が多いんですが、アイヌ語の地名なんです。それを残した人が松浦武四郎さんです。280に伝記がありますので、そちらの本もぜひ読んでみてください」
    「へぇ~なんだか興味がわいてきました。ちょっと知りたいだけだったんですが、深く知りたくなってきました」
    「北海道に「国立アイヌ民族博物館(ウポポイ)」ができましたよ。ここへ行くとアイヌのいろいろなことを知ることができますし、オハウやエゾシカ・ヒグマのジビエ料理を食べることができるそうです」
    「お兄さん、なんでそんなに詳しいのぉ?」
    「歴史が好きなので、アイヌにも興味を持ちましたから」
    「ウポポイ行ってみます!」
    「旅行のガイドブックは291にありますよ」
    「お兄さん図書館のこと全部頭に入ってるの?」
    「そういうわけではないんです。この分類番号は全国のほとんどの図書館で共通なんです」
    「へぇ~知らなかった。詳しいんですね」
    「図書館司書の経験は長いんですが、実はこの図書館は今日がはじめてなんです」
    「えっ?」
    ちょっと時間を要してしまったな。カウンターに戻ると山田さんが怖そうな顔をして
    「勝手に席を外さないでください。リファレンスにそんなに時間をかけないでください!」
    「リファレンスは解決して、そのことに興味を持ってもらえました。大学図書館では、棚を見てもらって資料を探してもらっていました」
    「ここにはここのやり方があるの! もうあんたは大学図書館の人じゃないんだから。棚まで行って無駄話して」
    「無駄ではありませんよ。貸出手続きをお願いします。」そのとき、先ほどの若者が本を数冊抱えて貸出手続きに来た。
    「さっきはありがとうございました。アイヌのことを知ることができそうです」
    「それはよかった。ここにない本があれば、他の図書館から取り寄せることもできますし、購入リクエストもできますから、お声がけください」
    「ありがとうございました」山田さんの方を見ると、目を背けられてしまった。
    「あの~休憩をいただきたいんですが……」奥から声がかかった。
    「すいません~移動図書館に行ってください」休憩……規則正しく食べないといけないのに……
    「はい、何をすればいいか教えてください」
    「本は車に積んであるから、貸出グッズを載せてください。はいカギ」えっ?
    「すみません。私はペーパードライバーで、東京の道を走ったことはありません。運転はできません・・・・・」
    「はぁぁぁ~! あんた、なんでもできるんじゃないの! 運転免許も持っているんだよね。詐欺じゃん!」
    「すみません」運転はできない。
    「今日鹿島さん、お休みだよね。あぁぁ~もうぅ! もういいわ!」カギを奪い取って行ってしまった。
    「原田さん、キツイから。気にしないでいいよ」
    「私が悪いんですから。すみません」お腹が痛くなってきた。
    「休憩まだだったね。行ってもいいよ」
    「すみません。休憩室はありますか? あるけど、そと行って来たら?」
    「そうします」ここは公園の一角なのでベンチに座って、今日あったことを考えながら、自分で作った野菜スープとおにぎりをゆっくり食べた。真湖さんみたいに美味しくできなかったけど、まぁまぁ食べられる。今日のこと真湖さんにLINEを送ろうと思ったけど、こんな情けないことは言えない。図書館の通用門に以前見かけた「侍」さんの姿が見えた。足を怪我したのか松葉づえだ。それで仕事は大変だろう。カウンターならいいかな。僕に手伝えることはあるだろうか。今日、読み聞かせとリファレンスの仕事はうまくできたと思うけど、他はダメダメだ。まだ一日だけど、ここの仕事は向いていないと思う。自分には無理だ。
    図書館カウンターに戻ると、
    「鹿島さん、来てくれたの」山田さん、さっきとは全然違う。
    「新しい人が使えないって連絡もらったから」それって僕のこと……
    「大石です。よろしくお願いします」どーもって、目を背けられてしまった。
    「大石さん、シフトのことなんだけど、遅番やってくれる?」
    「何時からですか?」
    「午後一時から九時の閉館まで」規則正しく食事をすることは難しいかな。
    「大変申し訳ありません。私はこちらの図書館にはお役に立てそうもありません。辞めさせていただきたいと思います」辞めるなら早い方がいい。
    「えっ」
    「本当に申し訳ありません」
    「やっぱりね。この人には無理だと思ったんだよ」侍にそう言われてしまった。
    一日だけの公共図書館勤務。僕には無理な仕事だった。真湖さんにLINEで報告。一日で辞めてしまった情けない。
    【大学図書館】
    メールをチェックすると新規の図書館司書の募集があった。契約社員の募集だけど、正規職員になれる可能性があって、図書館司書の資格が必要、経験者優遇。お給料はそれほど高くはないけど月給。新設された大学の図書館だった。場所もここから近い。明日、十時に雇用保険の説明会があるから、その時に紹介状を依頼しよう。履歴書・職務経歴書・司書資格のコピーと身分証のコピーを印刷した。この学校の図書館はいいかも知れない。ただ、仕事の開始が七月からだった。ずいぶん早くから求人を出すんだな。その間、雇用保険をもらえるからやっていけるだろう。応募することにした。
    翌日またハローワーク。障がい者のフロアの受付で紹介状の発行を依頼した。
    「大石さん、お待たせしました」この前紹介状を発行してくれた広川さんだった。
    「先日紹介状を発行したところはどうでしたか?」
    「一日だけ行ったんですが、合わなかったので。何度もすみません」
    「構いませんよ。一度に何枚か発行することもあります。積極的に活動してみえていいですね。お待ちください。大石さんのお身体のことを確認しますね」
    「よろしくお願いします」それでダメだって言われたらどうしよう。
    「先方にお身体のことを確認しました。問題ないそうです」よかった。
    挨拶状・履歴書・職務経歴書・身分証明書のコピー・図書館司書資格証明書のコピーのファイルに、紹介状を添付した。
    「ちょっと見せていただいてもいいですか?…………………………うん、完璧ですね。きっと大丈夫ですよ。こちらもおすすめの案件です。これまでのところよりも合ってみえると思います。頑張ってください。今日は職業相談にみえたので、求職活動の実績になります。採用されましたら、こちらの用紙を書いてもらって、採用日の前日までにこちらのカウンターにお越しください」
    「雇用保険の説明会に来たんですが」
    「こちらのカウンターで大丈夫なので説明会に来たことになります。こちらが雇用保険の書類になりますので、目を通しておいてください。わからないところは聞いてくださいね」
    「ありがとうございました」
    郵便局でレターパックライトを買って送った。もう手慣れたもんだ。
    ピコン! 真湖さんからLINE
    ――ご機嫌直った?
    ――また、ハローワークです。気になる求人があったので、応募しました。
    ――立ち直ったのね。さすが史郎さん!
    ――今度見つけた仕事は、今までで一番いいかもしれない
     
     病院で二回目の注射。痛み止めとアレルギーの薬を飲んでしばらくすると呼ばれた。和田さんが注射や消毒を準備してくれる。
    「自分でできそうです。やってみてもよろしいでしょうか」
    「失敗はできませんよ。高い注射ですから」
    「大丈夫だと思います。。高度な技術の注射器には感服しました。痛みをほとんど感じませんでしたから」
    「では、見ていますのでお願いします。この前は左側に打ちましたので、場所を変えてくださいね」
    消毒で清拭、キャップを外して、もう一度清拭、お腹の皮をつまんで垂直に押し付ける。ちゅ~っと冷たい液が身体に中に入ってくるのがわかる。カチッと音がして針は収納された。そのまましばらくの間待ってから、注射器を外す。
    「大石さん、いいですね。完璧です。待ち合いでしばらくお待ちください」
    「史郎さん!」
    「真湖さん、来てくれたの?」
    「今日は帰っていいですよ。何かあったら連絡くださいね。では来週またお越しください」
    「はい。ありがとうございました」
    「帰る?」
    「車で来ているの。どこかでご飯食べる? うどん屋さんとか……」
    「輪島庵でいい?」
    「うん!」
    「店の横に駐車場があるよ」市の公共図書館の僕の情けなさを真湖さんに話した。真湖さんは何も言わずに聞いてくれる。
    輪島庵まで乗せてもらい、
    「へぃ、らっしゃい!」
    「こんにちは。駐車場に車置かせてもらいました」
    「いいですよ。なんにしましょ。いつものですか?」
    「はい、今日のランチは何ですか?」
    「駿河湾づくし・桜エビのかき揚げです」真湖さんの目が輝いた。
    「ランチでいいね」頷く真湖さん。
    「お願いします」
    「やわうどんとランチ!」
    「はいよ~」
    「今日見つけた求人、これ」
    「立川医療情報大学? 知らないなぁ?」
    「だよねぇ~。新しい学校みたい」
    「今から行ってみる? ナビがあるから近くまで行けるよ」
    「お願いできる? 悪いね」
    「お待たせしました~。ランチ駿河湾づくしです。かき揚げはお塩がおいしいですよ」
    「はい!」
    「お先にどうぞ、遠慮なく」
    「いただきま~す。釜揚げしらす付! 駿河湾づくし! 旬のものは美味しい~!」
    「良かったね」
    「へぃ、お待ち」
    「ありがとうございます。いつもすいません」
    優しいお出汁のうどんがおいしい。安心できるなぁ。真湖さんも美味しそうに
    食べている。君は何でもおいしそうに食べるね。そんな顔を見ているとこっち
    も幸せな気分になるよ。
     
    「もう食べた? 行きましょうか」
    「では、お願いします。電話番号でセットできるかな?」
    ナビに電話番号を打ち込んでも該当なしだった。仕方がないので、住所を打ち込んだ。
    「このナビ古いから」颯爽と車を運転する真湖さんはかっこいい。十分ぐらいで
    「目的地周辺に到着しましたのでナビを終了します」えl周りは工事中の建物。 コンビニに車を停めて、
    「住所からするとここ? ちょっと待ってて」建築中の建物の「建設業の許可証」を見ると「学校法人 立川和田学園・立川医療情報大学」とあった。
    「ここだ」立川駅からすぐの場所だった。求人が七月開始なのは、まだ出来ていないからなのか……。覗いてみると建物の外観は完成しているから、工事車両が出入りしているのは内装をやっているんだ。
    「図書館はどこにあるのかな?」真湖さんが下りてきて、
    「まだできてないってこと?」
    「そうだね」一から図書館を作っていくのもいいかも知れない。
    「真湖さんの学校は?」
    「まだ何も……ダメかな?」
    「まだ結果出ていないでしょ。もう少し待ってみたら?」
    「うん」
    「今日はありがとう」
    「注射はどこに打ったの?」
    「お腹」
    「えっ? お腹に?」
    「そう、今日は自分でやらせてもらった」
    「安静にするように言われているから、今日は帰るね」
    「送ります」
    「ありがとう。真湖さん、僕あの学校で働きたいと思っている」
    「一年間だけ?」
    「正規職員で雇ってもらえたら、そのまま働きたい。『Librarian PRO』は来年度、入札できると決まっていないし、派遣だから……。真湖さんと付き合う前は安定した仕事じゃなくても、図書館司書としてやっていけるならそれでもいいと思っていた。でも今は、一日も早く安定した職について、真湖さんと結婚したいと思っている。頑張るよ。なんとしても採用してもらうから」
    「史郎さん……」
     
     翌週、立川医療情報大学から、面接の連絡があった。立川駅前のホテルが面接会場だった。建物が完成するまでは、このホテルを事務所として借りているとのこと。
    「大石史郎さん、お入りください」
    「失礼します。大石史郎です。よろしくお願いします」
    「理事長の和田です」この声! ハッとして顔を上げる。
    「ご縁がありますね。大石さんに撮っていただいた写真はみんなうちの職員です」ロンのご主人の和田真恵さんだった。壁には僕が撮った写真が飾ってある。こんなことって……
    「よろしくお願いします。」
    「こちらこそよろしくお願いします。履歴書、職務経歴書拝見しました。図書館司書として申し分ない方だと思いました。願ってもない人材です。大石さんのお人柄も存じております。うちの学校はまだこれからです。来年の四月から学生はやってきます。建物もまだ完成しておりませんが、七月までには内装工事も完了する予定です。大石さん、まず学校の図書館を作っていくお手伝いをしていただけますか?」
    「はい、よろしくお願いします。全身全霊をかけて取り組む所存です。魅力ある図書館づくりを頑張ります」
    「何か、質問はありますか?」
    「採用していただけるということでしょうか?」
    「もちろんです。これほどのご経験がある方でしたら、正規職員での採用になります」
    「私は難病を抱えております。月に一度は通院しないと行けません。それでもよろしいのでしょうか」
    「問題ありません。うちは医療系の大学です。看護師・介護士・理学療法士・作業療法士・言語聴覚士を育成する学校です。労わることができないで、どうしますか。ご存じの通り、私は目が不自由です。耳の不自由なもの、足の不自由なもの、内部障がいを抱えているもの。そんな職員がいっぱいです。むしろ、私たちを助けていただきたいと思っておりますよ。もう大石さんには助けていただきましたね。病院には遠慮なく行ってくださいね」
    「田中さん、手続きをお願いします」手話を交えて、はっきりと伝えた。
    「は、はぃ。か、かぃて、い、いた、だく、し、しょるぃ、が、あ、りぃます」
    この方もたてもの園でお見かけした方だった。
    「よろしくお願いします。」
    その場で決定するなんて、そんなことがあるんだろうか。ハローワークの求人にはもう載っていなかった。アパートに一旦戻り、「採用証明書」を記載してもらうために、再度「立川医療情報大学」の事務所を訪問し、手話ができないのでメモを渡し、田中さんに「採用証明書」を書いてもらい、その足でハローワークに提出した。再就職手当を振り込んでくれるらしい。この学校で働くには手話も覚えないといけないな。点字も……。
     
    ピコン! 真湖さんからLINE
    ――就職が決まりました! 国分寺女学園の図書室。学校司書です。採用の条件として部活のコーチも担当することになりそうです。がんばります!
    ――おめでとう! 僕も就職が決まったよ! 先週行った「立川医療情報大学」です。即決でした。理事長はなんと! ロンのご主人さまです。ハローワークで出会って、東京たてもの園で再会して、今日雇ってもらえました。こんなご縁ってあるんですね。不思議な縁にびっくりしています。
    ピコン!
    ――最初から決まっていた。そんな運命を感じますね。
     
     アパートに帰ると、市大図書館の不採用通知と、実家から手紙が届いていた。
    「史郎へ
      手紙を読みました。史郎がそんな大変な病気になったなんて、知りませんでした。どうして教えてくれなかったの? 私たちはあなたの親です。心配をしてはいけなの? 病気のことは史郎の手紙だけでなく、市の図書館へ行って調べてみました。図書館の人が親切に教えてくれましたよ。史郎もこういう仕事をしていたんだなと、仕事のことがわかりました。人の役に立てるいいお仕事ですね。
    史郎にいっぱい美味しいものを作って食べさせてあげたいけど、それはいけない病気なんだね。いい薬ができて、昔のように美味しいものが食べられるようになるといいね。
    今は真湖さんがそばにいて下さるから安心しています。写真もありがとう。活発そうな可愛らしいお嬢さんで、史郎のことを好いて下さるのは夢のようです。お父さんはいろんな人に、史郎のお嫁さんだと紹介しています。真湖さんを大事にしてください。仕事を辞めたそうですが、早く仕事を決めて、真湖さんと一緒になって、父さんと母さんを安心させてください。
    一度、諏訪に帰って顔を見せてください。仕事を辞めてお金がないのなら送りますよ。
    母より」
     すぐ母親に電話をかけた。
    「もしもし、母さん。史郎…………うん、手紙ありがとう。心配かけて、驚かせてごめん。難病になったこと、本当は怖くて……しょうがないんだ。…………うん、うん…………そう、真湖さんが支えてくれて…………うん、うん。仕事が決まったよ。また大学の図書館。別の学校…………うん、今度の図書館は大丈夫…………うん。仕事が安定したら真湖さんにプロポーズするよ…………フラれないようにがんばるよ。……あぁ、今度真湖さんと帰るよ…………真湖さんも行きたがってくれてるから、あぁ、そうだね……」泣けてきてしまった。いつの間にか真湖さんが部屋に来てくれて、僕から電話を奪うと
    「真湖ですぅ~おかあさ~ん。あぁ~ん……うわぁ~ん」子どものように泣き出してしまった。
    「一度切るね。落ち着いたらまたかけるから、またね」飾ってある写真を指差しながら
    「写真がぁ、あの写真がぁコンテストでぇグランプリぃ」
    「この写真がぁ?」やっぱり運命だったんだぁ。盛山さんが撮った僕たちの写真。運命の一枚。今日は嬉しいことがいっぱいあった。今日からいろんなことが進み始めた――。
    「週末、諏訪に行ってくれる?」
    「う、ん、うん」あ~ん、ぁ~ん。真湖さんは泣き止まない。困ったな。でも悲しくて泣いているんじゃないから、抱きしめながら、母親との電話と手紙のことを話した。
    ピコン! 濱島さんからLINE
    ――経済学部・社会学部・文学部・教育学部・法学部全学部の教授会で、図書館の質が落ちたと議題が出ました。選書を全部書店に丸投げして、AIが決めていたらしく、昨年までとは違い必要な資料はなく、不必要な蔵書が増えたそうです。うちら三人でがんばって選書したもんね。
    来週から、藤岡さんと濱島が図書館に一時戻ります。残念ながら配置転換ではなくて、派遣スタッフの教育。どのくらいかわからないけど、戻ります。大石君がいてくれないのは残念だけど、ふたりでがんばるね。
     
     そんなことだったら、正規職員を移動させることはなかったのに……
    でも僕はもう「国分寺大学」には戻らない。もう振り回されるのは嫌だ。図書館司書を大事にしない「国分寺大学」には絶望したんだ。
    『Librarian PRO』のグループラインに、正規職員の図書館司書の仕事が決まったことを報告した。みなさんからは、祝福LINEがたくさん届いた。
    僕は図書館司書として「立川医療情報大学」で正規職員として働く。そして真湖さんと一緒に明日に向かって歩くことにする――。真湖さんに経験がないことを伝えなくてはいけないな。気が重いカミングアウトだ。でもみんなが乗り越えてきた道なんだから、なんとかなるだろう。
    週末、諏訪に真湖さんと行かないと――。
    【完】
     

     
     

    ina34

     
     
    小説を書いてみます。 拙いものですが、読んでいただけると幸いです。よろしくお願いします。

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