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幸福の擬態

    #創作大賞2026
    #エンタメ原作部門
    #小説
    #ドラマ脚本

    あらすじ
    自らを「平凡」と定義していた「私」が魔物になるきっかけは些細なことだった。世間で話題になっているトレーディングカードに出会ったことをきっかけに、玩具やトレーディングカード収集を狂気的に集め始める「私」。家族のお金にまで手を出してしまう中で、幼少期の記憶「僕」の中にいるトラウマの原因となった親を許すことで、新しい生活を取り戻していくかのように思われたが、しかしそれは「私」による支配だった。
    今、日本のゲームやアニメコンテンツが世界でも話題となり、トレカ投資やおもちゃ投資という言葉が一般化する中で、誰にでも起こる得る精神状態を描きました。


    平凡


    「普通(へいぼん)」とは、このような優れた特徴や変わった点はなく、ごく普通でありふれている様子。類語には「一般」「普通」「月並み」「凡庸」などがあり、対義語は「非凡」や「特殊」です。 

    詳細な意味と使用法

    • 意味:特に優れた特色を持たない、当たり前のこと。

    • ニュアンス:否定的に「退屈」「面白みがない」という意味で使われることもあれば、穏やかで平和な様子(例:平凡な暮らし)としても使われることもあります。


    今


    「田中さん!設計図と現場に食い違いがあるから明日朝イチで来て欲しいって現場監督さんから電話ありましたよ。」

    仕事中、違和感のある言葉を伝えてくるAIに「平凡とは」について教えてもらっていた私は、ふと我に返った。

    建設現場に行くのは嫌いではなかった。どちらかと言えばオフィスの中で椅子に座って設計図面を描いているよりも、色々めんどくさいことを言われながらも、人と同じ目的を持って何かを作っている感覚になれる建設現場は性に合っていると思っている。

    私は兵庫県神戸市の比較的都市エリアに生まれた。その場所はお金持ちが多いという印象がある地域だが、子どもの頃の私は2LDK家賃10万円のマンションに家族5人で住んでいた。その安さの理由は1995年(平成7年)1月17日(火曜日)5時46分52秒に起きた阪神淡路大震災によって、マンション全体が全半壊したことが影響したからだった。

    阪神淡路大震災を経験したこと以外に、人生これまで変わったことは一つもなかったと言っていい。

    公立小学校、公立中学校、公立高校に通い、大学も姉の進めで建築学科に進んだものの、偏差値45くらいの平凡大学で、卒業する時も教授は私の名前なんか覚えていないような成績だった。

    たまたま父親の旧友が東京で工務店を経営していて、声をかけてくれたことがきっかけで就職することになった。家に仕事を持ち帰ることも多いが、その分早めの帰宅を許してくれる会社で助かっている。自分の仕事部屋を持たせてくれている家族にも感謝している。

    就職で東京に来たのが人生で初めてで、当たり前に住むのも初めてだった。会社から電車で40分ほどの場所にこれもまた大家さんと父親が知り合いのマンションを借りることができ、今も住み続けている。比較的大きな街で、駅前には映画館や百貨店もある。駅から家まで歩いて20分はかかるけれど、元々歩くことが好きだったこともあり、気になったことはない。困り事といえば建築模型材料屋さんが近くにないことくらいだろうか。それでも優雅な日常を過ごすわけでもなく、外食もあまりせず、百貨店で買い物もしない。身の丈にあった暮らしをしてきたと思う。


    東京に来て6年が経った頃に上の子が生まれ、その3年後に2人目が生まれた。ふたりとも育つ過程で色々あったにせよ、入院したり、他人に迷惑をかけることもなく、一般的には健康に育ってくれている。一姫二太郎、3歳差で、育てる状況にも恵まれていたと思う。

    学校も大好きで、風邪で休んだ日は「家が暇すぎて早く学校に行きたい」と駄々をこねるほどだ。高熱が出なければ一人で家で待ってくれるし、少し少食なところはあるけれど、食べ物系の漫画に影響を受けて、最近ではよくご飯も食べてくれるようになった。

    下の子は乗り物玩具、上の子は漫画が大好きだ。漫画は特にサスペンス系アニメが大好きで、自分のお小遣いを貯めては漫画を中古屋さんに買いに行く。寝る前は漫画を読むのが日課で、集中しすぎて寝る時間が少し遅れるのが課題になっている。

    でも二人とも勉強に影響が出るほど欲に負けて遊んでしまうこともなく、いつも宿題や明日の準備が終わってから好きな時間を過ごすことが日課になっている。学校の先生との面談でも「どうやって宿題をちゃんとやれる子に育てているのですか」と聞かれるほどで、私が当たり前と思っていることを当たり前にやってくれる子どもたちで助かっている。

    下の子は野球に興味を示し始めていて、土日のどちらかは河川敷にキャッチボールをしに行く。学校で練習しているらしく、親ですら驚くような成長ぶりを毎週見せてくれている。野球を習いたいというが、夏が暑すぎるからどうしようか悩んでいる。子どものやる気を削ぎたくはない。でも命は守ってあげたい。今一番の悩みかもしれない。

    金曜日の夜は元プロ野球選手やお天気おじさん、音楽家の女性が出ているテレビを見ながらご飯を食べる。私は職場の人たちと飲み会などに行くことはない。ハラスメント、という言葉が重要視されるようになってから、私の夜は家族と一緒に過ごす時間に変わった。20時にはテレビを消し、子どもたちは歯を磨いたり、お布団の準備をしてもらい、私はお茶碗を洗ったり、洗濯物を干したり、明日に向けた準備に入る。

    20時半からは子どもたちの漫画の時間。私は少し残っていた仕事をやりながら21時半を待つ。いつも少し時間オーバーしたあたりで声をかける。すぐに寝る前のトイレに行ってくれて、おやすみを伝えて、私は仕事部屋に戻る。


    家を離れてからも親と時々電話をしたり、実家で何かあれば相談しあう仲でもある。子どもたちはよく神戸に遊びに行きたいと言う。おじいちゃんとおばあちゃんに何かをねだる事はないけれど、非日常を感じられる場所が楽しいようだ。母は一度話し始めると止まらない人だが、内容が面白かったり、ほんわかする話が多く、聞いているこちらもあっという間に時間が過ぎてしまう。先日も飼っている猫がいなくなったと大騒ぎし、結局押し入れの中にいたと事後報告があった。大騒ぎの対応をしたのは姉だったようだ。


    私の趣味は映画鑑賞だ。履歴書にありそうな趣味だが、一番の趣味だと言える。アニメや恋愛映画、サスペンスまで幅広く見ている。昔はレンタルビデオ屋さんに行って借りていたが、サブスクと呼ばれる時代は本当に便利になったと思う。無料映画も増えているから、有料映画を見る機会が減った気もするが満足している。元々気に入った映画を何度も見る癖があるから、無料映画だけでも良いのだ。

    音楽鑑賞も好きだ。鑑賞、という大それたものでもないが、設計の仕事をしている間はイヤホンを付けて大好きなアニメソングや映画音楽を聴いている。時々音楽で映画を思い出してしまい、泣きそうになることもある。人一倍映画に影響を受けたり、世界観に引き込まれたり、それを引きずるタイプだと思う。


    バナナが大嫌いだ、という以外は比較的何でも食べることができる。特に好きな食べ物はお寿司で、高級寿司には行けないが、回るお寿司はたまに行く。烏賊、海老、マグロ、そして海老天が入ったうどんを食べれば満足できる。コスパは最高だ。そこでお酒を飲むこともなく、熱いお茶で十分。時々コーヒーを飲むが、最近のコーヒーは安くてもこだわった豆を使っているようで、何も言うことはない。

    少し体重が気になる年齢になった。定期検診では少しコレステロールが気になるが、改善するべき数値はないと言われている。縁があって時々農家さんから届く無農薬野菜を食べていることも影響しているのかもしれない。健康は最大の投資、というのはこの年齢になってしみじみ分かる。子どもたちが小さいうちは死にたくはない。目下私の目標は子どもが独立するまで元気にいることかもしれない。


    人はこういった状況の私を「幸せな人」と呼ぶかもしれない。

    でも私にとっては平凡で、でもそれが嫌なわけではなく、安心できる状態だと感謝している。


    TOY


    「おとうさん、モントレカードが欲しいの。」

    モントレカード。モンスタートレーディングカードを略した言葉で、名前は聞いたことがあった。お互いに60枚のカードを使い、相手のモンスターを倒す対戦型カードゲームだ。元々はゲーム機から派生したカードゲームで、私が小学校高学年くらいの時に発売された記憶があるが、私自身は接点がなかった。

    小学校に入った上の子はあまりわがままに物を欲しがる子ではなかったこともあって、私は「いいよ、買ってくるね。」と伝えた。私は仕事の合間を見て、購入してすぐに遊べる『ゲームに必要なカード構築済みスタートデッキ』を買って家に帰った。

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    上の子はとても喜んだのだが、実は対戦するにはスタートデッキが2つ必要だったようだ。その晩は開封だけを楽しんだのだが、最近のカードゲームのイラストの素晴らしさやクオリティーの高さに驚かされた。

    次の日の昼休み、私は上司に会社から歩いてすぐの場所にある玩具屋さんに行ってきますと伝えた。すると「最近モントレカードが高騰していて買えないかもしれない。もし買えたら欲しいから一緒に行こう。」と言われ、上司と一緒にモントレカードを買いに行くことになった。

    モントレカードが高騰している。

    私には別世界の話だし、昨日買ったスタートデッキは定価で買えたし、何も気にすることなく玩具屋さんに向かった。そこには昨日気が付かなかったカードパックなる商品が置かれていた。ランダムにカードが入っている商品で、上司曰く中には数十万円するカードも入っているらしい。私はスタートデッキとカードパックを5パック買うことにした。するとお店の人から「3パックまでなのよ。」と告げられた。それだけ欲しい人がいて、そのパック自体も定価より高く売れると、自信満々な上司が教えてくれた。

    何が何だか分からなかったが、私はルール通り3パックを定価で買い、仕事に戻った。

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    その日の夜、私は子どもたちとスタートデッキでルールを覚えることから始めた。モントレカードのルールは比較的簡単で、やりながら簡単に覚えることができた。何度かゲームを繰り返すうちに、昼間買った3パックのことを思い出した。

    おもむろに私は3パックを子どもたちに渡し、1人1パックずつ開けてみることにした。数十万円のカード。まさかな...。

    そのまさかという気持ちは当たっていた。そこまでの高額カードは出てこなかった。しかし1枚だけ、私の目を引くカードが出てきた。このカード、何だか、とても美しい。

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    実は昼間上司から、もし高額カードが出てきたら『ローダー』と呼ばれるカード保護を目的としたケースを持っておいた方が良いと教えてもらっていたのだ。私は当たった美しいカードをすぐにローダーに入れることにした。

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    すると下の子が私にこう言った。

    「なぜ、そんなに守ろうとするの?」

    私は咄嗟にこう答えていた。

    「いや、一緒にカードを買った上司が高額なカードはローダーに入れた方が良いし、売りたくなったらカード屋さんに行けば売れるから大切にしなって。それにカードを傷つけずに誰かに見つからないように隠すこともできるじゃない。」

    下の子はそのカードを欲しそうにしていたが、自分のお金で買っていないこともあって、私の物となった。私はローダーに入ったこのカードを黒い箱に入れて保管することにした。どうせすぐに忘れてしまって失くすのだろうな、くらいの気持ちで私は黒い箱を仕事部屋の棚の奥にしまい込んだ。

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    誕生


    私と上司は仲良くなっていた。会話の共通言語というものは人をこんなにも近づけるのかと驚いている。

    「昨日、良いカード当たったのか?」

    何かワクワクするようなその眼差しは、何だか私を不安にさせた。高額なカードが当たりましたと言えば、財布の中身を見せるような気持ちになると感じていたからだ。私は「いや、何も良いカードらしきものはありませんでした。」と答えていた。あの美しいカードのことは隠していた。

    「そうかぁ!人生そんなに甘くないよな!俺も普通カードだけだった!」

    そう言う上司は、また買いに行く時は声をかけてな!と言い、問題が起こった建設現場に向かう準備を始めた。私は上司に嘘をついたという後ろめたさよりも、バレなかったという安堵感に包まれていた。

    ふと、私は昨日当たったあの美しいカードの値段が気になった。もしかしたら高額なカードだったのかもしれない。値段が分からないからこんな気持ちになってしまったのだと思った。PCを開き、本当は仕事中にはやってはいけないプライベートな調べ物を始めた。大手カード会社のHPを開き、検索エンジンにモンスターの名前を入れる。

    出てきたカードは980円と表記されていた。在庫数168枚。

    1枚のカードの金額にしては高いが、聞いていたような金額でもないし、在庫もたくさんある。たぶん上司もそこまで羨ましがったり、欲しがったりしないだろうと思った。少し「良いなぁ。」くらいの反応はあるかもしれないが、980円ならあげても良い。また欲しくなったら在庫もたくさんあるし、ネット注文すれば良い。

    私はPC画面を建築図面に戻した。今日中に現場と図面のズレを修正しなければならなかった。こっちの方が冷や汗ものだ。でも、私の背中にはそれとは違う、何か不吉な汗が流れていた。


    16時56分。定時の30分前に図面は完成した。すぐにデータをPDFデータにし、現場で待っている上司に送った。送信ボタンを押すとすぐに上司から返信があった。

    「素晴らしい!今日は帰ってよし!(笑)」

    その時にはもう私の背中に汗は流れておらず、むしろ無事に仕事を終えられた充実感があった。私はすぐに身支度を始め、社長や同僚たちに帰りの挨拶をした。社長からは「今日も良い仕事したみたいだな!お父さんも喜んでるだろ!帰りに打ちっぱなしでもどうだ!」と言われ、一瞬ためらった私に気がついた社長は「すまんすまん!子どもたちが待ってるな!早く帰ってやんな。」と告げた。

    私はできる限りの笑顔を見せ、会社をあとにした。

    駅は会社から歩いて15分ほどの場所にある。昨日行った玩具屋さんとは真逆の場所だ。会社を出て右に行けば駅。左に行けば玩具屋さん。玩具屋さんは18時まで空いている。今向かえば閉店まで少しウィンドウショッピングが出来る。でも私には玩具屋さんに行く意味はない。欲しい物はないはずなのだ。

    でも私の足は左の道に向いていた。

    キョロキョロしながら、誰にも見られないように、私は足早に玩具屋さんを目指していた。普段であれば10分ほどの道のはずなのに、30分以上に感じられた。私は昼間かいた汗を背中に感じていた。

    カラカラカラと音のする横開きのガラスドアをゆっくり開き、私はお店の中へ入って行った。私の目的は一つだった。そう、昨日昼間に買ったモントレカードのパック。レジ横に置かれた『一人3パックまで』のそれ。私は店全体を見るふりをしながらレジ横を見た。そこにはまだパックが残っていた。

    『昨日買ったのにまた買うことができるのか』『大人の私が買うのは本当に良いことなのか』『子どもがまた欲しがっているはずだ』

    頭の中は自問自答でいっぱいになっていた。私は欲しくもない車のおもちゃを持ってレジに行き、店員のおばさんにこう告げた。

    「モ、モンスタートレーディングカード、買えますか?」

    遅くにやってきた客がわずらわしかったのか、おばさんはぶっきらぼうに「何パック?」と聞き返し、私は「3で。」と答えた。

    私はお金を支払い逃げるように店を出た。知らない車のおもちゃとモントレカードを3パックビニール袋に入れてもらい、足早に駅に向かった。

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    駅には40分かかってたどり着いた。会社の人に会いたくなくて、遠回りをしたからだ。駅のホームで安堵していると「おい!!」と声をかけられた。現場から戻ってきた上司だった。「ひゃあ!!」とお化け屋敷でも出さない大声を出してしまった私は、ホームにいる人たちの注目を一身に集めてしまった。

    「ワッハッハ!!どうした!お化け屋敷でもないのに。」

    私はまたできる限りの笑顔を振りまいた。上司はすぐに私が持っているビニール袋に気がついた。その中に入っている物にも。

    「おいおい!行くなら言ってくれよ!ずるいぜ!今から行っても閉まってるだろ〜。」

    私の背中は信じられないくらい冷たい汗をかいていた。どんな言い訳をしたかも覚えていない。おそらく子どもが欲しがったとか、子どもの喜ぶ顔が見たくなったとか、子どもを理由にした言い訳をしていたと思う。上司は「明日またどんなカードが出たのか報告しろよな!」と言い、別れを告げた。

    私はその場で倒れ込みたい気持ちを必死に抑え、ホームに入ってきた電車に乗った。電車の中は空いていて、座ることができた。唯一の救いだった。私はビニール袋を鞄の中に入れ、なぜすぐに鞄に入れなかったのかと自分を責めた。

    「もっと、もっと上手くやらなあかん。もっと上手くや。」

    私は私ではない誰かの声を耳にしていた。


    購入したパックから高額カードは出なかった。むしろ美しいカードも出ず、上司がいう『普通カード』だけだった。一応大手カード会社のHPで金額を調べたが全て30円。本当に高額カードなんか入っているのかなと思いながらHPを閉じた。その様子を見ていた妻が「カードなんて珍しいわね。」と声をかけてきた。

    その瞬間、私はまたあの冷たい汗を背中にかいていることに気がついた。

    「そ、そうだね、こ、子どもたちが欲しいって言うからさ、喜ぶ顔が見たいし、このパックのおかげで上司とも仲良くなれて、良いことだらけなんだよね。お守りとか厄除けみたいな物かもなぁ、なんて思ってさ!」

    「そうなんだ。じゃあ見つけたら時々買うのも良いわね。そんなに高い物でもないんでしょう?」

    「う、うん。1パック180円くらいかな。」

    「食費や平日の子どもたちの遊び代はあなた持ちだから、いつもの月8万円の中でね。でもあまり子どもたちにおもちゃをあげすぎないでね。あ、あと携帯代も忘れちゃだめよ。」

    「う、うん、分かってる。」

    私がご飯を作っている関係で、食材費は私が出している。夏休みなど平日に子どもたちと遊びに行く費用も私持ちだ。趣味は映画だし、携帯代も月々8000円くらいで、今まで少し貯金ができるくらいの生活をしていた。

    何も使う予定のない貯金は、学生時代から貯めてきたお金と親から預かっている子どもたちのお年玉やお誕生日祝いのお金30万円を含めて300万円まで貯まっていた。「何かしたいことがなければお金を貯めて、したいことが見つかったらすぐに動けるようにしておきなさい。」これは私が大好きだった祖父の教えだ。私は心の平穏を保つためにも、金銭的な余裕を持つことは大切だと考えていた。

    私はもうモントレカードを買うことはないと思っていた。子どもたちはスタートデッキで満足しているようだし、もし物足りなくなったら別のスタートデッキを買えば良いと思っていた。だって、欲しいカードなんかないはずだったから。


    私と上司は週に2回は昼休みに玩具屋さんに行くようになっていた。私は欲しい物はないと上司に言いながらも、レジ横に目をやることはやめられなかった。モントレカードは無くなっていた。再入荷も未定だとおばさんは言っていた。私はなぜか安堵していて、このまま二度とモントレカードに出会いたくないとさえ感じていた。

    そんな私の横で上司は、まだないの!とか、近くで働いているから再入荷したら届けてよ!とか失礼極まりないことばかり言っていた。お金は人の本性を露呈する、祖父がそんなことを言っていた気がする。

    ある昼休み、上司が現場にいることもあって、一人で玩具屋さんに行くことにした。定期的に行っているから、急に行かなくなるのもおばさんが心配するかもしれない。訳もわからない理由をいくつか心の中で作っていた。

    いつものようにカラカラカラとガラスドアを開けるなり、私を待っていました!と言わんばかりに玩具屋のおばさんが近づいてきた。

    「あなた!この間車のおもちゃ買ったよね!あれさ、理由はわからないけれどメーカーが急に回収してるんだよ!あんまり売れてなかったみたいで、数が少ないんだってさ。さっき営業の人が言ってたよ!あの車持ってる人はひと財産になるだろうってさ!よかったねぇ。」

    私は背中に冷たい滝のような汗をかいていた。

    あの車のおもちゃ、どこにやっただろう。モントレカードをビニール袋から出したところまでは覚えている。そのあと、間違えて捨ててしまったのだろうか。下の子にあげたのだろうか。いや、あげた記憶はないし、下の子は親の物を使う子でもない。私は思い出せるだけの記憶を辿った。しかしどうしても思い出せない。

    モントレカードの再販がないことだけを確認し仕事場に戻ったが、午後は失敗だらけで、社長からも疲れているんじゃないかと心配される始末だった。

    定時になり、家に着くまで私は足早だった。家に着くなり車のおもちゃを探し始めた。するとブゥーーーンという下の子の独り言が耳に入った。私は恐る恐る子どもの近くへ歩み寄った。子どもの手にはあの車のおもちゃがあった。

    私ではない誰かが下の子に向かって叫んでいた。


    「おい!!なんでそのおもちゃで遊んでんねん!!!!それはパパのおもちゃやろ!!!!なに考えてんねん!!!もらったつもりか!!もらってないやろ!!!ふざけんなよ!!マジでありえへん。ふざけんなって。マジで!箱はどこやったんや!ふざけんな!返せ!返せ!早く、返せ!!!!!!!」

    怒った時にだけ出る私の関西弁に驚いた妻が走ってきた。

    「どうしたの!!」

    下の子は驚きすぎて涙も出せず、体を硬直させていた。どのおもちゃのことを言われているのかも分からなかったと思う。車のおもちゃを握りしめながら、すぐに目から大粒の涙が溢れ始めた。私はこの光景を一生を忘れないと思う。一生後悔し、一生反省し、死ぬ時も思い出すに違いない。それでも、私の感情は治らなかった。怒ったのではない。焦ったのだ。

    私は下の子から車のおもちゃをぶんどり、そのまま仕事部屋に入った。

    「隠さへんと、ちゃんと隠さへんと。」

    ドアの向こうからは下の子が大泣きする声が聞こえてくる。でも私は冷静になれない。

    隠す場所を必死に探していると、私はあの黒い箱を思い出した。あの中に入れよう。棚の奥にしまい込んだ黒い箱を取り出し、私はあのモントレカードが入ったローダーと一緒に車のおもちゃを隠した。

    30分は経っただろうか。下の子の泣き声も聞こえなくなっていた。上の子が塾から帰ってくる音が聞こえる。私は暗い部屋の中で、じっとしていた。物音を立ててはいけないと思い、体を硬直させながら、じっとしていた。

    妻が上の子に何かを言っている声は聞こえるが、何を言っているのかは分からなかった。おそらくいつものようにお風呂に入るように言っているのだと思う。ご飯作りは私の役目だが、今日は妻がキッチンに立っている音がする。出るに出られない私は、このまま朝を迎える覚悟を決めていた。しかし、尿意を感じ始め、おそらく15分も持たないと感じた。部屋から出るしかない。ペットボトルがあればその中にしたいが、この部屋にはない。

    私は意を決して部屋を出た。誰とも目を合わさず、会話もせず、トイレに向かい用を足した。

    何を言わずに部屋に戻ろうとした時、妻に声をかけられた。

    「ねぇ、どうしたの?」

    私に今ないものは冷静さと素直さだった。私は反抗期の子どものように、分からないとだけ答え、真っ暗な仕事場へ戻って行った。そこからの時間の流れは時計が壊れたようにゆっくりだった。時が止まるとはまさにこのことだと思う。私に何が起こったのか、なぜあんなにことになってしまったのか、冷静に考えることすらできなかった。ただ、車のおもちゃを黒い箱の中に隠せたことだけは私を安心させていた。

    私はそのまま仕事用の椅子で眠ってしまっていた。


    目が覚めたのはいつもより1時間半くらい早い5時15分。椅子で寝てしまったからなのか足が浮腫んでいた。寒かったせいで鼻の中もグジュグジュしている。私はまた尿意を感じ、そっとドアを開けてトイレに向かった。誰も起きていない静かな部屋。私がいつも消すはずの豆電球が点いたままになっている。もう遅いと感じながらも豆電球を消し、歯を磨いた。何ごともなかったかのように少し残った仕事を仕上げ、いつもの時間にキッチンの前に立った。朝ご飯は下の子が好きなパンとスープにしようと思った。フライパンに入れた水を温め始めた。玉ねぎ、さつまいも、ほうれん草を入れ、コンソメベースのスープを煮込み始めた。パンはフレンチトーストにした。

    パンが焼き上がる寸前、後ろから下の子に声をかけられた。

    「パパ、おはよう。」

    その声はいつもと変わらない声色で、私は一瞬で救われた。すぐに私は下の子を抱き上げて、ぎゅっと抱きしめた。ごめんね、本当にごめんね。下の子も私に謝った。お互いにごめんとたくさん言い合って、たくさんぎゅうをした。その後ろで妻と上の子が良かったという顔をしながら、こちらを見つめ立っていた。私は下の子をトイレに連れていきながら今日は大好きなパンとスープだよと伝えた。日常が戻ってきた。

    私はいつものように家を出た。いつものように会社に着き、いつものように仕事をこなした。今日は玩具屋さんに行く日ではない。なんだか心に余裕があった。仕事も普段通りこなし、社長も安心してくれている様子だった。

    しかし、お昼休みになって上司が声をかけてきた。再販があったらしいぞ。さっきおばさんに会って、今日入荷すると聞いたそうだ。私はまたあの汗をかいていた。断りたかった。でも断れなかった。私はまた上司と一緒に玩具屋さんに向かっていた。

    玩具屋さんにはカードやおもちゃだけなく、シールの入ったウエハースやキーホルダーの入ったお菓子、チョコに包まれたおもちゃが入ったお菓子など、色々な商品が置かれている。昔兄がシールや消しゴム型フィギアが好きで集めていたことを思い出した。私はどうだっただろう。なぜかあまり記憶がなく、思い出すことができなかった。いつかまた兄に聞いてみよう。そんなことを考えていると、あるガチャガチャを見つけた。

    とてもクオリティの高い昆虫のガチャガチャだった。私は昆虫のクオリティーにも驚いたが、一回500円という値段設定にも驚かされた。私の子どもの頃のガチャガチャは一回100円が常識だった。下の子は虫が大好きだったことを思い出し、懺悔の気持ちもあって、一回やってみることにした。

    出てきた昆虫のフィギアはやはりすごかった。本物にここまで近づけているのか驚いた。

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    私は下の子が喜ぶ顔を思い浮かべながら、そのガチャガチャをスーツのポケットに入れた。昔のガチャガチャよりも大きめで、ポケットにあからさまに丸い何かが入っていると分かった。なんだか会社に戻りづらくて、ポケットに手を入れてカモフラージュしながら自分の席に戻った。


    仕事を終え、鞄の中にガチャガチャを忍ばせながら、家路に着いた。家に帰ると元気になった下の子が電車のおもちゃで遊んでいた。上の子も今日は塾がなく、漫画を読んでいた。私は一旦仕事場で服を脱ごうと部屋に入った。下の子に買った昆虫のフィギア。下の子のために買ったはずの。

    私はあの黒い箱を持っていた。

    「隠さへんと、隠さへんとあかん。」

    私は昆虫のフィギアをそのまま黒い箱の中に入れた。そして棚の奥にしまい込んだ。そして何もなかったかのように部屋を出た。何も知らない家族は今日あった出来事を話したり、いつものようにご飯を食べ、21時30分まで各々時間を過ごしていた。

    「大丈夫や、誰にもバレてへん。」

    私ではない私が声をかけてくる。


    私は週に4回、玩具屋さんに行くようになっていた。さらに帰宅途中にある駅で降りて、駅前にある電気屋さんのおもちゃが売られている階にも行くようにもなっていた。最近のおもちゃは本当にクオリティーが高い。さらに値段も私が子どもの頃に比べて上がっているようにも感じた。

    私には不思議な能力があった。それは『このおもちゃは将来価値が上がる』と直感するものだった。車のおもちゃは偶然だったけれど、あの美しいモントレカードは今や7000円にもなっていて、同じ種類の中でも一際価値を上げていた。その後に買ったカードやシール、フィギアも軒並み高い値段で取り引きされていた。いつからこの能力を得たのだろう。私にはその理由が分からなかった。

    家にある私の仕事部屋は少しずつおもちゃに侵食され始めていた。黒い箱の中もローダーに入ったカードでいっぱいになり、大きな収納ケースが必要になっていた。これ以上買い続けてしまったら家族にバレてしまう。なんとか仕事部屋にあるクローゼットの中に隠していた。大きなおもちゃはできる限り買っていない。カードは薄いからなんとか隠すことができた。

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    収納場所も問題だったが、さらに大きな問題は貯めていた貯金が少しずつ減っていることだった。300万円あった貯金は200万円くらいまで減っていた。しかも恐ろしかったのはまだ余裕があるとか、お金が無くなったらおもちゃやカードを売れば良いとか思っていたことだった。でも私は分かっていた。売る気なんてさらさらない。でも売りたくないわけじゃない。でも売る気はない。

    180円のモントレカードパックから出てきたカードが7000円になったこともあり、投資の才能があるという勘違いも始まっていた。モントレカード専門店のHPで新しいカードを30分に一回は確認するようにもなっていた。金額の変動も頭に入っている。すごいスピードで変化する金額をワクワクしながら見ていた。まさにトレーダーだ。私は私ではない誰かを止めることができなくなっていた。

    カードは薄いし、車のおもちゃくらいならなんとか隠すことができる。大丈夫だと思っていたある日、日本の怪獣映画が世界的な評価を受けたという特集がテレビで紹介され、3D技術や日本のものづくりが世界で驚かれているということを知る。私はこの怪獣映画をちゃんと見たことがない。気にしたこともなかったが、上司の子どもが大好きで、特にフィギアが素晴らしい出来だと話していたことを思い出した。しかし、この怪獣のフィギアは種類がたくさんある。各おもちゃメーカーが商品を出していて、どのフィギアが良いのか、検討もつかなかった。

    「怪獣映画のフィギアの中でもコンビニで販売されている一番くじのラストワン賞でもらえるフィギアが最高なんだよ!あれは人気だと思う!あれが欲しいなぁ。でも一回990円で最後のクジを引いた人しかもらえないからいくらかかるんだよって話だよなぁ。」

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    上司は欲しい物の話をする時、早口になる。一番くじの怪獣フィギアが相当欲しいのだろうと分かった。コンビニの一番くじは80本くらいある。全部やったら八万円くらいになる。一番くじとは違う種類になるが、お店に普通に売られている怪獣のフィギアは高いものでも三万円くらいだ。八万円は高すぎる。でもクジを引けば他の景品ももらえる。他の景品は売ればいい。おもちゃの中古であればお小遣い程度にはなるだろう。

    私は怪獣一番くじが販売されているコンビニを検索し、帰りに寄れる店舗を見つけ出した。私の背中は汗びっしょりだった。


    コンビニのレジでクジがあと何本残っているか聞いた。えーっと、と言いながら定員は嫌な顔せずに「79本です。」と答えてくれた。私は算数が昔から得意ですぐに78,210円か、と考えた。まだ預金もある。

    「すみません、全部ください。」

    定員は思ったより驚きもせず、素直にクジを出してくれた。全部引く意味もありませんが、景品全て持って帰れますか?と私が想定もしていなかった問題を心配してくれた。確かにそうだ。

    大きな袋をいくつか準備してくれたのだが、最後のラストワン賞が問題だった。大きすぎてビニール袋にも入らない。私は歩いて10分の場所にある家に一度帰って、また残った商品をすぐに取りにきますと告げ、家路に着いた。

    私の家はマンションの最上階4階にある。住戸数は20戸ほどの小規模マンションだ。家には家族がいる。この商品を持って帰ることはできない。私は自転車のカゴに一晩入れておくことも考えたが、入り切る量でもなかった。私はマンションの前で立ちすくんでいた。その時、住民でも入ることができない自転車置き場の横にある小さな庭が目に入った。大人の身長よりも低い木々が生い茂り、そこに何かあっても誰も気にしない場所だった。私は全ての商品をその庭に隠すことにした。もし今晩雨が降っても良い。目当てはラストワン賞の怪獣フィギアだけだ。

    時間もない。誰かが来てしまったら言い訳も必要になる。私はビニール袋をできるだけ頑丈に縛り、低い木々が生い茂る中に隠した。隠したというよりは置いたという表現が正しいかもしれない。

    ラストワン賞など、残りの商品をコンビニに取りに行き、また小さな庭に商品を隠そうとしている時、私はデジャブを感じた。どこかで見たことがある、体験したことのある風景。しかも見えている風景だけでなく、匂いや焦り、そして何かから逃げるような恐怖心。

    私は大量の汗をかきながらやるべきことをやり、ラストワン賞の怪獣フィギアだけを持って階段を上がった。

    私の仕事部屋は玄関すぐそばにある。玄関ドアを開けるなり、すぐに仕事部屋に入った。家族はリビングでくつろいでいるようだった。ひとまず作業机の下に隠し、冬場に足にかけるタオルケットをかけた。元々仕事部屋に家族が入ることがほとんどないからそこまで焦ることはなかったが、私は必死に考えていた。

    怪獣フィギアの隠し場所。絶対にバレない場所。そして庭に隠した怪獣商品をどうするか。明日の早朝、誰にもバレずに家に入れよう。週末に中古屋さんに持って行くアリバイも作らなければならない。上司にもらったことにするか。どこか隠す場所を確保して、タイミングを見て売りに行くか。私は必死に考えていた。

    答えはこれまで大切にクローゼットに置いていた建築本を捨てることだった。

    建築は私の仕事だ。私にとって建築本は今の自分を作り上げてくれた師匠のような存在だ。でももう読み返すことはない。建築は経験がものを言う仕事。私が働く工務店はデザインというよりも言われたことをしっかり形にする仕事がメインだから、建築本に載っているような真新しいデザインも必要ではない。しかもそれが部屋の中に出ていても誰も気にしないだろうし、捨てると言っても何か理由があると思ってくれるはずだ。

    私は着替えもせず、建築本をクローゼットから取り出し、紐で包んだ。思い出や必要性なんか頭にはもうない。

    「怪獣を隠すんや。できるだけ早く。」

    私は空いたスペースにタオルケットごと怪獣のフィギアを置いた。置いてみると少しまだ余白があることも分かった。この際他に要らなくなりそうな物も捨てようと考えた。コーヒーにハマっていた時に買っていた道具やコーヒー豆を砕く機械も使っていなかった。学生時代に使わないのに買わされた建築設計道具などもあった。私はそれらをクローゼットから出し、並べ始めた。その時「パパ?」という声に私は卒倒しそうになった。

    下の子が物音に気がついて部屋に入ってきたのだ。怪獣のフィギアはすでにクローゼットに隠してある。私はただいまと言い、仕事で必要な物を探していたんだと言い訳を言った。この間のような無意識に叫ぶことはなかった。私はその時出せるだけの物を出し、リビングに向かった。



    深夜0時。私は妻に少し仕事があると言って部屋に入っていた。クローゼットからいらない物を出したら、庭に置いてきた一番くじの商品が入るくらいの場所ができていた。私の心は平穏を保っていたが、いつ庭に取りに行くかタイミングを見計らっていた。住民が帰ってくるかもしれない。庭で鉢合わせたくない。私は深夜2時に家を出ることを決めた。


    深夜2時前。靴をゆっくり履き、玄関の鍵とロックをゆっくりと外した。少し部屋の方を見る。誰も起きてくる気配はない。ゆっくりとドアを開けるが少し音はする。昼間は気になることのないその音はオーケストラの管楽器のように主張を始める。私はできる限り小さな隙間から家を出た。ゆっくりとドアを閉め、鍵をかける。ゆっくり、ゆっくりと。

    私は1階に降りて庭を見る。そこにはあの時と変わらない袋がそのまま置かれていた。ゆっくりと柵を越え、庭に入る。袋を持ち、庭から出る。誰もいないことを確認しながら、ゆっくりと階段に向かう。足早に階段を登り、4階の我が家の前に立ちすくむ。またゆっくりと鍵を開け、オーケストラの管楽器を聴きながら部屋に入る。管楽器にさらにガサガサという音が混ざり合う。私はすぐに仕事部屋に入った。そしてクローゼットに袋を入れ、ドアを閉めた。こんなに安堵したのはいつぶりだろうか。

    洗面台に行き、手を洗った。トイレも済ませ、眠れる状態になってから仕事部屋の椅子で心を落ち着かせようとした。

    このままこれを続けるのか。

    私は私が怖くなった。いや、私ではない誰かに恐怖心を抱いていた。私はふとデジャブを思い出していた。あれはデジャブではない。記憶だ。どこかで実際に体験したことだ。どこだったか、思い出せない。でも確かに何かを隠そうとしている体験。一度や二度ではない。何度も、何度もあったであろう体験。思い出せない。でも確実にあった体験。

    私はまた椅子の上で朝を迎えたのだった。


    朝起きるとまた足が浮腫んでいた。まだみんな起きていない。すぐに洗面所に行き、歯を磨いた。今日はまだ資源ごみの日ではない。建築本も建築道具も部屋の中にある。一番くじの商品もいつ、どこに売りに行くかも決まっていない。私は不安を抱えたまま仕事に向かうことになった。仕事場ではまた上司にカードやおもちゃの話をされる。私は上司よりも格段に詳しくなっていたが、あまりそれを表に出さないようにしていた。一人で行くカードやおもちゃの見回りについてくるようなことになってほしくなかったからだ。

    上司がモントレカードを売ったという話をしてきた。4万円を超えるカードを買っていたらしく、それが数ヶ月で20万円を超える買取になっていたらしい。私は驚いたふりをしたが、一番興味があった話は確定申告の話だった。私の会社は副業が認められている。上司は個人で確定申告をすると話していた。私にはその知識がなかった。もし怪獣の景品を売って確定申告が必要になったら、勉強しなければならない。今仕事がとても忙しく、その時間を捻出することが難しかった。今は2月16日。3月15日までに提出しなければならないらしい。青色申告にすれば控除があるとか、上司は楽しそうに話していた。

    まだ隠しておこう。焦らなくても良い。

    おもちゃやカードの見回りは続いていた。休みの日も一人で出かけるようになっていた。渋谷や新宿、秋葉原のカード専門店だけでなく、中古おもちゃ屋さん、ガチャステーションなどくまなく探す。一度スマホに入っているヘルスケアで歩数を確認したところ17000歩を超えていた。朝から東京ディズニーランドに行った日が18000歩程度だったことを考えると、一日中歩き回っていることが分かる。仕事以外は常におもちゃやカードを意識し、暇があればネットサーフィンをしていた。情報収集用で使っていたSNSもおもちゃやカードの情報しか流れてこない。中古のおもちゃ情報を見ながら寝落ちすることも増えていた。私にとってとても満たされた情報収集ができる状況になっていた。


    下の子とキャッチボールもしなくなっていた。家族との会話も減った。いつもスマホを見ているねと言われたら、イライラしながら仕事の対応をしているんだと伝えるようになっていた。

    さらに少しずつ物は増えていた。なるべく小さくてカードのように薄い物や気に入った物しか買わなかったが、クローゼットの中は圧迫され始めていた。もう捨てる物はない。私はラストワン賞以外の一番くじの怪獣商品を破棄することを決めた。確定申告もやる気にもなれない。しかし私のマンションは一家族2袋までのゴミ袋と決められている。毎回家庭ゴミだけで2袋は出る。私は悩んだ。


    埋めよう。

    あの庭は誰も入らないし、夜中であれば街灯もないから静かにやれば誰にもバレない。埋めてしまってもし将来引っ越せば誰の物かも分からないはずだ。掘り返されることもないだろう。


    数日間かけて掘る場所やどの時間帯に人がいなさそうかを検証した後、私は会社にあるスコップを借りたいと上司に伝えた。上司は理由を聞いたが、家のマンションで必要だという曖昧な理由にも快く許諾してくれた。私はスコップを自転車置き場にある私の自転車の横に置いた。あとは夜中を待つだけだ。一度家を抜け出した経験もあるから焦りもない。むしろ少しワクワクしていた。空いたクローゼットスペースにまた何かが置けると。


    みなが寝静まった夜はすぐにやってきた。私はスコップを持ち順調に一階に降りた。穴を掘るために必要な時間が分からなかったから、前回より少し早めの夜中1時に家を出た。私は周りを警戒しながら庭に入っていった。まだ怪獣商品は家の中にある。穴を掘り終わったら家に取りに行く。3時には掘り終えたい。

    私はスコップを土の中に突き刺した。その瞬間、私は私ではない誰かに代わっていた。


    生成


    おかあさんに怒られる。おとうさんに殴られる。おにいちゃんは助けてくれるやろか。おねえちゃんは無関心やし、どうしよう、どうしよう。

    駐輪場の屋根には漫画を隠した。垣根の中には消しゴム型フィギアを置いた。マンションの剥き出しの鉄骨造にはガチャガチャで当たった有象無象が置かれている。隠したすべてのおもちゃや漫画は一見誰にも見えへんようになってる。

    新しく手に入れたカード、親に見つかったら殺される。殺されると感じるほどに怒られる。

    僕は必死やった。家のマンションの裏に小さな山がある。僕はそこを手入れしてる老婦人と仲が良い。スコップがどこにあるかも分かってる。おばあさんが手入れをするのは朝と夕方。涼しい時間や。僕の親は共働きやから昼間は家におらへん。学校から帰ったら裏山に行こう。そしておばあさんが行かへんあの場所に隠しに行こう。

    僕は急いで家に帰った。ランドセルを置いて、一時的に棚に隠しておいたカードを袋に入れて、家を出た。案の定おばあさんはいなかった。僕はスコップを取り、小さな山を駆け上がった。


    ザク ザク ザク ザク

    僕はできる限り深く穴を掘った。袋に入ったカードを埋められるだけの穴を掘った。掘り終わったあと、僕は袋を穴の中に入れ、上から土をかけた。全ては完了した。スコップを元の位置に戻し、家に帰った。

    僕の部屋には勉強机と塾の問題集、あとは学校で必要な物しかなかった。塾の宿題を終わらせなければ怒られる。キッチンに溜まっているお茶碗も洗っておかなければならない。姉と兄は何もしてくれない。

    おとうさんが怒ると格闘ゲームのキャラみたいに連続攻撃をしてくる。おかあさんは強烈な言葉と武器を使う。ベルトで叩かれるのはめちゃくちゃ痛い。僕も姉も兄も毎日を生き残ることに必死や。

    僕も姉も兄も褒められたことがない。兄が全国模試で10番以内に入った時ですらおかあさんは「だからどうしたん。当たり前のことを自慢してくるな」と言っていた。僕は塾でクラスが落ちた時、あんたは人間じゃないって、買い物をしながら言われた。

    そんな僕が熱中したのがカードやおもちゃだった。一回20円で回せるカードのために持っているすべてのお金を注ぎ込んだ。お金がなくなると親の財布から少しずつお金を抜き取ったりもした。僕にとってカードやおもちゃが生きる原動力だったのだ。それがなくなったら生きる意味を失ってしまう。僕は必死だった。僕にはそれしかなかった。

    数日して雨が降ってきた。・・・裏山に隠したカードたち。僕は気が気じゃなかった。僕は夜中、窓から家を抜け出した。一階に住んでいるといっても高さは尋常じゃない。僕はなんとか突起物に足をかけ、下に飛び降りた。足がジーンとするが、そんなこと気にしていられない。僕は裸足のまま裏山に向かった。街灯が少しだけ届く場所だったが、暗くて本当に怖い場所だった。でも僕には関係なかった。

    スコップを取り、穴を掘った場所に向かった。僕は穴を掘り返した。

    ザク ザク ザク ザク

    カードの入った袋が出てきた。無事だった。良かった。僕はまたそれを穴の中に入れ、埋め戻し、スコップを返して家に帰る。あらかじめロックだけは外していたから静かに玄関から入った。トイレに行くふりをして足を洗面台で洗った。洗面台がとても高くて必死だった。土の足跡で汚れた廊下も時間をかけて丁寧に拭き取った。

    明日の昼間、カードを取りに行こう。雨のことを考えていなかった。僕は眠りについた。疲れ果てていた。


    翌日、僕はまたスコップを取り、穴を掘った。中から出てきた袋に入ったカードたち。僕は息を呑んだ。カードが湿気で曲がっていたのだ。何円もかけて当てたキラカードも全部同じ方向に曲がっていた。僕は絶句した。こんなに自分を責めたことはない。

    ふざけんな!!!なんやねん!!!マジでありえへん!!!いらん!!!ほんまいらん!!!

    僕はカードを入れた袋ごと穴の中に投げ入れ、大雑把に穴を埋め直した。スコップを借りることはもうない。丁寧に返すこともせず、スコップに八つ当たりした。

    僕は僕が許せなかった。でもおとうさんとおかあさんが帰ってきたらまたいつもの良い子に戻っていた。またお金を盗んでカードを当てよう。僕にはそれしかない。良い子にしていればバレることもない。

    良い子にしていれば大丈夫や。


    完成


    私は穴を掘ることもせず、庭の中でじっとしていた。どれくらい時間が経ったのか分からない。私は穴を掘るのをやめて、家に帰った。音も気にせず、家に入り、仕事部屋の椅子に座った。スコップを部屋に持って帰ってきてしまったことに気がつくのにどれくらいかかっただろう。私は部屋の中に散らばった土を見て、何もかもがどうでも良くなってクローゼットに入っているおもちゃやカードを出し始めた。

    音に気がついた妻が部屋のドアを少しだけ開けた。暗闇の中で何が起こっているのか分からなかったのか、すぐに電気は付けず、泥棒なのかと確認をしていたのかもしれない。はぁはぁという私の息づかいですぐに電気が付けられた。どうし・・・

    確認は途中で中断された。妻からすれば最近のおかしな行動をとっていた私を見ていて、すでに心配をしていたようだった。私はその場にしゃがみ込み、ただひたすら涙を流していた。私は思い出したのだ。子どもの頃に何があったのかを。私の中にいる誰かが誰だったのかを。


    私の父は九州の田舎町出身で、中学生の頃には親がいなくなり、弟2人を育てていたそうだ。弟2人もとてもヤンチャで、畑の野菜やひどい時には自動販売機自体を盗んでくることもあったそうだ。父はお酒が入るとそんな話をしてくれた。悪びれるということも自慢するということもなく、そうしなければ生きていけなかったと遠い目をしながら話していたことを覚えている。父には育ての親がいなかったこともあり、親の愛情というものが分からないと母によく話していたそうだ。兄や姉が生まれたあとも子どもが自分にとってどういう存在なのか分からなかったと私に直接話してくれたこともあった。気がついたらそこにいた、と。

    私はまだ比較的子どもとして認識できたようで、兄ほど暴力を受けることはなかったと思っていたが、姉の話によればまだよちよち歩きの時に殴られて水平に飛んでいたそうだ。兄と違い私には記憶がないだけだったのかもしれない。しかし、上の兄弟が人形のように殴られる姿は自分が殴られるよりも辛いものだった。やめて!と手を広げて止めに行こうとしたこともあったが、現実はそんなに甘くない。足を振るわせながら隣の部屋で床をジッと見ていた。

    母はしっかりとした親に育てられていた。私は母方の祖父が大好きだったが、昔は鬼だったと大叔母が言っていた。鬼という字は"兄"から来たという説があるらしいが、まさに鬼だったと。娘である母はその影響を強く受けていた。私たちも鬼だった祖父のエキスを存分に吸い込んだ母に育てられたのだ。勉強はできて当たり前で、子どもの仕事だといつも言われていた。仕事ができない大人は生きる価値はないとも言っていた。作文の宿題ともなれば、横に張り付いて原稿用紙いっぱいに書かされ、母が思った通りの文章を書けない時は容赦なく手が飛んできた。小学校で優秀な作文に選ばれ、みんなの前で読んだ時は誰の作文を読んでいるのか分からなくなったことを覚えている。

    母は漫画やゲームが大嫌いだった。詳しくいえば子どもにとって悪だと思っていた。自分はゲームが大好きで、夜ご飯が終わるとファミコンでボンバーマンをやっていた。やりながら興味を示す私たち兄弟を叱りあげていたことがよくあった。ピコピコ、ボーンという音を聴きながら眠りについていた。漫画もよく引きちぎられた。父は漫画が好きで、時々買ってくれたりもしたが、いつの間にか発狂した母に真っ二つにされるのがオチだった。それでも2つに分かれた漫画を兄弟で分け合って読んでいた。

    兄はゲームが得意だった。隠れてゲームセンターに行き、バレた時には友人たちの前でよく殴られたものだ。格闘ゲームが特に大好きで、神戸で行われた全国大会で優勝したりしていた。賞品としてカセットゲームがもらえることになり、大会事務局から電話がかかってきた時、母が怒りに震える声で「知りません!」と言って電話を切ったことに驚かされた。子どものゲームのことになると、相手が大人でも失礼になるのかと思い知らされた。

    母を怒らせると父はより怖くなる。そんな家庭だった。だから漫画やゲームに関する物も全て家には置いておけなかった。私たち兄弟(姉)にとって、家の中よりも家の外にプライベートがあったのだ。裏山に隠したカード。庭の垣根においたおもちゃ。マンションの躯体に隠したフィギア。そしてゲームセンター。私たちは必死に生きていたのだ。

    私は一気に記憶を取り戻していた。喉が渇いた時に飲む冷たい水のように、どんどんと脳に記憶が入ってくる。


    完了


    私はできる限り言語化できる過去と今起こっていること全てを妻に話していた。数千円にまで減っている預金通帳も見せた。

    妻は3つだけ約束して欲しいと言った。買いたい物がある時は相談して欲しい。衝動的に買ってしまったら事後報告でも良いから話して欲しい。そして子どもたちのお金には手をつけないで欲しいと。

    私からは子どもの頃の話はここだけにしようと提案した。親にも未熟な時代はあるし、今責めても何にもならないと。辛いことを思い出してしまうのなら距離を取っても良い。実際住んでいる場所は神戸と東京で離れているから、この距離感を大切にしようと話し合った。

    私は謝罪をし、できる限りの物を売って、通帳の残高を元に戻したり、子どもたちのお金を完済する約束をした。そして話せたことで心の中がスッキリしたと伝えた。過去にあったことも全て許すとも話した。

    私の親、特に父は、私が中学生になった頃から人が変わったように優しくなっていた。その時期から私たちの戦いの日々を知る人はいなくなっていた。私の祖父ですら「お前たちは親に手を出されたことがないだろう。」と言ってきたが、私は黙っていた。大人になった今では、私の中にある子ども時代は存在しないと思い込んでいた。しかし心の中に生き続けていたのだ。

    私は怪獣商品をまたクローゼットに戻した。隠していたカードやおもちゃも元に戻した。土で散らかった部屋は朝片付けることにした。私の心の中は晴れやかだった。これまで素人ながら集めた物をお金に変えられること、もう隠さなくても良くなったこと、自分以外の人に話せたことで、何かを乗り越えられたのだと実感していた。過去を乗り越えることができたのだ。


    私は次の日、午前休をもらってまずは早速ラストワン賞以外の怪獣商品だけを売りに行った。意外にも普段気にもしたことがなかったが、おもちゃの中古屋さんは12時開店がほとんどで出社が遅れそうになった。売り終わった時、財布の中には元々持っていた一万円札と別に五千円札が入っていた。五千円にしかならないのか。ラストワン賞の怪獣フィギアだって中古屋さんに行けば三万円で買えるらしい。人の言葉を信じてはいけないと改めて考えていた。

    私は他のカードやおもちゃもタイミングを見て売ることにした。上司にはもう玩具屋さんに行けないと素直に伝えた。妻にバレまして、というと、悪いことしたな、俺も20万円で売った後に虚しくなってしまってなと話してくれた。お互いに目の前の仕事を頑張ろうと言い合い、また問題の起こった現場図面を睨んでいる。

    時々電気屋さんには行くが、おもちゃ売り場の階に行くこともない。仕事場近くにあった玩具屋さんも無くなったと聞いたのは溜まっていたカードやおもちゃをほとんど売り切ったと同じ時期だった。預金通帳には¥3,512,432の数字が書かれている。やっぱり目利きはできていたみたいだ。これから副業をやるつもりだと上司に伝えたら、確定申告を教えてくれることにもなった。

    すっぽり空いたクローゼットは隙間だらけになってしまったが、それで良かったと思っている。また建築本で埋めるつもりはない。また何かを入れることになる日を待とうと思う。

    私は前に進む。私も親になり、当時を理解できることも増え始めている。親が孫と遊ぶ姿を見て、素直に幸せを感じている。

    私は、今の私を生きている。


    魔物


    時は経ち

    ある日、実家に帰った時、母から

    「あんたがちっちゃい頃から持っていたカードやおもちゃ、ずっと大切に保管してたんやけど、もういらんかなぁって思って全部友達の子どもにあげてしまったけど、残ってたのがあったのよ。あんたは小さい頃からおもちゃやカードが大好きで、ようお父さんにねだってたもんなぁ。お父さんも可愛いもんやからすぐに買ってあげて、お兄ちゃんといつも一緒に集めてたなぁ。お兄ちゃんは中学入ったらキッパリやめたけど、あんたはしつこく好きやったもんなぁ」

    と、懐かしいカードファイルを手渡された。幼少期から大学生になる前まで大切にしていた物だった。

    「あまり興味がないカードやわ。」

    私はすぐにカードの入ったファイルをゴミ箱に入れた。誰にもバレないように。


    「お父さん!おばあちゃんボンバーマン下手すぎるからやめる!」

    「やったことないんやから仕方ないやろ!おじいちゃんと買い物行ってき!」

    「お父さんも一緒にいこうよ。この間気になっているって言ってた海賊アニメのカードゲーム見に行こうよ!」

    画像


    私の背中に小さな汗が滴っていた。

     
     
    2050年に開店予定のビンテージ玩具屋さん『IMATOY_JAPAN』の準備のために集めている日本のリアルタイムコンテンツを紹介しています。 2050年に向けた仕入れや自作商品の様子をお楽しみください。 noteメンバーシップではコンテンツ投資的なお話をします。

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