
感覚は思っていたより内側にある
以前、世界は感覚なのではないか、ということを書いた。
私にとっての世界は、私が感じ取っているものによってできている。
あなたにとっての世界も、あなたが感じ取っているものによってできている。
今日は、その感覚について、もう少し考えた。
結局、私たちが世界を受け取っているものは、
視覚と聴覚と嗅覚と触覚と味覚、
それに記憶と思考と感情と予想なのだと思う。
ただ、今日あらためて感じたのは、
視覚や聴覚のような、一見かなり外側の情報を受け取っているように思えるものですら、思っていたよりずっと内側で作られているということだった。
たとえば視覚。
私たちは目の前のものをそのまま見ているように感じる。
けれど実際には、見える解像度には限界がある。
細かいところまで完全に見えているわけではないし、
視界の端の方なんて、かなり適当である。
それでも私たちは、目の前の世界を不完全なものとしてではなく、
ある程度まとまった一つの景色として感じている。
それは、目から入ってきた情報をそのまま受け取っているというより、
足りない部分を脳がかなり補いながら見ているということなのだと思う。
極端に言えば、
現実を見ているときも、画像を見ているときも、
完全な情報を受け取っているわけではなく、
限られた情報から自分の中で「こういうものだろう」と組み立てている。
聴覚も同じだった。
今日、電車のアナウンスを聞いていて気づいた。
私はその音を、一音一音正確に聞き取っているわけではなかった。
次に何が来るか、どういう言い回しになるか、
すでに知っているパターンから勝手に補って聞いていた。
実際の音だけでは聞き取れていない部分も、
「ここはこう言っているはずだ」と自分の中で埋めて、
聞こえたことにしている。
そして、そのときふと、
英語が聞き取れない理由も少しわかった気がした。
日本語では、
これまで聞いてきた大量のパターンがある。
だから音が曖昧でも、前後からかなり補える。
でも英語では、そのパターンがまだ少ない。
次に何が来るかを予想する力が弱い。
だから、音がそのまま聞こえてこないと、途端に意味が取れなくなる。
私はこれまで、
感覚とは外の世界を受け取るためのものだと思っていた。
もちろん、それは間違っていない。
外から何も入ってこなければ、世界は立ち上がらない。
けれど実際には、
外から来たものをそのまま受け取っているのではなく、
入ってきたわずかな情報をもとに、自分の内側でかなり作り直している。
見ることも、聞くことも、
思っていた以上に「受信」ではなく「生成」に近いのかもしれない。
そう考えると、
世界は自分の感覚でできている、というより、
その感覚自体が、すでにかなり自分の内側で作られたものなのだと思う。
案外私は、
外の世界を感じ取っているというより、
外から少しだけ材料をもらいながら、
自分の中で世界を作り出しているのかもしれない。