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The Dark Side of the Moon

    あらすじ
    妻の裏切りに絶望し、自殺未遂から奇跡的に生還した伊吹信二は、第三病棟での壮絶な経験を経て、探偵として新たな人生を歩み始める。ある日、不思議な力を持つ謎の老婆と出会った信二は、最愛の娘を襲った悲劇と、その心に深く刻まれた苦悩に直面する。娘を救いたい一心で老婆の力に導かれた信二は、その苦しみを解き放つことに成功する。しかし、その代償として、やがて信二は老婆からある大きな使命を託される。人は誰も、他人には見せない「月の裏側」を抱えて生きている。愛と裏切り、赦し、そして再生――これは、心の闇に寄り添い、その先にある希望を描いたヒューマンサスペンスである。

    Prologue


    初冬の夜気は肌を刺すほど冷たかった。

    伊吹信二はコートの襟を立て、人気のない住宅街をゆっくりと歩いていた。
    空気は澄み切り、夜空にはひときわ大きな満月が浮かんでいる。
    その光は街灯の少ない路地にまで届き、アスファルトの上に淡い銀色の影を落としていた。
    信二は足を止めた。
    白く輝く月を見上げる。
    満月を見るたびに思う。
    人生とは、どこでどう転ぶかわからないものだ、と。
    信二がこんな夜に、静寂に包まれた人気のない住宅街を歩いているのには理由があった。
    誰とも会わずに済むこと。
    あの雑音を極力避けることができることだ。
    最初の頃に比べれば、その雑音を制御する力も随分と身についた。
    だが今でも、ときおり不意に押し寄せてくるそれには閉口させられる。
    信二は小さく息を吐いた。
    五年前まで、自分がこんな人生を歩むことになるなど想像したこともなかった。
    今夜の月は、ことさらに明るかった。
    まるで夜空そのものが発光しているかのような眩しさだ。もしかすると、あの夜と同じスーパームーンなのかもしれない。
    信二は目を細めた。
    あの日も、こんな月だったような気がする。
    もっとも、その頃の自分には月を見上げる余裕などなかったのだが。
    父から引き継いだ会社。
    幼い頃から当たり前のようにそこにあり、いずれ自分が守っていくものだと思っていた会社は、あっけないほど脆く崩れ去った。

    倒産。

    その二文字は、会社だけでなく信二の人生そのものを飲み込んでいった。
    長年連れ添った妻も去った。
    学生時代から付き合っていた彼女。
    そして、信二が引き継いだ会社の創業者である父親の猛烈な反対を押し切って結婚した相手だった。
    苦しい時こそ支え合えると思っていた。
    いや、そう信じたかった。
    だが現実は違った。
    会社が傾き始めると同時に、夫婦の間にも少しずつ亀裂が入り始め、やがて修復できないほど大きな溝となった。
    離婚届に判を押したあの日、自分は妻を見る目がなかったのか、それとも人間そのものを見る目がなかったのか。
    そんな考えが頭をよぎったことを、今でも覚えている。
    だが、それで終わりではなかった。
    むしろ、すべてはそこから始まったのかもしれない。
    会社を失い、家庭を失い、未来さえ見失っていた信二の前に、あの出会いがあった。
    最初は奇妙な偶然だと思った。
    だが今になって振り返れば、あの出会いこそが運命だったのだろう。
    あの出会いが、信二の人生を根底から変えた。
    そして今もなお、その運命は終わっていない。
    満月の光を浴びながら、信二は静かに息を吐いた。
    運命のいたずらに翻弄された五年間。
    しかし、そのすべては無意味ではなかった。
    会社の倒産も。
    妻との別離も。
    そして、あの出会いも。
    その一つでも欠けていたら、今の自分は存在していない。
    まるで月に導かれるように、信二は再び歩き始めた。
    その先に何が待っているのかはわからない。
    だが運命の歯車は、確かに今も回り続けていた。

    第一章 Witch Woman

    リビングには穏やかなジャズが小さく流れていた。
    ダイニングテーブルの上には、徳井が淹れてくれたコーヒーが湯気を立てている。
    夜も更け、窓の外はすっかり暗くなっていた。
    本来なら帰るべき時間だったが、裕子はあえて腰を上げようとはしなかった。
    裕子は数日前から、その日を狙っていたのだ。
    徳井の妻であるみのりが、学生時代の友人たちと会うため夜遅くまで外出することを知っていたからだ。
    もちろん偶然を装った。
    「また相談したいことがあるんだけど」
    そう電話をかけたとき、徳井は何の疑いも抱いていなかった。
     
    そして今、その思惑どおり、裕子は徳井と二人きりで向かい合っていた。
    みのりの帰宅まではまだ数時間ある。
    焦る必要はない。
    裕子は心の中でそう呟きながら、テーブルの下で自分の腕をわずかに動かし、徳井の腕にそっと触れさせた。
    ほんの一瞬、羽毛が風に触れるような、かすかな接触。
    徳井の肩がわずかに強張った。
    その反応を感じ取り、裕子は胸の奥で小さく微笑んだ。
    いつもは向かい合って座る食卓も、今日はあえて横に腰を下ろした。偶然を装うための、計算された位置取りだった。
    その日の裕子は、淡いピンクのノースリーブに身を包み、上着代わりの白いカーディガンはソファの上に早々に脱いでいた。
    室内は冷房が効いていたが、裕子は暑いからと言って早々にカーディガンを脱いでいた。
    照明の光が滑らかな二の腕をやわらかく照らし出し、薄桃色の肌がゆるやかに呼吸しているように見えた。
     
    「触れた」とも「触れていない」とも言えない。
    その境界線こそが、裕子の武器だった。
    昔、たった一度の偶然から学んだ、男を動かすための最も単純で、最も効果的な方法。
    高校時代から見かけの可愛らしさとほっそりとした身体つき、決して大きいとはいえないが形のいいバストの膨らみと、そして男の眼には何とも頼りなさげにうつる仕草で常に男子生徒の注目の的であった。
    ある日、当時付き合っていた男子生徒と向き合ってコーヒーを飲んでいた時、コーヒーカップを手渡してくれた彼の手の甲に偶然触れると、彼の身体がピクリと反応し、硬直した。
    それを見て半分面白がってそのままわざと軽く優しく包み込むように触り続けると、彼の身体が傍から見てもわかるくらいに興奮したのを目にした時から、その微妙な接触が男の興奮を引き出すのに有効な手段であることに気付かされた。
     
    彼女はそれ以来、人生のいくつもの場面でその技を使ってきた。
    助けが必要な時、頼みごとをするとき、あるいは少し甘えたい時。指先を軽くふれさせるだけで、男は勝手に物語を作り始める。
    そして、その物語の主人公が自分だと信じ込む。
    勿論、裕子はそう簡単に男の思い通りに自分の身を委ねることはしない。ほとんどの場合、男はお預けを食らったままで終わる。
    その時の男の落胆ぶりを見るのも裕子の密かな楽しみの一つだった。
    それでもたまに裕子好みの男に出会ったときは自分自身もその次のステップをたっぷりと堪能していた。夫である伊吹への裏切り行為ではあったが、毎日忙しく会社を運営して、帰宅の時間も遅くなってしまうこともままあった夫へのせめてもの抵抗であった。
    夫も父親から引き継いだ会社の運営に精力的であり、その分、裕子の性欲を十分過ぎるほどには満足させていなかった。たまに、裕子好みの男が現れて、危険な火遊びをすることはあっても、決して夫との豊かな生活を手放すつもりはさらさらなく、あくまで遊びの感覚であった。だから、遊び以上の関係を持とうとする男に対しては、きっぱりとその関係を断っていた。
     
    その何とも言えない微妙な感覚。男と女の肌の接触。
    その感覚に徳井の身体が反応したのを裕子は見逃さなかった。しかし、高校時代の初心な男子生徒と違い、充分に大人である徳井の次の行動は直接的であり、また衝動的なものであった。徳井は裕子のそのか細い腕をしっかりとつかみ身体を自分の方へ引き寄せてきた。
    「えっ、徳井さん、どうしたの」
    徳井が次に何をしたがっているのかはっきりわかっているにもかかわらず、裕子は男の意外な行動に戸惑っている可愛い女を演じなくてはならない。徳井の唇が裕子のそんな抵抗しているふりをしながらの言葉を塞いでいく。
    「徳井さん、だめよ」
    小さな声。
    裕子としては一応の抵抗を見せておく。本気で徳井を押し返すのではなく、ただ単に徳井の胸に手を添えて、ちょっと、か弱く押すのだ。そんな仕草に対しても男は興奮し、こんなかわいい女を征服したいという男の本能をくすぐるのだ。
    そのしぐさひとつで、男の理性は音をたてて崩れていく。
    徳井の唇が裕子の言葉を塞いだとき、裕子は心の中で微笑んでいた。
     ――そう、これでいいの。あなたから動いたという形が大事なの。
    これは恋でも情でもない。
    ただ、自分の生き方を支えるための、冷ややかに磨かれた術のひとつなのだ。
    裕子は「可愛い女」を演じながら、冷静に次の展開を計算していた。
     
    あくまで徳井の方から誘ってきたという手順が、あとあとこの男を支配するためには必要なテクニックなのだ。
    「ユウちゃん、ずっと前から好きだったんだよ」
    徳井の声はわずかに震えていた。感情の昂ぶりというより、これから踏み越えようとする一線へのためらいが混じっている。
    裕子は微笑みを浮かべ、わざと目を伏せてみせた。
    「何を言ってるの。私には夫がいるし、貴方にはみのりさんがいるじゃない。こんなことしてはいけないわ」
    言葉とは裏腹に、その声にはどこか挑発めいた響きがあった。
    徳井は苦笑を浮かべ、口の端を少しだけ歪める。
    「でも、そのご主人のことで悩んで僕のところに何度も相談にきたんじゃないか。僕だって妻のみのりとは実質的には破たんしている状態だってユウちゃんは知っているだろ」
    そう言いながら徳井は裕子の背中に自分の腕を絡めてきた。
    その手がわずかに震えているのを、裕子は見逃さない。
    そして、男の身体が自分の身体を引き寄せてくる。温もりとともに、相手の迷いと欲望が伝わってきた。
    座ったままのその体勢は、どう見ても窮屈だった。
    徳井の動きがぎこちなく、なかなか次の行動に移らないのがもどかしい。そしてより一層裕子の身体を引き寄せ、自分の身体との接触を求めてきた。
     
    この男は、いったい何をやっているのだろう。早く私を抱き上げて、あのベッドの置いてある部屋へ連れて行けばいいのに。
    徳井夫婦の寝室には、通常のダブルベッドの倍くらいありそうなウォーターベッドが据えられている。
    以前、裕子が「夫のことで相談があるの」と連絡し、みのりの外出を確認したうえで訪れたときのことを思い出す。
    玄関で、わざとらしく「え、みのりさんいないの? じゃあ、やっぱりお邪魔するの遠慮しとこうかしら」などと言ってみせた。もちろん、徳井が「いや、そんなこと言わないで」と引き止めるのは計算済みだった。
    部屋へ通されたときに、今まで何度か来たことがあっても、覗いたことのなかった寝室を通りかかり、扉が開いているのを幸いにちょっとだけ覗いてその大きなベッドに驚いたふりをする。
    「まあ、すごいベッドね!」
    そう言うと、徳井は得意げに顎を上げ、まるで子供が新しいおもちゃを自慢するように、ウォーターベッドの仕組みを延々と語り出した。
    裕子はそのどうでもいい説明に、内心うんざりしながらも、顔には楽しげな笑みを貼りつけたまま、ベッドに身を預けてみせた。
    身体がゆらりと波に浮かぶように沈む感覚。
     ――その柔らかな浮遊感に身を委ね、ほんの少しだけ目を閉じた。
    だが、その瞬間でさえ徳井は何もしてこなかった。寝室の入口に立ち、にやにやと笑いながら、ただ裕子を眺めているだけだった。
    ほんとうに、歯がゆい男。
    いきなり押し倒すほどの大胆さがあっても、誰も責めやしないのに。

    それまでも、何度も家族ぐるみの付き合いをして、知らない仲じゃないのだから、ベッドに横になった私を、いきなり誘ってきても良かったのに。そういった面では、伊吹のほうがはるかに積極的であり、女を喜ばせる方法を知り尽くしていた。
    そして、そんな夫の積極性を、裕子としても好ましく思っていた。
    徳井は、初めて裕子と出会ったときから、妻のみのりにはない“可愛げ”に心を奪われていたのだろう。
    だが今回、夫の相談を口実に彼女が訪ねてくるとは思ってもみなかった。
    その薄い期待が、こうして現実になろうとしていることに、彼自身が戸惑っているのが手に取るように分かった。
     
    「身体が痛いわ」
    裕子は、椅子に座ったまま身体をねじっていたせいで、腰のあたりが痺れてきたのを感じた。
    軽く徳井の胸を押し返し、ゆっくりと立ち上がる。
    「あ、ごめん」
    徳井も誘われるように立ち上がり、二人は向かい合った。
    わずかに息を乱した二人のあいだに、まだ名もない熱が漂っていた。
    裕子は、人妻としての貞淑さをかもしだすように、柔らかい印象の花柄のスカートを穿いて、上半身はその反対になるべく肌を露出させるために、そしてセクシーさを強調するように、ノースリーブのブラウスの上から薄いカーディガンを着こなしてきた。
    裕子は、人妻としての慎ましさを漂わせながらも、男の目を惹くための計算を怠らなかった。
    柔らかな印象を与える花柄のスカートに、上半身はその対極。
    ノースリーブのブラウスに薄いカーディガンを羽織り、肌の露出をあえて控えめに見せつつも、視線を誘う仕掛けを施していた。
     
    既にそのカーディガンは、ソファの上にあり、あとはバストの形がはっきりとわかる、ノースリーブが一枚だけだ。
    スカートも、なるべく男が脱がせ易くなるように、ベルトでなくゴムでウエストをしめているものを穿いていた。
    徳井の方といえば、白いワイシャツにチノパンという、極めてありふれた格好である。
    裕子は恥ずかしがっているかのように顔を塞ぎ、さりげなく徳井の下半身を盗み見た。
    うん、このタイプのベルトなら割と簡単に外せそうだわ。そして、その後のことを想像するだけで、裕子は自然と笑みがこぼれるのをじっと我慢した。
    「ごめんね、ユウちゃん。でも、もう俺も我慢できないんだよ。俺の家に来るのもう5回目だろ。その間、ずっとユウちゃんと身近に逢って…」
    その言葉を最後まで聞く必要はなかった。
    裕子はそっと身体を預け、徳井の唇に自分の唇を重ねた。
    男の長い言い訳や、情けない逡巡など、聞くに値しない。
     ――この男が、妻のみのりにいつも引っぱられていた理由、それは気弱さ。
    そして今、その手綱を握るのは自分なのだと、裕子は確信していた。
    もっと積極的に、もっと大胆に――。
    そうしなければ、この男はいつまでも“女の指示待ち”のままだ。
    裕子は自分の役目を、心の中で言い聞かせた。
    みのりさんの後を引き継ぐのは、この私なのよ。
    思わずほくそ笑みそうな顔をこらえて、昔から男と相対するときに使う下から眺めるような微笑みを徳井に向ける。
    「徳井さん、私、何度もここに来て……あなたにいろんなことを相談して、本当に救われたの。ありがとう」
    その言葉に合わせて、ゆっくりと身体を寄せる裕子は、感謝の気持ちを身体で表すわといわんばかりに自分の、特に胸のふくらみを徳井が感じられるように徳井の身体に密着させていった。
    そうすることによって、自然と徳井の身体の変化を自分の身体で感じられるようにしていた。
    裕子の狙いはただ一つ。
     ――男の理性を、自分の意志で消していくこと。
     その密着度に徳井の息が荒くなり、ようやく彼の身体が動いた。

    裕子を抱きかかえるようにして、寝室へと導く。
    その先にあるのは、かつて裕子が興味本位で覗き込んだ、あの巨大なウォーターベッド。
    二人がそこに身を沈めた瞬間、静寂が波のように広がった。
    そして、さっきの口づけとは比較にならないくらい激しく唇を交わし、また、裕子もそれを受け入れたのだ。
    だが、裕子の内面は冷静だった。
    この男がいまどれほどの幸福を感じようと、操られていることに気づきもしない。
    「ユウちゃん、いいのかい」
    耳元で震える声。
    裕子は目を細め、優しく微笑んだ。
    「うん。わたしも……あなたとこうしていられて、とても嬉しいわ」
    その瞬間、徳井の顔がまるで天国にでも上ったがごとくに天を向き、嗚咽を漏らしたのが裕子には可笑しかった。
    これから、あなたを、じっくりと調教していくのだから。
    地獄のような貧乏生活を抜け出し、天国へ行くのは、あなたじゃない。
    この私。
    その唇の端には、ほとんど見えないほどの笑みが浮かんでいた。
     
    それから、週に二度はお互いの都合をつけては、逢瀬を楽しむようになり、裕子としては徳井を完全に支配するのに、それほど時間はかからなかった。
    あとは自分の夫とどう別れるか。そしてもっとも困難な問題が徳井の妻・みのりをどうやって排除するか、だった。
    徳井の、あの気の弱さではとても自分からみのりに、離婚の話は持ち出せそうもない。
    それでも、今の凋落した夫との貧乏暮らしから抜け出すには、何としてでも夫と別れ徳井の妻の座を奪わねばならない。
     
    一方、その頃、みのりは迷っていた。
    あの日、裕子の夫の伊吹信二から、「相談があるから会って欲しい」と言われた。
    しかも「みのりさんだけに話がしたい」と。
    その妙な含みのある言葉に不安を覚えつつも、近くのファミレスで待ち合わせると、彼はまるで魂を抜かれたような顔で現れた。
    かつては一流大学を出て、父親が興した会社を引き継ぎ、更に発展させて自信満々に満ちた男――そんな彼の面影は、今はもうなかった。
    「信二さん、どうしたの?ずいぶん疲れた顔をしているじゃない」
    「……いろいろあってさ。正直もう、どうしていいかわからなくて」
    「どうしちゃったのよ。今日は一体なんの話?」
    伊吹は一拍置き、重い口を開いた。
    その言葉を聞いた瞬間、みのりの胸に冷たいものが走った。
     ――裕子と、自分の夫・徳井の関係が怪しい。どうにかならないか。
    そう訴える声は、ひどく掠れていた。
    思いも寄らぬ内容に、みのりは言葉を失った。
    伊吹と裕子――周囲から見れば、理想の夫婦そのものだった。
    みのりの二人の娘も、「将来は、伊吹さん夫婦みたいな関係になりたい」と言っていたほどだ。
    それだけに、目の前の彼の告白は信じがたかった。
    「うちの会社もさ、ご多分に漏れず、バブル崩壊で銀行の対応がまったく変わってしまって、運転資金の貸し出しもストップしやがってさ、それどころか貸し剥がしって状態なんだよ。日々の資金繰りが相当厳しいんだよね。
    だから、以前のように、余裕のある生活という訳にはいかなくなってさ。
    裕子は、そういう状況に耐えられなくなっているみたいなんだ。
    俺は、収入が減ったって、別にそれに合わせて生活すればいいことなんで、辛抱して、これからも頑張っていこうと思っているんだけど、裕子の奴が昔の贅沢な生活に慣れてしまって、なかなか節約生活になじめないみたいなんだよ」
    「大変ね。でも、そんなの今どき、どこも同じじゃない。あなたのところだけが特別じゃないわ」
    「……わかってる。でも、裕子は違うんだ。俺の親父が言ってたよ。あの女は、事業家の嫁には向かない、将来、苦労することになるぞってな。今になって痛感してる」
    みのりは眉を寄せた。
    確かに、伊吹は恵まれた環境で育ち、父親の死後は、苦労知らずのままで会社を継いだ。
    だが、バブル崩壊という時代の荒波に晒された今、試されているのは“経営者としてのしたたかさ”だった。
    しかし、そんな時こそ妻が夫を支えるべきではないか。
    だが裕子は――逃げた。
    みのりはコーヒーをひと口すすり、静かに話しを続けた。
    「そりゃあ、お父さんは自分で創業して、いろんな苦労を経験したんだろうから、そういう意味で、やっぱり人を見る目があったんじゃないの。それを言うこと聞かないで、裕子さんを選んだのは信二さん、貴方じゃないの。結婚する前に、そんなことよく考えなかったの」
    「だってさ、そういわれても。俺は裕子のことが大好きだったし、この女しかいないって思って、結婚したわけだし、裕子も喜んでくれて、とにかくなんとか親父を説得して、一緒になったんだけど。
    自分の生活がこんな状態になるなんて、裕子は予想もしてなかっただろうし、もちろん俺自身もまさかって感じなんだよ。世の中のせいもあるけど、やっぱり俺の経営手腕が悪かったんだよな。
    こんな状況にしてしまって、裕子には申し訳ない、という気持ちでいっぱいなんだよな」
    確かに、この伊吹は、聞いたところによると、小さい頃から父親の興した事業の成功のおかげで裕福な環境で育ち、しかも、自身が会社を引き継いだ時には父親が脳梗塞で倒れて、そのまま亡くなってしまい、俗にいう帝王学を学んでいなかったらしい。そういう意味では、今の世の中の急激な環境の変化に、対応するだけのしたたかさとか、そういった力強さはないのかもしれない。
    だが、そんな時こそ妻が支え、夫婦で人生をやり直していくものじゃないのだろうか。 
    そんな時に、妻が浮気しているかもしれないと感じ、そして尚且つ、まだそんな妻をかばおうとしているこの伊吹は、どれだけ裕子を愛しているのだろう。
    このお人好しともいえるこの男では、やっぱり今の急激な変化で大変な世の中を、人を使って会社を経営していくのは大変だろう。そんなことをみのりは考えていた。
    「それにしても、だから徳井と、というのは、あなたの考え過ぎじゃないの」
    「最初はそう思っていた。でも……昼間、家に寄ったとき、裕子が留守だった。買い物かと思ったけど、後で聞いたら“徳ちゃんに相談していた”って。最近やけに会っているみたいなんだよ。俺も、まさか徳ちゃんが友達である俺の女房にと思っていたんだけど、どうも裕子の徳ちゃんのことを話すときの話し方が以前とは違っているんだよね。みのりちゃんは気づかなかった?」
    みのりは息をのんだ。そういえば、確かに、裕子が自分の留守中に家へ来たことが一度あった。夫は「旦那さんのことで相談に来た」としか言っていなかったが――まさか、あれが始まりだったのか。それからそんなに頻繁に逢っていたなんて。
    私は私で子供たちの手が離れるようになると、ほとんど毎日外出して友達の家に行ったり、外でランチしたり遊びまわっていたから、その間に来られると確かに気づかない。だが、夫との仲も取り立てて悪い訳でもなく、昔からお互いのプライバシーを尊重して生活してきた。ただ、そう言われてみると、夫との夜の営みが以前より明らかに減っていた。単に年のせいかと思っていたが、まさか。
    裕子とは、子供たちが小学校の同級生、ということで親しくなって家族付き合いが始まり、子供たちが小さいうちは、お互いに子供を預け合いっこしたりと、母親同士としても良好な関係を保っていたはずだ。その裕子と夫が怪しい?
    確かに、夫は親から引き継いだ遺産であるビルの家賃収入だけで生活しているので、伊吹と違って、所謂やり手という感じではなく、毎日を特に緊張感なく生活しているし、そんな夫の性格を、私は私で、自分が自由気ままな毎日がおくれていて、特に不満に覚えたこともない。確かに裕子が子供をうちに預けに来たときに、何度か夫と顔は合わせていただろう。
    「それ、やっぱり信二さんの考えすぎじゃないの。何といったって私は裕子さんの仲の良い友達なのよ。そんな友達の夫と変な関係になるかしら。昔流行ったテレビドラマじゃあるまいし」
    「俺はさ。貧しくなることには辛抱できる。所詮人間座って半畳寝て壱畳なんだからな。でも、裕子の愛情がなくなるのは、とても辛いんだよ。そもそも、大変な時に夫婦で手を取り合って、人生をやり直さなくちゃあいけないのにこんなことで悩むなんて。そんな疑いをかけないといけないような状況に追い込んでしまって、裕子に申し訳なくってさ」
    そう言う伊吹の目が、みるみる真っ赤に充血しはじめ、溢れそうになった涙をあわてて手で拭っていた。生気のない顔つきの中で、そこだけ真っ赤になった目が異様に感じられた。
    「みのりちゃん、俺はさ、女房の事を口には言い表せないくらいに愛していたし、今でもその気持ちは変わらないんだよ。そんな彼女の気持ちが離れて行ってしまうのは、そんな辛さにはとても耐えられないし、これから生きていく希望が無くなってしまう感じなんだよ。なんとか旦那さんと話してくれないかな」
    みのりは、この伊吹の奥さんに対する深い愛情に、何故か反発心が湧いてくるのを抑えられなくなっていた。
    私は夫からこれだけの愛情を注がれているだろうか。
    思えば、徳井との結婚は「成り行き」だった。高校時代からの付き合いで、なんとなくそのままの流れで結婚して、二人の子供をもうけた。昔から気の弱いというか、何とはなしに世の中を生きているような感じの夫ではあったが、その分、自由奔放に生きたい自分の生活に、何の文句を言うでもない、そんな夫との生活に、そこそこ満足していたのだ。だから、高校卒業と同時に初めて男女関係になって、それから結婚するまでの間こそ激しい愛情のやり取りはあったが、結婚してからは、どちらかと言えば静かな平凡な毎日の繰り返しだった。
    それでも、確かに昔から夫の女好きは、今でも変わっていない。
    でも、所詮は単純な女遊びで済むようなことだったし、そんなこといえば自分もそれなりに男関係も奔放な生活をしていたものだ。
    しかも、徳井の女遊びといっても、特に男女関係になって問題になるというような女遊びではなく、メル友になってやり取りする程度の、かわいいものだった。あの徳井はそういう意味では、そこまでの勇気はなく、私との関係も、どちらかといえば私の方から誘い、私の方が積極的に男女関係を結んだようなものだ。
    だけど、あの裕子。
    女の私からもわかる、男を引き寄せる魅力を備えたあの裕子が、もしあの夫を本気で誘惑してきたら。
    間違いなく徳井は彼女の魅力に支配されてしまうに違いない。伊吹の彼女に対する深い愛情に対するある種の妬みと、自分の夫が彼女に支配されているかもしれない、という疑惑の感情が入り混じって無性に腹が立ってきた。
    「信二さんは考えすぎだよ。そんなに裕子さんが心配なら、檻にでも入れておけばいいじゃない。だいたい、お父さんの警告を無視して、女を顔だけで選ぶからそんな余計な心配しちゃうのよ」などとつい突き放してしまった。
    伊吹はそんな私の突き放した態度に、かなり失望したようだった。
    「そうか、そうだね。俺の考えすぎかもしれない。相談に乗ってくれてありがとう。」
    その瞬間、みのりは自分の言葉を悔いた。
    だがもう遅かった。
    さきほど久しぶりに会った時に感じた、伊吹の顔色の悪さがますます悪化し、憔悴しきった表情になったのを見てみのりは多少なりとも同情を禁じえない気持ちになった。

    それにしても、伊吹の言ったことは本当なのか。
    みのりは、残されたコーヒーを見つめた。
    冷めた液面に、ゆがんだ自分の顔が映っていた。
    その歪みが、まるで――これから起こる破滅の予兆のように見えた
     
    どうするか考えていたが、結局みのりの性格からして、回りくどいやり方は性に合わない。
    伊吹と会ったその日の夜、みのりは直接徳井に問い詰めることにした。
    「あなた、そういえば、この間ユウちゃんがうちに来たって言っていたけど、どうだったの」
    「えっ、なんだよ急に、そんなことあったっけ。いつの話だよ」
    この男は本当に分かりやすい。胸の奥に走る動揺が手に取るように分かる。
    「今日ね、たまたま偶然伊吹さんに会ったの。天神のジュンク堂で。本当に久しぶりだったからお茶でも、って」
    「へぇ、そうなのか」
    「でも、びっくりしたのよ。あんなに生気のない顔、初めて見た。バブル崩壊で会社がかなり大変らしいわ」
    「ああ、そうだろうな。ユウちゃんも“生活が苦しい”ってこぼしていたし。そうそう、あの日はお前が留守だったから、玄関先で少し話して帰ったんだ。」
    「ふ〜ん、そうなんだ」
    みのりは、夫の目の動きをじっと見つめた。
    視線は泳ぎ、こちらをまっすぐに見ようとしない。
    やっぱり――何かある。
    これまでも、徳井には軽い浮気の噂がいくつかあった。
    けれど、それはまだ「男の気まぐれ」の範疇に収まる程度だった。
    しかし、今回は違う。相手は、自分の友人である裕子だ。
    それだけは許せなかった。
    裕子という女――一見、か弱く控えめに見えるが、みのりには分かっていた。
    あれは計算ずくの“演技”だ。
    女同士なら、そうした気配は肌で感じ取れる。
    その覆面の下に潜む狡猾さと欲望が、みのりの本能に危険信号を点滅させた。
    今の会話で、ほぼ確信は得た。
    あとは――決定的な証拠だけだった。
     
    数日後。
    みのりは、いつも通り「友人とランチに出る」と言い残し、朝から外出した。
    だが、実際には昼食なども取らず、30分くらい近所を散歩しただけで、いつもよりずっと早く家に戻った。
    インタフォンも鳴らさず、静かに鍵を開ける。
    さすがに、玄関先に女ものの靴は見当たらなかったが、夫の姿も見当たらない。玄関先に、夫の愛用のナイキのスニーカーが脱ぎ捨ててあったので、家にいることは間違いないのだが。
    家の奥――夫の“趣味部屋”の方から、わずかな物音がする。
    「ここに居るの?」
    わざと、部屋の扉を大げさに開けた時の、徳井のあの慌てようはなんとも滑稽なものだった。
    「うわっ! なんだよいきなり。びっくりするじゃん」
    徳井は、なぜか久しぶりに、ビデオカメラをパソコンにつないで作業をしていた。
    子供たちが小さい頃には、よくビデオ撮影をして、編集していたものを家族で観ていたものだが、子供たちが大きくなった今では、たまの旅行とか年に数回しか使わなくなってしまった。そんな物で今さら何をしていたのだろう。
    「どうしたの。ビデオカメラなんて珍しいじゃない」
    「あぁ。そうそう。えっとね。あの、ほら、あ、あの松永から、えっと、そう、今度町内のソフトボール大会があるから、ビデオ貸してくれって言われてさ。久しぶりだから、ちょっと点検しとこうと思ってさ」
    「松永さん?あぁ、あの安っぽい派手なカッターシャツ着ていた人?」
    「そうそう、あの松永だよ。それにしても安っぽいってのは手厳しいな」
    「でも、実際そうじゃない。確か、大工さんかなんかそんな感じの職人さんだった人でしょ。いかにも職人あがりのチンピラって感じよね。服のセンスもまるでなってないし、髪型も、あれじゃあチンピラって言われても仕方ないわよ。あんな人とまだ付き合っているの」
    松永は、ひょんなことから徳井と知り合い、一度奥さん連れでわが家へ遊びに来たことがある。見るからに軽薄そうな男で、初めてわが家へ来て挨拶されたときは思わず吹き出しそうになった。普通のスラックスの上に、わざと胸をはだけた蛍光色のカッターシャツを着て、しかもそのはだけた胸元には胸毛が少々顔を出していた。
    どうも、自分ではそれをセクシーだと思っているようだ。そして、その髪型は昔流行ったリーゼントじゃないか。お前はビーバップハイスクールか!思わず突っ込みを入れたくなった。
    徳井によると、松永は中卒で大工の道に入ったものだから、世間の人間に馬鹿にされないように、わざとこういう突っ張った髪型にしているらしい。
    まるで中学生の感覚だ。それにしても、リーゼントにあの蛍光色のシャツはないだろう。そういった軽薄を絵にかいたような性格を、どういう訳かやけに徳井が気にいって、ふたりでいいコンビを組んで、遊びまわっていたようだ。もっとも、徳井はあんな悪趣味な服のセンスではないが。
    そんな松永なのに、奥さんは銀行に勤めているらしくて、なんであんな男と一緒になったか、不思議な感じがするくらいの、可愛らしい女性だった。
    徳井の話によると、松永とは妙に気が合って、二人で若い女の子を追っかけて、メールし合ってるようだった。
    所詮、この男達に、それ以上のことを進めるような勇気は、持ち合わせていないのだから放っておいた。そうやって遊んでいることを、わざわざ妻である私に報告するくらいだから、まるで小学生並みである。
    自分の動揺を隠すように、徳井はパソコンにつないであったケーブルを外し始めた。心なしかケーブルを外すときに、手が震えているのがわかる。
    「ふーん」
    私の女としての感、がまた信号を発しているようだ。みのりはそう考え、次の行動に出た。
    「ねぇ、悪いけど、お米を買ってくるのを忘れたから、ちょっと熊原さんとこまで行って、買ってきてくれない」
    「え、ああ、あの駅前の熊原米穀店か、あぁ、うん、分かったよ。あとで車で行ってくるよ」
    「だめだって。熊原さんとこは、今日は早く閉める日だし、あそこのお米じゃないと駄目なのよ。ほら、今すぐ行かないと閉まっちゃうじゃないの」
    私が急き立てるように、夫を送り出すと、夫はいかにも残念そうに、しかも不安気な顔をして出て行った。
    たぶん、帰ってくるまでに30分くらいはかかるはず。そう計算して、みのりはそれまで徳井が触っていたパソコンの前に座り、そこに置いてあったビデオカメラを操作してみた。
    さてさて、一体何をしていたんだか。
    カメラを再生させてみたが、なにしろカメラの小さな画像なので、何が映っているのかよくわからなかったが、そのうち小さな画像にも慣れてはっきり見えてきた。全体的に薄暗い画像の中で、浮かび上がってきたのは、ベッドに寝ている格好の人の姿だった。しかも折り重なっている人の映像だ。えっ、これは男女の営みの画像か。
    相変わらず夫は、こんなアダルトビデオを見ているのかしらと思っていたが、考えてみるとビデオカメラでアダルトビデオなんて聞いたことがないわね。と思わず苦笑しながら自分の考えを訂正して、ビデオカメラの小さな画面をよく目を凝らして観た。
    え、これはうちの寝室じゃない?うちのウォーターベッドの上での行為。これは夫?
    そして、相手の女は、確かにあの裕子だ。
    これを見る限り、あの決して上手とはいえない徳井の行為を、リードしているのはあの裕子だ。
    「嘘でしょ……」
    みのりは、この自分の夫を自在に操っている裕子に対して、こんこんと激しい怒りが沸き上がって、まるで、自分の爪で手のひらを突き破ってしまうのではないか、と思うくらい両手を握りしめていた。それは、こんな女に自由に操られている情けない自分の夫と、これまでもお互いに良好な関係を続け、どちらかというと自分の方が、彼女の子供たちの面倒を良く見ていたはずで、感謝されてこそいいと思っていたあの裕子が、自分を裏切り、そして夫を取られた、という屈辱感が入り混じった怒りだった。
    怒りに手を震わせ、思わずビデオカメラをパソコンに向かって投げつけようかとしたその時、ビデオカメラがまだケーブルでパソコンにつないであったのに気がついた。
    そうか、夫はこの映像をパソコンに取り込んでいたのだわ。
    みのりは、冷静になるよう自分に言い聞かせ、パソコンの中のビデオファイルを探した。
    20060630YU.mts
    これだわ。みのりは引き出しを探り、自分専用のメモリースティックを見つけるとパソコンに接続して、このビデオファイルをコピーした。
    これを何かに使うとか、証拠のために取っておくとか、そこまでの冷静さを保っていた訳ではないのだが、みのりの長年の経験から、やはり記録として取っておかなくてはならない、という変な義務感からコピーしていたのだ。もちろん、これは結果的にはみのりにとって非常に有利な行動になるのだが。
    コピー100%の表示になるまで、家族風景が壁紙になって、そこには、笑顔を振りまいている夫が映っているパソコンの画面を見つめながら、みのりは、いかにこの二人に対するかを考えていた。夫の行為も裕子の裏切りも決して許されることではないが、単なる気まぐれのこの期間だけのことなら、まだ救われる。それはそれなりに罰を与えないといけないが、それで終わらせれば済むことだ。だが伊吹が言っていた通り、裕子が伊吹との水準を落とした生活に耐えきれなくなって、夫を誘惑してきたとしたら。
    そして、この私の今の生活を自分も送りたいと思っての行動なら。
    以前、裕子と世間話をしていた時、私が午前3時頃まで飲みに行って帰宅しても、うちの夫は何も問わないし、私も夫が外で何しているのか別に聞いたりしないのよ。そういうお互いのプライバシーを重んじた変な夫婦なのよ。と、自分的には、わりと自虐的に言ったつもりだったのだが、裕子はそういう夫婦っていいわね。私もそういう夫婦関係がいいわ。などと本気とも冗談ともつかない話をしていたのを思い出した。その時は、なにしろ伊吹と裕子のアツアツな関係は、周りでも有名な話だったし、普通の夫婦なら妻が午前3時までなんの連絡もせずに飲んで帰宅すれば、夫としては心配で怒るのは当たり前だろうと思うし、特にアツアツのこのカップルが、本気でそんな私たち夫婦のような関係を望むなんて考えられない、と思っていたのだが。所詮、伊吹夫婦の関係も、財政的な裏付けがあってのことだったということなのか。
    もし、裕子が今の伊吹との貧乏生活に嫌気がさして、本気で妻としての私の座を狙ってるとしたら、あの単純で本来女好きな夫を寝取るくらいは、たやすいことだろう。
    コピーが無事に終了し、みのりは差し込んでいたメモリースティックを抜いて自分のポケットに入れた。そして、今度はパソコン内の映像を再生してみた。パソコンの画面にはまるで安っぽいAV動画のような、だがその出演者はまさしく自分の夫なのだ。
    さすがに素人が映した画像だけに、面白みもなにもあったものんじゃないが、その中に映っている人間が、自分の良く知っている人間で、しかもその場所が、自分が今日も寝ていた所だと思うと、妙に生々しく感じてしまう。
    なんてことなの。
    思わず握りしめていた右手を机に強くぶつけた時、玄関の扉が開く音がして
    「おーい、帰ってきたぞ。いやーお米ってやっぱり重いなー。もう腰がくがくだよう」
    相変わらず間の抜けた夫の声がした。
    その声の間の抜けた響きが、みのりの神経をさらに逆撫でした。
    机の上のビデオカメラが、まるで沈黙の証人のように光っていた。

    裕子は、ベッドの上で小さく笑みを漏らした。
     ――みのりが、どうも自分たちの関係を疑い始めたらしい。
    徳井の、その話を聞いた瞬間、裕子の中で何かが「勝利」を告げた。
    その話が出て以降、それまでの徳井の家での情事を止め、平尾のラブホテルを使うようになっていた。
    みのりの急な帰宅に怯えながらの逢瀬より、心置きなく時間を費やせるほうがいい。
    最近のホテルは内装も豪華で、アメニティも完璧。
    ウォーターベッドでないのが少し残念だったが、裕子はそれなりに“優雅な背徳”を楽しんでいた。
    今日も、いつも通り徳井の拙い行為に身を任せたあと、
    彼がぽつりと呟いた。
    「なあ、ユウちゃん……とうとうバレちゃったんだよ。
    あのビデオ、みのりの奴に見られちゃったんだ。離婚だの慰謝料だのって、もう大騒ぎでさ」
    裕子は一瞬、眉を上げたが、すぐに口角を上げた。
    最初に徳井がビデオを撮ったときには、この変態男、どうしようもない”と思った。
    だが、結果的にそれが――みのりに自分たちの関係を知らせるきっかけになった。
    運命とは皮肉なものだ。
    あの臆病な徳井の口から、みのりへの別れ話など出るはずもない。
    けれど今、彼の逃げ場はなくなった。
    「それで? どうするつもり?」
    ベッドの上で横たわりながら、裕子は徳井を見上げる。
    「もう、みのりとは無理かなって思ってる」
    「でもさ、あいつ、“慰謝料一億払え”とか言い出してさ。現実的じゃねえよなあ」
    裕子は、涙ぐんだような表情を作り、徳井の胸に手を添えた。
    「私は、もうあなたなしじゃ生きられない。
    伊吹とはきちんと終わらせるわ。だから、あなたも……みのりさんと話をつけて」
    徳井は一瞬、ためらうように目を伏せた。
    「うーん……まあ、そうだよな。でもユウちゃんこそ大丈夫か?旦那さんに子どもたち、どうするんだよ」
    裕子は鏡のように澄ました顔で答える。
    「翔はもう北海道の大学を出て、独り立ちする。
    麻里は――完全に私の味方よ。
    毎日、あの人の愚痴を聞かせていたら、今じゃ父親を軽蔑しているわ」
    徳井は満足げにうなずいた。
    「みのりの奴だって、一億なんて払えっこないってわかっているんだよ。口だけだよ」
    徳井がそう言いながら裕子を抱きしめると、
    裕子はわずかに目を細めた。
    ――この男は、ほんとうに単純だ。
    自分の掌の上で転がることしかできない。
    そのときだった。
    室内の静けさを破るように、携帯の着信音が鳴り響いた。
    「なんだよ、バイブにしとけよ」
    「ごめん、ごめん、忘れていたわ」
    裕子はタオルケットを身体に巻き、ソファの上の携帯を手に取る。
     画面を見た瞬間、わずかに眉をひそめた。
    「誰から?」
    「……旦那よ。でも、放っておいていいわ」
    そう言って携帯をソファに放り投げると、再びベッドへ身を沈めた。
    「ねえ、それより、みのりさん、今日は出かけてるの?」
    「さあ、友だちとお茶とか言ってたな」
    「じゃあ、もう少し一緒にいられるわね」
    「もちろん、全然平気だよ」
    互いに笑い合い、空虚な幸福の泡に包まれているようだった。
    だが、そのとき――再び音が鳴った。
    今度はメールの通知音。
    「まったく……落ち着かないわね」
    裕子はため息をつき、携帯を手に取った。
    「また旦那? 何て?」
    「……長文ね。珍しいわ」
    画面をスクロールするうちに、裕子の表情が変わっていった。
     驚きでも、悲しみでもない。
     どこか――淡い高揚にも似た、奇妙な感情が胸を満たした。
    徳井が気づき、ソファに近寄る。
    「なんだよ? 見せてくれよ」
    裕子は、携帯を無造作に差し出した。
    「見たければ見れば?」
    徳井は画面を覗き込み、そこに並ぶ言葉を追った。

     愛する裕子へ

    君の心が僕から離れていくのを、ずっと感じていた。
    君を幸せにできなかったことを、心から後悔している。
    もし、もう戻れないのなら、仕方がない。
    けれど、君がいない世界で生きる意味を、僕は見出せない。
    この家で、君を想いながら静かに終わりたい。
    翔のことは心配していない。
    だが、麻里のことだけが心残りだ。
    どうか、彼女を素直で優しい女性に育ててやってほしい。
    長い間、本当にありがとう。
    ――信二

    徳井は顔をこわばらせた。
    「これ……遺書みたいじゃないか。まさか……」
    「そんな度胸、あの人にあると思う?」
    裕子はあくまで冷ややかだった。
    だが、心の奥底では、かすかに震えるものがあった。
    彼のことを、完全に軽蔑しているはずなのに、
    “死”という言葉に、胸の奥がざわめいたのだ。
    徳井が不安げに問う。
    「行ったほうがよくないか? この家って前住んでた長丘の家のことだろ。今どうなっているの?」
    「空き家よ。もうすぐ競売にかけられるわ」
    裕子は髪をとかしながら、遠い日々を思い出した。
    あの長丘の家。
    福岡でも、指折りの高級住宅街に建つ、明るい洋館。
    伊吹が父の会社を継ぎ、意気揚々と買った家。
    家族四人の笑い声が響いていた。
     ――それが今や、崩れかけた過去の象徴。
    裕子は鏡の中の自分を見つめた。
    “あの頃の生活を取り戻す”
    それだけが、今の彼女を支える唯一の信念だった。
    たとえ相手がこの愚かな徳井でも――利用価値がある限りは手放さない。
    「なあ、ユウちゃん……やっぱ行こうよ。様子だけでも」
    徳井の声が、またしても場違いなほど間延びしていた。
    裕子は、こめかみの奥がズキリと痛むのを感じ、無理やり微笑んだ。
    「……そうね。一応、行ってみようか。つき合ってくれる?」
    「もちろん」

    徳井のミニクーパーが夜の街を滑る。
    平尾から長丘までの道のり――
    ふたりは、言葉を失っていた。
    車内に流れていたのは、佐野元春の「SOMEDAY」。

    いつかは誰でも 愛の謎が解けて
    ひとりきりじゃいられなくなる
    オー・ダーリン こんな気持ちに揺れてしまうのは
    君のせいかもしれないんだぜ

    裕子は、その歌を聴きながら、ふと遠い記憶を思い出した。
    あの頃――夫と二人でカラオケに行き、この歌を一緒に口ずさんでいた。
    あの笑顔。あの温もり。
    ほんの一瞬、胸の奥が痛んだ。
    だが、次の瞬間にはそれを振り払うように、唇を結んだ。
     ――いいわ、もう。終わったこと。
    そう自分に言い聞かせる間に、車は静かに長丘の坂を登りきった。
    かつて“家族の城”だったその白い家が、夕闇の中にぼんやりと浮かんでいた。
    「ユウちゃん、あのバイク……旦那さんのじゃない?」
    徳井の声に、裕子は反射的に顔を上げた。
    駐車場の隅に、見慣れた伊吹のバイクがぽつんと停まっている。
    家の中を車の中からうかがうが、窓のカーテンは閉ざされたまま。
    風に揺れる玄関先のハナミズキの葉が、やけに静寂を際立たせていた。
    そのハナミズキは、かつて伊吹が「君のために」と植えたものだった。
    「私の想いを受けてください」――そんな花言葉も、今となっては虚しい。
    季節を過ぎた花は地面に落ち、踏みしめるたびに柔らかく潰れていく。
    徳井はわざと遠くに車を停め、裕子とともに家へ歩いた。
    玄関に近づくと、どこか焦げ臭いにおいが鼻をついた。
    「ユウちゃん、なんか……これ、炭の匂いじゃないか?」
    徳井の言葉に、裕子の記憶の底から、かつて家族で行ったキャンプの光景が蘇る。
    伊吹が得意げに火をおこし、子どもたちがはしゃぎ、笑い声が夜の空に吸い込まれていった。
     ――ほんの数年前の、幸せだったあの頃。
    おそるおそる玄関の取っ手を回すと、抵抗もなくドアが開いた。
    鍵は、かかっていなかった。
    炭のにおいは、いっそう濃くなる。玄関脇の和室の襖の向こうから漂ってくる。
    「開かないわ……」
    裕子が押しても動かない襖を、徳井が思い切り引いた。
    バリッと音を立てて、内側に貼られていた養生テープが剥がれ、
    襖の隙間から、もくもくと煙があふれ出た。
    むせ返るほどの炭の煙の中、部屋の中央に――伊吹がいた。
    畳の上に仰向けで横たわり、両手を胸の上で組んでいる。
    その枕元には、空になった睡眠薬の瓶。そして三通の白い封筒。

    裕子へ。
    翔太へ。
    麻里へ。

    炭を入れた七輪からは、まだ煙が立っていた。
    煙が出過ぎる炭ってのは、あんまりいい炭じゃないんだぜ。
    思わず、かつて伊吹が笑って言っていた言葉が、脳裏に蘇る。
    「おいおい……本気だったんだ。どうしよう、なぁ、どうしよう。救急車、呼んだほうがいいか?」
    徳井は完全に動揺して、手を震わせながら携帯を取り出した。
    そのとき、裕子の目に一瞬、狂気のような光が宿った。
    「ちょっと待って。せっかく本人が死にたいって思っているのよ。なら、思い通りにしてあげましょう。」
    「な、何言っているんだよ、それ……そんなの、まずいって!」
    「別に私たちが殺したわけじゃないわ。何も見なかった。ここに来なかった。それでいいのよ。」
    裕子はそう言って、徳井の太ももに指を這わせた。
    「彼がいなくなれば、私は自由よ。あなたと、いつでも一緒にいられるの。」
    徳井は、恐怖と興奮の狭間で息をのんだ。
    「よ、よし……じゃあ、とにかく早くここを出よう。煙、吸っちまう!」
    裕子は夫の枕元の封筒を手に取り、伊吹の顔を見下ろした。
    哀れね――私を不幸にした罰よ。
    伊吹のまぶたが、かすかに動いたような気がした。
    しかし裕子はそれを無視し、徳井の背を押して外へ出た。
    車中では、徳井が落ち着かない声でどうでもいい話を続けた。
    裕子はうんざりしながら、適当に頷くだけ。
    ――これで私は自由になった。
    あとは、みのりと徳井を別れさせるだけ。
    みのりに一億円の慰謝料なんて払えるはずがない。
    でも、もし本当に払えるお金があるのなら、それは私が手に入れるべきものだ。
    彼女の頭の中では、すでに新しい人生の設計図が描かれていた。
    徳井の母親、障害を持つ姉……外堀から崩すのが早い。
    みのりの娘たちは母親の味方をするだろうけれど、無視すればいい。
    徳井の声は遠くに霞んでいく。
    代わりに裕子の胸には、奇妙な高揚感が膨らんでいた。
    あの短大時代、親友の恋人だった伊吹を奪ったときと同じ――勝利の興奮。
    「大丈夫。私は上手くやってきた。これからもきっと上手くやれる。」
    そう呟いた瞬間、こらえきれずに笑い声が漏れた。
    徳井がぎょっとしたように顔を向ける。
    その顔を見て、裕子はますます笑いが込み上げ、
    流れていたカーラジオの音楽さえかき消すように、高く、響かせた。
    笑い声は、夕暮れの空へと吸い込まれていった。
    東の空には、満月が静かに浮かんでいた。誰もがその光を見上げる。
    だが、その裏側を見ることのできる者はいない。
    今のところ・・・

    第二章 Stairway to Heaven

    暗い暗い、そして、自分の足がはまり込んでいる泥濘の、ずっと底から急に重しがはずれたように暗闇の中から覚醒した時、最初に目に入ってきたのは、まばゆいばかりのハナミズキのピンク色だった。
    起きたばかりで周りがぼやけて、はっきり視界をつかめていない状態でも、そのピンク色の花だけは、しっかりと自分の視界にとらえられていた。まるで廃墟となった世界の中でポツンと地面に生えてきている植物の、力強さと、何故か少しだけ薄いピンク色は、人間のはかなさを象徴しているような色だ。
    「あの花はなんだったっけ」
    何故か、自分の記憶の片隅に残るハナミズキの花に呼びかけるように、独りごちた。
    「お、やっと気が付いたかい」
    自分自身の状況も、ましてや、周りの状況も、全く把握してないままに発した自分の言葉に、思いもよらず反応があったため、驚いて声の方に顔を向けると、年の頃は六十歳くらいかと思われる、人のよさそうな男性が、私に向かい合った形でベッドに腰掛けて、缶コーヒーを飲みながら、こちらを見て微笑んでいた。
    「随分寝込んでいたからなぁ。一時はその状態のまま起き上がらないのかと心配していたよ。
    佐藤さんは、もうしばらくしたら起きるはずだから、その時は状況を説明してやってくれって言ってたけど。もうすぐ先生の回診があるから、ま、それまでゆっくりしておきなよ」
    その男は、まるで自分の息子に話しかけるような温かみをもった口調で、話しかけてきた。
    「先生の回診、先生?回診?それは一体どういうことなんですか?そもそも、ここはどこなんですか?」
    「おいおい、全然覚えていないの?結構同室の連中にも迷惑かけたんだぞ」
    同室の連中?そう言われて周りを見ると、最初は自分の視界がぼやけてはっきりわからなかったのだが、徐々に目が慣れていくと部屋の状況がつかめてきた。決して広くはないこの部屋は、飾り気の全くない暗い感じがして、なんだか、うすら寒い雰囲気を醸し出していた。そして確かに、あと二人、ベッドからこちらを興味深そうに眺めている人物が、いた。
    一人は、私のすぐ隣に設置してあるベッドに、同じように腰掛けている。年の頃は二十歳を過ぎたくらいだろうか。
    その着ている洋服といい、その髪型といい、充分に若者という雰囲気を醸し出していた。
    だが、私を見つめる瞳には、なにか言いようのない寂しさ、というか孤独感を感じさせるものがあった。
    その瞳の奥に潜む寂しさをなんとかしたい、という思いれがその服装と髪型に表れているようだ。
    特に、私は人を見る目がある方ではなかったが、そんな私にも彼の持つ内面を、窺い知ることが出来た。
    それでも、私が彼の眼を見ていることが分かったのだろう。その瞳の奥の寂しさを、急に、そのさらに奥底に押しやるように、引っ込ませてしまった。
    もう一人は、その若者の向かいにあるベッドで、横になったまま顔だけを私の方に向けていた。
    私がそちらに顔を向けた途端に、待っていましたとばかりにベッドから起き上がった。
    「そうそう、確かに大変だった。佐藤さんと俺が、二人がかりであんたを抑え込んだんだからな。
    佐藤さんも結構ガタイはあるし、俺も空手の経験があるから良かったけど、山内のおじさんなんかビビりまくって、ソファの隅っこに逃げちゃって眺めていただけだしな」
    その男は先ほどの若者とは違い、明らかに、朗らかな雰囲気を全体に醸し出しながら、快活にしゃべりだした。
    「おいおい、当たり前だろ。暴れまくる若者を押さえつけられるような歳じゃないって」
    「そりゃそうですね。ま、力仕事は佐藤さんと俺の領域かな」
    それにしても、二人の会話を聞いても、自分のことを言っているとは到底理解できないくらい頭の中は混乱していた。
    ただ、私に最初に話しかけてきたあのおじさんが山内という名前であることだけは、わかったが。
    そして、さっきから気になっていたのだが、あの美しいピンクの花が見えている窓には、何故かその花に似つかわしくない鉄格子がかかっているのだ。
    自分が置かれている状況から、ここは病院の一室であることはなんとなくわかってきたのだが、それにしてもなんで病院の窓に鉄格子が設置しているのだろうか。
    「いったいどういうことなんですか。さっきから聞いていれば、二人がかりで抑え込んだって、それは私のことなんですか。なんで、私があなた達に抑え込まれなきゃいけなかったんですか。そもそもここは一体どこなんですか」
    私は、その山内さんと、もう一人の冗談交じりの会話に若干、苛立ちを覚え始めていた。
    「山内さん、説明してやっといて下さいよ。もうすぐ回診が始まるったって、それまでに少しは教えといてやったっていいでしょ」
    「そうか、それもそうだな。あのな伊吹君、確か伊吹君って名前だったよな」
    山内という名前のおじさんは、先ほどの私を抑え込んだとういう三十歳くらいの男の方に顔を向けて、確かめるように首肯した。
    その男が頷いたおかげで、私は自分の名前が伊吹だという事に気づかせられたのだ。
    「ここはな、精神的に少し問題のある人間が、療養するための施設なんだよ。君は昨日ここに入ってきたんだが、しばらくの間は大人しくしていたから、我々も看護師の人たちも安心していたんだけど、夕ご飯が終わって、ロビーのソファに皆で座っている時に、急にスリッパをビニール袋に入れ始めてさ。
    女房と約束があるから、家に帰らんといかんとか言って、帰り支度をし始めたんだよ。
    それから、急に出口の扉を開けようとして、みんなびっくりしてさ。開かないもんだから、どんどんと扉を殴り始めたもんで、看護師の佐藤さんが来て、なだめすかしても言うこと聞かなくて、暴れだしてさ。いや~あの時はびっくりしたよ」
    私の隣のベッドで、私たちの会話を聞いていた若者も、その会話に参加してきた。
    「そうそう、僕もビックリしちゃったけど、だいたい、その前のごはんの時から、この人はちょっとおかしかったもんな。
    急に、お茶のはいった大きなやかんを、排水口に捨て始めてさ。鳥越さんがあわてて止めに入ったんだけど、いいじゃんか、とか言って捨てちゃったんだよ。
    仕方なく、鳥越さんとか他の女の子がやかんにお茶を補充して、大変だったみたいだぜ」
    「やかん事件のことはともかくとして、昨日のあの暴れようは、よっぽど奥さんのとこに帰りたかったんだろうなあ。ま、多かれ少なかれ、ここにいる連中はみな同じような思いがあるんじゃないの」
    「あれ、山内さんも、やっぱり奥さんのことが恋しくて帰りたいんですか」
    「なにを言ってんだ。俺くらいの年になるとさ、もう家の中には居場所がないし、ここでのんびり過ごせてもらって、おかげでせいせいするくらいだよ」
    「へえ、そんなもんすかね」
    「そうそう、そんなもんなの。本松君は、まだかわいい小さな子供がいるから、家に帰りたいだろうけどね」
    そんな事を話している時に、部屋の扉が開いて、白衣を着た男女が五~六人入ってきた。彼らがさっき話していた、回診に来た医師と看護師達なのだろう。
    その中でもひときわ大きな背格好の若者の名札に、佐藤という文字を認めた。彼が、昨日私を抑えてくれた看護師なのだろう。
    確かにこの背格好なら、もう一人の同室の本松と二人がかりで私を押さえつけるのは造作ない事だろう。
    「お、伊吹さん、目が覚めていますね。どうですか身体の具合は」
    担当医師なのだろうか、白衣を着て背が低く、顔は浅黒い色をして、髪の毛はぼさぼさで後ろの部分に寝癖がついている男が、話しかけてきた。名札を見て、高岡医師だという事はわかったが、どうもこの先生は、見た目とかそんな事には全く無頓着な先生なのだろう。
    一昔よくいた町医者、という雰囲気を醸し出していた。
    今では、町医者でもかなり洗練された先生が多くなって、こんな感じの先生はとんと見られなくなったものだが。
    「いや、とにかく、今やっとこの人達に説明してもらってなんとか状況がわかってきたけど、自分が、何故、ここに居るのか、自分の状況が全くつかめていないんです。
    なんでも昨晩はみなさんにえらい迷惑かけたみたいで。特に、こちらの佐藤さんには大変ご迷惑かけたみたいで、すいませんでした」
    私が、そう言って佐藤さんの方へ顔を向けると、彼は、それまでの引き締まった顔つきを若干和ませた。
    でかい身体の割には、その人の良さそうな性格がにじみ出ているようだ。
    「ほう、そうなの、佐藤君」
    不意に、高岡医師が佐藤さんを向いて聞いてきたものだから、微笑んだ顔つきを急に険しい顔に戻しながら言った。
    「はあ、ちょっとてこずりましたけど、ここの本松さんに手伝ってもらって、何とかしてもらいました」
    その言葉に納得したのか、高岡先生は
    「まあ伊吹さん、最初は、いろいろ今までと違う環境に置かれてる訳だから、戸惑うことも多いかと思いますけど、じっくり、ここで静養して治していきましょうや」
    と、まるで、昨日起こった出来事は、何の問題もないといった感じで、受け答えをした。
    彼の、そののんびりとした言い方と、緩慢そうな態度に、自分としては、少し苛立ちを覚えない訳にはいかなかった。
    自分としては、どちらかといえばせっかちな方で、なんでも自分でやらないと気が済まない性格の持ち主なので、この医師の、あらゆる部分を見ても、全く自分とは相いれられそうにないようだ。
    「でも先生、自分が一体なんでここに居るのか、とか、そもそも自分が何者なのか、はっきりわからない状態なんですよ。これは、どういうことなんですか」
    「そういったことの、ある程度の説明と、今伊吹さんが置かれている状況を、明日個人面談の機会を作りますから、とにかく今日はゆっくり一日を過ごして下さい」
    そう言うと、彼は同室の他の患者を診て回り、何人かの看護師が私の血圧だの体温だの決まりごとのような検診を行い、彼らは出て行った。
    その回診のおかげでもう一人の若者の名前が熊野という事はわかったが、結局、自分の置かれた状況が、どうしても理解することが出来なかった。
    戸惑っている私を眺めて山内さんが
    「まあ、伊吹君、先生もああ言ってるんだし、今日はゆっくりして、時間持て余したら庭でも散歩して過ごせばいいよ」
    私が、その言葉に誘われるように庭の方を向くと
    「そうそう、ちなみにあの木はハナミズキだよ。さっき何だったっけって言ってたじゃないか。
    以前身近に感じてた樹木じゃないのかな。君の口調からしてそんな感じがしたけど」
    「ハナミズキ、ハナミズキ、ハナミズキ、そうだ、ハナミズキだ。花のように見える部分は実は花ではなく、葉で、その中心の本当の花がある」
    その名前を口にした途端、まるでそれがスイッチであったかの如くに、私の頭の中にハナミズキがフラッシュバックしてきた。そしてそこに満面の笑みを浮かべた女性が佇んでいる。
    その顔が、私の頭の中に浮かび上がった途端に、私の胸はまるでそのか細い、ちょっと強く掴んだら折れてしまいそうな指先で心臓ごと掴まれたような息苦しさを覚え、その苦しさから逃れるために私は思わず荒い息遣いになってしまった。
    そんな私の様子をみて、山内さんが心配そうに私の方を見つめている。
    「おいおい、伊吹くんどうしたんだい急に、大丈夫かい。佐藤さんを呼ぼうか」
    「あ、いや大丈夫です。すいません。急に色んなことが頭の中に蘇ってきて。何故か息苦しくなってしまって。でも、もう大丈夫です。落ち着きましたから。すいません。ご心配かけました」
    裕子…。そうだ、あの時私が庭にいた時に、家の中から裕子が出てきたのだ。
    「どうなの。あなた。ハナミズキはちゃんと植わったの」
    「ああ、無事に植わったさ。来てごらん」
    裕子は、厚手の真っ赤なセーターを着て、首にはさらに厚手の、緑色のマフラーをまいて出てきた。
    北海道出身の裕子は、九州出身の私からすると、当然寒さには強いものだと思っていたが、全くの逆で冬の時期になると毎年必ず風邪をひいた。
    北海道だから寒さには強いのだろ、という私の冗談交じりの問いかけに対して、裕子の返答はいつも必ず決まり文句だった。
    北海道は、暖房完備で、九州みたいに部屋の中が寒いなんてことはないのよ。逆に私は、九州がこんなに寒いところなんて思いもしなかったわよ。とやり返されたものだった。
    それでも、私たちは親の反対を押し切って結ばれた中であり、幸せの絶頂だったのだ。
    「結構しっかり植えられただろ。
    素人にしては上出来だと思わないかい。
    こうやって今植えれば、今年は無理かもしれないけど、来年の春には花をつけるんじゃないか」
    「確かピンク色の花が付くんだよね」
    「そうだよ、裕子がピンク色が良いって言ってたからな。
    でもさ、あの花って思ってるのって、実は花じゃなくて葉の一種なんだぜ。その中心部分に本当の花がついてるんだってさ」
    「へぇ、そうなんだ。私たちのハナミズキが咲くのが楽しみだね」
    そうだ。
    私には裕子という、最愛の妻がいたのだ。そして、子供たちが。
    そうだ、翔太と麻里。私には愛する家族がいたのだ。
    いや、居るはずだ。私の家族達はどうしたのだろう。
    翔太は確か北海道の大学に行ってたはずだ。
    そして、麻里は地元の女子高に行ってた。
    地元で、そこそこの大きな会社を経営している私の親父のおかげで、若いのにもかかわらず立派な家を建ててもらい、親子四人で住んでいた。
    私の脳裏に、次から次へと記憶が蘇ってきた。
    まるで、私の脳みそが頭蓋骨の隙間から搾り出されてきたような感覚で、記憶が蘇ってきた。
    毎年、ゴールデンウィークと夏休みには友人家族とキャンプして、バーベキューパーティーをした。友人の家族は、子供が全員女の子でうちの翔太だけが男の子で、でもみんなまだ小さい子供なので、そんなこと気にせずに、みんなで楽しく海水浴したり、夜には花火したり、肝試しなんかもしたっけ。
    裕子の友達家族がマレーシアに転勤になったのを機会に、家族でマレーシア旅行にも行った。初めてトライしたパラセイリングの楽しかったこと。
    麻里は、まだ小さかったから一人では乗れず、私が抱っこして空中散歩したこと。
    翔太が志望校の私立中学校に無事合格したお祝いに、家族でロサンゼルス旅行したこと。
    家族の楽しかった思い出が、次から次からあふれてきて、知らず知らずの内に私の頬は、涙で濡れてしまっていた。
    しかし、そこまで記憶が呼び出されていても、何故この病院に今自分が居るのかの理由だけは、どうしても思い出せない。
    楽しかった家族の思い出と、現実の今の自分との落差があまりにも激しかったため、私は思わず頭を両手で抱え込んでベッドの上で蹲ってしまった。
    「伊吹くん、大丈夫かい。頭でも痛いのか」
    「山内さん、思い出してきたんですよ。私の妻のこと。
    私の家族のことが、今私の脳の中にはっきりと映し出されているんですよ。山内さんのハナミズキという言葉のおかげで蘇ってきたんですよ」
    「ほう、良かったじゃないか。しかしまあ、そんな言葉がキーワードだったとはね」
    「でも、肝心なことが、なんで僕がここに居るのかってことだけが、どうしても思い出せないんです。それが苦しくて」
    「まあ、伊吹くん、いっぺんになんでもかんでも思い出そうとしないでさ。さっき高岡先生も言ってたじゃないか。ここでゆっくりしてさ、じっくり時間をかけて思い出そうじゃないか。きっとまたなんかのキーワードで思い出すこともあるんじゃないか」
    山内さんはそうやって慰めてくれたけれど、私としては、この今の時間帯を逃したらまた記憶が暗い泥沼の中に、埋もれていってしまいそうで、不安だった。
    しかし、この病院での夕食を知らせる鈴の音が、そんな私の思考をいったん遮ってしまった。

    夕食も終わり、早い就寝の時間になっても、私の頭の中には、夕方の頭の中の記憶の、肝心の固く閉ざした状態の引き出しが、気になってなかなか寝付けなかった。
    ふと、足元にある山内さんのベッドを見ると、山内さんがベッドに腰掛けて、外を眺めていた。
    「山内さん、まだ寝てないんですか。どうしたんですか」
    「おう、伊吹くんもまだ寝てないのかい」
    「いや、今日思い出しそうになって、まだ僕の記憶の隅っこにある何かが表に出てくれなくて、そのことを考えると、どうしても寝れなくて」
    「そうか、そうだよな。みんなそれぞれ頭に、いや、心に抱えているものがあるからな」
    もともと優しくて穏やかな印象の山内さんの言葉は、私に話しているというよりも、自分自身に言い聞かせるように話しているみたいだった。
    私は、山内さんの姿を真似るように起きだして、ベッドに腰掛けた。
    「山内さんも、何か抱えているものがあるんですか」
    「伊吹くん、わしは昼間はあんなこと言ったけど、実はな、あれはわしの強がりみたいなもんなんだよ。
    もう、家に帰りたくて帰りたくて帰りたくて仕方ないんだよ。
    わしは、もうここに二年くらい入院しているんだけど、ここはさ、もう一種の監獄みたいなもんなんだよ。あの鉄格子をみろよ」
    山内さんはそう言って、窓にある鉄格子の方を顎でしゃくった。
    「はい、僕も、最初に目が覚めた時から不思議に思っていたんですけど、やっぱりこれはなんですか、私たちを閉じ込めているってことなのですかね」
    「そうだよ。君みたいに入院初日から家に帰るって暴れだした人間は珍しいけど、多かれ少なかれ、ここに入院した人間は、長期に渡ってしまうから、どうしてもホームシックにかかってしまう。それでも、面会に、家族の者がしょっちゅう来てくれればまだ助けは有るけど。
    もともと、頭が少しおかしくなってその治療の為に入院した連中ばかりだから、家族によっては、あんまり寄りたがらないんだよ。
    わしなんかも、最初の内は家内も子供たちも、割りとしょっちゅう見舞いに来てくれてたけど、今じゃ一ヶ月に一度来てくれればいい方さ」
    私は、自分の最愛の妻である裕子が今の私の元へ来てくれる姿を思い浮かべた。あのハナミズキを植えた時のあの裕子の、ほかの何物にも代えられないくらいの、最高の笑顔を思い出すたびに、私の胸は締め付けられてしまう。
    「多かれ少なかれ、ここに入院している連中はみんなそういう思いを持っているんだよ。この部屋の連中は比較的おとなしい連中だから、そんなに暴れることはないんだけど、他の部屋に入ってる連中の中には、丁度昨日の君みたいに帰りたくて暴れる奴がいるから、こうやって鉄格子があって、夜中にも看護師が定期的に見回りに来て、しっかり管理されているという訳さ。昨日の君の暴れ具合を見ていると、まさか我々の部屋に入ってくるとは思わなかったけどな。」
    「ここは、いったい、なんていう病院なんですか」
    「君は、本当になんにも知らないんだな。まあ、入院してきた時の君の様子では、ほとんど訳わからない間に担ぎ込まれたって感じだったからな」
    「いいかい、ここは九州大学病院だよ。もちろん君は九州にすんでるんだろうから九州大学の大学病院は知ってるだろ。その九州大学病院精神科第三病棟さ。第三病棟は完全に隔離された世界で、外に出ることも全く出来ないし、お見舞いも親族の人間でないと入れない。とにかく大人しくベッドで横になり、与えられた薬を飲み、定期的な診断を受けて改善してきたら、この先にある第二病棟、そしてさらに第一病棟へと移っていけるんだよ。
    第一病棟に行ければそこは自由に外に散歩にも行けるし、退院するのも近いということさ」
    「九州大学病院精神科第三病棟…精神科ってことはつまり…」
    「そうさ、俗に言うところの精神病院ってとこだよ。
    精神的に問題のある連中が、家族の同意のもとに、ここに強制入院させられているってことさ」
    「いやしかし、山内さんにしてもここに居るこの人達も、さっき食堂で会った入院患者にしても、普通の感じの人ばっかりじゃないですか。俗にいう精神病を患ってる人とはとても思えないんですけど。」
    「そうだろうな。伊吹くんもまだ最初だからそう思うんだよ。しばらくここに居るとだんだんみんなのことがわかってくるよ。きっとね」
    山内さんはそう言うと、再び静かに窓の外へ視線を向けた。
    その横顔は、遠く離れた我が家や家族へ、声にならない思いを送り続けているように見えた。それは誰にも邪魔されてはならない、一日の終わりにだけ許される祈りのような時間だった。
    私は黙ってベッドに身を横たえ、顔だけを窓へ向ける。
    窓には、太い鉄格子が何本もはめ込まれていた。
    昼間はただの設備にしか見えなかったその鉄格子は、夜になると別の姿を見せる。冷たく黒い影となって闇に浮かび上がり、「ここがお前たちの世界だ」と無言で告げているようだった。
    私は、その一本一本を睨みつけた。
    この視線だけで砕け散ってくれないものか――そんな子どもじみた願いさえ浮かぶ。
    だが鉄格子は、私の思いなど嘲笑うように微動だにしない。むしろ夜の闇を背負うことで、その存在はさらに重く、さらに頑丈に見えた。

    ここからは出られない。

    その無言の宣告が、胸の奥へゆっくりと沈んでいく。
    それでも、鉄格子の向こうには小さな星がひとつ、またひとつと瞬いていた。
    決して手の届かないほど遠くにありながら、その淡い光だけは鉄格子をすり抜け、静かに病室へ流れ込んでくる。
    まるで、「今はまだ終わりじゃない」と、誰にも聞こえない声で語りかけてくれているようだった。
     
    翌日、主治医である高岡医師との個人面談があった。相変わらず髪の毛はぼさぼさで、前回見た時と同じような寝癖がついていた。
    そこそこの中年の年齢くらいだろう、とは思うのだが、ひょっとしたらこの先生は独身なんだろうか。
    奥さんがいれば、少しは身だしなみのことを注意しても良さそうだけど。そんなことを考えながら個人面談室に入った私は、しかし、この医師から聞いた説明は、私を驚かせるのに充分なものだった。
    「伊吹さん、どうですか。昨日はゆっくり眠れましたか。少しは落ち着かれましたか」
    「先生、私の中の疑問が解消されないと、ゆっくり眠れたもんじゃないですよ」
    「そうですか。
    まだ、記憶にあいまいなところがあるみたいだから、伊吹さんの疑問にお答えしましょう。
    伊吹さんがここに入院された原因は、室内での炭の燃焼による一酸化炭素中毒なんです。一酸化炭素中毒により脳の一部が損傷してしまい、それによって記憶の欠落が起こっている状態です」
    「一酸化炭素中毒。なんで、私がそんなことに・・・」
    「それで、脳の一部が損傷って。それは治る見込みはあるんですか」
    「残念ながら、損傷を受けた脳はもう死んでしまっているので回復はしません。
    ただし、ご存知かと思いますが、人間の脳は、もともと脳の力の全てを動かしているわけでなく、一般的に脳の七%くらいしか活用してないと言われています。
    ですので、伊吹さんの脳の一部が損傷していても、それまで活用されていなかった脳の部分が、その損傷された脳をカバーするように働きますから、日常生活で普通に生活する分には、なんの支障もないようになるはずです。
    とにかく、この病院でゆっくり静養することによって、その脳が充分にカバーできるようにすれば大丈夫ですよ。
    それに、失われている記憶も徐々に回復して来ますよ」
    「それにしても、何で室内で炭が燃焼したりしてたんでしょうか。キャンプとかに行ってバーベキューとかは良くやってましたけど、今どきの家で炭を室内で焼くなんてのは普通ないですよね」
    その時の高岡医師の、なんとも言えない顔のゆがみを、私はその時は気が付かなかった。
    しかし、それまで私の顔をしっかりと見つめて話していたのに、その私の質問をした途端に私の視線を外して、何とも言えない表情をしたのを、不思議な思いでみつめていた自分がいた。
    「そこいらは、私どもは把握しておりませんで、とにかく発見されたお姉様が救急車を呼んで、貴方をここまで運ばれたということなんですよ」
    「私の姉が…。そうだ、裕子は、私の妻はいつここに来れるんでしょうか」
    「それはまあ、洗濯物とかあるでしょうから、ここ二~三日うちには一度こられると思いますが。伊吹さんが緊急入院されてから、しばらくは昏睡状態だったので、翌日来られた奥様には、先ほど伊吹さんに説明した内容の可能性があることを申し上げました」
    「子供たちは、私の子供たちはその時は一緒じゃなかったのでしょうか」 
    「その時は、奥様はご友人と一緒に来られておりましたが、お子さんは見当たらなかったですね」
    まあ、麻里は学校だし、翔太は大学だからそう簡単には来れないだろうというくらいは理解できたが、やはり若干の寂しさを感じないわけにはいかなかった。
    「そうですか。それで、先生、私はいつごろ退院できる見通しなんですか」
    「伊吹さん、まだ入院して四~五日しかたっていないわけだし、さっきも言った通り、脳の一部が破損しているわけで、そう簡単に脳の他の部分にさっさと代替出来るもんじゃないですよ。
    だから、少しずつ少しずつ治していきましょう。
    ここでゆっくりした毎日を送っていけば、いずれはちゃんと社会復帰出来ますから」
    社会復帰…私はそれまで新聞やニュース等で聞いたことのある、しかし、自分の身には全く無縁であったはずの“社会復帰”という言葉に少なからずショックを感じた。
    「ちょっと待って下さい。先生。という事はですよ、私がこの病棟を退院する見込みは全く立っていないと、そういう事なんですか。
    なんらかの治療の計画とか、予定とか、見通し、みたいのはついているでしょ」
    もともと、この高岡医師の態度に苛立ちを覚えていた私は、この面談の場でやはり徹底的にこの医師とは相いれられない、という確信を持ち、自然と厳しい口調になってしまった。
    それでも彼は、そんな私の気持ちをまるで意に介さない様子で、そんなところがまた私の苛立つ気持ちに火を付けているのだが。
    「いいですか、伊吹さん。あなたは極端な言い方をすると、生死の境をさまよっていたんですよ。
    いや、決して極端な話しではなく、もしお姉さんが発見するのが後一時間遅れていたら、本当に危ないところだった。
    そんな状況に居た人が、そう簡単にさっさと退院出来る訳ないじゃないですか。とにかくじっくり治しましょう」
    高岡医師との面談を終えて病室へ戻った私は、何とも言えない絶望感に包まれてベッドに横になった。その時窓から見えたハナミズキの花は、その時の私の悲しみを知ってか知らずか風に揺られ、なお一層のピンク色をきらめかせていた。
     
    その日の午後私がまだベッドに寝込んでいた時、ふと目を覚ますとそばに春物の明るいピンク色のセーターが目に入ってきた。
    「ああ、裕子…。来てくれたのか。ありがとう」
    裕子の顔からは、私の記憶に中にあるあの笑顔は見えず、まるでこの病院に勤めている清掃の女性のように、私の汚れたシャツやらタオルやらを、黙々と袋に入れているところだった。
    同室の山内さん達は、わざと気をきかせたのかどうかわからないが、皆不在で病室の中は私と裕子の二人きりだった。
    「裕子、子供たちは。翔太や麻里は元気にしているのか」
    「そりゃ、真面目に学校にも行ってるわよ。翔太は北海道だから詳しくは聞いてないけど。実家の母からは元気にやってるって聞いてるわ」
    「今日、主治医の高岡先生から聞いたんだけど、俺は一酸化炭素中毒で倒れたんだって。
    なんで部屋の中で炭なんか炊いたんだろうか。そこのあたりが全く記憶にないんだけどなあ」
    その時の、私の目の中を覗き込むように睨んだ裕子の視線に、私は驚いてしまった。
    「あきれた。先生が言ってたけど、やっぱり、あなたは全然覚えていないの?あなたは、わたしとまりを捨てたのよ。
    家族を捨てて、昔の自宅で自殺をしようとしたのよ。あなたは現実から逃げようとしたのよ」
    「えっ、なに! 自殺…?俺は自殺をしたのか」
    「あなた、本当に覚えていないんだ」
    裕子が見せたその時の瞳の変化に、私は後で理由を見つけることになるのだが。
    「あなたは自分が会社を経営していて、その会社がおかしくなって私たちを不幸な目に合わせて、そうしておいて自分だけさっさと現実逃避しようとしたのよ。
    わたしも、まりも、あなたのその仕打ちには相当怒りをおぼえているのよ。わかってるの?」
    「その自殺だって、中途半端で下手に生き残ってしまってるから、こんな病院にまで入院して、私も洗濯物だとか入院の手続きだとか、大変な目にあってるんじゃない。私たちはあなたのことをあてに出来ないから、生活の為に私が働かないといけないじゃない」
    私は自分の頭の中にある、あの優しかった裕子の姿と今の姿が、どうしても結び付けず、目の前がかすんでいくようだった。
    「まったく、どうせ自殺するなら、首つり自殺でもしてくれた方が良かったのよ。こんな後々まで手間のかかることになってしまうなんて」
    そう言いながら、裕子は、私の洗濯物をたたんだ紙袋を持って立ち上がった。
    「裕子、ちょっと待ってくれ。もっといろいろ教えてくれ。俺は何をやってたんだ。そして何をやったんだ」
    「急いで帰らないと。仕事があるから。それに今日は、徳井さんに送って来てもらってるし、徳井さんが待ってるのよ」
    その時の裕子はあわてて私の視線を外し、私の言葉を待たずに病室を後にして出て行ってしまった。
    私は、自分の頭の中にある裕子の思い出と現実の姿の余りのギャップに、愕然としてしまった。
    徳井さん…徳井さん…徳井…徳井…
    そうだ!思い出した!
    俗に言うバブルの崩壊が始まった平成三年。私が父の起こした会社を引き継いで、その後順調に業績を上げていたにも関わらず、金融機関からの融資回収の動きが活発になってしまった。私の会社もご多分に漏れず、金融機関の手のひらを返したような対応に苦労し、連日金融機関廻りを余儀なくされたのだが、その時に私の昔からの友人の誘いについ乗っかり、マルチレベルマーケッティングを主催するニューワンズという会社の会員になってしまったのだ。
    マルチレベルマーケッティングといえば聞こえは良いが、要するにその仕組みはねずみ講と同じである。もちろん、普通であれば、そんな仕組みのビジネスの話を聞いても鼻で笑ってまともに聞く耳はなかった。
    しかし、本業の資金繰りが大変な時期に聞いたその話はとても魅力的であり、紹介されて参加したセミナーでの、元銀行マンの話す内容にはとても説得力があった。
    ニューワンズの仕組みは、とにかく提供する商品を購入する自分のダウンという仲間を作って、そのダウンの購入代金の一部が紹介者に入るというよくある「その手の話」であった。
    そして、その私のダウンの中に居たのが徳井という人物であった。もともとその徳井の奥さんが裕子の友人であり、我々の子供たちの幼稚園での母親仲間であったのだ。
    その徳井は、父親からの資産を受け継ぎ、いわゆるビルのオーナーとして決まりきった仕事をしていた訳ではないので、ニューワンズの話しを聞いた時には、面白そうだという感じで、その後しっかり活動の中に入っていった。そして当然の事ながら、裕子とも相当に親しい間柄となっていったのだ。もともと裕子は性格が明るく、いわゆる皆から好かれるタイプであり、その当時の、徳井の妻のもつ、気の強さに辟易していた徳井の気持ちが裕子に向っていったのに、時間はかからなかった。
    私があれだけ愛して、そして彼女もきっと私のことを愛していると信じていた彼女は、私の会社がおかしくなり、月々の給与の支払いもそれまでのように順調にいかなくなり、そしていよいよ自宅を処分しなくてはならなくなった状況に陥ると、私に対する気持ちが確実に離れていくのが明らかになってしまった。
    毎日毎日、金融機関との交渉に疲れて帰宅し、自宅でも明るい会話もなく、そんな状況である私と違い、徳井は持ち前の明るさと経済的なバックボーンに恵まれ、明らかに裕子の気持ちは彼に傾いていった。私は何度もそのことで裕子を責め、そしてますます私から遠ざかるという悪循環を繰り返すばかりであった。
     私はある日思い切って徳井の妻であるみのりに、徳井と裕子の仲を何とかできないかと相談しようとした。もともと、みのりも徳井と一緒にニューワンズのリクルート活動をしていたので、私の誘いにも気軽に応じてファミリーレストランで会うことは容易だったのだ。
    みのりは相変わらず、デニムパンツにピンクのⅤネックニット、コンバースのスニーカーというボーイッシュないで立ちで、時間通りに現れた。
    いかにも気が強そうな、ちょっとつり目で、しかし、その割りには大きな瞳は、私を見るときにも少し微笑んで、その時はまだ親し気な雰囲気を醸しだしていた。
    「今日はどうしたのよ。裕子ちゃんは一緒じゃないの。それに、今度のミーティングは来週じゃなかったっけ?」
    彼女はそう言いながら、私の座っているテーブルの真正面に座った。
    「みのりさん、君は気がついているのかい」
     気が強く、しかも頭の回転の速い彼女に下手な小細工はしない方がいい、と判断した私はストレートに話し出した。
    「気がつくって、どういうことよ」
    「裕子と君の旦那との関係だよ」
    「え。なにそれ?わたしの旦那と裕子ちゃんの関係ってどういうことよ」
    さきほど浮かべていた親し気な雰囲気は、彼女の顔から完全に消え失せていた。
    「みのりさん、君は僕がこのニューワンズのビジネスをなぜやり始めたか、知ってるかい」
    「裕子ちゃんから少し聞いてたけど、お父さんから引き継いだ会社がうまくいってないんだって?」
    やはり、裕子はそんな家庭の事情まで話していたかと思うと、恥ずかしさというより、怒りがこみあげていた。
    「そうさ、うちみたいな小さな中小企業でも、バブル崩壊の影響が及んでいるんだよ。別にバブルの波に乗って借り入れを増やしたわけじゃないのにな」
    「それと、うちの旦那と裕子ちゃんと、どういう関係があるのよ」
    「だからさ、会社が厳しくなって、俺の収入も厳しくなり、まあ、だから俺もニューワンズのビジネスに手を染めた訳だけどさ。裕子は一時的にせよ生活が厳しくなったことに耐えられなくなって、俺との間もぎくしゃくになって、そんな時に、君の旦那がいろいろ手を差し伸べているようなんだよ」
    「手を差し伸べているって、それは、みんなで一緒にニューワンズのビジネスをやってる仲だし、助け合うこともあるんじゃない。
    それを変な想像してるのは伊吹さん、あなたの見方がおかしいんじゃないの」
    彼女は、持ち前の気の強さを発揮して、全く私の話に耳を傾けるどころか「そんなに奥さんの事が心配なのなら籠に入れときなさいよ」と罵倒される始末であった。
    ニューワンズではそれなりに仲間が増え、そこそこ収入も上がっていたのだが、さすがに前の会社で社長をやってた時の給料には比べられない程の低収入であり、そして、裕子は、その安い収入に合わせた生活水準に自分を合わせることが出来なかったのだ。

    そんなことがあって間もないある日、そのニューワンズでの仲間である松永から呼び出しを受けた。
    その松永は徳井と気が合うのか、同じグループに所属していたこともあって、普段からニューワンズとしての活動を共に行っていたのだった。
    「伊吹さん、友人として言わせていただきますけど、あんまり奥さんの裕子ちゃんを束縛するのは止めませんか。
    裕子ちゃんは旦那の束縛がひどくて、毎日毎日憂鬱な日々を送ってるって我々に相談されたんですよ」
    もともとこの松永という男は、大工あがりの男だった。もちろん、大工と言っても確固たる信念をもって、大工という職業に誇りをもって日々を過ごしている人は立派で尊敬に値する。
    だが、松永という男は仕事に対する誇りとかポリシーなどとは全く無縁の男で、話をしていても言語明晰さのかけらもなく。それでいて自分を大きく見せようとする程度の低さに、いつも辟易させられる男だった。
    基本的に着ている服は、チンピラ風の派手なスーツを着て、胸をはだけたシャツを着たり、とにかく女好きのフェロモンを存分に醸し出しており、私に言わせれば、明らかに軽薄な印象の男であった。
    そんなところが、同じく軽薄な徳井と、話が合ったのだろう。
    その日も、真面目な話し合いをする、と言いながら、まばゆいばかりの緑のジャケットに、縦じまのシルクのシャツを、胸をはだけて話し始めた。
    この男は、本当に一歩間違えれば一昔前のチンピラそのものだ。今どき、やくざさんでもこんな目立つような恰好はしないものだが…
    私はこの男の顔をじっと眺めていると、その顔が徐々にロバのような顔に変わっていくのを感じた。
    これで奥さんは、銀行に勤務しているらしいけど、どうしても、ロバ男が銀行勤務の女性と歩いてる姿が想像つかない。
    真面目な話をしているにも関わらず、そのことを考えて思わず吹き出しそうになっていた。
    つい、若気てしまった私を見て、ロバ男は言った。
    「伊吹さん、分りますか。私たちは伊吹さんご夫婦の事を、仲間として心配してこうしてきているんですよ」
    「私たち?という事はあんたと徳井と二人がかりで俺の女房にちょっかいかけようとしてるのか?
    そもそも徳井が既婚者のくせに人の女房にちょっかいかけて、それに女房がのっているのが問題であって、俺が自分の女房を束縛しているという事実はないだろ。
    自分の女房が他の男と親密になろうとしているのを止めさせようとするのは、夫として当たり前の事だろうが。
    それとも、あんたは自分の奥さんが同じ職場の男といい仲になっても関係ないというのか?」
    「徳井さんと裕子ちゃんがそういう怪しい関係になってるなんて、ほんとの事じゃないんじゃないですか?伊吹さんの考えすぎでしょ」
    私は、最も私が軽蔑するタイプの、このロバ男からそういうことを言われることが、どうしようもなく我慢が出来なかった。
    「だいたいさ、あんたは一体何を言ってんだ。そもそも我々夫婦の問題になんで他人のあんたが介入するんだよ」
    「他人っていったって、僕たちは同じニューワンズの仲間じゃないですか。
    同じ志を持った仲間が、苦しんでいるのを黙ってみてられないんですよ。
    とにかく伊吹さん、奥さんをこれ以上束縛するのは止めた方がいいですよ。
    裕子さんは、伊吹さんはとてつもなく自分勝手で困っている、って悩んでましたよ」
    ロバ男は、まるでゲームのラスボスと戦っているかの如くに、声を徐々に荒げていた。
    「自分勝手って、自分勝手に女を作って、奥さんを泣かせている奴に言われたくないね。
    徳井からも、あんたのことはよく聞いてるぞ。人のこと言う前に、先ず自分がそういう自分勝手な行動を改めたらどうだよ」
    この男の女癖の悪さは、徳井に限らず、いろんな人から聞いていた。
    そんな指摘に、さすがに痛いところを突かれたと思ったのか、まるで捨て台詞のごとくに
    「ま、と、とにかくですよ、裕子さんを大事にしてください!」
    そうやって、大工のロバ男は言うだけ言うと、まるで正義の味方を演じた自分に酔った様な足取りでその場を離れていった。
     
    「そうだ……そうだったんだ」
    裕子が病室を出ていくと同時に、それまで頭の中を覆っていた濃い霧が、風に吹き払われるように音もなく消えていった。
    次の瞬間、封じ込められていた記憶が、堰を切った濁流のように押し寄せる。
    差し押さえられた我が家。
    まだ競売も終わらず、主を失った静かな家。
    誰もいないリビング。
    四人で笑い合った食卓。
    養生テープを貼り巡らせた窓や扉。
    掌の上に積み重ねた大量の睡眠薬。
    赤く熾った七輪の練炭。
    家族や友人たちと囲んだ、あの楽しかったキャンプの思い出が、一瞬だけ胸をよぎり、その直後、白い煙が部屋を静かに満たしていく――。
    「そうだ……」
    思わず漏れた声は、自分でも驚くほどかすれていた。
    私は、裕子を失った。
    誰よりも愛し、人生のすべてだと信じていた女性の心が、私から離れていく現実に耐えられなかった。
    あの日、私は自ら死を選んだのだ。
    そして、死にきれなかった。
    だから今、この九州大学病院第三病棟の病室で、生きながらえている。
    私はその時、窓の外を眺めると、あのハナミズキの花のピンク色が、私の目の中に吸い込まれるように変形していった。
    そして、そうだった、あの時、あの後、私は見てしまった。
    あの時の恐ろしい出来事も、ついに思い出し始めた時、私の身体に異変が起き始めた。
    眺めていたハナミズキの花が歪みはじめ、目の前に星形の斑点が点滅し、頭痛が襲ってきた。
    それと同時に、手足が急に震えだし、息が荒くなってしまった。
    様子を見に部屋に戻ってきた山内さんが驚いて駆け寄ってきた。
    「伊吹君、どうした。大丈夫かい。今看護師さんを呼んでくるからな」
    そして私の記憶はそこで止まってしまい、目の前から全ての物が消えてしまった。

     次に目を覚ました時、私の顔を覗き込んでいたのは裕子でなく別の女性だった。
    「目が覚めた?大丈夫だった?」
    そこには確かに私の記憶にある懐かしい顔があった。
    「姉貴、どうしてここに…」
    「病院から連絡があったのよ。
    奥さんに連絡取れないから親族である私に来てくれって言われて、慌てて駆け付けたのよ」
    そうか、私は、とうとう思い出してしまったあの恐怖にうちのめされて、そのまま意識がとんでしまったのだ。
    「まったく、せっかく私が家で倒れていたあんたを見つけてやって、助けてやったのに、また倒れたのかと思ってびっくりしたわよ」
    「え、じゃあやっぱり姉貴が俺を最初に見つけてくれたのか?」
    「やっぱり覚えてないの?記憶障害があるって、先生が言ってたけど本当なんだ」
    「いや、てっきり女房が先に俺を見つけてくれたのかと思ってたけど…」
    「いい、あんたが私との約束をすっぽかしたから、朝から何回電話してもつながらないし、おかしいなと思って裕子さんに連絡取ったけど、前の日から帰ってきていないっていうし、どうもおかしいなと思って昔のあんたの自宅に行って私が発見したのよ。
    まったく、会社がおかしくなったくらいであんなことするなんてあんたはどうかしてるわよ」
    いや違う。わたしは会社がおかしくなって自殺を謀ったのではない。経済的な損失はその後の努力で挽回できる。
    それも、夫婦で手を携えてやっていけば、生活水準は落ちるもののなんとかやっていけるものだ。
    私の絶望感はひとえに裕子の心変わりにあるのだ。
    「裕子さんはちゃんとここに来ているの?
    裕子さんにいろいろ連絡取ろうとしているけど、なかなか携帯も繋がらないし」
    「姉貴、いろいろありがとう。
    裕子のやつは、俺が自殺未遂したことで、ショックを感じてふさぎ込んでんだろうと思うよ。
    勘弁してやってくれ」
    裕子の裏切りに、私の方が相当なショックを感じているにも関わらず、何故か、彼女を擁護している自分が、より一層情けなかった。
    「でも、こんな時にあんたを支えてやるのが、妻としての役目じゃない。
    だからお父さんが、あの女との結婚に反対してたのよ。経営者の妻としての資質に欠けるから、まさかの時に力になってくれない女だ、としきりに言ってたじゃないの。
    それをあんたが見かけだけで選ぶからこういう一番大切な、家族のピンチの時に支えてくれないんじゃないの」
    私は返す言葉がなかった。確かにそうだ。私が裕子を父に結婚相手として紹介して、父が裕子に経営者の嫁としての心がまえをあなたはどう思うか、と質問した時の裕子の答えは、「そんなことはわかりません」だった。
    父としては、当然サラリーマンと違って事業家というものの辛苦を、骨の髄まで知っていた身から、「夫を支えて頑張ります」の一言を聞きたかったのだろうと思う。
    その後、父はあの女は、経営者の妻としては全く不適格である、という烙印を押して、結婚に大反対だった。
    俺がこれから教育していくから、と父を説得してなんとか結婚出来たのだが、その妻が、会社がおかしくなって家族がピンチになった時に、まさかその苦労から逃げて別の男に乗り換えたなんて、私にはとても信じられなかった。
    だが、やはり自分ひとりの力で財を成した父の判断は正しかった。その父も五年前に亡くなり、私がそこまで想って結婚した裕子に裏切られる姿を見せずに済んだのは、せめてもの慰めだろう。
    「いい、主治医の高岡先生とも話したのだけど、あんたが退院出来るまでには回復状況に応じて、自宅に外泊を少しずつ重ねていく必要があるらしいけど、裕子さんは自宅に帰すのを拒否しているらしくて、このままでは全く退院できる可能性がないらしいのよ。先生も困っているらしいわ」
    そういえば、この施設に何年と入院している患者もいる、と山内さんから聞いたけど、そういう手順を踏まないと退院できないから、家族から受け入れを拒否された結果があの連中なんだ。
    「だから、先生に頼んだのよ。
    身内なんだから兄弟でも良いんじゃないですかってね。
    私があんたを引き取って、外泊させてやるから、なんとかそれでここを退院できるように頑張ればいいじゃん」
    そうだ。私は全てを思い出した。
    死ぬほど愛していた裕子が、私を捨て別の男の元に走ったという事実に、どうしても耐え切れなかった。
    そして、やがてとてつもない絶望感と彼女への怒りに押しつぶされた私が選んだのは、死を選ぶことによる復讐だったのだ。
    自分の行いが、かつて愛した男を死に追いやった、という負い目を一生抱かせてやりたいという復讐心だった。
    そして私は、練炭に火を付けて、睡眠薬を飲んで眠りについた時、その影響で朦朧としていた時に、薄れゆく意識のもとで、物音が聞こえ、やがてそれが会話だということが分ってきた。
    身体はまるで金縛りにあったように、自由が利かなかったのだが、その時私の焦点の合わない目に入ったのは、あの愛する裕子と徳井の姿だった。
     
    「やっぱり、こんなところにいたのね」
    「おい、裕子ちゃん、すぐに救急車を呼んだ方がいいんじゃないかい」
    「いいのよ、この人はこのまま死んでいった方が幸せなのよ」
    「いいのかよ。もしばれたら、それこそ遺産狙いというように周りの人から言われてしまうぞ」
    裕子は、こんな時にも頓珍漢な話ししかできない、この徳井という男の馬鹿さ加減に辟易してた。
    この男に伊吹の半分でも明晰な頭脳があればいいんだけど。
    まあ、その分、人畜無害で私も操り易いからその方がいいのか。そんなことを密かに考えている裕子だったが、そんな表情はおくびにも出さなかった。
    「あのさー。周りの人から言われるって、もし、死にそうな人を何も助けてやることをしなかったら、人になんだかんだ言われる前に警察沙汰になるでしょ。
    自殺幇助とか言われる可能性もあるし。全く、なに言ってんの」
    「えっ!警察沙汰!それは怖いよ」
    「今更なによ。じゃあ、今すぐ助けてあげれば。
    その代わり、もう私はあなたとは別れることになるけど」
    「いや、それは・・・」
    「この人はもう会社も駄目にして借金だらけなんだから。
    このまま死んでくれれば、私もはれてあなたと一緒になれるし、そうすればあの貧乏暮らしから抜け出せるのよ」
    「なるほど、じゃあこのままにして望んだとおり、あの世に行ってもらえばいいか」
    「そのかわり、あなたはちゃんとあのみのりさんと別れて、私と一緒になってくれるんでしょうね。
    今更出来ないなんて言わせないわよ」
    「あ、ああ、大丈夫だよ。
    あいつとはもう既に夫婦とは言えない程冷え切っているからなあ」
    「それを聞いて安心したわ。
    さ、私たちも早くここから出ましょう。早くしないとこっちも倒れてしまうわよ」
    そして二人は、死にかけた私をそのままにして出ていったのだ。
    部屋を出ていくときに裕子は動けなくなって焦点が定まっていない、半開き状態の私の目を覗き込むように眺めて、徳井と出ていった。
    その瞬間、私は右手を上げて裕子の左手をつかもうとした。
    だが、私の右手は虚しく空を切るばかりだった。
    いや、自分ではそう思っていたのだが、実際には空を切るどころか、全く動かすことさえ、できなかったのだろう。
    その時に見せたあの彼女の眼つきが、今、はっきりと思いだされてしまった。
    かつて、私を深い愛情を持って見つめてくれていた彼女の瞳の奥には、その時には、狂気を思わせる炎が燃えたぎっていたのだ。
    すべてを思い出した今、私はこのままでは終わらせられない、と心の中で強く思った。
    このまま私だけが消え去って裕子と徳井が一緒になる事は絶対に許されない。
    徳井はまさか、本当にあの気の強い妻のみのりさんを追い出して、裕子と一緒になるつもりだろうか。それともこの状態のまま、愛人として裕子と付き合っていくのだろうか。ニューワンズの中で、徳井と付き合った期間は三年ほどで、完全にその性格をつかんだわけではないが、その友人の松永と同じように軽薄を絵にかいたような男だ。
    その時その時の感情に流されて物事を進めていく。
    みのりさんを追い出すことなんて、なんとも思っていないだろう。
    しかし、あの気の強いみのりさんがはいそうですかと簡単に離婚に同意するとは思えない。
    もし、徳井から離婚の話しが切り出されたら、みのりさんはどうするだろうか。
    私が相談した時に、もっと真剣に話しを聞いておけば良かった、と後悔するのだろうか。それとも、私があれだけ悩んで相談したことも、すっかり忘れてしまっているのだろうか。
     
    私は姉に言った。
    「姉貴、今更だけどごめん。申し訳ないけど、宜しくお願いします。
    このままではおやじに顔向けできない。なんとか、人生を、もう一度やり直したいから助けてくれ」
    そう、私はもう一度やり直すのだ。
    その為には、絶対にやり遂げなくてはならないことがある。
    「もちろん、あんたがそんなに思っているんなら、姉としてできることはやってあげるわよ。
    でも。裕子さんとのことは、本当に真剣に考えなさいよ。
    あなたと翔太君や麻里ちゃんのことも含めて、どうすれば一番いいのか、しっかり考えなさいよ」
    「そうだな。裕子のことはよく話し合うことにするよ」
     姉の前では、無難な態度取っていたが、私の心の中にはもうすっかり黒い思惑が充満していた。
    その日の夜、同室の皆の吐息が聞こえるころ、私はじっと天井の一点を見つめていた。
    そうして、その時、私の瞳の奥にも、あの時、裕子の瞳の中で見たのと同じような、狂気に満ちた憎悪が渦巻いていた。

    第三章 The Dark Side of the Moon

    「おじちゃん、今日はスーパームーンだよ」
    伊吹信二がなんとなく窓から薄暗くなってきた外を眺めていた時、いつものようにジーパンにTシャツという身軽な格好をした事務員の宗像彩音が帰り支度をしながら声をかけてきた。
    「おじちゃんじゃなくて、所長だろ」
    一応事務員なんだから、事務所の中では所長と呼ぶようにと言ってるのに、いつまで経ってもおじちゃんと呼ぶ彼女を睨みながら伊吹が答える。
    「はいはい、でもやっぱりお客さんいない時はおじちゃんでいいじゃない。しかも、もう五時過ぎだよ。仕事外の時間でーす」
    「お、そうかもう五時過ぎたな。でも、今日がスーパームーン?そうだったっけ」
    「そうですよ、今日のスーパームーンは二十四年ぶりの、特に大きな皆既月食になるんだって」
    そう言われて伊吹は、朝刊の三面記事にそんなことが書いてあったのを思い出した。
    「ふーん、じゃあ綾ちゃんは今日は、早く帰って、ご主人と子供達と、皆で既月食観察を楽しむって訳か」
    「そういうことです。うちの旦那も、今日ばっかしは、子供達と一緒に見るのを楽しみにしているみたいだから、早く帰ってくると思いますよ。所長も、今日くらいは真っ暗になる前に、早く帰ってくださいよ。独りもんで気軽だからって、いつまでも事務所にいるのは健康によくないですよ」
    小さい頃から知っている彩音からそういうふうに言われると、まるで別れた女房が引き取った、自分の娘に言われてるようで、嬉しいような、恥ずかしいような、微妙な感覚におちいる。裏切って別れた女房のことは許せなくとも、娘のことはやはりかわいかった。娘との思い出がどうしても頭から消えず、彩音を見ていると、その娘のことが頭に蘇ってくる。
    「それに、皆既月食の皆既って、奇怪な意味の怪奇だという説もあって、恐ろしいことが起こるかもしれませんからね」
    「へえ、そんな言い伝えがあるのかい」
    「そうですよ。あの見事な、大きな月を見ていたら、人間の神経が刺激されて、なんか恐ろしいことを起こしそうになるんですって。満月の夜は、犯罪率が上がるって話、聞いたことありませんか」
    そう言いながら、そのか細い腕をさすりながら、ハンドバッグを肩にかけて、早々と出口へ向かっていた。
    「じゃあ、所長、お先に失礼します」
    宗像彩音が出ていくと、ひとり残った伊吹は自分の椅子に座って、急に静かになった事務所の中、暗闇に沈んでいこうとする外の景色に目を戻した。
    時に騒がしいと思うことがあっても、彩音の明るさのおかげで、この暗い事務所も、かろうじて正常な毎日を保っていられるのかもしれない。
    彩ちゃんを雇って正解だったな。つくづく伊吹はそう感じた。特に事務員を雇わないといけないほど忙しかったわけではなかったが、たまたま立ち寄ったコンビニで、レジにいた彼女と遭遇したときは驚き、懐かしさで立ち話しをしたとき、彼女が転職を考えてると聞いた。
    元々彼女は、伊吹の娘と幼馴染で、小さい頃からよくお互いの家族間で行き来していた仲だ。
    おじちゃんおじちゃんと、小さい頃から伊吹を慕っていてくれていた。
    一方、麻里は東京の大学への進学が決まり、春から一人暮らしを始める予定だった。
    しかし、その頃、徳井はみのりとの離婚を機に福岡を離れ、東京に所有していたマンションで、再婚した裕子と暮らし始めることになった。
    徳井の元嫁のみのりが結局追い出される格好となり、その後、執拗に裕子や徳井に嫌がらせを仕掛けていたらしい。それに耐えられず、東京に逃げた形になっていた。
    東京の家賃は学生が簡単に払える金額ではない。
    麻里はアルバイトをしながら暮らすことも考えたが、学業との両立を思えば現実的ではなかった。
    本心では、彼らとの生活に加わることには少なからず抵抗があった。
    それでも、経済的な事情には逆らえず、麻里は徳井たちと同じ屋根の下で暮らすことを選ばざるを得なかった。
    大学生であった娘が、そういう選択をしたのはやむを得ないとしても、不倫をした挙句に離婚した妻と、一緒に生活するということに対して、伊吹としては、なんとなく不快な感情を抱かざるを得なかった。
    しかし、子供とはいえ、大学生になる彼女の意思を尊重した。そういう経緯があって、今ではすっかり疎遠になってしまったけれど、伊吹の中には、今でも思い浮かぶ、かわいい娘の面影を、彩音の中に見い出した伊吹は、ならば、うちの仕事を手伝ってくれないかと誘った。
    彩音は、最初は戸惑っていたが、探偵業という仕事の内容に俄然興味を持ち、やってみたいということで話はついた。
    探偵業といっても、今の仕事の内容はほとんどが浮気調査で、彩音の好奇心を満足させるのに十分で、彼女もやりがいを感じていてくれているようだ。元々、伊吹一人で事務所にいたが、やはり男一人でいる探偵事務所によりも、すでに結婚していて、しかも子持ちの身とはいえ、二十代とまだまだ若く、天真爛漫な彩音の存在が、もはや伊吹の探偵事務所になくてはならないものとなった。
    特に今、伊吹信二が抱えている悩みの中にあって彼女のあのあどけない明るさは、本当に救いであった。
     
    あれは二ヶ月前のことだ。大学生の娘を持つ親からの相談だった。娘が結婚したいという男性の素行調査の依頼があった。
    一ヶ月間の素行調査を実施した結果、一見真面目そうに見えるその男性には、裏で大麻取締法違反という逮捕歴があることが判明した。しかも伊吹の調査の範囲では、今でも、相変わらず大麻の販売をしているようである。その対象者は、普通のサリーマンのように髪をきれいに七三にわけ、グレーのスーツを着こなしていた。その姿を見ると、彼がまさか犯罪者であるとは調査依頼者の娘も思わなかっただろう。しかし、男は頻繁に、見るからにチンピラの連中と接触し、お金と交換にビニール袋を受け取っていた。そして、そのビニール袋を持ってある団地に訪問していたのだ。
    ――団地の主婦に販売しているのか
    伊吹は職業がら、過去に、団地内で大麻の販売がされているという情報を、警察から聞いたことがあった。
    これは依頼者に報告すると同時に、警察に通報する必要があるな、と考えていた頃だ。
    ある時、対象者を追尾していると、港近くの倉庫に入って、例のチンピラと会っていた。伊吹はすかさず、証拠写真を撮るために離れた場所から様子をうかがっていた。すると、なんと今回の調査依頼者の娘が、別の体格のいいチンピラに連れられてきた。
    娘は、脅されて連れて来られたのがはっきりわかるように怯えきっていた。
    対象者は仲間が娘を拉致したのは初めて知ったようだ。
    「陽子か」
     娘は拉致したグループに対象者がいることに驚いていた。
    「近藤さん、これはどういうこと」
    娘は泣き出しそうな声で、追尾対象者である、そのスーツ姿の男に問いただした。
    「おい、なんで陽子を連れてきたんだ」
    「近藤、もう充分楽しんだからいいだろ。そろそろこの女もいつものように落としてやろうぜ」
    さほど体格は良くないが、背中に虎の刺繍をした革ジャンを着て、いかにも強がっているチンピラが、近藤と呼ばれた対象者を説得していた。
    女を拉致してきた、一番体格のいい男は、女を革ジャンのチンピラに渡した後は、腕を組んで黙って、二人のやりとりを眺めているだけだ。
    これはやばいぞ。
    その虎の革ジャンの男はなんと、注射器を出してきたのだ。
    ――覚醒剤か?
    真面目そうな一流セールスマンを装って女性に近づき、時機を見て麻薬漬けにしてソープなどの風俗店に売り飛ばす。昔からよくあるヤクザの手口だ。もっとも最近のヤクザは、そんな単純な手法を用いる連中は少なくなったが、組の組織に入れないチンピラがそういうことをやって小銭稼ぎをしているのはまだいるだろう。
    自分の依頼者に事を報告するまでもなく、とりあえず彼女を救い出さないといけない。そう思った伊吹は、先ずは警察に通報したが、警察の到着を待つことなく、彼らのもとへ駆け出していた。怯えきって、唯一の知り合いである近藤の顔を見つめている対象者の娘の顔が、自分の娘の顔とシンクロしたのだ。
    助けなくては。そう思った伊吹はグループの人数が三人いることも、そして伊吹の何倍もあるような体格の男がいることも構わずに突っ込んでいった。
    「おい、お前たち。何をやってる」
    助けてくれる人が現れたと思ったのか娘は革ジャンのチンピラに腕を掴まれたまま、こちらに向かって大声で助けを呼んだ。
    「うるせえぞ。このあま」
    その大きな手で娘を殴り倒し、その勢いで娘は床に倒れ込んでしまった。
    「誰だ、お前は」
    「誰でもいいさ。そのお嬢さんはどう見ても無理矢理拉致されたみたいだな。しかも注射器を出してくるなんて、ちょっと見過ごすことはできんぞ」
    「おじさん、いい度胸してんじゃん。俺たち三人に一人で向かってくるなんざ、大したもんだな」
    「バカか、俺が、たった一人で立ち向かうほど向こうみずだと思ってんのか、とっくに警察に連絡して、あと数分でやってくるとわかってるから、出て来てやったんだよ」
    口から出まかせでも、こんな時は言ったもん勝ちだ。三人のうちの、一番体格のいい男以外の二人には、はっきりと怯んだ様子があった。
    「お前たちは、大麻だけでなく、覚醒剤までやってるとは驚いたよ。大麻と覚醒剤では、罪の大きさに雲泥の差があるのを知ってるのか」
    自分たちのことを知られているとわかって、明らかに動揺が走っているようだ。
    「てめえ、なんで俺たちの大麻のことまで知ってんだ」
    体格のいい男が問い詰める。
    「いいか、俺は、そのお嬢さんに頼まれて、あんたのお友達のことを調べたのさ。俺は、その娘さんさえ無事ならそれでいい。掴まりたくなかったら、さっさと消えろ」
    「おい、やばいぞ。俺はもう警察には掴まりたくない。警察が来る前に逃げよう」
    革ジャン男と近藤は、体格のいい男を引きずるように、後退りした。
    革ジャンのチンピラは、逃げながら倒れている、無防備の状態の娘の腹を、その尖った革靴で蹴り飛ばした。娘はグッという声ならぬ声を発し、蹴られたお腹を押さえて、意識が遠のいていったようだ。体格のいい男は逃げる前に伊吹の方へ突進し、思いっきり拳で伊吹の顔面を殴りつけた。伊吹は瞬間避けたつもりだったが、避けきれず、口から血を飛ばし、その場に倒れ込んだ。
    それでも、三人の逃げ出す姿を確認しながら、かろうじて、意識を飛ばすことなく娘の元へ行くことができた。
    「おい、大丈夫か。もうすぐ警察が来るから頑張るんだぞ」
    そう言いながら、遠くにパトカーのサイレンの音が聞こえた時に、伊吹は安心したのか、そのまま意識を失ってしまった。
     
    次に目を覚ました時、伊吹の前に彩音の顔があった。
    「あ、目を覚ました。おじちゃん大丈夫?」
    「ん、彩ちゃんか、ここは」
    「担ぎ込まれた病院だよ。ああ、良かった。今朝、警察から電話あった時は、さすがにびっくりしたよ。すぐ看護師さん呼ぶからね」
    「それより娘さんは無事か」
    「ああ、一緒に運ばれてきた娘さんでしょ。一応無事だけど……」
    「一応…ってどういうことだよ」
    「いや、とにかく娘さんは無事だったの。説明するから、まずは、とにかく看護師さん呼ぶから」
    その後、一通りの検査を終え、警察からの事情聴取も無事に終えて、事務所へ帰ることが許された頃には、もう夜になっていた。
    気を失っていたのは一晩だけで、しかも打撲だけですみ、特に体の他の部分に支障があるようなことはなかったようだ。
    また、例のチンピラに関しては警察でもその動向は既に把握していて、伊吹の証言で逮捕状を取ることができるそうだ。その住まいも把握しているので、すぐにでも身柄を抑えることはできるらしい。
    これで一件落着、あとは依頼主に報告書をあげるだけという段階になって、彩音から聞いた話は仰天ものだった。
    なんと、依頼主が今回の件で、伊吹に民事訴訟を起こすということだ。
    「え、訴訟? なんで俺が訴えられるの」
    彩音も、悔しそうな顔をして訴えていた。
    「そうですよ。私も必死で、依頼主さんにおじちゃんがどれだけ大変な思いで娘さんを守ったのか、一生懸命言ったんですよ。でも、あの人、なんか、付き合ってる相手がヤクザまがいの人間だったのに、それを全く自分に報告しなかったのはおかしい、と依頼主が怒っちゃて」
    「なんだよ、それ。じゃあ、拉致されていたのも、そのまま見過ごしてた方がよかったってことじゃん。あのままだったら娘さん、本当にめちゃくちゃにされて、ソープに売り飛ばされてたんだぞ」
    普段は、軽口を言い合う彩音と伊吹は、お互いに沈痛な表情になってしまった。
     
    あれから一ヶ月。どれだけ依頼者にコンタクトを取ろうとしても、すべて弁護士に頼んでいるからと言われ、肝心の弁護士は取り付く島もなく、そして本人とも全く交渉する機会もなく、いよいよ訴訟が目の前に迫っていた。
    訴訟を起こされて、敗訴でもした日には、さすがに探偵事務所としては、その悪評を取り払うのは結構大変だろう。今でもそんなに儲かっている訳でもないのに、これで弁護士雇ったりすれば、どれだけ資金が出ていくことか。そうなると考えられるのは廃業か、それかこの際思い切って大手の会社に身売りか。そんな悩みがこの一ヶ月間頭から抜けなかった。
    やっと最近になって、今まで抱えていた、別れた妻との辛い悩みからときはなれ始めていた。仕事に集中することでその辛い思いを忘れることができ始めていたのだ。
    別れた妻のことは学生の頃から心底愛していた。学生の身分で周りから色々邪推されても、学生結婚という手段を使い、彼女に対する自分の覚悟を見せたのも、ひとえに彼女を安心させてやりたいという思いからだった。無事に大学を卒業し、子供も生まれて、家族三人で幸せな家庭生活を送っていた伊吹にとって、妻の浮気はとても考えられないことだった。確かに、何一つ不自由な思いをさせないために、収入のためとはいえ、仕事にのめりこんだのは間違いない。それでも、できる限り家族のことを最重要視していたつもりだった。そんな伊吹の思いを、妻は見事に裏切って、ママ友の男と浮気してしまった。
    そんなつらさから逃れるために自殺という手段を取ってしまった。結果的には一命を取り留めたが、その代償は大きく1年もの間、精神科で苦しい毎日を過ごした。姉の助けもあって何とか社会復帰し、妻の裏切りを忘れるために探偵業をはじめ、それこそ裏切られた自分を慰めるかのごとくに必死に仕事をしていた。それなのに、またこんなに頭を悩ますことになるとは。伊吹は暗くなり始めた事務所の中で、大きくため息をついた。
    彩音に言われたからではないが、夜のとばりが降りきってしまわないうちに帰ろうと、伊吹も帰り支度をして外に出た。
    いつも、終電で帰れなくなるまで事務所にいた。あれだけ愛し合っていたと思っていた妻に見事に裏切られ、二度とそんな辛い仕打ちを受けたくない思いから、女性との接触を避けてきた伊吹は、気ままな独身暮らしに慣れきってしまい、ほとんどの時間を事務所ですごし、自宅に帰るのはもう本当に寝に帰るようなものだ。夜が遅くなると、帰る電車もなくなり、事務所の前からタクシーで帰宅する日常がずっと続いていた。今日みたいに、まだまだ電車の時間に余裕がある彼は、久しぶりにぶらぶらと駅まで歩いていた。
    事務所は家賃の安さを優先したため、最寄りの駅まで徒歩二十分、とすこし離れていたのだが、駅に着くまでのんびりと歩くには最適の距離だった。
    しかも駅に近づくにつれ、途中に様々な店舗があったり、飲食店もあったりするので、自分で料理をすることもない独身の伊吹にとって、実に都合のいいロケーションだ。
    事務所を出る頃には、すっかり夜のとばりは下りきってしまい、街灯のない場所では、周りの家庭から漏れてくる明かりが頼りになるようなところもあった。
    こんな雰囲気だと、頭の中にある、訴訟されたという事実が、伊吹の心により重くのしかかっていた。
    道路の左手に公園があり、その中にも街灯はあるのだが、街灯は道路に面していないため、今晩のように月の明かりがささないと暗闇に沈んでしまうようだ。
    なるほど、これがスーパームーンか。
    その公園にさしかかった時、街灯がないのにやけに明るく感じた伊吹は、思わず月を見上げていた。そこには明るい光を発していたひときわ大きな月があり、下の部分が月蝕により欠け始めていた。
    いよいよ皆既月食が始まるのか。
    と、そう思っていた時、左手の公園からかすかに若者の囃し立てる声が聞こえた。
    ん、なんだ。
    伊吹が目を細めてその声の方を眺めると、奥の街灯の脇で、二、三人の若者が何かを取り囲んでいるのが見えた。
    犬をいじめているのか。
    元々、猫派か犬派かと問われたら全く迷うことなく犬派、と自認してる伊吹にとって、犬を虐める奴等を放っておくことができず、公園の中に足を向けていた。
    「なんだこいつ」
    「きたねー」
    「いつからここに住んでんだ」
    口々に叫んでいる若者の声が、はっきり聞こえる距離までいくと、街灯のおかげで若者が取り囲んでいるのが犬ではないと思った時、そのうちの一人が、足蹴にしているのが見えた。
    明らかに人間だ。毛布のようなマフラーのようなものをかぶっているから、よくわからないが、ホームレスが公園にいたのを若者がからかっているようだ。
    犬ならば助けてやろうかと思って近づいたものの、ホームレスとわかって、伊吹は躊躇してしまった。
    だが、犬なら助けるけど、人間は助けないというのはないなと自分で苦笑いし、若者のところへ進んでいった。
    見ると、この前のチンピラと違い、まともな学生達のようだ。ちゃんと話せばわかってくれるとふんだ伊吹は、なるべく温厚な話し方で若者に話しかけた。
    「おい、君たち。見たところホームレスの人だろうけど、寄ってたかって足蹴にするのはあんまり良くないんじゃないの」
    急に暗闇からやってきたからか、一様に驚いた様子を隠さず、伊吹の方に顔を向ける。
    伊吹も若者が四人であることを確認したが、その中に女の子が一人混じっているのを見て心の中でため息をついた。
    「えーと、どちらさんですか」
    若者の中でリーダーらしき男がおそるおそる問いかけてきた。その横に、女の子がその男の腕を掴んでいる。見たところ派手な化粧はしているが、所詮は学生が背伸びしている感があふれていた。もっとも、ミニスカートからのぞいている足には艶っぽさがあふれていたが。リーダーの彼女ということか。
    「私は、あそこの駐在所に頼まれて、この公園を時々見回っているものだよ。なんか問題でも起こったのかい」
    「えっ、じゃあ警察?」
    別に警察って言った訳じゃないけど、勝手に想像してしまったのだから俺に罪はないだろうと勝手に納得してしまった。
    「まあ、そんなところだ。一体どうしたんだよ」
    「いや、僕らはここでただ話をしていただけなんですよ。そしたら、この人が突然やってきて、僕におかしなことを言ったから、友達が怒っちゃって」
    「おかしなこと?」
    「なんか、俺の彼女に悩みがあるから溶かしてやるとか。だからこいつが怖くなって、変なこと言うなって」
    倒れたホームレスを見ると、うずくまったまま何か独り言をつぶやいていた。そんなことなら大したことでもなく、とにかくここは大袈裟にするのは得策ではないだろう。
    「そうか、わかった。こんな夜だから、君たちも驚いただろう。ここは後を俺が引き継ぐから、君たちもそのまま矛を収めてくれないか」
    「ええ、ま、別にそれで構わないですけど」
    「ねえ、もういいから早く飲みにいこうよ」
    甘ったれた女の提案に、振り上げた拳の持って行き場に半分困っていた男は、これ幸いと同調した。
    「お、おう、お前がそういうなら」
    「じゃあ、そういうことで」
    四人はぞろぞろと繁華街に向かって歩いて行った。
    うずくまっているホームレスに近寄ると、薄い布をかぶって相変わらずぶつぶつと独り言を言っていた。覚悟していたホームレス独特の汗臭さと泥臭さはないようだ。
    「大丈夫かい」
    横たわってうずくまっていたホームレスを抱きかかえて、ベンチに座らせた伊吹は、それが女性であることに気づいて驚いた。まるでイスラム教徒がかぶるスカーフのようなものをかぶっていたのだが、その中に見えた彼女は、歳のころは八十歳を越した老婆のようだった。
    「あんた、警察って嘘だろ」
    突然伊吹の顔を覗き込むようにして、彼女が口を開いた。
    「ああ、まあ、あんたを助けるためだから嘘も方便さ。そもそもあんたは何をやったんだよ」
    「あの女の悩みを溶かしてやろうと思っただけだよ」
    「悩み? 溶かす? どういう意味だよ」
    「あの女は凄まじい悩みを抱えているのがすぐ分かった。早く溶かしてやらないと、とんでもないことになるんだよ」
    そう言いながら、伊吹を見つめる瞳には真剣な思いがこもっているようだった。それに、老婆にしてはその瞳には若々しさが宿っている。
    「はあ、でも、なんでそんなことがわかるんだ。なんか占いみたいなやつか」
    「占い? 馬鹿なことを言うな。そんないい加減なことではない。わしには分かるんだよ。そしてわしには、その悩みを溶かしてやることができるんだよ」
    要するに、溶かしてやるってのは、悩みを解消してやるってことか。
    やっぱり、ちょっと頭の飛んだ婆さんかと思った伊吹はそのまま帰ろうかと思ったが、ふと思いついて彼女の方に向き合った。
    「じゃあさ、俺の抱えた悩みを解決、いや、溶かしてくれるかい」
    半分馬鹿にしたような笑みを浮かべながら、彼女に問いかけた。
    「ふん、あんたも今悩みを抱えてることは、あんたの目を見てすぐ分かったよ。だけどな、人の悩みを溶かしてやるとわしの寿命も徐々に削られていくから、そう簡単に誰でも彼でも、溶かしてやるわけにはいかんのさ。それにあんたの悩みより、さっきの女の子の方が深刻だから早く溶かしてやらんといかんのだ。放っておいたら、次の満月が来るまでに大変なことになるぞ」
    都合のいい考え方だな、と思った伊吹はベンチから立ち上がった。
    「そうか、分かったよ。でもとにかくあんまり人を驚かせるようなことはするなよ。この公園から追い出されるぞ。こう見えても俺は探偵やってるから、警察関係にも知り合いがいる。さっき言ったあそこの駐在所のおまわりとも知った仲だからな」
    そういうと、その老婆の目が微妙に光った。
    「ほう? 探偵か。普通のサラリーマンじゃないとは思っとったが。なら、ちょうどいい。じゃあ、わしがあんたの今の悩みを、溶かしてやろう。そしたら、わしの言うことを信用して、さっきの女の子を探して助けてやれるじゃろ」
    「へえ、面白いじゃん。じゃあ俺の悩みを解決、いや溶かしてくれよ」
    売り言葉に買い言葉のようになってしまったが、いつもより早く事務所をでたこともあり、半分面白がった気が伊吹にあったことは否定できない。
    「ここに座れ」
    言われた通りに立ち上げた腰を再び落とした伊吹の頭を、老婆は両手で抱え、その額に自分の額を押し付けてきた。
    おいおい、大丈夫か
    思いもよらない行動に出られて、伊吹は頭に力を入れた。
    「力を抜いて、じっとするんじゃ」
    言われてじっとした伊吹の額に思いもよらぬ力強い手のひらに導かれ、老婆の額がくっつく。その途端、伊吹の額が暖かくなって、伊吹の頭の中に、訴えた依頼者の顔と、助けてやった娘の顔が、走馬灯のように通り過ぎて行った。
    その場面に驚いた伊吹は、思わず手で老婆を押しのけた。
    「何をしたんだ」
    目の前に現れた画像というよりも、頭の中、自分の脳に、直接反映されたような画像が現れたことに伊吹は驚いていた。
    「おぬしの悩みの種はこいつらかい。いいから、もう少しわしのいう通りにするんじゃ。まだ終わってないぞ」
    その言葉に誘われるように、また額を老婆の掌の中に任せて、彼女の額に合わせた。
    思わず目を閉じた伊吹の頭の中に、現れた依頼者とその娘は交互に現れては消え、そしてやがて二人とも消えて、真っ白な画面になっていった。ほんの数分のことだったような気がする。目を開けた伊吹の前に、老婆が大きく息をつきながら瞳の奥を見つめていた。
    「いいか、約束じゃぞ。あの女の子を探して助けてやるんじゃ」
    「しかし、お前には自分でもまだ気づいていない大きな悩みが他にもありそうじゃな。さて、その悩みがどれだけお前の中で膨らんでいくもんかの」
    老婆の声を聞きながら、伊吹の頭の中にまた白い画面が現れ、そのまま伊吹はベンチの上に倒れ、仰向けになっていた。伊吹の目に暗闇に浮かぶ満月が、まるでいかにも落ちてきそうなくらいに覆い被さっていた。月蝕が終わったスーパームーンは、輝きを増して伊吹の瞳に映っていた。
     
    「大きな悩み・・・そいつは一体・・・」
     
    伊吹の目に入っている、スーパームーンが一層光を発したように見えたその瞬間、彼の意識はどこか遠くの地へ飛んでいったように感じた。

    「所長、おはようございます」
    明るい彩音の声が、事務所の中に響き渡る。
    「おはよう。今日は珍しく朝から所長って言ってくれたな。昨日は家族で皆既月食を楽しめたかい」
    いつもにも増して、元気で明るい彩音の姿を見ると、こっちまで元気になるから不思議だなと思いつつ、受け答えする。
    「はい、でも、昨日家族で皆既月食見ながら旦那に怒られちゃいまして。そりゃ、仕事なんだからちゃんと所長て言わないといかんだろうってでした。なので、少なくとも事務所にいる間は所長で行こうと思ってまーす」
    「おう、そうか。さすが海斗くんだな。よろしく頼むよ」
    彩音のご主人である海斗くんとは何度か食事に行ったりしたが、彩音にはもったいなくらいの好青年だった。
    「あれ、所長、なんだか目の下にクマができてませんか。昨日遅くまでお酒でも飲んだんじゃないですか」
    「え、そうか?」
    そう言われて思わず目を激しく擦った。
    昨晩、あの不思議な老婆と出会い、いつの間にか公園のベンチで寝てしまっていたようで、目が覚めた時には、もう老婆の姿はなく、空が白んでいた。慌てて電車に乗り、とりあえず自宅でシャワーを浴びてまた事務所へ戻った。
    結局、あの老婆とのやり取り一体はなんだったのだろう。帰宅してシャワーを浴びた後、電車で事務所へ来る途中、あの時、頭の中に浮かんだ依頼者と、その娘のことが気になって仕方なかった。そしてその後に目に入った大きな満月。電車に揺られながら、考えると、不思議とそれまで悩んでいた気持ちに、変化が起きてきたのを感じざるを得なかった。
    あの老婆のおかげで、なんだか気持ちに余裕が出てきたような気がする。
    椅子に座ってそんなことを考えて、思わず呆けた状態になった伊吹に、事務所の電話が鳴り響いた。
    「はい、こちら伊吹探偵事務所でございます。あ、はい、お世話になっております。お代わりしますので、少々お待ちください」
    彩音が、引きつった顔をして応対しているようだ。
    「所長、例の上村弁護士さんです」
    伊吹を訴えた依頼者の弁護士だ。だが、以前ならその名前を聞いただけで、動悸が激しくなり、胸が痛くなるところだったのが、どういう訳か、今は、不安な気持ちが広がることがなかった。
    「はい、お電話代わりました。伊吹です。お世話になっております」
    そのやり取りを不安な顔で彩音が見つめていた。
    はい、はい、と受話器に向かって頭を下げながら頷いている伊吹が、受話器を切った途端、彩音が問いかけてきた。
    「所長、どうでした」
    「うん、それが、訴えを取り下げたそうだ」
    「え、ほんと、ほんとですか」
    彩音は勢いよく立ち上がると、胸の前で何度も両手を握りしめた。
    「おじちゃん、本当によかったぁ・・・。もう、ほんとうどうなるかと思ってた」
    その声は弾んでいたのに、最後は安堵で震えていた。
    ガッツポーズをする彩音を見ながら、椅子に座り込んだ伊吹は、相変わらずおじちゃんと呼んだ彩音に注意するのも忘れて目を閉じ、大きく安堵のため息をついた。
    しかし、今朝シャワーを浴びて電車で来る途中から、伊吹にはこういうことになることがわかっていたような気がする。
    あの老婆の力か。
    老婆が自分の悩みを、それこそ溶かして解決してくれたのか。
    「でも、なんで急に取り下げたりしたんですかね」
    「なんでも、助かった娘さんが危険を顧みず助けてくれた俺を、訴えるのはおかしいと父親に涙ながらに訴えてくれたらしい」
    「そうか、そうですよ、助けてくれた所長を訴えるなんておかしいですよ」
    とにかく、良かった良かったと、はしゃぎまくる彩音を見ながら伊吹はまた、別のことを考えていた。
    本当に今回のことがあの老婆の力だとすると、例の学生のグループの女の子を探し出さないといけないのか。
    しかし、見たこともない大学生の女の子を探し出すのは大変かな。そんなことを考えながら、横ではしゃぎまくる彩音を見て思いついた。そうか、ここに優秀な助手がいた。
    「なあ、彩ちゃんは城南大学の出身だったよな」
    「え、そうですけど」
    「ここから福吉駅まで行く途中にある、割と大きな公園、知ってるかい」
    「ああ、福吉中央公園でしょ。知ってますよ。福吉駅は大学に行く学生が多いし、その公園も通り道にあるし、学生の頃に飲みに行くときに、大抵あそこで待ち合わせて行くんですよ。それが何か」
    「やっぱりそうか、実はな」
    怪しまれるのを覚悟で、彩音に学生と老婆との出会いのことを全て話した。さすがに最初は怪しんでいた彩音も、現実に悩みの種であった依頼者の訴えが突然取り下げられたことや、その日がスーパームーンであったことなんかも彩音なりに結びつけて、その女の子を探すことに同意してくれた。
    「おじちゃん、わかった。その不思議な力のことはいまいち眉唾もんだけど、とにかくその子を探してみるよ。大学にまだ親しい後輩もいることだし、よく行く居酒屋とかも知ってるし、探偵彩音に任せといて」
    手をこめかみに当てて、元気に敬礼をする彩音を頼もしく眺める伊吹だった。
     
    彩音に調査の依頼をしてから三日後、朝一番で彩音が事務所に飛び込んできた。
    「おじちゃん、いや所長。わかりました。例の女の子のこと。
    城南大学のフットサル同好会にそれっぽいマネージャーの女の子がいるみたいです。いつも公園にたむろしてそれから居酒屋に行ってるようですよ」
    「そうか、さすが彩音探偵。よくこんなに早く分かったな」
    「それが、結構今ドタバタしてて、学生の中で話題になってるようなんですよ。それで、私の方にもすぐ情報が来たんですよ」
    彩音の心配顔を見て、ふと伊吹は不安になった。
    「ドタバタって、どういうこと?」
    「それが、その子が付き合ってたフットサル同好会のキャプテンって男子が、どうも浮気をしてたみたいで、それが発覚してマネージャーが半端なく、激しくそのキャプテンを追い詰めてるみたいで、大学ではその子がキャプテンをどうかするんじゃないかって、もっぱらの噂なんですよ」
    伊吹は、あの時見た甘えた感じの女の子と、その子に腕を掴まれていた細身の男の顔を思い浮かべた。あの子の悩みはそれか。
    「よし、わかった。とにかく俺はあの公園で張り込みして、その子らが来るのを待っとこう。何かあるかもしれんからな」
    「所長、やむくもに待っても仕方ないでしょ。ちゃんと調べてますよ。フットサルの試合が十日後に大学であるんです。多分、彼らはその後打ち上げをするはずですから、その時を狙ったらどうですか」
    「おお、そうか。さすがだな。じゃあその時に試合会場から追尾してみるよ」
    「わかりました。私もその時は子供を旦那に任せて、付き合いますね」
    とんでもない彩音の申し出に、伊吹は驚いた。
    「おいおい、だめだよ、それは。何があるかわかんないんだから。危険な目に合わせられないから。彩ちゃんはだめです」
    いくら好奇心満載とはいえ、さすがにそこまではさせられない。
    「えー、じゃあせめてフットサルの試合会場まで付き合わせてくださいよ。彼女たちが公園に向かったのを確認したら、私は帰りますから。大体、そこそこの歳のおじちゃんが一人で大学のフットサルの試合なんか観に行ったら、怪しまれますよ。若い私の付き添いで、おじさんが来てるって自然だと思いません?」
    こういう時の彩音は、憎たらしいくらい正論を吐く。
    「ったく、仕方ないなあ。とにかくそこまでで、後はおとなしく帰るんだぞ」
    はーいとニコニコしながら改めて敬礼する彩音を眺めて、伊吹はため息をついた。しかし、そのため息をそう嫌なものとは感じない伊吹だった。

     三日後、フットサルの試合が終わり、顔一面に不満な表情を浮かべている彩音をとにかく言いくるめて帰すと、伊吹は彼らを追尾した。予想通り、マネージャーとキャプテンを含めたメンバーは、打ち上げのようで居酒屋に向かった。これでは例の女の子とコンタクト取るのは結構難しい。やはり彩音も連れてくるべきだったかなと焦り始めていたところ、途中、例の公園に差し掛かった時、他のメンバーを先に行かせて、マネージャーとキャプテンが公園の中に進んでいた。周りは夕方とはいえ、薄暗くなって、公園の街灯があるところでないとどんな状態なのかもよくわからなくなっている。そして、予想していた通り、マネージャーとキャプテンの深刻そうな話し合いが始まっていた。マネージャーからは以前の時のような甘ったれた話し方は完全に消え失せている。
    「恵理那、一体のなんの話だよお。そもそも最近のお前はおかしいんじゃないか。なんでそんなに機嫌が悪いんだよ。マネージャーとしての仕事も中途半端になってるし、みんなおかしいって言ってるぞ」
    「そんな言い方ないでしょ。だいたい、明人くん、あなたは、私との約束を忘れたの。いつまでも私のことを大事にするっていう約束は、どうなってるのよ。来年卒業したらすぐに結婚するって話だったでしょ」
    「結婚?そんな話したっけ?俺はやっと就職が決まって今から頑張って社会人になって色んな人と出会って、自分の力を試したいんだ。まだ結婚なんて先の話だからわからないよ。約束なんてするわけないじゃん」
    ほんの前までフットサルの試合をしていたからかジャージ姿のキャプテンはジャージのポケットに手を突っ込んだまま、半分薄ら笑いを浮かべてその女の子の正面に立っていた。
    恵理那と呼ばれた女子は以前と同じようなミニスカートをはき、またしても艶やかで白い腿の肉を見せていた。
    伊吹は植木の影から彼らのやり取りを聞きながらため息をついていた。要するによくある男女のもつれかい。こんなんじゃあ解決のしようがないかな。そう思っていた時、女が持っていたバッグから、光るものを取り出したのが見えた。
    おいおい、これは殺傷ごとか。まずい。そう思った瞬間、いつものように自分の危険を顧みない伊吹の長年の癖で、二人の方へ飛び出していった。
    伊吹は明人と呼ばれたキャプテンの前に立ち、さも明人を庇うような形になった。
    「おい、やめとけ」
    「誰、あんたは、邪魔をしないで」
    年端も行かない女の子が思い詰めたら時に何をするかわからない。恵理那は取り出した刃渡り二十センチほどの包丁を構えて、明人の方へにじり寄っていった。
    「おじちゃん、あぶない」
    街灯の裏から聞こえてくる大声に驚き、思わずその方向へ顔を向けた恵理那の右手を、伊吹は見事にはたき落とした。さっきまで強気なことを言っていた明人は、恵理那の殺傷沙汰に恐れをなしたのか、その場に尻餅をついた。
    「お、お、おまえ。馬鹿じゃないか。頭おかしいんじゃないか」
    包丁を落とされた恵理那はさすがに自分がやろうとしたことが恐ろしくなってきたのか、泣きながら、その場に座り込んでしまった。
    とりあえず、殺傷沙汰は起こらずにほっとした伊吹は、直前に発せられた声の方を厳しい顔で睨んだ。
    「彩音か」
    街灯の下にはニコニコ顔の彩音が立っていた。
    「おじちゃん、いや、所長、良かったですね。危機一髪でしたね」
    「おいおい、危機一髪じゃないだろ。なんでここにいるんだ。帰ったんじゃなかったのか」
    「いやー、所長のことが心配になってですね。それに実は…」
    彩音がいい終わらぬうちに泣きじゃくっていた恵理那が彩音を見ながら意外な言葉を発していた。
    「あ、彩音先輩…彩音先輩ですか」
    伊吹は驚いて
    「なに、知り合いなのか」
    彩音が照れ臭そうな顔をして
    「実は私が大学にいた頃の一年後輩なんです。大学で所長が探してた女の子のことを調べてたら、恵理那のことが出てきて、まさかあの恵理那がと思ったんですけど、今日フットサルの試合の時に彼女を見て、やっぱりと思ったんです。でも私が顔を出したらすぐにわかってしまうから私は表に出ず、所長にお任せした方がいいと思って。」
    「危ないから帰れって言ったのに。子供のことはどうしたんだよ」
    「あ、それは大丈夫です。すぐに海斗に電話して早く帰ってもらいましたから」
    「それにしても、恵理那、一体どうしたのよ。こんな情けない男のことはさっさと忘れて、他の男見つければ良かったじゃない」
    ことの成り行きを見つめている状態となっている明人は、自分に振られたことに気づき、尻餅をついて座った状態になっている自分の姿に、我に帰り、慌てて立ち上がった。
    「とにかくだ、恵理那、もうお前とは終わりだからな」
    そう捨て台詞を吐いてお尻についた汚れを手で払い、他のメンバーの待つ居酒屋の方向へ走って行った。
    「私は、彩音先輩のようになりたかったんです。学生の頃から付き合ってた海斗さんと結婚して、子供も生まれて幸せそうだったし」
    泣きじゃくりながらそう話す恵理那の肩を、優しく抱いて彩音はひたすら恵理那の頭を撫でてやった。まるで、いたずらが見つかって泣きじゃくっている子供をあやしているようだった。
    そこそこの歳になっても、その言動は、まるで子供のように思っていた伊吹は、思いもよらない彩音の逞しさにまるで別れて暮らす自分の娘のように目を細めて眺めていた。
    空には闇夜の中に大きくその存在感を主張するかのように明るい月があった。
    「おじちゃん、今日も満月だね。この前のスーパームーンからもう一ヶ月経ったんだ」
    いつの間にか伊吹の横に腕を組んでいる彩音が神妙な顔をして立っていた。
    「とりあえず、これでこの子の悩みの種は終わっただろう、無事に溶かしてやったぜ。どうだ婆さん、これで満足か」
    まるでそこに例の老婆がいるかの如くに独りごちる伊吹だった。

    希望の大学に合格し、本来なら楽しくキャンパスライフを送っているはずの麻里は、憂鬱な毎日を送っていた。
    東京には居たくなかった。自分の母親が、こともあろうか友人の父親と不倫して、自分の父親と離婚し、そして相手の男の妻を追い出してその妻の座に着いたのだから、まるで昼メロのドロドロ劇に、自分の母親のことながら呆れていた。
    父と母が離婚した時、大学の合格も決まっていたし、父について行かずに、止むを得ず母親との生活を選んで上京したものの、その後の彼らとの生活は苦痛そのものだった。
    母親が不倫して再婚した男は、ママ友の夫である。ママ友の娘は麻里の幼稚園からの友人であり、当然、その友人との仲も気まずいものになってしまった。友人は麻里のせいじゃないよと慰めてくれたが、友人の実家に不倫相手である母親が入り込むことになって、友人の気持ちが穏やかであるはずはない。友人は母親と共に母親の実家に行ってしまい、その結果、彼女とのやり取りもなくなってしまった。
    だから自分は、母親とその新しい夫の住んでいるマンションに止むを得ず同居したものの、さっさと独立し、一人でワンルームを借りて生活するようにした。
    東京にこれ以上いたくはなかったが、大学を辞めて、福岡で一からやり直すのは至難の技であり、とりあえず卒業して東京で就職してお金を貯め、本当の意味で独立し、福岡に帰ってゆっくり転職先を探す。
    麻里なりに考え抜いて立てたプランだった。そして、早く母親の元を離れたかった理由がもう一つある。母親が不倫した相手の男、徳井の自分を見る目つきである。あの目つきは娘を見る目ではない。
    母親がいる時はさすがに、なんの表情も見せないが、母親が出かけて二人になると、異様に親しげとなり、無闇と身体を寄せてくるのだ。
    徳井がサラリーマンで外に仕事に出かけるならば、まだ顔を合わせる時間は少ないので助かるが、徳井は親の残したビルを所有し、その家賃で生活していた。さすがに福岡の一等地でテナントビル一棟でも持っていれば、その家賃収入で十分やっていける。そういう不労所得の生活に母親が憧れていたのが、不倫してまでママ友の夫を奪い取った理由のひとつであろう。
    生活費を捻出するために毎日汗を流していた、麻里の父親とは違い、日中はほとんど何もやることがなく、一日家にいることが多いので、麻里がいる時はしょっちゅう顔を合わせていた。
    ある時、いつもの様に麻里は、部屋でパソコンを見ながら大学の課題を検索していた時、突然、ノックもせずに徳井が入ってきた。
    住まわせてもらっているという弱みもあり、そういう失礼な態度を非難することができず、悔しい思いをそれまでも何度もしてきた。
    徳井は、パソコンを開いている麻里の肩を後ろからそっと触ってきた。その触り方に麻里は吐き気を催すほどの嫌悪感を抱いていた。
    「どうだ、麻里ちゃん、大学生活はうまくいってるのかい」
    この男は一体何を考えているのだろうか。麻里の左の耳元に、まるで息を吹きかけるように話し始めた。
    「ちょっと、徳井さん、やめて下さい」
    慌てて、麻里は右肩に乗せている徳井の手を払い除け、耳元に寄せている顔を押しのけるように胸を押した。
    「なんだよ、その言い方は。他人行儀だな」
    胸を押され、後ろによろめいた徳井はそう言いながらも顔を半分にやけさせていた。
    「っていうか他人ですよね。お母さんが徳井さんを選んだだけで、別に私が選んだ訳ではないですよね」
    たまりかねて徳井を睨みながらつい声を荒げてしまった。
    「なんだなんだ、なんなんだよ、そんな言い方していいのか。お前もお前の母親も俺のおかげでこんな一等地のマンションに住んでいるんだぞ。お前の母親のように、俺のことは正次さんと、下の名前で呼ぶんだよ」
    理不尽な徳井の言い方に悔しくて、しかし、何もいえず麻里はグッと下唇を噛みながら溢れてくる涙を抑えていた。
    親の遺産で生活している徳井は、小さな頃から何不自由なく育ってきたせいか、男としての逞しさも、また、溢れる知性なども全くなく、麻里にしてみれば単なる小心者にしか見えなかった。それだけにそういった麻里の感じ方が敏感に徳井に伝わっていたのかもしれない。
    「どうだ、自分の立場というのがわかったか。ちゃんと謝れよ」
    麻里は悔しさに涙を抑えながら、こもった声でいった。
    「わかりました。すいませんでした」
    「ちゃんと下の名前で呼ぶんだよ。言ってみろ。まさつぐさんというんだ」
    「わかりました… ま、まさつぐさん」
    「は? なんだ? 声が小さくて聞こえんぞ。もっと大きな声ではっきり言えよ」
    「まさつぐさん」
    「よし、分かればいいんだよ。これからも三人で仲良く暮らしていこうぜ」
    麻里が反抗するのを諦めたと思ったのか、徳井はあらためて手を伸ばし、麻里の肩に手をおこうとした。思わず麻里は顔を強張らせ肩に力が入った、その時、玄関の鍵の解錠の音がして母親の声がした。
    「ただいま」
    その声を聞いて徳井は思わず舌打ちをしながら玄関の方へ歩いて行った。
    「なんだよ、早かったな。いいとこだったのに」
    乱暴に麻里の部屋の扉を閉め、出て行った。
    「おかえり、早かったな」
    「うん、もう疲れちゃって、予定より早く帰ってきた。あなたは何してたの」
    「おう、麻里ちゃんが勉強で悩んでるみたいだったから、相談に乗ってたんだよ」
    「あら、そうなの。よろしく頼みますね」
    「ああ、そうだな」
    リビングでの会話が聞こえてきた。
    ――助かった
    麻里はさっきまで強張らせていた顔と肩の力を抜き、そのまま椅子に崩れるように座り込んだ。
    そういうことがあって以来、麻里は極力、家から出て、大学の図書館にパソコンを持っていくようになった。そして、やはりあの家にいることはできないという結論を出し、密かに大学の近くの小さなワンルームを探しあてた。
    独立して一人暮らしをすると宣言した時、母親は特に反対もせず、それでも怒ったふりをしていた。しかし、その怒った顔の中に安堵の雰囲気をただよわせていたことを、麻里は感じ取っていた。その顔は、自分と再婚した夫とが二人で暮らせるようになることに期待したような顔だった。
    ――やっぱり、私のことは邪魔に思っていたんだ
    そもそも、麻里は小さい頃から自分に対して途方もなく優しかった父親が大好きだった。
    母親が不倫、しかも自分の友達の父親と不倫した上に、その母親を追い出してしまったことに、麻里は、自分のことのように罪悪感を感じていた。友達は麻里のせいじゃないよと言ってくれたが、そう簡単に気持ちの整理はつかなかった。
    そして上京をやめ、裏切られて傷心の自分の父親のそばにいて一緒に暮らす、という考えも麻里の中にあったことは間違いない。だが、せっかく希望の大学に合格して、これからという時に、自分のせいで上京を諦めて欲しくないという父親の説得で、四年後の卒業までの間、辛抱して母親の元にいることを決断した。だが、不倫した母親とその不倫相手のことがどうしても我慢できず、独立を決意したとき、福岡にいる父親はやはり不倫するような母親の元に置いておくのを嫌がっていたので麻里の独立したいという申し出に一も二もなく賛成し、金銭的援助を申し入れてくれた。
    それまでも少しづつ援助してくれていた父親であったが、やはり独立して何もかも自分でやるとなると、さすがにアルバイトだけではやりくりができず、福岡にいる父親からの援助を頼みに学生生活を送っていた。
    そうやって一人暮らしをして半年経ち、ようやく日常生活に慣れていた頃に、突然、徳井が訪ねてきた。
     
    呼び鈴が鳴って、ドアスコープを覗くとそこに徳井の顔があった。さすがに母親に行き先を伝えないのもおかしいので、母親にだけは転居先を伝えていたのだが、やはり徳井に知られずというのは無理だったようだ。
    しかも来たのがもう夕方で、あたりは暗くなり始めていた頃なのに訪れてきたのは、相変わらず常識のない男だった。
    「なんですか。こんな時間になんの用事ですか」
    以前のこともあるからなるべく徳井には居留守を使いたがったが、早めに部屋の明かりをつけていたので部屋にいることはわかってしまっていただろう。だが、なるべく早く帰って欲しかった。ましてや、家にあげたりしたら何をされるかわからない。あの自分を見るいやらしい目つきを、麻里は決して忘れていなかった。
    「おい、とにかく開けてくれよ。話があるんだから」
    「私はもう徳井さんの家を出てるんだから、特に話もないですけど」
    「そういうなって。麻里ちゃんのお母さんのことだから」
     相変わらず、この男は本当に小狡いというか、母親のことをダシにされては麻里としても話を聞かざるを得なかった。それでもこの男を家にあげたくなく、ドアチェーンをした状態で扉を少し開けた。
    「お母さんがどうしたんですか」
    「お母さんから預かったものがあるんだよ。
    麻里ちゃんのお父さんの件らしいんだよ。それを渡したいから、だから扉を開けてくれよ。この隙間じゃあ渡せないじゃないか」
     絶対にこの男を部屋に入れてはいけないと思っていた麻里だったが、父親のことと言われて、気持ちが揺れ、扉を開けた。
    入ってきた徳井はまるで勝ち誇ったような顔をしていた。
    「ようやく開けてくれたな。そうか、父親のことを言われるとお前は弱いんだな」
    そう言った時の徳井の顔は、まるで獲物を仕留めたような獣のような顔つきで、麻里を見つめていた。麻里はその瞬間、扉を開けたことを深く後悔した。
    「お父さんのことってなんですか。早くそれを渡してください」
    「そう焦るなって。なんだ、コーヒーでも出してくれないのか。コーヒーメーカーはそこにあるじゃないか」
    そう言いながらズカズカと奥まで入った徳井は、ワンルームの奥に置いてあるベッドに勝手に腰をおろした。
    「ちょっと、勝手にそんなとこに座らないでください。ちゃんとここに椅子があるでしょ」
    麻里の訴えを無視するように、徳井はベッドに手を広げ、撫でながら相変わらずにやけた顔をしていた。
    「そうか、麻里ちゃんはここで寝てるんだ。一人になって、自由になって、男とか連れ込んでんじゃないの? あのお母さんの娘だからな」
    あんな母親とは思っていても、実際に馬鹿にされたような口調で言われて、麻里は気色ばんだ。
    「何を言ってるんですか。お母さんは仮にも今はあなたの妻じゃないですか。それに自分の奥さんだった人を追い出して、私のお母さんに言い寄ったのは徳井さんでしょ」
    「あれあれあれー、知らないのかな。俺を誘ったのはお前の母親なんだぞ。前の妻を追い出すように仕向けたのも、全部お前の母親なんだよ」
    徳井にいいように言われ、麻里は悔しくて涙を流した。
    「今日だってな、勝手に昔の学生時代の同窓会があるからといって、俺を置いてさっさと出かけやがって、外で何やってんだか分かんないぞ。俺に仕掛けた時のようにどっかで男をたらし込んでんじゃないか。全くいい歳して色ボケだよな」
    「いい加減にしてよ。お父さんのものってなんですか。早くそれを渡して、帰ってよ」
    「ははは、そりゃあ嘘だよ。そうでもしないとお前は開けてくれないだろ。全く女の一人住まいなのにすぐに扉を開けるなんて不用心だな。やっぱりお母さんに似て男が好きなのか」
    「徳井さん、もしかしたらお酒飲んでるんですか」
    「そりゃそうだろ。女房はさっさとどっか行っちゃうし、酒でも飲まないとやってられないだろ」
    「早く帰ってよ。警察呼ぶわよ」
    麻里はテーブルの上に置いてあるスマホを取り上げた。その瞬間、徳井がベッドから勢いよく立ち上がり、麻里の手首をつかんで、スマホを落とさせた。
    「麻里ちゃん、だめだよ。そんなことしたら。仲良くしようって言ってたじゃん。お前のお母さんが相手してくれないんだから、娘のお前が相手してくれなきゃ」
    「痛い、やめて」
    麻里が嫌がれば嫌がるほど、徳井の目つきはさらに凶暴さを増しているようだった。
    麻里は凶暴になった男の手を払い除けようとしたが、いくらひ弱な徳井でもやはり男である。とうとう麻里の両腕をつかんで自分の方へ引っ張り寄せる態勢になった。
    「ひひひ、いいねー。そうやって嫌がる女の顔は好きだなー」
    徳井は、麻里の両腕も持ったまま、奥のベッドの方に麻里を投げた。投げられた麻里は、そのまま倒れ込むようにベッドの上に仰向けになってしまった。
    「痛い。もうやめて」
    泣き叫ぶようになったその姿を見て、徳井はますます興奮したのか、舌なめずりをして得意満面な、例のにやけた顔をして徐々にベッドの方に近づいてきた。
    倒れている麻里のすぐ脇まできた時、すでにお酒が入ったのに激しい動きをしたせいか、急に酔いが回ってきたかのように、脚がふらついた。
    「おっと、ちょっと飲みすぎたかな」
    麻里が仰向けの態勢のまま、両足を徳井のほうへ向けて蹴るような形になると、ふらついた徳井の足に見事に当たり、徳井はそのまま後ろへ倒れ込んだ。
    「お、いかん」
    そう言いながら倒れ込んだその先には食卓のテーブルがあり、徳井の頭がそこに激突してした。
    「ぐっ」
    徳井は一言そんな声を発し、その場に横たわってしまった。
    急に静かになった室内で、麻里は茫然として倒れている徳井を見つめていた。そして、倒れた徳井の頭の部分にあるカーベットに赤いものが広がっているのに気がついた。
     
    調査依頼者からの訴えが取り下げられて以来、伊吹の探偵事務所には今まで以上に調査依頼が増えていた。
    そして、事務員の彩音の仕事もそれに伴い、忙しく、とても一人ではまかないくらいの事務量となり、彩音の後輩である大学生の山本恵理那が、アルバイトとして働いていた。
    恵理那は大学四年生であり、就職も決まっている身分なので、大学の授業もそこそこにほとんど毎日伊吹の事務所で彩音の仕事を手伝っていた。
    もともとフットサルのマネージャーをしていただけあって、気の配りようはなかなかのもので、いっそのことそのまま探偵事務所にいて欲しいくらいである。
    フットサルのキャプテンとのいざこざが解決して以来、彩音を頼りになる先輩と定め、伊吹の事務所に押しかけ、アルバイトの申し出をしてきた。ちょうど仕事が立て込んできた時でもあったので、渡りに船とばかりに、アルバイトとして雇うことにしたのである。
    「恵理那ちゃんがきて本当に助かるよ。どうだ、このまま大学出てうちに就職してくれないかな」
    半分冗談でそう誘ってみた。
    「そうだよ、恵理那ちゃん、決まった就職先やめてここで一緒に仕事しようよ。今、仕事ばんばん来てるし所長に頼んで給料いっぱい出してもらうからさ」
    彩音も、見知った相手である後輩の恵理那との仕事が楽しいらしく、伊吹の提案を後押ししている。
    「先輩、だめですよ。私は大手の企業に就職して、彩音先輩の旦那さんより素敵な男を絶対見つけるんですから。ここじゃあ男は所長しかいないじゃないですか。一応、独身で優しくて素敵な男性だというのは認めますけど、年齢的に私の許容範囲超えてるしー」
    「ふーん、そっか。まあ、確かにここにい続けたら浮気の調査とか多いし、独身の恵理那のこれからの夢をそぐかもね」
    そんな冗談を言い合いながらも、さすがに若い女性が二人もいると明るい職場になって、伊吹もまんざらでもない、居心地のよい事務所になった。
    彩音は相変わらず、ジーンズにTシャツという出立ちでラフなスタイルだが、恵理那の方は最初に見た時のようなミニスカートという、男を意識したような艶かしい格好ではなく、まるで別人のように明るい、でも派手ではなく、爽やかで清潔感あふれる雰囲気を漂わせたワンピースを履いていることが多かった。
    「おい、もう六時になるぞ、早く帰らないともう暗くなってるぞ」
    「そうだね、恵理那ちゃん、続きは明日にしてそろそろ帰ろうか」
    「ですね。彩音先輩は素敵な旦那さんが待ってますからねー」
     二人が後片付けをしている時、伊吹のスマホに着信音がなった。
    「お、麻里だ」
    大事な娘からの久しぶりの電話に、喜んだ表情の伊吹の顔がみるみる強張ってきているのを彩音は見逃さなかった。
    「とにかく、今から飛行機でそっちに行くから、そのままで待ってるんだぞ。今からなら八時くらいのフライトがあると思うから、今晩中にはそっちに行くから」
    慌てて出かける準備をする伊吹を、心配そうに見つめる彩音と恵理那に、伊吹は強張らせた顔つきのまま話した。
    「彩ちゃん、悪いけど、俺はこれから急遽東京に行くから、明日からこの事務所のこと頼んだ。なんかあったら電話してくれれば、電話はつながるようにするから。なるべく早く帰ってくるから、恵理那ちゃんと留守をよろしく頼む」
    「おじちゃん、麻里ちゃんがどうかしたの」
    「お母さんの再婚相手となんかトラブったらしい。詳しいことはとにかく、東京に行ってからだ。悪いけど二人で頼むよ」
    慌ててコートと、念のためにパソコンを持って、伊吹は事務所を出ていた。彩音と恵理那は、そんな伊吹の後ろ姿を、ただ茫然と見送るだけだった。
    タクシーに乗り空港へ行くと、かろうじて八時発の東京行きのチケットが取れた。飛行機が飛び立ち、窓から外を見ると街の明かりがまるで、モザイク模様のように、光り輝いている。何もなければ、その風景の美しさに見とれて、心温まるものがあったかもしれない。だが、さっきの麻里の電話を受けたあととなっては、とにかく急いで麻里のもとへ行きたい。このモザイクの動きを遅く感じてしまっていた。
    ――いったいどうしたっていうんだ。
    麻里が、独立して一人で住むと言った時は、不倫して結婚したような夫婦の元に置いておく娘のことが心配だったので、麻里の決心にむしろ拍手してやりたい気分だった。
    だから、喜んで麻里のためにワンルームアパートの家賃は面倒見てやった。これで、あの忌々しい夫婦とは縁を切ってくれたと思っていたのに、徳井を殺してしまったと確かに電話でそう言ってた。泣きながらの話だったので、いまいち要領を得なかったが、なんでそんなことになったのか、全くわからない。
    それにしても、あの男、徳井は、昔から知っている男だった。親の遺産でのほほんと暮らし、初めから、厳しい競争の世界で仕事をしてきた伊吹とは、正反対の生き方である。
    大したこともせずに生きていける徳井に、若干の羨ましさを覚えたのも事実であるが、徳井自身の言動には、そういう生活を送ることができた両親に対する尊敬とか、ありがたさとかを感じられなかったのが、伊吹がどうしても徳井を好きになれない理由である。
    そして、奴が無類の女好きであることも承知している。男同士での会話の中には、無礼講でお互いの女遍歴の話などもするが、徳井の話の中身は常識的にいくなんでもという内容を、自慢げにするところがあった。独身なら許されても、結婚した身ならそれはないだろ、ということも平気で行ってきた、徳井の人格を、伊吹は好きになれなかった。
    そんな徳井と、自分の女房が、不倫の中になるとは、伊吹には想像だにしなかった。もちろん、徳井の日頃の行いを知っている伊吹にとっては、一般的にいって美人の部類に入る伊吹の妻を、自分の妻のママ友としてではなく、ひとりの女として、徳井がそういう目で見ていたことは、日頃の目つきでわかってはいたが、まさか自分の女房が、そんな徳井と不倫関係に落ちるとは、思いも寄らなかった。
    東京行きの飛行機は八時すぎのフライトにしては多くのビジネスマンの姿があり、そういう意味では、伊吹は全く周りの風景に溶け込んでいた。
    羽田空港に着いた伊吹は、すぐにタクシーで麻里の住む神泉駅近くの小さなワンルームアパートに着いた。
    呼び鈴を押して、出てきた麻里の呆けた顔を見て、伊吹は寒気がした。あの明るい、何にでも笑顔を見せていた麻里の顔ではなかった。
    「麻里、どうしたんだよ」
    「お父さん、ごめん」
    伊吹の顔を見て、それまで緊張していた気持ちが一気に崩壊したように、麻里は泣き崩れて、その場にしゃがみ込んだ。
    「いったい何があった。徳井がどうしたってんだ」
    「徳井さん、あそこに」
    指先を震わせながら、差した方向を見て伊吹は息を呑んだ。
    食卓テーブルの横に倒れている男の頭から、血が流れていたのだ。
    「なんだこれは」
    さすがの伊吹も死体に遭遇するのは滅多にない。恐る恐る倒れている人間に近づき、間違いなく自分の知っている徳井であることを確認した上で、首筋に手を添え、脈がないのをあらためて確認した。
    相変わらず泣きじゃくる麻里を支えてベッドに座らせ、抱きしめて頭を撫でてやった。
    「麻里、怖かったろ。遅くなってごめんな。お父さんがきたからもう大丈夫だから」
    麻里がひとしきり泣き止むのを待って、一部始終を聞いた伊吹は、素早く頭を張り巡らせた。
    「あとはお父さんがなんとかするから、お前はもう寝ろ。明日また授業があるんだろ」
    緊張していた糸が切れたかのように、そして頼りにしていた父親が来てくれたという安心感からか、素直にベッドに横になって、伊吹がずっと手を添えてやると、その手にしがみついていたが、やがて寝息を立てはじめた。
    とにかくこの徳井の死体をなんとかしないといかん
    麻里がしがみついている右手をそっと外し、その場に立ち上がると、死体の処理に取り掛かった。
    とりあえず、徳井の死体を小さな押し入れにあった毛布でまとい、ワンルームにありがちなその毛布のあった小さな押し入れの中に押し込んだ。
    とにかく明日だな。すでに伊吹の頭の中には計画が出来上がっていた。
    それでも明日のことを考えるとなかなか寝付けなかった。横で小さな寝息を立てている麻里を見ると、ついさっきまであった出来事を忘れてしまってるかのような顔をしている。
    親ばかかもしれないが、この歳の女の子としては童顔な顔つきで可愛く、伊吹はどうしても彼女が小さい頃のことを思い出してしまった。出産に立ち合い、生まれ落ちた時に先生から女の子ですねと言われた時の本当に嬉しくて、思わず大声で叫んでしまった時の自分の顔、幼稚園に上がるときに駄々をこねて母親の元から離れようとしなかった時の娘の顔と困った様子の妻の顔、小学校へ入学してだんだん小生意気なことを言い出したときの彼女。その時その時の娘の顔が、眼を閉じていても瞼の奥に次から次へと浮かんでいった。
    この子は俺が絶対に守る。あらためて自分の心に言い聞かせる伊吹だった。

    翌日朝の六時に鳴り出した自分のスマホのアラームで眼を覚ました伊吹はベッドに麻里がいないのに気がついた。
    「麻里…」
    「お父さんおはよう、ちゃんと寝れた」
    ワンルームの小さな洗面所から腫れぼったい顔をした麻里が伊吹の方を覗いた。
    「おう、おはよう。お前こそちゃんと寝れたのか。顔が腫れぼったいぞ」
    「もう、それ言わないでよ。朝起きて自分の顔見てびっくりして、なんとか誤魔化すように今、頑張って化粧してんだから」
    昨晩の放心したような、正気のない麻里から随分元に戻ったような娘に、少しばかり安心した伊吹だ。やはり、若いということはそれだけ回復力はあるってことか。だが、精神的な部分はどうだろうか。
    「お父さん、ありがとう。わざわざ来てくれて、私、どうしていいかわからなくて。お父さんが来てくれて、本当に安心したの」
    小さい頃は、小生意気なことを言って親を苦笑いさせていた、明るくて屈託にない娘だったのに、さすがに大学生にでもなれば、殊勝なことを言う娘に育ってくれたことが嬉しくて伊吹の頬は自然とゆるんだ。
    「でも、お父さん、例のあれは、ひょっとしてそこ?」
    こんな小さなアパートで隠すところはそこしかないだろう。それは誰でもわかることだ。麻里の指した方向に、小さな押し入れがあった。
    「ああ、とりあえずな。あのままじゃさすがにまずいからな」
    「お父さん、私はどうしたらいいんだろう。
    私が徳井さんを殺してしまったんだよね。や
    っぱり警察にいった方がいいよね」
    さっきまで、会話の中に希望を見出していたような麻里の顔がみるみる暗くなり、また涙を浮かべ始めたのを見て伊吹はたまらなくなり娘を抱きしめた。
    「いいか、麻里。お前は何も心配しなくていいんだ。お前も知ってると思うけど、お父さんは探偵やってんだ。警察にも顔がきく。これは事故なんだ。しかも、いいか、悪いのは徳井だろ。この男は昔から、女にだらしないというか、女から恨まれることをやってきた。だから、徳井には天罰が降りたんだよ。お父さんがちゃんと処理してやるから、お前はとにかく大学をちゃんと卒業してちゃんとした会社に就職するんだ。そうすれば、忙しくなって忘れてしまう。いや、忘れてしまうほど、忙しくするんだ。わかったか」
    「でも、少なくともお母さんの旦那さんだよ。それにだいいち、こんなこと忘れるわけないじゃん。私、どうすればいいんだろ」
    確かに、娘の言うことはもっともだ。
    事故とは言っても自分の目の前で人ひとり亡くなってしまってそれを忘れろと言うことは無理だろう。伊吹は麻里の肩を持ち、顔を見つめ言った。
    「とにかく、お父さんにまかせろ。今日中にこれを片づける。お前はとにかく今日は大学に行ってろ。俺は一旦福岡に帰って手続きをしてなるべく早く戻ってくるから、とにかく、それまでは勉強に集中して、今回のことを忘れるようにするんだ」
    「うん… でも」
    「そうするんだ!」
    有無を言わせない伊吹に、麻里は眼を伏せながら
    「わかった。お父さんごめんね」
    か細い声で、しかし、しっかりした声で答えた。
    無理矢理大学へ行かせた伊吹は、早速動き出した。
    乗り捨てできて、全国に支店のあるレンタカーを探し出し、徳井の遺体を車に乗せ、西に向かった。
    今、全国で行方不明者は八万人もいる、八万分の一が徳井であっても不思議ではないだろう。伊吹の今までの黒い付き合いの中で、遺体を秘密裏に処分してくれる人間も北九州にいる。処理料は高いが、こんな時の値段を心配する段じゃないだろう。
     ――だが、麻里の心は
    伊吹が心配しているのは、彼女の心の中にいつまでも消えることのない、目の前で自分の母親の旦那が死んでしまったという事実だ。
    しかもいくら事故とはいっても、自分が関わっていたことは間違いない。その事実をどうやって紛らすことができるかだ。今のままではいつなんどきその時の情景がよみがえって、心の傷が開くかもしれない。なんとかその悩みから解放させなくては。
    その時、伊吹の頭に浮かんだのは、満月の夜に出会ったあの不思議な老婆の姿だった。
     ――悩みを溶かす…か
    恵理那があれだけ悩んでいた恋の悩みから解放されて、今では彩音と一緒に楽しく探偵事務所の仕事をしている。しかも来年四月には就職先も決まって、前途洋々だ。とても少し前に、元恋人と殺傷沙汰を起こそうとした女性には見えない。
    その不思議な力を探ってみたくて、あの後婆さんを探したが、何回あの公園に行っても会うことはなかったし、探偵業を活かして各方面に探りをいれたがどうしても見つけることはできなかった。そうすると伊吹は一連の出来事はたまたまの偶然が起こしたことで、やはりそんな奇跡などないのではないかと思うようになった。
    しかし、今回は。大切な娘を救うためにもなんとしてでもあの婆さんを見つけるしかない。それまで、なんとか麻里の気持ちが落ち込まないように祈るしかないか。
    途中休憩も挟みながら、ようやく開門海峡を超えた。
    さすがに昨晩の今日で、普通なら一〇時間少しで着くところ、途中で仮眠も取ったので十三時間もかかってしまった。途中のパーキングエリアで連絡を取った相手とは門司の部埼灯台で待ち合わせた。
    そこは初めての場所であったが、ナビのおかげで迷うことなく目的地に到着した。さすがに、もう周りは真っ暗になった中、田舎道を通り抜けて、灯台からもれる灯りが寂しさをかもしだしていた。
    聞こえるのは激しい波の音と月夜に照らされた波のしぶきだけという、夜の海がすぐそこに広がっていた。
    魚釣りが唯一の趣味である伊吹はよく夜釣りに行って夜の海の寂しさは体験しているが、今晩の海は特に伊吹の心に寂しい気持ちを起こさせていた。
    そこに停まっていた車から見知った顔の男が出てきた。
    「伊吹さん、久しぶりです。今回はまた変わった依頼を受けましたけど。
    どうしちゃったんですか」
    「おいおい、谷川、理由を聞くのかい」
    「はは、そうですね。理由を聞かずに処理をするのが私のモットーでした。これは失礼しました。ま、伊吹さんからこんな依頼を受けるのは初めてなんで、ちょっと好奇心が生まれましてね。申し訳ありませんでした」
    「谷川、すまんな。今回はよろしく頼むよ。その代わり。お礼は言い値でまかせるから」
    「伊吹さん、まかせてください。いつもお世話になってますから、伊吹さんの悪いようには絶対しませんから。値段も伊吹さん価格でお安くしときますから」
    こんな場合でも価格のことを話し合う自分の姿に苦笑しながら、レンタカーのトランクを開けて谷川に指示すると、谷川は要領を得ているかのように自分の車のトランクに荷物を移した。
    「じゃあ、伊吹さん、これで失礼します」
    「ああ、谷川、悪いな。よろしく頼むよ。料金はいつものところに振り込んでおくから」
    「ありがとうございます。また、あったらいつでも連絡ください」
    「おいおい、こんな依頼はこれっきりにしたいもんだよ」
     谷川はヤニで茶色くなった歯を見せながら笑って、車に乗り込んで窓を開けた。
    「伊吹さんはまだおられるんですか」
    「そうだな、もう少しここにいて夜の海でも眺めてから帰るよ」
    「そうですか、海に落ちないよう気をつけてくださいよ。今晩は見事な満月だから足元もはっきりしてるから大丈夫だと思いますけどね」
    そう言いながら谷川の車は走り去って行った。
    谷川の車が闇に溶けるように見えなくなると、伊吹は灯台へと歩き出した。
    規則正しく海をなぞる灯台の光が、断崖を白く照らしては消え、また照らす。その合間を埋めるように、満月の光が静かな海面一面に銀色の道を描いていた。
    伊吹は断崖の先端まで歩み寄り、潮の香りを胸いっぱいに吸い込む。
    「今日は満月か……。確かに、明るいな」
    見上げた夜空には、雲ひとつない漆黒の空に大きな月が浮かんでいた。
    その眩しい光は、封じ込めていた記憶を静かに呼び覚ましていく。
    妻に裏切られ、自ら命を絶とうとしたあの日。
    奇跡的に一命を取り留めたものの、第三病棟で味わった絶望と苦痛の日々。
    姉に支えられ、ようやく社会へ戻ることができたこと。
    そして、昔からの友人や、多くの人々の温かな手に救われながら、自分を死へ追い込んだ相手への燃えるような復讐心も、少しずつ静まっていったこと。
    だからこそ今、自分は探偵をしている。
    かつて自分が味わった夫婦の裏切りを、二度と誰にも繰り返してほしくない――そんな思いが、この仕事の原点だった。
    そして、もう一人。
    あの、不思議な老婆。
    伊吹は無意識に月を見つめた。
    その瞬間だった。
    頭の奥で、小さな火花が弾けるような感覚が走る。
    闇夜に浮かぶ星ほどの小さな光。
    だが、その光は次の瞬間には幾筋もの線となり、散らばっていた記憶を結び始めた。
    「そうだ……」
    思わず声が漏れた。
    「あの婆さんに最初に会った夜も、確かスーパームーンだった。」
    記憶が鮮やかによみがえる。
    あれから何度も老婆を探した。しかし、そのたび月は半月だったり、三日月だったり、あるいは曇り空だったりした。
    満月ではなかった。
    伊吹の胸が高鳴る。
    「もし、あの婆さんが月と関係しているのだとしたら……」
    満月にだけ現れる存在だとしたら――。
    伊吹は再び空を見上げた。
    巨大な月は、まるで何もかも見透かしているかのように、静かに海を照らし続けていた。
    「今日か……遅くとも明日までだ。」
    伊吹は断崖をあとにすると、早足で灯台を下り始めた。
    伊吹は慌てて車に乗り込み、福岡市内へと車を走らせた。
    レンタカーを返す時間ももったいなく、老婆に会った福吉中央公園へと直接車を走らせた。
     あの街灯の付近だったな。スーパームーンほどの明るさはないにしても、満月のおかげで十分に周りを見渡せられた。
    すると街灯の十メートルほど先の茂みの横に毛布をくるまって寝込んでいる人間らしき影が見えた。
     ――いた。あの老婆だ。
    興奮した身をなだめるように息を大きく吸ってその老婆の元へ歩いて行った。
    「婆さん、久しぶりだな。やっぱり満月の夜にここにくるのか」
    老婆は気だるそうに顔を伊吹の方に向けた。ちょっとみない間にまた一層歳を重ねたように見えた。まるで今にも命の炎が消えそうな、そんな雰囲気をただよせていた。
    「お前は… あの時の探偵か」
    「覚えてくれてたかい。随分探したぞ」
    「あの娘は無事に助かったようだな。よう頑張ったな」
    「なんで、それを知ってるんだ」
    「ふふふ、わしは満月の時はここにくるが、その裏側の時も見ることができるんでな」
    「この公園でもお前とあの娘のやりとりはよう見えとったぞ」
    またこの老婆の不思議な部分を見たようで、伊吹は戸惑った。
    それにしても、話しながらも息をつき、とてもじゃないがその話し方は尋常ではない。
    「それにしても、またなんか悩みを抱えているようじゃの。しかも今回は前回に比べてとてつもなく大きな悩みだな。まったくお前も探偵なんかやってるから、悩みも多くなるのかね」
    そう言われながらも、伊吹は逆に老婆がそのまま消えてしまうんではないかと心配になったほど、苦しそうに見えた。
    「婆さん、そこまでわかってるなら話は早い。俺の大切な娘の持つ悩みを溶かしてやってくれ。そしてその記憶を飛ばして欲しいんだ」
    「ほほほ、それはお断りしよう。見てわかるだろう。わしの命はもうすぐ消えてしまう。そんなわしにできることは少ない。今回は自分でなんとかするんだな」
    「なんでだ。俺の悩みも見事に解決させてくれたし、恵理那の悩みも無事に解決してくれたじゃないか」
    「何を言ってんだい。お前の悩みはお前がわしを助けてくれたからそのお礼をしただけじゃ。その恵理那とやらも、別にわしが溶かしてやった訳じゃない。お主の力じゃないか」
    そう言われて、確かにそうだと思ってしまった。麻里のことはこの老婆にはなんの関係もないことだ。しかし、だからといってそう簡単に引き下がる訳にはいかない。
    「婆さん、確かにそうだ。お願いすることは筋違いかもしれない。だけど、とにかく俺は娘をなんとか助けてやりたい、今まで苦労ばかりかけてきて可哀想な娘をここでなんとか父親らしいことをしてやりたいんだ。このままだと、娘が精神的に破綻して自殺でもされてしまったら、俺はこの先どうすればいいんだ。な、頼むよ助けてくれよ」
    最初に麻里のアパートに行ったときに見せた娘のあの生気のなかった顔が伊吹の頭によみがえった。
    今また一人になって、徳井の死骸のことを思い出したら、それこそ本当に自殺でもしかねない様子だった。伊吹は頭を地面にこすりつけて老婆に懇願した。
     だが、老婆はそんな伊吹の格好を見ていないかのように、苦しそうに胸を押さえて眼を閉じていた。
    「あんた、大丈夫か、本当に苦しそうだぞ、病院にでも連れて行こうか。それとも、なんだ、なんか飯でも連れて行こうか。あんたの希望はなんだ。なんでも言うことを聞くから、言ってくれ。そしてなんとかその力を貸してくれ」
    その言葉に、老婆の今にもつぶれてしまいそうな細い眼がくっきりと開いた。
    「なんでも言うことを聞く? そう言ったな。それは本当か」
    取り付く島がなかった老婆のかすかな反応に伊吹は頭を地面から起こし、その希望にしがみついた。
    「本当だ。娘のためならなんでもする。なんでも言ってくれ」
    「本当だな。それなら、なんとかならんこともないが」
    「頼むよ。娘をここに連れてくればいいのか」
    身を起こした伊吹は老婆の手に自分の両手を添えてまたも頭を下げた。
    「いいか、よく聞くんだ。わしは実はもう長いことない。これまで多くの人の悩みを溶かしてやった。だから、そのつけがわしの身体に影響を与えて、人並み以上に寿命が縮まってしまったんだ」
    確かにこの前会った時よりもはるかに歳をとったように見えたのは人の悩みを解決してきたツケと言うわけか。その中には自分の悩みを解決してきたことも影響したと言うわけか。知らない者が聞いたら一笑に付すような話だが、実際にこの老婆の奇跡を知ってしまった伊吹は信じる以外にはなかった。
    「おぬし、わしがいくつに見える?」
    苦しそうな顔をしながら老婆が伊吹に問いかけた。
    「いや、そうだな。女性の年齢はわからんというか、まあ、どう見ても八〇歳は越してうだろうけど、九十歳までいってるかな」
    女性に年齢言うときは、若く言ったほうが失礼に当たらないという昔からの言われをこんな場合でも律儀に守った伊吹は本当は一〇〇歳は越してるかと思ったが逆さばで答えた。
    「ほほほ、そうか、そうだろうな。だがな、実はわしは今年五十歳になったばかりなんだ」
    「なに、それはなんかの病気なのか。五十歳でそんなに今にも死にそうな状態になるはずないだろ」
    「わしは三十五歳の時にある人からこの能力を受け取った。それから、必死で色んな人の悩みを溶かしてやったよ。中には、自殺寸前の女の子も助けてやったことがある。一人助けてやるたびに、自分の力というか生気がその者に移っていくのが、手に取るようにわかったよ。それでも、わしは、人の悩みを溶かしてやることを、止めなかった。もともと、わしは自殺しようとしたところを、その人に出会って助けてもらったからな。だから、それほど生に対して、執着心がなかったのさ。人を助けて、自分が早死にしても本望だよ」
    「それで、自分の生を削っていったということのか」
    「そうじゃ、だから、わしの命はもう間もない。お主を助けてやるほどの力は残ってないかもしれんからな」
    その老婆の姿、立ち振る舞いを見ても、確かに今にも倒れ朽ちてしまいそうな、季節を過ぎた花のようにか細かった。
    「待てよ、あんたはある人からその能力を授かったと言ったな。もしそうならあんたの能力を他人に移すこともできるんじゃないか」
    「確かにできる。わしの最後の力を振り絞ればできるかもしれん。だが、そのためにその人はわしと同じような運命を辿ることになるんだよ。それがその人にとって幸せなことかどうかわからんぞ」
    「あんた、いや、名前はなんと言うんだ」
    「中村礼子だ。ふふ、普通の名前だろ」
    苦しみながらも自分の名前を行った時に見せた彼女の瞳の中に、寂しさの影が宿っているのを伊吹は感じた。十五年もの間、彼女は自分の命を削ってまで人の悩みを解決していった。どういう運命でそういう力を受けたのかわからないが、彼女にとっては宿命といわれるものだったのか。
    「中村礼子さん、頼みがある。あんたのその力を俺に譲ってくれないか。あんたがそのなんとかいう人からその力を受け継いだと同じように俺に受け継がせてくれ。俺は自分の命に代えても娘を救ってやりたいんだよ」
     伊吹はまた、中村礼子の手を握った。さっきよりっずっと強く力を込めて。
    「お前は、本当に自分の命に変えても娘の悩みを溶かしてやる覚悟はあるのか。いずれはわしのように、若いのに、力を失い、朽ちてゆくかもしれんのだぞ」
    「頼む。俺は、娘の気持ちに対して親らしいことは何もできなかった。最後に娘のために、娘の幸せのためにこの命をかけることができるなら本当にそれが俺の幸せなんだ」
    「そうか、そこまで言うのなら、わしの最後の力を振り絞って力をお前さんに移してやろう。実は、最初にお前さんと出会った時、わしにはもうあまり時間がないことはわかっていた。だからお前さんの悩みを溶かしてやったときに、お前に力を移すことを考えたんだ」
    「なぜそうしなかったんだ」
    「お前さんにはな、わしが、力を授かったときと違って、まだまだ現世でやることがあるような気がしたんだ。だから悩みを溶かしてやるだけで済ませた。しかし、今、またお前さんに力を移そうとしている。結局、これは宿命だったのかもしれんな」
    そういいながら中村礼子は前と同じように伊吹の顔を両手で挟み、額を寄せてきた。前回と違い、伊吹は眼を閉じ、素直に自ら額を寄せた。
    「いいか、よく聞け。あまりこの能力を使い過ぎるんじゃない。わしのようになりたくなければ、ここぞと言う時以外には使うんじゃないぞ。そして、一番大切なことはお前さんにもすぐわかるようになるが、この力をコントロールするんじゃ。それができるようにならないと自分の首を絞めることになるぞ」
     そういいながら、額をつけるとあの時と同じように、伊吹の額が、徐々に暖かくなってきた。だが、あの時とは明らかに暖かさが違う。暖かいというより、むしろ熱い感覚である。思わずその熱さに耐えかねて額を外そうとすると彼女は両手で伊吹の頭を強く押さえ、自分の額に押し付けてきた。
    「ちょ、ちょっと、熱い」
     その瞬間、伊吹の閉じた目の前に白い画面が突然現れ、その奥から麻里の後ろ姿が映った。
     ――麻里…麻里…
    伊吹の頭の中の麻里に手を伸ばそうとするが、どうしても手が届かない。
     ――麻里、大丈夫か。おい
    白い画面の奥の麻里が振り向き、その顔には涙が溢れ、悲しみにうちひしがれている眼をしていた。
     ――麻里、待っていろ。お父さんが絶対に助けるからな
    そういいながら伊吹は中村礼子の額から頭を外し、そのまま仰向けになって倒れていった。仰向けになって、空を眺める形になった伊吹の眼からは大粒の涙が溢れていた。空に浮かぶ満月を眺めながら、伊吹は思った。
     ――見事な満月だ。だが、その裏側には暗闇がある
    そう思いながら伊吹はそのままの体勢で気を失っていた。
     
    静かな朝の公園の空気を切り裂くような女性の声で伊吹は眼を覚ました。
    一瞬何があったのかわからず、周りを見渡した伊吹の目に近くのベンチの横で騒いでいる集団を見つけた。犬を散歩していた女性が放った悲鳴だったようだ。その周りに散歩仲間と思しき男性の姿や、ジョギング中の男性やらの四〜五人の者がそのベンチを眺めて騒いでいる。
    「死んでるんじゃないか」
    「おい、警察に連絡したか」
    足元もおぼつないように、フラフラとした姿でそのベンチに近づいた伊吹は、皆が囲んでいるそのベンチに、中村礼子が毛布にくるまったまま横になっているのが見えた。ただ横になってるだけなら、誰もがホームレスの寝姿と思って気にも留めなかっただろうが、鼻と口から血を流しているその姿は確かに異常な風景だった。
    彼女に近づいて、首元に手を寄せた伊吹はすでに彼女の脈がないことがわかった。
     ――婆さん、いや、中村礼子。俺に力を与えてそのまま絶命したのか
    自分の寿命と引き換えに、数多くの悩みを解決してやって、彼女の人生はどうだったんだろう。だが、流れでた血の姿にもかかわらず彼女は、穏やかな顔をして眠っているように見えた。
     ――あんたの思いは俺が必ず引き継いでやるよ
    腕時計を見て、すぐに探偵事務所が開く時間であることを確認した伊吹は、その足で事務所へ戻った。
    途中、麻里へ電話をかけた。
    「お父さん」
    「麻里、大丈夫か」
    「うん、なんとか… お父さんこそ大丈夫だった? それで…あれはどうなった…」
    やはり、一人になって心配していたのだろう。
    その声からは、伊吹には無理をして元気をよそおってスマホを持っている麻里の姿が目に浮かんだ。
    「ああ、大丈夫だよ。ちゃんと、処理したから」
    「処理って…」
    「いいか、とにかくおまえは気にしなくていい。お父さんに任せるんだ。今日昼からそっちにいくから。話があるから」
    「わかった。待ってる」
    当たり前とはいえ、あの事件のことが頭から消えていないのが、こんな少しの会話でもわかった。
     ――やはり、例の力で麻里の頭からあの記憶を消してやらないといかん。たとえ、自分の寿命が削られても。
    あらためてそう決意した伊吹はやがて事務所へ着いた。
    「あ、おじちゃん、おはようございます」
    「おはようございます」
    明るい彩音と恵理那の声を聞いて、伊吹は安堵の息を吐いた。
    「留守にして悪かったな。特に問題なかったかい」
    「はい、恵理那と二人でばっちり事務所、守ってました」
    こんな時の彩音の快活さに、今までも何度も助けられた。こんな元気を麻里にも与えてやりたい。つくづくそう思った伊吹だった。
    「麻里ちゃんのほうは、どうでしたか」
    「あ、ああ、特に大したことじゃなかったみたいだ。今日も昼からちょっと行ってくるから、また二人で留守番頼むよ」
    「ええ、それは大丈夫なんですけど。おじちゃん、本当に大したことなかったの? 本当におじちゃんは嘘が下手くそで、心の動揺がバレバレなんですけど。それでよく探偵業なんかできますねえ。ねえ、恵理那もそう思わない?」
    「そうそう、出ていく時の所長の様子を見た
    ら、大したことなかってことはないんですけど」
    まったく、この若い女性陣に捕まったら、とてもじゃないが、伊吹の年齢くらいの男では対処のしようがない。笑って誤魔化すこともできない。
    「いやいや、本当に。母親の新しい旦那からちょっといじめられたみたいでさ。それくらいのことで俺に電話してくるなよって怒ってやったんだよ。だから、今日も行って、仲直りさせるって算段なんだ。悪かったな。心配させて」
    「ふーん、そうなんですか。恵理那、この説明で納得した?」
    「ちょっとねー。まあ、でもこれくらいで所長のいうことを信用してあげないとね」
    「恵理那もそういうし、所長、とりあえずシュガーバターの木で手を打ちますか」
    「よしよし、お土産くらいで勘弁してくれるのなら、一年分くらい買ってきてやるよ」
    「やったー。恵理那、所長帰ってきたらお土産食べまくろうよ」
    「お、もうこんな時間だ。ちょっと早めに行ってくるよ」
    なんだかんだ言いながら、そこまで問い詰めることをしない二人の優しさに救われた思いで、早々に荷物をまとめて事務所を出た伊吹であった。
     
    昼前の飛行機に乗った伊吹は、午後五時には麻里のアパートに着いた。
    アパートの扉を開けた途端に見た麻里の顔は、あの時の悲壮感に溢れた顔ほどではなかったが、その暗さは、やはり子供の頃から知ってる、あの明るい娘の顔ではなかった。
    「お父さん…ごめんね、何度も行き来させて」
    「ああ、大丈夫だよ。ちゃんと大学には行ってるのか」
    「うん、大学に行けば、友達といろいろ話ができて気が紛れるんだけど、でも、このアパートであんなことがあって怖いから、大学の図書館で過ごしてる。それになるべく友達のとこに遊びに行ったりしてるんだ」
    「そうか、いいか。よく聞くんだぞ、今からお父さんがお前の怖かったことや、苦しかったことを溶かし、いや解消してやるから。お父さんのいうことを聞いていう通りにするんだ」
    「え、それ、どういうこと?」
    「いいから、ここに来い」
    突飛なことをいう父親のことを、不思議な眼で見る彼女の肩を抱き、テーブルの横の小さな椅子に座らせた伊吹は、娘の顔に手を添えて額を自分の額に寄せた。
    「え、お父さん、何これ? なんかのおまじない?」
    「そうだ、おまじないだ。小さい頃よくやっただろう。力を抜いて眼を閉じて額に集中するんだ」
    中村礼子にされたことはあっても、伊吹にとっては自分がする立場になることは初めてだったので、やり方に戸惑いながらも、自分の額に集中しながらも娘の悩みを解消させてやろうとしていた。
    すると、徐々に額が熱くなり始めた。麻里もその熱さを感じてきたのだろう。緊張し始めているのが身体の強張りからわかった。
    しばらくすると、伊吹の頭の中に、例の白い画面が現れ、麻里と徳井の姿がぼんやりと浮かび、言い争っている様子が自分のことのように感じてきた。麻里の姿が自分とダブってきて、自分が徳井を押し倒していた。倒された徳井はそのまま倒れ、テーブルの角にぶつかりテーブルの横に倒れ込んだ。
    そして、白い画面は、徐々に消えていった。
    額を外した麻里はポカンとした顔で。
    「お父さん、今のは…」
    そう言いながら気を失い、倒れかけ、その身体を伊吹に預けた。伊吹はそのまま麻里を抱いて、ベッドに寝かせた。
     ――これで大丈夫だ。朝まで寝ればいいさ。
    伊吹は思ったよりも疲れ切った自分の身体を、ベッドの脇に横たえ、そのまま眠りについた。

    翌朝、自分のスマホのアラームで眼を覚ました伊吹はベッドの上に麻里の姿が見えないのに気がついた。
    「麻里」
    慌てて声を出したのと同時に、洗面所から麻里が顔を出した。
    「お父さん、おはよう。ゆっくり寝れた?」
    「なんだ、いたのか」
    「いたのかはないでしょ。お父さんこそどうしたのよ突然やってきて。知らない間にあんなとこで寝てんだもん。朝起きてびっくりしちゃったよ」
    「え、いや、そうか、そうだったよな。ごめんな突然来て悪かったな」
    「そうだよ、私は結構疲れてたから、お父さんが来たのもよく覚えてないんだよね。とにかく、私が顔作ったらすぐにご飯作ってあげるからね。といっても、こんな狭いアパートだし、大したもの作れないけどね。へへへ」
     昨日までの、あの悲壮感に溢れた麻里とは思えないほどの明るい闊達な様子に、伊吹は安心した。
     ―よかった。とにかくうまくいったようだな。

    Epilogue

    もっとゆっくりしていったらという麻里の申し出に、仕事も残っているからといってアパートを出た伊吹だった。
    考えてみると昨日からずっと着替えもしないでそのままの格好で過ごしてきた伊吹は、近くのコンビニで下着一式を買って、渋谷の雑居ビル内にある銭湯で身体を洗い、空港へと向かった。
    幸い、夕方の福岡行き飛行機のチケットが取れて、彩音に電話を入れ飛行機に乗った。
    飛行機に乗るとほぼ満席状態で、かろうじて座席を確保できて良かった、と胸を撫で下ろした伊吹だった。
    外はもう真っ暗ではあったが、窓から明るいほぼ満月の様子が見えた。
     ――あの明るい月の裏側には暗闇がある。
    伊吹が中村礼子から力をもらうときに思い浮かんだ言葉だった。
     ――まったく不思議な力だな
     
    その時、横に座っていた女性、年のころは三十代中盤か、その女性がつぶやいた。
    「このままどこかへ飛んでいきたい」
    その声は本当にか細い、しかし、はっきりとした声だった。思わず横に座っている女性を見ると眼を閉じ、しかし、寝ている様子はなく、つぶやいたようだ。
    「私はどうしたらいいの」
    伊吹の耳にはっきりと聞こえたのに、彼女は口を閉ざしたままである。
    すると、今度は、逆の座席に座っている五十代と思しき中年の男性がつぶやいた。
    「なんで、俺だけがこうなるんだ。悪いのは俺じゃないのに」
    やはり、女性と同じように口を閉ざしたまま、その声だけが、伊吹の耳に聞こえたのだ。

    「もう死にたい」
    「俺はダメな男だ」
    「絶対あいつを殺してやる」
    「誰か助けて」
    「本当は謝りたい」
    「あの子に会いたい」
    「もう疲れた」
    「全部終わりにしたい」
     
    伊吹の耳、というよりも彼の頭の中に飛行機の乗客の声が次から次へと響き渡ってきた。

    中村礼子の最後の言葉を思い出した。
    この力をコントロールする。
    確か、彼女はそう言っていた。
     
    彼女が一人で静寂に包まれた公園に住むようになった理由を伊吹はその時知った。

    人は誰も、他人には見せない"月の裏側"を抱えて生きている。
    そして今日から、その闇に耳を傾けるのは、自分なのだ。
    闇に耳を傾け続ける人生は、決して楽なものではないだろう。
    それでも――。
    伊吹は静かに窓の外の満月を見つめた。
    自分が受け継いだこの力にも、きっと意味がある。
    機窓の外には、何も知らないように満月が静かに輝いていた。
    そして、同時に福岡の夜景が、ゆっくりと機窓の下に広がっていった。
                                    (了) 

                       

     
     
    エンタメ小説の執筆家を目指しています。 松本清張氏の重厚な人間描写、東野圭吾氏の緻密な構成に憧れ、そんな作品を書けるようになりたいという、いささか無謀な目標を胸に、日々執筆を続けています。 読む人の心に静かに残る物語を目指しています。

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