「下手の考え休むに似たり」から考えたこと
「下手の考え休むに似たり」から考えたこと
「下手の考え休むに似たり」という言葉がある。
囲碁や将棋などで、実力のない人がいくら長く考えていても、なかなか良い手が浮かばず、休んでいるのと大して変わらない、という意味だ。
でも、この言葉について考えていたら、ふと疑問が湧いてきた。
そもそも「下手の考え」って、何なのだろう。
世の中では、頭の良い人が世界を動かしているように見える。
学歴が高い人。
研究者。
学問の専門家。
難しいことを語れる人。
そういう人たちは「知的な人」として尊敬されやすい。
もちろん、研究や学問には大きな価値がある。今すぐお金にならなくても、何十年後かに人類の役に立つ研究もあるだろう。
けれど、一方で、介護、看護、清掃、調理、衛生、物流など、毎日の生活を実際に支えている仕事がある。
それらは、誰かがやらなければ社会そのものが成り立たない。
それなのに、どういうわけか、社会では「頭を使う仕事」のほうが偉く、「身体を使って人を支える仕事」のほうが低く見られることがある。
私はそこに、少し不思議なものを感じる。
本当に「考えること」のほうが、「人の役に立つこと」より価値が高いのだろうか。
そもそも、考えるとは何だろう。
介護をしている人が、目の前の人のちょっとした変化に気づく。
看護師が、数字だけではなく患者の様子を見て「何かおかしい」と判断する。
飲食店で働く人が、食材の状態を見て「これは使わないほうがいい」と判断する。
これも立派な「考える」ではないだろうか。
難しい言葉を使って理論を語ることだけが、思考なのではない。
現実をよく見る。
自分で判断する。
そして実際に動く。
結果を見て、必要なら修正する。
そこにも、確かな知性がある。
そう考えると、「頭が良い人」と「頭が悪い人」という区別そのものも、少し違って見えてくる。
学力が高い人でも、自分では何も考えず、誰かの言葉をそのまま繰り返していることはある。
反対に、学校の勉強が得意ではなかった人でも、自分の置かれた状況をよく見て、自分で判断し、行動し、失敗すれば修正する人がいる。
職業も、年収も、それだけではその人の知性を決められない。
結局、人間にとって大切なのは、
どれだけ難しいことを知っているかではなく、
自分の目の前にある現実を、どれだけ自分自身で見て、考えて、動けるか。
なのかもしれない。
考えが足りない人もいる。
けれど、考えるための材料がまだ少ないだけかもしれない。
だったら、経験すればいい。
やってみる。
失敗する。
気づく。
またやってみる。
そうしているうちに、経験が知恵になっていく。
最初は何も分からなかった人が、いつの間にか「この場合はこうすればいい」と分かるようになる。
そして、さらに経験を重ねると、今度はあれこれ考えなくても、自然に適切な行動ができるようになることさえある。
もしかすると、それこそが「考える」ということの一つの完成形なのかもしれない。
だから、「下手の考え休むに似たり」という言葉を、私は単純に「頭の悪い人は考えても無駄」という意味では受け取りたくない。
むしろ、
頭の中だけで考え続けても、現実は何も変わらない。
考えたことを、実際の世界で試してみる。
そこで得た経験から、また考える。
その繰り返しの中に、人間の知恵が育っていく。
研究することも尊い。
考えることも尊い。
けれど、人の世話をすることも、食事を作ることも、誰かの身体を支えることも、汚れた場所をきれいにすることも、社会を安全に保つことも、同じように尊い。
人間の価値を、肩書きや学歴や年収だけで測ることはできない。
どんな仕事をしているかではなく、
自分のいる場所で、何を見て、何を考え、どう動いているのか。
そこに、その人自身の知性や生き方が現れるのではないだろうか。
そして私自身も、何かを偉そうに考え続けるより、
まず目の前にあるものをよく見て、
できることを一つやってみる。
そのほうが、案外たくさんのことを教えてくれるのかもしれない。
#知性
#考えるということ
#自分で考える
#自分で動く
#生きる力
#仕事の価値
#人間の価値
#学歴社会
#実践知
#人生について考える
