
普通が欲しかった
「ご飯、食べてないでしょ」
看護師さんにそう言われた。
私は病院のベッドの上にいた。
低カリウム血症。
救急搬送。
点滴。
心電図。
四十七歳。
理容師。
そして栄養失調。
我ながら情報量が多い。
正直、自分でも笑った。
栄養失調のデブなんて聞いたことがない。
でも笑ったあと、少し泣いた。
笑える状況じゃなかったからだ。
スマホを開いた。
ペットカメラの映像が映る。
愛犬がいた。
玄関を見ていた。
私を待っていた。
そして遠吠えをした。
その瞬間、帰りたくてたまらなくなった。
病院食もいらない。
点滴もいらない。
ただ帰りたい。
愛犬のところに帰りたい。
そう思った。
私は普通が欲しかった。
昔からずっと。
有名になりたいわけじゃなかった。
金持ちになりたいわけでもなかった。
ただ普通に暮らしたかった。
仕事して。
帰って。
晩ご飯食べて。
テレビ見て。
たまに喧嘩して。
たまに笑って。
そういう普通。
それだけで良かった。
なのに気付けば、
私は理容師になって二十九年経っていた。
店を持った。
会社を作った。
スタッフを雇った。
ブライダルの仕事もした。
成人式で八人同時進行なんて無茶もやった。
気が付けば責任ばかり増えていた。
結婚した時は違った。
ようやく普通になれると思った。
家族ができると思った。
帰る場所ができると思った。
私は本気でそう思っていた。
だから頑張った。
仕事もした。
支えた。
信じた。
夫婦だから当たり前だと思った。
でも現実は違った。
後になって分かった。
私は夫婦をやっていた。
相手はどうだったのか分からない。
少なくとも、
私と同じものを見ていたとは思えない。
借金。
滞納。
既読無視。
説明のないお金。
払われない生活費。
見つかる督促状。
見つかる未払い。
見つかる問題。
片付けても片付けても終わらない。
まるでホラー映画だった。
しかも犯人は最後まで名乗り出ない。
気付けば私は怒ることにも疲れていた。
悲しむことにも疲れていた。
残ったのは空っぽだった。
十二年って長い。
長いけど、
壊れる時は驚くほど静かだ。
病院のベッドで天井を見ながら思った。
私は何を守ってきたんだろう。
家か。
店か。
夫か。
結婚か。
世間体か。
分からなかった。
ただ一つ分かったのは、
私は自分を最後に回し続けてきたということだった。
脳梗塞もやった。
心房細動もやった。
今回の入院もやった。
それでもまだ働いている。
正直、自分でも意味が分からない。
もう少し学習しろよとも思う。
それでも店を開ける。
なぜか。
仕事が好きだからだ。
お客様が好きだからだ。
理容師だからだ。
それしか出来ないからだ。
いや、
それしか出来ないんじゃない。
それを続けたいからだ。
愛犬が待っている。
店がある。
予約表がある。
鋏がある。
二十九年積み上げた技術がある。
だったらもう少しだけ頑張れる。
私は普通の主婦になりたかった。
結局なれなかった。
その代わり、
病院で犬の遠吠えを聞きながら泣く理容師になった。
人生は思ったよりめちゃくちゃだった。
でも、
それも私の人生らしい。
だから今日も店を開ける。
帰ったら愛犬を抱っこする。
今はそれで十分だ。
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