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『ボクハ、イキタイ。』──夕方だけが戻ってきた

    『ボクハ、イキタイ。』──夕方だけが戻ってきた

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    【あらすじ】
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    肺腺がんステージ4と診断された地方公務員の男性が、治療と仕事を続けながら、家族との日常を少しずつ取り戻していく記録。

    声を失い、生活の速度が変わっても、日々は止まらなかった。

    特別な奇跡を描く作品ではない。

    夕方に家へ帰り、キッチンに立ち、食卓を囲む。

    病気によって失ったものではなく、病気をきっかけに取り戻した時間がある。

    これは、「克服」の物語ではない。

    家族とともに生きる時間を、静かに積み重ねていく生活の記録である。

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    第1章
    診断の日
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    2024年11月26日。

    妻と二人で診察室に入った。

    医師は画面を見ながら、静かに説明を始めた。

    「右下葉に肺腺がんがあります。左右の肺、リンパ節、左小脳、背骨、骨盤にも転移が確認されています。ステージ4です。」

    続けて言った。

    「遺伝子検査の結果はまだ出ていません。結果によって治療方針が変わります。」

    診断はついた。

    けれど、その先は何一つ決まっていなかった。

    恐怖が押し寄せると思っていた。

    そうではなかった。

    もちろん不安はあった。

    それでも、最初に湧いてきたのは別の感情だった。

    「もう十分頑張った。」

    そんな言葉が、自分の中から静かに浮かんできた。

    思い残したことはある。

    やりたいこともある。

    それでも、どこか張り詰めていた糸が、ふっと緩んだ。

    診察室を出てから、妻と何を話したのかはよく覚えていない。

    その日の夜も、家ではいつもと同じように夕食が並んだ。

    ご飯。

    野菜炒めと煮物。

    ステージ4と告げられた日の夜も、食卓は変わらなかった。

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    第2章
    希望の電話
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    翌朝、仕事へ向かった。

    休む理由が見つからなかった。

    体は動く。

    痛みもない。

    治療もまだ始まっていない。

    午前中、一本の電話が入った。

    病院からだった。

    「遺伝子検査の結果が出ました。

    ALK融合遺伝子陽性です。」

    医師は続けた。

    「明日の朝、診察してください。

    午後から入院になります。」

    「わかりました。」

    そう答えて電話を切った。

    そのあと、仕事へ戻った。

    昨日、ステージ4と告げられた。

    今日は入院が決まった。

    それでも、目の前の仕事は残っていた。

    特別な決意があったわけではない。

    ただ、その日やるべきことを続けただけだった。

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    第3章
    声を失って、はじめて気づいた「当たり前」の重さ
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    声は、ある日突然なくなったわけではなかった。

    少しずつ弱くなっていった。

    最初は疲れているだけだと思った。

    次は風邪だと思った。

    やがて違うと分かった。

    病院で説明を受けても、実感はなかった。

    「声帯の動きが制限されています。」

    そう言われても、自分の中では、いつもどおり話しているつもりだった。

    現実だけが変わっていった。

    職場では聞き返されることが増えた。

    電話では伝わらなかった。

    自然と会話は短くなった。

    必要なことだけを話すようになった。

    気づけば、話すことより、伝えることを考えるようになっていた。

    声を失うことは、音を失うことではなかった。

    人との距離を測り直すことだった。

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    第4章
    脳転移が消えた夜、キッチンで知ったこと
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    2025年3月。

    診察室で医師が言った。

    「左小脳の腫瘍は、消失していますね。」

    静かな口調だった。

    ボクは黙って画像を見つめていた。

    「消える可能性があります。」

    そう聞いていたことと、

    「消えました。」

    と言われることは、まったく違っていた。

    大きく喜ぶと思っていた。

    涙が出ると思っていた。

    そうではなかった。

    静かだった。

    診察室を出てから、ようやく少しずつ実感が追いついてきた。

    数日後の夜。

    仕事を終えて帰宅すると、妻がキッチンに立っていた。

    後ろ姿だけを覚えている。

    振り返らないまま言った。

    「今日から、お迎えに行けるね。」

    娘の習い事のことだった。

    ボクが運転できなかった間、その役目は妻が担っていた。

    「ああ、そうだね。」

    それだけ答えた。

    火にかかった鍋の音だけが聞こえていた。

    その夜、ボクは診察室ではなく、家のキッチンで回復の意味を知った。

    回復とは、画像の変化だけではなかった。

    娘を迎えに行けること。

    妻の役目を一つ受け持てること。

    普通の毎日へ、少しずつ戻っていくこと。

    それが、ボクにとっての回復だった。

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    第5章
    家族との食卓
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    診断される前、ボクは家で夕食を食べることがほとんどなかった。

    帰宅するころには、子どもたちは眠っていた。

    食卓は、もう片付いていた。

    家族と過ごす夕方は、仕事の向こう側にあった。

    ---

    病気になってから、家に帰る時間が早くなった。

    夕方、キッチンに立つようになった。

    最初は妻が料理をしている横で、野菜を切ったり、皿を出したりするだけだった。

    いつの間にか、それが毎日のことになった。

    料理教室にも通った。

    チャーハンや麻婆豆腐を習った。

    家でも何度も作った。

    麻婆豆腐を作る日は、豆腐を切るところから始まる。

    包丁を入れながら前を向くと、シンク越しに、床から一段高くなった畳敷きの食卓が見える。

    そこでは、妻が横になって休んでいることがある。

    その姿が見えると、部屋の照明は消したままにした。

    キッチンの明かりだけをつけて、料理を続ける。

    包丁の音も、できるだけ小さくする。

    眠りを邪魔したくなかった。

    別の日には、その同じ場所で娘が宿題をしている。

    妻が起きている日は、娘の隣に座って宿題を見ていることもある。

    同じ場所なのに、その日の夕方によって景色が変わる。

    病気になって早く帰るようになったからこそ、見えるようになった景色だった。

    以前、ボクは「料理を手伝う」と言ったことがある。

    そのとき妻は、静かに言った。

    「手伝いじゃないよ。」

    「子どもたちのことは、二人の責任だから。」

    それ以来、「分担」という言葉が家に残った。

    料理を作ることも。

    皿を並べることも。

    迎えに行くことも。

    誰かを支えることではなく、同じ場所に立つことだった。

    麻婆豆腐を食べた娘は、最初は「からい」と言った。

    何度か作るうちに、

    「おいしい。」

    と言った。

    それで十分だった。

    火がついている。

    包丁の音がする。

    誰かがいて、誰かが眠り、誰かが宿題をしている。

    夕方は、静かに流れていた。

    それだけで、その時間は満たされていた。

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    第6章
    働き続けるということ
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    2025年1月14日。

    ボクは職場へ戻った。

    朝、乗るはずだったバスが十二分遅れた。

    駅へ向かって走った。

    息が上がる。

    それでも走った。

    遅刻したくなかった。

    声は、まだ戻っていなかった。

    首から携帯拡声器を下げ、ヘッドセットのマイクで話す。

    それが、そのころのボクの声だった。

    思うように話せなくても、仕事は続いていく。

    職場の人たちは、入院前と変わらないように接してくれた。

    そう感じていた。

    あるいは、自分に余裕がなく、細かなことを覚えていないだけかもしれない。

    できなくなったことはある。

    時間がかかることも増えた。

    それでも、できる仕事はあった。

    働くことは、病気ではなくならなかった。

    働き続けることは、自分が自分であり続けることでもあった。

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    第7章
    夕方が戻ってきた
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    今では、夕方になると自然にキッチンへ向かう。

    特別なことではない。

    それが日常になった。

    包丁を置いて顔を上げる。

    シンク越しに、家族の姿が見える。

    同じ夕方は、一日としてない。

    娘が笑っている日もある。

    静かな日もある。

    何も話さない日もある。

    それでも、そこには家族がいる。

    以前のボクは、夕方という時間を知らなかった。

    仕事が終わるころには、家の夕食も終わっていた。

    今は違う。

    料理をして、

    食卓を囲み、

    一日の終わりを家族と過ごす。

    病気は、たくさんのものを奪った。

    けれど、夕方だけは返してくれた。

    ボクは、その時間を今日も生きている。

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    第8章
    日常という治療
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    治療は、今も続いている。

    仕事も続いている。

    生活も続いている。

    どれか一つだけを切り離して生きることはできなかった。

    病院へ行く日もあれば、職場へ向かう日もある。

    夕方には家へ帰り、キッチンに立つ。

    その繰り返しだった。

    以前は、治療とは病院でするものだと思っていた。

    薬を飲むこと。

    検査を受けること。

    診察室で医師と話すこと。

    もちろん、それも治療だった。

    でも、それだけではなかった。

    家へ帰ること。

    家族と食卓を囲むこと。

    翌朝、また仕事へ向かうこと。

    そんな何気ない一日が、少しずつ自分を支えていた。

    特別なことは何もない。

    だからこそ、その日常は、ボクにとって治療そのものになっていった。

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    第9章
    職場という、もう一つの日常
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    復職してからも、思うように声は出なかった。

    携帯拡声器とヘッドセットは、仕事の相棒になった。

    以前と同じようには働けない。

    そう感じる日もあった。

    それでも、一つずつ仕事を終えていく。

    帰り道、駅まで歩く。

    その時間だけは、一人になれる。

    今日一日を思い返しながら歩く。

    職場の自分。

    家の自分。

    どちらかが本当なのではない。

    どちらも、今のボクだった。

    病気になる前には気づかなかった。

    働くことも、

    家へ帰ることも、

    どちらも生活だった。

    どちらも、生きることだった。

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    第10章
    続いていく日々
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    終わりは、まだ来ていない。

    治療は続いている。

    仕事も続いている。

    生活も続いている。

    以前のボクは、もっと先ばかりを見ていた。

    仕事の予定。

    来週の予定。

    来月の予定。

    気づけば、今日という日は通り過ぎていた。

    今は違う。

    夕方、家へ帰る。

    キッチンに立つ。

    家族と食卓を囲む。

    それだけのことを、大切に思うようになった。

    病気になって、失ったものは少なくない。

    けれど、病気になったからこそ戻ってきた時間がある。

    夕方だった。

    家族と過ごす時間だった。

    ボクは、以前より遠くへ行けるようになったわけではない。

    以前より速く歩けるようになったわけでもない。

    ただ、帰る場所を知ることができた。

    夜、食卓に座る。

    いつもの料理が並ぶ。

    誰かが笑い、

    誰かが話し、

    誰かが「おいしい」と言う。

    その夕方は、今日も静かに終わっていく。


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    環境省登録 環境カウンセラー(市民部門・事業者部門)

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