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他人の命とポップコーン

    週末に友達2人と映画を観に行くことになった。
    まだ幼かったので親同伴で観に行った。

    何駅か電車に乗って、いつも行く映画館に向かう。夏休みに行きたい場所について友達と駄弁りながら電車を降りた。
    駅の改札から映画館に向かって歩いていると、周りの人に話しかけている男性がいる。
    くたびれた長袖長ズボンを着ていて、白髪の多い髪は肩より伸びてパサパサとしていた。

    男性は、手に持った空の器を差し出しながら、横を通る人に次々と話しかけていた。

    ……でも、話しかけられているのに誰一人として返事をせず、目も向けていない。
    いつもは少し返事を返さないだけでも注意をする大人たちが、まるで本当にその人がいないみたいに無視している。
    どういうことか分からない。

    友達も、夏休みの話を続けている。
    親も、何も気にしていないようだった。
    ……気にしてはいけないのだろう。

    歩いていくみんなの後ろを急いで付いていくが、違和感に耐えきれず振り返った。

    ……ズボンが。ズボンのお尻の周りが濡れてしまっている。
    色褪せて汚れたグレーのズボンに、暗い染みが広がっていた。


    映画館に着くと、親が人数分のチケットを買ってくれた。たしか、数千円。
    私たちの「いつものやつ」であるポップコーンとジュースも頼んでくれた。こっちは確か、1人千円くらいだった。

    全員が「いつものやつ」のトレイを持って、シアターに向かう。
    席に着くと友達に話しかけられるが、生返事を返す。


    ……私は、なにをしているんだろう。

    わかっている。
    これから映画を観るためにここにいる。

    でも、なにをしているんだろう。

    横に置いたポップコーンとジュースを見て思う。
    これは、私に必要なものなのだろうか。
    ないと生きていけないもの?
    そんなわけがない。

    食べなくても生きられるものを食べて、
    飲まなくても生きられるものを飲んで、
    観なくても生きられるものを観る。
    なくてもいいものなのに。

    映画の記憶はあまりない。


    それからは、多分、少しおかしかった。

    毎日寝る前に思い出しては、考えてしまう。

    もし、私が映画を観たあのお金があれば、彼は穿いていたあのズボンを新しいものに替えられたはず。
    あのズボンを替えていないのに、ご飯は食べられているのだろうか。
    あのお金があれば、彼は食事をすることもできたはず。

    もしも私がお金の使い方を変えていれば、あの人を助けられたのでは?
    私は誰かを助けられるのに、助けない選択をしている?

    ……私は、他人の命よりも自分の娯楽を選んでいるのではないか。
    他人の命と自分の娯楽を天秤にかけて、毎日毎日毎日、後者を選んでいるのではないか。
    他人の命を見捨てて、遊んで生きている?

    本当は、ずっと知っていたはずだ。
    道徳の授業で習った。教科書にあった。
    地球の裏側で困っている人も居るらしいこと。
    戦争が起きて食事がままならない人も居るらしいこと。
    知っていたはず。
    知っていたのに、分かってなかった。


    毎晩泣きながら考えていた。
    でも、考えても考えても分からない。

    寝る前だけじゃない。
    ゲームをしているときも、お菓子を食べているときも、クレーンゲームで遊んでいるときも、ジュースを飲んでいるときですら。お風呂に入るときも。
    あのズボンがふとよぎる。

    私にできることはあったのだろうか。
    でも、どうすればいいのか分からない。


    数ヶ月ほど経った頃、親に話すことにした。

    映画を観に行ったあの時に見た人の姿が忘れられない。ズボンを替えることもできないのではないか。ご飯は食べれているのだろうか。怖い。私はどうすればいいのだろう。

    と、嗚咽混じりにどうにか伝えた。
    話している間、背中をさすってくれる親の体温を感じていた。

    親は落ち着いた声で優しく答えてくれた。

    年金制度というものがあって、ちゃんとお金を払えば、歳をとって働けなくなってもお金を貰うことができる。家で暮らせるから、大丈夫だよ。
    その人は、お金を払うことができていなかったのかもしれないね。


    残念なことに、私はうまく伝えられていなかった。
    自分が同じ状況になるのを恐れているのではなく、現状を放置しているのが怖いのだ、と伝えられなかった。
    すぐ横で話す親が、なんだか遠く感じた。

    親の話に釈然としない気持ちだったが、改めてその話をする気にはなれなかった。
    ズボンを替えられていないあの人に、何もしていない事実は親も同じ。
    この事実は、親のことも責めるものなのだと考えるようになったからだ。
    その事実を私自身が受け止めきれていないように、
    もし親も向き合うことになったら、受け止めきれないかもしれない。

    その日から誰かに相談するのはやめた。

    他の人に相談する代わりに、何年も考え続けた。
    でも、何を考えても、何度考えても、答えが出ない。
    解決するために何をすればいいか分からない。

    似た悩みを見かけても、それへの答えはどれも詭弁ばかりに感じた。
    解決するためじゃない自分が楽になるための言葉など聞きたくもなかった。

    「その人たちのために募金すればいいんだよ」
    でも、募金も実際は悪い人たちのお金になるかもしれないって聞いたよ?
    行方の分からないものに頼るなんて、ただやった気になりたいだけじゃないの?

    「娯楽もね、人間生きるために必要なんだよ」
    健やかな生活には必要かもしれないけど、娯楽もなく今も生きられない人の話はどこにいったの?

    「誰かを救おうだなんてこと考えないで子どもは自由に生きてればいいんだ」
    なんで子どもはやらなくていいの?子どもが未熟だから?
    じゃあ例えばいじめを見かけても、未熟なら見て見ぬふりするのがよいことなの?


    どう生きればよいのか分からなかった。

    ……でも、間違えた生き方になったとしても、いいのかもしれない。
    もし自分の生き方が間違いだとしたら、きっと死後の世界で裁いてもらって地獄に落としてもらえる。
    自由に生きることが罪ならば、罪にあった罰はいずれ受けられる。
    だから、生きている間は自分のことで自由に過ごしてもいいのではないか。

    なんて。そんなのは自由に生きることの許しが欲しいだけだ。
    そんな確証もない裁きを仮定して、自分に身勝手を許そうなんて、気持ち悪い。


    行き場のない感情の中で、いつまでも答えを見つけることができないまま悩んでいた。
    ただ、成人した頃にやっと自分なりに答えの一つに辿り着いた。

    それは成人して政治に目を向けるようになって見つけた社会保障制度だった。
    この制度は自分の手の届かない人も含めて人々が支え合って生きていくための仕組みで、
    私の求めていた答えと同じ方向にあった。
    もちろん、どの制度に税金を使うか決める権利を持ってはいないため、自分の考えを任せられると思う人に投票して委ねる必要はある。

    私は一人で手の届かない誰かをなんとかしようとして、結局誰も救えないと嘆いていた。
    でも今の社会自体が、皆で救うための仕組みとなっていた。
    本当に余すところなく救えるわけではないかもしれないが、救うために社会で築いてきた知恵はちゃんと存在していたのだ。

    過去に親に相談した時の答えは、当たらずとも遠からずで一周して戻ってきたようだった。

    今の私なら、少なくとも過去の私を言い負かしてあげられる。
    救ってあげられる。

    そのことに気づいてからは重い肩の荷は徐々に軽くなっていった。


    明後日の投票日は大雨と聞いたので、少し遠くの会館まで行かないといけないが今日のうちに済ませてしまおう。
    買い出しに行くも大変そうだし、念のため帰りにスーパーの買い溜めもしよう。

    どうせ会館まで行くなら、横のレストランで外食もして行きたいな。
    あそこのデザート、すごく美味しかったから。

     
     
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