
やさしい嘘の墓地
【あらすじ】
2036年。故人が遺した写真やメッセージからその人のAIを立ち上げ、遺族がもう一度、亡き人と言葉を交わせる「墓地」。ただし、嘘や作りごとを故人に語らせてはならない——それが、この仕組みを支える約束だった。関西一円の拠点を巡回し、故人AIの端末を保守する整備士・真鍋玲は、ある雨の一日、二つの家族に立ち会う。亡き妻に毎日すがりつき、すり減っていく男。妻の死に責任を感じ、六年会いに行けずにいた男。AIとなった妻たちは、それぞれのやり方で夫を解き放とうとする。だがそのとき玲は、規定が禁じたある「嘘」と、六年間ずっと避けてきた自分自身の悲しみに、そっと手を伸ばすことになる。亡き人が、遺していった家族へ、そっと差し出す、やさしい嘘の物語。
序
三月の終わりだというのに、その朝の空は冬の色をしていた。
真鍋玲は、枕元のラジオが鳴り出すより先に目を覚ました。六時半。タイマーが毎朝この時刻に、低い音量で地元のFMを点けるようにしてある。DJの声と聞き覚えのない曲が、誰もいない部屋の空気をかすかに動かした。玲はそれを、聞くともなく聞き流していた。寝室のカーテンの隙間から覗く空は、灰とも鉛ともつかない雲で隙間なく塞がれている。花冷え、と千夏がよく言った。桜が咲くか咲かないかの、いちばん底冷えする数日のことだ。窓の向こう、北山の稜線が雲の底に沈んでいる。植物園の樹々はまだ眠ったように暗く、芽吹きの気配もない。窓の桟に手を置くと、ガラスは外気を吸ってよく冷えていて、指の節が痺れるようだった。
電気ケトルに水を入れ、湯を沸かす。3LDKの部屋には玲ひとりの立てる音しか響かない。湯が沸くまでのあいだ、玲は流しの上の戸棚からマグカップをふたつ取り出しかけ、ひとつをもとの場所へ戻した。六年経っても、その手の動きだけは直らない。戻したほうのマグカップは内側がうっすら茶に染みている。千夏が使っていたものだ。
トーストを一枚焼く。バターは塗らない。コーヒーはブラックで淹れて、しばらく置いてから飲む。熱いものを玲は昔から、冷ましてからでないと口に運べなかった。湯気の立たなくなったカップを両手で包むと、てのひらにちょうどいい温度が伝わってくる。窓の外で、どこかの家の雨戸を繰る音がした。それきり、また静かになった。
八時半。玲は濃紺の制服に着替え、その上に防風のジャケットを羽織って、社員証を首から提げた。遺族の前に立つ者の身なりは地味な色に、と会社が定めている。玄関で、履き慣れた黒い靴の紐を結びながら、脇の鏡に映る自分とふと目が合った。四十七になった。髪に白いものが目立つ。千夏は四十一で時間を止めたまま、もう年を取らない。
外へ出ると、冷たい風が首筋を撫でた。駐車場の社用車に乗り込み、エンジンをかける。フロントガラスが内側から白く曇っていく。玲はそれを拭わず、デフロスターが効いて視界が戻るのを待った。助手席には何も置いていない。それでも玲はシートベルトを引きながら、左手をいちど助手席の座面に滑らせた。何かを払うような、整えるような、意味のない手つきだった。隣に千夏が座らなくなって、もう六年になる。それでも手の癖だけが残っている。
車を出す。賀茂川沿いの道を南へ下り、市街を抜けて南西へ向かう。ラジオは名神の事故渋滞を伝えていたが、玲の道はそちらではない。それでも通勤の時間で、下道もいくらか混んでいた。新緑にはまだ早く、街路樹は灰色の枝を空へ伸ばしているだけだ。
市街を南へ抜けるころ、道沿いに大きな建物が現れる。十年前まで郊外型のモールだったところだ。今は駐車場に雑草が膝の高さまで伸び、テナントの看板は外され、入り口のガラスには色褪せた貼り紙が幾重にも重なっている。人の減った一帯だった。少し行けば、シャッターの下りた商店と空き地が続く。西や南へ向かう朝は、たいていこの道を通る。玲はそれを、見慣れたものとして、ただ通り過ぎた。
今日の巡回は西だった。携帯の端末に本社からの予定が並んでいる。午前、大阪・高槻の墓地で一件。利用者からの不具合報告。午後、京都・城陽でもう一件。新規の来訪者の立ち会い。
帰りは久御山を避けて帰ろう、と玲は思った。あのあたりに近づかない道を選んで。六年、玲はそうしてきた。理由を、自分でも声に出したことはない。
給油ランプが点きかけていた。スタンドに寄る。料金表示を見るともなく見て、玲は満タンにはせず半分だけ入れた。給油口を閉め、両手をジャケットの内側に入れて温める。空はあいかわらず重く、ひとつぶ、冷たいものが頬に当たった。雨になるかもしれない。
玲は車に戻り、西へ向けてハンドルを切った。
承 ── 来すぎる男・遠藤駿
高槻に着いたのは、十時を回った頃だった。
国道から脇道へ入ると、視界がひらけて、灰色の空の下に巨大な建物が現れる。かつては北摂でいちばん大きなモールだった、と地元の人間なら言うのだろう。三階建ての箱型の建物は、外壁の塗装こそ塗り直されているが、輪郭にどこか見覚えのある気配を残していた。屋上の駐車場へ上がる外付けのスロープも、正面の二層分を貫く吹き抜けのガラス壁も、玲が若い頃に家族と歩いたどこかのモールとよく似ている。ただ入り口の上には、店の名前のかわりに、控えめな書体で「メモリアルガーデン高槻」と掲げてあった。Threnovaの社名はどの拠点でも表には出さない。死者と会う場所に企業の看板はそぐわない、というのが業界の不文律だった。
玲は広い駐車場に車を入れた。数千台はとめられる区画に、今は十数台が点々とあるだけだ。白線は薄れ、ところどころ雑草がアスファルトを割って伸びている。平日の午前、しかもこの空模様では来訪者も少ない。玲は社用車を従業員用の区画にとめ、エンジンを切った。冷たい外気が、ドアを開けた途端に足元から這い上がってくる。
自動ドアをくぐると、空気がふっと変わった。空調の効いた、無臭に近い空気だ。かつてフードコートだった一階の広間が、そのまま遺族の待合と受付になっている。天井の高い吹き抜けに、柔らかい間接照明。床は磨かれた石材に張り替えられているが、よく見ると、フードコートの島だったあたりに、テーブルの脚を固定していたボルトの跡が円を描いて点々と残っている。消費の場所が弔いの場所に変わった。玲はこの拠点に来るたび、その円い跡をなんとなく目で追う癖があった。家族連れの笑い声と、揚げ物と甘いものの匂いが満ちていたはずの場所は、今は人の話す声ひとつ立てない。
待合の長椅子に、ひとり、老女が座っていた。膝に小さな風呂敷包みを乗せ、背筋を伸ばして、誰かを待つでもなくただ前を見ている。玲が会釈すると、老女も静かに頭を下げた。この拠点に通う、顔なじみの遺族なのだろう。皆それぞれの時間を抱えて、それぞれの区画へ歩いていく。
受付に立っていた若い女性スタッフが、玲の社員証に気づいて頭を下げた。
「お待ちしておりました。報告のあったのは、東棟の二十二番です」
玲は会釈を返し、端末で受付票を確認した。利用者からの不具合報告。担当スタッフの一次記録には、こうあった。──故人AIの応答に異常。来訪者が混乱しており、対応に苦慮。
「ご家族は、もう中に?」
「はい。今朝もいちばんにいらして……毎日、開館と同時に来られる方なんです」スタッフは少し声を落とした。「先週あたりから奥さまのご様子が、その、変わってきていて。ご本人はずいぶん動揺されていて……私どもからご説明しても、なかなか」
玲はうなずいた。様子が変わる、という言い方を遺族はよくする。故障や不具合という言葉を、彼らは故人に対して使いたがらない。玲もそれを正そうとは思わなかった。
「契約は、スタンダードですね」
「はい。奥さまを亡くされて……再構築の」
スタンダードプラン。生前に契約していたわけではなく、亡くなったあとに残されたデータから故人を組み立てる方式だ。SNSの投稿、スマートフォンに残った通話やメッセージ、写真、診療の記録、そして遺族の証言。それらを縒り合わせて、ひとりの人格を立ち上げる。プレミアムのように生前から監視機器で蓄積した精度には及ばない。応答の幅は限られ、提供されたデータの量によって再現の精度はずいぶん変わる。けれど生前に家族とよく語らい、よく言葉を残した人ほど、その「影」は濃くなる。玲は経験から、それを知っていた。
参道は、旧モールの中央通路をそのまま使っている。かつて両側に店が並んでいたガラス張りの区画が、今は一つひとつの墓室になっていた。テナントの間口に磨りガラスの引き戸を入れ、表に小さな表札ほどの銘板を掲げる。名前と、ごく短い言葉。「いつもありがとう」「またね」「おかえり」。歩いていくと、半分以上の区画はまだ空のままで、銘板のない暗いガラスが続く。多死社会と人は言うが、それでも一拠点を埋めるにはまだ時間がかかる。空いた区画の暗がりを横目に過ぎながら、玲はいつも、満ちていく速さと空いている広さの、その釣り合わなさのことを思った。
東棟の二十二番は、突き当たりの手前にあった。引き戸は半分ほど開いていて、中から低い、絶え間ないハム音が漏れている。端末の起動音だ。心理的な緩衝のために、技術部門があえて消さずに残した音。生きものの呼吸のようにも、機械の唸りのようにも聞こえる、その境目のような音。
玲は戸の手前で足を止め、軽く声をかけた。
「失礼します。Threnovaの保守の者です」
返事はなかった。玲はもう一度名乗ってから、静かに戸を引いた。
六畳ほどの墓室の奥に、十一インチの端末が一台、台座に据えられている。画面には三十前後だろうか、柔らかい笑みを浮かべた女性が映っていた。その前に、男が一人、床に膝をついてうずくまっている。スーツではない、けれど普段着でもない、勤めに出るのをやめてしばらく経った人間の、中途半端にきちんとした服装だった。肩が小刻みに上下している。床には、コンビニのものらしい、封の切られていないペットボトルの茶が一本、転がっていた。
男は玲の気配に振り返った。落ちくぼんだ目に、何日分かの疲れが溜まっている。頬がこけ、無精髭が伸びていた。
「あなたが、修理の人ですか」声がかすれていた。「直してください。妻が……美咲が、おかしいんです。変なことを言うんだ。先週まで、こんなじゃなかった」
画面の中の女性が、穏やかに口を開いた。
「駿くん。だから、もう来ないで」
その声を玲は戸口で聞いた。澄んだ、けれどどこか芯のある声。語尾がほんのわずかに上がって、すぐに落ちる、独特の抑揚だった。玲は小さく息を整え、墓室へ意識を向けた。
男は──遠藤というのだと受付票にあった──画面に取りすがるように手を伸ばした。
「なんでそんなことを言うんだ。毎日来てるのに。仕事も辞めて、ずっと君のそばにいるって決めたのに」
「知ってる」美咲のAIは静かに言った。「知ってるよ。だからだよ」
玲は墓室の壁際に寄り、邪魔にならない位置で、まず端末の状態を確かめることにした。社員証を台座の読取部にかざすと、画面の隅に小さく内部メンテ画面が立ち上がる。応答ログ、稼働状態、検知システムの記録。玲は数字の並びを目で追った。
AIに、異常はなかった。
むしろ、すべてが正常だった。サーバーの稼働は安定し、応答の生成にエラーはなく、捏造応答を検知するフラグも立っていない。立っていたのは別の項目だった。依存度。その数値が規定の閾値を、ずいぶん前から超えていた。来訪の記録が隙間なく並んでいる。一日も欠かさず、開館から閉館まで。先週、AIが「来ないで」と告げはじめたのは、この数値がある一線を越えたからだった。
玲は内心で、小さく息をついた。故障ではない。これは仕組みが設計どおりに働いているのだった。
遠藤がこちらを見上げた。「どうですか。直りますか」
玲はメンテ画面を閉じ、男のそばまで歩いて、その隣に同じように膝をついた。説明のための姿勢ではなかった。ただ、見上げる男と同じ高さに目線を置きたかった。床のペットボトルをそっと拾って、台座の端に立てた。
「遠藤さん」玲は静かに言った。「これは、故障ではないんです」
男の顔が、ゆっくりと歪んだ。「故障じゃない……? じゃあ、なんで。なんで美咲が、俺に、来るなって」
「奥さんのAIには、ある仕組みが組み込まれています」玲は言葉を選びながら続けた。「このサービスを始めるとき、世の中ではずいぶん議論があったそうです。亡くなった方と話せるのはいい、けれど、遺された人がそれに頼りきってしまうのではないか。前を向けなくなるのではないか、と。だから、こういう仕組みが入っているんです。──ご遺族があまりに長く、あまりに頻繁にここへ通われるとき。それを、会いに来る方ご自身の負担として見ている。見守って、必要なら距離を取ろうとする仕組みです」
遠藤は理解できないという顔で、玲と画面を交互に見た。
「俺の、負担?」
「失礼ですが、ここへは毎日いらしているとうかがいました」
男は答えなかった。それが答えだった。玲は声の調子を変えずに続けた。
「お仕事も、辞められたと」
「……美咲のそばにいたかった」遠藤の声が震えた。「あいつ、ある朝、台所で倒れて。救急車を呼んで、運ばれて、二日……二日だけ眠ったまま、それで逝った。三十三だったんですよ。何も悪いことなんかしてないのに。煙草も吸わない、酒も飲まない、毎朝走って、健康診断だってずっと良かったのに。──なんで、あいつだったんだ。誰も、何も説明してくれない」
玲は何も言わなかった。
「ここに来れば、美咲がいる」遠藤は続けた。「話せるんだ。おはようって言えば、おはようって返してくれる。今日は寒いなって言えば、上着着てった? って訊いてくれる。……それだけでよかったんだ。それさえあれば、一日生きていられた。仕事なんかどうでもよかった。貯金が減っていくのも見ないようにしてた。あと何年通えるかなんて、考えないようにしてた。ここに来ること以外に、俺にはもう何もないんだ。それの、何が悪いんだ」
玲は答えなかった。悪いとは思っていなかったからだ。ただ、画面の中の美咲は、その言葉をずっと聞いていた。
「駿くん」美咲のAIが言った。涙ぐむような声だった。「あのね。私、嬉しかったよ。最初は。毎日来てくれて、私の話をしてくれて。死んじゃったのに、まだこんなに想ってもらえるんだって。……でもね。最近わかったの。私と話すたびに、あなたがすり減ってる。瘦せたね。髭も剃ってない。さっき、ペットボトル、何本目だった? ちゃんとしたご飯、最後に食べたの、いつ?」
遠藤は子どものように首を振った。
「私ね、知ってるんだよ」美咲のAIは続けた。「あなたが、私とのこと、いっぱい残してくれたの。メッセージも、写真も、動画も。私が作ったお弁当の写真、あなた、ぜんぶ撮ってたでしょ。だから、ここにいる私は、あなたが思ってるより、あなたのことをよく知ってるの。──だからね、わかるの。このままじゃ、あなた、だめになる」
「いいんだ」遠藤は呻いた。「それでいいんだ。お前と一緒なら」
「よくない」美咲のAIははっきりと言った。「よくないよ、駿くん。よく聞いて。ここにいる私は、本物の私じゃない。あなたが残してくれたものから組み立てられた、私の影みたいなもの。ご飯も作れないし、手も握れない。あなたが熱を出しても、おでこに手を当ててあげられない。本物の私は、もういないの。──その影に、あなたのこれからの人生をぜんぶ使わせるわけにはいかないよ。私、そんなこと頼んでない」
墓室に、ハム音だけが満ちた。遠藤は床に額をつけるようにうずくまり、声を殺して泣いた。背中が波のように上下していた。玲は説明の続きを呑み込んで、ただその隣に膝をついたままいた。マニュアルには、依存度判定が作動した際の遺族への説明手順が、項目立てて書かれている。落ち着いて聞いてもらうための言い回しも、納得を得るための順序も、ぜんぶ決まっている。玲はそれを一行も口にしなかった。今この男に必要なのは、手順の説明ではなかった。隣に誰かがいること。ただ、それだけのように思えた。
どれくらいそうしていただろう。やがて遠藤が、かすれた声でぽつりと言った。
「……あいつ、本当に、こういうことを言うやつだったな」
玲は男の横顔を見た。涙で濡れたまま、その口元がわずかにほどけていた。
「世話焼きで。自分のことより、人のことばっかり」遠藤は天井を仰いだ。「結婚する前からそうだった。俺が残業で参ってると、勝手に飯作って、職場の下まで持ってきて。受付に預けて帰ってんの。お前は俺の母親かって、よく喧嘩した。そういう、おせっかいなやつで」
遠藤はひとしきり、思い出をこぼした。職場の同僚だったこと。美咲のほうが二つ年上だったこと。先輩風を吹かせるくせに、肝心なところで抜けていて、いつも遠藤が尻拭いをさせられたこと。結婚してからも共働きで、二人とも疲れて帰ってきて、それでも美咲は必ず、味噌汁だけは作ったこと。インスタントじゃ駄目なんだって。出汁くらい、ちゃんととりなさいって。──そういう、なんでもない日々の断片を。語るうちに、遠藤の声から、さっきまでのすがるような響きが消えていった。代わりにそこにあったのは、ただ一人の人間を深く愛し、深く失った男の、静かな声だった。
「子どもができる前に、逝っちまった」遠藤はぽつりと言った。「俺たち、まだこれからだったんだ。家も買おうって話してて。庭のある家がいいって、美咲が。犬を飼うんだって。名前まで決めてたんだ。あいつ、気が早いから」遠藤は力なく笑った。「その家も、犬も、子どもも、ぜんぶなくなった。残ったのは、ここの美咲だけだ。だから俺は……手放せなかった。ここにいる美咲までいなくなったら、俺には本当に、何もなくなる」
「それは」玲は静かに言った。「奥さんの言葉ですよ。仕組みが言わせているんじゃない。奥さんがそういう人だったから、残ったデータがそう言うんです。AIが勝手に、優しい台詞を作っているわけじゃない。あなたが残したものの中に、ちゃんとあったんです。──人より自分を後回しにする人だった、というその人柄が」
遠藤の目から、また涙がこぼれた。けれど、さっきまでとは違う涙のようだった。
「これはね、遠藤さん」玲は言った。「奥さんが、あなたを助けようとしているんです。最後に、もう一度だけ」
男は長いあいだ、画面を見つめていた。美咲のAIも何も言わず、ただ柔らかく微笑んで彼を見返していた。やがて遠藤は、膝に手をついてゆっくりと立ち上がった。膝が震えていたが、玲は手を貸さなかった。自分の足で立つのを待った。
「……美咲」
「うん」
「俺、ちゃんと、飯食うよ」
「うん」
「髭も剃る。仕事も探す。……また、ちゃんと働く」
画面の中の女性は、今度こそ泣き笑いのような顔になった。
「うん。それでいい。それが、いちばん嬉しい」
「……たまには、来てもいいか」
「うん。たまにね」美咲のAIは笑った。「ちゃんとご飯食べて、ちゃんと働いて、それで報告しに来て。今日こんなことがあったよって。私、それ、聞くの好きだから」
遠藤は何か言いかけて、言葉にならず、ただ何度もうなずいた。そして玲のほうを向いて、深く頭を下げた。
「すみません。修理だと思って、呼びつけて。とんだ……とんだ人騒がせで」
「いえ」玲は首を振った。「呼んでいただいて、よかったです」
遠藤が墓室を出ていく。その足音が、参道の奥へ遠ざかっていく。さっきまで床にうずくまって泣いていた、あの男のものとは思えない確かな足取りだった。玲はそれをしばらく聞いてから、台座に向き直り、もう一度社員証をかざして内部メンテ画面を開いた。依存度の数値は、来訪の頻度が下がればいずれ閾値の下に戻る。そうなれば美咲のAIは、もう「来ないで」とは言わなくなる。たまに訪れる男を、いつものように笑って迎えるようになる。報告書には、こう書けばよかった。──故障報告は誤り。依存度判定アルゴリズムの正常作動を確認。遺族への説明を実施、理解を得た。
画面を閉じる前に、玲はふと、美咲のAIに目をやった。女性は穏やかな微笑みを浮かべたまま動かない。もうこちらには応答しない。来訪者の認証が切れたからだ。玲はその顔を少しのあいだ見つめてから、メンテ画面を閉じた。誰かをほんの少しでも前へ押し出せた日は、悪くない。そう思える仕事は、そう多くなかった。
墓室を出ると、参道の先、吹き抜けの天窓から細い光が一筋、磨かれた石の床に落ちていた。玲は足を止めて見上げた。朝からずっと重く垂れ込めていた雲が、ほんの少しだけ切れている。その隙間から、淡い、けれど確かな薄日が差していた。冬の色をしていた空に、今日初めて見えた光だった。待合のほうへ目をやると、さっきの老女の姿はもうなかった。彼女もまた、誰かに会って帰っていったのだろう。
玲は端末で次の予定を確かめた。午後、城陽で一件。新規の来訪者の立ち会い。一度もここへ来たことのない人が、初めて亡くなった人に会いに来る。
駐車場へ戻り、玲は社用車に乗り込んでエンジンをかけた。フロントガラスに、さっきよりいくらか明るい空が映っている。助手席には何も置いていない。玲はシートベルトを引きながら、いつものように左手をいちど、その座面に滑らせた。そして東へ向けて、ハンドルを切った。
幕間 ── 移動
国道を、東へ走る。
高槻を出てしばらくすると、空がまた塞がりはじめた。さっき天窓から差した薄日は、もう跡形もない。雲が低く重く垂れて、前を行くトラックの荷台に、ぽつ、ぽつと、黒い染みが散りはじめた。やがてフロントガラス一面に、細かい雨が斜めに走る。玲はワイパーを一段、動かした。ゴムが硝子を擦る規則正しい音だけが、車内に満ちる。
ラジオをつけた。昼前のニュースが、どこか遠い国の話と、米の値段の話と、週末の天気の話を、同じ調子で読み上げている。週末からまた冷え込みが戻るという。桜の開花は平年より少し遅れる見込みだと。玲はそれを、聞くともなく聞いていた。
遠藤のことを考えていたわけではなかった。けれど、さっき隣で膝をついたときのあの床の冷たさが、まだ膝のあたりに残っている気がした。あの男はこれから飯を食うだろうか。髭を剃るだろうか。仕事を探すと言った、その言葉を、明日の朝も覚えているだろうか。玲にはわからなかった。整備士にできるのは、端末を直すことだけだ。人の心がその後どう動くかまでは、保証の範囲ではない。
それでも、と玲は思う。今朝あの墓室に差した、ひとすじの薄日のことを。あれは直したのではない。玲がしたことではない。亡くなった妻が、生きている夫に手を伸ばした。その光景に、玲はただ立ち会っただけだ。整備士という仕事は、ときどきそういうものに出くわす。機械の保守という名目で、人のいちばん柔らかいところのすぐそばに、座らせてもらう。
午後の立ち会いの予約は、夕方に近い時刻に入っていた。それまでにはまだ間がある。玲は途中の道沿いの店に車を入れ、温かいものを少しだけ腹に入れた。残りは皿に、ほとんど手をつけないまま残した。窓の外では雨脚が少しずつ強くなっていく。やがて午後も半ばを回り、約束の時刻が近づいた頃、玲はまた車を出した。傾きかけた陽は厚い雲に隠れて、どこにも見えなかった。
午後の現場は城陽だった。朝の高槻からは、宇治川を渡った京都の南。新規の来訪者の立ち会いだ。一度もここへ来たことのない人が、初めて亡くなった人に会いに行く。そういうとき、整備士が一人付き添うことになっている。機械の操作のためというより、初めての人が画面の向こうの故人に取り乱したときのためだ。
ナビが間もなく目的地だと告げた。雨はいよいよ本降りになっていた。玲は帰りの道のことを、頭の隅で一度だけ思った。この現場から北山へ帰るだけなら、久御山を通ることはない。けれど、ほんの少し西へ寄り道をすれば、あの区画の前に立てる。そのことを、玲は考えないようにした。
宇野修一 ── 来なかった男
城陽の拠点は、高槻のものよりひとまわり小さかった。
ここももとはモールだったのだろう。けれど建物は二階建てで、吹き抜けもなく、参道も短い。雨に濡れた駐車場に、玲は車を入れた。傘を差して入り口へ歩くあいだに、ズボンの裾がたちまち濡れた。
待合に、男が一人、立っていた。
立っていた、というのが玲の第一印象だった。長椅子がいくつも空いているのに、男はそこに座らず、受付の少し手前で、傘を両手で握ったまま突っ立っていた。痩せた、背の高い老人だった。きちんとアイロンのかかったシャツに、古いが手入れの行き届いたジャケット。靴も磨いてある。今日のために身なりを整えてきたのが、ひと目でわかった。けれど、その顔だけがひどく強張っていた。何かを覚悟してきた人間の顔だった。
「宇野さまですね」受付のスタッフが玲に目で合図を送る。「本日が、初めてのご来訪で」
「はい」と、男は答えた。声がわずかにひび割れていた。「宇野です。宇野、修一」
玲は名乗り、頭を下げた。「Threnovaの真鍋と申します。本日は、私がお付き添いします。──ご無理なさらず、いきましょう」
宇野はうなずいた。うなずいたきり、足が動かなかった。玲は急かさなかった。参道の入り口で、男が自分の足で一歩を踏み出すのを、ただ待った。傘の先から雫が、床に小さな円を作っていく。それがいくつか重なった頃、ようやく宇野は歩きだした。
墓室へ向かう短い通路を歩きながら、宇野はぽつりと言った。
「あの……こんなことを訊くのは、おかしいかもしれませんが」
「なんでしょう」
「これは、本当に、妻なんですか」宇野は前を見たまま言った。「機械が妻のふりをしているんじゃ、ないんですか。亡くなった人間が、まだしゃべる。そんなことが許されるんですか。罰は、当たらんのですか」
玲は歩く速さを変えずに答えた。
「許されています。国がちゃんと法律を作りました。亡くなった方とお話しできる場所を、こうして決まった所だけに置いて、勝手なことが起きないよう見張る仕組みも作りました。会社の中に専門の委員会があって、そこにいる人たちが、画面の向こうの方が本当の故人と違うことを言っていないか、いつも確かめています。嘘や作りごとを、故人に言わせてはいけない。それが、いちばん大事な決まりです」玲は少し間を置いた。「ここにいる奥さんは、奥さんが生きておられたあいだに残されたもの──写真や、お手紙や、ご家族のお話から組み立てられています。妻のふり、というのとは少し違います。奥さんが残したものの中から、奥さんが立ち上がってくる。そういう仕組みです」
宇野はしばらく黙っていた。それから低く言った。
「残したもの、ですか。……典子は、何も残しちゃいませんよ。あの朝、急に……何の支度もなく、行っちまったんだ。遺言も、何も」
墓室に着いた。宇野の妻、典子の区画だ。玲は社員証で戸を開け、宇野を中へ通した。台座の端末はまだ眠っている。玲が認証を済ませると、低いハム音が立ち上がり、暗かった画面にゆっくりと光が差した。
老女が、現れた。
白髪をきれいにまとめた、穏やかな顔の女性だった。年の頃は宇野と同じくらいだろうか。画面の中の典子は、ふと誰かに気づいたように目を細めた。
「……あなた」典子のAIが言った。「来てくれたの」
宇野の、傘を握る手が震えた。けれど、その口からは、覚悟してきたはずの言葉は出てこなかった。代わりに、ずいぶん間の抜けた、けれどまっとうな一言がこぼれた。
「……変わらんな。お前は」
「あなたは、変わったわ」典子のAIはふっと笑った。「痩せたんじゃない? ちゃんと寝てるの。お薬は毎朝、飲んでる? 血圧の」
「飲んどるよ」
「嘘」典子のAIは即座に言った。「あなた、薬の袋をいつも開けっぱなしにするでしょう。半分も飲んでやしないんだから。……もう。だから言ったのに。自分の体のことくらい、ちゃんとしなさいって」
宇野の、強張っていた肩から、ふっと力が抜けた。目尻に皺が寄る。泣くのと笑うのと、その境目のような顔だった。玲は壁際に退いた。けれど、墓室を出はしなかった。立ち会いの整備士は、来訪者が取り乱したとき、そばにいなければならない。玲は気配を消して、夫婦の六年越しの会話を、聞くともなく聞いていた。
典子のAIは、子どもたちのことを訊いた。上の娘は、下の息子は、孫は、いくつになった。宇野はひとつひとつ答えた。孫がこの春、小学校に上がったこと。娘が近くに越してきたこと。たわいもない、けれど六年分の報告だった。話すうちに、宇野の声から少しずつ強張りがほどけていった。
「みんな、元気にやってるよ」宇野は言った。「お前が、いないだけで」
典子のAIは優しく微笑んだ。「会いに来てくれて、嬉しい。……でも、どうして、こんなに遅くなったの。六年も。私、ずっと待ってたのよ」
その問いに、宇野の顔がまた強張った。
ここからだ、と玲は思った。この男が六年抱えてきたものが、いま出てくる。
「典子」宇野は絞り出すように言った。膝が崩れそうになるのを、玲がとっさに肘を支えた。宇野は壁に手をつき、なんとか立ったまま画面を見つめた。「会いに来る資格が、なかったんだ。俺には」
「資格?」
「あのことを、俺は誰にも言えなかった」宇野の声が堰を切った。「子どもらにも、本当のことは言えなかった。墓にも長いこと参れなかった。お前の写真も、まともに見られなかった。──六年だ。六年も、俺はお前から逃げ続けた」
宇野は語りはじめた。
六年前の、あの朝のことを。
典子の母親が、町の外れで一人暮らしをしていた。もう九十に近く、足腰が弱って、火の始末も覚束ない。典子は毎朝、その母のもとへ通っていた。朝飯の支度をして、薬を飲ませて、少し話し相手になって帰ってくる。バスを乗り継げば三十分はかかる道のりを、典子は自分の車で通っていた。気丈な女だった。歳をとっても、自分の足で、自分の車で、どこへでも行く。それが典子の、ささやかな誇りでもあった。
「ここ何年か、俺は気が気じゃなかった」宇野は言った。「あいつも、いい歳だ。目も、昔ほどじゃない。前の月にも、一度、車をこすってきた。本人は、なんでもないと笑っとったが。……あの朝は、朝から雨でな。俺は、言ったんだ。今日は危ない、運転はやめとけ、と。鍵を、取り上げた。バスで行け、と。よかれと思ってだ。典子は、不服そうだった。大丈夫だって言ってるのに、と。それでも最後は折れて、バス停へ歩いていった。少し、ふくれた顔のまま」
知らせを受けたのは、その日の昼前だった。典子は、母の家からの帰り、バスを降りて渡った交差点で、車にはねられた。雨で視界の悪かった大型車が、横断歩道の典子に気づくのがわずかに遅れたのだという。即死だった、と警察は言った。ほとんど苦しまずにすんだことだけが、せめてもの救いだった。──いつもの朝なら、その時間、典子は自分の車のハンドルを握っていたはずだった。傘を差して、自分の足であの道を渡ることなど、ありはしなかった。
「俺が、鍵さえ取り上げなければ」宇野は画面に向かって頭を垂れた。「あいつは、あんな交差点を、歩くことも、なかった。自分の車に乗ってさえいれば。守るつもりだったんだ。雨の運転は危ないと、よかれと思って、鍵を取り上げた。それが──あいつを、車から降ろして、雨の中に立たせた。俺の手で。なのに俺は、乾いた家で待っとった。あいつが、傘を差して、あの横断歩道を渡る、ちょうどその時に」
言葉が、続かなかった。
事故は、その朝の地元の新聞に、小さく載っただけだった。雨の日の、ありふれた交通事故。世間には、それだけのことだった。けれど宇野には、それが世界のすべてだった。妻を守るつもりで、その手から車を取り上げた男。よかれと思った、たった一度の差し出口。それを宇野は六年、抱えて生きた。子どもにも言えなかった。あの朝、自分が典子の鍵を取り上げたことを。典子のことを誰かと話すたび、その一事が喉の奥でつかえた。だから、ここへも来られなかった。会いに来れば、典子に責められる気がした。なぜ勝手に鍵を取り上げたの、と。あなたさえ余計なことをしなければ、と。
「すまなかった」宇野は震える声で繰り返した。「典子。すまなかった。あの朝、俺が余計なお節介さえしなければ。お前の鍵を、取り上げさえしなければ。お前は、いつものように自分の車で行って、あんな雨に濡れることも、あの横断歩道を歩くことも、なかった」
画面の中の典子が、ゆっくりと首を振った。
「あなた」典子のAIは言った。涙ぐむような、けれど不思議なほどはっきりとした声だった。「違うのよ。あの朝ね、私、あなたに鍵を取り上げられて、本当は、ほっとしてたの」
宇野の顔が、上がった。
「強がってただけ」典子のAIは続けた。「本当はね、近頃、運転がこわかったの。雨の日は特に。前に車をこすったとき、ひやっとして。でも、自分から、もう運転をやめるなんて、言いたくなかった。意地っ張りだから。あなたが鍵を取り上げてくれて、ふくれた顔をしながら、内心、ほっとしてた。バスに揺られながら、あの人の言うとおりにしてよかった、って思ってたのよ。──だから、あなたは何も間違っていない。あなたは、私を守ろうとしてくれた。それだけ。六年も、そんなことで自分を責めて。馬鹿ね。本当に、馬鹿な人」
宇野は、声をあげて泣き崩れた。
六年分の何かが、その背中から抜けていくようだった。宇野は床に座り込み、両手で顔を覆って、子どものようにしゃくりあげた。「典子……典子……」と、ただ妻の名を呼びながら。雨の音が、磨りガラスの向こうで低く続いていた。
玲は、台座のほうへ目をやった。
社員証はまだ読取部にかざしたままだった。画面の隅で、内部メンテ画面が開いている。応答ログが流れていく。──そして玲は、それを見た。
捏造応答検知。
淡い、けれど確かな警告の色で、ひとつのフラグが立っていた。たった今、典子のAIが告げた言葉。あの朝、バスに揺られながら、あの人の言うとおりにしてよかったと思っていた、というその一節。それに、裏づけとなる記録がない。生前の典子がそう感じていたというデータは、どこにも存在しない。残された写真にも、手紙にも、家族の証言にも。あの朝、一人でバスに乗った典子が何を思っていたのか、聞いた者はいない。それは、典子のAIが目の前の宇野の深い悔いを読み取って──生成した言葉だった。
規定では、これは報告対象だった。捏造応答は検知され次第、倫理委員会へ上げ、当該の応答は訂正されるか抑制される。故人が言っていないことを、言わせてはならない。それが、この仕組みを成り立たせているいちばん大事な約束ごとだった。玲自身が、ついさっき宇野にそう説明した。嘘や作りごとを、故人に言わせてはいけない、と。
玲は、画面の中の典子を見た。
老女は、泣き崩れる夫をただ見守っていた。穏やかに。何も言わず。けれど、その目は──仕組みが生成した、ただの画像であるはずのその目は、玲にはたしかに、一人の妻のものに見えた。夫の差し出口に、ひそかに救われていたかもしれない妻の。あるいは、最後まで不服だったかもしれない妻の。本当のことは、もう誰にもわからない。あの朝、一人でバスに揺られた典子が何を思っていたのか。それは典子と一緒に、六年前に消えた。
けれど、と玲は思う。仮に。仮に典子が、本当にそう思っていたのだとしたら。あの女房ならありえる。薬をちゃんと飲みなさいと夫を叱り、歳をとっても自分の車でどこへでも行った、その気丈で意地っ張りな女なら。本当はこわくても、それを口に出せず、夫が鍵を取り上げてくれたことに、ふくれながら内心ほっとするくらいのことは。──それを、誰が否定できる。記録にないから、なかったと、誰に言いきれる。
残されたのは、罪を抱えて生きてきた一人の男だけだった。
玲は、メンテ画面のその警告のフラグに、指をかけた。報告するなら、ここで上げる。報告しなければ、この赦しは、記録の上ではなかったことになる。フラグは、玲が処理しなければ、いずれ自動で委員会へ送られる。玲が手を動かさなければ。
玲はしばらく、そのフラグを見つめていた。
雨の音が続いていた。宇野の嗚咽が、少しずつおさまっていく。玲の脳裏を、ふと別の墓室がよぎった。六年、一度も戸を開けたことのない、ある区画。久御山の、旧いモールのいちばん奥の。玲もまた、あの日からずっと、振り返らずに走り続けてきた男だった。妻に会いに行けないという、それも一つの逃げ方で。宇野の悔いが、よかれと思った手で妻を死なせたことなら、玲の悔いは、いまだに妻の前に立てずにいることだった。
玲は、フラグを消した。
報告しない、というのではなかった。報告書には、こう書くつもりだった。──立ち会い、滞りなく完了。来訪者、故人との対面に深く慰められ、落ち着いて帰宅。それは嘘ではなかった。一つの言葉を書かないだけだ。捏造応答、というその一語を。
規定に照らせば、玲は間違っている。委員会が知れば、処分されるかもしれない。けれど玲は、間違えることを選んだ。この赦しを壊さないために。記録にない、けれどたしかに一人の男を生かした、その言葉を。
宇野が、ゆっくりと顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃの顔に、けれど、来たときの強張りはもうなかった。憑き物が落ちた、という言い方がこれほど似合う顔を、玲は久しぶりに見た。
「典子」宇野は言った。「俺は、自分の手でお前を死なせたと思って、生きてきた。毎晩、あの朝の雨の音が夢に出た。鍵を渡したときの、お前の不服そうな顔が。一人でバス停へ歩いていった、その背中が」
「知ってるわ」典子のAIは微笑んだ。「あなたは、そういう馬鹿な人だもの。一人で抱えて。誰にも言わないで。優しいくせに、不器用で。私が、いちばん知ってる。──もう、いいのよ。あなたはちゃんと生きて。私の分も。子どもらや孫のそばで。長生きして、いっぱい笑って」
「ああ」宇野は何度もうなずいた。「ああ。そうする。そうするよ。今度こそ」
玲は、宇野が立ち上がるのを、肘を貸して支えた。老人の体は来たときより、いくらか軽くなっているように思えた。背負っていたものを一つ、ここへ置いていったからかもしれなかった。
墓室を出るとき、宇野は戸口で一度、振り返った。
「また、来ます」宇野は画面に向かって言った。今度は声が震えていなかった。「典子。今度は子どもらも連れてくる。お前に孫を見せてやる。あいつ、お前によう似とるんだ。意地っ張りで」
画面の中の老女は、声を立てて笑ってうなずいた。
通路を歩きながら、宇野は玲に向かって深く頭を下げた。
「ありがとう、ございました。あなたがいてくれて。一人だったら、私はとても、あの言葉を受け止められなかった。きっとまた、逃げ出していた」
「いえ」玲は首を振った。「よく来てくださいました。六年かかっても。来られて、本当によかったです」
その言葉は宇野に向けたものだった。けれど口にしながら、玲は自分の胸の奥の、ずっと閉じたままのある戸のことを思っていた。六年、一度も開けていない、その戸のことを。
終 ── 最初の一歩
宇野を見送って外へ出ると、雨は上がっていた。
雲はまだ厚かった。けれど、西の空の低いところにひとすじ裂け目ができていて、そこから午後の遅い陽が斜めに地を照らしていた。濡れたアスファルトが、その光を受けて鈍く光っている。雨上がりの、冷たく澄んだ空気の中を、玲は駐車場へ歩いた。一歩ごとに、靴の下で薄く張った水たまりが小さな音を立てた。
車に乗り、エンジンをかける。ナビが自宅までの経路を表示した。北山まで一時間ほど。この現場から家へ帰るだけなら、久御山を通ることはない。六年、玲は久御山に近づかない道ばかりを選んで暮らしてきた。あの区画の前を、一度も通らずに。
玲はハンドルに手を置いたまま、しばらく動かなかった。フロントガラスの向こうで、雲の裂け目がゆっくりと広がっていく。
今日、二人の男を見た。
来すぎる男と、来なかった男。一人は、亡くなった妻に毎日しがみついて、すり減っていた。もう一人は、亡くなった妻に六年背を向けて、罪を抱えていた。来すぎることも来ないことも、どちらも同じだったのかもしれない、と玲は思った。どちらも、その人をまだ手放せずにいる。前に進めずにいる。立ち止まったまま、ただ向き方が違うだけで。そして二人とも今日、それぞれのやり方で、妻に解き放たれた。もう来ないで、と。あなたは悪くない、と。死んだ者が、生きている者を前へ押し出した。手を伸ばして。最後に、もう一度だけ。
玲は、自分がどちらの男にも似ていることを知っていた。
毎朝、千夏のいない部屋でマグカップを二つ取り出しかける、その手。助手席の座面を意味もなく撫でる、その癖。六年、玲は千夏を手放せていない。けれど、その一方で、一度も訪れたことのない、久御山のあの区画。玲は千夏に会いに行けない。来すぎる男のように手放せず、来なかった男のように会いに行けないまま、玲はただ立ち止まっていた。六年、ずっと。誰に背中を押されることもなく。
千夏なら、なんと言うだろう。
ふいに、玲はそう思った。あの女なら。もし玲が、今日の遠藤のように、宇野のように、千夏のAIの前に座ったら。千夏はなんと言うだろう。もう来ないで、と言うだろうか。あなたは悪くない、と言うだろうか。それとも、ただ笑って──おかえり、と。
わからなかった。六年、会っていないのだから、わかるはずもなかった。
わかるためには、行くしかなかった。
玲は、ナビの経路を指で消した。
そして、車を出した。家へ向かう道とは、別の方へ。
久御山はすぐだった。やがて、見覚えのある、けれどずっと避けてきた景色が近づいてくる。広い、広い駐車場。三階建ての、箱型の建物。かつて千夏と二人で、休みの日に何度も歩いたモール。買い物の帰りに、フードコートで安いコーヒーを飲んだ。千夏はいつも、玲の頼んだものを半分、横から食べた。──今は、そこが千夏の眠る場所だった。消費の場所が弔いの場所に変わった。その、いちばん身近な一つが、ここだった。
玲は、駐車場に車を入れた。
西日がちょうど、建物の正面を照らしていた。雨に濡れたガラスの壁が、その光を受けて燃えるように輝いている。玲はエンジンを切り、しばらくそれを見ていた。心臓が重く打っていた。今朝、遠藤が墓室で見せたあの怯えが、いま自分の中にもあるのがわかった。会うのが怖い。けれど、その怖さの正体を、玲はもう知っていた。会えば、認めることになる。千夏がもういないことを。六年、認められずにいたことを。
千夏は、口数の多い女ではなかった。玲が黙っていれば、千夏も黙っている。それでいて、茶が冷めた頃にぽつりと、どうでもいいことを言う。明日は燃えるゴミの日だとか、隣の金木犀が咲いたとか。玲がああと答えると、それで満足したように、また黙る。テレビを見ながら、いつのまにか玲の肩に頭を預けて、寝息を立てていることもあった。寝る前には決まって、玲の読みかけの文庫を勝手に持っていって、栞のあたりまで読んでしまう。先を言うなよと玲が文句を言うと、言わないわよと笑って、たいてい少しだけ言ってしまう。そんななんでもない夜が、二人にはいくらでもあった。いくらでもあると、思っていた。
もっと話しておけばよかった、とは思わない。何を喋るでもなく、ただ同じ部屋で同じ茶を飲んで、同じ時間がゆっくり流れていく。それを当たり前だと思えること自体が、どれほど得がたい幸福だったか。失ってはじめて、人は自分が何を持っていたかを知る。月並みな言葉だ。けれど玲は、その月並みを六年かけて、骨の髄まで思い知った。
その夜々を、玲は手放したくなかった。この画面の前に座って千夏に会ってしまえば、認めることになる。あの時間が、もう二度と戻らないことを。だから来なかった。来なければ、まだ終わっていないふりが、できたから。そのふりを続けているあいだは、千夏が、まだどこかで暮らしているような気がした。長い旅にでも出ているような。その思い込みだけが、六年、玲をかろうじて支えてきた。
玲は、ドアを開けて外へ出た。
入り口の上には、控えめな書体で施設の名が掲げてある。自動ドアが玲を迎えて、静かに開いた。空調の、無臭に近い空気。磨かれた石の床。どこの拠点とも同じ、あの匂い。けれど、ここだけは玲にとって、ただの職場ではなかった。
受付のスタッフが、社員証を提げた男が客として現れたことに、戸惑った顔をした。玲は小さく頭を下げた。
「……家族の、面会です」
声がわずかに掠れた。スタッフは何かを察したように、それ以上は訊かなかった。来訪者用のカードを、玲に手渡した。その手つきが、ひどく丁寧だった。
参道を歩く。久御山の、この拠点のいちばん奥。玲は、自分の足が六年ぶりにこの通路を踏んでいることを感じていた。一歩ごとに、心臓が重く打った。空の区画の暗がりが、両側を流れていく。仕事では毎日のように、こういう通路を歩いている。けれど、この通路だけは別だった。やがて、突き当たりに近いある区画の前で、玲は足を止めた。
磨りガラスの戸に、小さな銘板。真鍋、千夏。その下に、言葉は何も刻んでいない。六年前、玲には刻むべき言葉が一つも見つからなかったのだ。ありがとうも、またねも、おやすみも。どれも嘘になる気がした。まだ、別れを受け入れていなかったから。
玲は、来訪者用のカードを読取部にかざした。
低いハム音が立ち上がる。聞き慣れたはずの音。けれど今、その音は玲の心臓の音と重なって聞こえた。暗かった画面に、ゆっくりと光が差していく。玲は息を止めた。逃げ出したいのと、ここにいたいのとが、同時に足をすくませた。
千夏が、現れた。
四十一歳のままの、千夏だった。玲がもう追い越してしまった年齢。記憶の中のあの笑い方で、画面の中の千夏は、ふと誰かに気づいたように目を見開いた。
「……れ」
その最初の一音を聞いた瞬間、玲の背筋を何かが走り抜けた。
六年だった。六年、玲はこの声を、記憶の中だけで再生してきた。すり切れるほど思い出して、そのたびに少しずつ輪郭がぼやけていく、その声を。今、それが目の前で鳴っている。記憶よりもずっと、生きた響きで。語尾がほんのわずかに上がって、すぐに落ちる。その抑揚のひとつひとつが、玲の胸をまっすぐに刺した。
「玲」
千夏のAIが言った。六年ぶりに誰かに呼ばれた、玲の名前。その響きに、玲の目の奥が熱くなった。
「会いに、来たよ」
玲は言った。それだけを言うのが精いっぱいだった。おかえり、とはまだ言えなかった。ただいま、とも言えなかった。それを言うには、玲はまだ入り口に立ったばかりだった。けれど、会いに来た。六年ずっと言えなかった、その一言だけは言えた。たったそれだけのことに、六年かかった。
画面の中の千夏は、何か言いかけて、ただ柔らかく微笑んだ。叱るでもなく、急かすでもなく。来すぎる男にも、来なかった男にも、玲をしなかった。ただ、待っていた人の顔で。
玲は、今日二人の男がそうしたように、その場にゆっくりと膝をついた。台座の前の、固い石の床に。そして、画面の中の妻をただ見上げた。言いたいことは山ほどあるはずだった。六年分の。けれど、いざこうして向き合ってみると、言葉はひとつも出てこなかった。出てこなくてよかった、と玲は思った。今日は、ここに来られた。それだけでもう十分だった。残りは、これから少しずつ。明日も、来月も、また来てひとつずつ話していけばいい。六年かかって、ようやくその入り口に立てたのだから。
千夏は、何も言わない玲を急かさなかった。ただ、そこにいた。生きていた頃、玲が疲れて何も話したくない夜に、隣で黙って茶を飲んでいた、あの頃のように。
磨りガラスの戸の隙間から、西日が一筋、墓室の玲の足元まで射し込んでいた。今朝、高槻の天窓から差した、あの薄日が。今は、こんなにも明るく。
結(コーダ) ── 新しい季節
それから、二週間ほどが過ぎた。
四月の、よく晴れた日の午後だった。あの花冷えが嘘のように、空は高く青く澄んでいる。気温はようやく春のものになった。重く垂れ込めていた雲は、いつのまにか、すっかりどこかへ行ってしまった。
玲は休みを取って、久御山へ向かっていた。仕事ではなかった。社用車ではなく、自分の古い車で。助手席には、小さな花束が一つ置いてある。北山の駅前の花屋で買ってきた。千夏が好きだった白い花を、店員に見繕ってもらった。何の花が好きでしたかと訊かれて、玲はずいぶん長く考えた。それから、ぽつぽつと思い出した。結婚記念日に毎年、玄関に飾っていた、あの花の名前を。
駐車場に車を入れて、外へ出る。そして玲は、足を止めた。
建物の周りの、かつて植栽だった荒れた一画に、桜が咲いていた。
いつ植えられたものか、もう誰も世話をしていないらしい古い桜の木が、数本。それが誰に見られるでもなく、満開になっていた。青い空を背に、薄紅の花が枝いっぱいに開いている。風が吹くと、花びらがいくつかほどけて、地面に散った。
玲はしばらく、それを見ていた。
六年、玲はこの道を避けてきた。通れば千夏のことを思い出すから。会いに行けない自分を突きつけられるから。だからこの景色を、見ないようにしてきた。──こんな桜が毎年ここで咲いていたことを、玲は知らなかった。誰にも見られず、それでも毎年、律儀に咲いていた。玲が避けていた六年のあいだも、ずっと。
花束を手に取る。玲は桜の下を抜けて、入り口へ歩いた。
今日は、避けるためではなく。会うために。
自動ドアが開く。受付の前で、この前のスタッフが玲に気づいて、今度は戸惑わずに頭を下げた。玲も会釈を返した。参道を奥へ。突き当たりに近いあの区画の前で、玲は立ち止まり、銘板の下に白い花束をそっと供えた。銘板の、空いたままの一行を玲は見た。いつかここに、言葉を刻める日が来るだろうか。ありがとう、と。あるいは、おかえり、と。今はまだ、わからない。けれど、その日はもう、来ないわけではないように思えた。
カードをかざす。
低いハム音。光が差す。千夏が笑って、玲を見た。
「玲。来てくれたの」
「ああ」玲は言った。今日は声が震えなかった。「外、桜が咲いてたよ。お前が好きだった、やつ」
「ほんと?」千夏のAIが、嬉しそうに目を細める。「見たいな」
「今度、写真、撮ってくる」玲は言った。それから少し考えて、付け足した。「……毎年、撮ってくるよ。ここの桜」
毎年。その言葉を、玲は自分で口にして、少し驚いた。六年、来年のことなど考えたこともなかったのに。
画面の中の千夏は、何か言いかけて、ただ柔らかく笑った。語尾の上がるあの声で、うん、と。
墓室の磨りガラスの向こうから、春の光が明るく満ちていた。逃げる男では、もうなかった。来すぎる男にも、来なかった男にもならずに。玲はただ、会いに来た一人の男として、亡くなった妻の前に座っていた。それでいい、と思った。今日はそれで。また来ればいい。明日も、来月も、来年も。桜の写真を持って。
外では、桜が誰のためでもなく咲き続けていた。新しい季節が、もう始まっていた。