
ネガティブ・ケイパビリティを考えるヒント⑭ ~[最終回]ネガティブ・ケイパビリティとは~
この「ネガティブ・ケイパビリティを考えるヒント」を記載する試みは、ここまでに13本、1年以上にわたって続けてきたが、この⑭をもって最後にしようと思う。もう十分に論考は積み上げてきたし、これ以上なにか新たな視点を加える意味を見出せなくなったからだ。
世の中の多くは、「ネガティブ・ケイパビリティ」を、“判断の保留”といった文脈で捉えているが、この概念の発見者である詩人・ジョン・キーツの手紙や文章からはその意図を明確に汲み取ることは難しい。なぜなら、キーツは、「ネガティブ・ケイパビリティ」のことを、具体的には、「文学においてシェイクスピアが多分に有していた」能力としか書いておらず、それによって「不確かさや不可解なこと、疑惑ある状態の中に人が留まる」ことができると言っているに過ぎないからだ。
私は、キーツの持っていた「無」の受け入れや、陰陽思想といった東洋的な価値観を通して、「ネガティブ・ケイパビリティ」とは、「目に見えないものの受け入れ」、および、それに対して、「いかに自己が開かれているか」、そういった受容度や開放性として論じてきた。
この感覚は一種の「信仰」に近いかも知れない。キーツはよく「truth」という言葉を使っているが、それは真実とつながっている感覚を意味する。なにか「大きな存在」の存在を常に感じることができている状態、とも言い換えることができるだろう。これがあることで、不安に駆られて「正解」に飛びついたり、薄っぺらい信念にしがみついたりすることがない、つまり、「不確かさや、不可解なことや、疑惑ある状態の中に留まる」ことができるというものだ。
明治・大正期の思想家である頭山満は、常に周りに、「一人で居ても淋しくない人間になれ」と言っていたという。これは、自らの“天命”や“良心”を支えに立つことを意味する。同時に、それがあれば、人間関係に翻弄されたり、社会的所属によって自分の存在を確認する必要もなくなる。
シェイクスピアにとっての真実とは、「創造の源」であったのだろうか。その存在に疑いを持たず、自分の全存在がそれと一体となっていること。これが本来の意味での「無を受け入れることのできる力」を示す。「無」に対する謙虚な態度と言ってもいいだろう。つまり、これこそが「ネガティブ・ケイパビリティ」であると私は思う。