
3-23 結び——末法と終末、あるいは終わりなき時間への応答
「聖徳太子『未来記』と太子信仰」では、次のように書いた。
もし本当に、世界が終わる、意味が失われた、と人々が感じていたなら、社会は破滅待望や放棄、あるいはメシア待望へと傾くはずだ。だが日本では、それが主流としては起きなかった。代わりに起きたのは、同朋・同行、講、村と町の再編、念仏共同体という、生活と関係を持続させる形だった。
第3章は、この問いに答えるために書かれた。仏の光が届かないとされ、終末論的な響きすら持つ「末法」が、なぜ日本では破滅待望や社会的放棄に転化しなかったのか。本節では章全体を振り返りながら、最後にこの問いの現代的な意味を考えたい。
そのためには、その時代の共同体が含んでいたものを振り返る必要がある。その中には、有用性という尺度では決して掬い上げられない人々がいた。ここで改めて、「浄と不浄のあいだ——念仏が届いた場所」で登場した「いざり」と呼ばれた人々に立ち戻りたい。
彼らは二足歩行が困難であったため、手に下駄をはめて四足歩行していた。生まれは健常者であっても、身体的ハンディキャップによって被差別民となったのである。古代から中世にかけて、水銀は不老長寿の仙薬として珍重される一方、強い毒性を持つ物質でもあった。彼らは何らかの病を得て、その治療のために御師や聖が持ち歩く丸薬を服したのかもしれない。そう考えると、身体の変容、病、差別、宗教、鉱物の問題は、決して別々ではない。
能の題材として伝わる「俊徳丸」もまた、この問題系の中に置かれるべきだろう。俊徳丸はハンセン病にかかり、聖徳太子ゆかりの四天王寺に捨てられる。折口信夫が言うように、「俊徳丸」は「身毒丸」を意味する。「いざり」と同じく、後天的に差別を受ける身へと落ちたのである。生の半ばにおいて身分の厄下を被ること、それがその人自身の業として説明され、家族からも見放されること。しかし、なぜ捨てられる場所が聖徳太子ゆかりの場所なのか。この問いを扱うためには、やはり古代の朱や水銀、鉱山、修験、そしてそれらに関わった人々の移動を見なければならなかった。
千年のネットワーク
この章が描いたのは、渡来系技術者集団が列島に鉱山技術をもたらした時代から、織豊政権が移動民たちの自律的ネットワークを制度的に閉じた16世紀末まで、約千年に及ぶ時間である。この長い時間を、私は三つの層で読んだ。
第一の層は、物質と技術のネットワークである。おおむね5世紀から6世紀にかけて、渡来系技術者集団が、織物技術などとともに、鍛冶・鋳造・採鉱などの鉱物採取と加工の技術を持ち込んだ。山から採れる「財」によって生計を立てる人々が列島各地に痕跡を残しながら移動し、鉱物資源と技術の回廊が形成された。河川上流の鉱山と修験・密教、下流の商業集落と流通という地理的構造は、本章で主に扱った紀伊・播磨・河内だけでなく、北陸、甲信越、中国、九州、東北にまで広がっている。その回廊の上に、木地師、鍛冶、鋳物師、聖、陰陽師、踊り巫女らの移動民、さらに河川と海の水運によって生計を立てた民が重なった。修験者や聖は、民間からの資金集めや職人たちの大規模動員ができるため、公共工事の請負となり、鉱山経営まで担うようになった。つまり、川の上流から下流まで、山から海まで、一つのサプライチェーンが存在していたのである。山の回廊と河川の流通は、現代人の想像が及ばないほど豊かだった。
第二の層は、信仰と共同体の結合である。鎌倉新仏教の時代から戦国末期まで、法然から親鸞、一遍、そして蓮如へと至る念仏の系譜が、古代からの非農業的ネットワークの上に接ぎ木された。寺内町は権力の及ばないアジールとして機能し、講は信仰共同体であると同時に経済的単位を作り、やがて一向一揆の行動単位ともなった。念仏は、単なる内面的信仰ではなく、移動と交換と連帯を束ねる形式でもあった。
第三の層は、ネットワークと権力の衝突、屈服、そして権力による解体である。石山合戦の始まりから刀狩令・海賊停止令に至るまで、第一と第二の層が作り上げた自律的ネットワークは、織豊政権によって段階的に制度の中へ閉じられていった。刀狩令と海賊停止令によって、陸と海の武装が封じられ、人と土地は制度に固定された。だが、担い手たちが消滅したわけではない。武器鍛冶は農具・道具の鍛冶に、海賊は廻船業者に、門徒は檀家に、寺内町は在郷町に変わった。自律性を失いながらも、その産業的・社会的実体は近世の中に存続し続けた。
三つの層は別々の話ではない。一つのネットワークの三つの側面である。
末法思想と仏教的時間観
では、この千年の歴史を貫いていたものは何か。本節の冒頭に掲げた問いに戻ろう。なぜ日本では、末法が破滅的な終末論にならなかったのか。この問いに答えるには、まず末法という時代の中で何が起きていたのかを確認しなければならない。
法然から蓮如に至る念仏の指導者たちは、末法の世に自力救済は不可能であるという認識のもとに、講や寺内町といった万人に開かれた共同体の形式を構想した。ただ、市井の人々がこの教義を体系的に理解していたかどうかは別の問題である。彼らが末法を常に意識していたというよりも、戦乱や貧困、血のつながった者同士の生き別れといった根源的な苦しみが、生きていく上での前提そのものであった。その苦しみの中で人々が絶望に呑まれず共同体の再編へ向かい得たのはなぜか。ここに、仏教的時間観が関わっている。
仏教の時間観は一義的ではない。原始仏教の無常観、部派仏教の劫の体系、大乗の空、密教の即身成仏——それぞれが異なる時間の捉え方を持つ。しかし、キリスト教的な直線時間、すなわち創造から終末審判へ向かう一方向の歴史観との対比において、一つだけ明確に言えることがある。仏教の時間には、歴史全体を閉じる絶対的な終点が存在しない、ということである。終点がある時間観は、「残された時間」で何をなすかという焦燥を生む。終点がない時間観は、別の構造を生む。存在は生起と消滅を永遠に繰り返し、世界の破滅すら最終的な出来事ではなく、一つの過程であり、同時に新たな世界の始まりでもある。
この永久の流転の中に、正法・像法・末法という大きな波がある。釈迦の入滅後、教えが正しく行われる正法の時代、教えの形は残るが実質が失われる像法の時代、そして教えの効力そのものが衰滅する末法の時代である。末法は巨大な流れの下降局面であり、その極点の先には弥勒菩薩の出現と新たな正法の回復が想定されている。ただし、それは「進歩」でも「救済計画の完遂」でもない。円環時間におけるスパイラルの一過程にすぎない。
救われなさの行方
この末法に対して、日本では重層的な思想的応答が展開した。天台本覚思想は末法の区別そのものを相対化し、他力念仏の系譜は末法の凡夫には自力救済は不可能であるという認識から阿弥陀仏への全面的帰依を説いた。両者は截然と分かれるものではない。法然も親鸞も比叡山で学んだ天台僧であり、中世においては仏教が神を祀ることも何ら矛盾ではなかった。白山信仰のような山岳信仰は修験・天台・密教と深く結びつき、時衆がこの白山信仰を取り込んで古真宗を形成したのも、こうした中世の宗教的常識の延長にある。仏教も神道も道教もすべてが混然一体となった姿こそが、末法に対する日本固有の応答であった。
そして、キリスト教的終末論における切迫感が「残り時間への焦燥」であるのに対して、末法の切迫感は「救われなさ」に向かった。その「救われなさ」が最も切実だったのは、財力で功徳を積むことのできない者たちである。日宋貿易によって宋銭が大量に流入し、商業取引と蓄財によって貧富の差が広がった。皆が「銭の病」(『百錬抄』)に侵されてしまったと言われた平安末期において、念仏の系譜はむしろその逆へ進んだ。自力で救われる手段を持たない者——貧者、病者、被差別民、他者の命を奪うことでしか生きていけない武士・猟師・漁師——こそが「救われる」対象となり、彼らの包摂が仏の本願を意味するようになった。
グローバリズムの影が迫り、商業が急激に発展した戦国期には、経済力のある町衆を信仰基盤とした法華宗が、相対的に都市の商業資本と結びつく傾向を強めた。そうした町衆が茶の湯や茶器の収集に躍起になる一方で、農村では戦乱・天変地異・不作によって餓死が常態化していた。農村には不満と絶望と怒りが充満した。そうした民衆は、自らが金と権力の奴隷となることを拒み、一向一揆として立ち上がった。
専修念仏、すなわち「南無阿弥陀仏」と御仏の名を唱えれば、誰もが極楽浄土に生まれ変われるという信仰は、その意味で単なる教義ではない。末法の世界において、有用性や財力や出自によって人を選別する論理に対する、もう一つの応答だったのである。
突破の論理——ピーター・ティール
末法の世界で人々は講を結び、寺内町を築き、社会から排除された者を含む共同体を組織した。では、その対極——「終わり」が明確に意識され、その切迫感の中で突破を図りながら、排除された者を含まない構造——はどこにあるのか。
現代アメリカの知的エリートの中に、その構造を最も自覚的に体現している人物がいる。ピーター・ティールである。PayPal・Palantirの創業者であり、2016年の大統領選挙でトランプを支持し、副大統領JDヴァンスの政治的後援者としても知られるテクノリバタリアンである。その思想の核にあるのは、スタンフォードで師事したルネ・ジラールの模倣理論とキリスト教的終末論の結合だ。人間は他者の欲望を模倣し、模倣の過剰は暴力を生む。古代社会は犠牲、すなわちスケープゴートによってこの暴力を解消してきたが、キリストの死がそのメカニズムを暴露して以降、身代わりによる平和はもはや機能しない。ティールはこのジラールの認識を、現代の資源競争と技術停滞の問題へ適用した。イノベーションが止まれば、資源の奪い合いが激化し、破滅的暴力に直結する。ティールにとって残された道は、独占的イノベーションによって資源の有限性を超え、時間の終わりを超越する突破だけである。
終わりが来るか、意味が崩壊するか——いずれにせよ、時間は一方向に進み、後戻りはない。
包摂の原理
だが、日本の中世で起きたことは別の形を示している。なぜ中世日本において、矛盾をはらむ複数の時代への応答が、講という一つの組織形態に収斂したのか。そして、なぜそれが、加賀百年と言われる封建権力に依存しない自治や、石山十年という戦争の持続を可能にしたのか。
それらを一つの集団的行動へ接続したのは、「同朋同行」という水平性の原理と、相互扶助の構造であった。蓮如も顕如も権力的支配者ではなく象徴的中心であり、実際の軍事・経済・信仰の実践は講と惣が分散的に担った。この構造が百年単位で持続しえたのは、組織原理の巧みさだけではない。講と寺内町は、既存の秩序から排除された者たち——鉱夫、鍛冶、川の民、ハンセン病者、非人——を構成員として包摂したからである。彼らのすべてが技術や労働力を持っていたわけではない。二本足歩行のできない「いざり」の人は、鉱石を掘ることも鋤を打つこともできない。しかし共同体の中にいた。一遍が「浄不浄を問わず」として身体的に実践し、親鸞が「悪人正機」として思想的に基礎づけたとき、そこで停止されたのは、人を有用性によって選別する論理そのものだった。念仏は、すべての人に開かれていた。
ここで注意すべきなのは、弱者の包含が単なる慈悲の問題ではないということである。死体処理、清め、呪術、芸能、勧進、遍歴、病と施薬——これらはみな、生と死、浄と不浄、内と外の境界に関わる役割である。周縁へ追いやられた人々は、ただ外部として捨てられたのではなく、共同体の見えない継ぎ目に立たされていた。蔑視されながら、同時に不可欠でもある。この両義性を、私は「聖と賤の同居」と呼びたい。共同体が再生を繰り返し、その構造を維持するには、こうした境界に立つ人々の存在が必要だったのだ。
生と死の往還——熊野から菊理媛へ
この混然一体となった宗教世界は、思想の上だけでなく、宗教地理の上にも刻まれている。本章で見てきたように、古真宗や一向宗の信仰共同体は、熊野信仰と白山信仰をその内部に抱え込んでいた。熊野は古来、死と再生、黄泉がえりの地として受け取られてきた。現世の奥にありながら、他界への入口でもある。白山は水の神を祀る山であり、雪と雪解け水の清浄さが信仰の核にあった。修験・天台・密教と深く結びつき、白山権現として神仏習合の宗教世界を形づくっていた。念仏の共同体がこの二つの信仰を内包していたということは、死と再生、穢れと浄化という境界の往還が、共同体の信仰構造そのものに組み込まれていたことを意味する。
熊野で念仏札を万人に配るべしという啓示を受けた一遍にとって、救いは選ばれた者にのみ届くものではなかった。信不信を問わず、まず配る。まず届かせる。その徹底した開放性は、末法の時代においてなお救いの回路が閉じていないことの宣言だった。
その一遍が最後に渡ったのは淡路であった。島の二宮で、神職が「わづかにつたへて伊弉冊尊」と答えた社の正面に、一遍は札を打っている。
一遍の弟子の他阿真教は北陸に信仰の拠点を広げていく中で、熊野信仰に加えて、白山信仰をも取り込んでいった。ここで、白山信仰の中心として、菊理媛の存在に触れたい。『日本書紀』において菊理媛が現れるのは、伊弉諾と伊弉冉が黄泉比良坂で相争う、ただ一つの場面である。一遍が淡路で名を聞いた女神と、その後を追って黄泉から戻る男神と、その境に立つ神。そこには、ただ「是の時に、菊理媛亦白す事有り」とあるだけで、その内容は記されていない。「白す」は通常「申す」と読まれ、菊理媛は伊弉諾と伊弉冉の仲裁者として言葉を述べた神と解釈されてきた。
菊理媛は「キクリ」とも「ククリ」とも読まれる。「ククリ」と読む場合、「くくる」——結ぶ、仲裁する、和解させる——神として理解されてきた。しかし、折口信夫は『山の霜月舞』の中で、「菊理は泳(クヾリ)で、禊ぎをすゝめた神らしく思はれる」と述べている。ここで折口が示したのは、菊理媛を単なる仲裁の神ではなく、境界に関わる禊、つまり通過の神として読む視角である。
前田速夫は『白の民俗学へ』において、この解釈をさらに掘り下げている。前田が注目するのは、「白す」の「白」という字そのものが帯びる宗教的意味である。「白事有り」はシロコト・アリ、すなわち託宣や告白に通じる熟語であり、折口もこれを呪言・託宣として読んだ。さらに「白」は古代中国において頭蓋の象形であり、白骨化を経た再生と深く結びついている。菊理媛が黄泉と現世の境で「白した」行為は、単に言葉を述べたのではなく、白骨化——すなわち死を経て再び生へ至る通過そのものを促す行為だったのではないか。折口の「泳(クグリ)=禊を勧めた神」という解釈と、前田の「白=死と再生」という読みは、ここで重なる。
この折口と前田の示唆に従うなら、菊理媛とは「クグル」、つまり、「潜る」神である。死と生、浄と穢、此岸と彼岸のあいだへ潜り、見えないところに通路をひらく神である。断絶を消し去るのではなく、底に潜行路を見いだす。祈りや救いは、可視的なものではなく、見えないところを通って届けられる。その意味において日本では、末法は絶対的な終末になりきらなかった。末法は閉じた終点ではなく、なお潜って越えるべき境として受けとめられたのである。
結語
こう考えると、弱者の包含も、聖と賤の同居も、ばらばらの素材ではなくなる。それらはすべて、見えない境界をどう渡るかという一つの主題の周りに集まってくる。被差別民や周縁の者たちが抱え込まれたのは、単に社会が寛容だったからではない。彼らが死や穢れや他界に近い場所にいたからこそ、共同体は彼らを恐れながらも必要としたのである。
ここであらためてティールを思い起こすべきだろう。彼の第三の道における「突破」とは、独占的イノベーションによって時間の終わりを超越しようとする試みである。しかし、この構造において、弱者の居場所は設計されていない。ティール的な「突破」が排除するのは、単に経済的・社会的弱者だけではない。イノベーションに貢献できない者すべてである。有用性によって人を測り、その尺度に届かない者を構造的に切り離す。これはプラグマティズムの極点である。そこには象徴的中心はあっても、同朋同行はない。 末法の共同体が示した原理は、その対極にあった。ティール的な「突破」は、排除された者を外部に残すことで加速力を得る。これに対して講は、有用性の尺度そのものを必要としなかった。弱者の包含は道徳的付加物ではなく、共同体の再生を可能にする条件だったのである。
時代が前に進むとき、誰を含み、誰を含めないか。この問いは五百年前にも、そして現在にも、同じ切実さで立っている。日本の末法観が破滅待望に転じなかったのは、仏教が絶対的終末を持たなかったから、というだけではない。死と生のあいだ、浄と不浄のあいだ、共同体の内と外のあいだに潜り、見えないところから祈りと再生を運ぶ宗教的想像力があったからである。そのため末法は、破滅を待望する思想ではなく、救われなさを抱えた者たちを包み込みつつ、関係と共同体を再編してゆく契機となった。菊理媛とは、死と生の境に潜行する存在の象徴なのではないか。そうだとすれば、日本における末法への応答の核心は、終わりを終わりとして受け入れることには帰結しない。末法という塞がりの中にあっても、その下をなお潜ってゆく通路があるという感覚——それは「救われなさ」という逆境を「生」に転じていく応答だったのではないか。