
星を拾う駅
雨あがりの夕方だった。
高校一年生の湊(みなと)は、帰り道の小さな無人駅で、古びたベンチに座っていた。電車は一時間に一本しか来ない。制服の袖は少し濡れていて、空にはまだ灰色の雲が残っていた。
そのとき、ホームの端で、誰かがしゃがみこんでいるのが見えた。
「何してるんですか?」
声をかけると、麦わら帽子をかぶった少女が振り向いた。湊と同じくらいの年齢に見える。
「星を探してるの」
「星?」
「落ちちゃったから」
少女は真面目な顔で言った。
湊は少し笑いそうになったが、なぜか笑えなかった。
「星って、空の?」
「うん」
「落ちるんだ」
「たまにね」
少女はそう言って、線路のわきの草を指さした。
そこには、小さなガラス玉みたいなものが転がっていた。夕日の光を受けて、淡く青く光っている。
「これ?」
「そう!」
少女は嬉しそうに立ち上がった。
「ありがとう。助かった」
手のひらに乗せると、その玉は本当に星みたいに輝いた。
「……これ、何なんですか?」
「秘密」
少女はいたずらっぽく笑った。
遠くで踏切が鳴る。
電車が来る合図だった。
「じゃあ、私もう行くね」
「どこへ?」
「空の近く」
少女はホームの端へ歩いていく。
「待って!」
湊は思わず呼び止めた。
「また会える?」
少女は少しだけ考えて、それから言った。
「君がちゃんと空を見る人なら」
電車が駅に滑り込んできた。
強い風が吹き、湊は一瞬目を閉じた。
次に目を開けたとき、少女の姿はなかった。
電車のドアが開く。
でも湊は乗らなかった。
代わりに空を見上げた。
雲の切れ間から、夜の最初の星が光っていた。
その光は、さっきのガラス玉によく似ていた。
――それから湊は、前より少しだけ空を見るようになった。
急いでいる日も、嫌なことがあった日も、駅へ向かう途中で立ち止まり、夕焼けや月を眺めた。
不思議な少女にもう一度会いたかったのかもしれない。
けれど一年が過ぎても、少女は現れなかった。
高校二年の夏。
その駅は取り壊されることになった。
新しい高架駅を作るためらしい。
最後の日、湊はひとりで駅を訪れた。
セミの声が響き、古いベンチは夕日に赤く染まっていた。
「終わっちゃうんだな」
誰に言うでもなくつぶやく。
そのとき。
「終わらないよ」
後ろから声がした。
振り返ると、あの少女が立っていた。
去年とまったく変わらない姿で。
「……え?」
「久しぶり」
少女は笑う。
「ちゃんと空、見てたね」
湊は言葉を失った。
聞きたいことは山ほどあった。
でも最初に出てきたのは、こんな言葉だった。
「会いたかった」
少女は少し驚いた顔をして、それから優しく笑った。
「私も」
風が吹く。
夕焼けの空に、一番星が瞬いた。
少女はその光を見上げながら、小さく言った。
「人はね、空を見なくなると、大事なものを忘れちゃうんだよ」
「大事なもの?」
「うん。嬉しかったこととか、誰かを好きだった気持ちとか、自分が何をしたかったのかとか」
湊は黙って聞いていた。
「だから私は、ときどき落ちた星を拾いに来るの」
「それって……本当に星なの?」
少女は笑って答えなかった。
代わりに、小さな青い光を湊へ渡した。
「これ、君にあげる」
あの日のガラス玉だった。
「え、でも」
「もう私は大丈夫だから」
光は湊の手の中で、静かに温かかった。
まるで小さな心臓みたいに。
踏切が鳴る。
また電車が来る。
「今度こそ行かなきゃ」
少女はホームの向こうへ歩き出した。
「名前!」
湊は叫んだ。
「まだ聞いてない!」
少女は振り返り、少しだけ考える。
そして。
「紡(つむぎ)」
そう答えた。
電車が通り過ぎる。
風が舞う。
次の瞬間には、もう彼女はいなかった。
残っていたのは、夏の匂いと、空の青さだけだった。
湊は手の中の小さな光を見つめた。
それはゆっくりと空へ浮かび上がり、夜空の中へ消えていった。
まるで、帰る場所を知っているみたいに。
その夜。
新しい駅の工事が始まる前の最後の夜に、空には流れ星がいくつも走った。
町の人たちは「今年はよく見えるね」と笑っていた。
でも湊だけは知っていた。
あれはきっと、誰かが落とした大事な光なのだと。
そして、それを拾い集める人が、どこかにいるのだと。
湊は静かに空を見上げた。
「また会おう、紡」
夜空の星が、小さく瞬いた気がした。