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誰かの音


    #創作大賞2026 #恋愛小説部門

    あらすじ
    高校バスケットボール界の天才・前巻朔は、大怪我からの復帰を果たす。しかし彼が本当に向き合い続けてきたのは、勝敗ではなく、壊れた家族の記憶だった。住み込み家政婦となった芽原美波は、双子の姉・詩織と朔の穏やかな日常に触れ、食卓や料理、何気ない会話を通して少しずつ居場所を見つけていく。一方で劇団の仲間達も、それぞれの想いを胸に作品と向き合う。ボールが弾む音、包丁の音、笑い声。誰かが奏でる「音」は、人の心を救い、新しい家族の形を紡いでいく物語。

    5月4日。札幌市中央区北4条の体育館。同日に札幌地区高校バスケット春季大会が行われている。エース前巻朔率いる札幌創成スクエア学園は第1シードなので準々決勝からの出場となる。今日は大学生と練習試合を行っていた。朔はコート内を走り回る選手を頭にタオルをかけ一番端の椅子から眺めていた。目の前にコーチが立つ。交代の合図かと思い頭からタオルを取り、椅子から約半分お尻をずらした。
    「前巻。もう上がれ。明日の練習には1時間遅れで来い」コーチの言葉には感情は一切こもっていない。
    「朔。お疲れ。ナイスファイト」隣に座るキャプテンの小石山の笑顔が唯一の救いだった。
    朔は小石山とグータッチを交わし1人控室に戻り着替えを済ませる。汗も乾いてしまったユニフォーム、ソックスをコンビニ袋へ入れリュックへ詰める。朔の高校、私立札幌創成スクエア学園では大会中は制服ではなくウォーミングアップウエアを着用を義務付けられている。朔もアップ着に着替えバスケ部専用リュックを背負い、シューズケースを持って1人会場を後にした。
    朔に気づいて写真を求める女子高生にはワイヤレスイヤホンが必須のアイテム。聞こえないふりをしてそのまま大通公園まで歩く。散り際の桜を眺め地下鉄東西線3駅を乗って帰るか、歩いて帰るか考えていた。ポケットのスマホのバイブレーションが存在を示す。小石山からのLINE。画像には68対55の電光掲示板が写された画像が添付されていた。
    「俺の第1クォーター26得点がかすむって」スマホに向かって呟き、そのまま道路を渡り狸小路方面のゲームセンターに入った。ゲームを全くやらない朔はクレーンゲームの商品を見て歩く。そしてベンチに座りワイヤレスイヤホンを外し、クレーンゲームのどこか間の抜けた電子音を楽しんでいた。
    「よっ、ほっ」朔の目の前の女性が無意識なのか声を出しながら前、横と動きながらクレーンを操作していたのが目に留める。
    「あー取れなかった~最後の100円だったのに」膝から崩れ落ちる女性の横に朔が立ち100円を入れてクレーンを動かす。
    「あっ、ごめんなさい」朔に気づいた女性はクレーンの行方も気になりつつ、半歩避けた。
    ”ガタン”女性が狙っていたポニーのぬいぐるみは朔が100円で簡単にゲットした。朔は取り出し口からぬいぐるみを取り出す。
    「はい。俺、興味ないから。どうぞ」女性に手渡す。
    「いいの?お金請求されてもないよ」喜びと困惑の表情が前後している。その顔を見て朔は思わず笑った。やっと、試合のモヤモヤが体から落ちた気持ちがした。

    「お金いらないよ。100円だよ。請求しないって」朔の柔らか表情を見て女性はぬいぐるみを受け取る。
    「ありがとう。ゲーム得意なの?」157cmの女性は186cmの朔を見上げて話した。
    「今日が初めて。ゲームなんてしたことないんだ。でも、ゲームセンターの雰囲気は好きで、たまに来る」朔のあたりを見回す顔を見つめる女性。
    ”テレンレッテ、テレンレッテ、テレンレッテ、レン!”女性のリュックから着信音が聞こえた。急いでスマホを取り出す女性。
    「もしもし、芽原です」朔は女性の苗字の珍しさに驚いた。
    「えーっ!!困ります。ほんと、私も、野宿になります」ゲームセンター中に響く通った声で女性はスマホの相手に食い下がっていた。野宿というワードが気になった朔はその場から動かず目の前の女性の通話が終わるのを待っていた。
    「切られた〜」うなだれる女性のつむじが目に入る。
    「何があったか、聞いてもいい?」遠慮気味に言う朔に、覇気の無い目で見つめる。
    「今日と明日、劇団リラの新団員オーディションなんです。今日は午前で終わって。明日また午前にオーディションがあるんです。私、芽室町から昨日の夜8時に着いて、漫喫の夜間パック1500円で一睡もしないで、警戒してたんです。それを理由にするのは……だけど、思い切った演技が出来無かったんですよ。だから今日は、5000円の格安ホテルを前もって予約していたんです。それが〜ホテルのミスでダブルブッキング。もう1人の方はクレジット決済だから、優先的にって。ひどいと思いません?」何故か朔に詰め寄る女性。朔はバスケットボールよりも小さい女性の頭を上から鷲掴みする。
    「落ち着け。その浮いた5000円で漫喫の個室とシャワー使えば良いだろ」女性は頭を押さえつけられたまま朔を見上げる。
    「私、知らない男性が隣にいると思うと寝られません。シャワーなんて、いつ侵入されるかと。想像しただけで恐ろしい」身体を震わせる。朔はため息をついて女性の頭から手を離す。
    「したら、うちに泊まるかい?」女性は微笑む。朔は少し怪訝そうな顔をした。
    「何がおかしいんだよ」女性を睨む。
    「だって、クールな高校生だと思ったら、いきなり方言だもん。あったかい気持ちになるよ」女性の笑顔は大きくなった。
    「どうする?泊まる?知らない男のいる家に」照れくささを隠しながら言う。
    「良いの?ご両親に連絡しなきゃダメじゃない?」女性は申し訳無いのか、少し遠慮気味に尋ねた。

    「一人暮らしだから。別に連絡する相手もいないし」視線を逸らしながら言う。女性は高校生の一人暮らし。小さなアパート。くっついて寝る。妄想がどんどん膨らんで行った。
    「そんな、ワンルームのアパートに泊めて貰うなんて、いきなり一緒の布団は……私は21歳だから成人で、君は高校生。まだ未成年。私が犯罪者になるのかな?」勝手に語り始めた。朔はまた、女性の頭を鷲掴みにする。
    「一応一軒家。泊める部屋と俺の部屋は別。どうするの?5000円浮かせたいなら付いてきて」朔はそのまま、ゲームセンターを出た。女性はリュックを背負い、大きなボストンバックを担ぎ急いで後ろを付いて行く。
    狸小路から西に歩く。途中、創成スクエア学園のアップウエアを見つけた女子高生2人組みが朔に駆け寄る。
    「あの。今日、練習試合見てました。来週も頑張って下さい。握手してもらって良いですか?」朔は手を出す女子高生をスルーした。あまりの塩対応に女性は知り合いと思われないように、朔と距離をとって歩き、女子高生の横を通り抜けた。
    約15分。地下鉄西18丁目駅から南側へ入った住宅街。欧風のモダンな一軒家の前で止まる朔。高級感のある鋳物の門扉を開けて数段上る。左手には綺麗に手入れをされている庭が広がる。
    「どうぞ。入って」朔は解錠してドアを開けて待っている。女性はドアを開けてくれている朔の腕の下をくぐる。
    「お邪魔します〜」誰もいないと聞いていたが、左手のリビングから音が聞こえる。女性はドアを閉めて、靴を脱いでいる朔の背中を叩く。
    「ちょっと、誰かいるでしょ。音がしてるよ」リビングを指さした。朔は何も言わずにリビングに入る。女性もスニーカーを脱いで、そっとリビングを覗く。18畳のリビングダイニングにある50インチのテレビからすすきのの雑踏の動画が流れていた。
    「これ?音の正体は。YouTube……かな?」女性は誰もいない事に安堵していた。朔はサニタリーで洗濯機に今日の試合で着用したユニホームをぶち込む。
    「1つだけルールあるから」朔の言葉に女性はまた、よからぬ妄想が頭を覆い始めていた。
    「このテレビは絶対消さないで。俺がこの部屋に居なくても、このまま。チャンネルも変えないで。後は自由に使って。あっ、それと食器棚の紫のラインのカップアンドソーサーだけは使わないで」朔は食器棚のカップを指さした。
    「ルール2つじゃん」自分の妄想と違うルールで安堵した女性は姿勢を正す。
    「うん。分かった。あの、今さらだけど。泊めてくれてありがとう。私の名前は芽原美波です。21歳。さっきも言ったけど、芽室町出身。お世話になります」頭を下げる。朔はコーヒーを淹れている。

    「前巻朔。17歳。高校3年生。家はここで、学校は大通り公園の東側の創成スクエア学園。家族は一緒に住んで居ないけど、姉が1人って、関係無い話か。コーヒーどうぞ。飲んだら、部屋に案内するから」ダイニングテーブルにコーヒーが置かれた。
    「あ〜美味しい。あったか〜い」美波はほっとひと息ついた。札幌に来て今が一番リラックスしている事に気づいた。目の前には30分前にあったばかりの高校生の男性。そしてその男性の家に2人きり。あり得ない状況でリラックスしている自分もあり得ないのに、何故か落ち着いている自分がいた。
    「おうち、きれいにしているね」辺りを見回している美波。
    「まぁね。汚すのも自分。片付けるのも自分だから。それならきれいに使った方が、掃除も楽だし」コーヒーを飲み終えた朔はキッチンにカップを持っていき、すぐに洗い出した。美波も急いで飲み、キッチンにカップを持っていき朔の洗う手元を見ていた。
    「洗い方にもこだわりあるんだね。スポンジが3つもあって使い分けているんだね」後から声をかける。
    「赤がグラス用。黄色が油物用。青がその他。そして食器拭きのタオルも白がグラス。緑がまな板と包丁。黄色がその他の調理器具。青が食器。覚える必要無いから、飲んだカップはここに置いて」美波は実家では1つのスポンジと1枚の布巾で拭いていた。こんな細かい男子高校生とは、初めて会った。朔がカップを食器棚にしまう。
    「寝る部屋教える。2階」朔は美波の大きなボストンバックを持つ。
    「1泊2日にどれだけ持って来たの?まさか、オーディション用の衣装持参とか」階段を上って1番手前の部屋のドアを開けた。深緑のカーペットにクリーム色の壁紙。アンティークな机とイスに小さなアンティークなタンス。焦げ茶色のカーテンの下にはシングルベットの10畳の部屋。
    「この部屋使って。ベッドのシーツや枕カバーはハウスキーパーがきちんと洗濯していたから」美波のボストンバックを置いて朔は部屋を出た。
    「あの、朔君」朔は家で君呼びされた事に驚き振り返る。
    「君呼びは緊張する。朔で良い。何か質問?トイレなら玄関まっすぐの突き当り」1階を指さす朔。
    「違う。ごめん……いきなり朔呼びは私が抵抗あるから、朔君呼びさせて。朔君のお部屋はどこなのかな〜って思って」何故か美波は照れていた。
    「あの突き当りの部屋。あれが俺の部屋。昔は物置だった。窓が無いから寝やすい。それで俺の部屋に魔改造。因みに今日、美波が泊まる部屋が昔の俺の部屋。何度も言うけど、ハウスキーパーが週2回掃除していたからキレイだから」朔の言葉に美波は硬まる。

    「あっ、悪い。友達でも無いのに呼び捨てして。俺苦手なんだよ。さんとかちゃんつけて呼ぶの。気にしないで」男性に初めて呼び捨てされた美波は胸がキュンとなったのを感じていた。
    1階に戻り居場所を見つけられない美波はソファーに座るが落ち着かず、朔のいるランドリールームを覗く。朔は美波に気づいた。
    「覗き?俺、今からシャワー浴びるけど」着ていたバスケのウォームアップウエアを乱雑に洗濯機に放り投げる姿に美波はキッチンの繊細さとは全く違う違和感を感じていた。
    「美波。あとパンツだけなんだけど……」いつの間にか朔が黒のボクサーブリーフ1枚で立っているのに焦る美波はリビングまでダッシュして早まる鼓動を落ち着かせた。
    10分後。バスタオルを首にかけ、上半身裸でボクサーブリーフを履いた朔がキッチンに来る。冷蔵庫を開けて冷たい炭酸水のペットボトルを一気飲みしていた。美波は見てはいけないと思いつつも朔をチラ見していた。
    「美波。今から洗濯してしまうから、終わったらシャワーでも、お風呂でも、勝手に使って。俺のシャンプーやリンスで良ければ。それと洗濯機も俺が終わったらどうぞ。洗剤も柔軟剤も無香料で良ければ」朔が洗濯機にバスタオルを放り投げてスイッチ入れようとした時、
    「ちょっと待って」美波がパンイチの朔を気にすること無く洗濯機を回すのを止めた。
    「私が先にシャワー浴びると、一緒に洗濯機回せるよね。朔君が嫌じゃなければ、私は洗濯機一緒で大丈夫だけど。実家でもお父さんのと一緒に洗っているから」何故か自慢気に話す。朔は頬を搔きながら
    「お父さんと一緒扱いなんだ、俺。洗濯物は汗かいた試合のユニホームとかだけど、大丈夫なのか?」朔が逆に抵抗を見せた。
    「大丈夫。お父さんも畑仕事で毎日、汗と土汚れだから」美波が抵抗無いのであれは、朔は気にするのを止めた。
    「じゃあ、シャワーとお風呂の使い方教える。まずはバスタオルとフェイスタオルはこの引き出しに入っているのを使って。そしてシャンプーとリンスはこれ。お風呂入るなら軽く流してからスタートボタン。温度調節はこれで上下させて。シャワーはカランの所で操作。そして、洗濯物は下着だけでも、そこのネットに入れて洗濯機へ。一応俺も、健全な高校生だから」その言葉に笑ってしまう美波だった。

    シャワーで簡単に済ませ、部屋着に着替えた美波。
    「朔君。洗濯機のボタン押して良いの?」ランドリールームとキッチンを仕切るアコーディオンカーテンを開けると、ふわりとご飯を炊いている香が入って来た。
    「ああ。ワンタッチででかいボタン押せば乾燥までしてくれる」朔は人参の皮を剥きながら話した。
    「シャワーありがとう」部屋着で出てきた美波を見て
    「すっぴんでも変わんないな」朔は美波を見つめながら言った。シャワーの火照りでは無い熱さが美波の身体を襲う。
    「私、化粧下手だから」恥ずかしさから顔を覆う美波に
    「ベース。もとが良いんだよ。自信持てって、キレイなんだから」かっこいい台詞を何の下心も無くサラッと言う朔。美波の火照りはおさまらず冷蔵庫からミネラルウォーターをもらい腰に手を当てて飲み始めた。
    皮を剥いた人参は絹さやと一緒に味噌汁に。剥いた皮は春雨と一緒にきんぴらに。魚焼きグリルでは塩麹に漬けた鮭が焼かれていた。美波はその手際の良さを見ながら、洗濯の乱雑さとの違いを確信した。
    「朔君って料理男子なんだね」きんぴらを炒めている朔は振り返りもせず
    「料理をしている時間が人生で一番好き。そして、一番没頭出来る」Tシャツとハーフパンツの青年はそのまま、料理に没頭していた。美波は邪魔にならないようにソファーからその青年を眺めていた。

    「ご飯どれくらい食べる?」ご飯茶わんを持って立っている朔のもとに駆け寄るとダイニングテーブルにはキレイに焼かれた鮭をメインに人参と春雨のきんぴら。人参と絹さやの味噌汁。それと朔が作り置きしている炒り豆腐と野菜のピクルスが並んでいた。
    「すご〜い。テレビで見る高級旅館の食事みたい」美波はご飯茶わんを持って立っている朔の事を忘れて、料理に見惚れていた。
    「ご飯の量は?」感情の無い無機質な声で尋ねる朔に
    「ごめん。つい見惚れて。いいなら朔君と同じ山盛りで」美波は朔のテーブルに置いてある茶わんを指さした。
    「女性に山盛りのお茶碗出すの初めてだよ」朔笑っていた。
    「今朝から何も食べて無くて…昨日長距離バスで食べた菓子パンが最後かな」照れ笑いする美波に
    「ゲーセンで散財しないで、ファストフードでも食べたら良かったじゃん」山盛りのご飯茶わんを手渡す。美波は朔の対面に座り
    「私もハンバーガーショップに行こうとしたんだけど、ゲームセンターのガラス戸からあのポニーのぬいぐるみが見えたら、いつの間にかお金をどんどんつぎ込んでいた私がいたのよ」芝居調子で語る美波。朔は呆れて
    「ハイハイ。いただきます」手を合わせた。

    「いただきます。美味しい〜」味噌汁一口飲んて早くも感動する美波を横目に朔は拭いきれない違和感を尋ねた。
    「あのバック。結構重いよね。もしかして、家出して来た?」その問いに、美波は箸を置いた。
    「家出では無いけど…家を、芽室町を出てきたのは本当。明日のオーディション終わりに合格者が発表されるの。バカだとは分かっているけど、合格するって信じて、そして札幌でバイトしながら、劇団リラの舞台俳優として活動する。だから、両親の了解をもらって家を出て来たの」朔の予想していた通りの答えだった。そして、その後にまだ思っていた事を聞いてみた。
    「合格しました。そして、即入居出来るアパートは?保証人は?敷金、礼金で家賃の2ヶ月分。前家賃だから全部で3ヶ月分。知らない男性が怖いんだから、ある程度のセキュリティの部屋を希望。ワンルームでもそれなりの家賃。アパートではなくマンションだね。家賃は7万円が相場かな?それの3ヶ月分だから21万円。マンションによっては、保証人2人必要とかあるよね。1人は必ず札幌市在住の人とかもある。劇団リラの人はすぐに保証人になってくれる?それとも、札幌市に親戚いる?親戚いたら、漫喫なんて行かないか」朔が早口でまくし立てていた途中で、美波の思考回路ショートしていた。
    「私、高校卒業してから3年間、実家の農家手伝いながら、隣の佐藤牧場でバイトしてやっと30万円貯めて、札幌に来たの。もしかして、1ヶ月しか住めない?どうしよう。お金も保証人もヤバいよ。家賃下げてセキュリティ緩いのは怖いから無理だよ~」一点を見つめて語り出した美波。朔は頭を搔きながら
    「不合格なら、実家の芽室町に帰るのを条件で、うちにいても良いよ。そして、合格していたら、住み込みの家政婦で良ければ給料も支払える。先月までのハウスキーパーが月に12万円。掃除だけだったけど。掃除も自分でやれるから先月で契約終了させた。それで良ければ」
    美波の目にうっすら涙が浮かんでいた。
    「いいの?絶対合格するから、甘えちゃうよ」その言い方に朔は笑ってしまう。
    「良いよ。さっきの言ったルール2つに追加して、掃除全般を時間がある時にしてくれれば良いから。それが契約のルール。後は自由に使って。俺も自由に生活しているから、お互い気にしないで。でも、合格出来たらの話だけど」朔の軽口に美波は大盛りお茶碗を持ちながら
    「合格するためには、まずは体力。朔君の美味しいご飯で栄養補給」大口で食べる美波を見て、コメディー女優もいけるんじゃ無いかと朔は思ったが、3年間でたった30万円しか貯められなかったことが不思議でならなかった。

    午後11時。2階寝室。壁のダウンライトの明かりでベッドに入った美波はスマホをいじっていた。創成スクエア学園バスケ部を調べていた。美波は去年の記事を見つけた。
    「2年生エース前巻負傷退場。創成スクエア学園準決勝で敗れる。インターハイ。全国大会?全国第3位って事だ。めちゃめちゃ強いじゃん。朔君、去年からエースだったんだ。どこケガしたんだろ?そこまで書いてないな。けど、今日も試合出てたみたいだから、軽症だね。良かった。良かった」美波は朔がパンイチの時に焦って膝の手術痕を見落としていた事に気づいてはいなかった。それでも、久しぶりにゆっくり眠れると感じた美波は、スマホを閉じてすぐに深い寝息をたてた。
    5月5日。午前7時。2階で寝ている美波の部屋にトーストされたパンの香ばしい香りが流れて来た。目より先に鼻が動いた美波。目をこすりながら1階に下りた。
    「おはようございます」目をこすりながら、当たり前のようにダイニングのイスに座る美波。
    「トースト何枚?」朔の問いに
    「1枚」まだ寝ぼけた声で答えた。
    目玉焼きにウインナーとピクルスに牛乳。バターナイフを握って待機している美波。
    「今日のオーディションの午前っていうだけで時間聞いて無かったから、俺の時間で朝食用意したけど、大丈夫だった」焼きたてのトーストを皿に入れて手渡した。
    「うん。大丈夫。ありがとう。今日は11時からオーディション」ゆっくりバターを塗る美波を見ていると自分までスローテンポになりそうで、リズムが崩れそうだった。
    「美波。吹き出物出来てるよ」朔が自分の頬で場所を教える。
    「えっ!嘘。やばいって~」慌ててスマホのカメラで確認するが、どこにも吹き出物はできていなかった。
    「嘘だよ。目が覚めたでしょ」笑いながら言う朔にふくれっ面になる美波。美波は昨日から見てきた朔で今が一番いい笑顔だと気づいた。この人は外見はクールで他人や世間に無頓着を決め込んでいるけど、実際は感情豊かでとても人間味のある人だと思っていた。しかし、無頓着を決め込まなければいけないのには、家庭環境や過去が影響しているのではないかとも推測が出来、それ以上は何も聞けなかった。

    朔は自分の使った食器を洗いながら時計を見る。
    「俺は9時から練習だから」濡れた手を拭きテーブルに置いてあるスマホを美波に手渡す。
    「うん?何?美味しそうな卵焼きが待ち受けだね」トーストの粉がつかないように慎重に朔のスマホを見る。朔はロックを外して
    「いや……LINE一応交換しようと思って。不合格でも合格でも連絡もらわないと俺も困るから」自分から交換したことが無いのか、スマホ本体を渡して全てやってもらおうと思っていたのに気づいた美波は
    「あ〜そうだね。うん。最低限必要だ」朔のLINEに自分のIDのQRコードをかざして友達登録をした。
    「アイコン、また卵焼き」美波は笑ってしまう。朔も美波のアイコンを見て
    「あっ、昨日のぬいぐるみの馬だ」美波のアイコンはミニチュアホースが日向ぼっこしている画像だった。
    「そうなの。実家の隣の牧場のミニチュアホースで小春って言うの。私がお世話ずっとしてたんだ。来月ママになるんだけど、私は自分の夢を実現するために離れちゃった。いつも写真を見て、元気な子を産んでってお祈りしているの」美波はスマホの待ち受け画面を朔に見せた。
    「うん。これなら、あのぬいぐるみ取りたかったの分かる。昨日はお金無くなるまでたった1つのぬいぐるみに執着しているの見て、変わった人だなって思ってたからね」笑いながらリビングの引き出しから赤い紐の先に小さな鈴が付いた鍵を取り出した。
    「これ、家の鍵。今日はこれを使って。不合格でも部屋に荷物取りに来るでしょ。俺は練習の後に買い物して来るから、じゃあ戸締り宜しく」朔はテーブルに鍵を置いて練習へと向かった。リビングの流れ続ける動画のおかげで沈黙はない。泊めさせてもらってさらに鍵まで預かっている。自分だったら昨日会ったばかりの他人にそんな事を出来るかと冷静に考えると無理。
    「私は朔君にとって盗みも働かない信用出来る人に見えているのかな?それとも無害な生き物?」牛乳のグラスを持ったまま考え込んでいた。

    午前10時。合格出来ると信じている美波だが、小心者の性なのか、借りた部屋を整え。すぐに退出出来るように、荷物をカバンにしまっていた。
    玄関前。手渡された鍵を見つめる。鍵本体も使い古されていて劣化が見られる。鈴の付いた紐も今にも切れそうなくらいもろい。美波にはこの鍵の持ち主が今はここにはいない家族の誰かの物であることは容易に想像できた。
    「行ってきます。そしてまた、帰ってきます。絶対」施錠して家に一礼して美波は地下鉄東西線で会場である劇団リラの事務所兼稽古場に向かった。
    午前10時40分。劇団リラオーディション会場。昨日と同じ男性6人女性3人の受験生がストレッチや発声の自主練習を行っていた。今回の受験生は美波以外は全員札幌在住と普段の生活環境のまま受験出来るのに比べて美波だけは長距離バス、漫画喫茶と普段の通りの日常からではないディスアドバンテージともいえる状況から始まったオーディションだったが、初日とは違い今日はそんな不利な要素は微塵も感じなかった。黒のジーンズに、グレーのパーカー。初日と同じ服装で受験するが朔の家の高級洗濯機と無香料の洗剤と柔軟剤のおかげで肌触りが全く違ってふわふわ。そして昨日の旅館みたいな晩御飯に今朝の朝食。朔が無意識ではあるだろうが、自然に手作りの食卓を演出してくれたこと気づいた。知らないうちに笑顔になる美波。
    「あれ?なんか昨日より明るい表情だね。なんかあった?」劇団リラの舞台脚本・演出担当の君塚誠に声を掛けられた美波。
    「はい。あったかい布団とおいしい食事に出会えたんです」笑顔で返答する。君塚は美波の表情を見て
    「うん。本当に美味しい食事だったんだね。君の頭の上にメニューが並んでいるよ」その言葉に美波は急いで頭の上を払った。
    午前11時。オーディション2日目。
    監督の堂林公彦と脚本・演出の君塚誠が席に着いた。
    「二日目は一人芝居で演技力を見ます。お題は・片思いの相手に告白・家族の最後の看取り・絶望を感じビルの屋上にたたずむ・上京する列車から見える町への思い、そして最後・美味しいごはんに出会えた。この5つの中から自分で選んで演技してください。持ち時間は2分から5分。10分後にスタートします」君塚誠の目は美波を追っていた。本当は4つの題目から選んで演技をさせる予定だったが、どうしても美波の美味しいごはんの演技が見たくて急遽5つ目にアドリブで追加した。

    「次。4番、芽原美波さん」美波は小道具として机と椅子を準備した。
    「へえ~うまいねニンジンの皮を剥くの」用意した椅子に座るわけでもなく料理しているであろう人の後ろに立って覗き込んでいる演技を始めた。
    「えっ?その剥いた皮も使うの?きんぴら?きんぴらってゴボウでしょ?へ~根菜を炒めたものをきんぴらって呼ぶんだ。すごい物知りだね」上半身を左右に振って料理人の後ろから覗き込む演技をしたと思うと少し離れ
    「ねえ。なんでそんな料理には精神を集中して繊細な料理作るのに、洗濯物はぐちゃぐちゃなの?ソックスも裏返し、使ったタオルも外に飛び出てるよ。お~い、聞こえてる?」ソックスやぐちゃぐちゃな洗濯物を直す演技。
    「な~に。わかった。今行く」美波はテーブルに見立てた机の前で立ち止まる。
    「うあ~綺麗。テレビで見る旅館のご飯みたい。鮭も焼いただけじゃないよね?えっ、塩こうじに漬けてから焼いたの。綺麗な焼き加減だね。あっ、さっきのニンジンのきんぴらだ。うんうん、いいよ。糸こんにゃくなくて白滝で代用したって。私はこんなおいしい料理に出会ただけで満足です。ありがとう」美波は頭を下げた。監督の堂林も演出の君塚もここで終わりだと思ったら美波は頭を上げ振り返る
    「ご飯の量。じゃあ、君と同じ量で。大丈夫食べられるよ。こんなおいしい料理があったらチビの私でもペロリだよ。早く食べよっ」ここで美波の演技が終わった。監督の堂林から質問が入る。
    「ありがとうの場面で終わらなかったのにはどういう意図があったのですか?」美波は昨日のキッチンでのやり取りを思い出し
    「おいしいごはんに出会えたという題目だったので、最後は白米のやり取りを入れると決めていました。おいしい料理があると白米っていくらでも食べられますよね」美波からは緊張が全く感じられなかった。続いて演出の君塚の質問。
    「君と言っていた人の事をもう少し教えてください」美波の頭には朔が浮かんでいる。
    「人付き合いは至ってクール。でも、料理の事になると情熱を絶やさない。卵料理が好きで、うまく出来た卵焼きはアイコンや待ち受けにしてしまう人です」美波の回答に君塚は含み笑いを浮かべた。

    午前11時50分。オーディション終わりの控え室。終わった安心感からか美波の空腹バロメーターが鳴りだしていた。終わった人から順に昼食を取るように言われていた。みんな調理パンやお弁当を食べていた。昨日はどこにも寄らずに会場に来てしまった反省から今日は地下鉄に乗る前にコンビニに寄ろうとしたが、朝ご飯の満足感に包まれて忘れてしまっていた。お腹を押さえながら控室の端っこで耐える美波に
    「受験生の芽原美波さん。お届け物です」事務員の女性がビニール袋を持って来てくれた。
    「はい。私です」美波は立ち上がり手を挙げ、ビニールを受け取った。見覚えのあるビニール袋。昨日、朔がぬいぐるみを取ってくれた時にもらったビニール袋だった。でも、昨日のビニール袋はぬいぐるみと一緒に美波のカバンに大切にしまってある。
    「えっ?朔君」ビニールの中を覗くと昨日の焼き鮭をまぶしたおにぎり2個と綺麗な色の甘い卵焼きが4切れ。容器に割りばしと一緒に入っていた。朔のやさしさに目が潤む美波。容器を持ち上げると底にハンカチでくるまれた小さなものがあった。開いてみる美波。
    「あっ、小春だ」そこにはキーチェーンに付いた昨日のぬいぐるみの8分の1の大きさのミニチュアホースが真新しい鍵にくっついていた。朔は美波専用の鍵を作り、ゲームセンターに行ってキーチェーンをクレーンゲームでゲットして家に帰っておにぎりと卵焼きを作り、琴似まで届けていた。
    「練習前にわざわざ来たの?」美波はビニール袋を抱きしめ体を震わせていた。

    午後1時。札幌私立創成スクエア学園第一体育館。朔はみんなより1時間遅れで体育館に入り、ストレッチを始める。トレーニングコーチから今日の個人メニューが渡される。シュート練習30分とウエイトトレーニング1時間。全体練習には加わらせてもらえない内容に
    「すみません。全体練習。フォーメーションの練習だけには加わらせてもらえませんか?」トレーニングコーチに直談判するが
    「前巻。お前のレベルと他の部員のレベル考えたら、同じ練習は無理だ。あいつらはお前がいるだけで安心してしまう。俺は去年の全国3位に満足していない。それはお前も同じなのはわかってる。今はあいつらのレベルを1%でも上に引き上げるのに集中する時期。そしてお前はその爆弾の膝が破裂しないようにトレーニングを続けろ。全国大会では、お前の膝を狙ってくる相手もいないとは言い切れない。今はチームのベストを考えろ」朔はそのまま第二体育館へ移動し、1人黙々とシュートを打ち続けた。チーム競技でも1人。もう孤独は嫌だ。いつもは辛い気持ちでシュートを打ち続ける朔の脳裏に、ふと美波のご飯を美味しく食べる顔が浮かんだ。”ガタン”朔のシュートはリングに当たって跳ね返った。今日初めて外したシュート。
    「あいつが悪い」そうつぶやいてまた、シュート練習に励む朔だった。
    午後2時30分。ウエイトトレーニングを終え第一体育館に顔を出す朔。そこには1人居残り練習をしていたキャプテンの小石山がいた。
    「おつかれ。朔。膝の調子は?」シュートを打ちながら話しかける小石山に朔は
    「うん。昨日は20分も出場してないからな。今日のウエートトレーニングの方がきつかった」朔は小石山のシュート練習を黙って見ていた。小石山は創成スクエア学園バスケ部のキャプテンであり、ポイントカードを担う司令塔だ。綺麗なフォームから放たれるスリーポイントシュートを見ているとポイントカードよりもシューティングガードの方が適正だと朔はいつも思っていた。
    「小石山。お前がシューティングガードやって俺がスモールフォーワードに変更したほうがうちの攻撃力上がるぞ。お前は中学の時、シューティングガードで点取り屋だったような印象がある」朔の言葉に小石山は
    「朔は俺と戦った全道大会なんて覚えてないでしょ。俺たちの中学校惨敗したんだから。俺はあの試合でこいつと同じチームで戦いたいって思った。俺の出すパスを朔が決める。それを中学校からずっと思い描いてきたわけよ。俺のポイントガード歴はまだ2年と少し。うぬぼれで言うけど、うちのチームに俺以上に朔を使えるポイントガードは居ないのが現状。確かに数本は俺のスリーポイントシュートで点数が増える。でも、ポイントカードが機能しないと朔の負担が増えて点数も減り、万が一のお前の膝が爆発する可能性も高まる。俺とコーチが話し合って決めた配置だ。これで全国を戦おう」朔は小石山のシュートがネットを擦る音をただ聞くしかなかった。

    午後3時。朔は部室のシャワーを浴び、自分のロッカーを開けた。スマホを開くと美波からのLINEが届いていた。ミニチュアホースのキーチェーンと、空の弁当箱の隣でピースをしている美波の指の画像。合格したも美味しかったもありがとうも無い画像に朔は『なに食べたい?』そのひと言だけを返した。朔もおめでとうや頑張ったねの労いの言葉は無い。すぐに『美味しいごはん』美波からの回答。『俺のごはんはいつなんどきでも、美味しい』料理好きのプライドの返信にお願いしますのスタンプで返信を美波は返して来た。朔は家とは逆方向の札幌駅に向かう。デパ地下グルメを参考に、今晩作るメニューを決めようとしていた。「あら?かっこいいお兄さん。1人でお買い物?」ショーケースを眺める朔の後から声が聞こえる。振り返る朔の前には宮の森聖心女子高等学校の制服を着た、齋藤詩織が立っていた。「何だ。詩織かよ」素っ気ない態度でショーケースに集中する朔に「あんた、かっこいいお兄さんは否定しないのね」後からちょっかいをかける。「俺、忙しいんだけど…邪魔するなら帰って」突っぱねる朔に「ひどい。たった1人の弟思いのお姉ちゃんに向って言う言葉?」涙も出ていないくりくりお目々を指でふさいで、すき間から覗いている。それでも無視をする朔に「昨日LINEで言ってた住み込み家政婦さんとの楽しい夜を過ごすために美味しい料理を作ってあげるんですか?」肘で朔の脇腹を突っつく自称156cmは、昨日の美波のように頭を鷲掴みにされる。どちらかと言うとこちらが、やられるのが元祖であると分かるように、鷲掴みをされて微笑んでいる。「気持ち悪いよ。詩織」朔の双子の姉で唯一、朔以外に家に入る人物であった。

    「なになに?シャンパンに合う料理?」後ろを付いて回る詩織。
    「俺達未成年だろ。お酒は買わないし、飲まない」朔はケーキのショーケースの前で立ち止まる。
    「おっ!?甘いの食べない朔ちゃんも、可愛い住み込み家政婦さんの為に食後の甘いケーキを選んでますね〜2人の出会い記念日になんて言って、シャンパンで乾杯だー」朔は振り返り
    「だから、俺は未成年。シャンパンは飲まない」朔の声はいつの間にか大きくなり、周りの人まで振り向く。周りの反応に気づいた朔は
    「もう帰れよ詩織。用事があってデパ地下に来たのなら用を済ませろよ」背中を押して自分から離そうとする。
    「私の用事は、朔と可愛い住み込み家政婦さんにケーキの差し入れをしようと思ってたの。ほら、優しいお姉ちゃんが、弟を宜しくって挨拶は大事でしょ」ケーキのショーケースを眺めている詩織。詩織の性格上、こうなったら意地でも家に来て差し入れのケーキを食べるまでは帰らないのを知っているので、朔は何も言わずに後ろに立っていた。
    「私はバナナキャラメルのタルト。可愛い住み込み家政婦さんにはイチゴのタルト」注文する詩織に朔は
    「俺のは?」至極真っ当な質問をする。詩織は少し驚いた表情で
    「えっ?あんたも食べるの?バスケ初めてから甘いの食べなくなったじゃん。だからシャンパンを勧めていたのに」朔はシャンパンネタに付き合うのが面倒になって
    「俺もバナナキャラメルタルト」詩織は大げさに後ろに下がる。
    「それなら、可愛い住み込み家政婦さんだけが、イチゴのタルトでかわいそうじゃん。あんたもイチゴのタルトにしなさいよ」勝手に食べたい物を変更される朔。
    「すみません。バナナキャラメルタルトとイチゴタルトをそれぞれ3個ずつお願いします」埒が明かないと踏んだ朔は解決策を講じた。
    朔は後ろから付いて来る詩織を無視して、真鯛やサーモン、トマトにチーズ等をカゴに入れて会計を済ませる。袋詰め用の台(サッカー台)で待っていた詩織にナンパ目的の大学デビューした男数人が話しかけていた。カゴを強めに置いて186cmの朔が睨む。それだけで男達は無言で立ち去った。
    「こわ〜い。朔ちゃん。一撃だね」朔はビニール袋に入れながら
    「お前、可愛いんだから。気をつけないと。しつこい奴だっているぞ。いつも俺がいる訳でもないし」詩織は可愛いんだからの言葉に喜んでいた。
    「だったら、いつも朔が守ってよ~」体をくねくねさせて甘える詩織に
    「無理。お前、ふざけていたろ。俺がいるからって。俺がいない時はお前の毒舌攻撃で泣かせて退散させるのが目に浮かぶよ」否定をしないで笑顔でいる。朔は今でも口げんかは絶対詩織に勝てないと確認出来た。

    荷物を詰めて出口に向かう朔に詩織は
    「ちょっと待って。桂木さんに連絡する」詩織は執事兼運転手の桂木に
    「南側に回して下さい」詩織は笑顔で
    「朔も乗って帰るんだよ」朔は頷くのも嫌だったが、ここでゴネるともっと大変なのを知っているので、静かに詩織に従った。
    黒色のレクサスの前で桂木が待っていた。
    「お疲れ様でした。お嬢様。朔様」一礼して後部座席のドアを開けた。
    「すみません。桂木さん。俺まで乗せてもらって」遠慮気味に後部座席で小さくなる朔。車はそのまま朔の家の前に着いた。
    「帰る前に連絡します。着いたら教えて下さい。急ぐ用事は無いので安全運転でね」詩織は桂木を帰した。
    朔は門扉を開けてドアが施錠されていないのに気づいた。ドアを開ける。2階から
    「おかえりなさい」笑顔で美波が下りて来たが、朔の後ろにいる詩織を見つけると表情は硬まった。詩織は靴を脱いで
    「初めまして。朔がお世話になって」笑顔で挨拶をする。どことなく余裕が感じられる立ち振る舞いに美波は階段で止まってしまっていた。
    「あっ、高いところからごめんなさい」急いで下りて頭を下げる。
    「初めまして。昨日からお世話になっています。住み込み家政婦として働かせていただきます。芽原美波です。どうぞよろしくお願いします」もう一度頭を下げた。2人のやり取りが終わるのを待っていた朔が、詩織を指さして
    「詩織。これでも、姉だから」そして美波を指さして
    「舞台俳優。21歳」あまりにも雑な紹介だったが、美波は朔が舞台俳優と言ってくれたことが嬉しかった。

    朔はキッチンの冷蔵庫に食材を入れていた。詩織はダイニングテーブルに買ってきたタルトの箱を置いて、リビングのソファーに座り、自分で置いてるファッション雑誌を読み始める。2人に会話は無い。それを見ていた美波は、ここは詩織さんの家でもあり、落ち着ける場所なんだと気づいた。
    「詩織。ガチで食べていく?それとも軽く?」キッチンからの呼びかけに詩織は雑誌を読んだまま
    「ガチでお願い。今日あっち、あの人が料理するんだって。家政婦に任せろって言われているのに……私は美味しい朔のご飯を食べて来た体で、向こうでの食事を拒否します」あの人が気になった美波。姉弟が一緒に住んでいない事に特殊な事情があるのは聞かなくても理解せねばならないと心に刻んだ。
    やる事は無いが、詩織の存在が気になる美波。けれど、詩織は我が家の一コマのようにリビングに溶け込んでいる。朔は手際よく調理を始める。
    パスタポットでお湯を沸かしている前に立つ美波。
    「そのお湯5Lだから50gの食塩を入れてもらえる」美波は計量スプーンを受け取るが、計量器が無いと大さじ1杯が何gか分からず、おどおどしていたが、料理となると集中する朔にはその姿が見えていなかった。
    「大さじ3と1/3で大丈夫よ」リビングから詩織の声が聞こえて来た。律儀にスマホで調べてくれていた。
    「ありがとうございます」詩織の方を振り返り御礼を述べるが、詩織は雑誌を読んだまま。リビングでは今日も街中の雑踏の動画がエンドレスでそれも結構なボリュームで流れていた。

    スパゲッティをパスタポットに投入してスマホのストップウォッチで8分計る朔。スピードは更に上がり、鯛をスライスして、生クリームのパスタソースを作る。
    「出来たぞ〜」魚介類の生クリームパスタと鯛のアクアパッツァが並ぶ。詩織は昨日、美波が座った隣に座り、フォークを持って体を揺らしていた。
    「失礼します」少し躊躇して、美波も詩織の隣に座る。何も言われない。席はここで間違いでは無かった事に安堵する。朔は美波の向かいに座る。
    「えっ?」思わず美波の声が漏れた。てっきり、詩織の対面に座ると思った朔が自分の向かいに座ったのに驚いた。
    「どうしたの?」詩織が小皿を朔から受け取りながら尋ねた。
    「すみません。朔君と詩織さんが向かい合わせで座ると思っていたので、ちょっとびっくりして……」詩織は軽く笑いながら
    「あ〜私達向かい合わせて座ると大皿の料理の取分で揉めるから、目を合わせない方が良いの。昔からこの対角線」ひとりっ子の美波には、食べ物の喧嘩が分からなかった。食卓を見ても昨日はきんぴらやピクルスを小分けにしてくれていたが、今日はパスタもアクアパッツァも大皿で並んでいる。昨日は朔なりにお客さんに出した料理で今日の料理が家族に出す料理だと気づいた美波は、その食卓に入れて嬉しかった。
    朔がアイスハーブティーをみんなの席に置いた。
    「では、いただきます〜」詩織が手を合わせて大皿から我先にとパスタを取ろうとしていた。
    「あっ、あのさ」朔の声でみんなが止まる。
    「合格おめでとう」照れくさそうに話す朔に、美波は満面の笑みで
    「ありがとう。今日はリラックス出来てオーディションに臨めました。漫画喫茶に泊まっていたら、多分、無理だったかも」詩織は2人の距離を見つめて
    「なになに?我が家から通ってリラックス出来たって言ってるの?それとも、朔の料理で落ちつけた?朔の料理は元気にしてくれるからね。どんな薬よりも効くんだよ」口いっぱいにパスタを含んで話す詩織を見て、また笑ってしまう美波。
    「はい、両方合っています。オーディションが出されたらお題から選んで演じる一人芝居だったけど、私が選んだお題が、美味しいごはんに出会えた時だったんです」美波もパスタを食べて頬を押さえていた。詩織はパスタをフォークに巻いて
    「それなら、私にも出来るよ。ウ~ン美味しい」体を小刻みに揺らしていた。それをみた朔は
    「不合格」即答だった。

    「ちょっと〜私の演技のどこがダメなのよ。美波ちゃん。私に分かるように説明して」詩織は美波ちゃん呼びに胸が熱くなった。
    「多分、ですけど…朔君が不合格にしたのは、詩織さんの演技は、美味しいごはんに出会えたでは無くて、目の前のごはんの感想になっているからだと思います」詩織は人一倍パスタを取り
    「へぇー難しいわね。お芝居って」大きな口でパスタを頬張る。朔はハーブティーを飲みながら
    「お前も、私ピアノ出来るのよって言って、ねこ踏んじゃったを演奏されたら、不合格つけるだろ。お前はそれをやったんだ」朔の言葉を理解した詩織は
    「ごめん。芝居を冒涜して」頭を下げる。美波は焦って
    「あ、頭を上げて下さい。私も食べた後の芝居はさっきの詩織さんと同じのを取り入れてますから」優しい嘘で場を戻した。詩織は立ち上がり朔を指さして
    「ほら〜私の演技間違ってないじゃん。合格ちょうだい!」朔は横を向いて、相手にしていない。戻したはずの空気がまた不穏になったので美波は必死に
    「詩織さんて、ピアノ出来るんですか?聞いてみたいな〜」その言葉に満面の笑みになる詩織。
    「そうなの。私は6歳からなんだけど、ピアノを始めてね。みんなより始めたのは遅いんだけど、実力でみんなを追い抜いて、今はコンテストにも出られるようになったのよ」腰に手を当ててドヤ顔発令中。
    「すご〜い。全国何位ですか?」せっかく良い空気に戻した美波は自ら爆弾を爆発させた。詩織は椅子に腰を下ろし
    「……北海道……8位」朔は口角を上げて
    「決勝何人でよ」詩織は俯きながら
    「8人」美波は自分の処世術のレベルの低さを悔やんだ。オーディションよりも背中に汗をかいて
    「決勝に残るだけでも凄いですよ」気休めにもならない慰めで必死に詩織の機嫌を取っていた。

    食事を終えて詩織のお土産のタルトと食後のコーヒーを楽しんでいると詩織のLINEの通知音が鳴る。
    「桂木さん迎えに来たから、私帰るね」コートを持って玄関に向かう詩織の後を美波は付いて行く。靴を履きながら詩織はスマホを美波に渡す。
    「LINE登録しよ」今朝の朔を思い出す。姉と弟で一緒なのに、思わず微笑む。詩織のアイコンはチューリップだった。
    「詩織さんはチューリップなんですね」詩織はコートを着ながら、姉だからって卵焼きにするわけないわよ。あれはないでしょ。上手く焼けたからって、卵焼きをアイコンにするほど姉は変態じゃありませんよ」詩織はドアを閉めて待たせているレクサスに乗り込んだ。
    詩織がいないだけで広く感じる部屋。朔は美波の残っているコーヒーの入ったカップをリビングのソファー前のテーブルに置いていた。自分のカップも隣に置いてソファーに座っている。
    「今日はお弁当ありがとうございました。ミニ小春の付いた鍵もとても嬉しいです。練習間に合ったんですか?」隣に座りコーヒーを飲む美波。朔はスマホのバーコード決済アプリの履歴を見せて
    「昨日は100円で小春ゲットしたのに、ミニ小春には300円も使ってしまった。小さいのに取りづらいって、ゲーセンの策略なのか?」美波は笑って
    「どちらも金額以上に大切に使いますから。札幌に来て2日目でたくさん宝物もらいました。幸せ者です」喜ぶ美波の顔を朔は横目で見ながら
    「あのさ。一緒に住むわけじゃん。ちょっと良い?」美波は何か新しいルールを言われるものと思い姿勢正す。曲がりなりにも、雇い主と家政婦である。その境界線は間違ってはいけないと思っていたのに、つい一緒にコーヒーを飲んでしまった事を反省した。
    「好き嫌いってある?一緒にごはん食べる時の参考にしたいから」1人で考え過ぎの自分に美波は思わず笑ってしまう。朔はどうしても、食べ物ファーストなんだと思うと、なんだか嬉しかった。
    「嫌いな食べ物は無いです。ただ、あまり料理を知りません。芽室町出身でうちは野菜農家です。特にじゃがいもを主に作っていて、毎日の主食はうちで採れて売り物にならない野菜がメイン。だから、魚の種類もあまり知らないから、毎回聞くかもしれない……です」その言葉に朔の目はいきいきする。
    「凄い。毎日新鮮な野菜で料理出来るんだ。最高の生活してたのに、劇団のオーディション受けに来たのは、とても思うところがあっただろ。わかるよ」美波は返答に困る。野菜にそこまで思い入れないし、舞台俳優は小学校の時からの夢で、そっちの方が何倍も思い入れがある。料理ファーストの朔には、どう言えば伝わるのかが分からなかった。

    勝手に美波の事を分かっているつもりで、頷いている朔を置いて、美波は2階の部屋から自分のリュックを持って来た。ファスナーを開けて
    「この鍵。ありがとうございました」古びた赤い紐と小さな鈴が付いた鍵を返した。朔は受け取り、またリビングの引き出しに戻した。その間に美波は1枚の用紙をテーブルに出していた。
    「私、明日から劇団リラの団員として就職って言うか、契約するんですけど、住まいをここにして良いですか?そして、劇団リラに提出する用紙にここに住んでいることを証明する署名をお願いします」朔は笑っていた。美波は下げた頭を上げて
    「うん?何かおかしい事を言った?」美波は首を傾げる。
    「証明する署名。証明と署名って並ぶと似てるね」美波には朔の笑いのツボが理解出来無かった。朔は証明の署名をする。
    「これ、うちの住所。覚えておいて」署名の住所欄に朔が書いた住所を口に出して復唱する美波。
    「時間ある時に転居届けとかして来た方がいいんじゃない?札幌市の中央区役所も地下鉄で1駅。銀行口座の書き換えも道銀なら徒歩10分くらいで支店ある。郵便物の転送も役所で新しい住民票もらうと、郵便局で今までの住所に来るの転送してもらえるはず。まずは区役所からだね」やけに詳しい朔に美波は感心する。美波は自分の記入欄を埋めていたら朔が封筒を手渡す。
    「はい。これ、何かと使う事あるでしょ。先に今月の給料。それと、もしも自分のお金でここの家の物を買ったら、きちんと請求して。レシート持って来てくれたら払うから」今月の給料12万円が入っていた。

    「ちょっと、待って下さい。私、まだ何も働いていないのにお金をもらう訳には行きません」慌てて封筒を帰そうとする。朔はその手を遮り
    「劇団の稽古場まで週3日往復するとする。地下鉄西18丁目駅から琴似まで片道250円。1日往復500円。12日と計算すると6000円。1ヶ月通勤定期を買っても10,500円だから21日以上乗らないと損をする。しかし、大通駅まででも価格は同じ。人間の心理でいつも行くとは限らないけど、つい同じ価格ならと大通駅までの定期を買ってしまう。早くも1万円以上の出費とお弁当やみんなに付き合っての飲み会…アレやコレやで最初はお金がかかるもんだよ」
    朔のメンタリスト並みの口調に美波は乗せられてお金を受け取ってしまった。
    「ちなみにだけど、週何回稽古場に行くとか決まってないの?一緒に受かった人と連絡先交換して聞きあったり、情報交換は?」朔の質問にただただ笑顔で返す美波。
    「もしかして…何もしていないとか?嘘だよね?」美波は頷く。
    「してないって言うのか…出来ないって言うのか…私以外に合格した人がいなかったんです」今度は朔が硬まった。朔は地方劇団のオーディションなんて、形式的なもので、必ず合格するものだと思っていた。
    「そんなに厳しいの?確か10人受けたって言ってたよね。合格率は10%。公認会計士並みの合格率じゃん。美波。公認会計士になれるよ」あまりの厳しい門戸に朔は自分の話していることが分からなくなっていたのに気づいていない。
    「それじゃあ、明日からきちんと事務所に通って聞かないと。俺がお弁当預かってもらった方。事務のような制服着ていたから、きちんと聞いた方がいいぞ。なんなら俺が、明日付いて行こうか?別に学校に行く用事無いし、練習は夕方4時からだから」美波を心配して言っているのか、学生の本業を忘れている。
    「ダメですよ。きちんと授業受けて下さい。私は明日午後1時に事務所に来るように言われていますから、午前中はさっき教えてもらった通りに、定期買って、住所変更等行って来ますので」美波は落ち着いた声色で話した。朔はいきなり立ち上がり
    「そうだ。弁当のザンギ漬けて置かなきゃ。鶏もも肉解凍して忘れてたよ。ありがとう」すっかり料理モードに突入してしまった。美波は重く温かい封筒をずっと握り締めていた。

    シャワーを浴び部屋に戻った美波。スマホを開くと詩織からLINEが来ていた。
    『美波ちゃんへ。朔のトリセツです。あの子はとにかく人付き合いに興味がありません。悪気は無いです。シャワーや風呂上がりでも、多分……全てきちんと着てから出てきます。私の前でもそうなので気にしないで』美波は驚く。
    「私、昨日。下着……パンイチ朔君見てます」LINEに思わず声で返答してしまった。
    『料理始めたら、もう1人で生活していると思って。いきなり笑ったり、ひとり言がめちゃくちゃ増えます。驚いていたら疲れます』美波は頷く。
    「今現在のキッチンそうですよ〜」また声で返答する。
    『それと…笑いのツボが独特です。付き合って一緒に笑わなくていいよ』美波は納得する。
    「そっか~昔からそうなのね。参考になります」声で返答する。
    『最後に、家族の事。過去の事は朔から言わない限り、聞かないでくださいね。私からも教えるわけにはいかないので。ごめんね』美波は深く頷き
    「ハイ。分かりました。そこが一番大事ですよね」美波はきちんと文字で返信した。そして、朔のパンイチ姿を見たことは詩織に内緒にしたままだった。

    5月6日午前7時。今日は揚げ物の匂いが寝ている美波の鼻を刺激した。匂いの元をたどるように、キッチンにたどり着いた。
    「おはようございます」美波の挨拶も聞こえていないのか揚げ物の鍋に集中しているようだ。美波はダイニングのイスに座って朔を見ている。
    「お昼。弁当でいい?」朔が後ろ向きで聞いて来た。聞こえていたのなら朝の挨拶してくれてもいいのにと少し思いながらも
    「お願いします。お昼代浮きます」朔はザンギを揚げ終え、春雨のチャプチェを作り始めた。
    「そんなに、朝から作って学校間に合いますか?」美波は時間が気になっていた。朔はスマホのカレンダーを見せて
    「知ってた?今日は振替休日。俺はすっかり忘れてた。美波も役所も銀行も行けないね」美波はスマホを見て
    「え〜っ。何で教えてくれなかったんですか?」立ち上がって朔に詰め寄る。朔は後ずさりしながら
    「だから、俺も知らなかったんだって。さっき、部活のヤツからLINE来て今日は練習休みになったって来て、じゃあ授業だけの為に学校行くの面倒だな。って返信したら」LINEのやり取りを見せた。そこには大爆笑するスタンプと今日は祝日ですの文字。
    「朔君もホントに知らなかったんだね」美波は静かに席に着いた。だんだんと目が覚めてきたのか美波はまた立ち上がって
    「えっーじゃあ私の為に、お弁当作ってくれたいるんですか?」焦って話す。朔は冷静に
    「いや。俺は学校だと思ったから。俺は毎日弁当持って行くから、作ってた。美波のはついでで」美波は不貞腐れ
    「ついでって悲しいですよ。もう少しオブラートに包んで言って下さいよ~」少し朔をからかった。朔は考え込みながら
    「俺の1人分も美波の分も作る手間は同じで、ついでではない」朔なりに一生懸命考えた言葉。美波は本当に真面目なのに、人との付き合いが上手くないんだなと朔の事を思い、少し可愛く思えた。

    卵焼きを作り、おにぎりを握り朔の弁当作りは完成した。
    「急いで詰める必要も無いし、粗熱取ってから容器に詰めるから。食中毒になっても困るし」パスタポットに水を張りながら朔は言う。
    「えっ?お弁当の残りを朝ご飯で食べるんじゃないんですか?」美波は朝からでもザンギを食べるつもりで待っていた。
    「えっ?朝ご飯とお弁当同じだとつまらないだろ」朔は真顔で返答する。美波は少し気まずそうに
    「め、面倒じゃない?」朔とは視線を合わせられない。
    「面倒?料理と皿洗いを面倒と思った事は1度もない」素直で真顔の視線が美波を襲った。
    キャベツとしめじとベーコンをカットして炒めて、コンソメと水で煮る。そこに茹でたスパゲッティ加えて塩コショウで味を整える。何度見ても手際のよい朔の動きに見惚れていた美波。
    「はい。キャベツとベーコンのスープスパゲッティ。簡単で悪いけど」美波は21年生きて来て、朝からこんなしゃれたものは食べた事がない。
    「簡単だなんて、凄いご馳走です。ありがとうございます」きちんと御礼を述べて頭を上げるが、朔は冷蔵庫に牛乳を取りに行っていなかった。
    「うん?何?なんか言った?俺、朝は食事関係なく牛乳なんだけど、飲む?」このマイペースはいつも1人で食事、生活をしているから自然に身に付いていると美波は思い、それに不快な気持ちはなかった。
    「私もお願いします」美波は朔のペースでしゃれていて、もちろん美味しい朝食を食べた。

    朝食を食べ終えて、朔は洗い物をしていた。美波はサニタリーから声をかける。
    「朔君。洗濯物ない?洗濯機回すけど」朔はいつも夜に洗濯機を回し乾燥まで済ませ、そのまま朝に持って行く練習着やソックスを取り出していたが、昨日は美波がシャワーを浴びていたので、そのままにしていたのを思い出した。
    「ないよ」朔が答えると
    「OK」美波は洗濯機を回した。また、自分の洗濯物と一緒に洗っているけど、美波は本当に良いのかなと朔は思うが、実家ではお父さんのも一緒に洗っているを思い出して、お父さんよりはマシだよなと思い言うのを止めた。
    サニタリーから出て来た美波はリビング横の姿見に映る自分を見て
    「失敗した〜」立ち止まる。
    「何が?」食器を拭きながら聞く朔に美波は自分の着ているグレーのスウェットを指さして
    「部屋着兼パジャマなのこれ。2日連続着たから洗わないとって思ってたのに、朔君のザンギの良い匂いに釣られてこのまま食事しちゃって、忘れてた」苦笑いする。
    「俺のせいに聞こえるんですけど」少し拗ねている朔に美波は慌てて
    「違う。違う。私が誘惑に負けたのが悪いの。悪いのは100%私だから」必死に弁明する。
    その時。朔の顔が美波の首元に近づく。一瞬の出来事に心臓が爆発するくらいの動悸を刻む美波。
    「うん。全然大丈夫だよ。良い香りだよ。美波って、すずらんの香りするよね。ゲーセンの時から良い香りって思ってた」いきなり女性の匂いを嗅ぐ。外で知らない女性にやったら痴漢行為とみなされても仕方がないくらいの事だが、朔に悪意がないのも分かっている。それに朔が外で他の女性にくっつく事もないのも分かっている。美波はドキドキしながらも
    「うん。ありがとう」平然を装った。

    「掃除機はどこにあるの?」タブレットでニュースを読んでいる朔に尋ねた。
    「階段下の押し入れだと思う」美波が押し入れを開けると、最新の軽量コードレス掃除機があった。美波はコードレスタイプの掃除機を使うのが始めてだった。実家では重いキャニスター式の掃除機をコンセントを付け替えしながら使っていた。軽くヘッドの回転も小回りが効く。掃除が楽しくなる魔法の掃除機に思わず
    「楽しい〜」声を出しながら掃除機をかけている美波。朔はタブレットを読むのを止めて
    「良かった。俺は洗濯の次に掃除が苦手。助かります」何故か家計婦に頭を下げる朔に、主婦が一番面倒と思う、朝食や弁当作りを喜んでやっている人に言われるのは、気が引けると思いながらも美波は喜びいっぱいで最新家電の恩恵を受けていた。1階の掃除を終えた所で掃除機のバッテリーがなくなったので、お風呂掃除とトイレ掃除、外の掃き掃除を終え、洗濯機の乾燥が終わるのを待つだけだった。
    朔はソファーに移動し夜の献立を考えていた。美波は朔の隣に座り
    「洗濯機、掃除機と最新家電ですよね。一斉に買い替えたんですか?」朔はタブレットを操作しながら
    「詩織が買い替えた。ハウスキーパーさんが掃除機を使用してもストレスないようにって。洗濯機は俺がボタン押せば翌日には着られるようにって言ってた。文明の利器だね〜ちなみに詩織は家事全般一切しない人」笑う朔に美波は
    「お金はご両親が?」詩織のトリセツを破ってしまう。両親と言うワードが出た瞬間、朔のトーンは明らかに下がり
    「うん。まぁ……」それ以上は何も答えようとはしなかった。リビングでは新宿の雑踏動画が流れていた。

    「私ね。昨日、朔君に作ってもらったお弁当。誰にも見せずに控室の隅で食べたの。誰かが覗きに来たら見せようかなって思ったけど…でもね、これは朔君が私の為だけに作ってくれた大切なお弁当って私だけが出会えた温かいお弁当って思ったら誰にも見せたくなくなって、一人で涙流して食べたんだ」正直な気持ちを美波は話した。朔は顔を上げて
    「えっ?温かいお弁当だった。ごめん。粗熱とったつもりだったのに。食中毒にならなくて良かった」美波の気持ちの温かさではなくお弁当の温度を気にしている朔に美波は、どこか違うんだけど、あえて否定もしたくない。そんな気持ちに包まれた。
    午前11時。朔は美波のお弁当を包んで割りばしを添え紙袋に詰める。
    「割りばしって味気ないよな~」ひとり言を呟く。美波が着替えて部屋から下りて来て
    「わ~い。お弁当ありがとうございます。あの、これから定期券買いに行きたいんですけど大通公園の地下鉄の駅のどの出口から行くと迷いません、いや、近いですか?」美波はスマホの地図アプリを見ていた。
    「丸井今井札幌本店 一条館のそばの19番か18番出口。俺も買い物あるから一緒に行くよ。それだと迷わないでしょ」美波の本心を突いた。
    「恐縮です~何度も札幌に遊びに来た事あるのに、生活するとなれば違うんですよね~それで、朔君は何を買いに行くの?」朔は視線を逸らして
    「内緒。俺も、東京に行ったとき山手線の内回りと外回りもわからなかったし、地下鉄から地上にも出られなかった苦い思い出があるよ」話を逸らしながら共感した。

    朔はリュックに自分の弁当とアイスティーをスリムボトルに入れて家を出る。美波はリュックを背負い無意識ではあったが嬉しそうに紙袋を振っていた。朔は弁当が崩れないか心配で見ていた。
    場所を教えるためにあえて歩いて向かう2人。美波は一昨日は朔の後ろを歩いて付いて行ったが今日は隣を歩けている嬉しさを抑えきれなかった。
    地下鉄の窓口で定期券購入申込書に、氏名・電話番号・利用区間・使用開始日などの必要事項を記入して提出する美波。
    「デポジット 500円頂きますので11,000円になります」窓口係のいきなりの英語に
    「デポジット?それ付けなくて良いです。キャンセルでお願いします」堂々と間違った事を言うので朔があわてて
    「SAPICA定期券を購入する時に無くしても記名式のため手数料(500円+新カードのデポジット500円)で、再発行が可能になる保証金だから払う必要がある。だからキャンセルは出来ないんだよ。それにカード返却時には返金されるから」美波は朔の言葉に頷き
    「それは便利ですね。では、デポジット追加でお願いします」11,000円を支払った。発行してもらった大通駅から琴似駅のSAPICAを掲げて喜ぶ美波。朔は自動券売機で自分のSAPICAをチャージしたついでに、美波のSAPICAにも5,000円チャージした。あまりの早業に美波はキョトン顔をさく裂させていた。
    「これで、もしも区間乗り越しても精算しなくてもタッチでOK。バスも数社乗れる、市電も乗れるから。5000円をお守りとしていれておいたから。怖がらずに札幌の街を探索しなよ。これから住む街なんだからさ」朔の優しさがお金以上に嬉しくて、美波は無意識に朔の腕にしがみついた。

    腕にしがみつく美波に朔は
    「お弁当崩れるから」美波の気持ちは二の次。あくまでも料理ファーストだった。
    美波の今日の用事は朔のおかげで無事終わった。
    時刻は11時30分。
    「朔君が良ければ、大通公園のベンチでお弁当食べませんか?」美波は少し恥ずかしそうに言う。朔は意外にもあっさり
    「良いよ。行こうか」簡単な返事に美波は驚きながらも地上に出る階段を上って行った。
    「じゃあ、そこで」朔は直射日光が当たらないような場所を選んで座った。美波も隣に座る。2人はお弁当箱を出した。美波は小さなタッパーのおかず入れに、朔が握ったおにぎり1つ。朔は美波の倍の大きさのタッパーにおにぎり2つ。美波は朔のお弁当の大きさに高校生だと言うことを思い出した。
    「さすが高校生だね。お弁当の大きさで思った」朔はおにぎりをかじりながら
    「学校ある日はこれに部活の練習前に食べるおにぎりをもう1つ持って行く。暑い時期は前の晩に作って一晩凍らせて置く」料理の事となると饒舌に何でも話してくれる朔。
    おにぎりにかぶりついた美波が喉に詰まらせる。朔は慌ててスリムボトルを取り出して飲ませる。
    「ありがとう。朔君のお弁当の美味しさと外での食事の相乗効果で詰めすぎた(笑)」朔は美波の背中を擦って
    「がめついだけだろ(笑)」優しくもいたずらっこの笑顔は美波の心に染み渡る。
    「あっ、ごめん。口つけて飲んじゃった。朔君も飲むんだよね。ごめん……」朔は美波からスリムボトルを取って、ひと口飲む。
    「気にしない。美波が気にするなら、コンビニで飲み物買って来なよ」驚きと優しさと何となく挑発気味の言い方に美波も朔からスリムボトルを取り返してひと口飲む。
    「私はもっと気にしない」2人の横にスリムボトルが置かれ、春の暖かな陽射しを受けながらお弁当はキレイに完食された。

    思いのほか早食いの2人。美波が地下鉄に乗るまで40分以上も時間がある。
    「美波。少し俺の買い物に付き合ってくれない?」美波はベンチから立ち上がって
    「良いですよ。今日の晩ご飯はなんですか?」お昼のお弁当を食べ終えて数分しか経っていないのに、もう晩ご飯に目が向いているのには朔も驚いた。
    「いや〜晩ご飯の買い出しはまだ行かないんだ。それに、晩ご飯は何か分からないほうが楽しみだろ。ちょっとした買い物だよ」2人は大通り沿いの雑貨店に入る。
    美波は楽しそうにおしゃれな雑貨を見ている。
    「美波。ちょっと」手招きをする朔。美波は駆け寄る。
    「美波の家で使う箸とお弁当箱とお弁当用の箸と箸入れを買う。それと、美波も稽古で水分補給で使うと思うからスリムボトルも」美波はまさか朔の買い物が自分の物ばかりとは思わず驚いた。
    「私、お弁当箱は今の朔さんとお揃いのサイズ違いのタッパーで良いです」美波は同じ種類でサイズが違うタッパーに同じように詰められるお弁当が嬉しい事を伝えるのは恥ずかしかった。
    「じゃあ、家の箸とお弁当用の箸と箸入れは選んで」何種類もある箸に迷っている美波。
    「朔君は両方とも黒い箸だよね」売っている箸を見ながら話す。朔も頷きながら
    「2膳同じだと楽だからね」美波は料理は繊細なのに自分の事となると大雑把になるギャップに笑ってしまう。
    「じゃあ、私も2膳同じのと箸入れも同じ柄にします」ラベンダー色の箸にシマエナガが印刷された箸と箸箱を選んだ。
    「次はスリムボトルだね。形も色も好きなの選んで」美波は朔と同じ形のスリムボトルでこれもラベンダー色を選んだ。
    「ラベンダー色好きなんだ?」朔はカゴに入れた商品を見て話す。美波は昨日の夕飯時の雑談の中で朔がラベンダー色が好きだと言ったのを覚えていた。
    「朔君はラベンダー色好きなんだよね」ドヤ顔で聞く美波に朔は首を傾げて
    「それ、詩織の間違い。確かに俺が昨日話たけど、詩織はラベンダー色が好きって言ったんだ。多分勘違い」美波は慌てて
    「ダメ〜詩織さんの好きな色で揃えるのは、失礼になる〜選び直しだよ」美波は全て若草色に変更した。

    買い物を終え、紙袋から美波はスリムボトルを取り出して、周りを見渡す。
    「どうした?」朔の問いに、美波は
    「せっかくだから、使いたいなって思って。今日も練習あったら飲み物を入れて行くと便利だから。トイレで洗ってこようかなと」美波が歩き出そうとしたので、朔は止める。
    「ダメだ。俺は潔癖ではないけど、初めての使う水筒をトイレで水洗いだけして使うのは、俺のプライドが許さない。美波が気にしないなら、さっき美波が飲んだのと俺がひと口飲んだこのボトル貸すから。氷も入っている。それは俺が家できちんと洗っておくから」朔は手渡す。
    「ありがとう」美波は朔のスリムボトルをしっかり持って、劇団リラの事務所に向かう為に地下鉄に向かった。
    初めての改札口のタッチにした瞬間、美波は札幌市民のスタートを切ったような気持ちになった。座席に座り向かいの窓に映る自分を見る。リュックを背負い、手には朔のボトル。食べた弁当の紙袋も箸やスリムボトルを買った紙袋も全部朔に押し付けていることに気づいた。
    「朔君に甘えてばかりだな〜」1人つぶやきながら劇団事務所に向かった。

    地下鉄琴似駅を出て北へ2ブロック歩くと3階建ての劇団リラのビルがある。1階は事務所と用具室。2階は常設ステージと控室。3階は稽古場兼監督や演出家の個人部屋。
    「おはようございます」定時に事務所に入ると昨日お弁当を届けてくれた事務の制服を着た女性がいた。
    「芽原美波さんね。どうぞ座って」事務所内のソファーに案内される。美波は昨日、朔に書いてもらった用紙を出して、待っていた。
    向かいのソファーに事務の女性が座る。
    「ごめんなさいね。挨拶していなかったわね」女性は名刺を差し出す。
    「劇団リラ社長の室谷です」50代半ばの女性は笑顔で挨拶をする。美波は思わず口を押さえる。勝手に事務の女性と思っていた事が口から漏れないようにと無意識に抑えていた。そして、帰ったら朔に教えてあげようとも思った。
    室谷社長は用紙に目を通す。
    「芽原さんは芽室町出身で、この札幌のお住まいは御親戚の家?」美波はその質問は想定していたので、すぐに
    「いえ。ちょうど住み込み家政婦の募集があったので、応募したら採用されました」美波は前のめりで話す。
    「今どき、住み込み家政婦って珍しいよね。ハウスクリーニングとかが主流だと思っていたから。でも、住み込みだと劇団の稽古に来づらいんじゃない?うちは地方公演もあるから数日家を空ける事になるわよ。大丈夫?」その質問に対する答えは用意していなかった美波。
    「あっ、住み込み家政婦と言っても緩いんで。時間ある時にお掃除して、みんながシャワー浴びたら洗濯機のスイッチ押すだけです」笑顔で話す。
    「ご飯の準備あるでしょ。一番大変なお仕事」やはり世の中の女性はみんな料理が一番大変と思うのが当たり前な事なんだと美波は確信した。
    「料理は……住み込みの家でやってくれる人がいるので、私は掃除と洗濯のみなんです」美波の頭には朔が浮かんでいた。
    「それで、住み込み?逆に息苦しくないの?」美波は息苦しいと考えた事がなかったので、逆に考え込んでしまった。
    「もしかして、昨日お弁当届けてくれた方は、雇い主のお家の方?」美波は頷き
    「そうです。わざわざお弁当届けてくれて助かりました」思い出しても胸が熱くなる美波。
    「彼ね。インターホン押す前に1分くらいそこで、お弁当渡すシミュレーションしてたのよ。この部屋から外見えるから。それに彼は身長も高いし、スタイルも良くイケメンでしょ。つい私も年甲斐もなく見とれてしまってね。シミュレーションしてから渡すなんて、自分の与える印象が悪ければ、芽原さんの印象も悪くなると思ったのかしらね。誠実な方なんだね。親御さんの教育が行き届いているんでしょうね。家政婦雇うくらいのハイソサエティな家庭ですもんね。芽原さんは家政婦長いの?」美波は朔がシミュレーションしている場面が目に浮かんでいた。嬉しくもあり、しかし、社長には本当の事を伝えるべきだと決心した。

    「社長。私は家政婦今日で2日目なんです。そして私の雇い主は昨日お弁当を届けてくれた彼なんです。彼とは一昨日の午後にゲームセンターで出会って、その時に私が泊まるホテルから一方的に予約キャンセルをくらって、その時に彼が家に泊めてくれたんです。彼の家は一軒家ですが、彼以外に住んでいません。お姉さんが様子を見に来ます。お姉さんはお父様と別の場所に住んでいます。金銭面はそちらの方で援助してくれていると思うので、全く問題ありません。そして、彼は料理が大得意で、昨日のお弁当も私の毎食のご飯も全部彼が作ってくれます。とても美味しいんです。お姉さんも彼のご飯を食べて帰ります。私、彼の家で過ごして今日で3日目なんですけど、とても居心地がいいんですか。不安もなく毎日熟睡出来るんです。そして毎朝、彼の作る料理の香りで目が覚めるんです。劇団員として何か規約違反ありますか?」美波の熱弁に室谷社長は笑う。
    「規約違反なんてないわよ。彼と同棲している団員だっているから。それにしても、芽原さんは彼が大好きなのね。そして彼もあなたをほっとけないのね。純愛と言う言葉がとても似合う関係。私からのアドバイス。料理の出来る彼は貴重よ。絶対離さないようにしがみつきなさい」2人で笑い温かい空気に包まれた。

    室谷社長はファイルから今年度の予定表を取り出して、美波に手渡した。
    「今年度は6月。7月。8月。10月。12月。2月。4月と舞台があります。8月は地方公演で札幌を離れます。基本劇団員は売れたチケットの枚数の6割を折半します。7月公演は新人がメイン。8月は地方公演。12月は共済ホールで2DAYS。後の公演は市内のホールやここの2階で公演。お客さんは数十人だけどね。4日連続公演もあるから。芽原さんはお仕事的には時間作れそうで良いけど、定職につかずバイト掛け持ちして演劇に人生捧げている団員もいるから、公演の前の月までには、参加出来るかの意思確認行っています。早速だけど来月は大丈夫?」いきなり夢だった演劇が現実になった。用紙1枚がとても重く感じる。
    「大丈夫です。参加します。みんなも応援してくれているので」勝手に口から出た言葉。けれど、朔の作ってくれるお弁当を食べるとそんな気がしてならなかった。
    美波の決意のある表情を見た室谷社長は目元を細めて
    「それでは、今年の新人は芽原さん1人だけど、魅力的な俳優になって下さい。来週からの練習日程はLINEで後ほど送ります。グループLINEにも登録して下さい。そして……強制ではないけれど、新人団員には稽古場の掃除をお願いしています。練習ない日でも利用可能だから、劇団員が来ているので、仲良くなる機会と勉強を兼ねて、時間ある時は何時でもここに来てくれて良いからね」美波は立ち上がり
    「これからお世話になります。よろしくお願いします」深く頭を下げた。
    室谷社長は笑顔で返す。


    「私はオーディションにかかわっていなかったから、聞けなかったんだけど、芽原さんは何故うちの劇団を志望したのか教えてもらえる?」美波は懐かしむように遠くを見つめて
    「小学校2年生の時です。今から14年前にはなりますね。劇団リラの地方公演が帯広市であったんです。その時に主演を務めていた北島リラさんに心を奪われて、そこから舞台俳優になりたい。北島リラさんの劇団リラで演じたいって思い続けていました」輝く美波の目とは対照的に室谷社長は俯いていた。
    「その翌年には北島リラは当劇団を退団して東京のメジャー劇団に入ったのは知っている?」美波は頷き
    「はい。私が知ったのはその4年後でした。中学校のパソコンで初めて検索したのが、劇団リラ、北島リラでしたので」美波の家では父のガラケー以外にネットが出来る物が無かった。
    「素晴らしい演技をする反面、人の意見を気にしすぎる人だった。あまりにも繊細すぎて、ここみたいに小さな劇団とは違い、守ってくれる人もいない。北島リラは2019年に役者人生の幕を下ろしたの」美波が北島リラを検索したのは、その1度だけだった。あまりにも募る思いが増え続けるのを自重するために。
    「私にとってもとても大切な同期だった。彼女がいたから、すぐに裏方に回る決意が出来た。そうでなくても親の七光り入団って言われてね。そんな時によりによって合格したのが、私と北島リラ。笑えないくらい可笑しいの。そして、うちの父、先代の社長と堂林監督が芸名にリラを与えた。そして、脆く儚いシンデレラストーリーは始まった」過去の話を自虐的にも、どこか誇らしげに話す室谷社長の言葉を美波は姿勢を正して聞いていた。

    午後1時40分。美波は立ち上がり
    「私、この時間に帰っても晩ご飯の準備の邪魔なんで、稽古場の掃除して来ます」3階に上がり
    「失礼します」そっとドアを開けると1人の美波と同年代の女性が1人ストレッチを行っていた。
    「こんにちは」その女性は笑顔で向かい入れた。
    「今日からお世話になります。芽原美波です。よろしくお願いします」頭を下げる美波。女性はストレッチを止めて
    「橋本花奈です。去年入団しました。2年目です。よろしくお願いします」きちんと頭を下げてくれた。大きな目が印象的な女性は美波に近づき
    「芽原さんは、失礼ですけど…今年何歳になりますか?」興味津々の表情で聞いて来た。
    「私は、今年の誕生日で22歳になります」美波はその圧に遠慮気味に話す。橋本は頭を抱え
    「あ〜っ。今年も私が一番年下だ〜私、今年ようやく20歳になるんですよ。ちなみに今月の26日ですけど。去年はお酒の席の演劇論を戦わせるのに参加できなかったんです。だから、今年入団する新人団員で未成年者には、先輩としてパフェでも食べながら演劇論を戦わせようとしたんだけど…美波ちゃん。年上のお姉さんだった」いつの間にか美波ちゃん呼びになっていた。それにしても、橋本は声が通る。普段の会話でも滑舌も良いと美波は感じる。
    「橋本さん。私、演劇全く経験したことないんです。運動も発声も分からないので教えて下さい」どうやら橋本は人に頼られるのが、好きな人種のようだ。少し鼻を穴を膨らませて
    「良いよ。劇団リラ伝統の準備運動と発声練習を教えてあげる。一緒にやろう。それと、私のことは花奈ちゃんって呼んで」2人は準備運動のストレッチを並べて始めた。

    「美波ちゃんは実家通い?お仕事は?」体を反らしながら聞く。
    「私は下宿と言うか、住み込み家政婦で住ませてもらって、そこの家で働いています」橋本は反らしていた体を戻して
    「えっ?住み込み家政婦?今でもそんな仕事あるの?すご〜い。あのメイド服着るの?ご主人様って呼ぶの」自分の想像する家政婦像を並べた。美波は苦笑いを浮かべながら
    「私は帯広市の方の出身で、一昨日のオーディションの日に札幌で予約していたホテルが一方的にキャンセルされて、困っていたら、1人の男性が、泊めてくれて…」話を続ける美波に
    「ちょっと、ストップ!!いきなり見ず知らずの男性の家に行ったの?危ないよ。襲われなかった」橋本の言葉は間違ってはいないが、飛躍し過ぎであった。
    「大丈夫です。そこで夕飯もご馳走になって。オーディション合格したら、住み込み家政婦として雇ってくれるって約束してくれて、無事に住まいも仕事も見つける事が出来たんです」美波の笑顔を見て、橋本は危なくないのは、納得出来た。
    「それでも、いきなり家族の中に入って行くの大変でしょ。意地悪な人とかいない?大丈夫?」心配している中にも、美波の環境に興味がある橋本は、いつの間にかストレッチを忘れて、腕を組んで話に夢中になっていた。
    「家族は、みんないい人ですね」橋本は通る声で
    「えっーわかんないよ。美波ちゃんに下心があって住ませてるかも。ヤバいよヤバいよ~美波ちゃん絶対狙われるよ。部屋に鍵はあるの?お風呂も鍵使っている?洗濯物取られていたりしない?」美波も次のストレッチが分からないので、そのまま立った状態で
    「部屋に鍵はないですけど、みんなと部屋は離れていますから。洗濯物は私が洗っているし、全員の一緒に洗濯機に入れていますけど、大丈夫です」橋本は美波の肩を掴んで
    「美波ちゃんは、自分の洗濯物と男性の洗濯物を一緒に洗っているの?気持ち悪くない?」
    言われてみればそうなのかも知れない。けど、朔の事を知ると、橋本でも大丈夫だと思うと言いたかったが、朔の事をあまり人に話すのは、もったいないと思い何も言わなかった。

    「花奈ちゃんって、昔から演劇に興味があったの?」美波は話題を変え、橋本の事を聞くように仕向けた。
    「私は、中学、高校と6年間バスケットに青春を捧げてね。高校3年生で引退して燃え尽き症候群だった時に、友達がこの劇団のチケットくれて一緒に見に行ったんだよね。ちょうどここの2階の小さい公演。惹き込まれたな〜その瞬間に私の進路は決まったの。ネットで色んな劇団の演劇見て、表情とか勉強したんだ」美波は自分と志望動機が似ていて、うれしかった。
    「花奈ちゃんの趣味の演劇が職業になったって事なんだね」美波の言葉に橋本は首を振る。 「ううん。私の趣味は今でもバスケット。高校バスケットを観に行くのが、今でも大好き。今はちょうど春季大会の地区予選でね。今週末もあるんだ。男子はね去年全国3位の創成スクエア学園が圧倒的に強いのよ。北海道No.1プレイヤーの前巻朔がいるから。見て惚れ惚れするんだよね〜前巻情報だけど、めちゃくちゃストイックで管理栄養士に食事のメニューも決めてもらって、家でもお母さんがその通りに食事を作っているんだって。やっぱり全国で戦う人って、徹底的に管理されているんだろうね。家にも地下があってダンベルとか運動部屋があるそうだよ」橋本から朔の情報が出たのに驚いた美波。違うと教えるべきか、でも、なるべく朔のことは言わないでいたい。美波は、気持ちの入っていない相づちをうち続けた。

    準備運動と発声練習を2人で行い、お掃除を終えて劇団のビルを出たのは午後4時だった。
    「美波ちゃん。どこに住んでいるの?」2人で並んで歩き出す。
    「地下鉄西18丁目駅から南側に少し歩く感じの所」あまりきちんと住所を言うのも、朔の家だからと言う気持ちもあり、濁した言い方だった。
    「じゃあ、東西線だね。私も新さっぽろ駅まで行くから、一緒に地下鉄乗れるね。それともどこか寄る?」美波は同じ地下鉄に乗って橋本がもしも一緒に下りたらと考えてしまい、躊躇していた。
    「花奈ちゃん。大通公園近くで雑貨店知っている?」美波は買い物していく体で大通駅で下りるアピールをした。
    「あるよ。私は地下街のボールタウンの雑貨屋さんに良く行く。ポールタウン歩くとすぐ分かるから行って見て」この言い方だったら、橋本が付いて来ない確率は高い。一緒の地下鉄に乗っても大丈夫だと安心した。
    「じゃあ、また明日ね」美波はきちんと大通駅で下りて、橋本の乗る地下鉄を見送った。そして急いで逆のホームから家に戻る地下鉄に乗った。

    西18丁目駅の出口から地上に出る。発声練習で喉がカラカラだった美波は、朔から借りたスリムボトルのアイスティーを一気飲みした。稽古場で橋本花奈の荷物に空のペットボトルがあるのを見つけていた。その状況で朔のボトルを出すと絶対ひと口ちょうだいと言われるのが目に見えていた。美波は朔のボトルに橋本花奈が口をつけるのは絶対避けたかった。そのためには、自分自身も喉の渇きに耐える必要があった。
    「美味しいな〜明日は何のお茶かな」美波はパントリーに色々な種類の茶葉があったのを見つけていた。実家には緑茶とほうじ茶しかなかった美波はティーポットがテーブルに置かれるのも楽しみだった。美波は朔のボトルを握りしめ家路を急いだ。
    詩織から送ってもらった追加ルールに家の鍵は中に人がいても、必ずかけることとあった。それは詩織も鍵を持っている。朔はずっと一人暮らし。その習慣で帰宅後の朔は鍵をかけるのだと言う。これは、詩織も合わせなければいけないと書いてあったので、もちろん美波も合わせる。
    家の鍵をさして回してみる。
    "ガチャ"やはり家の鍵はかかっていた。
    「ただいま〜」リビングからいつもの雑踏の動画の音は聞こえて来るが、朔の声はしなかった。
    リビングを覗くが誰もいない。キッチンには食材が出ているので、朔がいた痕跡があった。美波は朔のボトルをダイニングテーブルに置いて、2階の自分の部屋に向かった。階段を上り部屋に入る前に人の気配を感じる。一瞬、稽古場で橋本花奈が言った、襲われない?が頭をよぎる。美波は気配をする後方を振り返りると、バルコニーで朔が作業をしていた。美波はそのままバルコニーに行く。
    「何してるんですか?」朔は屈んで何かをしていた。
    「あっ、おかえり」立ち上がった朔は干物を干すネットに自分で捌いた魚を入れて、洗濯竿に掛けた。
    「干物ですか?」美波はネットを覗く。
    「そう。今日はホッケが安かったから半日干して明日のお弁当に入れようと思って。ちょっと下準備に時間かかったな〜反省」朔は笑顔で話す。
    美波は朔が襲うとか一瞬でも考えた自分を戒めた。そうだよ。この料理ファーストが朔なんだと安心した。札幌も日が長くなり始めて来た。涼しい風でネットが揺れる。美波は思い出したかのように
    「ただいま」2人はバルコニーから夕日を眺めていた。

    階段を下りると朔は振り返り美波の前に立つ。今日の美波は橋本花奈の影響で少し敏感になっていた。
    「ど、どうしたの?」緊張気味に聞く美波に朔は
    「美波。俺に付き合ってくれない?」今日の美波は少し敏感。俺にを俺とに聞き間違え、顔を赤らめながら
    「朔君が年上でも抵抗ないなら」気持ちは最高潮に達し、朔の前で目を瞑った。
    「当たり前じゃん。年上じゃなきゃダメなんだよ」朔の言葉に美波は目を閉じて待っている。
    「早く、靴履いてよ。買い物行くよ。料理酒とみりん切れてて。いつもは詩織に持ってきてもらうんだけど、今回忘れてて。美波が20歳以上で助かった。あっ、きちんとマイナンバーカード持ってね」靴を履き終えた朔はすがすがしい程の笑顔で話した。
    美波はスーパーに行く道中も心の中で、朔は悪くない。こんな気持ちにさせた橋本花奈が悪いと妙な責任転嫁をしていた。
    スーパーでカゴを持つ朔の横に付いて歩く美波。買うものは決まっているのに、食材の宝庫のスーパーに来たら、1つずつ見て歩かないといけない性分なのは、美波も安易に想像できていた。美波は黙って朔の横を歩くだけで一緒に生活をしている気持ちになれてうれしかった。

    結局、みりんと料理酒だけを買い家に戻った。朔はそのままキッチンで料理に取りかかる。美波はダイニングで橋本花奈から来たLINEに返信していた。
    橋本花奈から、雑貨屋さんで良いもの見つけた?と来ている。美波は大通駅で下りる為の口実で橋本花奈に雑貨店を聞き、そのまま既成事実を作るのを忘れていた。悩みながらも、花奈ちゃんと別れたあとにすぐ用事頼まれて急いで帰ったの。また、嘘を上書きしてしまった。橋本花奈からは、大変だね。住み込み家政婦って。自分の時間も作れないんじゃない?何か買い物でも頼まれたの?これは渡りに船。美波はお酒買って来るように言われたと伝え、嘘から真実へと変更された。
    キッチンでは朔が揚げ物をしている音が聞こえる。揚げ物をしながら隣の鍋でさっき2人で買い物に行って買ったみりんと料理酒を使って煮物を作っていた。レジでいつ聞かれてもいいようにマイナンバーカードを握りしめ会計前に提示すると、レジの女性は笑顔で応えてくれた。美波は多分朔1人でもスルーされた可能性が高いとも思ったが、ここは根が真面目な朔なので完璧を求めたのであろうと思いながら、後ろから朔を覗く。
    「アスパラ~」美波は大好きなアスパラを天ぷらにしているのを初めて見た。
    「旬の野菜は体に良いから。今日は天ぷらにした」朔の揚げたアスパラはとてもきれいなきつね色、いや、女王のきつねの色くらい綺麗な色で輝いていた。美波は隣の皿に盛りつけられている楊枝の刺さった白い物に目をやる。
    「これは…何?」楊枝をつんつん指で突っついて聞く美波。朔は煮物の味見をしながら
    「それは新玉ねぎ。これも旬だからね。切ったら剥がれてしまうから楊枝を刺して揚げた」朔は煮物の出来が良かったのか頷きながら話した。
    天ぷらも煮物もそれぞれ一枚の大皿でテーブルに運ばれる。美波はごはん茶碗に自分の食べる分と朔の分のご飯を装った。
    取り皿と朔お手製の天ぷらつゆと大根おろしを運ぶ。晩御飯の時はいきいきと手伝うんだよなと朔は思いながら、氷を入れたグラスにウーロン茶を注いで美波が前のめりで皿を覗いている向かいの席に着いた。

    美波は煮物の大皿に入っている豆腐のような白い長方形の物体をまじまじと見ている。
    「これは?豆腐?」美波が取るのを躊躇していたので朔が自分の取り皿に入れて
    「食べてみて。美味しく出来たと思う」そう言って笑顔で差し出されると食べない訳には行かない美波。そっと口に運ぶ。
    「うん。柔らかな身がほぐれておいしい。魚だね。なんの魚?」朔は前日に美波が魚の種類はあまり知らないと言っていたのであえて変化球の魚で攻めた。
    「かすべの煮つけ。エイの胸ビレだよ」美波は目を大きくして
    「エイって食べていいの?毒ある奴だよ」魚の知識のが乏しい美波はエイの全身に猛毒があると思っている。朔もカスベを取り食べながら
    「それは尻尾の途中にある棘だけが毒。身は安全。それにこれはメガネエイだから毒が無いエイ。安心して」それでも美波は小さくつまんで食べていた。そこで朔は伝家の宝刀を抜く。
    「カスベはコラーゲンの塊。お肌プルプルになるよ」その言葉を聞いた美波は急に一口が大きくなった。
    「うん。最高~アスパラの天ぷらなんて初めて食べた」美味しそうに天つゆにつけて食べる美波に朔は
    「もしかして生で食べてた?」朔の問いに美波は頷く。朔は天井を見上げ
    「それって最高に贅沢な食べ方だよ。朝採りの新鮮なもの以外は筋が固くなるから生で食べられないんだよ。うらやましい」美波はいつも近所の農家さんからもらって食べていた。生で食べるのが当たり前だと思っていたので衝撃だった。
    「新玉ねぎも美味しいよ。甘くて、柔らかくて」美波は豪快に一口で食べた。
    「新玉ねぎも食べるのは生でしょ?」朔の問いに美波は
    「生で鰹節に醤油が定番だけど、てんぷらでも食べるよ。かきあげにして。でも、朔君みたいに上品に天つゆなんて出てこない食卓だったよ」朔は立ち上がり棚から岩塩の粉末の袋を取り出し
    「塩で食べる派だった?」テーブルに置くと美波は首を振り
    「しょうゆ一択。なんでもしょうゆの家庭。とんかつ。フライ。てんぷら。なんでもしょうゆ(笑)」朔はちょっと引き気味に
    「豪快な家庭なんだね」精一杯言葉を探した。

    食事を終えて朔は明日のお弁当の仕込みを始めていた。
    家の間に車の止まる音。ドアの鍵を開けて
    「ただいま~」詩織が入って来た。
    「お帰りなさい」美波は立ち上がり詩織を迎える。
    「これ、なんかわからない人達の集まりに付き合わされて帰りにもらったの。美波ちゃんにあげる」詩織は紙袋を美波に渡す。もらった紙袋の厚みが違う。どこかの洋菓子店のシール。焼き菓子とは推測できるが、とても高級そうだ。
    「詩織さん。これ、お高いやつじゃ...…ないですか?」紙袋を持ったまま立ち尽くす美波に
    「うん。お偉いさんたちの席に置いてあるやつだからそうだと思う。それより私はお昼から何も食べてないの。朔~ごはん」詩織はソファーに横になった。
    「今日はお家でご飯食べなくて大丈夫なんですか?」詩織はソファーにうつぶせになりながら
    「うん。今日はあの人達に付き合わされていたから。家に誰もいないし、ご飯もないの」朔の過去の話や家庭の話を聞いてはいけないと言われているが、詩織の家庭もなかなか複雑な気がしてならない美波だった。
    朔は無言で新玉ねぎの天ぷらを揚げ始め、もう一つの鍋で乾麺のそばをゆで始めた。
    「はい。新玉ねぎのざるそば」薬味のネギと、ワサビも擦って添える本格派。もちろん朔お手製の天つゆも別添えで。
    「やったー」詩織は豪快にすする。見ている美波も食べたばかりで食欲がわいてきた。
    「またホテルでの演奏?」朔は料理を続けている。
    「うん。会合の懇談会で演奏させられてた」朔はじゃことチーズをご飯に混ぜて握り海苔で包む。そして持ち帰り用にラップでくるんでテーブルに置いた。
    「じゃあ、俺。シャワー浴びるから」あくまでも自分の生活リズムを狂わせない朔はそのまま浴室に消えていった。
    美波は食べ終えて満足そうな詩織の隣に座り焼き菓子の箱を開けた。
    「アイスコーヒー入れますね」美波はグラスに氷をいれて朝に朔がドリップしていたアイスコーヒーを2人分持って来た。それを見ていた詩織は
    「美波ちゃん。どこに何があるかわかって来たね。すごいじゃん」焼き菓子を食べながら話す詩織。
    「まだまだです。今もあの油の入った鍋やお蕎麦で使った鍋を洗っていいのかわかりません」美波はキッチンを見ていた。
    「あれはね、あのままでいいの。朔は必ず洗い物を終えてから次の事をするけど、今は私が急に来てご飯催促したからリズムが狂ったのね。たぶん、油の温度が低くなった時にシャワーから出てくるわよ。キッチンは朔のお城だから。触ると怒られる。触らないと怒られない。そんなライトな感じで大丈夫」詩織の言葉にはいつも救われる美波。

    「私、正式に今日劇団員になったんです」詩織に報告をする。
    「そうなんだ。良かったね。どこの劇団に所属したの?」アイスコーヒーを飲む詩織。
    「劇団リラです。もう40年以上続いている北海道では名前が知られているんですよ」詩織は一点を見つめ
    「もしかして琴似にある劇団?何回も前を通ったことあるよ」美波はうれしそうに
    「そうです。琴似です。詩織さんは琴似詳しいですか?」少し踏み込んだ質問をする美波。
    「詳しいっていうかね、私は宮の森ってところに住んでるの。地下鉄で西28丁目駅ってあったでしょ。あそこから下りて歩くんだけど。私の数人いるピアノの先生の一人が琴似の方で教室やっててね。たまにレッスン受けに行くんだ。それで覚えてた」美波は詩織の住んでいる家の場所を聞けただけでもうれしかった。朔との話の時みたいな重い沈黙は生まれなかった。

    5月7日。朝6時。朔は昨日から干していたホッケの干物をバルコニーから下ろしてグリルで焼き始めた。今日は料理の香りに起こされる前に、自力で起きてきた美波。
    「おはようございます」朔は大根を擦りながら
    「おはよう」きちんと朝の挨拶を返す。初めてのパターンに嬉しくなった美波は、また朔の後ろの邪魔しない距離で朔の料理を覗いている。
    「今日は試合前だから軽い練習で終わると思う。午後7時には帰って来る予定。そしたら、ドラックストアーに行こう」いきなりの誘いに戸惑う美波。
    「買い物なら付き合いますよ」後ろから声をかけた美波。すると朔は振り返り
    「うん。美波のシャンプーとコンディショナー買いに行こう。俺のシャンプーとコンディショナーで、美波の髪質が良くない方に変わって来てる。これでは見せる商売の人はダメ」美波は洗面台に行き、鏡で自分の寝起きの姿を見る。きちんとドライヤーをかけて乾かしたのに、濡れたままの髪で寝たかのような、アート作品になっていた。驚いて戻って来た美波に
    「俺の無香料シャンプーとコンディショナーはヘアサロンで購入しているけど、洗浄力強いんだよね。美波には合わないかも」朔がヘアサロンで髪を切っていたのにはさすが今どきの青年と思わざるを得なかった。
    美波は朔が洗面台を使う前にと必死にドライヤーでアート寝癖を直していた。
    午前7時。朔の声がキッチンから聞こえる。
    「出来たよ」美波は9割まとまったヘアースタイルで急いで戻る。キッチンの上には粗熱を取っているホッケの干物が見えた。美波はお昼の楽しみを消費しないように目を逸らしてテーブルに急ぐ。
    「うわっ!すごっ!!」テーブルの上には、丼ぶりに入った大根おろしたっぷりの温かいお蕎麦が出来上がっていた。

    「昨日、詩織が食べてたのをじっーと見ていた人がいたからさ。朝のメニューを変更しました(笑)」美波は自分がそんな状態で見ていたのに気づいていなかった。
    「恥ずかし〜い。でも、いただきます」お蕎麦に大根おろしを乗せてすする。
    「美味しい!!ゆず?ゆずの風味がする」朔は業務用とも言えるくらいの容量のセカンド冷凍庫に視線を送り
    「丸ごと、ゆずを冷凍にしてたから。その皮をすりおろした」美波は朝ご飯のクオリティをはるかに超えている事に今さら驚かないが、感心していた。
    大根おろしの下からお肉が顔を覗かせた。
    「うん?鴨肉じゃないですか!」美波は頬張りながら驚く。朔も麺をすすりながら
    「今年の冬に庭で燻製にしたんだ。庭を汚すなって詩織に怒られたけど、美味しいでしょ」笑いながら話す。美波は庭を見ながら
    「綺麗に手入れされていますよね。業者さんがやっているんですか?」朔は首を振り
    「ううん。詩織が全部やっている。向こうの家やピアノの練習で溜まったストレスを土いじりで解消している。あっ、ルール追加。庭は雑草1本でも抜かないこと。詩織のテリトリーだから。よろしく」美波は詩織からトリセツ、朔からルールを教えられることで、この家の住人になっていっている気持ちが増えてくる。

    午前7時30分。朔はお弁当を詰め、マイボトルに冷たい烏龍茶を入れる。美波にも同じお弁当のレイアウトで詰め、お弁当と買った箸のセットを置いて
    「自分のボトルには好きなの冷蔵庫から出して入れて。じゃあ行って来ます」美波は玄関まで見送る。
    「行ってらっしゃい」今まで詩織が泊まった時にしか言われた事がない言葉、それも血縁関係のない女性初めて言われた。
    「ありがとう」思わず御礼を言ってしまった朔は足早に地下鉄の駅に向かった。
    午前10時。練習1時間前。稽古場を美波が掃除していた。
    「おはよう。美波ちゃん」橋本花奈がコンビニ袋を持って入って来た。美波は橋本花奈の昼食がパンだと気づいた。水のペットボトルは買って来ているので、本日デビューの美波のマイボトルは取られることはないのも確認出来た。
    「昨日せっかく大通駅で下りたのに残念だったね。その雇い主嫌な奴だね。他にもいじめられてない?」橋本花奈は美波に近づく。橋本花奈が悪い人ではないのは分かってはいるが、美波はまだ朔の事を話す気にはならなかった。
    午前11時。団員の前で美波は新人としての挨拶を行った。みんなは温かく歓迎してくれた。
    質疑応答が始まろうかと言うタイミングで室谷社長が前に出て
    「芽原美波さんには大切に思う方がいるので、色恋沙汰の質問やアピールはしない事。この中の誰も彼には勝てないのが明白だから」若い男性劇団員にはキツイパンチが炸裂した。その中でも一番驚いていたのは橋本花奈だった。
    「社長は芽原さんの大切な方にお会いしたんですか?」室谷社長は頷き
    「ええ。少しばかりお話を交わしました。誠実な男性でしたよ。芽原さんを守っているのが、ひしひしと伝わりました」美波は俯くことしかできなかった。

    発声練習も終え、6月の舞台の練習が始まる。3年目までの新人の出番はほぼ無く、2年目の劇団員は台本を見ながら、先輩の演技を学ぶ。新人の美波は台本すらもらえず、端に立って見ていた。橋本花奈は美波に台本を見せてあげようと、美波の方を振り向くと、美波は瞬き一つせずに役者が発した台詞を復唱していた。その集中力に先輩であるはずの橋本花奈も焦りを覚える。前半部分を終え、監督の堂林から各自に指導が入る。美波はそれを後ろで頷いて聞いている。
    午後0時40分。指導後の前半部分の通し稽古は終わり、1時間のお昼休憩に入る。外に食べに行く者やコンビニに向かう者。そしてお弁当を持って来る者。各々好きに動く。美波は稽古場の端にリュックを持って座る。みんなスマホを開き、返信したり、SNSに稽古場の風景と自撮りをアップしたりと忙しい。美波は誰からも鳴っていないスマホだが、みんなの雰囲気に合わせる為に電源を入れた。
    「あっ!!」小さい声が漏れる。朔からLINEが来ていた。ちょうど30分前。朔の昼食時間と推測出来た。
    朔からのLINE『ごめん。干物少ししょっぱい。塩抜き失敗した。今度うまく作るから、水たくさん飲んで』結局料理のことしか書いていないが、美波にはうれしかった。
    笑顔の美波を見ていた入団3年目の後藤ミキが
    「なになに?彼氏からの応援メッセージでも、来ていた?」美波の隣に座りスマホを覗こうとする。美波は照れながら
    「違うんです。料理を作ってくれた家の方が、料理の味付け失敗したから気をつけてって連絡くれてました」美波の言い方では、住み込みで働かせてもらっている家の人、その家のお母さんが作ってくれたようにも聞こえる。
    「良いね。娘のように可愛がられているね」後藤の言葉に、橋本花奈が近づいて来て
    「けど、ご主人様が酷いんですよ。美波ちゃんがプライベートで買い物しようとしてたら、急いで酒買って来いって命令しているんですよ」なんか、色んな尾ヒレが付いているが、美波は何も言わなかった。後藤ミキが良いと思っている人と橋本花奈がヒドイと怒っている人が同一人物であるとは、誰も想像出来ないであろうと美波は思い、さらに好都合だった。

    橋本花奈はコンビニのクリームパンを食べる。後藤ミキは自分で作って来たであろう、冷凍食品が並んだお弁当を開く。美波は1人で朔のお弁当を楽しみたかったが、2人に挟まれていては逃げ場がない。お弁当箱の上におにぎりが置いてある。橋本花奈はラップで包まれたおにぎりを見て
    「すごい!じゃことチーズのおにぎり。初めて見た!!」橋本花奈の声は無駄に通る。みんなが気になって見に集まってしまった。
    「これは、昨日娘さんが食べたご飯の残りで……」必死に弁明するが、みんなに聞き入れてもらえない。
    「可愛い箸箱だね」劇団員に言われて照れ笑いで返す。みんなに見られながらおかずのタッパーを開ける。
    ホッケの干物に大根おろし。豆腐とアスパラのあんかけ。そして立方体の茶色の物体が2個端に入っていた。
    「なにそれ?コーヒーゼリー?」橋本花奈が指を差す。美波も首を傾げながら
    「なんだろう?」ひと口食べる。
    「昨日の晩ご飯のカスベの煮物の味がする」それを聞いた年配の劇団員の女性が
    「じゃあ、煮凝りだよ。カスベはコラーゲンたっぷり。それの最たるものがその煮たあとの煮汁を固めた煮凝り。サプリなんかより効くわよ。そんな手の込んだ料理作ってくれるなんて、結構年配の方なのかしら」美波は頷き
    「はい。お料理の上手な奥さまなので、私はお掃除専門の家政婦なんです」この瞬間、朔はお料理上手の奥さまになった。
    美波はちょっとしょっぱい干物も美味しくいただき、空っぽのお弁当箱の写真を撮り、朔のLINEにアップして『美味しかったよ』と添えた。

    午後4時。練習が終わり美波と橋本花奈は稽古場の掃き掃除を終え、地下鉄駅に向かう。
    「美波ちゃん。台本貸してあげようか?」橋本花奈はリュックから台本を出す。
    「いいの?大切なの物を」美波は少し躊躇していた。
    「良いよ。今日の美波ちゃんの練習中の表情見て私、思ったんだ。台本ばかり見ていても、うまくならないって。今日の家での自主練は私も頭の中で舞台を思い浮かべて演じてみる」美波は橋本花奈の台本を大切に受け取り、リュックにしまった。
    「美波ちゃん。今日は雑貨店に寄るの?」昨日の流れを忘れていた美波は、少し焦りながら
    「う、ううん。今日は奥さまに買い物頼まれていて、寄り道出来ないの?」朔とシャンプーなどを買いに行く約束をしている。これは嘘ではない。だって朔は料理上手の奥さまになっているのだから。美波は自分に言い聞かせる。
    「そうなんだ。自由時間少ないのは大変だね」橋本花奈は本当にいい人だ。美波は少し心が痛かった。
    その時、美波と橋本花奈のLINE通知音が同時になった。
    2人はスマホを開く。差出人は脚本・演出家の君塚誠だった。
    『7月の新人公演。今年は昔の題目をやりません。新人の皆さんの原作を基に私が脚本を作ります。ジャンル。長さ。全て自由。1人で何本提出しても良い。そして、家族、友達に手伝ってもらっても良い。私の魂を震えさせる原作を期待しています。一応締め切りは6月の公演千秋楽まで』
    2人は焦る。まともに演技もやったことがないのに、いきなり原作の宿題。その後の地下鉄内での2人の会話はとても少なかった。

    美波は家に帰ってお弁当箱を洗い新たにグラスに朔が作ったルイボスティーを注ぎ、ノートとシャープペンシルを取り出して、頭に何か下りてくるのを、神頼みで待っていた。
    「ダメだ〜」テーブルに崩れる。元々、読書感想文の原稿用紙ですら、埋めるのに苦労してきた学生時代。小説を作る事など米粒に文字を書くのより難しいことだった。
    「ゲームセンター。偶然の出会い。初めての夜。ご飯。美味しい。シャワー。パンイチ」つぶやくが1つも線で繋がることなくそこから劇的に何かが派生することはない。
    午後6時30分。ノートに実家の隣の牧場で可愛がっていたミニチュアホースの小春の絵を描いて現実逃避をしていた美波のスマホからLINEの通知音。朔から地下鉄に乗ったとの報告だった。
    美波はリュックにノートをしまい、朔の帰りを待った。
    ドアの鍵の音がした。美波は玄関まで急ぐ。
    「おかえりなさい」笑顔で朔を迎える。
    朔は少し驚きながら
    「何?お腹空いたの?昨日、詩織が持って来たお菓子あったんじゃない?」朔からただいまは聞けなかった。
    「ちょっと着替えて来るから待って」朔は洗濯物を玄関に置いて2階の自分の部屋に向かった。
    美波は朔の洗濯物をどうすれば良いか分からず、指で突っついて待っていた。
    「何してるの?」2階に上がったはずの朔が、後ろのリビングから出て来た。
    「キャーなんで」美波の絶叫。
    「えっ?俺の部屋の横に階段あって、サニタリー室のドアに繋がっているから」美波はサニタリー室には行くが、奥のドアを開けた事がなかった。
    「ごめんなさい。知らなかったから」美波は朔の部屋の前までも行った事がなかった。2階も自分の部屋以外掃除をしたことがなかった。
    「俺の汗かいたシャツ汚いけど、そんな汚い物触るみたいにしなくても……」朔にはそのように見えたことを悪いと思った美波は
    「全然。全然だよ。どうすれば良いか分からなくて、突っついてただけ。汚くないよ」美波は何を思ったのか、ビニールから朔の汗のかいた練習着を取り出して持って見せた。
    「大丈夫?」逆に朔が心配する。興奮している美波は
    「全然。大丈夫!!」鼻息が荒い。朔は笑って
    「じゃあ、洗濯機に入れて置いて。美波の仕事。これからもどこかに置いておくから(笑)」美波は少し恥ずかしくなったが、本気で朔の汗のかいた練習着を嫌がっていなかった。
    「良いよ。私の仕事ね」強がって言うが、内心とてもうれしかった。

    並んで歩くこと約5分。近所のドラックストアーに入ると、朔はすぐにカゴを持つ。美波は店内を並んで歩いて他の人にどう見えているのか、気になり始めていた。
    「美波はどんなシャンプー使ってた?」数あるシャンプーの棚の前に並んで立つ。
    「私の実家では、スーパーの特売日にこれをまとめ買いして、全員使ってました」可もなく不可もない定番のシャンプーとコンディショナーと指さした。
    朔は美波の髪を優しく触る。初日のゲームセンターでの鷲掴みとは全く違う優しさに美波はハニカム。
    「だいぶ水分も油分も奪われているな。ヘアマスクも買おう」朔は少し高めのシャンプー、コンディショナー、ヘアマスクの3点セットに決めた。
    「ヘアマスクって、ナイトキャップみたいに被るんですか?」全く知らない美波を絶望的な目でみる朔。
    「トリートメントのパワーアップバージョンって感じ。週に2〜3回シャンプーの後でコンディショナーの前に塗って3〜5分待って洗い流す。ダメージヘアへの塗る薬」おしゃれに全く興味がないと思っていた朔から食べ物からのアプローチの美容ではない美容が聞けてびっくりする美波。
    「なんで、朔君はそんなに詳しいの?」まさか元カノの影響?なんて負の妄想がよぎる。
    「詩織だよ。あいつは黒髪ロングのストレートに命をかけているからヘアサロンにトリートメントで通っている。俺がヘアサロンに通っているのも詩織の影響。俺は詩織のお金でカットしてもらえるから、助かっている。そこで担当の店長さんのウンチクを聞いて覚えたってわけ。笑うなよ」美波は女性の影響でも詩織で安堵していた。
    「私はお母さんの行きつけの美容室でカットしてもらっていたので、ヘアチェックなんてやったこともなかったです。高校卒業してからは、劇団に入るのを夢見ていたので、髪の毛は伸ばしました。学生時代はいつもボブカット。お母さんもボブカット。美容室のおばちゃんが得意だからと言う理由でそこの美容室でカットはだいたいみんなボブカット(笑)」自虐的に笑う美波に朔も
    「俺も店長さんの好みでずっとこのアップバングって言うヘアスタイルだよ。洗ってすぐ乾くからいいんだけど」朔の笑った顔がとても似合うヘアスタイルだと美波はいつも思っていた。

    朔は洗濯洗剤の前で立ち止まる。
    「俺はシャンプーや洗濯洗剤も柔軟剤も無香料ばかり使っている。かっこつけているように見えると思うけど、実際憧れて、真似事で始めた。もしも、美波がお気に入りの柔軟剤があるならそれに変更しても構わないよ。洗濯は美波に選択権がある」勝手にダジャレを言って笑い出す朔。美波は詩織のトリセツを思い出し、笑いのツボがズレている。で分かっているので、何とも思わない。自分でも証明の署名で体験していた。
    「私はこだわりないから、朔君のそのまま使いますよ。なくなったら同じの補充しましょう」美波は無香料に憧れるのって元カノの影響?また悪い負のオーラが美波を包む。今度は詩織ではない。詩織の洋服からは、香水とは違う柔軟剤の香りがしたことを美波は覚えていた。聞きたいけど、聞く勇気はない。
    「それでいいの?俺は美波のすずらんの香り好きなんだけどな」また朔の顔が美波の首元に近づく。緊張の汗が流れる美波。
    「こ、これは練り香水です。耳の後ろに少しつけています」朔の顔はまだ美波の首元から動かない。
    「うん。これは美波だけがつけているといいな。俺に取って美波の香りだから誰にもつけて欲しくない」普通に感想を述べているだけの朔だが、美波には鼻血が出るほど嬉しい言葉だった。
    会計を済ませて並んで帰路につく2人。美波は勇気を振り絞って
    「無香料に憧れるって、どういうことがあったんですか?」朔は思い出すように
    「もう3年前かな?詩織の家族の食事会に行った事があったんだ。そのレストランでソムリエール、女性のソムリエがいてね。家族に馴染めない俺が暇しているのに気づいて話し相手になってくれて俺が、ソムリエールとして注意していることはって聞いたら、ワインのテイスティングの邪魔になるから、無香料の化粧品や洗濯洗剤、ヘアスプレーを使っているって教えてくれて。自分の仕事の為に考えているなって感動して、そこから憧れて真似している」やっぱり女性だった。美波は少し声を震わせて
    「その方はキレイだった?」朔は首を傾げながら
    「どうだろうね。顔なんて覚えちゃいない。興味ないし。その姿勢が素晴らしいって思っただけだから。どんな人だったろう?今度詩織に聞いてみて。あいつも覚えちゃいないだろうけど(笑)」その姿勢こそあんただよ。と言ってあげたいくらいの興味のないことへの無頓着ぶりは、私を安心させてくれると美波は心の中で叫んだ。

    家に着くと美波はお風呂場に自分のシャンプー等を並べる。朔のシャンプーの横に並べることで一緒に生活している気持ちになれた。
    キッチンでは朔が、昨夜成形しておいたハンバーグをフライパンで焼きオーブンへ入れていた。もう一つのフライパンでは、いんげんとにんじんをバターソテーしている。
    朔は自分のお弁当箱を洗いながらハンバーグの焼き時間を気にしていた。
    美波は朔の後ろからまた覗いている。
    「音と匂いがなかったら、料理の美味しさって半減しますね」何気ない美波の一言に朔は
    「確実にね。そしてそこに見た目も加わる。色合いも気にしないといけないし。趣味の域の俺には奥が深すぎて」朔が奥が深いと言うのであれば、入口にも立っていない私は語る資格なんてないと思い後ずさりした。
    「そして、そこに美味しく食べてくれる人もいなきゃいけない。俺はそう思っている。しょっぱい干物もきちんと食べてくれるような人」いきなりの告白に美波はうれしくなり頬が赤くないか触って確かめる。
    「いや~私は、ただ。好き嫌いがなくて朔君が作るのは何でも...…」その瞬間オーブンが焼き上がりを通知し朔は全く美波の話など聞いていなかった。
    金縁の綺麗な丸皿にいんげんとにんじんを添え、真ん中に朔の手捏ねハンバーグが鎮座する。
    美波は食器棚に向かい
    「やっぱり、ご飯も、いや、ライスも皿ですか?ナイフ&フォークで」それには朔は笑いながら
    「家の食事で肩ひじ張って食べるのは疲れるよ。ご飯茶碗でお箸で食べよう」いつも通り美波は2人分のご飯を装う。朔は冷蔵庫からペリエを出して
    「油系にはこの天然炭酸水がさっぱりするよ」そう言って2人で1本のペリエをグラスに分けた。
    「いただきます」箸で塩コショウのみの味付けのハンバーグを切って口に運ぶ美波。
    「うまっ。なに?今日は特別の日?高級A5ランク牛」ご飯も頬張り満足な顔。
    「特売の牛ひき肉赤身だよ。100g150円。有償の和牛の牛脂を買って練りこんでるから、うまみを感じるかもね」朔は美波が思った通りに引っかかってくれて大満足だった。
    2人の食卓は今日もにぎやかに過ぎて行った。

    洗い物を終え朔はメントール感のする紅茶ウバを入れてテーブルの美波の前に置いた。
    「あ~ミントの香りの紅茶。美味しい」美波はホッとした表情で飲んでいた。
    朔はリビングの棚からノートパソコンを取り出した。
    「珍しいですね。タブレットじゃなくパソコン」朔はキーボードを叩きながら
    「うん。小論文の提出が明後日まででね。1200文字くらい書いて提出しようかなって」朔のブラインドタッチはとても早く、聞こえてくる音だけでも美波は気持ち良くなっていた。美波もソファーに置いていたリュックからミニチュアホースの小春の落書きだけをしたノートを出して、また神の力で降りてくる原作を待っていた。
    何も動かない美波を不審そうに見る朔。
    「どうした?神とのコンタクトでも試みてる?」まさか当てられるとは思ってもいなかった美波。
    「なんでわかったんですか!良かったら私の話を聞いてもらえますか?」美波は朔に詰め寄る。朔は笑いながら
    「怖いよ。あと5分待って。読み返して担当教師に送るから」その言葉に美波は驚く
    「えっ?まだ10分も経ってないですよ。それで1200文字終わったんですか?」朔はモニターを見ながら
    「うん。別に小論文や作文、読書感想文は苦手ではないし」その言葉こそまさに美波にとっての神降臨を予感させるものだった。

    5分後。朔はあっという間に小論文を片付けた。美波は立ち上がり
    「朔君。私は7月に劇団の新人公演に参加できるんです。それで通年ですと劇団の長い歴史の中の題材を演じるんですが、今年は脚本家の先生が新人公演に出演する劇団員の作品を演目に決めたんです。私も、舞台の作品、小説かそれなりの原案を提出しなければいけません。そこで、脚本家の先生も家族の人に助けてもらっても良いと言っていたので、私の家族の朔君。何とかお力を貸してくださ~い。何でもしますので」頭を下げる美波。
    朔は自分のイスを引いて美波に自分の膝の上に座るようにジェスチャーをする。とうとうここでと、美波の妄想はどんどん膨らみ朔の前に立ち、意を決して朔の膝の上に乗った。
    「なんでもするって言ったよね」耳元で朔の声が聞こえる。
    「は、はい」美波は目を閉じ。体を震わせる。
    「じゃあ、土曜日の試合を見に来て。詩織が来るんだけど、あいつ変なところで大声出すから嫌なんだよ。詩織のお目付け役として会場に来て」そう言って朔は美波を左腕で抱きしめ……美波の左肩に付いていたご飯粒を取ってあげた。
    「もう、さっきから気になって。どうしたら左肩にご飯粒が飛ぶの?」朔は指にご飯粒を乗せて美波に見せた。
    抱きしめられて次は...…と思っていた美波は事態が呑み込めていなかった。
    「え~っと。私は土曜日に詩織さんと一緒に朔さんのバスケを見に行けばいいんですね。そして私は肩にご飯粒をつけていたと。わかりました」美波は朔の膝の上から立ち上がろうとするが朔が腰に手を回して
    「もう少し、美波の温度感じてもいい?」美波の背中に額を付けていた。美波はなにも言わずに朔の膝の上に乗っている。
    「俺が去年膝のけがで入院していた時に病院で書いた小説あげる。多分、もらっても脚本家の人はすぐに捨てると思うけど」朔は自分のクラウドからパソコンにダウンロードを開始した。

    文章作成ソフトで書かれた朔の小説。タイトルは『止まない家の雨』30歳の社会適合不適格の夜間バイト清掃員。バイトには行くがそれ以外は基本部屋に引きこもり、同居している母とは5年以上会話どころか、存在を確認したことがない男。それに嫌気をさした24歳の妹は高校卒業と同時に東京で就職し自立する。妹は母と兄と一応の最低限の繋がりを持つが、母から聞こえてくる話はいつも兄の相談ばかり。妹は自然と2人から距離をとるようになる。そんなある日、兄が閉店後のパチンコ店の清掃のバイトに行っている間に、家で母が何者かに刺殺された。しかし、母と顔を合わせない生活をしている息子は部屋で母が刺殺されているのに気づかずに生活を送る。数日後に母の部屋からの異臭とポストから抜かれていない新聞と郵便物で異変に気づく息子。母の部屋を開けてみると、腐敗の始まった変わり果てた母がベッドに横たわっていた。息子は警察に通報する。警察は息子が数日間も母と同じ屋根の下で接触をしていない事に矛盾を感じ、兄を任意で聴取を始める。母殺しの第一容疑者になっても、人とのコミュニケーションが苦手な息子は、自分の無実を立証する事が出来ない。東京の妹に母が変わり果てた姿で発見された連絡が来る。妹は兄がいくら社会適合不適格な人間であっても母を殺めるような人間ではないと信じ、兄のバイト先でのアリバイ証明等に奔走する。やがて兄のアリバイが立証され、無事釈放され兄妹は2人だけで母の葬式を執り行った。骨つぼと一緒に帰宅した兄妹は、そのまま開ける事の無かった母の部屋の引き出しを開ける。母の部屋には2人が知らなかった手持ち金庫が見つかる。そこにあったのは……。そこで朔の小説は終っていた。
    「す、すみません。この続きが読みたいです」美波は朔の膝に乗ったまま話す。
    朔は美波を後ろから強く抱きしめ
    「これは、ここで完成なんだ。みんなが主人公の兄妹になって読み進めて行くと、それぞれの答えに出会える。100人いたら、100通りの答え。俺はそれで良いと思って、ここで終わった」美波の背中に顔をつけながら話した朔。美波は振り返り朔を自分の腕の中で優しく抱きしめた。

    「朔君。ありがとう。私はこれを演じてみたい。朔君の名前で提出させて」朔は美波の鼓動を聞きながら
    「美波は俺の前から突然居なくならない?」震えるような声で聞いている。
    美波は朔をさらに強く抱きしめ
    「いなくなるわけないよ。出ていけって言われても、出ていかない。美味しい料理と……朔君と離れたくないよ」美波は朔の頭を撫でた。
    朔は使っていないSDカードに小説をコピーして美波に渡す。
    美波は自分のスマホにもダウンロードして、読み返していた。
    美波は夜遅くまで朔の小説の役になりきって、興奮して眠れなかった。
    翌朝午前7時。朔はお弁当を作り終え、チーズトーストとハムエッグとトマトサラダに牛乳の朝食を摂っていた。
    「おはようございます」ホントの寝起きの美波が急いで下りて来た。
    「うん。髪の毛アートじゃないね。良かった」朔は美波の髪質が改善されて来ていたのを喜んだ。
    美波は朔の顔を直視出来ない。勢いとは言え、昨日の夜の抱きしめる行動と告白が恥ずかしかった。
    「いただきます」俯きながらトーストを食べる美波に朔は
    「美波。俺の勝手に合わせてもらうんだけど、試合が近づいて来て、気持ちの問題なんだけど、体をほぐしたいので今日から夜はシャワーではなくお風呂に浸かる。それで、美波に入浴剤を買って来て欲しいんだ。お願いしていい」美波はトーストを皿に置いて
    「朔君の好きな入浴剤は?」朔は首を振り
    「全くない。適当にバラ売りしているのを都度買ってた」美波はトマトを食べながら
    「あっ、ドレッシング美味しい。いや、そうじゃない。私が適当に入浴剤買って来ていいの?」朔は頷きながら
    「うん。美波が選んだ香りに包まれたい」無香料に憧れている朔に何の入浴剤を買ってくれば良いのか悩むが、美波は承諾して朔から1000円を受け取った。

    午後1時。美波は劇団の脚本・演出の君塚誠に呼び出されていた。
    1階の事務所のソファーに深く腰を下ろしている君塚は開口一番美波に
    「おい。とんでもない爆弾を深夜にブチ込んできたな。昨日は興奮して眠れなかったぞ。この作者は芽原の美味しいごはんの彼か?」君塚の興奮は目の充血を見れば分かった。小説を共有していた室谷社長も
    「最後が気になって仕方がないのよ。この続きは?」身を乗り出して聞いている。
    ソファーの前に立っている美波は、少し困りながら
    「彼は、100人が読んだら100通りの答えがあるそうです。だから、続きは書かないそうです」昨晩の朔の答えを伝えた。
    君塚は興奮して喉が渇いたのか、ペットボトルの水をのみながら
    「俺は7月公演。この、前巻朔が書いた、止まない家の雨に決めた。そして、これは新人公演では伝えきれない。7月も本公演として役者を使う。しかし、この妹役は……芽原、お前だ」いきなりの主役の1人を与えられた美波は驚きと嬉しさと不安が一気に同居して来た。
    「あ、ありがとうございます。一生懸命頑張ります」頭を下げた。
    「しかし、条件がある」さすがに美波でも、変な妄想はしなかった。
    「前巻朔に合わせろ。そして、話がしたい」小説の主人公の兄ではないが、人嫌いの朔が受けるとは到底思えなかった。
    「いや〜さすがに、ちょっと……無理かも」美波はやんわりと断る。
    「それなら、お前の妹役は却下。俺が駄作として、こんないい題材を平凡に新人公演で終わらせる」君塚の挑発と分かってはいるが、朔が承諾する未来が見えない。ましてや今週末の試合の為に、心も体もケアするデリケートな時。美波は諦める事を考えざるを得なくなったていた。

    「どうした?前巻朔に連絡してくれよ。家に居るんだろ」美波は俯きながら
    「今の時間は学校です」君塚も室谷社長も驚く。
    「前巻君は大学生だったの?」驚きながら話す室谷社長に美波は
    「いえ。高校生です」一瞬、空気の流れが止めるのが分かった。
    「高校生でこんな深い小説書くなんて、前巻朔の人生に何があるんだ?」君塚は頭を抱える。
    「すみません。今週末に春季大会の準決勝と決勝があるんです。彼のデリケートな期間に入っているので、私が彼の時間を邪魔する事は出来ません」美波はキッパリと断った。
    「芽原。俺はお前の気持ちを分かった上で、どうしてもこの小説を無駄にしたくないんだよ。ダメ元でもいい。今から連絡してくれ。返事が来るまで俺は待つ」君塚の本気の言葉に美波も折れて、朔にLINEをした。
    『脚本家の人が朔君に会って話がしたいから連絡を取ってくれと頼まれました。時間ある時に返信して下さい』美波は送った事を伝えた。
    「芽原。ここに母と兄がいる。お前は高校生で2人の真ん中で嫌気がさす。ここを無言で演じてみろ」いきなり事務所で演技指導が始まった。
    美波が演じる。室谷社長は美波に新人の頃の北島リラを重ね合わせていた。
    「それは、兄と母を嫌っているだけだ。この2人に呆れているんだ。兄と母を蔑め」君塚の指導にも力が入っていた。

    午後2時。美波のスマホにLINEの通知音。美波は恐る恐る開く。
    『昨日、美波が抱きしめてくれて言ってくれた言葉が嬉しかった。そして、小説を託した時からこうなる事は、演劇に疎い俺でも分かる。美波の為に会っても良いよ。だけど、俺の条件を飲んでくれたら。条件は美波の同席。それで良いなら、今日の午後4時に創成川沿いの喫茶琥珀で』美波は朔のOKに驚いた。君塚と室谷社長に原文を見せる訳にはいかない。抱きしめたは刺激が強い。
    「私が同席する条件で今日の午後4時に喫茶琥珀で会うそうです」君塚はガッツポーズを作り、テーブルにノートを開きペンを走らせた。
    「後2時間で骨子を固める。芽原、お前は人を蔑む顔を練習しろ。社長に向かって蔑む顔をしてろ」とんでもない無謀な練習を押し付けられた。
    午後4時。タクシーで大通駅から2本東側の川沿いにある喫茶琥珀に着く君塚と美波。店内一番奥のテーブル席で新聞を読んでいる朔が見えた。
    「良いね~スポーツ新聞ではなく、一般紙を読む高校生。スマホをいじっているのでもなく、紙の媒体を読む。好感が持てるね。それで、どこの面を君は熱心に読んでいたんだい?前巻朔君」挨拶もなしに、朔のスペースに踏み込んだ君塚。
    「死亡広告。この人は自分の最後を考えて逝けたのか?それとも寝ていたらそのまま逝ったのか?それだったら、昨日のおやすみなさいは、ありがとうって言いたかっただろうな。なんて、人の人生で遊んでました」君塚はセメントを流し込んだばかりの朔のスペースに土足で踏み込んだ事に一瞬躊躇した。高校生と見下すには、あまりにも深すぎるのを肌で感じた。

    朔はカウンターにいる70代のマスターに手を挙げ
    「お願いします」とだけ告げた。
    マスターはアイスレモンティーを2つとメニュー1つを持って来た。
    「はい、朔君とお嬢さん。そして、いらっしゃいませ。メニューになります」君塚はホットコーヒーを頼んだ。
    「ここのアイスレモンティーは、本当に美味しい。レモンを丁寧に搾っているから。でも、それだけではない。何かを見つける為に、俺はここに来ている」美波もストローでひと口飲む。
    「ホントだ。レモンの酸味だけではないね。でも、美味しいから私はそれで良い」美波はもうひと口飲んだ。
    「朔君が喫茶店ってイメージ無かった。よく見つけたって言うか、入れたね」朔を知らない第三者が聞けば失礼な言い方だが、君塚は2人のやり取りから、朔を考察していた。
    「詩織が橋渡ししてくれた。3年前に高校をここに決めた時に、避難場所として詩織の人脈でね。今年の春からこの子が来ますので、匿ってあげて下さいって」君塚には話が見えてこないが、美波にはその映像が頭に浮かんで思わず笑顔になっていた。
    君塚は朔の制服を見て
    「君は創成スクエア学園の生徒なんだね。特進科?スポーツ科?一般科って感じはしないね」朔は添えられたクッキーをかじりながら
    「特進科です。一応、運動部にも在籍していますけど」バスケ業界では全国的に名がしれている選手が、運動部にも在籍って言い方。美波は朔なりの人との距離の作り方なんだと思いながらも、君塚が朔の事を調べていないはずはないと思っていた。そして、朔も君塚が面会を希望してくることを予測していたのならば、君塚の事前調査も予測していると思っている。美波はここからは2人の探り合いなのかと少し緊張してきた。

    「前巻朔。君が思い描いたラストを読みたい。聞かせてくれ」君塚は先ほど作った骨子を見せた。朔は君塚のノートを手に取り
    「意外と深くないんですね」ページをめくる。君塚はホットコーヒーを飲みながら
    「舞台の尺が決まっている。1時間半でまとめるとすると、君の思い描いている層まで入り込むと、浮き上がって来るには時間が足りなすぎる」朔は頷きながら
    「そうですよね。舞台の事を考えて書いた小説ではないので。そして、最後も書かないんです。読ませるための小説では無いので」君塚は朔の空気で場が回っているのに気付いていた。
    「札幌市内の地区予選で君が気持ちも体も作る必要はないだろ。必ず勝てるの分かっているんだから。全道大会も安牌だろ」君塚は調べた朔のカードの1枚を切った。朔はノートを読みながら
    「俺は私立の高校生ですよ。単純にバスケで青春を味わっていれば良い公立の生徒とは違うんですよ。学校の入学志望者を確保するためのタレント業務も担っているんです。俺の派手なパフォーマンスで中学生や小学生がうちの高校を志望してもらわないとね。こんな授業中に抜け出して、喫茶店でお茶出来ないでしょ」美波は驚く。
    「朔君。まだ授業中なの?」朔は頷き
    「うん。特進科は受験用の特別授業がある。でも俺は、フリーパス券を持っていてね。好きな時に授業を抜け出せる」笑いながらすごい事を言っていた。美波が会話に加わる事で完全に朔のペースになってしまう。君塚は朔の条件の美波の同席の意図がようやく分かった。倍以上、いや、3倍近く生きているのに、完璧に高校生にコントロールされている。そして、自分の用意したカードは何の効力も持たない事に気付いた。

    君塚は2杯目のホットコーヒーを注文した。
    「正直に言う。俺は手持ち金庫には手紙が入っていると描いた」朔の表情が変わり、姿勢はまっすぐに君塚をとらえていた。
    「7割同じです。それで物語を締めてもいいと思います」美波は朔が姿勢を正しているのに気づいた。君塚は天井を仰ぎ
    「そう。俺もそれで終わらせてもいいと思った。しかし、それだと兄と妹が母が生前書いた手紙を2人で見つめ、母親がテーブルでその手紙を書いている構図になる。これではラストシーンにならないんだよ。だから俺は、君に会いたかった。俺は残りの3割を埋めるヒントを君から聞き出したかった」君塚は前のめりになり、2杯目のホットコーヒーに手もつけていなかった。
    「鍵です。鈴の付いた家の鍵です。手紙と一緒に入っていた物は」君塚はノートに書きこむ。
    「ラストシーンに人はいりません。ちゃぶ台の真ん中に鈴の付いた鍵を置いて、ピンスポを当てる。そして影ナレーションのように、母親の声で朗読させ、読み終わったら、ピンスポを消して、劇は終わりです」あまりにも斬新すぎるラストシーンに君塚は終わった後のカーテンコールを考えると、演者も観客も1つにはなれないように思えた。
    「確かに。ラストシーンに人が多すぎるのは違う。しかし、ちゃぶ台に置かれた鍵が最後を締めるのは、正直俺は怖い」君塚の正直な言葉に朔は
    「でしょうね。本当のラストは兄と妹の2人でずっと閉まっていた母親の部屋のカーテンを開けて陽射しを受けるんですよ。その陽射しを受けて2人がどんな感情になるかが真のラストシーンです。このラストシーンの兄と妹の感情は、俺も固めていません。だから、手前の鍵で終わらせるんです」君塚は書き込んだノートを見直す。
    「1つだけ、いいかい?君の真のラストシーンの兄妹の感情を聞かせて欲しい」ペンを握って待つ君塚に朔は
    「分かりません。まだ、母親を殺していないので」美波は目を見開き、君塚はペンを置いた。
    「朔君。そんな物騒な言い方。ダメだよ」美波は朔の腕を握り、メンタルを心配した。
    「だって、犯人は兄だよ。そして妹が兄に殺害の提案をしている。実行犯の兄のアリバイ証明を妹がする。死亡時刻なんて数時間なら誤差を作れる」君塚はまた天井を見上げた。
    「嘘だろ。犯人が特定されていないから、外部の人間の犯行とばかり思って、組み立てていたよ。実際に殺した2人が母親の手紙を見つけて読むってどんな気持ちなんだよ」朔は笑顔で
    「だから、手紙が正解とは限らない。みんなが主人公になって、手持ち金庫を開けて中に何が入っているかを想像すればいい。そして、実行犯でも、被害者家族でもどちらでもいい。俺は100人の観客が100通りの気持ちでエンディングを迎えてくれたら、それでいい。よく外交でボールは相手にあるなんて言うけど、観客にボールを渡したまま帰ってもらってもいいんじゃないですか?」セオリーを無視した演劇を観客が喜ぶ訳がないと保守的な考え方だった君塚が、朔のディレクションに没頭し始めていた。

    朔は君塚にボールを投げるジェスチャーをする。
    「後はプロにお任せです。俺の小説は毒が混ざった食材です。毒を綺麗に排除してから提供するか、毒のあるまま提供するかはプロの料理人が決めて下さい」ボールは君塚の手元にある。
    朔は時計を見て
    「じゃあ、練習の時間なんで、俺も観客を取り込む演技の練習に行きます」朔は伝票を持ちながらマスターに頭を下げて店を出た。
    君塚は自分のノートを目の前にして
    「芽原。お前、最近怖くて泣いたのって覚えているか?」美波は学生時代まで思い返す。
    「小学生の時の雷ですかね。怖くて泣いたのって」君塚は頷いて
    「そうだよな。俺は58歳の今、この小説を前に怖くて泣きそうなんだよ。前巻朔は天才を超えた怪物だ。怪物の感性なんて持ち合わせちゃいない。きっとAIに怪物の対処法教えてって聞くと、逃げてくださいって解答される。そうなんだよ。怪物には触れてはいけなかったんだよ。これは室谷社長と堂林監督と対策練っても、何も出てこない。悪いが、明日の練習はバイトあるヤツでもなるべく無理して参加かするように、グループLINEで伝えてくれ。俺から重要な話があると」美波はどんどん生気が無くなる君塚を案じながらグループLINEに投稿した。即レスで通知音が鳴り止まい。美波はマナーモードに切り替える。
    「お前はなんであんな怪物と一緒に生活出来ているんだ。怖くないのか?」美波は笑って
    「私が朔君と出会ってまだ5日目です。それに会って5分で家に泊めてくれましたけど、全く怖くなかったんです。確かにまだ母親を殺していないの言葉はびっくりしました。そして、朔君にも色んな背負ってきた過去があります。私は、それは朔君が話してくれるまで一切聞かないと決めているので、朔君って正直な人なんです。だからこの小説にも朔君なりの誰かに届けたい何かが込められているんですよ。私達はまだそこまでたどり着いていないだけ。でも、たどり着けないかもしれない。演劇を作るって難しいんですね」美波の明るい声に君塚の顔色も良くなって
    「お前って、人の感情見抜くの上手いよな。そして間違わない。案外お前は怪物を手懐ける事が出来るのかもな」
    君塚は室谷社長に堂林監督も事務所に呼んで、怪物対策をこれからしたいと要請した。
    2人はお金を払おうと出入り口前のレジに立つ。
    「お代は結構ですよ。先ほど朔君が」マスターの声に美波は
    「朔君。頭を下げただけで、お支払いしていませんよね。それはだらしないです。朔君の分もお支払いしますので、おいくらですか?」美波はリュックから財布を取ろうとする。
    「いいえ。お代は詩織お嬢様から頂く事になっておりますので、毎月詩織様が精算しに。私も詩織様のお父様にはたくさんお世話になった1人なので、詩織様、朔君のお役に立てれば幸いです」深々と頭を下げた。
    君塚はタクシーを拾い劇団リラの事務所に戻った。美波は朔の高校の外観を眺めながら、自分なら朔の小説の手持ち金庫に何を入れるだろうか考えていた。

    結局、自分ならではのラストシーンを見つけられないまま、美波は朔に頼まれた入浴剤を探しに札幌駅周辺の駅ビルに向かう。自分でも知らない海外の入浴剤を数点買い、他のテナントを見て回っていた。
    「美波ちゃん」後ろから呼ばれる声がする。美波が振り返ると詩織が制服姿のまま手を振っていた。
    「詩織さん。お稽古の帰りですか?お疲れ様です」美波は頭を下げた。美波の表情を見て詩織は
    「ちょっと、お茶しない?」美波をお茶に誘う。出口付近で運転手の桂木が後部座席の前に立っていた。
    「こんにちは。美波さん」直接話をしたことがなかったが美波は一礼して
    「お邪魔します」車に乗り込んだ。
    「桂木さん。ホテルの個室予約してくれます?」詩織の言葉で桂木はどこかへ電話していた。
    「それでは、確認取れましたので、お送りします」
    歩いても1分の駅前の高級ホテルに車は流れて入って行った。
    「お疲れ様です」ベルボーイがドアを開ける。
    ホテル女性スタッフがレストランやラウンジではない、ソファーが2脚並ぶ個室に案内した。
    「ダージリンティーをポットでお願いします」詩織は慣れた口調で注文をした。
    向かい合って座る2人の前にティーポットとティーカップ。詩織はダージリンティーを飲みながら
    「どうしたの?不安と悩みと疲労のトリプルが顔に表れているよ。何かあった?」詩織は人の表情を読み取る力は美波以上に鋭い。
    「実は……」美波は朔から小説をもらった。演出家が朔に会いたいと言って来て、さっきまで喫茶琥珀で朔と演出家と3人で会っていた。朔の小説が奥深くすぎて、誰も舞台の完成形を想像出来なかった。自分もその主役の1人の妹を演じるチャンスがあるが、全く理解出来無かった。
    詩織は美波の胸のうちを静かに聞いていた。

    「その小説っていつ作ったって言ってたか聞いてる?」詩織は初めて口を開いた。
    「去年、ケガをして入院している時に作ったって言ってました」詩織は何かに気づいたように頷いた。
    「美波ちゃんも見て知っていると思うけど、朔の右膝に手術痕あるでしょ。あれね去年のインターハイの会場岡山県で大けがをして岡山の病院で手術を受けたの。前十字靱帯の断裂。1週間入院していてね。退院の時に親代わりの私とさっきの運転手の桂木が迎えに行くと、自分のカバンに入れてたノートに暇だからってびっしり小説書いてたわ。消灯時間になると静かで物音がしない。個室の窓を開けると車が通り過ぎる音は聞こえるけど、話し声がどこからも聞こえない。パチンコ屋のネオンが消えると街は静かで居心地が悪いって言った。あの子はテレビでも良いから誰かの声が聞こえていないとダメだって美波ちゃんも家のテレビで知っていると思うけど。それで、その時の不安な気持ち、感情を形に表したいって小説を書いたみたい。今の美波ちゃんの話を聞いているだけで、ものすごく闇を表現したって言うのは私にも伝わったわ。面白いね」詩織は笑っていた。美波は朔はけがをしたのはネットの記事で確認済みだったが、朔の膝の手術痕には気づいていなかった。パンイチ姿は何度も見ているのに。
    「面白いですか?」詩織の感情が気になった美波は聞いてみた。
    「うん。自分を楽にするための手段として小説で闇のドロドロを体内から放出させたのに、今度はその小説を読んだ人が重い気持ちに感染してしまうって、もうホラーじゃん。小説は今も生き続いているんだよ。終わりは決して来ないの。だから終わらせようとするのは無理。でも、一つだけ。みんなが朔の小説を忘れて、小説をまた孤独にしてやるの。そうすれば孤独に打ちひしがれて小説はこの世から消えていくわ」さすがは、一卵性双生児。作者の朔とは違う視点で物語全体を捉え自分の見解を述べた。
    「ファンタジーですね」美波は少し、詩織の言った外郭は理解出来た気持ちになっていた。
    「ファンタジーなんて素敵な物じゃないわよ。ホラーよ。小説自体が意思を持って他人を呪い、やがて忘れられてこの世から無くなるんだから」どこか嬉しそうに話す詩織の笑顔が印象的だった。

    美波のLINEに通知。
    「劇団でパンデミック?」とことん自分の見解で遊ぶ詩織。
    「朔君です。今日から夜はお風呂に入るから入浴剤買っておいてって言われてたんです」美波は返信しようとスマホを打っていた。
    「ちょっと待って。美波ちゃん。朔に私とホテルの個室にいるから、来るようにって打って」詩織は何か企んでいる表情だった。
    美波は詩織に言われた通り返信した。既読にはなったが、文字でもスタンプでも返信は来なかった。美波は面倒な事に巻き込まれるって言う朔のレーダーが反応したのだと思っていた。
    約10分後。ホテルの個室のドアはノックもされずに開いた。
    「あら〜作家の大先生。ごきげんよう」詩織の鼻につく言い方に美波は笑いそうになってしまった。
    「美波を監禁して何してた」朔は少し機嫌が悪い。
    「監禁だなんて、人聞きの悪い。さっき、誰かさんの無理難題の買い物で困っていた美波ちゃんを私が見つけて、そんな乱暴な依頼主から優しい詩織ちゃんは匿ってあげてたのよ」高らかに笑っている詩織に朔は
    「だったら、何故優しさの塊で出来ている詩織ちゃんは、乱暴な暴君家主を匿っている場に呼んだ。ましてや自称156cmのおチビちゃんがSPも付けずに。暴君家主に殺されるのを分かっていたのかのようだな」朔は勝手に美波のティーカップにダージリンティーを注いで飲んだ。
    「やっぱり、お母さんは息子と娘に殺されるのをどこかで覚悟していたの?」詩織は落ち着いたトーンで話した。朔もカップを置いて
    「そうだろうな。息子は社会適合不適格だが、自ら心を閉ざしている訳ではない。むしろ、明るい時に町を歩いて、誰かと話をして、そして働きたかった。心では思っている。体もそれには適合できるはず。しかし、もう1人の自分がブレーキをかけている。日が暮れた夜にその日の清掃場所がLINEで送られてくる。そこに1人で向かい。会社の車から清掃道具を下ろして、負けた奴が腹いせで汚して帰ったパチンコ店のトイレ掃除を1人黙々とこなす。ホールの清掃担当なら、仲間と話しながらでも出来る。他人と話しが出来ない息子は、率先して1人になれるトイレ掃除。多い日は2軒掛け持ち。会社の車には乗れない。急いで自転車で追い掛ける。2軒目が終わるともう日が昇りそう。急いで家とは逆方向のコンビニで夜までの1日分のお弁当を買う。近くのコンビニには設置されていない無人レジで精算する為に。妹も長年そんな兄を見て不憫に思う。公平中立の立場を装っているが、7:3で兄の味方だった。兄がこんな病気になったのは、父親が失踪して、母親は借金返済の為に死に物狂いで昼夜問わず働く。家は中学生の息子に任せっきり。家に来る借金取りも中学生の息子に容赦ない暴言と暴力。息子は妹を守るために必死に耐える。それが積み重ね、完済出来た息子が20歳の時、病気は発症した。母親は事情を知らない。息子が母親に苦労をかけまいと全て黙っていたから。小学生の妹にはまだ兄を守る事も、母親に忠告する事も出来ない。月日が過ぎ、妹にも兄を助けられる知恵と経済力がほんの少しだが備わった。妹は兄に憎き母親の殺害計画を持ちかける。兄はふたつ返事で妹の計画に乗り、無事遂行された。手紙を読み、
    朝日を浴びる。そして、」ここで詩織が割り込んでくる。
    「家を事故の火災に見せかけて……燃やす」詩織は口角を上げる。朔は笑顔で頷く。
    そこにいたのは、美波の知りえる仲良しの姉弟ではなかった。

    美波の表情が強張っているのに気づいた詩織。
    「美波ちゃん。この情報はデカいよ。演出家も持っていない情報。美波ちゃんのアドバンテージは有意義に使って」詩織は優しい口調で話しかけた。
    「ところで大先生。今晩の献立は?」朔はまた勝手に美波のティーカップで飲みながら
    「今日はトンカツ定食」詩織はガッツポーズを取り
    「じゃあ、私はカツ丼。絶対カツ丼」くりくりお目々で朔に訴える。
    「いいけど……家でもご飯用意しているんだろ。いいのか」詩織はスマホを取り出し
    「真壁さん。今、用事があってホテルに来ています。もう少し時間がかかりますので、このままホテルで夕食を摂ります」よそ行きの声で話した。
    「分かった。じゃあカツ丼に変更」詩織相手だとすぐに折れる朔。
    「美波ちゃんはカツ丼のタマネギはシャキシャキ派?トロトロ派?」詩織の今まで受けたことのない質問に
    「そんなのも選べるんですか?」驚きで返す。
    「そうだよ。カツ丼のタレも甘めか甘くないかも選べるよ。朔のご飯だもん。あっ、卵のもトロトロか固めも選べる。すごいでしょ」自分のことのように、威張る詩織。美波は朔の方を向いて
    「大変じゃないですか?」朔は驚いた表情で
    「えっ?何で?1枚ずつ揚げて作るから、リクエストかあった方が楽だよ」もう料理に関しては、何も聞かない方が良いと思った美波は朔の飲みかけのティーカップで飲んでひと息ついた。
    「もう2人とも、同じカップでも平気なんだね。進展あり〜(笑)」冷やかしに焦る美波と我関せずの朔が並んで座っている。

    桂木の運転で家に着く3人。美波はソファーにダイブして
    「シェフーお腹空いた。なるはやで」朔は詩織を睨みながら部屋着に着替えに行った。テーブルの上には鞄から出したコンビニ袋に入った汗のかいた練習着。美波は詩織の目の前でおもむろにビニール袋から素手で朔の汗をかいた練習着を持った。
    「げっ!!!美波ちゃん。それ、朔の汚物の一種よ。素手で触れるの?」本気で汚物扱いの目で見ている。美波は笑いながら
    「はい。なんともないです。昨日から成り行きで朔君がどこに置くかわからない洗濯物を私が見つけて洗濯機に入れなければいけなくなりまして」苦笑いで答える。
    「美波ちゃん。洗濯物ももしかして2人分一緒に洗ってる?」美波は素直に頷く。
    「美波ちゃん。2人は雇い主と家政婦ではもうないよ。2人は同棲中の若いカップルだよ~詩織ちゃん認定のカップルで~す」詩織が拍手をして勝手に盛り上がっていると、後ろから朔にまた頭を鷲摑みされる。
    「美波は初日から洗濯物は一緒に洗ってる。家政婦の契約をする前からだ。実家でお父さんの洗濯物と一緒に洗っていたから気にならないんだって」その言葉の裏の意味に気付いた詩織は
    「あら~朔ちゃん。ご愁傷様。ドンマイ」頭を鷲摑みされながら慰める詩織に意味が分からずキョトン顔をしている美波。
    朔はキッチンでかつ丼用の肉の筋切りをしている。美波は朔の洗濯物を洗濯機に投入してから、手伝いの為にまた朔の後ろをウロウロする。朔に無言の邪魔の圧を受けて、詩織の隣に退散した。
    「それにしても、急に一人分増えても対応できるってすごいですよね」美波は感心する。詩織はキッチンの冷蔵庫を指さして
    「急に来てご飯を催促するなら大きい冷蔵庫買えって言われて、去年の夏に業務用冷蔵庫買ったの。ケガでリハビリ中の朔は好きなだけ料理に打ち込むことが出来た。美波ちゃんがいつも開けている冷蔵庫はほぼ飲み物と野菜保存になったわね。メイン冷蔵庫はあのドデカイ冷蔵庫。私も開けたことない冷蔵庫。もしかして…おっと~これ以上は。朔の小説に感化された私がいた。あぶない、あぶない」いろんな表情で空気をやさしくしてくれる詩織を美波はさらに好きになった。

    「でも、ですよ。さっき語っていたラストシーンまで舞台で演じたら、どうなるんでしょうね?」美波は自分が関係している舞台なのに他人事のように想像していた。詩織は前を見つめ
    「そうね~楽しくないわね。駄作でしょう。途中まで面白かったドラマが無理やりこじつけた最終回になって、なんだそれ?で終わるパターンね。朔の小説は鍵のピンスポで終わるのがベストよ。最後までやるなら数か月後か翌年に鍵にピンスポを当てたところからスタートの2部作でやるべき。観客が持ち帰って自分なりのラストを作って終わらせたのに、はい、答え合わせしますよ~って第二部をドロドロに演じて、観客に絶望を与えて、ジ・エンド」またいきいきと笑って話す詩織だった。
    美波はまた、自分なりに観客になって想像して気持ち悪くなっていた。
    「どう朔?正解?」詩織はとんかつを揚げて聞こえないであろう朔に尋ねる。
    「それで正解。持ち帰ったラストの宿題を自分で解いて感動物語にしたのに、いきなり正解教える、公演を催す。前回見た観客は見ないわけにいかない。利益もある程度読めるからな」朔の声は嬉しそうだった。
    「儲けまで考えていたとは、お主も相当悪よの~」持っていない扇子を振る仕草の詩織。
    美波は2人の会話をアドバンテージとして自分のものにしておくか、悩んでいる首脳陣に教えるか、心の中で葛藤が始まっていた。

    「美波。カツ丼?トンカツ?」キッチンから朔の声がする。
    「私もカツ丼でお願いします」その言葉に詩織は拍手をして
    「私は、シャキシャキのトロトロね」詩織は朔にどこかのラーメン屋のような注文をする。
    「美波は?」朔はカツ丼を作る親子鍋を2つコンロに置いた。
    「わ、私もシャキトロで」その言葉に朔は
    「縮め過ぎだ!!」笑って返した。
    部屋の中にはさっきまでの小説の話がどこ吹く風と言わんばかりの、いつもの楽しい食卓の空気が流れていた。美波は丼ぶりにご飯を装い朔の作ってくれたカツ丼の具を待っていた。
    「はい。お待ち」ふわとろの卵がカツを包む。思わず生唾を飲み込む美波。
    朔は自分のトンカツを皿に盛り付け、頑なにトンカツ定食を完成させた。
    「では、頑固シェフの美味しいカツ丼いただきます〜」詩織の号令で美味しい食卓の時間は過ぎて言った。
    洗い物を終え朔は
    「美波。入浴剤ちょうだい」紙袋ごと美波は今日買って来た入浴剤を渡す。朔は無造作に1つ取り出して浴槽に投げ込んだ。
    「うわぁー」朔と美波の同時の悲鳴に
    「何?何?何?」食後のコーヒーを飲んでいた詩織が走って来ると、浴槽からは実験を失敗したかのような泡が溢れ出していた。
    「朔は泡風呂をリクエストしたの?外国の映画じゃん。プリティウーマンみたい」詩織の笑い声とは別に美波の困惑の声が聞こえている。
    「何で?海外の入浴剤買っただけなのに」美波の買ってきた入浴剤を確認する詩織。
    「美波ちゃん残り4個も全部泡風呂用の入浴剤だよ。海外のって、泡風呂かバスソルトしかないと思った方が良いよ。安牌はメイドインジャパンだ〜」詩織が片手を突き上げて何かを訴えていた。

    朔は泡風呂を堪能した。満足そうに着替えて出てきて、冷蔵庫を開けながら
    「美波。終わったら栓抜いて、軽く流しておいて」美波はそのまま朔の入ったお風呂に入る。詩織は美波の何も気にしない感がある意味羨ましかった。
    「美波ちゃん。洗濯もお風呂もあんたと同じでいいんだね。私は向こうの家では、1度入れ替えて……って言うか、部屋のシャワーで済ませている。何年も風呂場に立ち入って無いな〜」そんな詩織の顔を見て朔は
    「じゃあ、お前も入っていけよ。泡風呂。着替えは2階のお前の部屋にあるだろ。泊まっていけとは言わないけど、風呂くらい気にせずに入ったら」詩織はそんな朔のぶっきらぼうだが、気を遣ってくれた事が嬉しかった。
    「ありがとう。でも、私のシャワーキャップがここには無い。今度買って来て置いておくから。その時に入るね」料理には朔も頑固だが、美容やおしゃれには詩織も頑固なところがあった。
    「そうだ。今日学校終わりにヘアサロンでトリートメントして来たの。店長のコトブーが、朔にそろそろシャンプー無くなる時期だから来なさいって。きちんと電話で予約しなさいよ」朔は大きなため息をついた。
    「コトブーって名前、寿太郎だろ。絶対偽名だよな」詩織は笑いながら
    「そうよ。あそこは、スタッフもお客さんもニックネーム、通称で登録しているからね」朔は嫌な顔をして
    「俺は詩織の紹介であそこのヘアサロン使っているけど……詩織はニックネーム何で登録している?」詩織は真顔で
    「可愛い詩織ちゃん」朔は呆れながら
    「俺は、可愛い詩織ちゃんの弟。これで登録されてるの。それが嫌だからアプリで新規登録したら、わざわざLINEにコトブーから『お客様はもう登録が済んでいますので、新規登録は出来ません』って来るんだぜ。毎回電話で、可愛い詩織ちゃんの弟ですが、予約お願いします。って言って、お店でも、可愛い詩織ちゃんの弟ですって告げなきゃいけないんだぜ。コトブーの技術も詩織のお金でカットしているのも非常に嬉しいけど、ニックネームがなぁ〜。ちなみに詩織も毎回、可愛い詩織ちゃんって言ってるの?」詩織は口角を上げて「私はコトブーに直接LINEして予約入れてるし、お店では顔パスよ。店員さんもみんな詩織ちゃんって呼んでくれてる」朔は愕然とした。お店では店員にも可愛い詩織ちゃんの弟さんって呼ばれている。遊ばれている事に初めて気づいた。

    翌日午前11時の劇団リラ緊急招集の1時間前。美波は事務所で全員に配る朔の小説『止まない家の雨』の小説と脚本家の君塚が作成した骨子案をコピーしていた。
    事務所のソファーには室谷社長と監督の堂林も座り、まだ頭を悩ませていた。
    美波はコピーを終えて、重い空気を打破する為に、昨日朔と詩織が話していた小説のやり取りを話した。せっかくのアドバンテージを捨ててまでも、首脳陣の助けになりたいと思った。
    しかし、その話を聞いた君塚は
    「芽原。その詩織さんと言う女性は、前巻朔の血縁関係者か?」美波は頷いて
    「はい。双子のお姉さんです」その言葉に君塚は
    「なぜ、真のラストシーンを読み解けたか聞きたいものだ。俺の何手先に本当のラストシーンがあったか分からない。自信喪失だよ」自虐的な笑いの君塚。
    「12月の共済ホールで2部作目の公演する?」室谷社長はスケジュール表を見ながら話す。
    「公演から5カ月。早すぎるかもな。地方公演も、俺達劇団リラのライトなファンにも、悪いがこの『止まない家の雨』を見せて、来年の12月に第2部を公演でも、十分引っ張れる」監督の堂林が青写真を描く。
    「あの、詩織さんが、詰めすぎると、途中まで面白かったのに、無理やりこじつけたドラマ最終回みたいになるって言ってました」美波は昨日の会話を思い出しながら話した。
    「そうなんだよ。そこが難しい。ワンクールのドラマでもそうなるだろ。俺達は1時間半で詰めすぎない、それでいて削りすぎないように組み立てなければいけない。大変だ」君塚の目は、充血していた。徹夜で朔の小説に向き合った事が想像出来た。

    午後0時。3階の稽古場には劇団の役者、裏方スタッフ全員が集まっていた。首脳陣3人がみんなの前に立ち、美波は後方でコピーした用紙を抱えて立っていた。
    「みんなに無理言って集まってもらった理由は、7月の新人公演を今年は取り止める。そして、本公演として開催する。そして、6月の公演は主演の海斗(三嶋海斗)を降板させ、7月の公演の主演に当てる」君塚の言葉に劇団員はざわめき立つ。「6月公演を終えると、7月の新人公演。8月の地方公演です。10月まで札幌では公演ありません。12月の共済ホールに向けても、6月公演は非常に大事です」三嶋海斗は、劇団リラの看板俳優で、知名度も一番高い。責任感ゆえの意見だった。
    「まずは、7月公演の原案を読んでから、俺に意見してくれ」美波は全員に朔の小説を配る。
    一瞬にして稽古場に朔の小説の呪いが充満した。詩織の言うパンデミックが実際に発生してしまった。
    「こ、これを俺が演じるんですか?」海斗の顔は明らかに不安で引きつっていた。
    「ラストシーンが誰もいないって……ありえない」他の団員も声を上げる。
    「そうなんだよ。これは舞台用に作られた題材ではない。そして、これを書き上げたのは……10代の青年だ」小説の作者として朔の名前は伏せてある。今度は息をしている者までいないくらいの静寂に支配された。

    「女性の……妹の役は誰が演じるんですか?」劇団リラで今の女性陣のトップ、神美さつきが尋ねた。
    「妹役は、芽原美波だ」君塚の言葉で全員が後ろに立っていた美波の方を振り向く。
    「君塚さん。それはいくらあんたの構想でも無理だ。今年の唯一の合格者である芽原さんに実力があるのは認める。しかし、デビュー作で主演って...…それこそ7月の新人公演の演目『終電あとの、すすきの交差点』の賑やかな夜の街も、深夜になれば静寂が訪れます。20代の女性が、ひょんなことから終電を逃し、朝までに出会う不思議な人々との交流を描く。人情・コメディ等を経験させることが劇団リラの未来だ」長年、君塚達と劇団を守ってきた古参の劇団員が説得する。
    「君塚は、芽原の未来より、この小説の闇を選んだ。ここで芽原が潰れてもなんとも思わない。それは俺達と芽原自身も思っている。覚悟はできている」堂林監督の言葉は劇団員の心に突き刺さった。
    「嘘でしょ。美波ちゃんをここで潰すの?入ったばかりだよ」橋本花奈は小声でつぶやく。
    「じゃあ、みんなに問う。この妹役を演じ切る自信のあるものは挙手を」誰も手を挙げる者はいない」君塚はため息をついて
    「ほら、手を挙げたのは芽原だけだろ」一斉に振り返る団員。そこには手を挙げている美波が立っていた。
    「実際の話。これは芽原が譲り受けてきた小説だ。芽原は作者とも面識がある。一番毒に侵されているのは芽原。俺たちは解毒剤なんか持ち合わせちゃいない。この毒に侵される覚悟がある奴だけ7月の舞台に参加してくれ」美波は脚本の骨子段階のコピーをみんなに配った。
    「そこで、急で悪いけど、6月公演はさっき話に出た演目『終電あとの、すすきの交差点』に変更します。コメディ劇から7月の『止まない家の雨』の闇を観客には楽しんでもらいます。劇団リラの演技力を見せてやりましょう」室谷社長は立ち上がりこぶしを握り締めた。
    「ミキちゃん(室谷社長)も経営ウハウハを狙っているからみんなよろしく。そして、神美さつき。お前には6月公演の主演と7月公演で芽原は使えないとわかったらすぐに交代させるから、両方の稽古を頼む」神さつきは静かに頷いた。

    明日からの練習日程を確認して各自稽古場を出た。掃除の美波と橋本花奈は用具入れからほうきを取り出す。そこに看板俳優の三嶋海斗と神美さつきが声をかける。
    「芽原さん。ちょっといいかな。可能な範囲でいいんだ。俺たちはこの小説の兄と妹について知りたい。作者の気持ちを教えてくれないか?」4人は車座になる。なぜか橋本花奈まで入ってしまったが、かわいい後輩を守るためと思っているのはみんなにも感じていた。
    「10代の青年が書いたって聞いて、正直驚いている。『止まない家の雨』はその青年が誰かから聞いた話をまとめ上げたものなのか?」美波は首を振って
    「これは、その青年のオリジナルで、フィクションです。うまくは言えませんが、その青年が自分の中にあるものを吐き出すために小説にしたと言ってました」三嶋は天井を見上げ
    「その青年は、他にどんな小説を書いている?読んだことある?」美波は俯き
    「私は『止まない家の雨』以外わからないんです。家族の人の話だと初めにノートに殴り書きしていたそうです。私はSDカードで小説を頂いたのでパソコンで清書したものだと思います」糸口がみつからない三嶋と神美とついでに橋本花奈。美波は意を決して
    「あの...…これは、ここの4人だけの内緒って誓ってもらえますか?」美波の声の強さに三嶋と神美とついでに橋本花奈も
    「うん。誓う。この作品は俺たちが良い作品に出来ると絶対跳ねる。劇団リラの創成期、北島リラがいた時代を超える可能性を持っているんだ」三嶋の言葉に神美と橋本花奈も頷く。
    「皆さん。ラストシーンに衝撃を受けましたよね」神美は頷き
    「テーブルに鈴の付いた鍵を置いて、亡くなったお母さんの声で影ナレで終わり。観客が戸惑う姿が目に浮かぶわよ。どのタイミングで幕を下ろすのかもとても重要。役者も裏方も観客もみんな戸惑う。本当に怖い演目よね」美波は朔の小説のコピー用紙を取り出して
    「本当は手持ち金庫をテーブルに置いて終わるんです。作者の青年は金庫の中に何が入っているかは観客がそれそれ思えばいいと言って本当は中身を教えていないんです。みんなが主人公の兄妹になって読み進めて行くと、それぞれの答えに出会える。100人いたら、100通りの答え。作者の彼はそう言っていました。そして、私はこの作品を君塚さんに送りました。作者に会わせて欲しいと言われ彼に連絡を取ると、そうなると思っていたと返事がありました。昨日、彼と君塚さんは面会しています。君塚さんはどうしても金庫の中身を知りたいと、でも彼は頑なに、みんなが思った物が答えとしか返答しません。君塚さんは自分の答えを作者に突きつけました。手紙でした。その答えに彼は少し本気の顔を見せました。7割正解という返答でした。しかし、演出家の君塚さんには舞台の上手で兄と妹が手紙を読み、下手では母がテーブルで手紙を書く構図だとラストシーンにならない。それで作者の彼に会いに来たと」腕を組んで聞いていた三嶋は
    「確かに。ぼやけてしまうんだよね。その構図。中盤なら状況説明で使えるけど、ラストシーンでは人が多い。でも、金庫の中身が手紙だとそうせざるを得ない状況になってしまう。これは演出家泣かせだね」橋本花奈も頭の中でその状況を作るが、なにダメなのかまではたどり着けずにいた。

    「彼は残り3割を教えてくれました。それが今回のラスト『鍵』です。この鍵に違和感を覚える人がいるかも知れません。殺された母は自分で使う鍵を毎回わざわざ金庫に入れたりはしません。子供2人も鍵は持っています。では、誰の鍵だろうと思いますよね。でも、終わりに鍵が舞台の中央でピンスポットを浴びるのがいいと作者の彼は話、君塚さんもその絵が浮かんだんでしょうラストシーンは完成しました」ここで美波は一呼吸ついた。3人が美波の顔を覗き込む。
    「大丈夫?美波ちゃん?」橋本花奈は美波の背中を擦る。
    「ここからは小説には書かれていない。彼が口頭で昨日話してくれた続きです」美波は母親殺害の犯人は実行犯は兄。作戦を練ったのは妹。兄が社会不適合者になったのは失踪した父の借金のせいで取り立て屋に暴力を受けていたから。それを母は見て見ぬふりをして中学生の息子に押し付けていた。小学生の妹は何も出来ない。完済できたのは兄が20歳の時。一見、中立的な立場を貫いてきた妹。しかし妹の中では兄を社会に馴染めない体にした母を憎み続けたいた。そして計画は実行された。母もどこかで自分が兄と妹に殺されるのではと気づいていて金庫に手紙をしたためた。兄と妹は手紙を読み、母の部屋のカーテンを開け朝日を浴びます」全員の表情が固まっているのが美波にはわかった。
    「それで、新しい人生を兄と妹は送るのね」神美さつきの答えに三嶋海斗も橋本花奈も頷いたが美波は首を振り
    「違います。家を燃やすんです。母との思い出も何もかもが2人には邪魔なものなんです。不審火に見せかけて家を燃やし、母がこの世にいたことを抹消するんです」その言葉を聞いた橋本花奈は口を押さえるが嗚咽が止まらない。そして美波は
    「ここは私の考察ですが、金庫に入っていた鍵の持主は父親ではないかと思います。母は裏切られても父の事を思って言たのかもと思います。そして2人が自分を殺したら読むであろう手紙にわざと鍵をいれる。母もただでは殺されません。手紙には父の居場所が書き込まれていて、2人は次に父を..…なのでラストシーンの鍵は本当は3人の家の鍵ではなく、父の居場所の鍵なのではと私は考察します」また、静寂が稽古場を包んだ。

    「芽原さんの考察は君塚さんには話したの?」神美の言葉に美波は
    「はい。先ほど生意気ですが伝えました。そして、君塚さんから、お前はもう毒に侵された事を楽しんでいると言われました」俯く美波に
    「そうだね。もう芽原さんはこの小説の中に入り込んでいるんだよ。俺達がまだこの小説の世界の外側にいるのに、芽原さんはどっぷり浸かっている。正直、俺も名指しで指名されなかったら、距離を置いたかもしれない。劇団リラに入る前も、児童劇団から何年も演技して、それなりの自信と経験はあるのに、初めて先が見えなくて怖いと思った。どんどん闇の中に吸い込まれていく感覚が拭えない。それなのに芽原さんは堂々とその闇の中で自分の足で立っている。作家の青年を知っているからだけではないよね。君は本当にこの役を演じたいと思っている証拠だよね」三嶋の言葉は美波自身も気づいていなかった感覚を教えてくれた。
    「これは、今回のラストシーンで完成しません。来年の12月に鍵にピンスポットが当たるところからの第2部が上演されます。初演から1年半、観客の皆さんは自分の答えに満足して過ごします。それが突然答え合わせの招集がかけられます。当然、第1部を見た観客の皆さんは自分の出した答えが正解か確かめに足を運ぶでしょう。作家の彼は舞台にするならと、そこまで計算していました」神美さつきも頭を抱える。
    「私達は1年半も毒に侵され続けなければいけないの?嘘でしょ。私、6月公演なんて正直どうでもいい。この『止まない家の雨』にどうしても携わりたい。けど、妹は無理。私には毒を飲み込んでも消化できる能力はない。淡々とそして、時折感情を込めて朗読劇のように話してくれた芽原さん。あなたしかできないわ。これは、同じ演者としての嫉妬や妬みが不思議なくらい湧いてこない感情。全力でサポートするから」神美さつきは美波の肩に手を当てた。

    「君塚さんの指導入る前に意思を合わせて行こう。人物像を作り上げよう。今回は芽原さんの想像している兄と妹で行こう。どんな人物像を描いているか教えて」美波は細かく設定を話した。
    「兄は挙動不審では無く、本当に普通の人なんだね。どちらかと言えば、孤独を愛する感じに見える。妹は可愛い普通の女性ね。えっ?2人とも普通の人なの。どこに特徴出すの?」設定を聞いていた神美さつきは驚く。
    「兄妹と関係無い自分の3人で話しをしているとするじゃないですか、その時に兄と妹だけは意思疎通出来ている話しがあって、自分だけ置いていかれている気がする事ないですか?後から2人のどちらかに、さっきの話しは兄と妹で話した事あるんですかって聞くと、話した事はないんです。兄の考えを妹は同化して読み取るんです。なので、お客さんを3人目として置き、私と三嶋さんの会話でゾクッとさせて行かなければなりません」抽象的ではあったが、橋本花奈ですら納得出来る例えだった。
    「会話をしない場面。1人で演じている兄に求める事は?」美波は朔を思い出しながら
    「真面目です。お仕事にはとても真摯に向き合います。そして、人の気遣いも出来ます」社会適合不適格な人物像とは程遠い感じにも聞こえる。
    「分かった。頭に入れて作っていくよ」少しずつ闇の中に足を踏み入れて行く三嶋海斗。
    「あっ、会話。妹との会話は、本当に大事なところ以外は目を合わせないで下さい」朔は詩織と話す時は、核心部分以外は目を合わせて話していないのに気づいた。それは口げんかで詩織に勝てない時の名残かもしれないが、美波にはとても印象的な事だった。

    気づけば4人の意思疎通は1時間以上も続いていた。
    「もう2時になるね。ごめん。みんなにお昼も取らせないで。今日はここまでにしよう」三嶋海斗の言葉で終わりになる。
    「私、お昼買って来ます」橋本花奈は稽古場を出て行った。美波はリュックから朔の作ってくれたお弁当とマイボトルを取り出した。美波のお弁当を前回も見ていた神美さつきは
    「今日も家主のお母さんの手作りお弁当?」鞄から自分のお弁当を出しながら話した。
    「はい。いつも甘えてばかりで……」美波はお弁当箱を開ける。神美はお弁当箱を覗いて
    「アジのマリネといんげんの胡麻和え。それと卵焼きにプチトマト。それと、鶏そぼろのおにぎりかな?随分ヘルシーなラインナップね」美波は照れくさそうに
    「昨日の晩ご飯は、お姉さんのリクエストでカツ丼になったので」三嶋海斗もリュックからお弁当箱を出しながら
    「カツ丼?出前かスーパーの?」美波は首を振り
    「いえ、カツを揚げるところからの手作りです」三嶋と神美は絶句した。
    「そんなご家庭もあるのね。うらやましい。私のお弁当見る?」ふたを開けるとそこには半分ご飯。半分カレールーのカレー弁当が現れた。
    「稽古場カレー臭くなるな。俺も」三嶋が開けた弁当箱も同じカレー弁当だった。美波は初日に室谷社長と話した時に、同棲している女性劇団員もいると言っていたのを思い出した。
    「室谷社長から同棲している劇団員がいるって……聞きました……」神美は笑顔で
    「そう。私と海斗君。劇団では海斗君が先輩なので、三嶋さんって呼んでるけどね。知っているのは首脳陣3人だけ。美波さんは、なぜか信用できるから話しちゃったけど、出来れば他言無用でお願いします。劇団のトップ俳優2人に頭を下げられ美波は焦っていた。
    「止めて下さい。絶対言いません。そして、ごめんなさい。私も嘘をついていることがあります」美波は立ち上がる。
    「私が住み込み家政婦として住んでいる家は、高校3年生の男子以外住んでいません。時々、双子のお姉さんが様子を見に来ます。そして、毎日お弁当を作ってくれているのも彼です。そして……『止まない家の雨』の作者も彼です。黙っていてごめんなさい。室谷社長と多分君塚さんも知っています」頭を下げた。

    美波は朔と出会った初日の話をした。「ごめん。せっかくのさっきの意思疎通が俺の中でブレてる。その彼は社会適合不適格者ではないんだよね。ゲームセンターで会っているし、一緒に買い物行ったり、公園でお弁当食べているくらいだから」三嶋はカレーをひと口も食べていなかった。
    「昨日、君塚さんと面会した時に真のラストシーンは2人で母親の部屋のカーテンを開けて朝日を浴びるところって伝えました。その時、君塚さんは、朝日を浴びた時の気持ちを教えて欲しいと尋ねたんです。彼は……まだ、母親を殺していないから分からないと笑いながら話したんです」美波は敢えて話さなかったことを、この機会に話した。
    「えっ?笑いながら…って、本当の彼のお母さんはどこにいるの?」神美さつきもまだひと口もカレーを食べれていない。
    「あの、それは…彼のお姉さんからもらった、彼のトリセツに書いてあったんですけど、絶対彼から話すまで聞いてはいけないってなっています。初日に彼が貸してくれた鍵が赤い紐に鈴が付いた鍵でした。それを置いて、彼のお母さんは家を出たんだと思います。お姉さんは多分ですが、お父さんと暮らして居るんだと思います。そして、彼は無音を嫌います。入院している時も、消灯後に窓を開けても車の通り過ぎる音はするけど、人の会話が全く聞こえなくて苦痛だと。それでこの小説を書いたとお姉さんから聞いています」美波は出来るだけ教えられる部分は教えた」三嶋は彼女の神美さつきが作ってくれたカレー弁当のふたを閉じて
    「忘れていた気持ち、思い出したくないと思っていた、俺の心の深い底に閉まっていた記憶。芽原の話で思い出した」俯きながら話す三嶋に神美は
    「どうしたの?初めて見る表情だよ」心配そうに覗き込む。
    「俺さ、片親の鍵っ子だったんだよ。母親と2人暮らし。父親とは…会った記憶が無い。母親は未婚の母だった。お金、養育費は送られて来てたんだと思う。そのお金で俺は子役養成所に登録して仕事をもらっていたんだよ。無理やり養成所に入れさせられて、辞めたいって言ったら、お前が活躍するとお父さんがそれを見て喜ぶからって、頑張って売れなさいって言われてさ。母親はすすきのでお店やってて、長年のつけからなのか、今はアル中の治療で施設にいる。暗い部屋に帰って、冷蔵庫から冷めたスーパーの総菜取り出して、レンチンして1人食べる。何度、母親に持ってはいけない感情を持った事か。俺とは、違うかもしれないけど、俺なりの主人公の兄が今の話で出来そうだよ」笑う三嶋の表情にいつもの爽やかさを感じない。
    「毒に侵され出したの?」神美は三嶋の頬を撫でる。三嶋はその手を取り
    「違うんだ。俺は昔から、俺なりに母親に対する毒を作り上げようとしていたんだよ。それを思い出しただけ。これは、怖い話ではないんだ。みんなの中にある毒を気づかせてくれる話なんだよ」神美も美波も何も言えずに固まっていた。

    「あーカレーの良い香り。私もクリームパンとカレーパン迷ったんですよ〜やっぱり好きなクリームパン買って来たけど、今日はカレーパンでしたね」何も知らない呑気な橋本花奈がコンビニ袋を抱えて入って来た。
    「花奈ちゃん。一昨日もクリームパンだったよ」美波も空気を変えようと明るく話した。
    「そうだよね~私、そこの近いコンビニでクリームパン無くて、わざわざスーパーまで行ったんだよ〜カレーパンならそこのコンビニで買えたのに(笑)」笑いながらクリームパンの袋を開ける。
    「橋本。お前がクリームパンを買いに行ってくれたおかげで、俺は作品の底辺あたりまで潜り込めた。ありがとう」三嶋の感謝にわけがわからないがクリームパンを食べながら
    「なんか分からないけど、良かったです」稽古場に笑いが起こった。

    橋本花奈は美波のお弁当を覗いて
    「うわぁー今日もお世話になっている奥さまにお弁当作ってもらって良いね~」神美はさっき美波から本当の事を聞いたので、小さく笑った。
    「ご主人様ももっと優しい人だったら良かったのにね」橋本花奈の言葉に我慢出来無かった三嶋は笑いながら
    「橋本。分からないぞ。ご主人様も奥さまと同じくらい優しい人かもしれないぞ」この中で分からないのは橋本花奈だけだったので、みんな笑いをかみ殺していた。
    「あっ、三嶋さんも神美さんもお昼カレーなんですね。偶然でもすごいですね。さすが意思疎通出来てますね〜」橋本花奈の天然さがこんなに役に立つとは思わなかった。美波は橋本花奈の肩を抱きしめ
    「私、先輩が花奈ちゃんで良かったよ」橋本花奈は何のことか分からないが喜んでいた。
    食事を終え三嶋海斗は3人の前で、即興で一場面を演じて見せた。
    みんなとは離れて1人黙々とトイレ掃除をする場面を演じていると美波が
    「すみません。笑顔ではないですが、綺麗になる事が嬉しくなる表情にして下さい。真剣さはそこまで要りません」劇団の看板俳優に昨日入団したばかりのペーペーが演技指導をしている。橋本花奈は美波の口を抑えて
    「ダメだよ。何、言っているの」焦り出した。
    「花奈ちゃん。いいのよ。この小説の本質を知っているのは、美波さんだけ。私も三嶋さんも美波さんの指導を求めているの」橋本花奈は静かに座り出した。
    「気分が高揚する感じかな?」三嶋の質問に
    「作品を完成させる、ワクワク感です。」美波の指摘は三嶋をどんどん闇のなかに誘っていた。

    三嶋は配布された小説の用紙に美波の指摘を書き込んでいく。
    「新人以来だな。こんなに書き込んでいるの」三嶋は笑顔になっていた。神美も一緒に書き込みながら
    「美波さんは、妹を演じるにあたって君塚さんから何か指導受けた?」美波は思い出しながら
    「あー。蔑む表情を練習しろって。私がやると軽蔑みたいで違うと指摘されました」美波はその表情をして見せた。それを見た神美は
    「美波さんの表情の先には、被害者と加害者がいて、それを見ている第三者なのよ。自分が被害者にならなきゃ」的確な指摘でとても分かりやすい。美波は教わった通りに表情を作る。
    「それは、怒りが強すぎる。蔑む前の顔」三嶋の指摘。
    「嫌な奴に嫌な事された顔をすればいいんだよ。ほら、美波ちゃんのご主人様とか」橋本花奈の指摘に神美は
    「花奈。それは、難しいと思うよ。私ならこう言う顔する」神美は恋する人を見つめる表情を見せた。
    「さつきさん。全然ダメですよ。恋する乙女顔になってます」橋本花奈だけ、まだ全容を知らないので、神美さつきなりのヒントだったが、やはり理解出来無かった。
    橋本花奈はどうしてもカレーパンが食べたくなって、近くのコンビニに買いに行った。
    「芽原。悪いけど、彼の双子のお姉さんに会うことって出来ないかな?この作者、彼に会っても俺は手玉に取られるのが分かっている。でも、同じ遺伝子を持つお姉さんなら、何かしらのヒントを見いだせそうな気がするんだよね」三嶋の言葉に神美も
    「私も会ってみたい。妹役のヒントを得られそう。自分が演じないにしても、美波さんにアドバイスできるかも」美波は朔より行動が分からない詩織の予定など掴めるはずもない。困っているとふと
    「土曜日。高校のバスケットの大会を一緒に見に行く予定です。その時に偶然を装って、挨拶くらいはできるかもしれないですけど…」美波の提案に三嶋と神美は賛同した。そこで3人だけのLINEグループ『止まない家の雨』が作成された。そこにはカレーの香りの誘惑に負けた橋本花奈は入ることは出来無かった。

    5月9日土曜日。午前6時。美波はキッチンから漂う甘い香りに誘われて起きた。キッチンでは朔が蒸し器でもち米を蒸していた。
    「えっ?試合当日に蒸し器?」おはようの挨拶の前に驚きが勝った。
    「そう。赤飯作る。糖分もたんぱく質も炭水化物も1度に摂取出来る、万能な赤飯のおにぎり。俺は大納言を甘く煮た赤飯だけど、美波は大丈夫?」とても朝イチの会話ではない。
    「赤飯って甘いのが普通じゃないんですか?」朔は海老の天ぷらを揚げながら
    「北海道や東北と長野とか限られた地域だけなんだよ。俺も去年岡山で入院して退院の日に看護士さんが赤飯くれたんだけど、しょっぱくてびっくりした。あれは自分の膝の手術よりも衝撃だった」昔を思い返しながらも、きちんと綺麗な揚げ色の天ぷらが出来上がっていた。
    赤飯が炊き上がりおにぎりにしていく朔の後ろで美波は
    「朔君の中で御赤飯はおめでたいものではなく、栄養食なんですか?」朔は当たり前の顔をして
    「そうだよ。機能食品と言っても過言ではない」7個の赤飯のおにぎりを手際よく握り、今度はうどんを茹で始めた。
    美波が2人分の牛乳をグラスに注ぐ。
    「出来たよ〜食べよ」豪華海老天入りのうどんがテーブルに置かれた。
    「すごっ。土曜日の朝7時から海老天うどん。でも食べたい。いただきます」美波は海老天から食べ始めた。
    「最初は…お出しからいきませんか?美波さん。まっ、いいんだけど。あ〜あったかい」朔は自画自賛の海老天うどんを立ち食いそば並みの早さで食べ終えた。
    美波はまだ半分くらい残っているうどんをゆっくり味わいながらも朔の動きを目で追っていた。
    朔は棚の上から黒色、藤色、若草色のスープジャーを取り出し、熱々のスープを注いでいた。
    「美波。この若草色のスープジャーお前のな。そして藤色は詩織の。おにぎりは一応各々2個ずつ。紙袋にでも入れて持って行って」朔は自分のおにぎり3個と一回り大きなスープジャーをリュックに無造作に詰め込んだ。
    朔が洗い物を終えるタイミングで
    「ごちそうさまでした〜」美波は丼ぶりを持って来た。
    美波は怒られると思ったが朔は何事もなかったかのように美波の丼ぶりも洗い始めた。
    美波はこれから3時間後に試合が控えている人には到底思えないいつもの朔に見えていた。

    ピロリロリロリロリロリロ…朔のLINEに電話の着信音。美波は詩織からだと思っていた。
    「はい。前巻です。おはようございます」敬語。詩織ではない。もしかして…女性?また美波の勝手な妄想が始める。
    「分かりました。8時30分ですね。西18丁目駅の4番出口の駐輪場の前で。テレビ局のワゴン車ですね。では、宜しくお願いします」電話は切られた。
    「テレビ局?なんで?」美波は朔のスマホを覗き込む。
    「3月の練習再開した時から密着されてる。今日が復帰戦だから、会場に行く前の様子を撮りたいって。俺はイヤホンしちゃうのに、どうするんだろうね。あっ、今の電話は顧問の小鹿。テレビに映りたいから勝手に俺のマネージャーやってるみたい」朔はタオルやユニホームをスーパーの袋に適当に詰めていた。
    「じゃあ、俺は身体を動かしながら行くから出るね。詩織が迎えに来るから、詩織の暴走止めるの宜しく」そう言って玄関に向かう。
    「行ってらっしゃい」美波は玄関で見送る。朔は手招きして
    「美波。ちょっと」美波が一歩踏み出すと、朔は美波を抱きしめた。
    「えっ?」いきなり抱かれて身体が固まる美波。
    「よしっ。美波のいい香りで、栄養補給完了。行って来ます」固まる美波をそのままに朔は出て行った。パジャマ姿でまだ練り香水もつけていないのにと思うと美波の心臓の動悸は激しくなる一方だった。

    8時50分。詩織からLINEの通知。9時に迎えに行くからと書かれていた。美波はまだ治まらない動悸を10分で戻さなければいけない。何回も深呼吸を行った。
    9時。詩織が鍵を開けて入って来た。
    「おはよう。美波ちゃん。朔はお弁当作って行った?」キッチンに歩いて行って確認する。
    「おはようございます。御赤飯のおにぎりとスープジャーにスープが入っているそうです」美波はどうやら動悸は治まった。詩織は美波の顔を見て
    「どうしたの?顔が赤いよ。風邪ひいた?」美波は顔色まで気にしていなかった。
    「あ〜今までストレッチしてました。劇団の練習ない日でもストレッチと発声練習は日課にしなければいけないので」笑顔でごまかした。
    「そうなんだ。じゃあ、行こっか。良い席空いて入れば良いけど」2人は詩織の運転手桂木が待つ車に乗り込んだ。
    「まだ試合開始まで1時間くらいありますけど、そんなに混むんですか?」美波は自分の高校時代の大会は学校の体育館でガラガラの中で公式戦が行われていたので、疑問に思った。
    「美波ちゃん。嫉妬しないでね」詩織はワントーン落として話し出す。
    「朔目当ての女性達で最前列からどんどん埋まって行くの。歓声と悲鳴でうるさい、うるさい。だから私がふざけて関係ない事叫んでやるんだけどね」美波はこれが朔の言っていた暴走だと初めて知った。
    「朔君目当てってすごいですね」美波は動揺しながらも平常心を装う。
    「他校の女子バスケ部。朔の高校の女子生徒。小学生、中学生の女子バスケ部員。バスケ部OGとか市外から遠征してくるガチ勢もいるから。たまに小競り合いも起こってね。あまりうるさかったら、朔には美波ちゃんがいるんだぞって宣告してやろうかな」詩織の笑顔が冗談なのか、本気なのか分からないのが少し怖く感じていた美波だった。
    「静かに、落ち着いて観戦しましょう」美波は詩織に予防線を張ったが詩織は
    「ダメよ。せっかくのバスケ観戦。ブースターなんだから、騒がなきゃ」この詩織の笑顔は本気だと美波は気づいた。美波は詩織を止めないと朔に怒られる。しかし、詩織を止められる術が自分にないことは明白。先が思いやられるのが確定した。

    北4条体育館の立体駐車場も残り数台の混雑ぶり。詩織と美波は観客席に向かう。朔の試合の2階コート側はほぼ埋まっていた。詩織は辺りを見渡して
    「ラッキー良い席見つけた」美波の手を引っ張り歩いて行く。
    「よっ!!先輩達。席詰めて」詩織は男性が座っていた席を詰めさせた。
    「ちょっと、詩織さん。いきなり…」美波は躊躇するが、詩織は
    「いいの。この人達朔の先輩。朔のおかげ全国大会で3位になれて、大学にも有利に進めた人達だから」隣の朔の先輩2人はタジタジだった。
    「あっ、どうぞ。座って下さい」美波に席を勧める。
    「すみません」美波は朔の先輩達に頭を下げ。隣の人にも
    「失礼しま…えっ?花奈さん?」美波の声に気づいた隣の女性は
    「うそ?美波ちゃん。なんで?バスケに?」橋本花奈が小さな双眼鏡を手に座っていた。美波は橋本花奈がバスケ経験者で今でもバスケット大好きで、朔に注目していると言っていたのを忘れていた。
    「えっと〜私は、お世話になっているお嬢さんの付き合いで…」橋本花奈は隣の詩織を見て
    「そうなんだ。私は開場時間の8時から並んで席取りしてたの。三嶋さんと神美さんも今日バスケット見たいんだって。それで後輩の私が先に席を取ってたの。1人であの朔君ファンの歓声聞くの嫌だったから美波ちゃん来てくれて良かったよ〜」橋本花奈は美波の腕をさするが、美波は朔との関係がバレるのが怖くて、バスケ観戦どころではなくなりそうだった。
    「美波ちゃん。お友達?」橋本花奈に気づいた詩織が話しかける。
    「はい。劇団の先輩で仲良くしてくれている橋本花奈さんです」詩織は頭を下げ
    「いつも美波ちゃんがお世話になっています。これからも仲良くして下さいね」余裕のある振る舞いに橋本花奈は
    「こちらこそです」緊張してしまった。

    「遅くなってごめん。駐車場満車で。近くのコインパーキングに止めて来たよ」三嶋海斗と神美さつきも合流した。
    「おはようございます」橋本花奈と美波は立ち上がった。三嶋と神美が昨日稽古場で朔のお姉さん、詩織に会いたいと言った際に美波がこの体育館を指定したので、美波は2人に会うことは必然だったが、間に橋本花奈がいるので、どうにも偶然を装えないで、自然に立ってしまった。
    「花奈ちゃん。席取りありがとう。あれ?美波さんも一緒に来たの?」神美さつきがうまくフォローに回ってくれた。
    「いえ。私はお世話になっているお家の娘さんと一緒に来ました。詩織さんです」美波は一応、流れに乗って詩織を紹介出来た。
    「初めまして。劇団リラの神美さつきと申します。こちらは三嶋海斗です」神美さつきは詩織に挨拶をする。詩織も振り向き
    「あ〜テレビで見たことある〜有名人だ」さっきの橋本花奈への挨拶と違ってどこかミーハーな一面を前面に押し出している。詩織にはすぐに自分に会いに来たと勘付かれ、本心を隠されたのを美波は気づいた。
    苦笑いしか浮かべられない美波は後ろを振り向く。3階席がもう満員になりそうな勢いだった。
    「すごい。こんなに高校生の大会で観客って入るの?」美波は思わず本音が漏れた。
    「高校生だからじゃないよ。前巻朔選手の復帰戦だからだよ。テレビカメラも来てるし、大学関係、プロのチームスカウトも来てる。あのうちわに朔LOVEとサクラをデコっているのは、勝手に私設ファンクラブを立ち上げている『サクラと朔LOVE』の人達。バスケ観戦なのか、前巻朔選手観戦なのか分からない異質な人達だから注意して」橋本花奈の試合前の解説を聞き入る美波は、朔がこんなに人気があってよくストーカーが家まで来ないものだとどこか他人事のように感じていた。

    9時30分。試合開始30分前に両校が両サイドの出入り口から一斉に入って来た。
    「キャー!!」女性達の悲鳴ともとれる歓喜の叫びが体育館を揺らすが一瞬で静まりかえる。
    「えっ?なんで」
    「嘘でしょ」
    「復帰戦じゃないの?」
    「さっきテレビカメラと一瞬に会場入りしたよ」
    朔が試合のコートに現れない。ざわつきが収まらないまま、両校は練習を開始する。
    「ふ〜ん。ためてためて3分前の笛が鳴ったら登場って魂胆ですか〜千両役者め」詩織が退屈そうに話す。
    「3分前」審判が両校に知らせる。
    「キャー」大歓声がある1点目掛けて鳴り響く。朔が頭からタオルを被り現れた。
    「朔〜」
    「朔君〜」
    「さくちゃん」色んな声援が送られる。
    「ミク〜」詩織はそう叫んで1人ケラケラと笑う。朔のファンは一斉に詩織を睨む。詩織はどこ吹く風と言わんばかりに笑っていた。
    「ちょっと、詩織さん。皆さんの視線が…」美波はやんわりと制す。
    「だって39番の背番号だもん。ミクでしょ」詩織はまだ言い続ける。隣に居る朔の先輩が
    「詩織さん。去年も、一昨年もそのミクネタ使ってますよ。よほど気に入ってるんですね」少し呆れ気味に話す。詩織は先輩達を見ながら
    「じゃあ、新バージョン。卵焼き〜」朔のLINEのアイコンが分かる者だけが笑えるネタ。この中で知っているのは美波だけ。
    「美波ちゃん。ミクは39だから分かる。けど、隣の方、なんで卵焼きなの?」橋本花奈の質問に美波は困り果て
    「私も……分かんない」涙目でその場を乗り切ろうとした。

    朔はボールも持たずにシュート練習をしているレギュラー1人1人に近づき、手を合わせ声を掛ける。キャプテン小石山には肩もくっつけ、言葉を交わす。そしてゴールポスト付近でシュート練習を繰り返す背番号7番の古北拓哉とはハイタッチのバージョンが違っていた。
    「あれ?7番の選手だけ。手を合わせるの、違いますね」美波の観察力に詩織の横の先輩が
    「よく気づきましたね。あれは朔の中学校時代のハイタッチ。挨拶なんです。あの7番古北拓哉だけが唯一、朔と一緒に同じ中学から創成スクエア学園に来ました。何とか、朔に付いて行ける唯一の選手です。朔が抜けると彼がエース代行を担います。ただ、朔と違いメンタルが豆腐なので、いつも朔が気にかけてあげてます。朔のダイヤモンドメンタルの1000分の1でも古北にあれば、朔ももっと休めるんですけど」細かな情報を教えてくれて美波は朔の仲間思いの一面をしれて涙も少し収まった。
    朔はそのままベンチに座り1度もシュート練習をしない。
    「え〜っ。1球もシュート練習してないよ。サブコートも今日は使えないから、前巻朔選手は1度もシュート、いや、ボールに触らずゲームに臨むの?無理だよ」バスケ経験者の橋本花奈の不安な声が美波にも聞こえた。

    ティップオフ。試合が始まる。ボールは創成スクエア学園。ポイントガードの小石山がハーフラインを越え、ボールを運ぶ。相手チームは1-3-1のゾーンディフェンスで守る。朔は小石山よりも半歩後ろをゆっくり歩く。ハーフラインとスリーポイントラインのちょうど中間で小石山はいきなり後ろの朔にパスを出す。朔はハーフラインから三歩入ったところからシュートを放つ。大きな弧を描いてボールは飛んでいる。朔はいきなり後ろを振り向き右手を上げる。そして朔が腕を振り下ろした瞬間、ネットを1mmも動かさずにボールは吸い込まれていった。
    「キャー!!」開場中が歓声と驚愕の声で埋め尽くされる。朔は両手を上下させて観客を煽る。
    相手はアウェー感満載の中、パスミス。小石山はボールをゆっくり運ぶ。朔はまたゆっくり歩いている。今回はボックス・アンド・ワン。朔だけにマンツーマンのディフェンスがつく。朔は意に介せずにさっきよりも遠くでパスを要求。マークが半歩離れた瞬間に小石山からのパス。朔は1秒もボールを持たずにクイックでシュートを放つ。さっきの大きな放物線を描いたシュートとは違い、矢のようにに最速のスピードでゴールが決まる。
    「ウォー」あまりの速さに他の選手も観客も追えなかった。
    朔は辺りを見回すジェスチャーで観客席を見渡した。

    朔の視線は詩織、美波を捉えた後にさらに上の観客席に向いたのを美波は見逃さなかった。すぐに振り返る美波。そこには劇団リラ演出家の君塚誠がいた。「えっ?君塚さんも来ている」その言葉に三嶋達も後ろを振り向く。「君塚先生も…何か感じ取ろうとしているんでしょう」三嶋海斗の言葉に美波と神美さつきは頷くが橋本花奈だけは、君塚誠がいる意味が分からなかった。
    試合開始3分。スクエア学園の21点の点数は全て朔のスリーポイントの点数。対戦校の監督は青ざめ思わずタイムアウトを要求。タイムアウト明けには39番のユニホームはベンチの1番端に座ったまま。朔の前にはトレーナーがしゃがみ込み、朔のシューズの紐を緩め、膝のサポーターを外して、テーピングの上からアイシングを始めていた。「すごい度胸ね。相変わらず」詩織の言葉に隣の朔の先輩達も頷き「敢えて隠す必要も無い事と前巻は考えているのでしょう。大学やプロのスカウトもお構いなし。試合中のアイシング1つで躊躇するなら、始めからスカウトは来るなと言っていますね。前巻らしいです」「アイシングって、試合中するもんじゃないの?」美波は隣の橋本花奈に小声で尋ねる。朔がベンチで冷静になった橋本花奈も「うん。普通は更衣室に行く。でも、それは巻いてあるテーピングがなんかその……いずい(北海道弁でしっくりこない)時。アイシングはどんな選手でも試合後にする。これはもうこの試合出場しない事を意味している。ちょっと残念だけど。3分でも動いている前巻朔を見られたから私は今日、6時起きでも何の苦痛も感じない!!ありがとう前巻朔様」橋本花奈はベンチの朔に両手を合わせていた。

    試合終了を待たずに観客席の朔ファンは朔が通る通路に群がる。朔は頭からタオルを被り、後輩の人の壁の間を通り過ぎて控室に入る。
    詩織も立ち上がり「美波ちゃん。次の試合まで2時間あるから、ちょっと外出よう」きっちり朔の先輩に場所を確保するように命令と言うなの『圧』をかけて出ようとしたが美波は鞄から紙袋を取り出して「詩織さん。ご飯ここで食べてもいいんでしょうか?」ここで朔が作ったとは言えない美波は、そっと袋の中を開く。詩織はスープボトルを見て「朝ご飯。海老天うどん食べた?」美波は良く分かったと驚きながら「はい。そうです。良くお分かりで」その会話を聞いて買って来ていたクリームパンを食べながら橋本花奈が「詩織さんって、美波ちゃんのお家の方でも、ご飯一緒じゃ無かったんですか?」関係性から素朴な疑問をぶつける。慌てる美波とは違い詩織は余裕の笑みで「ええ。私は別荘から今日は応援に来ましたので」間違ってはいない。「さすが、住み込み家政婦雇うお家柄。別荘なんてかっこいいですね。うちなんて家の敷地にある小さな物置が別荘です」その自虐的な笑いに同調する美波の慈悲心。
    "ピーン"美波のLINEが鳴る。画面を見て「あっ!」すぐに詩織に見せる。
    ー赤飯の豆が少し芯が残ってたー
    詩織は笑って「どっちが大事なのよ。相変わらずね」美波も笑顔で「そうですね」2人だけの秘密の共有で笑っていた。美波はスープボトルを開けてひと口飲む。「うわぁー美味しい〜」海老の殻のスープに驚く。「海老の殻炒めてお酒と塩と薄口醤油で味付け。もち米で炭水化物、豆でタンパク質と糖分。海老のスープで塩分。試合の時のルーティン」ルーティンなんて気にしないと思っていた美波は朔の繊細な一面に驚いた。食べ終えたおにぎりのタッパーを撮影して朔のLINEに返信。頑張ってでは無く、ごちそうさまのひと言を添えて。

    2時間後。準決勝。
    「うーん。いじめのように基本に忠実」朔の先輩が呆れながら感心する。「どういうことなんだろ」バスケ観戦初心者の美波には朔の高校が派手さはないが高確率でゴールを決めているようにしか見えなかった。バスケ経験者の橋本花奈が「朔選手の高校は中学生が最初に覚える基本の動きを使って、点数を重ねているの。相手は一生懸命練習して来たディフェンスが全く通用していないのを、分からされても……それしか出来ないの。網の目が大きなザルで小さな砂金を取ろうとしている」美波でも理解が出来た。「無駄な事をしているんだよ。出来ないのが分かっていても、その場を放棄することは出来ない。それどころか、自分達が必死に練習して来た事が、1mmも通じないのをこの観客にも知らしめている。彼らのメンタル崩壊が……」詩織も続けて言う。朔の先輩がさらに「これは、明日戦う決勝の相手への見せしめでもありますよ。さっきの派手な戦い方から180度違う基本のみの戦い方。スリーポイントはあのポイントガードの小石山の2本だけ。前巻はひたすらゴール付近でポストプレーをしている。明日の決勝戦のチームのコーチは作戦練り直しだろうね」朔は第1クォーターの出場で準決勝を終えた。

    創成スクエア学園の勝利を一応確認して詩織は席を立つ「美波ちゃん。帰ってご飯食べよう」美波も一緒に席を立つ。「あのっ。すみません。少しお話聞かせてもらっても良いですか?」神美さつきが詩織に話掛ける。詩織はまんまる可愛いお目々とは思えない鋭い眼差しで「人前でお話出来ることですか?それとも……沼に足を踏み入れる覚悟がおありですか?」美波でも後ずさりしそうな眼差しと口調。橋本花奈は口を開けて硬直していた。三嶋海斗は前のめりで「出来れば人の少ないところでお話聞かせて下さい」詩織は美波からスマホを借りて神美さつき宛にLINEを送った。「さっ、美波ちゃん行きましょう。桂木が待っていますから」運転手の桂木が待つ駐車場まで歩く。桂木がドアを開け待っている。乗り込む2人。「桂木さん。悪いけど、琥珀で下ろして下さい。夜はまた連絡します」喫茶琥珀の前で詩織は立っている。どうして入らないのかも分からないが、美波は隣に黙って立っているのが正解と思い一緒に立っている。「お待たせしました」三嶋と神美、それと橋本花奈までついて来た。「私に聞くより、覚悟があるなら沼の中にどうぞ」詩織は喫茶琥珀のドアを開ける。「ごきげんようマスター」詩織の言葉にマスターは深々と頭を下げ「お嬢様。いらっしゃいませ」詩織は1番奥の席で新聞で顔を隠している人を見たと思ったら、他の客の迷惑を省みず「お~い。卵焼き。お前にお客さんだよ〜」奥の席の客人の新聞を持つ手が少し力んだのを美波は見逃さなかった。

    「卵焼き呼びはリズムが狂う」新聞を折りたたむ朔。「ウソー朔様がいる〜」橋本花奈が失神寸前でなんとか立っていた。美波は朔が試合以上に汗をかいているのに気づき「練習してたんですか?」自然に話掛ける。「うん。30分のシュート練習と30分のウエートトレーニング。試合よりも疲れるって。あっ、テレビ局が来そうだったからリュックの中にぐちゃぐちゃに突っ込んで出てきた」美波は詩織の隣に座り朔のリュックを開けて汗で濡れているユニホームやタオルをきちんと畳んでコンビニ袋に入れ直していた。「美波ちゃん。私にしたらすごくうらやましい事をしているんだけど、勝手にやって良いの?」橋本花奈はずっと朔のユニホームを目で追っていた。美波は「あっ、すみません。喫茶店でやる事ではないですよね」頬を赤らめる。『いや、そういうことではない』橋本花奈でも突っ込みたい時はある。「マスター。私、抹茶あんみつとアイスレモンティー」詩織は自分の飲み物を注文する。マスターはみんなのお水を持って来て「みなさんはどうしますか?朔君に会いに来たのなら、急いだ方が良いですよ。すぐに帰るかもしれませんから」「では、私達はアイスコーヒーで」美波も劇団リラの一員として飲み物を合わせた。本当は詩織と朔が飲んでいるアイスレモンティーにしたかったが、ここは我慢をした。それでも、前巻家の一員として朔のリュックは持ったままだった。

    朔の対面に座った三嶋「こんにちは。劇団リラの三嶋海斗です。朔君の『止まない家の雨』の兄役を演じさせてもらいます。率直にお尋ねします。朔君の兄のイメージを教えて下さい」誠実な言葉だとみんなは思った。朔と詩織以外は。朔は一呼吸も置かずに「率直にお答えします。あの小説にいる兄を見て思った通りにです。それとも三嶋さんは俺が今から兄のイメージを伝えたら、一挙手一投足、1つも間違えずに演じられるのですか?その覚悟を問いたい」詩織の口角は上がる。足のつかない底なし沼の上から中を覗いても、相手にされないと言う事。三嶋の顔は硬直する。「そ、それは無理です。演出家や監督と協議をして作り上げるので…」言葉が詰まる。「では、その協議で作り上げたのが正解でいいんじゃないですか?俺の正解もあれば、劇団リラの正解もある。それはどちらも間違いではないのですから」三嶋は俯く以外出来無かった。「どうしますか神美さつきさん。妹のイメージも同じ扱いになりますよ。朔に質問、いや、別角度でアプローチしないと、何も聞き出せずに終わりますよ」詩織の言葉も神美さつきを黙らせるのにはじゅうぶんだった。橋本花奈は少し手を上げて「お兄さんのイメージで質問です。お兄さんは身体が大きいですか?私は読んでいてお兄さんは身体大きく感じました。妹さんは小柄なのかなって思ったけど、お兄さんが大きいんだって、昨日思ったんです」関係ないように聞こえたが朔は橋本花奈の方を向いて「そうです。兄は大きな身体を小さくして、パチンコ店のトイレを掃除するんです。そして複数店担当の時も、ワゴン車の場所取るから自転車に乗って1人でバイト先に向かいます。同じ感覚持ってますね」場の空気が一瞬和らいだのを団員は感じ取った。

    神美さつきがこの機を逃すまいと食い気味で話出す「私は、妹さんが多重人格ではないですが、色んな性格を持っていると思っています」対面に座る詩織は「では、さつきさんはどのように演じるのですか?」話を深掘りする。神美さつきは堂々と「私が今まで演じてきた女性を並べ、その中で1番その場に適合する女性を演じ分けようと思っています」詩織は抹茶あんみつをひと口食べながら「それは気持ち悪いですね~あなたの妹だけ舞台で浮くのが目に浮かびます。私は妹役が美波ちゃんで良かったってつくづく思うよ」詩織が美波に微笑みかける「な、なんでですか」少し前のめりになる神美さつきに朔が「昔、子供用のジグソーパズルやった事ありますか?枠があって基盤にはそこに合うパズルの外枠の形が書いてある簡単なやつです。神美さんはそこに他のパズルの似たピースを無理やりはめ込もうとしているんです。そんなの無理にはめ込んだら周りときちんとくっつかない。それが浮く原因なんです。美波の場合はそこに合うピースを持っていないんです。だから一からピースをそこの枠に合うように1つ1つ作っているんです。俺の書いた小説、難しいのは妹です。そして主役も妹なんです。兄の性格はだいたいの人が思い浮かべるので合っています。妹はみんながイメージする最大公約数で妥協するか、1つ1つその場で合うのを作り上げていくかで全く違う。なぜなら俺の中でも未完成だから。素人の俺はそう言って君塚さんにボールを投げてやった(笑)」朔と詩織は笑顔。今度は美波までもほほ笑んでいた。

    「美波ちゃんは、妹ちゃんのイメージ掴んでいるの?」爆弾級の質問のボタンを橋本花奈は簡単に押した。美波は臆することなく「妹さんは、お兄さんの事が大好きだと思っています。だからその人格を1番大切に太く幹にして、他の感情を枝として分けていこうと思っています」詩織と朔の事を見ている美波だから湧き出るイメージ。「あら、美波ちゃん。教えたら、さつきさんが真似しちゃうわよ。真似されたら、役者の力で美波ちゃん負けちゃうよ。大丈夫?」少しからかい気味に言う詩織に「大丈夫です。私はさつきさんの妹さんも参考にしたいので」美波の声は芯が通っているのをみんなが気づいた。レモンティーを飲み干した朔が「1つだけ。みんなに共有して欲しい事伝えます。母親には無慈悲を貫いて下さい。1gでも慈悲を与えると、この物語は根底から違う作品になります。妹は母親と兄との間を中立に距離を測っているように見えるのは上辺だけです。本心の出し方?演出って言うんですか?それは各々やって下さい。けど、母親は憎しみの対象でしかないので。そこは絶対履き違えないでくださいね」そう言って朔はまた新聞を読み始めた。

    神美さつきはどうしても理解出来ないでいた事を聞いた。「ごめんなさい。お母さんのイメージがつかめていないんです。書いていた時に思い描いた事教えてもらえますか?」朔の新聞は動かない。美波も何も言えずに詩織越しに朔を見るしか無かった。「そうね〜」抹茶あんみつをすくいながら「人を心配しているようで、全て自分が一番って常に考えている人。人との縁を切るのになんのためらいも無い人」詩織がヒントを与える。「なんか…あんまり人として、良くない人のイメージですね」橋本花奈も想像しながら話す。「外面だけ良い、最低の人間と思ったら簡単だよ」新聞の奥から聞こえてくる言葉にはなんの感情も感じられなかった。三嶋海斗も「朔君と詩織さんは同じイメージで一致しているんですね」新聞を読んでいる朔は返事をしない。詩織はスプーンをくわえながら微笑むだけ。

    詩織は抹茶あんみつを食べ終えて「さぁ、美波ちゃんご飯の材料買いに行こう。今日の晩御飯はステーキだよ〜楽しみだね〜」美波は慌てて立ち上がり「お先に失礼します」みんなに挨拶をして朔のリュックを持ったまま詩織を追いかけて行った。朔は新聞をまだ読んでいる。沈黙が怖い橋本花奈は「朔君。今日の1試合目は最高の復活試合でしたね」バスケから話を掘り下げようと試みた。朔は新聞を読みながら「あなたからはどう見えました。元もみじ台商業高校バスケ部の橋本花奈さん」まさか朔が自分の事を覚えておいてくれているとは思わなかった。「私の事覚えているんですか?」興奮を隠しきれずに前のめりになる橋本花奈。朔は新聞を畳ながら「正直バスケの姿は分かりませんけど、あなたの声は体育館の端から端まで通っていましたから」複雑な心境だが、声だけでも覚えてもらってうれしいのは事実だった。「明日の決勝は中学校時代の仲間3人との戦いですね」楽しそうに話す橋本花奈に朔は「そうですね。俺のスタイルについてくるのが怖かった3人に、格の違いを見せますよ。安牌な生活がどれほど人の成長を妨げるのか叩き込みます」本音の朔のトーンは背筋を凍らせる。「中学校の全道大会を制した仲間ですよ。そこまでやるんですか?」朔は楽しそうに「やりますよ。古北拓哉がね。あいつだけでじゅうぶん倒せる。それにキャプテンの小石山もいる。俺は出してもらえるかも分からないから」同じ中学校から唯一ついて来た古北拓哉の成長で倒すのが一番向こうの連中が悔しいだろうと言う朔の考え方なのだろう。笑顔混じりで話している。それでも橋本花奈は「明日も朔君のスーパープレイを見に朝から場所取りします。楽しみしています。頑張って下さい」朔は立ち上がり「俺が頑張って無いと見えますか?俺は詩織に1度も頑張ってと言われた事は無い。美波にも言われていない」そう言い残して喫茶琥珀のドアを開けて出て行った。

    朔は家とは逆の駅横のデパ地下に向かった。そこではカートに山盛りで食材を積んでいる詩織と美波がいた。朔は近づき「お前、何日分の食材買ってるんだよ」カートの中を覗き、分別する。詩織は朔の手を叩き「いいの。今日の晩御飯は朔はステーキって決まっているんだから、あとは付け合わせよ」朔はステーキ肉に鶏もも肉をどう付け合わせるのか聞きたい所だったが、ここは詩織のお金で食材が増えるのだから良しとした。美波は気にせず創成スクエア学園バスケ部のリュックを背負っていた。「美波。周りの視線気にならなかった?」美波は周りを見渡し「えっ?なんでですか?」創成スクエア学園バスケ部のリュックはベンチに入れる15名しか持てない。それも男子バスケ部のみ。なので街中で女子が背負っているのは違和感でしかないのだ。朔はそのまま美波にリュックを背負わせ自分はビニール袋3袋分の食材を持って帰宅の途についた。朔は両手の袋を持ち替えながら、前を歩く詩織の鼻歌混じりの背中を睨んだ。もちろん詩織は手ぶらで歩いている。

    家に着くと朔は早速冷蔵庫に食材を入れ、晩御飯の準備に入る。美波は朔のジャージとユニホームをすぐに洗濯する。詩織はソファーに座り、ファッション雑誌を読んでいた。「詩織。ハード系のパン買ってあるけど、今日はパン?ご飯どっち?」「ライスをお願いしようかしらシェフ」じゃあこのパンはどうするんだと言うのを我慢して玉ねぎをみじん切りにしてステーキソースを作る。ランドリールームから出てキッチンを横切った美波は玉ねぎの汁攻撃に遭遇する。「しみる〜」そう言って慌ててリビングに逃げ込む。「なんで朔さんは平気なんですか?」美波は目を抑えながら話す。料理に集中している朔は返答しない。詩織が「あのデカい身長だから、玉ねぎの汁が飛んで来ないんでしょ。私達より30cmもデカいんだから」何となく言い得て妙な説だった。「美波。赤ワイン無くなったから、また今度、一緒にスーパー付き合って」朔の声に「はい。分かりました。マイナンバーカード用意します」美波は忘れないように、すぐスマホのメモに“赤ワイン”と打ち込んだ。詩織はその会話を聞いて「へえーいつもはこの頼れるお姉ちゃんに家からもらって来てと言っていたのに、今は、美波ちゃんと出かける口実でお酒いっぱい料理に使ってるんだね〜」からかっていた。朔はいちいち構わない。美波は少し顔を赤らめ俯いた。

    朔のキッチンからバターソテーされている野菜の良い香りがして来た。常温に戻したステーキ肉を焼く香ばしい香りと音。「美波も焼き加減は詩織に合わせてミディアムレアで良い?」美波は香りにつられてキッチンに行き「もう、食べられるならお任せです」カラトリーの準備を始めた。焼き加減を見計らって美波は炊き上がった炊飯ジャーを開けて「詩織さん。ご飯の量は?」詩織は手を握って拳を作り「これくらい」まさか拳で量を伝える人がいるなんてと驚きながらも装い「朔さんは?」皿を持ちながら聞いた。朔は肉をひっくり返しながら「俺はいらない」驚きながらも朔なりの試合中のルーティンがあるのだろうと皿をしまった。オーブンで温められた鉄板にサーロインステーキ肉を乗せて「出来たぞ。お嬢様」テーブルに詩織と美波の鉄板を並べる。詩織はダイニングチェアに座り「シェフ。ボルドーの赤を」プーアール茶が入っているグラスを持ちながらリクエストする。「未成年だ」朔は自分のステーキ肉の入った皿を置いた。「えっ?3枚も食べるんですか?」朔の前にある大皿を見て美波は驚いた。「これが朔の試合中の晩御飯なの。タンパク質を摂ることで筋肉の修復しているんだって。そんなのプロテイン飲めばいいじゃんって言うんだけど、食品から摂るこだわりなのよね」詩織の説明に美波は朔は本当に自分のルーティンを大切にしているのが分かった。そんなルールやルーティンを決めている人が良く素性の知らない自分をいきなり泊めてくれて、その後も同居を許してくれていると感謝をしながらも、不思議に思えていた。朔はものすごい勢いで肉を食べ進めていた。

    詩織は脂身を朔の皿に入れて「明日の決勝戦はどんな感じでやるの?去年の新人戦はリハビリで出られなかったから、実質あの3人をやるのは明日が初めてでしょ」いつも上品な詩織らしくない『やる』と言う言葉の響きが美波には新鮮に感じる。「あの3人って、明日の対戦相手の人達のことですか?」美波はフォークの背でうまくコーンをすくえず四苦八苦しながら話に加わっていた。「ああ。中学の全道大会優勝した時のメンバー。全員あっち(明日の対戦校)に行ったからね」朔はそれ以上語らない。右手にフォークを持ち替えコーンをガッツリすくって食べている詩織が「3人ってね。バカなプライド持ってるの。朔が居なくても全道制覇出来るのを証明するって向こうの高校に行ったんだけど、結局、3人で行かないと証明出来ないって笑っちゃうよね。それに新人戦でせっかく全道大会行けたのに優勝できなかったの」詩織は屈託のない笑顔の裏に朔の凄さを確信している。「明日は古北と小石山が新人戦の雪辱を果たす場所。俺はお膳立てだけしてお役ごめんにはしたいね」お膳立ては、相当目立つものなんだろうとバスケ観戦初心者の美波でも、今日の試合をみたら想像出来る。美波は最後の一切れを頬張り。「楽しみです。ユニホームはきちんと糊付けしてアイロンかけますね」お皿を重ねて片付けようとした。「いや、止めて。洗うだけで。パリパリのユニホームやジャージなんて誰も着ないし、着心地最悪だから。もしも、糊付けの液体入れているなら、もう一度洗濯し直し」美波はスプレータイプの糊を購入しておいて良かったと思った。それがガラスクリーナーと間違って購入したものだとは誰にもバレてはいない。

    翌日の開場は午前7時に前倒しになる。朔Loveグループは早くから好位置を確保する。橋本花奈も負けじと1列自分の荷物を並べ確保した。「おはようございます」創成スクエア学園OBで昨日、詩織にこき使われていた朔の先輩2人も早くから場所取りに参戦した。「おはようございます。詩織さんの為にですか?」橋本花奈は詩織や朔と親しいアピールを匂わせる。「そうです。詩織さんに言われると…なんか前巻に言われている気持ちになって(笑)つい、身体が反応してしまいます」橋本花奈も笑って「分かります。以心伝心って言うか、意思疎通って言うか、双子ってすごいですよね」ここでも私は2人と親しいアピールを醸し出す。「あれで、一緒に住んでいたのが6歳になる前までって、すごいですよね」朔の先輩の何気ない言葉に固まる橋本花奈。嘘でしょ。一緒に住んでいて、そこに美波ちゃんが住み込み家政婦で暮らしているんじゃないの?分からない。家の中が分からない。軽い混乱状態の橋本花奈。「今日も誰が来るか分からないので、この横2列全て確保しましょう」朔の先輩の言葉でようやく正気に戻り「そうですね」それ以上の言葉が見つからなかった。「あの。もみじ台商業高校バスケ部だった橋本花奈さんですよね」もう1人の朔の先輩が声をかける。「はい。そうです。万年1回戦負けのうちのチームを覚えていてくれるなんて」創成スクエア学園の人はみんな良い人なのかと少し高揚感が得られた。「声が、特徴ありますね。すごい響く声。いつも、仲間を鼓舞し続けた声。覚えています」やっぱり、声なんだ…でも、この声が武器になると橋本花奈は役者として、少しのレベルが上がったかもしれない。

    午前8時。橋本花奈のベンチには演出家の君塚、監督の堂林。社長の室田女史が座る。「はい。お疲れ〜きちんと席確保したわね」詩織が100均でデコった『39番ミクちゃん』と言う文字のシールと卵のイラストのシールを貼って現れた。「おはようございます。あの、詩織さん。前巻の決勝戦ですよ。少しおふざけが……」朔の先輩の助言など詩織には届かない。「はい。先輩AとB。あんた達も持って。頑張ってうちの使用人達が作ってくれたんだから」美波は『あっ、作ってないんだ。うん。何となくそう思ってた』心の中で呟く。「はい。橋本花奈さん。あなたもしっかり応援してね。あの、マナーの悪いエセファンクラブなんかに負けないように」詩織の両隣プラス橋本花奈は『どの口が言う』キレイに心の中でそろった。「はい。これは美波ちゃんの」体裁上喜んで受け取る美波。「えっ?ダメ!!これはダメ!!」慌てふためく美波のうちわを橋本花奈は手に取り読む「私だけの朔♡」橋本花奈の四方10cmだけ2月の冬の嵐が吹いていた。バタフライエフェクト如く美波が慌てて腕を振り続けると、その隣で吹雪になる。そんな2人の対比を見て詩織は笑っている。「え〜これは美波ちゃんのためにこれだけは、私……」詩織が俯く。「えっ、詩織さんが作ってくれたんですが?使います。ありがとうございます」美波は赤くなった顔をそのうちわで仰いだ。「ありがとう。作ってくれた、私の執事の桂木さんも喜んでくれるわ。桂木さんって手先が器用で、一番うまいのよね」騙された。しかし、今さら返せない。美波は右隣を見ないようにした。もう、そちらを相手する余裕は無かった。橋本花奈はまだ立ち尽くしていた。

    8時30分。両校がコートに入って来た。歓声と悲鳴が入り混じる。「ミク〜(笑)」今日も元気よく朔をいじる詩織。「あっ、朔君。今日は最初からいるんだ」美波は橋本花奈を見上げると、デコレーションうちわを振り上げ朔に必死に声援を送っていた。
    ゴールに向かって左右に分かれドリブルシュートの練習を始める。朔は1番後ろに並んでいた。ゴールに向かって45度の角度でドリブルシュートを決める選手。朔の番が来ると全員がコートサイドライン上に移動した。朔はハーフラインまで下がりドリブルを始め、ゴールに向かって90度の角度で走り出す。ワンツーステップ。フリースローラインから跳んだ。片手で握られたボールはそのままゴールに叩き込まれた。「ウォー」観客も驚くフリースローラインからのダンク。相手チームも思わず見入ってしまう。試合前から朔の存在がコートを支配した。「うわぁ〜何よ今の。飛んでたわよ。2秒くらい」詩織も驚いた。「186cmの身長であの距離を跳べるのは日本全国探しても数人いるかどうかですね。ケガする前の前巻でもやらなかったダンクシュートですよ」朔の先輩Aも興奮している。ダンクシュートを決めた興奮も冷めやらぬまま、朔は相手コートギリギリのハーフラインからスリーポイントを何本も決めている。「ウォー」「きゃぁ~」1本朔が決める度に観客は歓声をあげる。ロングスリーの練習が終わるとゴール付近で古北拓哉と1on1を始める。189cmの古北の頭の上からダンクを何本も叩き込む。「うわぁ。やりすぎ」先輩Bも思わず引いてしまう。「朔の観客へのサービスなんじゃないの?」詩織はさっきからファンサービスをしているとばかり思っていた。「違うんですよ。前巻と同じ中学校出身の敵の3人へのアピールです。うちのチームでは古北が1番大きいんです。でも彼は元々はパワーフォワードと言うポジションをしていました。1番大きい人が担うポジションは敵のチームの191cmの奴が任されていました。今日はそいつの頭の上からダンクを叩き込むよという前巻からの警告です。美波はその説明を聞いて相手校の1番大きな人を見た。呆然と立ち尽くし生気の失った顔で朔を見つめていた。

    ある程度のアップが終わると朔はコートを出て行った。「あれ?マネージャーも2人くらい居なくなった」美波の観察力が光る。「これから朔タイムです」先輩Aが教える。「何もの?その朔タイムって」いつの間にかポッキーを食べながら観戦している詩織が聞く。「瞑想の時間なんです。色んな試合パターンをシミュレーションします。実際に頭の中で作ったストーリーで試合を組み立てます」その言葉は数人離れて座る演出家の君塚にも聞こえた。「へえー前巻朔は演出家でもあるんだな。今度やらせてみたいな」腕を組んで楽しそうにしている。「あの。マネージャーさんは何をしに行ったのですか?女性の方も更衣室に入れるんですか?」美波の声は少し不安が滲んでいた。「あっ、アレは更衣室の前と中の防犯みたいな役目です。更衣室には1年生の男子部員が内と外で警備していますが、朔の場合、ちょっとマナーの悪い女性ファンが無断で更衣室に入ろうとするんです。男性部員は手で制す事が出来ないので、女性マネージャーが対応します。その為に移動しました。僕が言うのもなんですが、ご心配なく。女性マネージャーは誰一人前巻に近づけませんので」先輩Aが美波の不安を落ち着かせた。

    「朔のマネージャーってキャプテンの小石山じゃないんだ」詩織のぶっ込みに先輩達は笑いながら「確かに。女性マネージャーは口も聞いてもらえません。前巻に連絡するのは小石山が専属です。小石山はキャプテンで前巻のマネージャー兼広報ですね(笑)」詩織も広報まで付けたことに笑ってしまう。「朔君って、そんなに話をしないんですか?」美波は部活の朔を知らないので興味があった。「必要な情報以外いらないんですよね。要件だけ伝えればいいんだけど、自分の気持ちや考えを混ぜて話す人は、徹底的に無視します。意外と難しいんですよね。それで朔に嫌われたくないマネージャー達は、何も言わないんです。言わないと嫌われないので。それが先輩マネージャーから受け継がれています。前巻って集中力オバケなんですよ。言葉が煩わしいと言わんばかりに黙々と練習しますから」美波も朔が料理になると返事をしてもらえない事があるのを思い出した。

    3分前のアナウンスで朔が戻って来る。朔はレギュラーとルーティンのハイタッチを行い試合開始を待った。3階の観客席も埋まり創成スクエア学園のホームゲームのような歓声の中ゲームが始まった。ティップオフから相手のボールになった瞬間、朔のスチール。そのままフリースローラインまでドリブルをして跳んだ。"ガコン"ボールがゴールに叩き込まれる。一瞬の静寂の後「ウォーォー」観客席の椅子が揺れる。朔は観客を煽ることなくすぐにディフェンスに戻る。「えっ?」先輩AとB、そして橋本花奈は前のめりになる。「あ〜朔が相手の1番大きい人をディフェンスしてる〜いじめっ子朔発動!!」詩織の言葉がバスケ経験者にはしっくり来る。「朔君が小さく見えるって、なんか不思議だな」美波にはそれくらいの感覚。「前巻ってオフェンス能力ばかり特筆されるけど、ディフェンスめちゃめちゃ上手いんですよね。パスコース塞いでボール持たせなかったり、ボール持っても」"ピーッ"「チャージング」審判のホイッスルが鳴る。先輩Aが解説する間もなく、あっさりと敵の反則を引き出した。第1クォーターで3回の反則を犯した191cmの敵のエースは朔に頭越しのダンクを決められる事なくベンチに下げられた。その後は敵のポイントガードのディフェンスに移る。178cmのポイントガードは朔のディフェンスを抜けない。ボールを持たせてもらえない。ポイントカードがボールを持たずにゲームがコントロールできるわけがない。1試合戦い終わったレベルの汗を流し敵のポイントカードは足を引きずり第1クォーターでベンチに下がった。ほぼ汗かいていない朔は、もう一人のスモールフォーワードの選手には目を向けずベンチに。十分なお膳立てが整った。「3人が中学校で同じチームって言ってましたよね。まだ2人のような……」美波の質問に先輩Aが「対戦チームの4番がもう1人です。そして、他の2人を勧誘した張本人。前巻から見たら1番気に食わない相手。だから、全く相手にしないんです」「叩きのめすにしても、色々あるのよね〜『OutOf眼中』」詩織はグーパンチポーズで話す。

    「3,2,1,きゃ〜」ベンチから選手を迎える朔。古北と小石山には笑顔でハイタッチ。観客席の前に選手が並び一礼する。フラッシュの光が朔を包む。そのまま表彰式が行われ、小石山と古北が賞状と優勝カップを受け取る。朔は最後尾から観客席を見渡していた。「朔君が賞状もらった方が絵になるのに〜」橋本花奈は欲望を口に出していた。「背番号順だから1番後列に並んだって言うんでしょ。あのへそ曲がりは。あいつにこのうちわ持たせて、世間様に晒してやろうかな」詩織の言葉は冗談と本気の境目が分からなかった。「あ〜それいいです。美波ちゃんちょっとうちわ持たせて」橋本花奈は美波からうちわを借りて、スマホを美波に渡して記念撮影をしてもらった。コートではマスコミ用の記念撮影が行われていた。観客席からスマホのズーム機能を使って、朔ファンが撮影している。ガチ勢は一眼デジカメで狙っていた。朔は顧問の指示で優勝カップを持たされ密着していたテレビ局のインタビューが行われていた。朔個人のインタビューではあるが、創成スクエア学園のチームメイトは誰ひとりとして、その場から動かない。全員が朔の話を聞いていた。「ふ〜ん。小石山の朔を見つめる目、恋する乙女じゃん(笑)」詩織の指摘に先輩AとBも「そうですね。やっと朔の役に立てたと思っているのでしょう。今日のスコアリーダーは小石山の22点ですから。古北も得点18点のリバウンド15本のダブルダブルの立派な成績。たとえ市の大会であっても感慨深いものがあるんでしょうね」後輩の頑張りに目を細めていた。

    インタビューも終わり、朔は後輩の人の壁で更衣室に消えて行った。「詩織さん。初めまして。劇団リラの社長、室谷と申します」橋本花奈の隣から室谷女史が詩織に声をかける。「どうも。うちの美波がお世話になっております」詩織の丁寧な所作に室谷は笑顔になる。「朔君への原稿料はどう処理をすればよろしいですか?」芝居でも、構成でもない。経営のアプローチに詩織は臆することなく「もう作品は朔の手元にありません。著作権は貴社にあります。強いて言うならば……看板俳優の芽原美波のギャラに上乗せして下さい。そうですね〜1公演の売上の10%で手を打ちましょう。私の朔へのマネージメント料は、『今回は』サービスさせていただきます」軽く一礼する。室谷も笑って「承知しました。当社に芽原美波という看板俳優が誕生したあかつきには、そのような条件でお支払いいたします」詩織は自分にやり返して来る女性は嫌いではない。むしろ好物だった。「7月の千秋楽には、そうなっていると確信していますので。私は用心深いので、きちんと室谷社長の言葉をいやらしい大人の笑顔と一緒に録画していますので」詩織はRECボタンが光っているスマホを見せつけた。これには室谷女史も「お見逸れいたしました」2人は緊張感を保ちながら、どこか楽しんでいるように美波には見えていた。その隣の橋本花奈はバチバチの空気に感電して小刻みに震えていた。

    「詩織さん。今夜の前巻の密着楽しみですね?」先輩Aが話す。詩織は残っているポッキーを食べながら「密着?」朔は詩織には話していないようだった。美波が慌てて「朔君の復帰戦なので、数カ月前からテレビ局に密着されているって。私も昨日聞きました」詩織はニタリ顔で「あいつ、私にからかわれるの嫌だから教えなかったのね。なんか熱いセリフでも語ってたりして。美波ちゃん。今日はリビングのテレビで見ながら録画よ」鼻息を荒くしている。「詩織さん。リビングのテレビは、私は触れません。そういう約束なので」美波が困り顔で話す。「大丈夫。私が買ったテレビだから、私の物」それを聞いていた橋本花奈は『出た。ジャイアン理論』もちろん突っ込めない。「すみません。何時で何チャンネルか分かりますか?」橋本花奈も録画するために情報が欲しかった。先輩Bは昨日小石山から聞いた情報をLINEを見ながら答える。"♪LINE〜"詩織のスマホに通知音。「あっ、朔よ。これから学校に帰って反省会だから先に帰ってって。それと今日は晩御飯作らないから、出前のリクエストよ」詩織はスマホを美波に見せる。「げっ!なんですかこのジャンクフードの羅列は!!」今まで、必要以上に身体の事を考えて来た人が、ピザ・たこ焼き・焼きそば・お好み焼き・フライドポテト・チーズバーガー。美波には信じられないワードが並んでいた。「美波ちゃんはコーラとジンジャーエールどっち好き?」美波は何のことか分からず「コーラですかね」答えた。「じゃあ、コーラも追加。1.5Lを2本」詩織は朔のリクエストを全てデリバリー予約していた。

    時刻は午後0時を過ぎていた。朔は学校関係者の車に乗り込み学校へ向かった。会場前広場では朔ファン同士のコミュニティが発生していた。詩織達はコミュニティの間をミクうちわを持ちながら歩いていた。「あの人よ。いつも変な大声あげる人」「面白いと思っているのかしら」「そんなふざけてまで朔様に覚えてもらいたいのかしらね」陰口が正面から聞こえて来る。全く意に介さない詩織は「♪ミク〜ミク〜へそ曲がり〜」鼻歌を超えた音量で歌いど真ん中を突っ切って会場を後にした。
    「ご飯食べて帰ろうか?私、今朝からポッキーしか食べてないのよ」詩織はお腹を擦り空腹アピールをしている。「朝ご飯食べなかったんですか?」美波の驚きに「うん。昨日のステーキがお腹に残っていたのか、お腹が空かなかったの」美波は今朝もきちんとたぬきうどんと赤飯おにぎりを食べていた。「そ、そうですよね~ステーキはお腹に残りますもんね」慌てて同調する。札幌駅を南下し駅前通りの高層ホテルの前。「ここで食べましょう」美波は個室で相談に乗ってもらって以来のホテル。驚く事は無かった。「え〜っ。こんな高級ホテルのレストランでランチですか?私のお小遣い足りるかな〜」また、橋本花奈は付いてきている。詩織は誘っていない事を頭の中で確認した。

    「大丈夫。レストランじゃないから」詩織は橋本花奈を追い返す事を考えるより、早くご飯を食べることを選択した。正面玄関のベルボーイが詩織に気づき深々と頭を下げる。詩織はそのままフロントに向かう。スタッフ全員が背筋を伸ばす。「お疲れさまです。昼食券3枚いただけます?」緊張感が滲み出ている女性フロント係が奥のスタッフルームから券を持って来た。連れ立って奥から出てきた男性スタッフが「お父様にご連絡しますか?」気を利かせた。「結構です。私のプライベートなので」そう言い残して地下へと続く階段を下りていった。ドアを開けて目の前に広がるのはビュッフェスタイルの社員食堂だった。「お盆に好きな物を取って最後の会計でこのチケットを提出すれば無料だから、気にせず食べて」詩織の言葉に美波は固まる。「どうしたの美波ちゃん?」橋本花奈が心配そうに顔を覗き込む。「ごめんなさい。私……バイキング?ビュッフェ?初めてなんです。食べられないのに全部取ったり、何も取れずに会計行ったりしそうで怖いので、1度端まで観に行って来て良いですか?」額に汗が滲んでいる。「私も、タダだと思うとリミッター振りきって取りそうなので見てきます。行こう、美波ちゃん」2人は並んでいる人達の背中越しにメニューを覗いては、移動していた。

    「お待たせしました。イメージ出来ました」笑顔の美波とまだ頭の中で悩んでいる橋本花奈。詩織はボンゴレビアンコとシーザーサラダにローズヒップティー。OL風に見せて実は両方ともニンニクがっつり系でそろえる。美波はエビドリアとシーフードサラダにカモミールティー。橋本花奈はミックスフライにサンドイッチにミニカレーライスにコーラと欲望丸出し迷子メニューでお盆をパンパンにしていた。「すみません。ごちそうになります」一応、乙女の恥じらいは橋本花奈にもあるらしく、照れながらも大きなひと口でサンドイッチを頬張った。「美味しい〜さすがはホテルですね。社食のレベルじゃないですよ。って、私……社食に入った事ないですけど」思わず詩織も美波も笑ってしまう。「でも、詩織さんの横に座れるって、美波ちゃん。可愛がられていますね」美波の対面に座る橋本花奈が嬉しそうに話す。「そうね。美波ちゃんの向かいの席は朔って決まっているから。2人は向かいあって一緒に食事をするのが日課だから」詩織の言葉に焦る美波にジェラシーたっぷりの視線を送る橋本花奈。「朔様とはどんな話をしながら『仲良く』食事してるんですかぁ~」詩織は「朔様って神様か!!」橋本花奈はエビフライをつまみながら「そうですよ。神様です。自分の力を誇示せず、ベンチに下がってからもタオルで顔を隠していますが、常に7番の選手(古北拓哉)に指で合図を送り、攻めあぐねているポイントガード(小石山)は、必ず朔様にアイコンタクトで安心をもらっていましたから。俺が俺がのヒーローじゃなくて、周りを生かすタイプなんです」橋本花奈は詩織を見て「ジャイアンのような頼もしさがありました。あっ、もちろん映画のジャイアンですよ」詩織は何故ヒーローをジャイアンで例えたかは疑問だった。橋本花奈は詩織のジャイアン理論を思い出してつい口走った。美波は自分から話題が逸れたのを見逃さずエビドリアを堪能していた。

    美波はさらに朔の話題を避けようと「詩織さん。お腹空いているのに、そのスパゲッティで足りますか?麺よりアサリの方がメインのようですね」詩織はアサリのスープを飲みながら「うん。大丈夫よ。後2時間くらいで朔のチートデイが始まるから。午後3時から7時くらいまでずーっと食べるから。私もつまみ食いする予定」美波は重いエビドリアを選んだ事を反省した。自分だけ食べないのは、仲間に入れないという不安が心の片隅にある。美波は少し食べるのを躊躇していた。「美波ちゃん。どうしたの?食べないの?」ひと口ちょうだいオーラを放ちながら聞く橋本花奈。橋本花奈のお盆の中は完食されていた。「う、うん。ちょっとお腹……いっぱいになっちゃって」そう言いながら向かいに座る橋本花奈の方へお盆を少しずらした。「じゃあ、もらっちゃうよ」テーブルクロス引きのように一瞬で自分の手元に美波のお盆を持って来る。「うん。美味しい〜ミニカレーライスとこのエビドリア迷ったんだよな。もらえて良かった」満足そうな顔で食べる。「花奈ちゃん。そんなに食べて晩御飯食べられるの?」橋本花奈はエビドリアの皿のおこげをスプーンで擦りながら「うち、厚別区で家族でコンビニやってるんだ。両親と兄、それにパートさんとアルバイトが数人いてさ、私も劇団ない時はシフトに入る。みんな空いた時間にコンビニ弁当食べて終わり。食を楽しむって昔から無いんだよね〜」いつも元気な橋本花奈の顔が少し曇っているように見えた。

    「食事って1人で食べるのに慣れると、ただの栄養補給の装置になってしまうのよね」詩織の言葉が2人に刺さる。「詩織さんも…御一人で食べているんですか?」こういう所は悪意はないが聞いてしまう橋本花奈。「私は書類上の家族と同じテーブルで食べるわ。決まって『学校はどうだ』と『ピアノは良い感じ?』のテンプレ質問だけ。栄養補給よりもストレス蓄積の方が毎回上回っている」詩織のくりくりお目々は笑ってはいるが、どこか疲弊しているようにも見えた。美波は詩織が庭いじりでストレスを発散していると言った朔の言葉を思い出した。「お嬢様も大変なんですね~毎日ステーキ食べて後ろでメイドさんが立っているイメージでした(笑)」橋本花奈のイメージには美波も同調出来た。「メイドは立っているわよ。それぞれの後ろに1人ずつ」テレビの中の世界だけだと思っていた空間が身近に存在することに美波は驚いた。「前までは朔のご飯だけ食べるだけでも満足してたの。2人だとそんなに会話はないけど、私の食べたい温かいご飯を作ってくれるから、落ち着くんだよね。でも、今は美波ちゃんもいて食卓に会話が生まれたから、余計に楽しい。ご飯がとても楽しいの」詩織の目は細くなっていた。「あっ、そうだ!!美波ちゃん。朔様と毎日どんな話をして、食事を楽しんでいるんですか〜」忘れていたブーメランが美波を直撃した。焦る美波を詩織は笑って見ていた。ここにも女性だけの楽しい会話が食卓を彩っていたのを、詩織と橋本花奈は気づいているのかは分からない。

    食事を終えて詩織と美波は、どさんこプラザ 札幌店に入る。「今日はあるかな〜」詩織はお目当ての食品があるらしく脇目も振らずに向かった。「あった〜ラスイチ。良かった」詩織が手にしたのはカッテージチーズだった。「あっ!!」周りの人も振り返る。「どうしたの?美波ちゃん」詩織も驚く声量。「ごめんなさい。このチーズ。私の実家の隣の牧場。佐藤牧場のチーズです。私もお手伝いしていたんです」詩織も驚いて「え〜そうなの?私、このチーズをトマトにトッピングするの大好きなの。牧場の名前見たことないけど(笑)いつもここの買ってるんだよ」2人は食で繋がっていた事を喜んだ。「とても美味しいよね〜私はここの一択だよ。ちなみに朔もここのチーズ好きで、色んなの買いに来てるんだよ」「えっ!!」また買い物客が美波を注目する。「カマンベールやゴーダ、チェダー、モッツァレラ、ブルーチーズ。朔は全てお気に入り。このポニーマークを好んで買ってる」その話を聞いて美波は鍵のキーホルダーの小春を見せて「ポニーじゃなくてミニチュアホースなんです。ちなみに小春って言います」詩織はキーホルダーを見て「うぁ~そっくり。ミニチュアホースって初めて聞いたよ」詩織は急にチーズのそばの棚を見渡す。もしかしたら美波ちゃんの家の野菜もあるんじゃないの?美波は野菜の棚から生産者の名前を注視して探した。「美波ちゃん。これ、芽原さんが作ってる」詩織がジャガイモの袋を持って来た。「お父さんのだ!!」美波の目には自然と涙があふれた。「詩織さん。今日、朔君が料理しないって言ってましたよね。私、このお父さんのジャガイモと佐藤牧場のチーズで1品作っても良いですか?」「もちろん」詩織は美波をそっと抱きしめた。

    チーズとジャガイモを買って「はい」詩織はレシートを美波に手渡した。ジャガイモ(芽室町・芽原)カッテージチーズ(芽室町・佐藤牧場)の印字。美波は大切に折りたたんでスマホケースに挟んだ。「じゃあ、次はデパート」駅直結の百貨店の7階。エプロン売場。「美波ちゃん。料理するにはエプロンがマストアイテム。朔を悩殺するのを選ぼう」詩織はエプロンを手に取り美波にあてがう「レースのフリフリよりも、このオレンジのやつ、絶対似合う」マネキン役の美波に決定権は無かった。マネキン美波の頭の中を『悩殺』というワードが駆け巡っている間に詩織は会計を済ませる。「ついでにデパ地下でお惣菜とデザート買って帰ろ」美波は朔がいないのに昨日みたいな見境ない買い物は困ると思い「詩織さん。荷物2人で持てる分の買い物にしましょうね」やんわりと諭すが「大丈夫。そろそろ『朔ホイホイ』にデッカイ虫がかかる頃だから」意味が分からずも美波は付いて行くしかなかった。地下に下りてすぐに目に飛び込んで来た創成スクエア学園バスケ部リュック。「えっ?朔君?」試合よりも真剣な眼差しで肉の脂の入り方を吟味していた。「やっぱりね。素直に家に帰るわけないよね。荷物運びゲット」朔の行動がパターン化しているのか、双子の感で詩織がわかるのかは定かではないが、美波もこれで詩織がたくさん買い物をしても安心と思った。今日、朔が試合していた事など忘れて。

    詩織は朔に声をかけずにスイーツ店でプリンを3個買った。そしてスナック菓子を手に取り、朔の持っているかごに静かに入れて行く。朔は肉を見ていて、詩織のお菓子攻撃に気づいていない。「本当に集中力オバケだ」美波は思わず呟く。「すみません。白老牛のヒレ肉を200g下さい」朔は店員から肉を受け取り「うわぁ」かごの中の大量のお菓子に驚く。すぐに辺りを見渡し詩織を見つけた朔はかごを肩の高さまで上げて、詩織がお菓子を入れられないようにディフェンスした。「あっ、朔君本当にディフェンス上手い」のんきに他人事のように2人のやり取りを見ている美波。詩織は必死にジャンプして朔のかごにお菓子シュートを決めたかったが、朔の鉄壁のディフェンスの前に肩を落とした。「ちくしょう。デカ昆虫」また新しいあだ名をつけられた朔は「なんか、害虫にしか聞こえないんだけど」お気に召さないようだった。
    家に着くと美波は朔の聖域キッチンで詩織が買ってくれたエプロンを着けじゃがいもを洗う。シャワーを浴び終えた朔は美波の料理の手際ではなくエプロン姿を凝視していた。「詩織がちょっと、美波ちゃんのエプロン姿が見たいからってそんなデカ男が背後に居たら気になって料理できないでしょ」詩織のからかいにも似た言い回しに慌てて離れた。レンチンしたじゃがいもを粗くつぶしてに塩とレモン汁をかけカッテージチーズにみじん切りの玉ねぎを混ぜてブラックペッパーで味付け。「芽原家のポテトサラダです。材料のじゃがいもとカッテージチーズは最高の物で美味しくなかったら私の力不足です」照れながらもボウルのままテーブルに並べた。「えっ?ボウルのまま?」朔と詩織は目を丸くする。美波の実家ではこれが当たり前だったのでついのそのまま出してしまった。「ごめんなさい。お皿借ります」慌てる美波に朔が「いいよ。そのまま豪快にスプーンで掬って食べよう」詩織もコーラを注ぎながら「美波ちゃんのお父さんのじゃがいもとお隣の佐藤牧場のチーズ。美味しくない訳ないじゃん」二人の優しさが美波の心に沁みた。
    「では、市内の大会だけど優勝おめでとう」詩織の音頭で朔のチートデーが始まった。左手にハンバーガーを持ち、箸で焼きそばを啜る。その姿を見て詩織は「何年たっても、わんぱくだね~」お姉さんの目線でやさしく見守っていると思いきや詩織の前の皿にはたこ焼きとフライドポテトが山盛りで置かれていた。誰も手を伸ばさないポテトサラダを美波は自分で掬って食べた。「うん。この味」満足そうな表情を浮かべる美波を確認した朔と詩織は「いただきま~す」大きなスプーンで自分の皿に取り分けた。「えっ?」困惑する美波に「これは美波ちゃんの特別な味。私達が先に手を付けるのはマナー違反なの」そう言って詩織も朔も一口食べる。「嘘だろ」朔の食べ物への最高級の賛辞が飛び出した。詩織は美波の方を見て「うちのデカ昆虫が大変美味しいと申しております」その言葉に美波は思わず吹いてしまった。

    乾杯から1時間後。とにかく食べまくる朔を見ていると美波は数時間前のエビドリアが胸にこみあげて来た。美波はコーラで爽快感を得ている。詩織も食べるペースを落として。「詩織さんも、もう食べ終えましたか?」美波は自分だけ手を休めるのが申し訳なく思っていた。詩織は首を振り「ううん。この後5時からお寿司の出前届くからそれまで休憩」美波は大きなゲップを飲み込んだ。焼きそば。ハンバーガー。フライドチキンとポテト。ピザ。全てのデリバリーがほぼ朔1人の胃袋に収まった。空になった箱をゴミ箱に捨てながら「ジュース買いに行ってくるけど何がいい?」「私は100%のリンゴジュース」詩織が早速リクエスト。美波が言えずにいると「美波ちゃんも一緒に行って見てから決めなよ。私はお寿司が来るからお留守番してる」詩織は気を使ったのか本当に買いに行くのが面倒だったのかはわからないが朔と美波は2人で買い物に。朔の横に並んで歩く美波はいつものスーパーはドラッグストアに行くものとばかり思っていたが朔はどんどん通り過ぎて行く。「朔君。どこまで行くの?」朔は前を指さし「大通り公園の方まで」わざわざジュースを買うためにと思う美波だったが「お腹きついんでしょ?少しでもスペース作らないと。出前のお寿司はすすきのの有名店の特上だよ。これを食べられないのは人生後悔レベル」朔の力のこもった声に美波は早歩きを始めた。
    朔は夕暮れ時の地下街ポールタウンに向った。日曜日のポールタウンは肩がぶつかって歩きづらい混雑。「混んでるから、手繋ぐよ。」朔が手を差し伸べると美波も素直に握る。さすがに186cmの朔にぶつかって歩く人はいない。美波もみんなが朔を避けていることに気づいた。「美波は何度も札幌に遊びに来ているけど、日曜日のこの時間って経験したことがないんじゃない?」朔の声に美波は体を密着させて「そうですね。初めてです」「美波は通勤ラッシュには遭遇しないと思う。帰宅ラッシュは経験するかもしれないけど。この人混みを歩くのって、都会に来たんだって感じしない?」朔は美波に札幌に住んでいるということを実感させたいがために、わざわざ混雑する日曜夕方のポールタウンに来た。すすきの駅から地上に戻り「さっ、ジュース買って帰ろうか。お寿司が先に届いていたら、ウニ、アワビ、イクラ、大トロを全部詩織に食べられちゃうから(笑)」自宅近くのスーパーに着くまで2人はずっと手を繋いでいた。どちらも気づいていた。けど、繋いだ手を離す理由はどこにもみつからなかった。

    「おかえり〜どこまでジュースを買いに行ったのかな?お二人さん」美波は頬を赤くして「ちょっと大通り公園まで歩いてお腹減らして来ました」素直に告白する。
    「鮨 雪凪(ゆきなぎ)で〜す」お寿司の出前が届いた。「は〜い」詩織が受け取りに行く。美波も慌てて後ろを付いて行く。「お嬢様。いつもありがとうございます」出前を持って来た店員が頭を下げる。詩織と美波がそれぞれ寿司桶を受け取り「5人前ですので3万円になります」美波はその金額に桶を落としそうになる。「はい。ありがとうございます。桶は明日回収に来て下さい」詩織はお金を渡す。「はい。朔。あんたの特上寿司3人前よ」朔は玉露の温度を確かめながら急須に湯を注ぎ、ようやく寿司桶へ目を向けた。
    「それではチートデイ後半戦いただきます」詩織の号令で朔はボタン海老から食べ始め「エビを表現するのにぷりぷり以外何があるって言うくらいぷりぷり」興奮して饒舌になっていた。
    時刻は5時30分。詩織は勝手にテレビのチャンネルを変える。美波は朔に怒られると思い目を閉じて体を縮めた。

    朔はニシンの握りを食べながら、テレビに一瞬目をやるが何も言わなかった。『あれ?怒らないのかな。1番最初に言われた大事なルールなのに』美波は何度も朔の方へ視線を送るが、朔はお寿司に頷いたり、目を見開くばかり。
    「始まったよ〜」詩織は体をきちんとテレビに向ける。
    「今日の特集は、約10ヶ月のリハビリを経て見事に復活した高校生のドキュメントです。私達のテレビクルーが密着しました」テレビから流れるのは授業風景の朔。ウエイトトレーニングでは、歯を食いしばりながらトレーナーの指導のもと、負荷に耐えて練習を行っている。美波も思わず手に力が入っていた。シュート練習ではゴールネットが擦れると音。詩織も「いい音だね」頷いていた。全体練習の場面は何故か短い。
    「なんか…みんなとの練習風景短いですね」美波の指摘に朔は「古北がカメラに緊張しちゃって(笑)」詩織が「あ~豆腐メンタルさく裂ね」
    映像はキャプテン小石山のインタビュー「朔は。すごいがんばっています」そのインタビューに朔も詩織も大爆笑だった。詩織「小石山は朔の広報失格だわ」朔も「メモ用紙何枚も話すこと書いてたのに全部カット(笑)」
    そして昨日の会場入りまでの車内の映像へ。「わぁ。朔君本当にイヤホンして何も話さなかったの?」美波だけが知っている情報に詩織は「これは、これで画になるからいいでしょう」いつの間にかディレクターの立場。そして優勝インタビューになる、朔はテレビから目を逸らす。詩織と美波はテレビを凝視する。
    聞き手「この10ヶ月。どんな思いで取り組みましたか?」
    朔「焦らず完璧に直してコートにまたコートに立ちたいと」
    詩織が間髪入れず「おっ!青春物のセリフ(笑)」
    美波はテレビの朔君にも突っ込むんだと思わず感心してしまう。
    聞き手「今のお気持ちをお聞かせください」
    朔はカメラを見つめ「こんなめんどくさい奴に、付き合ってくれてありがとう」
    詩織は朔の方を振り返り「でた~愛の告白!!!」
    美波は「えっ?チームメイトにじゃないんですか?」
    詩織は美波の肩を叩いて「チームメイトに話しているようで、本当は美波ちゃんに告白しているのよ。このデカ昆虫なりの上等テクニックを駆使したつもりでも、恋愛探偵詩織ちゃんの目はごまかせないわよ」
    美波は自分が告白されていることは二の次でなぜ、これが告白なのかを知りたかった。
    美波「恋愛探偵さん。教えてください。私にはわかりません」
    詩織は立ち上がりテレビの前に行き「さっきの朔は敢えてカメラに向かって話した。けど、私も美波ちゃんも朔のインタビューを2階から見ていた。チームメイトは朔のインタビューを全員カメラの後ろで見ていたでしょ。それなら朔はカメラの後ろのみんなに視線を合わせればいいの。それなのに朔は..…カメラに向かって告白ってことは、この番組を美波ちゃんが見るのを確信していたから~」なぜか腕を突き上げて力説していた。
    美波も「だから、詩織さんがテレビを切り替えても怒らなかったんですね」納得していた。
    詩織は椅子に戻り冷静に「それで、美波ちゃんの返事は?」
    告白されていた件をすっかり忘れていた美波は急に顔が熱く赤くなりながらも「私は朔君が好きです」きっぱり言い切った。朔の箸を持つ朔の手がほんのわずか止まる。
    詩織は起ち上がって「イエーイ。両想い!よかったね朔。」喜んでいると美波は「詩織さんも大好きです。朔君も詩織さんも私を家族のように接してくれて本当に居心地がいいです。私はお二人が大好きです」
    満面の笑みの美波に対して詩織は「あ~朔。なんか..…微妙になった。ごめん」
    朔は何も言わないが、気持ちをきちんと整理はできていないのは双子の詩織には十分すぎるほど伝わっていた。
    「お寿司おいしいですね」美波の笑顔は今日も前巻家を照らしていた。

     
     
    オカルト好き。 多少の不思議体験あり。 それを書いて自分自身の備忘録。