
掌編夜話集 ep5|帰る場所のない夜
夜、老舗Barオシャンティに、冷たい風が入り込んだ。
扉の前に立つ女性は、少し迷ったように視線を落とす。
「こんばんは。どうぞ、あったかい席ありますよ」 ジェイコブはいつもの笑顔で迎えたが、 女性の手が震えているのに気づいて、表情がわずかに曇った。
「今日は…強いのにします?」 「……はい。強いのを」
氷を落とす手が、ほんの一瞬だけ止まる。 ジェイコブは何も聞かない。 ただ、グラスの向こうで女性の目が赤いことだけを受け止める。
一杯目を飲み干したあと、 女性は小さく息を吐いた。
「……帰る場所、なくなっちゃって」 その言葉に、ジェイコブの笑顔が少しだけ揺れた。
「ここ、座れますよ。帰る場所じゃなくても…座っていい場所ですから」
女性は泣き笑いのような顔でうなずいた。
帰り際、 「ありがとう」と落ちた声に、 ジェイコブは深く頭を下げた。
扉が閉まったあと、 彼はしばらくのあいだ、 女性が座っていた席を見つめていた。