メインコンテンツへスキップ
見出し画像

【小説】すれ違いのまま

     1. 些細な喧嘩

    「イタッ!」
    梢こずえは咄嗟とっさに中指に出来た小さな傷を口に当てた。
    テーブルに座っている雅人まさとがのんびりと立ち上がる。
    「どうした?」
    「茶碗の欠けた所で指切っちゃった……」
    雅人は、台所のシンクに落ちて割れてしまった茶碗を片付ける。
    「慌てん坊だな、梢は……」
    雅人の呑気のんきな声が、梢には少し無神経なものに聞こえた。
    「何よ、その言い方?」
    雅人は不思議そうな顔を梢に向ける。
    「俺の茶碗、欠けてるの知ってるだろ?……気をつけなよ」
    「欠けてる茶碗使い続けてるの、貧乏臭いよ?」
    「ちょっと欠けたくらいで買い替えてたら、地球に優しくないじゃないか」
    「割れた茶碗片付けるのより、あたしの中指を心配しないの?」
    梢は傷口をしゃぶりながら睨む。
    雅人は、睨んだ梢の顔も可愛らしげで愛おしく思う。
    「絆創膏、どこだったかな?」
    梢は踵きびすを返して大股で茶ダンスに進む。
    「ここよ。雅人、絆創膏がどこにあるかも覚えてないの?」
    「あまり使うもんじゃないだろ」
    「あんたって、いっつもそうよね。玄関の靴も脱ぎっぱなしだし。風呂入る前に脱いだパンツ、いつもあたしが洗濯カゴに入れてるのよ」
    「それは前に言われてから直してるじゃないか。今はちゃんと自分で洗濯カゴにパンツを入れてるよ」
    「裏表になったままね」
    「……裏表も直せとは言われてないぞ?」
    「普通、脱いだら裏表を直すもんでしよ?」
    「何だよ普通って? 梢の常識が全部普通だってか?」
    雅人の口調もだんだん荒らげてくる。
    梢は絆創膏の包装紙を剥むくのにイライラする。
    「そうよ! あたしの常識がおかしいっていうの? いつもあたしが我慢してるって思ってるんでしょ!」
    雅人はため息を付きながらシンクの水を止めた。内心で舌打ちした。
    「今日だってクライアントのクレーム対応で疲れきってるっていうのに……家でくらい、のんびりしたいもんだ」
    梢の怒りが頂点に達した。
    「あら、そう? そんなら、のんびりしなさいよ! ひ、と、り、でっ!」
    梢は、強く目を瞑り、歯茎を見せて口を横に広げた。
    「イーッだっ!」
    ソファに置いていた自分のバッグを掴み取り、玄関へ向かう。
    ちゃんと揃えられている雅人の靴を思い切り蹴飛ばし、勢いよくドアを開けて外へ出ていく。
    ドアがバタンと閉まる音が響いたあと、雅人はしばらくその場に立ち尽くしていた。
    「……なんだよ、それ」
    小さく囁つぶやく声が、急に静かになった部屋で虚しく落ちた。

    マンションを飛び出した梢は道路の上で立ち止まり、皺しわくちゃに巻かれた中指の絆創膏に目をやった。
    「手に怪我したんだから雅人が絆創膏巻くもんでしよ、普通……」
    出てきたばかりのマンションを振り返る。
    「今戻ったら、雅人がつけあがるだけだわ」

    そういえば響子に食事に誘われていたのを断って雅人の家に来たんだった。スマホを取り出し響子にLINEを入れる。
    「まだ食事してる? 今から行ってもいいかしら?」
    返事はすぐ来た。
    「やってるよ! 盛り上がってるよ! すぐ来なよ、待ってるから!」
    梢は小さく息を吐いて、夜の街を歩き始める。
    胸のモヤモヤが、少しだけ軽くなる気がした。

     2. 送信できない

    雅人は割れた茶碗を新聞紙に包み、その上からガムテープでぐるぐるに巻いた。
    「俺の家なんだから、ゆっくりしたいって思ってもいいだろう? 何をそんなに怒ることあるんだ? 今日あった出来事とか話したり、休日の予定とか考えたりしてさ……。怒ってばかりいたって、なんにもならないよ」
    雅人はゴミ箱の上に貼られているカレンダーを見る。
    「そういえば、来月始まる映画、梢、楽しみにしてたな。チケット買ったかな? まだ買ってないなら、俺が買っておこうか」
    スマホの時計を見る。
    「それにしても、戻ってこないな。あの怒りなら、自分のマンションに帰っちゃったか」
    雅人は梢のLINEを開き、「『ステップライン』のチケット、もう買っちゃった?」と打ち始めた。
    しかし、送信ボタンの上で指が止まる。
    「いや待てよ。先に謝ってからチケットのこと聞いた方がいいか? ……いや、このまま映画の話から入った方が自然だよな。まあ、今まだ怒ってんなら、明日送信した方がいい?」
    雅人は文字を何度も入れては消し、入れては消しを繰り返した。

     3. レモンサワーと常識の味

    「梢、待ってたよぉぉぉ! どうしたの? カレシと喧嘩けんかでもしちゃったぁぁぁ?」
    賑やかな店内だけど、響子の上機嫌な声は店の入口にいる梢にもハッキリと聞こえた。
    「うん、ちょっとね」
    「お兄ちゃぁぁぁん、この子にレモンサワーねぇ! あ、薄めにね!」
    響子は梢に何飲みたいのか聞かずに勝手に注文する。
    「で、どうしたの? 何があったの?」
    響子、清水さん、近藤さんが梢の方に身を乗り出してくる。
    その圧力に梢は少し身をすくめた。
    「見てよ、これ」
    梢は右手を差し出す。
    「中指怪我したのに、雅人、あたしの介抱もしないのよ! この絆創膏、自分で巻いたんだから」
    「何それぇぇ、信じらんなぁぁぁい」
    「男って、そういう所あるよねぇぇ。あたし風邪で寝込んだとき、おでこのタオル替えるだけだったし」
    「風邪ひいてんだから、黙ってミカンの缶詰買ってこいってぇぇの!」
    「今日だって、響子たちと飲むって知ってんのに『今時間ある?』って訳わかんないLINE入れてくるし」
    梢がスマホに目をやると雅人からのLINEが届いていた。
    「雅人からLINE来てる」
    「おっ! ゴメンって書いてきた?」
    みんなで梢のスマホを覗き込む。
    LINEの『まさと』という文字をタップすると、「『ステップライン』のチケット、買ってないなら俺が2枚買っとくよ」という文字が現れた。
    響子たちは呆れた顔つきになる。
    「これだから男って、なんんんんにもわかってないよねぇぇ」
    「今忙しいから後でって返信しな」
    「ゴメンの3文字も打てないの?って返信しな」
    「映画は職場仲間と見るからって返信しな」
    「それ、最高ぉぉぉ!」
    「どうする? 梢、どう返信してやろうか?」
    梢は大きく頷いてレモンサワーをグイッと飲んだ。
    「あたしの常識が普通じゃないの? って返信するわ」
    響子、清水さん、近藤さんの動きが少し止まった。
    「怪我したのと常識とどう関係あるの? 何それ、ウケる」
    「梢、常識って普通じゃないみたいだよ」
    「あたしの常識は梢の常識じゃないし」
    確かに冷静に考えれば、常識とか普通って人それぞれだ。
    それをあたしは感情任せに雅人にぶつけたってこと?
    胸の奥で小さくざわつく感覚が、レモンサワーの酸味と混ざった。
    「とりあえず今夜は既読スルーにしちゃいな」
    「そうよ。さっきの今なんだもん。スルーしちゃえ」

    (それにしても雅人、『ステップライン』のこと、覚えてくれてるんだ……)

    清水さんが急に声を潜めた。
    「そんなことよりさ、梢が来たからちょうどいいんで言うんだけど、シックスティワン・ホールディングスの件、決まったらしいよ」
    梢の目が一気に色めき立つ。
    「あたしたち、来週から忙しくなるね」
    「じゃあ今日は決起集会ってことね」
    「いいねぇぇ」

     4. 翌朝(1)

    スマホのアラームがけたたましく鳴る。
    雅人はベッドの中からスマホに手を伸ばす。
    「昨晩送ったLINEの返信待ってて、いつの間にか眠ってしまっていたのか……」
    布団を剥はぎ、重い足取りで洗面脱衣室へ向かう。
    洗濯機の脇に置いてある洗濯カゴが目に入った。裏表になった俺のパンツとネットに入れられた梢の肌着が一緒に入っている。
    「結局、梢から返信来なかったな」
    部屋着を脱ぎ、洗濯カゴへ放り込み、浴室に入る。
    シャワーを浴びながら熱い湯にぼんやりと目を瞑る。
    「やっぱり昨日は、映画のチケットの話じゃなかったか。ああいうときは素直に謝るべきだったんだな」
    水音に紛れて、小さくため息が漏れる。
    「この後、『ゴメン』ってLINE送ろう。朝寝坊の梢のことだから、朝イチは忙しいよな。会社行ってから、落ち着いて打つことにするか」

     5. 翌朝(2)

    梢の目が突然パチッと開いた。
    「やだ! 寝坊しちゃった?」
    慌てて枕元にある時計に目をやる。
    「え、まだ6時? あたし、30分も早く起きっちゃった?」
    苦笑をこらえながら布団から飛び起きる。
    清水さんから聞いた、シックスティワン・ホールディングスの件を思い起こすと、胸が自然と小躍りし始める。
    テーブルの上に化粧品を並べ、鏡を見ると晴れやかに笑っている自分が映っていた。
    「これから大変になるなぁ。これ面白くなるやつ……! 絶対面白くなっちゃうやつ!」
    化粧水を付けようとして、右手中指の絆創膏に目が入る。傷も塞ふさがったみたい。
    皺しわくちゃになった絆創膏を勢いよく剥がしながら、ふと昨夜の雅人の顔がよぎった。
    ……まあ、今日中に連絡しようかな。仕事が忙しくなることも言っておきゃなきゃだし。
    すぐに雅人への思いを振り払い、いつもより丁寧に化粧を始める。
    ファンデーションを塗るブラシの感触が、なんだか心地いい。

     6. 下書きのままの昼休み

    会社フロアの照明が一斉に消えた。節電も兼ねて、昼休みを知らせる合図だ。
    まだ、梢にLINEしていない。
    画面には「ごめん、昨日は疲れてて言葉がきつくなった。映画のチケット、どうする?」と、送信ボタンを押さずに残ったままのメッセージ。
    何回も書き直した。もっと丁寧な表現がいいか、フランクにすべきか、謝罪だけにしてみるか、それとも返事来てないことに心配する形がいいか……。
    頭の中でぐるぐると同じ考えが回る。

    職場仲間が心配そうに声をかけてきた。
    「大丈夫か? 昨日のクライアントのクレーム、よっぽどきつかったみたいだな」
    雅人は曖昧に笑って手を振った。
    昨日のクレームなんかより、梢に送るべきこの一文の方が、今の俺にとってはよっぽどきついんだよ。

     7. サブリーダー誕生

    昼休みのチャイムが鳴った。
    響子と清水さん、近藤さんが一斉に梢のそばに寄ってくる。
    「梢、すごいじゃん! シックスティワン・ホールディングスとのプロジェクト、あんたがサブリーダーだなんて!」
    梢は溢あふれ出す笑顔を抑えられない。
    「ねえ、清水さん、あたしがサブリーダーになるって言ってなかったよね?」
    「あたしだって知らなかったわよ、こんな情報」

    会社の朝礼で山崎部長から今回のプロジェクトの体制が発表された。
    岡田さんがリーダー、そして3人のサブリーダーの中に、梢の名前が読み上げられたのだ。

    「いきなり来週から出張? 寂しくなるねぇ」
    「何言ってるのよ。3日間だけの出張よ」
    「今はそうだけど、プロジェクトが進行していったら、出張じゃなくて東京転勤とかになっちゃうんじゃないの?」
    梢の浮き立っている気持ちを、響子たちは揶揄からかいながら明るくもてあそぶ。
    (……雅人には、ちゃんと連絡しなきゃ。でも今は、このプロジェクトが優先だよね)
    梢は小さく笑って、響子たちとランチに出かけた。

     8. ブラウスを洗う日

    週末の休日になった。
    スマホの天気予報は「最高のお出かけ日和」と知らせている。
    ベランダのレースのカーテンから明るい日差しが柔らかく差し込み、遠くから小さい子供のはしゃいでいる声が聞こえる。

    雅人は無精ひげのまま、洗濯カゴに溜たまった衣類を洗濯機の中に移していく。動きはまるで機械のように淡々だ。なんの感情も入っていないようにみえる。
    梢のブラウスを手にした瞬間、指が少し止まった。
    一昨年おととしの誕生日に自分がプレゼントしたものだ。ところどころ小さなほつれが出来ても、梢は自分で丁寧に補修しながらずっと着ている。
    「……まだ着てくれてるんだな」
    小さく呟いて、生地をそっと指でなぞる。
    胸の奥が小さくざわつく。
    雅人はブラウスを丁寧に洗濯機に入れ、蓋を閉めた。スイッチを押すと、低い振動音が響く。

    洗面台に目をやると、梢の歯ブラシがコップに刺さっている。ここ数日、毎朝これを見るたびに同じことを考えていた。
    せっかくの天気だし、少し公園で散歩しながら梢へのLINEの文章を考えよう。
    まだ、梢へのLINEは送れていない。

     9. 一方通行の合鍵、短いメモ

    ベッドの上に何着もの洋服が並べられている。梢は来週の出張に着ていく服を選んでいた。
    「あのブラウス、どこいったっけ? 雅人の部屋に置いたままかな?」
    一瞬、雅人にブラウスのことLINEしようかと思ったが、すぐに思い直した。
    プロジェクトのことは直接話すつもりでいたし、今はそんな余裕もない。
    サブリーダーとして任されるタスクの量は、毎日の通勤電車の中でさえノートパソコンを開かざるを得ないほどだったんだから。
    やっと迎えた週末。今日中に出張の準備を整えておかないと絶対に間に合わない。
    梢は財布から鍵を取り出し、雅人のマンションへ向かう。

    ドアの前に立ったとき、どんな顔をしていいのか、少しだけ躊躇ためらった。
    でもぐずぐずしてられない。ドアノブを回してみると、鍵がかかっていなかった。
    「ただい……ま?」
    そっと開けると、部屋の中は静かで、少し空気が淀よどんでいた。

    ベランダに目をやると、洗濯物が干してあり、目当てのブラウスが風に優しく揺れていた。
    梢はブラウスを外し、畳んでバッグに入れた。
    雅人はすぐ戻るかもしれない。少しなら待つ時間あるよね?

    台所のシンクに自分の茶碗が置いてあるのを見て、ふと胸騒ぎした。
    ……あたしの茶碗を使って食事してるのか。
    軽く水で流して水切りカゴに置いたところで、突然仕事のアイデアが浮かんだ。
    梢はソファに座り、スマホのメモアプリを開いて打ち込み始めた。するとアイデアが次々と出てきて、指の動きがだんだん速くなっていく。

    時計を見ると、すでに1時間近く近く経っていた。
    せっかくプロジェクトのこと、直接話すつもりでいたのに……雅人のバカッ!
    結局、ブラウスのことだけを書いた短いメモをテーブルに置いて、そっと部屋を出た。

    10. 待ち受け画面の書置き

    満員電車の中で吊革に捕まりながら、雅人はぼんやりと外を眺めていた。
    梢が残していった短いメモ——「出張なんでブラウス持っていくね」。
    期間も書いていなかったけど、長くても1週間くらいだろう。
    あの日、公園を散歩しながらLINEの内容を考えていて、帰ってみたら梢の書置きが置いてあった。
    LINEしてくれていたら、すぐに帰宅したのに。慌てん坊の梢らしいな。
    そのメモは、写真に撮ってスマホの待ち受けにしている。
    「出張の準備で忙しくてLINEの返事が遅れてたんだね。気を付けてね」
    と送った。未読のままだけど、忙しいんだから仕方ない。
    出張から帰ってきたら、梢の珍道中の話を聞けるのが楽しみだな。

    ……最初の1週間くらいはそんな風に思えていた。
    でも今は、未読のままのそのメッセージを眺めるたび、胸の奥が少しずつ重くなっていく。
    日を追うごとに、もう一度メッセージを送ろうとすると、指が妙に止まる。
    タイミングを計りすぎていたのかもしれない。
    もっと早く、素直になって、ほんの少し勇気を出せていたら……。

    11. 加速する世界

    梢の毎日が突然加速する。
    スマホの通知が止まらない。メール、LINE、SNSの未読数がみるみる増えていく。
    「何が起きているの?」
    響子が梢に近づいてきた。
    「梢、『プリンツェッセン・ハルト』がすごいことになっているよ」
    響子のスマホには、『日本のプリンは自国より美味うまい! ~プリンツェッセン・ハルトの衝撃~』というタイトルのショート動画が流れていた。
    そういえば、シックスティワンの前で、外国人に声をかけられて自社の『プリンツェッセン・ハルト』を勧めたのを思い出す。

    こんなことがあってから、外国人観光客がシックスティワンに殺到し、日本人の中でも「昔ながらの固いプリン」をレトロに感じる年配層と、「新鮮」と捉える若者層の両方から注目が集まり始めていた。
    全国の店舗で品薄状態が続き、梢は材料調達に追われる。
    自社のプリンがここまで売れるなんて、想像もしていなかった。

    ……さらに何がどう転んだのか、材料調達を担当していた梢が広報業務まで兼務することになった。
    マスコミ各社から「開発の背景やこだわりの原材料について詳しく知りたい」と連絡があったとき、商品の仕入れから味の調整まで一番よく知っているのが梢だった。専任の広報担当がいない小さな部署では、他に適任者がいなかった。

    「お忙しい中、お越しくださりありがとうございます。今日のインタビューはラジオで放送されますので、出来ましたらスマホの電源はお切り頂けますとありがたいです」
    少し草臥くたびれたブラウス姿の梢はスマホの電源を切る。
    目の前に、清楚でありながら洗練された服装を纏まとった女性が現れ、インタビューが始まる。
    梢は必死に率直に答える。感情がそのまま表情や言い回しに出てしまう。

    そして、梢の、かわいらしく裏表のない行動的な振る舞いも、注目を集め始めることになる。
    毎日が目まぐるしくて、雅人のことを考える暇はほとんどなくなっていた。

    12. 圏外通知

    雅人は静かに箸を持つ。
    テーブルの上には肉野菜炒めとご飯、味噌汁が並んでいる。
    近所のスーパーで豚肉が安く売っていたので、豚肉をふんだんに使ってみた。
    缶ビールを傾ける。酒に弱い雅人は、ふた口ほどで顔が赤らんできた。
    スマホを手にして、梢のLINEを開く。未読のままのメッセージは相変わらず既読になっていない。

    「思い切って、電話するか」
    酒の力もあったのかもしない。雅人は意を決して梢に電話を掛けた。
    しかし、冷たい音声が耳に届く。
    「おかけになった電話は、電源が入っていないか、電波の届かない場所にあるため、かかりません。しばらくたってからおかけ直しください」
    電話を切った後も、雅人はしばらくスマホを握ったまま動けなかった。

    梢のマンションに行ってみるか?
    もしかしたら、家にいるかもしれない。
    でも、行ってどうする?
    想像したくもないが、もしかしたら梢は、もう俺のことなんか過去の忘却へと葬り去っているかもしれない……。

    13. 新しい服

    リーダーの岡田さんがコーヒーを飲みながら軽い口調で聞いてきた。
    「あれ? 今日はあのブラウスじゃないの? マスコミ対応のときはいつもブラウス着てたじゃない?」
    梢はいたずらな笑顔を浮かべる。
    「袖のところが擦すれてきていて……思いっきりイメチェンするのもいいかな、なんて」
    梢は、先日のインタビューのとき、インタビュアーの服装を見て「自分も少し変えてみようかな」と思っていた。
    慌ただしい毎日の中で、やっと見つけた時間。次にいつ時間が取れるかもわからない。
    擦り切れた袖口をちまちまと繕つくろうよりも、新しい洋服を買った方が早いと思えた。
    「あたしだって、お洒落くらいしますよ?」
    「うん、かなり印象は変わった感じがするけど、その服も梢に似合っているんじゃないかな。お、もう出かける時間だ」
    「ええ」
    梢の前に一台のタクシーが停まる。
    「それじゃ、行ってきますね」

    14. そして、欠けたままの平日は続いていく

    テレビは好きで点つけているのではない。ただ、部屋の静けさを紛らわすために点けっ放ぱなしにしているだけだ。だから画面を見ることは滅多にない。
    しかし、この言葉が聞こえた瞬間、雅人は思わずテレビにくぎ付けになった。
    「本日のゲストは、スイート・ハーモニー株式会社、大鹿おおしか梢こずえさんです」
    きれいに着飾った梢が、少し高くなったところから階段を下りてくる。途中小さく躓つまづく。その拍子に肩が上がり少し両手が広がる。照れ隠しに司会者に驚いた目を向けて、小さく舌を出す。
    司会者のエスコートを受けながら、メインステージに降り立つ。

    ……無意識にテレビの電源を消した。
    黒い画面に、無精髭を生やした冴えない男の顔が薄っすら反射する。
    その男と目が合ったまま、しばらく動けなかった。

    ようやく立ち上げり、洗面台に向かい、冷たい水で顔を洗う。
    髭をゆっくりと剃り始める。
    視線を落とすと、梢の歯ブラシが、まだ誰かを待つようにコップに突っ立っている。
    雅人はじっと見つめ、静かに手を伸ばしてゴミ箱に落とした。
    顎のあたりに、不器用な剃り残しが一本だけ残っている。
    雅人はそれに気づかないまま、部屋の明かりを消した。
    枕元のスマホが、充電器に繋がれた小さな接続音を鳴らす。
    雅人は横になり、目を閉じた。

    明日もまた、何の変哲もない変わらない平日が続くだけだ。

     
     
    趣味でPython/JS/PHP/GAS/VBAを弄くるコード好きな自転車乗り。仕事の合間に自転車愛をこじらせ「チャリクラ文学」を執筆。かつては峠を攻めるヒルクライム好き、現在は愛車を「盆栽」として愛でる日々。自動化・効率化、時々チャリとカメラ。日常の試行錯誤をゆるりと綴ります。

    あなたへのおすすめ