「次は何を頑張れば正解ですか?」
教育に近しい世界にいると、時々言葉に違和感を覚えることがある。
その言葉が間違っていると思うわけではない。
むしろ大切なことを言っている場合も多い。
ただ、言葉がきれいになればなるほど、本当に何を指しているのか分からなくなることがある。
最近はそんなことをよく考える。
例えば「生徒指導」という言葉がある。
従来は普通に使われていた言葉だが、最近は「生徒支援」という言い方を聞くことが増えた。
背景も分かる。
「指導」という言葉には、管理する、従わせる、といった響きがある。
だから、もっと子どもに寄り添う表現にしたい。
その考え方自体は理解できる。
ただ、そこで少し立ち止まりたくなる。
言葉は変わった。
では、実態も変わったのだろうか。
例えば学校では、
遅刻しない
制服を着る
廊下を走らない
ルールを守る
といったことが求められる。
集団生活をする以上、一定のルールは必要だ。
学校という場を維持するためには必要なこともある。
でも、それなら実際に行われていることは生徒指導ではないのだろうか。
生徒支援という言葉になった瞬間、何をしているのかが少し見えにくくなる気がする。
最近は、生徒支援という言葉を聞くたびに考えることがある。
本当に支援なのだろうか。
もちろん困っている子どもを助けることもある。
環境を整えることもある。
相談に乗ることもある。
ただその一方で、
集団行動を身につける
学校文化に慣れる
ルールを理解する
周囲と歩調を合わせる
ことも求められている。
それも学校の大切な役割だと思う。
ただ、それは支援というより、集団への適応を促す営みとも言えるのではないか。
そんなことを考える。
そう考えた時、主体性という言葉への違和感も少し整理できた気がした。
学校では主体性が大事だと言われる。
通知表にも書かれる。
内申点にも関わる。
主体性は大切だと思う。
自分で考えること。
自分で選ぶこと。
自分で決めること。
そういう力は必要だ。
ただ、実際に学校で評価されている主体性は何なのだろう。
例えば、
自分から提出物を出す
自分から発言する
自分から活動に参加する
自分から協力する
自分からルールを守る
こうした行動は高く評価される。
一方で、
ルールそのものに疑問を持つ
先生に反対意見を言う
みんなと違う選択をする
前提を問い直す
こうした行動が同じように評価されるかというと、必ずしもそうではない。
もちろん学校にも事情はある。
集団を運営しなければならない。
授業も進めなければならない。
安全も守らなければならない。
だから適応力が必要なのも分かる。
社会に出ても同じだ。
組織のルールもある。
周囲との協調も必要になる。
以前、こんな話を聞いたことがある。
周囲からは「主体性がある子」と評価されている子だったらしい。
提出物もきちんと出す。
委員会活動も頑張る。
行事にも積極的に参加する。
先生からの評価も高い。
内申点も高い。
周囲から見れば順調そのものだったそうだ。
ところが、その子がある時ぽつりと言ったらしい。
「自分が何をしたいのか分からなくなっちゃいました」
そして続けて、
「次は何を頑張れば正解ですか?」
と。
その話を聞いた時、少し立ち止まった。
主体性があると評価されることと、
自分が何をしたいのか分かることは、
同じなのだろうか。
もちろん分からない。
その子のことを私は知らない。
話の一場面を聞いただけだ。
ただ、その話は妙に記憶に残った。
その違和感について考えていた時、ある感覚がずっと頭の片隅にあった。
主体性というより、もっと別の何か。
自分で考える力というより、
既にある環境やルールの中で、自ら進んで行動する力。
何をするかは決まっている。
その上で、自分から動けるかどうか。
うまく言葉にはできなかったが、以前からどこかにそんなズレを感じていた気がする。
最近になって、その違和感に名前がついた。
「能動的な適応性」。
妙にしっくりきた。
学校で評価される主体性の多くは、この言葉の方が近いように感じる。
もしそうなら、それはそれで必要な力だと思う。
ただ、それを主体性と呼ぶことには少し違和感が残る。
主体性という言葉から私が連想するのは、
自分で考えること。
自分で判断すること。
必要なら周囲と違う選択をすること。
だから、学校で評価される主体性と、自分がイメージする主体性の間には少し距離があるように感じる。
ここで最初の話に戻る。
生徒支援という言葉に感じていた違和感の正体も、おそらく同じところにある。
支援という言葉から私がイメージするのは、
子どもが自分で選べるようになること。
子どもが困りごとを解決できるようになること。
子どもが自分らしく生きられるようになること。
そんなイメージだ。
でも実際には、
子どもが集団に適応できるようになること。
学校というシステムの中でうまく振る舞えるようになること。
そこにも大きな比重が置かれている。
すると支援という言葉は、
「適応を促す働きかけ」
を包み込む言葉になる。
主体性も同じだ。
「自分で考える力」を意味しているようで、
実際には「自分から進んで適応する力」を指していることがある。
私は生徒指導という言葉に戻したいわけではない。
主体性という言葉をなくしたいわけでもない。
ただ、言葉がきれいになるたびに少し立ち止まりたくなる。
本当に変わったのは何なのだろう。
言葉なのか。
実態なのか。
それとも見せ方なのか。
周囲からは主体性があると評価される。
本人も一生懸命頑張る。
内申点も高い。
それでも、
「次は何を頑張れば正解ですか?」
という言葉が出てくる。
主体性があると評価されることと、
自分が何をしたいのか分かることは、
同じなのだろうか。
だとしたら、私たちはいったい何を育てているのだろう。