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誰にも聞こえない会話【もしもの始まりを、忘れないうちに】

    咲亜ꕤ

    最初は、偽名で呼ばれていた。
    名前を名乗ることが怖かったわけじゃないけれど、出会いのきっかけが、少し構えてしまうものだったから。
    だから私は、本当の名前を、すぐには教えなかった。

    あなたは最初から、本名を名乗ってくれていたのに。

    何度も繰り返される偽名に、自分でも次第に違和感を覚えて、
    "そろそろ、本当の名前で呼んでほしい"
    そう思うようになった。

    本当の名前を教えた日のあなたの顔は、
    少し驚いたような、でも嬉しそうな、不思議な表情をしていた。
    それからは会うたびに、あなたは私の名前を呼んでくれた。

    笑いながら、眠そうに、そっと優しく──
    その全てが、今でも心に残っている。

    もしあの日、名前を教える勇気が出なかったら?
    本当の名前を呼ばれることのないまま、
    すれ違ってしまっていたのかもしれない。

    だけど私は、あなたに本当の名前を呼ばれた日から、
    やっと、ちゃんと誰かと向き合えた気がしていた。

    もしまたどこかで会えたなら、名前で呼んでくれるだろうか。
    それとも、もう呼ばれることはないのだろうか。

    そんなことを、時々考える。

    呼ばれたい。
    できれば、変わらずあの日のままの声で。
    もう一度、名前を呼ばれたなら、
    今度は迷わずに、ちゃんと返事をしたい。

    今も、あなたのその声を、
    私はずっと、耳の奥で待っている。


    …あなたは、今日、何をしてるのかな。
    誰にも聞こえないように、心の中でそっと呟いた。

    連絡先は、探そうと思えば探せるのかもしれないけれど、それはきっと、しない方がいいんだと思う。

    ただ、ふとしたときに浮かぶんだ。
    あなたの好きなカレーを見たときとか、職場近くのカフェの前を通ったときとか。そんなささやかな日常の中で、あなたのことを思い出す。

    別れて2ヶ月後、私が通勤中の事故で、救急車に乗った話を、あなたが聞いたらどう思うだろう。
    事故って言っても意識はあったし、骨折もしなかったけど
    「え、大丈夫だったの!?」って焦ってくれたかな。
    そばにいてくれたわけじゃないのに、そんな想像ばかりしてしまう。


    ——別れたあとの私は元気じゃなかった。
    怪我をして、リハビリをして、仕事では後輩たちに囲まれて、しんどいなって思う日々の中で、ただただ過ぎていく時間に取り残されたようだった。

    でも、あなたのことを責めたいわけじゃないんだ。
    ただ、何かあったときに話せる人がいたあの頃が、少しだけ懐かしくなっただけ。
    私が「聞いてよ」って言うと、最後までちゃんと聞いてくれて、「無理しないでね」って返してくれた。

    ——もしも、あの時もう少しだけ素直になれていたら。
    何気ないLINEの後に、あと一言だけ、ほんの少し踏み込んでいたら。
    たとえば「今日、ちょっと話せる?」って。
    それだけで何かが変わったのかもしれない。
    だけどその「もしも」は、過ぎた時間の向こう側に置いてきた。

    今さら届かなくてもいい。
    でも、あの日の私が、誰かに話を聞いてほしかった気持ちだけは、
    きっと、誰にも否定できないものだったと思う。

    だから私は、今日もまた、心の中だけで尋ねてしまう。

    ——あなたは、今日、何してるのかな。

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    #心に残る言葉


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    あの日、もう少しだけ話せたら。 もう一度、手を握れたなら。 そんな“もしも”を、誰しも心の中に隠して生きている。 誰かともう一度笑って、名前を呼び合って、 心が静かにほどけていく時間を──

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