
福聚海無量
車中泊生活を始めて3年が経った。
朝起きると野宿遍路の頃から使っているイワタニのコンパクトバーナーでお湯を沸かし、インスタントコーヒーを淹れる。
その次にするのは、写経のようなものだ。
ノートを開き、「福聚海無量」と観音経の一節を書く。人々に集まる福寿が海のように尽きないという意味だ。
ポイントは、ボールペンを使うこと。上手く書くことじゃない。
カクカクでもいい。
ただ、丁寧に書く。
これが意外と難しい。
頭では「ここで止めよう」と思っているのに、線は少し行き過ぎる。
「このくらい払おう」と思っているのに、思った以上に伸びてしまう。
意識と身体が、微妙にズレている。
毎朝、そのズレを確認している。
よくある「何をしてもうまくいかない日」は、朝からこのズレが大きい日なのだと、俺は思っている。
身体は急いでいるのに、思考が追いついていない。
あるいは、思考だけが先走って、身体がついてこない。
そんな日は、小さなミスが連鎖する。
人との会話も噛み合わない。
自分ではいつも通りのつもりなのに、何かがズレている。
リゾートバイトでもそうだった。
急いでいるつもりはないのに、食器を置く場所を間違える。
同僚の説明を聞いたはずなのに、気づけば前の職場のやり方で動いている。
普段なら笑って済ませられることなのに、その日は妙に焦る。
焦るから、また次のミスをする。
あとから振り返ると、最初の掛け違えは仕事じゃなかった。
朝、起きた瞬間から自分の認知と身体が噛み合っていなかったのだと思う。
若い頃は、多少ボタンを掛け違えても気にならなかった。
気合いと勢いで何とかなったし、人生そのものが短いからズレも小さい。
でも、そのまま歳を重ねると掛け違えたボタンの上からまた次のボタンを掛けてしまう。
仕事、家庭、お金、人間関係、プライド。
気がつけば、どこで最初に掛け違えたのかわからなくなる。
リゾートバイトの現場では、そんな人達をたくさん見てきた。
掛け違えたボタンの場所が、自分でもわからなくなりモンスター化してしまった人達を。
もちろん俺も他人事ではない。
人生において毎日が選択をするギャンブルだ。
便所掃除をしようが、写経をしようが、サイコロの目の確率は変わらない。
運は変えられない。
でも、サイコロを振る自分の状態は整えられる。
俺にとって写経は、御利益を求めるものではない。
認知と身体のズレを調整するためのものだ。
掛け違えたボタンを引きちぎるのにも力がいる。
ボロボロになった心身で、最後の力を振り絞って引きちぎる。
会社を辞める人。
離婚する人。
旅に出る人。
長年続けた生き方を手放す人。
俺達は、そんな人たちをどこか羨望の眼差しで見ている。
でも本当はその引きちぎる力が羨ましいのでもなく、その自由さが羨ましいのでもない。
自分には引きちぎる勇気がないことを、知っているだけなのかもしれない。
遍路に出たのも。
車中泊を始めたのも。
リゾートバイトを始めたのも。
もしかしたら、同じ理由なのかもしれない。
俺にとって出家とは、掛け違えたボタンを全部引きちぎってもう一度掛け直すことだ。
明日から、いや今日から先の人生で、掛け違えたボタンを引きちぎる機会はそう多くないのかもしれない。
俺の本来の寿命より、健康寿命を考えると残された時間は意外と少ないと思う。
引きちぎる気力も、体力も、いつまでも残っているわけじゃない。
いつか、自分の意思では掛け直せなくなる日が来る。
そして最後に全部を引きちぎるのは、きっと【死】だ。
だから俺は今日もコーヒーを飲んだ後に心身のズレを確認する。
福聚海無量