
エッセイ:砂金が輝く初夏
私はお茶を飲みながら、好きな小説の一編を思い出していた。
その言葉が私を連れていってくれるような気がしてならなかったのだ。
よくある厭世なんかではない。
ただしく、手をとって前に進ませてくれると期待していた。
「幸せとは、川の底に沈んでいる、砂金のようなものなのではないだろうか」
私はその言葉を何度も反芻する。
私が私を幸せと思えないのは、輝かんばかりの幸せこそ幸せと思って疑わず、ちらつくような、だが確実にゆらめいているその輝きに目をやっていなかっただけなのではないかと。
少し濃く淹れすぎたきらいのあるウーロン茶をさらに飲んだ。
自分を酩酊させることで世界から逃げていたこともあった。
だがそんなことは意味がないどころか、酩酊させていることによる状況の悪化というのは目に余るものがあった。
死にたいと叫ぶのもやめた。私が叫びたいことが、本当に死にたいという言葉なのかもわからなくなってしまったからだ。
死を出口だとするなら、
言うなれば、私は今まで出口に向かって駆け出していた。
出口から出てしまえば全ては解放されると信じていた。
それでも生命としての本能が起きてきて、争ったりした。
助けてくれと思った。
それは確かに、私の肉体が死んでいくことへの私からでるSOSだった。
今はどうだろう。出口を見失ってしまったのだ。
私は出口から出たいのか?と立ち止まってしまってから、本当に向かうべき先がわからなくなった。
わからないと思っている間も時間は過ぎていく。
わからないと思っているだけでも、周囲の望む「体さえ生きていてくれれば」は、叶っていく。
体さえ生きていればいい、なんて、2度と思えないだろう。
それは私に対して思うことでもあるし、他人に対しても何度も思ったことがある。
こんなにも心が殺されているのに、体は拘束され、生き続けているなんて、それこそが人間を本当の意味で殺している構図だ、と何度も思った。
じゃあ、死にたい人は死ねばいいと言えるのか?と考えた。
言えなかった。理由はまだ、全然わからない。この矛盾に対する答えは、出てこない。
夏が始まる。
私は夏が大嫌いだった。
理由はよくわからない。影が焼け付くようなその光景が、なんとなく恐ろしい。
海を見て、季節の果物を食べて、冷たいウーロン茶を飲んだ。
まるで、夏の痛みをかき消す鎮痛剤であるかのように、傷口に擦り込み続けた。
単純なものでその日は、曖昧に、夏が好きかもしれないと思った。
青く落ちる建物の影と、それよりも澄んだ晴天を見上げた。
あの時私に、死にたいなら死ねば良いと吐き捨てていたら、その時に終わらせていたら、最期まで夏のことは好きではなかったんだろう。
ただ夏が好きになっただけのこと。
でもそれは確かに、川の底の砂金のような輝きだった。
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