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Photo bynaoko_nomigawa

「田園調布一丁目 コーポ高橋」第一部

    第一部

    一

     1981年(昭和56年)、私は初めて東京に来た。中学1年生だった。

    祖母の葬儀のためだった。九州の片田舎の炭鉱町、大牟田から、福岡空港に行き、飛行機で羽田に降りた。

     9月30日だった。学校から帰ると、たばこ屋をしていた我が家のカーテンは閉ざされていて、何事かと思った。

    恐る恐る扉を開け、カーテンをくぐって居間に行くと、母が泣いていた。父が傍らに居て、口を開いた。

     「ばあちゃんが亡くなったたい。理佐子も東京に行くか?」

    間髪入れず私は「行く!」と答えた。

     母の悲しみを他所に、私は東京へ行けることにワクワクした。

     それが、初めて伯母のアパートを訪れた時だ。

     高速バスで1時間20分、空港に降り、初めて飛行機に乗った。

    初めての飛行機は、乗り込んだだけでもう“都会”だった。首にはスカーフを巻き、カッコイイ制服を着た綺麗な“スチュワーデス”さん。

    そして最新機器に囲まれた座席に着くと、物珍しさで色んなスイッチを押した。

     すると、あの綺麗なスチュワーデスさんが駆け付けてくれた。「お客様、お呼びになりました?」

    私は自分の顔が真っ赤になるのを感じた。

     一時間半のフライトで、あっという間に羽田空港に到着した。

     迎えに来てくれた従兄の仕事仲間の人の車に乗ると、「環八」(とその人は言っていた)に出て、伯母のアパートに向かった。

     車窓から見える景色は、夜ということもあり、行き交う車の白のヘッドライトと赤のテールライトが連なり、とてもキラキラしていた。


     “田園調布”に入ると、閑静な住宅街ということが、子どもながらになんとなくわかった。その時はまだ「田園調布に家が建つ」の意味もよく分かっていなかったかもしれないが、高級住宅地ということは理解していたつもりだ。

     だが、着いた所は2階建てのアパートの前だった。外付けの鉄の階段をコツコツと昇ると、一番奥の部屋の玄関の前に立った。

     少しだけ複雑な思いがよぎった。

     母は沈痛な面持ちだった。私は、そんな母の気持ちを察しつつ、扉の向こうに待っている大好きな「おばちゃん」と「にいちゃん」に会えることへの嬉しさのほうが強かった。

     そして、部屋に入った。

     玄関はめちゃくちゃ狭く、靴でいっぱいになっていた。

     玄関からすぐに台所があり、見慣れた磨りガラスの開き扉の食器棚が置いてあった。

     食器棚の横を部屋に入ると、祖母が横たわっていた。

     おばちゃんとにいちゃんが涙顔で、「よう来たね」と出迎えてくれた。

     八畳間に、やはり見覚えのある箪笥が二竿並んでいて、部屋の大きさには似つかわしくない大きな仏壇が据えられていた。

    そこはもう、“田園調布”ではなく、“九州のおばちゃんの家”だった。 

     八畳間の隣は六畳間の従兄の部屋だったが、その二間は、私と母と一緒に来た九州の伯母と伯父、そして荷物で占められた。

     この二間のアパートに、祖母と伯母と従兄の三人の暮らしが短いながらもあったのだ。


     祖母は80歳をゆうに過ぎて、伯母と一緒に東京に出た。

     そして、東京に移り住んで半年も経たないうちに亡くなった。

    喘息持ちで身体の弱かった祖母は、看護師の伯母に看取られ大往生だった。


     それから6年後、私はその田園調布の二間のアパートに暮らすことになる。

     田園調布一丁目 コーポ高橋。

     私が大牟田を出て、初めて自分で住民票を移した所だ。

    二

     中学、高校と私は、大牟田で暮らしていた。

     中学2年の夏、祖母の新盆で再び東京を訪れた私は、ミュージシャンだった従兄の仕事仲間や友人たちに憧れた。

     私の“日常”にはない、きらびやかな世界。

     そして、中学3年の冬休み、初めて一人で東京に来た。従兄の悪戯で髪型をパンクにされて、渋谷駅に立たされた。度近眼の私は眼鏡を外されて、立ちすくんだ。夥しい人波の中で、通り過ぎる人たちの奇異な視線を感じた。それでも、東京への憧れは消えなかった。

     もう一つ、このとき大きな出会いがあった。従兄のロンドン時代の親友で、「マサ」と呼ばれる人物が突然現れた。  

     伯母と買い物に出かけていた私が、アパートに戻ると、白いコンバースの靴が玄関にあった。
    「誰か来とる」と思いながら、部屋に入ると、一人の人物が従兄と一緒にコタツに入っていた。一瞬、“女性”だと思った。その人物は色白の細身だった。肩まで伸びた天然パーマの髪が印象的で、これまでに私が出会ったことのない“男性”だった。
     ロンドン帰りのせいか、その人は口数は少なく、じっとテレビに見入っているその姿がなんだか私の心を強く捕らえた。しかしこのときはまだ、この人物が自分の運命を決定づける人になるとは、私は知らない。

     その頃、「にいちゃん」と「おばちゃん」は私にとって絶対的存在だった。

     にいちゃんは、その冬休みの終わりに「理佐子も東京に来い」と言ってくれた。

     そして、東京への憧れは、徐々に私の進路も決定づけて行く。

     大牟田では進学校の高校に、私は進学した。その高校は、旧制中学からの進学校で、父の母校でもあった。父は私が自分の母校に進学することを当然のことだと思っていたし、私は両親の期待に応えた。だが、進学した私は、いきなり挫折する。入学直後の実力テストで、数学は零点だった。とりわけ数学が得意だった父は、さすがに落胆した。
     しかし社会が得意だった私を見て、私立文系に進むように助言をくれた。

     そしてその頃、たしか九州では夕方に放送されていた「筑紫哲也」の番組を、父と一緒に食い入るように見ていた。「朝日ジャーナル」の編集長という筑紫哲也の肩書にも、その外見にも私は惹かれた。私は、「ジャーナリストになりたい」と本気で思った。

     そして、中学一年の東京との出会い以来、「東京」への憧れを断ち切れない私の気持ちを察してか、父は「東京の六大学を目指せ」と言った。
     父は戦前、旧制中学時代に陸軍の少年飛行兵となり、そのとき東京の「立川にいた」とも言っていた。

     私は父のその言葉に報いようと努力した。

     高校二年生の夏、母とともにおばちゃんちに遊びに来た。
    「マサ」さんが居候していた。にいちゃんの部屋に当たり前のように“住んで”いたマサさんは、前に会った時より太っていて、外国帰りの空気は消えていたものの、やはり東京の匂いがした。
     にいちゃんとマサさんの会話は、田舎者の高校生には、とても洗練された話に聞こえた。


     おばちゃんの部屋に、母と三人で雑魚寝した。それでも、田園調布のアパートは私にとっては、「東京」という夢の城だった。 

     JALの御巣鷹山の大惨事が起きたのは、ちょうど九州に帰る前日だった。母と私は、そのニュースをテレビで見ていた。怖かった。
    すると、いっしょにその一連の報道を見ていたマサさんが、「ダッチロールしたんだね」とポツンと言った。
    ダッチロール??? そんな小難しい言葉をすらっと放つマサさんが、なんだかカッコよく見えた。

     マスコミに進むにはメディアを学ぶべきだと勝手に信じた私の志望校は、上智大学文学部新聞学科に絞られた。

     高校3年の受験のとき、当然のように伯母の住む田園調布のアパートにお世話になった。

    三

     1987年(昭和62年)2月、私は田園調布に来ていた。

     今度は遊びではない。目的は受験だ。

     受験の前日、にいちゃんが四谷までの道案内をしてくれた。受験の下見だ。

     大牟田ではほとんど電車に乗ったこともない私には、渋谷や赤坂見附での乗り換えだけでも一仕事だった。
     「理佐子、迷ったら、上ば見ろよ。案内標識ば見て行けよ」とにいちゃんはアドバイスしてくれた。

      受験の朝、四谷駅からイグナチオ教会を目的にして上智大学を目指した。線路沿いの土手を横目に、「大学生になったら、ここで本を読むんだ」なんて甘い夢を見ながら立派な大学の門をくぐるとき、どこから来たのか不思議と自信過剰だった私は、当然合格できるものと信じて疑わなかった。

     しかし、見事に落ちた。

     合格発表の日、自信満々で張り紙を見に行くと、私の受験番号はなかった。
     あとは覚えていない。いっしょに来てくれた母やにいちゃんがどんな言葉をかけてくれたのかさえ、覚えていない。
     虚ろな意識で、コーポ高橋まで帰った。どこをどのように帰ったのかわからない。


     重い足取りで鉄階段を昇り、201号室に入った。

     部屋に入ると、慣れ親しんだ線香の匂いと煙草の匂いがした。


     重苦しい空気が流れていた。
     発表を見る前までは、これから始まる大学生活を、そこにいるみんなが夢見ていた。

     だが、現実は違った。

     私は呆然としていた。
     しかし、時は待ってくれない。
     大牟田で吉報を待っている父に、一報入れなければならなかった。
     電話の向こうの父は、「そうか」と一言言った。
     そして、「これからのこつば考えんならでけんたい。まずは、おばちゃんとにいちゃんとよう話し合わんなら」と続けた。
     そしてさらに、「はよ帰って来んか」と付け加えた。
     電話はそれだけだった。


     「家族会議」が始まった。
    にいちゃんは、「理佐子は早生まれやけん、浪人してちょうどよかとぞ、一年くらいなんちゃなか」と切り出した。
    そして、「うちで浪人せんか。うちから予備校に通えばよか」とも言ってくれた。

     その一言で私の気持ちは決まった。
     東京での浪人生活が始まる。

    四

     四月五日、私は上京した。

     大牟田での三月の日々は、嫌な想い出しかない。
     高校の卒業式では、級友たちの多くは、九州内の大学や短大、専門学校への進路を決めていた。
     「東京で浪人すっと?」と嘲笑する友人もいた。

     私が上京する直前、父は持病の肝硬変を悪化させ、入院していた。
     父の主治医から、母と私に話があると呼び出された。
     父の余命宣告だった。

     主治医によると、硬化治療をしている食道静脈瘤がどうしても処置できない箇所があった。
    「長くて一年と思ってください」そう言われた。 
     そして主治医は、「森さんはああ見えて弱い方やけん、ご本人には言わんでください」と付け加えた。
     だが、その直後だった。父と口喧嘩をした母は、かっとなって、叫んだ。「あーたは、あと一年しか持たんとですよ!」
     病室は二人部屋だった。同室の患者さんはいなかった。重苦しい空気が流れていた。
     豪傑で気丈な父が愕然としていた。無表情だったことを覚えている。

     上京の前日の夕方、私はいつものように店の売り上げの計算をしていた。
     一日の売り上げ高を出すために、たばことジュースの自動販売機を開ける。釣銭の十円、五十円硬貨が十分に入っているかを確認し、たばこを補充する。マイルドセブンは切らさないように棚の一番上まで入れた。
     ジュースの自動販売機は、コーヒーが一番売れるので、一本一本満タンになるまで補充する。
    「ガラガラガラガラ カシャッ」自動販売機の音が、寂しく響いた。
    「明日からは、お母さんが一人でせんならでけん。おおごつばってん、大丈夫やろか?」
    気が付くと、自動販売機の前で泣いていた。

     上京の日、父は病院から外出許可をもらい、自宅に帰ってきていた。
     高校二年まで通った少林寺拳法の先生が、車で福岡空港まで送ってくれることになっていた。先生は、にいちゃんの後輩でもあり、またにいちゃんを崇拝してもいた。

     父は、微笑みながら、言った。
    「理佐子さん、辛くなったらいつでも帰って来てよかとぞ」

     父とは、たばこ屋の店先で別れた。父と母と愛犬ランと、店の前で撮った写真が一枚残っている。

     五

     福岡空港は、大牟田の高校生にとっては都会の一部だった。空港独特の匂い、搭乗アナウンスの声、行き交うオシャレな人々。
     いつもなら、はしゃぐ気持ちを抑えきれないが、今日の福岡空港は違う。
     最後に母と「ロイヤル」で食事をした。話した内容は覚えていない。ただ、つるんとした味気ないおきゅうとの味だけは何故か今も覚えている。

     飛行機の時間になり、搭乗口に向かった。母は泣いている。
     手荷物検査を受け、搭乗ゲートをくぐる。私は振り返らなかった。わざとそうしたのではない。私には前を見ることしかできなかった。


     羽田空港には、おばちゃんとにいちゃんが迎えに来てくれていた。
     これから三人の生活が始まる。

     慣れ親しんだコーポ高橋の鉄階段を昇り、“新たな”我が家に着いた。
     とはいえ、自分の部屋はない。おばちゃんとにいちゃんの部屋の一部に居候するのだ。
     勉強机を置くスペースもないので、にいちゃんは、自分のステレオラックの一部を片付けて、私の勉強スペースを空けてくれていた。

     おばちゃんは、私のために来客用の布団を一組用意してくれていた。

     
     
    昭和・平成・令和をまたぐ、東京と大牟田のあいだで揺れ続けた人生を、私小説という形で綴っています。

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