
《連載小説》【迷う光。】 第33章・迷う光。(終)
もうすぐ春。
少しだけ開けた窓。
カーテン越しに入ってくる空気は
まだ少し冷たい。
夕焼けの空の色が部屋を包む。
由紀の心は今も時折ざわつく。
そしてそれを整理するでもなく、
ただ漂う時間が多かった。
岸本への思いは、いつまでも
静かに浮かんでは消える。
でも――
この頃にはもう、
怒りも、戸惑いも、切なさも、
抱えたまま立っていられるようになった。
過去の会話。
笑顔の残像。
断片的によみがえる。
心はまだ、かすかに揺れる。
誰に理解されるものではない。
まだ、少し重い。
そして、少し苦しい。
それを、受け止める。
戸惑いも、憂いも、光も希望も、
全部まとめて抱きしめる。
ひとりになった。
深くそれを感じる。
でも、以前とは違う。
心は落ち着いている。
そんな時間、
そんな自分が愛おしい。
深く息を吸う。
少し整える。
揺れを抱えながらも進むこと――
「こういうのも、悪くない…」
そう呟く。
心にあるのは
優しく温かな小さな光。
誰も気がつかない変化。
でも、それでいい。
*
季節が移る。
じっとりと蒸し暑い毎日。
アイスコーヒーが美味しい。
週末、由紀は一人で映画を観ていた。
気になっていた外国のドキュメンタリー。
レイトショーも、もうすぐ終わると知り
慌てて駆け込んだ。
二十二時過ぎ。
映画館近くの
パーキングを出ようとしたとき、
スマートフォンが震えた。
(こんな時間に誰?)
そう思いながら
ハンズフリーでそのまま電話に出る。
「由紀……? 俺、わかる?」
懐かしい声。忘れるはずはない。
朝も夜も、当たり前のように
やり取りをしていたあの人。
――それでも、一瞬、
誰だかわからなかった。
久しぶりの岸本の声。
以前なら、あれほど嬉しかったのに。
いまは、驚きだけがあった。
嬉しさもない。
怒りもない。
……何もない。
わずかな困惑だけが、残った。
「今更、何のために?」
そう思った途端、岸本が話し始めた。
「前に言ってた仕事の話、覚えてるか?」
覚えている。
最後の頃、会話のほとんどが
仕事の話になっていたあの時期。
岸本は、厄介なトラブルを抱えていた。
どうやら、まだ終わっていないらしい。
電話越しに、
縋るような気配が伝わってくる。
――今さら、私に何を求めているのか。
ひとしきり話し終えた頃、
岸本の声は少し落ち着いていた。
由紀は静かに相槌を打ち、
やわらかく言葉を返す。
「今夜はもう遅いから」
最後にそれだけ伝えて、通話を終えた。
*
数か月ぶりの電話。
通話が切れたあと、
由紀はしばらく静止した。
やがて、ふっと息が漏れる。
――おかしい。
そう思った次の瞬間、
驚くほど自然に、笑いが込み上げてきた。
声が出る。
思っていたよりも、大きな声で。
ひとしきり笑ったあと、
静けさが戻る。
その中で、何かがすっと
ほどけていくのを感じた。
岸本は、確かに私を求めていた。
でも、それは――
私が求めていたものとは、違っていた。
ただ、それだけのことだった。
遅れていた理解が、ようやく追いつく。
その瞬間、胸の奥に
ほんの少し残っていた重たい何かが、
音もなく消えた。
車の外は、深い夜のままだった。
それでも、なぜか視界がやけに澄んで見える。
由紀は路肩に車を寄せ、エンジンを切った。
深く息を吸って、ゆっくりと吐く。
「……寝よう
今日は、ちゃんと休もう」
*
由紀の人生はまだしばらく続く。
もう恋をしない。
とは言わない。
わからない。
もし、次にそんな出会いがあるのなら
やっぱり迷いながら、でも、
今度は同じ方向を見ている人がいい。
そこまで考えて、
由紀は首を横に振った。
「なんてね」
と、呟き笑ってみた。
迷う光。(終)