
承認欲求は宇宙で満たそう
【承認欲求】自らの存在や能力を、他人から認められたいと望むこと。米国の心理学者・マズロー(1908~70年)が唱えた「欲求段階説」のうちのひとつの段階。
昨今、「承認欲求」という言葉のイメージが悪いように思う。
おそらく承認欲求が強いと言われて、喜ぶ人はいないだろう。
つまり、悪い意味で使われている事例が多い。
とはいえ、承認欲求は生きるために必要なものである。
我々が生きるために必要なものは、欲求として現れる。
食欲、睡眠欲、性欲などを考えてみてもわかるように、我々が欲求を避けられないものは、どれも生命にとって必要なものだ。
我々人間に承認欲求があるということから、承認を得ることは、人間にとって生きるために必要なものだということがわかる。
私だって勿論、認められたい。
できれば認められすぎることなく、ほどよく認められたい。
では、そのように人間にとって当たり前である承認欲求は、なぜ悪いイメージを持ってしまったのか。
問題は承認欲求そのものではないのだろう。
その供給元である。
我々は普段、外部から承認を受け取ろうとしている。
職場での評価。
SNSの反応。
友人からの賞賛。
趣味のコミュニティでの立場。
それらは勿論、悪いものではない。
しかし、承認欲求の供給をすべて外部に委託するのは、少々よろしくないかもしれない。
ビタミンやミネラルが不足すると身体に悪影響が出るように、承認は不足すると心に悪影響が出る。
すると人は、本来の目的よりも承認の獲得を優先してしまうのである。
それが生きるために必要だから。
無意識に。
自覚なく。
それが顕著に見られる例のひとつは、インターネットなどで繰り広げられる政治や社会についての議論だろう。
昨今のインターネット上の過剰な批判合戦や、目も当てられないような分断状態は、承認欲求によって本来の目的を見失っているひとつの例であるように、少なくとも私には見えるのである。
発端は純粋な信念だったのだろう。
しかし、本来の「世の中を良くしたい」という気持ち以上に、「自分は正しい側にいる人間であることの承認を得たい」という気持ちが強すぎやしないか、と思えることが多すぎる。
意地悪な言い方をすると、より良くなるための議論をするはずの場が、承認欲求を満たすための場になってしまっているというか。
勿論、これは政治や社会の話題に限らない。教育でも、仕事でも、趣味でも、同じことが起こる。
承認を外部から得ようとすることが無意識のうちに目的にすり替わり、本来の目的を見えなくしてしまうのだ。
私は考える。
承認欲求の供給元を外部に委託するのではなく、自給自足することが必要なのではないだろうか。
とはいえ、どのようにすれば承認を自給自足することができるのか。
そこで鍵になるのは「自分は宇宙の一部である」という感覚であるように、私は感じる。
例えば、時計の中には無数の歯車が入っている。
時計の主役は、あくまでも針だ。
しかし、歯車が一枚でも欠ければ時計は止まってしまう。
我々も似たようなものだと思う。
我々は主役ではないかもしれない。
だが、宇宙という巨大な仕組みの一部ではある。
朝起きる。
仕事をする。
晩ご飯を作る。
道端の花を見る。
そんな小さな行為によって、今日も宇宙の歯車は少し回る。
私はその歯車の一枚だった。
私が今日を生きていたから、今日も宇宙は営んでいる。
これって、承認欲求を満たすことそのものではないだろうか。
勿論、外部からの承認は大切だ。
私も欲しい。できればいっぱい欲しい。
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ただ、それだけを燃料にしていると少し息苦しいかもしれない。
愛読する「KAMINOGE」という雑誌で、これまた敬愛するミュージシャンの甲本ヒロト氏が言っていた。
ほしいのは ”俺いいね!”
他人からの「いいね」ではなくて、自分の中から湧き出てきた「いいね」こそが、本当の意味で承認欲求を満たしてくれるのだろう。
承認欲求がひとり歩きする時、我々は少しだけ自分を大きく見積もっている。
世界はもっと自分を評価すべきだ。
もっと理解すべきだ。
もっと認めるべきだ。
承認欲求がこじれて、自分を過小評価しすぎることもある。
私は取るに足らない人間だ。
代わりはいくらでもいる。
自分を宇宙の中の歯車として考えると、自分は主役ではない。
しかし、欠けてもいい部品ではない。
ただ適切な形で、適切な大きさで、存在している。
承認欲求を満たすというのは、小さい自分を大きくすることではない。
それは、自分を適切な大きさに戻すことなのかもしれない。
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