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家族になりきれないまま、僕たちは他人ではなくなっていった。

    台湾人の夫と、ふたつの家族のあいだで過ごした十五年

    全部はわからない。でも、席はあった。

    夫の親戚の集まりに、自然に連れて行ってもらえるようになるまで、僕たちは十五年ほどかかった。

    その日、台南の食卓には、僕がまだ名前を覚えきれていない親戚がたくさんいた。最初に夫が小さな声で説明してくれる。

    「あれが誰々のお姉さんで、こっちがその子どもで……」

    僕はその場では、なるほど、と思う。
    でも、料理が運ばれ、誰かが席を立ち、別の誰かが入ってきて、会話が始まる頃には、もう半分くらいわからなくなっている。

    会話は、しばらくすると台湾語になった。

    僕は中国語なら、だいたいわかる。でも台湾語になると、急に会話の外側に立つ感じがある。

    誰かが何かを言う。
    みんなが笑う。
    僕は一拍遅れて、夫の顔を見る。

    説明してくれることもある。
    でも、小さな冗談のときは、そのまま会話が流れていく。

    僕は箸を持ったまま、とりあえず少し笑う。

    全部はわからない。

    でも、僕にはそこに座る席があった。

    その席は、何もかも分かり合えたから用意された席ではなかったと思う。僕がその家族の中で、完全に同じ距離にいるという意味でもなかった。

    僕は、夫の家族にとって「長男の嫁」ではない。
    台湾語で親戚の冗談にすぐ返せる人でもない。
    夫の子どもの頃を知っている人でもない。
    家族の昔話に、最初から登場していた人でもない。

    それでも、席はあった。

    料理をすすめられる。
    もうお腹いっぱいだと言っても、何かしら皿にのせられる。
    帰りには、乾燥しいたけや冷凍のちまきや、台北でも買えそうなものまで袋に入れられる。

    冷凍のちまきはちょっと重い。
    そう思いながら、結局いつも受け取ってしまう。

    家族になるというのは、もしかすると、こういう小さなことの積み重ねなのかもしれない。

    席があること。
    食べるものをすすめられること。
    いらないと言っても、帰り際に何かを持たされること。

    ただ、それを「家族になれた」という、きれいな話だけにするのは少し違う気がしている。

    家族には、温かさだけではなく、気まずさもある。
    言えなかったこともある。
    聞かれなかったこともある。
    分かり合えないまま残っている距離もある。

    僕と夫は、台湾で同性婚をしている。

    でも、家族になるということは、役所で手続きをした日だけで完了するものではなかった。少なくとも、僕たちにとってはそうだった。

    東京で出会い、一緒に住み、家を買い、離れて暮らし、会えない時間を過ごし、また生活をつなぎ直してきた。

    その間に、僕の家族にも、夫の家族にも、少しずつ僕たちの関係が伝わっていった。

    言葉にしたこともあった。
    言わないまま、伝わっていったこともあった。
    聞かれて、答えたこともあった。
    誰も何も言わないまま、席だけが用意されていたこともあった。

    僕たちは、家族になりきれないまま、少しずつ他人ではなくなっていった。

    言わないまま、伝わっていった。

    僕の家族には、いわゆるカミングアウトらしいカミングアウトはなかった。

    「僕はゲイです」
    「この人と付き合っています」

    そうやって、家族の前に座って話した記憶はない。

    大学生になって東京で暮らし始めてから、自分がゲイだと気づいた。
    でも、そのことをすぐ家族に伝えなければならないとは思わなかった。

    僕たちは2009年、東京で出会った。
    その年の年末には、彼を兵庫の実家にも連れて行ったと思う。もちろん、そのときは「彼氏です」と紹介したわけではない。

    東京で仲良くしている台湾人の友達。
    たぶん、そんな感じだった。

    最初に気づいたのは、妹だったのかもしれない。

    2010年、僕は就職し、妹と一緒に東京で暮らしていた。途中から、夫もその家にいる時間が増えていった。妹のパピヨンのココちゃんもいたので、しばらくは三人と一匹の生活だった。

    ある日、僕と夫が自宅でかなりくっついて座っていたことがある。

    ソファだったのか、床だったのか、そこまではもう覚えていない。
    ただ、家の中の気の抜けた時間だったことは覚えている。

    それを見た妹が、冗談っぽく言った。

    「そんなベタベタくっつかんといてよ」

    その瞬間、ほんの少しだけ空気が止まった。

    何か返さなきゃと思ったのかもしれない。
    笑ってごまかしたのかもしれない。
    何も言わなかったのかもしれない。

    妹も、言ったあとで何かを感じたのだと思う。

    それ以来、そのことを直接聞かれることはなかった。
    僕も、あえて説明しなかった。

    でも、妹はたぶん気づいていた。妹と姉と母は仲がよかったので、三人の間では、僕がゲイかどうかというよりも、僕とその台湾人の彼が付き合っているらしい、という認識が少しずつ共有されていったのだと思う。

    僕の家族では、大事なことほど、はっきり言葉にしないまま伝わっていくことがあった。

    それは優しさでもあった。
    同時に、曖昧さでもあった。

    問い詰めない。
    でも、見ていないわけではない。
    何も言わない。
    でも、気づいていないわけでもない。

    この沈黙に、僕はたぶん助けられていた。
    でも同時に、沈黙は沈黙でもある。

    何をどこまでわかってくれているのか、僕にもわからなかった。

    家族の優しさは、いつもわかりやすい言葉で来るわけではない。

    ときどき、気づかないふりの形をしている。
    何も聞かないという形をしている。
    いつも通りにご飯を食べる、という形をしている。

    父には、話す機会がなかった。

    夫と付き合い始めた頃、父はもう亡くなっていた。もし父が生きていたら、僕はどう伝えていただろう。

    言いにくかったかもしれない。
    言えないまま、時間だけが過ぎていたかもしれない。
    あるいは、母や妹たちと同じように、いつの間にか気づいていたかもしれない。

    それはもう、わからない。

    家族に言えたことばかりが、家族の物語ではない。
    言えなかった相手がいることも、たぶんその一部なのだと思う。

    家を買ったことで、関係が見え始めた。

    2013年、僕たちは東京でマンションを買うことにした。

    僕はまだ社会人3年目で、25歳くらいだった。正直に言うと、その年齢で家を買うことに、そこまで現実感があったわけではない。

    夫は僕より10歳上で、家を持ちたい気持ちがあった。
    僕はその勢いに乗った部分もあったと思う。

    不動産屋のテーブルに座り、何枚もある書類に名前を書く。説明を聞いて、印鑑を押して、また名前を書く。その一つひとつが、急に大人の生活の中に放り込まれたようで、どこか現実感がなかった。

    日本では、僕たちは結婚できなかった。

    だから、家を買うことは、僕たちなりの家族になる手続きのようなものだった。

    もちろん、売買契約書は婚姻届ではない。
    それでも、あの書類に二人で名前を書いたとき、僕たちは少なくとも、自分たちの生活を自分たちで引き受けようとしていた。

    家を買うということは、二人だけの出来事ではなかった。

    僕の家族にとっても、夫の家族にとっても、それは僕たちの関係を少しはっきりさせる出来事になった。

    僕の家族には、言わないまま伝わっていた関係が、家を買うことでさらに見える形になった。

    そして、夫の家族にとっても、それは大きな問いになった。

    夫は台湾の台南出身で、家族はとてもまじめで堅実だった。
    夫は長男だった。

    そんな家族にとって、30代後半に差しかかった息子が、日本人の友達と一緒に東京でマンションを買うという話は、たぶん簡単には理解できなかったのだと思う。

    なぜ友達と家を買うのか。
    なぜ自分一人の名義ではないのか。
    なぜそこまで生活を共有しようとしているのか。

    夫と両親は、そのことで少し揉めた。

    ちょうど夫と両親が三人で旅行していた時期だったと聞いている。旅行中なのに、その話をきっかけに、しばらく冷戦のような空気になったらしい。

    僕はその場にいなかった。

    だからこれは、夫から聞いた話の中にあるホテルの部屋の記憶でしかない。

    しばらくして、両親が夫をホテルの部屋に呼んだ。
    ベッドと椅子に三人で座ったのだと思う。
    旅行先のホテルの、少し乾いた照明の中で、両親は夫に聞いた。

    「彼と付き合っているのか」

    あるいは、もっと生活に近い言い方だったのかもしれない。

    「ただの友達ではないのか」
    「だから一緒に家を買うのか」

    夫は、はっきり聞かれたら答えようと思っていた。
    だから、「そうだ」と答えた。

    その場で、劇的な会話があったわけではない。抱き合って泣いた、というような話でも、大きな言い争いでもない。

    その日は一度そこで終わり、翌日また話すことになった。

    翌日、両親は夫に言った。

    「そういうことなら、わかった」

    そして、家を買うことを受け入れてくれた。

    僕はその話をあとから聞いた。だから、夫の両親がその夜に何を話し合ったのか、どんな顔をしていたのか、正確にはわからない。

    でも、翌日にそう言えたということは、たぶん二人の中では、もっと前から何かを考えていたのだと思う。

    家を買うという、とても現実的な生活の話から、僕たちの関係は夫の家族の前に出た。

    そこが、いかにも夫の家族らしかった。

    時間をかけて考え、必要なことは正面から聞き、受け止めると決めたら、きちんと受け止める。

    僕は、そのまじめさに救われたのだと思う。

    ただ、それで突然、僕が夫の家族の一員になったわけではなかった。

    その日から、僕は「ただの友達」ではなくなった。
    でも、すぐに「家族」になったわけでもなかった。

    家族になろうとしたあと、僕たちは離れた。

    家を買ったあと、僕たちは別々の国に住むことになった。

    2015年、僕はシンガポールに赴任した。仕事としては迷いがなかった。でも、生活としては簡単ではなかった。

    東京には、一緒に買った家があった。
    そこには、一緒に暮らしていた人がいた。
    僕の家族にも、夫の家族にも、僕たちの関係が少しずつ見えるようになっていた。

    その直後に、僕はひとりでシンガポールへ行くことになった。

    夫はしばらく東京のマンションに住み、その後、台湾に生活の拠点を移した。そこから、僕たちは台湾とシンガポールの遠距離になった。

    遠距離恋愛、と言えばそうなのかもしれない。
    でも僕の感覚では、少し違っていた。

    気持ちとしては、既婚者の単身赴任に近かった。
    ただ、どこにもその名前はなかった。

    そこに、コロナが来た。

    国境が閉じた。
    台湾には外国人が入れなくなった。
    まだ僕たちは結婚もできていなかった。

    飛行機を調べても、あまり意味がなかった。
    ビデオ通話の画面の向こうに、夫の部屋があった。
    でも、そこへ行くことはできなかった。

    最大で、二年四か月ほど会えない期間があった。

    このまま会えない時間が続いたら、僕たちはどうなるのだろうと思った。

    最終的に僕は、会社を辞め、仕事を変えた。

    それはキャリアチェンジでもあった。
    でも同時に、家族をつなぎ直すための選択でもあった。

    2022年の夏頃から、ようやく台湾と日本を行き来する生活が始まった。

    全部が一つの場所に収まるわけではなかったけれど、それでも少しずつ、生活をつなぎ直していった。

    離れていた時間も、会えなかった時間も、仕事を変えたことも、移動が増えたことも、全部、僕たちが他人ではなくなっていく時間の一部だった。

    結婚祝いなのに、相手はいなかった。

    母が、小さな結婚祝いをしてくれたことがある。

    2015年、僕がシンガポールに赴任する前だったと思う。夏だったのか、秋だったのか、記憶は少し曖昧だ。ただ、兵庫の実家に帰っていたことは覚えている。

    そのとき母が、ふいに言った。

    「あんただけ、結婚祝いしてへんのは、かわいそうやから」

    正確な言い方は少し違ったかもしれない。
    でも、たぶんそんな意味のことだった。

    僕はそのとき、日本では結婚していなかった。
    台湾でも、まだ結婚できていなかった。
    そもそも、夫はその場にいなかった。

    結婚祝いなのに、相手はいなかった。

    今考えると、少し不思議な場面だと思う。

    母はケーキを買ってくれた。
    昔の家族写真を何枚か印刷して、そろえてくれた。
    ご祝儀も用意してくれた。

    大げさな式ではなかった。
    親戚を呼んだわけでもない。
    結婚証明書があるわけでもない。
    写真の中に夫が写っていたわけでもない。

    それでも母は、僕の人生にも、何かの節目を置こうとしてくれたのだと思う。

    兄にも、姉にも、妹にも、結婚の節目があった。
    僕だけ、それがない。

    ただ、母はわかっていた。

    僕の人生には、大切な人がいる。
    その人と一緒に暮らしている。
    家を買って、生活を作ろうとしている。
    そして、他のきょうだいたちにはあった節目が、僕には用意されていない。

    だから母は、自分にできる形で、僕のために小さな形式を作ってくれた。

    それは制度の代わりにはならない。
    法律の代わりにもならない。
    夫がその場にいなかった以上、二人の祝いとしても、どこか不完全だった。

    でも、不完全なまま、たしかに温かかった。

    僕はそのことを、今でも大切に思っている。

    「そういうのじゃなくて!」

    ただ、家族の中で受け入れられているからといって、すべてが簡単になるわけではない。

    あるとき、妹の娘、つまり僕の姪っ子に聞かれたことがある。

    まだ幼稚園か、小学校に入ったばかりくらいだったと思う。家族の中の大人たちの関係を、少しずつ理解し始める年頃だった。

    その中で、彼女は僕に聞いた。

    「なんでおじさんだけ結婚してないの?」

    僕は、できるだけ自然に答えた。

    「僕も結婚してるよ。僕のだんなさん、会ったことあるでしょ」

    すると姪っ子は、少し困ったように言った。

    「そういうのじゃなくて!」

    その場にいた大人たちの顔が、少しだけ固まった気がした。

    誰も姪っ子を責めなかった。
    彼女に悪気はなかったと思う。
    むしろ、彼女は自分が知っている「結婚」という言葉を、ただそのまま使っただけだった。

    でも、その一言は僕の中に残った。

    家族の中で夫の存在が自然に扱われていても、子どもの中にはすでに「結婚は男の人と女の人がするもの」という前提が入っている。

    誰かが強く教え込んだわけではないかもしれない。
    でも、大人が何も言わなくても、子どもは社会の空気を覚えていく。

    母のケーキと、姪っ子の一言。

    その二つは、矛盾しているようで、同じ家族の中にあった。

    一方には、僕の人生にも節目を置こうとしてくれた母の優しさがある。
    もう一方には、結婚や家族についての社会の前提が、小さな子どもの言葉として現れた瞬間がある。

    家族は、社会から切り離された安全な場所ではない。

    家族の中にも、社会の言葉は入ってくる。
    普通という名前の前提も入ってくる。
    制度があること、ないことの影響も入ってくる。

    だから、家族に受け入れられたというだけで、すべてが解決するわけではないのだと思う。

    長男の嫁にはなれない。

    僕は、夫の家族にとって、長男の嫁にはなれない。

    この言い方が正しいのかどうかは、少し迷う。

    僕は男性だし、そもそも「嫁」という言葉に自分を当てはめたいわけでもない。夫の家族も、僕にそんな役割を求めているわけではないと思う。

    でも、台湾の家族、とくに親世代の家族の中で、長男という存在には、きっといろいろな期待があったはずだ。

    結婚すること。
    家族を持つこと。
    親戚の集まりに参加すること。
    親を安心させること。
    家の中で、何かを受け継いでいくこと。

    僕は、その場所にはうまく入れない。

    子どもを産むわけではない。
    台湾語で親戚の会話を全部受け止められるわけでもない。
    家族行事の細かな作法を、最初から知っているわけでもない。
    夫の子どもの頃を知っているわけでもない。

    台南の親戚の集まりに行くと、そのことをときどき感じる。

    誰かが夫の小さい頃の話をする。
    みんなが笑う。
    僕は、夫の顔を見て、あとで少し説明してもらう。

    その話の中に、僕はいない。

    当然だ。
    僕はその時代を一緒に過ごしていない。
    夫が子どもだった頃、僕は日本の兵庫で、別の家族の中にいた。

    だから、夫の家族の中に入っていくということは、最初からそこにあった思い出の中に入ることではない。

    途中から、席を一つ足してもらうようなことだったのだと思う。

    そして、その席は、どこか少し不思議な席でもある。

    僕は、親戚から見ると、息子の親しい友人のようでもある。
    日本から来る、年下の、少し中国語を話す人。
    家族の食事にいる人。
    でも、昔からの親戚ではない人。

    一方で、もうただの友達でもない。

    夫の両親は、僕たちの関係を知っている。
    親戚の集まりにも連れて行ってくれる。
    帰りには、いろいろなものを持たせてくれる。
    夫の近況と同じように、僕のことも気にかけてくれる。

    ただの友達なら、たぶんここまではしない。
    でも、わかりやすい家族かと言われると、それも少し違う。

    この中途半端さを、昔の僕なら少し寂しく感じたかもしれない。

    でも今は、その中途半端さを、必ずしも悪いものだとは思わなくなった。

    長男の嫁にはなれない。
    でも、ただの友達でもなくなっていく。

    親戚の会話を全部はわからない。
    でも、食卓には座っている。

    昔話には登場しない。
    でも、これからの出来事には少しずつ登場していく。

    それくらいの距離の中で、僕は夫の家族と関係を作ってきた。

    僕の家族にとっての夫も、たぶん似ている。

    夫は、僕の家族の中で昔からいる親族ではない。
    兵庫の実家で育ったわけでもない。
    僕の子どもの頃を知っているわけでもない。

    家族の集まりにいれば自然にそこにいる。
    でも、どこか少し外から来た人でもある。

    僕と夫は、それぞれの家族の中で、完全に同じ場所には立っていない。

    でも、十五年をかけて、僕たちはそれぞれの家族の中で、少しずつ他人ではなくなっていった。

    そのことを、今はそんなに小さなことだとは思わない。

    ふたつの家族は、ひとつに混ざらない。

    ふたつの家族は、ひとつに混ざったわけではない。

    日本の家族と、台湾の家族。
    日本語と、中国語と、台湾語。
    兵庫の実家と、台南の食卓。

    両家が頻繁に連絡を取り合うことはない。
    お互いの言葉も通じない。
    何かを直接相談することも、ほとんどない。

    でも、接点がなかったわけではない。

    夫の両親が日本に来たとき、兵庫の実家に泊まったことがある。
    みんなで食事をした。
    会話は、僕か夫が間に入って通訳した。

    たぶん、すべての会話がなめらかにつながったわけではない。

    誰かが話す。
    僕が訳す。
    夫が補足する。
    母がうなずく。
    夫の両親も、少し笑う。

    会話には、いつも少し遅れがある。
    言葉がひとつ別の言葉に移るまでの、短い間がある。

    その間に、少し空気が止まる。

    でも、それでも食事は進む。
    お茶を注ぐ。
    料理をすすめる。
    写真を撮る。
    また誰かが何かを言う。

    なめらかではないけれど、そこにはたしかに時間があった。

    両家が直接つながっているわけではない。
    でも、互いの存在を知らないわけでもない。

    夫の両親は、僕の母の体調を気にかけてくれることがある。
    母も、夫のことを、僕の人生にいる人として自然に話す。

    それは大げさな交流ではない。
    でも、完全に無関係な人たちではなくなっている。

    僕たち二人を通じて、ふたつの家族は、ゆるやかに相手の存在を知っている。

    家族同士が、ひとつの大きな輪にならなくてもいいのかもしれない。
    全員が同じ言葉で笑い合えなくてもいい。
    同じ距離で親しくならなくてもいい。

    それでも、何かが起きたときに、相手の存在を思い出せる。

    それくらいの関係。

    でも、その「それくらい」が、僕にはとても大きい。

    他人です、と言うには、時間を過ごしすぎた。

    家族になった、と言い切るには、まだ少し大げさな気がする。

    でも、他人です、と言うには、あまりにも一緒に時間を過ごしすぎた。

    僕と夫の十五年を振り返ると、家族という言葉は、何か完成した形の名前ではないのかもしれないと思う。

    分かり合えない部分がある。
    言えなかったことがある。
    聞けなかったことがある。
    期待に応えられないことがある。
    同じ距離にはなれないことがある。

    それでも、何かが起きたときに、他人ではないように振る舞おうとする。

    お祝いごとがあれば、少しでも祝おうとする。
    体調が悪いと聞けば、気にかける。
    困ったことがあれば、直接ではなくても、誰かを通して様子を知ろうとする。

    それくらいのことなのかもしれない。

    でも、その「それくらい」が、実はとても大きい。

    僕たちは、わかりやすい家族にはなれなかった。

    台湾では夫夫になれたけれど、それで家族のすべてが完成したわけではなかった。
    ふたつの家族は、ひとつに混ざったわけではない。
    僕は夫の家族の中で、どこか外側にいる。
    夫も僕の家族の中で、少し外から来た人のままだ。

    でも、十五年をかけて、僕たちは少しずつ他人ではなくなっていった。

    僕たちは、家族になりきれないまま、他人ではなくなっていった。

    たぶん、これからもそうなのだと思う。

    次に台南の食卓に座るときも、僕は台湾語を全部は聞き取れないかもしれない。
    親戚の関係も、また途中でわからなくなるかもしれない。
    誰かの冗談に、一拍遅れて笑うかもしれない。

    帰り際には、また何かを持たされる気がする。

    乾燥しいたけかもしれない。
    冷凍のちまきかもしれない。
    台北でも買えそうな、でもなぜか断りきれない何かかもしれない。

    その袋を持って帰るとき、僕はきっとまた思うのだと思う。

    全部はわからない。
    でも、ここに席はある。

    日本の実家に帰れば、母は夫の近況を聞くかもしれない。
    兄弟姉妹は、特に大げさに何かを言うわけでもなく、いつものように話すのだと思う。

    両家が直接つながることは、これからも多くないかもしれない。
    言葉も、距離も、文化も違うままかもしれない。

    それでも、何かが起きたときには、きっと誰かが誰かを気にかける。

    家族という言葉に、もし完璧な形があるのだとしたら、僕たちはまだそこにはいない。

    でも、完璧ではない形のまま、僕たちは十五年を過ごしてきた。

    その時間は、僕の中に残っている。
    夫の中にも、たぶん残っている。
    ふたつの家族の中にも、少しずつ残っているのだと思う。

    家族は、幸せな場面だけでできているわけではない。

    沈黙もある。
    距離もある。
    言えなかったこともある。
    分かり合えなかったこともある。
    少し気まずいまま、なかったことにした会話もある。

    それでも、人生の中で、誰かを完全な他人として扱えなくなっていく時間がある。

    僕たちにとっての家族は、たぶんその時間のことだった。

    そして今もまだ、僕たちはその途中にいる。

    #創作大賞2026 #エッセイ部門

     
     
    台湾人の夫と、日台夫夫、LGBTQ+、台湾、仕事、家族のことをゆるやかに綴っています。 ▼創作大賞2026「台湾では夫、日本では他人。同性婚のあとに続いた、僕たちの生活」 https://note.com/ichijoshin/n/nbcf9f501c284

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