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Love Stories | 羽の抜けた黄色い小鳥

    あらすじ

    これは、残った記憶の断片。

    死ぬほど好きだった人。
    結婚ラインで選んだ人。
    いつもすぐに来てくれた人。

    ボストンバッグの傷。
    着なかったウエディングドレス。
    有栖川公園。
    ハチマキ。

    どうして人を好きになるのか、わからない。

    恋愛、結婚、離婚、仕事、家族。
    人生の中で誰かを好きだった記憶。
    「人を好きになる」ということを見つめた恋愛小説。


    第一章:ボストンバックの傷

    「またいつか」

    彼の言ったその五文字が、私の世界のすべてを繋ぎ止める細い糸だった。

    高度一万メートル。飛行機の窓の外には、何十にもかさなった白い雲が広がっていた。ときおり、雲海が太陽の光を跳ね返して眩しく輝いている。

    数日前、やっと休暇をとった。送迎バスをおり、彼が待つ搭乗口出口にむかって歩く。

    搭乗を待つ人ごみの後方に、見慣れた彼の姿が見えた。
    「あれ? 誰かと一緒にきたのかな?」

    彼は一人ではなかった。 彼の隣には、少し小太りで、ポニーテールの女の人が立っていた。私は、その人を知っていた。

    すごく冷たい空気を吸ったときのように、私の胸は縮まった。

    「おかえり」
    「疲れたでしょ、荷物持つよ」
    彼が言って、手をだした。

    何がなんだかわからない私に、脳が「笑え」と命令した。
    「ありがとう」

    「・・・こんにちは」
    と、隣に立つ彼女に挨拶をしていた。

    その時、私の視線は、彼女の手元に落ちた。革製の茶色いボストンバッグを持っていた。見覚えがあった。

    ある時、彼が同じバッグの側面に、細いひっかき傷のようなものをつけてしまい、「あ、これ。……借りてきたものなんだけど、どうしよう。傷、ついちゃったかな」と、私の前でひどく狼狽していた。

    その時は気にしなかった。
    たいてい見えないふりをして、つかめない違和感をやり過ごす。

    「彼女と、あのあとずっと一緒にいたんだね」
    別れる時、私は言った。

    彼の表情とボストンバックが、すべてを語っていた。

    最後の彼の言葉は、未来の約束のように聞こえた。
    「また」は、どれくらい先なのか。「いつか」は、本当に来るのか。
    その答えを出すことを私は拒んでいた。

    たくさん泣いた。
    裏切られたからなのか。見抜けなかったからなのか。
    それとも、最後まで冷静に受けて止めてしまった自分に対してなのか。
    たぶん、その全部だった。

    どれだけ時間が経っても、その「いつか」が訪れることはなかった。


    第二章:『ヴァンサンカン』の女の子

    パントリーの隣にある休憩室で、その子は、当たり前みたいに、いつも『25ans(ヴァンサンカン)』を開いていた。

    高級ブランドのバッグや服、つやつやで、カールのきいたロングヘア。流行りの店のジュエリーをつけ、おしゃれなオーガニックレストランで微笑むモデル。誌面のどこをめくっても、生活の匂いより、選ばれた世界の匂いがした。

    若いころの私は、その雑誌が嫌いだった。いや、本当は嫌いだったわけじゃない。正直に言えば、そこに映る世界にすごく憧れがあった。

    「そんなの見てても、買えるわけないじゃん」
    「買えないのに、みてても面白くないよ」

    その子は、ページから目を離さずに言った。
    「買えなければ、買ってもらえばいいよ」

    「・・・」
    私は一瞬、声がでなかった。

    別の日も、その子は同じ雑誌を見ていた。
    新しい号だった。私は横からのぞいて、すぐに目を離した。
    私は、自分の力で買えなければ、人生に意味ないじゃん、と、本気で思っていた。

    その子は、綺麗で、そして優秀だった。結婚して、大きな家に住んだ。

    時代が過ぎ、いろんな体験をした。あの頃、雑誌の中にあったものが、今は目の前の小さな画面に映っている。

    「こっちのサイトで買った方が安いよ」
    「へー、高そうなのにね、でも、こっちの似たやつでもいいよ」
    隣のテーブルでブレザー姿の高校生が話をしている。胸元に制服のリボンがめだつ。メイクをしているらしく、グロスリップがひかり、ネールもゴージャスだった。

    ずいぶん時代は変わったな。

    今は、手に入れることも、比べることも、前よりずっと簡単で、現実的になった。

    ある日、ヴァンサンカンのその子は、会議ぎりぎりに現れたことがあった。
    上司が少しあきれた顔で聞いた。

    「どうしたの?ぎりぎりじゃない」
    「このマニキュアが、なかなか乾かなかったんですよ、すみません」と、指をみせた。

    えっ、マニキュア・・・
    ありえないでしょ。

    その頃の私にとってのヴァンサンカンは、着飾るための雑誌ではなく、それが自分の力で手に入れることができる世界であるかどうかが、すごく重要だった。

    でも、その子にとっては、誰のチカラだろうが、そんなことは関係なく、ヴァンサンカンの世界そのものが彼女自身だった。だから、いつでもその世界にいたし、ぶれなかった。

    初めて、強いと思った人だった。


    第三章:格好いい関係

    大島紬の黒い格子柄の着物に、えんじ色の半襟に小花の刺繡、銀色の光沢のある帯をしめて、ホテルのロビーで待っていた。めいっぱい、シックに、色気いっぱいに。

    二十代の私は、年上が好きだった。大人ぶっていたとも思う。少し余裕があって、こちらの幼さをやさしく受け流してくれるような人。何かを多く語らなくても、ただ一緒にいられるだけで満たされている、そんなふうに見える恋愛に憧れていた。

    私も、そういう女の人になっているつもりだった。一緒にいられる時間だけで、満足しているかのようにふるまった。彼に会って、同じ時間を過ごして、それだけで十分、みたいな顔をしていた。

    ある日、彼が仕事の話をしていたことがあった。
    「上司と意見が合わなくて、会議でも腹が立つことが多いんだ」

    私は、うなずきながら
    「大変だね」
    と言っただけだった。

    彼と私は、特にお互い不満を言うこともなく、いつも通りだった。
    「うまくいっている」と思っていた。何も起こらないことに満足していた。

    私は彼に、あまり質問をしなかった。

    どうしてそれが好きなのか。どんなことで感動するのか。泣いたり、傷ついた経験や、何を大事にしていて、何を許せないと思っているのか。どんな未来を望んでいるのか。

    彼の好きな食べ物、癖、クローゼットに並ぶ洋服の趣味、そういう見えるデータは把握していたけれど、彼の心のうちにある想いを、知ろうと思ったことは一度もなかった。

    私は、彼に興味があったのだろうか。

    「つきあっている」という状態、この人が私の彼氏なんだ、と言えること。その事実だけを、私は見ていた。

    気づいてみたら、彼のことを、あまり知らなかった。

    私は、自分のことを好きかどうかばかりが気になっていた。

    「今日の服装、どう思う?」
    「また明日も電話くれる?今度はいつ会えるのかな」

    彼が私をどう見ているか。
    どれくらい必要としているか。
    別れたいと思っていないか。
    私はずっと、私のことばかり考えていた。

    恋愛というのは、相手のことを全部理解することだと、頭では思っていた。
    でも実際にやっていたのは、相手の気持ちを測ることに一生懸命だった。

    その頃は、ただ、一緒にいるだけで満足しているように見せるのが、格好いいと思っていた。

    「何を考えているのか、よくわからないことがあるよ」
    「そんなこと言われたって、私だってわからない」

    彼の言葉に、少しだけ傷ついた。

    今なら分かる。 私は、自分の考えを伝えていなかった。正確に言えば、「伝える必要がある」と思っていなかった。一緒にいられることが、そのまま理解だと、思い込んでいたからだ。

    言葉にしなくても分かり合える関係に、憧れていたから。

    知っているつもりで、何も知らなかった。


    第四章:いちばん人気君

    放課後になると、いつも教室のすみっこに、自分たちの机をくっつけて島をつくり、さっそくひそひそ話を始めた。そんな女の子の島が、反対側の窓際にもあった。

    「私の好きなのはF君か、S君」
    照れくさそうに、その子はいった。

    「私はS君」次の子が言う。

    「私もS君」

    そして、私は
    「へー、みんなそうなんだ、私はM君がいいと思うけどな」

    本当は、いつも好きになる人は、決まって、いちばん人気の人だった。誰かが先に宣言してしまうから、うその2番、3番人気に夢中のふりをした。いちばん人気の人を好きになるのは、どこかで気まずかったと思う。誰かと競っているような気持ちになるのもいやだったし、なにより、自分の気持ちがそのまま「その他、大勢と同じ」になるのがいやだった。

    なぜか、いちばん人気の人には、必ずといっていいほど、公認の彼女がいる。同窓会に行っても、一種の「物語」になっている。「あの二人、結局どうなったの?」そういう話は、何年たっても出てくる。公認カップルの話は誰もが覚えているけれど、2番、3番人気のことは、誰も覚えていない。

    ある時、同窓会で、いちばん人気だったS君に再会した。

    「久しぶりだね。元気にしてた?」
    「そういえば、F君もきてるよ」

    「あー、あの数学がすごいできた奴だろー」
    「あいつ、頭が良かったよあー。英語できたしなー。」

    そのいちばん人気のS君は、どうやら同級生を頭がよかった順番で、覚えているらしかった。いろんな記憶の仕方があるものだと、おかしく思った。

    「じゃあ、俺のことなんか覚えてるわけないじゃんなー」
    私の横からのりだした人がいた。

    M君だった。私に向けられたその素直な笑顔は、変わってなかった。
    その人は、私の「にばん君」だった。今さらだけど、にばん君は、その時いっきに「いちばん君」に格上げになった。

    そういえば、私の初恋は幼稚園のときだった。大きくなったら結婚すると言っていた記憶がうっすらある。相手が誰だったか、長いこと忘れていた。 でも、その子もやっぱり、いちばん人気の子だったことは覚えている。そして他にどんな子がいたのかはすっかり忘れている。

    小学校の頃、いちばん人気のN君の奪い合いで、女の子チームが集まってドッジボールの試合をした。N君は有栖川公園の広場の真ん中で、じっと寒さに震えながら試合の行方をみていた。おそろしく恥ずかしい思い出だ。

    いちばん人気の人への想いは、恋だったのか、それは、よくわからない。

    でも、ひとつだけ思う。みんなの記憶に残ってるって、すごいことだ。


    第五章:同じにならない温度

    涙がもう一滴も残っていない。

    私は、会社の帰りにまっすぐ家に帰ることはなかった。朝になると、目覚ましの曲が、今日も流れる。何度同じことを繰り返しても、私は一ミリも進んでないと思った。

    机の引き出しの奥にあった日記帳は形も色も様々で、電話帳は大きいものから手のひらサイズまで、捨てられずに残っていた。

    電話帳を一冊をとりだした。
    「これ、かなり古いな。いまも居るかな。」
    今はもう使われていないかもしれない番号、何年も連絡を取っていない知人、男女構わず、片っ端から電話をかけた。

    「ものすごく久しぶり。覚えてる?」
    ただ、一人でいたくなかった。それだけだった。 誰かと話をしていないと、自分がそのまま消えて無くなってしまうような気がしていた。

    ある日、自宅の玄関ドアのまえで眠っていた。飲み会の後、会社の先輩が心配して、マンションの入り口まで送りとどけてくれたところまでは、なんとなく記憶がある。薄目をあけたら、目の前に無機質なマンションの非常階段がみえた。

    「なんであいつは、非常階段のところで寝てたんだ?」
    父にとって、どう映ったんだろう。母は何と答えたんだろう。私は怒られたわけでもなかった。その頃の記憶は、ところどころ白く抜けている。細部が全く残っていないのだ。そしてついに、みかねた会社の上司から、事実上の「外出禁止令」を言い渡された。

    失恋の痛みというのは、きれいなものじゃない。
    時間がたてば癒えるとか、そういう言葉では埋まらない。

    それでも、いつ、どうやって立ち直ったのかは覚えていないけれど、気づいたら、となりに誰かがいた。手をつなぐ誰か。いつのまにか、隣に人がいる。当たり前のように、指が重なっている。

    「寒くない?」
    やさしい声だった。
    「うん、大丈夫」

    つないだ手は、あたたかかった。でも、その温度は、私のものとは少し違っていた。冷たいとか、熱いとかではない。ただ、「同じではない」という感じ。

    その違いは、すぐに消えるものだと思っていた。 時間が経てば、少しずつなじんで、同じ温度になるのだと。でも、その温度は、いっこうに変わらなかった。

    うまらない温度差は、それでも、そこにあっていいと思えた。そういうものだと、思うことにした。

    となりの誰かは、気づけば、別の誰かに変わっていた。

    彼の家でテレビをみながら、過ごす時間。
    「今度、どこ行きたい?」
    「どこでもいいよ」
    「じゃあ、私が決めていい?」
    「いいよ」
    会話は続いていく。 予定も、ちゃんとうまっていく。埋めようと思えば埋められる。でも、埋めなくても困らない。

    あの頃の私は、つなぐ手を失うことを、何よりも怖がっていた。

    いつも温度を確かめて、「ごめんね」と言ったこともあったし、何も言わずに離れたこともあった。理由は、うまく説明できなかった。ただ、違う、と思った。それだけだった。

    誰かがいても、埋まらないものは、埋まらない。

    同じ温度を探していた。完全に重なる、ぴったり同じ温度。でも、そんなものは、最初から存在しない。たぶん、本当に必要だったのは、温度が違うままでも、手を離さないことだったのだと思う。

    そのことに気づくまでに、いくつもの手を、放してしまっていた。


    第六章:欲張りの報酬

    押入れを整理していたら、昔のアルバムが何冊もでてきた。

    まだ終活には、早いけれど、ページをめくっていたら、自分の人生が開き、時には輝き、時には足踏みをし、そして、もう加えるページがなくなって、閉じていくかのようだった。

    結婚したかったわけじゃない。

    人生のステージイベントは、全部やっておきたかった。結婚。出産。子育て。家事。キャリア。やらないより、やった方がいい。そう思っていた。
    人より幸せになりたいというより、経験することの方が、しないよりいい。

    すでに恋愛とは少し違うものだったのかもしれない。

    ある日、このままでいても変わらないことが、たまらなくいやになった。きっかけは、小さなことだったと思う。夜、キッチンで食器を洗っていたとき、水の音だけがやけに大きく響いていた。

    彼は、リビングでテレビを見ていた。
    「ねえ」
    少し遅れて、「ん?」と返事が返ってきた。

    「このままでいいと思う?」
    「何が?」
    彼は、テレビから目を離さないまま言った。

    自分でも何を聞いているのか、うまく説明できなかった。生活のことなのか、関係のことなのか、それとも、自分自身のことなのか。

    「別に、いいんじゃない? 特に問題もないと思うけどな」
    彼は、あっさりと言った。

    流れ続ける水の音だけが残った。私は、強烈にこのままではいられないと思っているのだ。それは、どちらが正しいという話ではなかった。ただ、そのズレは深く、鋭利だった。

    離婚したとき、人生のイベントが、またひとつ増えた。

    恋愛だろうと思うものは、その時々には、私のすべてを占めた。いつも山を登るみたいに必死で、谷を降りるみたいにしんどかった。もうどうでもいいやと思ったこともあった。山頂は、まばゆい光景につつまれて幸福だ。けれど、その絶景を誰かと共有できていると感じる瞬間は、短い。そして、また地に戻る。

    こんなにいろんなことを通り抜けてきたはずなのに、これまでやってきたことが、いともあっけなくみえた。

    後悔ではない。ただ、そうみえたのだ。一生懸命に仕事をして、生活をして、そして、いつの間にか仕事を終える節目がくる。

    今は特別な予定もなく、誰かに報告するようなこともない。

    それでも、私は誰に見せるためでもない「完璧な人生」を追い求め、次のイベントをひそかに心待ちにしている。


    第七章:結婚ライン

    結婚ライン、総合高得点だった。
    その彼は、いつも将来の話をしていた。

    「将来のこと、どうしたいか考えてる?」
    「考えてるよ」と、私は言った。

    「どんなふうに?」
    「とりあえず、今の仕事は嫌いじゃないから、もう少し頑張って働いて、公園が近くにある家に家族と暮らして・・・」言いながら、あまりウキウキしていない自分がいることに、少し気づいていた。

    「そうだね、安心できる場所をつくろうね」
    「うん」

    私が編んだ、少し網目がそろっていないグレーのセーターを着ている彼は、外見も、仕事も、考え方も、とりたてて特徴はない。でも、いいパパになるだろうと思った。彼の描く未来の中に、自分が自然にいることに安心していたのだと思う。自分で決めなくても、誰かが先にレールを敷いてくれる。そのことが、楽だった。

    「いい人を選べば、だいたいうまくいく」と思っていた。「恋愛と結婚はちがう」そういう言い方を、どこかで信じていた。人から見てもちゃんとしていて、将来の話をしても不安が少ない人。そういう人となら、ちゃんとした人生に近づける気がしていた。

    次の彼は、高得点ではなかった。でも私のことが大好きで、仕事にも一生懸命で、真面目に働いている人だった。好きなものや欲しいと言ったものを覚えていて、サプライズがすごく上手だった。そばにいると心地よくて、一緒に生きていくならこういう人がいいのかもしれないと思った。

    どの彼のことも、いやになったわけじゃなかった。むしろ、それなりに好きだった。好きになるべき理由も、いくつも並べられたし、そんなふうに理由を言える恋愛は「いい人を選べた」と思えた。

    そのうち、私は学生の頃からいってみたかった外国へと旅立った。
    そして、どの彼も、少しずつ薄い記憶になっていった。

    ショッピングモールの1階にあるペットショップがお気に入りで、出かけると必ず立ち寄った。その日は、フードコートでハンバーガーとポテトを食べたあとに、小鳥をみにいった。

    「この子がいいなぁ、すごくかわいい」
    私は、当たり前のように、一番元気に羽をふるわせている、薄水色の子を指した。

    彼は、すみっこをじっとみていた。
    そして、羽が薄くなった黄色の子を連れて帰ると言った。
    その黄色い小鳥はほとんど動かず、じっとしていた。

    「大丈夫なの?」

    彼は、少し黙ってから言った。
    「きっと僕のことを待ってたんだと思う」

    その小鳥は、数日後に死んだ。

    「ごめんな」彼が、小さく言った。
    彼のやさしい目と、きゅっと結んだ口が、すごくきれいだった。

    その彼は、結婚ラインの総合点からは、いちばん遠い人だった。しあわせになれるとは、思えなかった。未来の話も、安定も、何ひとつ約束してくれなかった。私はあのとき、はじめて、自分と違う選び方をする人を、真正面から見たのだと思う。

    その人のことだけが、
    今でも忘れられない。


    第八章:最強のパートナー

    久しぶりにデパートの屋上屋台に行った。
    ビールを片手に、私は軽い気持ちで話しかけた。

    「恋人ってさ、やっぱり刺激がないとだめだよね」

    向かいに座っていた彼は、少しだけ真面目な顔で言った。
    「刺激って、何?」

    「お互いに高め合える感じ。負けてられない、みたいな」
    好きな言葉だった。切磋琢磨。

    「疲れない?」
    「え?」
    「ずっと戦ってるのって、疲れるじゃない」

    「そうかな、なんか先にすすめるし、成長できるって気がする」
    彼はそれ以上、何も言わなかった。

    厳しくてもいい。そういう恋愛こそが正解だと思っていた。恋人は、自慢のパートナーであってほしかった。「この人、すごいでしょ」そう言える相手。並んだときに、ちゃんとお互いに見栄えがする関係。そのために、私はいつも、どこかで相手を見ていた。

    「もう少し話が合えばいいのに」
    「なんでそんなに服に無頓着なの?」
    「もう少し、ちゃんとしてほしい」

    そのうち、私は気づいた。パーフェクトなんて、存在しない。すると今度は、採点が始まった。

    この人のプラスは何か。マイナスはどこか。それを補うだけの価値があるか。頭の中に、見えない表ができていく。そして、マイナスを他の誰かのプラスで埋めようとする。

    その日は、私が前から行きたいといっていた赤坂のフレンチレストランへ食事にでかけた。

    「俺って、何点くらいなの?」
    「なんかさ、いつも見られてる気がするんだよね」
    私は、何も言えなかった。図星だったからだ。
    「別にいいんだけどさ」

    私は、いつも足りない部分を、別の誰かで補おうとしていた。「もっと特別な何か」を待っていた。もっと劇的で、もっと特別なものを恋愛に求めていた。

    別の彼に質問したことがある。その彼は、病院の待合室でたまたま同じ薬をまっていた人だった。なんとなくそれで目があって、会話がはじまった。

    「一緒にいたいと思うのはなぜだと思う?」

    彼は、少し困った顔をしてから言った。
    「なんでだろうね。でも、一緒にいたいと思うよ」

    その答えにがっかりした。「死ぬほど好きだから」とか、「お前じゃないとだめだから」とか、もっとなんか違う言葉を言ってほしかった。
    彼はいつも等身大の人だった。

    ある日、私は夜遅くになって、すごく体調を崩し、立ち上がるのもつらかった。

    連絡しても、急に飛んできて来てくれることなはいと思った。それはたぶん、私がそうだから。それに、迷惑に思われるのがいやだったし、行けないといわれて、傷つきたくなかった。

    どうしても辛くなって、短くメッセージを送った。

    「ごめん、今熱があって、ものすごく、気持ち悪い」

    すぐに返事が来た。
    「今どこ?」
    それだけだった。理由も状況も聞かなかった。

    「家」
    「すぐ行く」

    等身大の彼は、本当に、すぐに来た。
    玄関のドアが開いて、息を少し切らしながら、彼が入ってきた。

    「大丈夫?」
    その声は、いつもと同じだった。

    水を用意して、薬を出して、静かにそばに座った。
    「無理したのかな、早く治るといいね」
    「しばらく、ここにいるよ」

    私は、そのとき、初めて思った。ああ、これなんだ、と。何でも持っている人でもない、自分を高く引き上げてくれる人でも、世間に誇れる人でもない。

    何があっても、いちばんに私のところへ飛んできてくれると、”自分が迷わずに、心から信じられる人”。

    それは、簡単なことじゃない。

    もし、見つけられたら、それが最強のパートナー。


    第九章:彼は彼のままだった

    死ぬほど、彼が好きだった。

    その言葉は、ずいぶん長いあいだ、自分の中で形を変えずに残っていた。
    久しぶりに会ったのは、何のきっかけもない日だった。偶然に近かったと思う。

    暑い日だった。早く涼しい冷房車に乗りたいなと思いながら、足早に移動する。いつも乗り換えるホームの中ほどに、彼がいた。

    「……あれ?」
    「久しぶり」
    私は、少しだけ遅れて言った。

    彼は、あの頃と同じように笑った。白髪が増えて、目元にしわができていたけれど、変わっていなかった。白い半そでのシャツにジーンズ。それでも、白いシャツは、あの頃よりちょっと高そうな麻のシャツにかわっているようだった。

    「全然変わらないね」
    私は言った。
    「それ、褒めてる?」
    彼は笑った。
    「褒めてるよ」
    変わっていない、というより、変わり方が、彼らしいと感じた。

    「元気にしてた?」
    彼が聞く。

    「うん、それなりに」
    「そっちは?」
    「まあ、それなり」

    同じ言葉が、同じように返ってくる。少しも変わらない会話のテンポ。

    彼は、結婚し、離婚したと聞いた。それを、何度か繰り返したとも。

    「いろいろあったんだよ」
    彼は、少しだけ横をむいて言った。

    「うまくいかなかったの?」
    「うーん、どうだろうね」少し考えてから、彼は言った。
    「うまくいった時期もあったし、そうじゃない時期もあったかな」

    しあわせだとは言わなかった。でも、ふしあわせでもないようだった。
    その中間のどこかに、彼はずっといるようにみえた。

    なぜだかわからないけれど、彼がどう暮らしてきたのか、見えた気がした。
    そこには、彼の家族がいて、彼が仕事に向かう朝の風景があった。オールドアメリカンな食卓の配置とか、シリアルとフルーツのもられたプレート、家族と交わす短い会話が聞こえるようだった。そんな、知らないはずの風景が、ぼんやりと浮かぶ。

    同時に、もうひとつの景色も見えた。もし、あのまま一緒にいたら、同じように、時間が流れて、同じように、日常が積み重なっていく。彼はきっと、同じように笑っている。その隣に、私がいる。

    「ちょっと、想像しちゃった」
    「何を?」
    「もし、ってやつ」
    彼は、ふっと笑った。
    「ああ、それね」

    彼は、どこにいても変わらない。時間が経っても、誰かと生きても、何かを失っても、彼は、彼のままなのだと思った。

    死ぬほど好きだった彼は、確かに、そこにいた。目の前に、ちゃんと。

    「じゃぁ、またね」
    彼は、ホームの階段を昇って行った。
    たぶんもう会うことがない彼の後ろ姿を見送った。

    私は、私のままではいられなかった。

    冷房車が停車した。


    第十章:ウエディングドレス

    鏡の前で、クルっとまわった。白く長いドレスのすそが、ゆっくりと遅れて円を描いた。

    選んだのは、身体のラインを際立たせるマーメイドラインのドレス。繊細なレースに、重く落ちるサテン。 光を受けて、静かにきらめくスパンコール。

    そのドレスは、着られることなく、クローゼットの奥にしまわれたままになった。

    彼は、アメリカの田舎町にいる。ボストンバッグの彼女と結婚し、子どもが生まれた。それは、私が直接見た景色ではなく、誰かの言葉で知った出来事だった。

    「彼女、どうしても結婚したかったらしいよ」
    彼女のことを知っている友人は何人かいたけれど、彼女は私たちとは距離をおいている子だった。念願のフライトアテンダントになり、彼に育児を任せきりになったという話も、あとから聞いた。

    「結構大変みたいだよ」
    「ふぅん」
    私は、ただそう言った。心のなかでは、完全に無関心にはなれなかったけれど、そんな曖昧な距離の中で、お互いの異なった暮らしが続いていく。

    そして、ある時、離婚したと聞いた。それもまた、誰かの言葉だった。

    ある夜、私はクローゼットを開けた。ただ、ふと、思い出して、クローゼットの奥にしまってあった箱を取り出した。その中にはブライダルガーターがはいっている。

    水色だった箱は、少しだけくすんでいた。リボンは色を失い、布は時間の重さをまとっている。へこんだ蓋を開けた。中のレースは、黄ばんでいた。でも、その横にあった白い羽はあの日と変わらない白さを保っていた。

    彼は、私のことが大好きだったから、私が帰国したあと、いつも凄くつらそうだったと友人が言っていた。

    「だから余計に一人で待ってるの、寂しくって無理だったんだね」
    「そうだね」
    私は気にもしてないように、答えていた。

    白い羽をみながら、そんなことを思い出していた。

    彼を失ったのは、彼女が空白を埋めたからだ。いとも簡単に。たぶん、それだけのことだった。

    数年後、彼から直接後悔していると聞いた。

    彼と私は、お互いの違う部分を補って、かろうじていびつな球体のようなものができあがるような、そんな不安定な関係だった。でもそれは、シャボン玉みたいに、光を受けると、その姿はすごくきれいなのだ。

    私は、その不安定さを、どこかで知っていた。彼もまた、知っていたのだと思う。でも、知らないふりをした。そのほうが、若い二人にはかっこよく見えたから。

    私は、羽を元に戻し、水色の箱を閉じた。


    第十一章:ロン毛の父と祖父の犬

    卒業式の日、学ランの金色のボタンが全部なくなっていた先輩がいた。
    目深にかぶった学生帽。本牛革の学生カバン。男子学生は、分厚い白デニムの学生カバンを肩から斜めにかけていた。
    その先輩の第二ボタンが欲しかった。

    中学生くらいまでは、人を好きになることは、もっと単純だった。好きな人が笑うだけでうれしくて、話せるだけで特別だった。

    高校になると、少しずつ条件が増える。頭が悪いのはいやだったし、背は高いほうがよかった。太っている人を好きにはなれなかった。

    大学に入るころには、もっと複雑になっていた。有名大学。 エリート企業。 育ってきた家の空気。そういうものが、なんとなく見えるようになる。親の職業や、住んでいる場所。そういうことを、いつから気にするようになったのだろう。

    私が結婚した人は、そういう世界からは遠い人だった。でも、どういう家で育ったのかは、なんとなく知っていた。中学の同級生だったからだ。

    「俺、前の彼女に興信所使われたことあるんだよね」
    彼は、ファミレスでハンバーグを食べながら、笑って言った。

    「え、それショックじゃない?」
    「まあね。でも、うち変わってるから、心配だったんじゃない?」
    変わってる、という言葉を、彼はどこか他人事みたいに言った。

    私は、それ以上聞かなかった。私は、かたくなに、彼の”まわり”を見ないようにしていた。見ないで好きになることが、正しいことのような気がしていた。

    結婚式は、ふたりだけで挙げた。特に誰からも反対されなかった。祝福されていなかったわけでもない。でも、強く関わろうとする人もいなかった。

    彼の父親は、一流大学卒で、某新聞社の記者だった。

    「うちの親父、変だから」
    彼は前からそう言っていた。

    その日、母と彼の家を訪れた。インターホンが鳴ってから、かなり時間があいて、扉が開いた。父親は、パジャマ姿だった。髪は長く、肩近くまで伸びていた。

    そのロン毛の義理父は、「どうも」とだけ言った。部屋の奥から、テレビの音だけが聞こえていた。母が少し緊張した顔で挨拶をして、私も頭を下げた。会話はほとんど続かなかった。

    最初で最後だったと思う。みんな悪い人ではなかった。ただ、それぞれが、それぞれの部屋にいる感じだった。

    別の彼の家に行ったことがある。

    ご両親は、笑顔で迎えてくれた。整った家だったと思う。きれいに片づいていて、会話も穏やかだった。

    「どうぞ、座って」母親が紅茶を出してくれた。私は少し安心していた。“ちゃんとしている”と思った。

    そのとき、小型犬が近づいてきた。白くて、小さくて、たぶんマルチーズだったと思う。犬は彼の足元に寄っていった。すると彼は、顔をしかめて、追い払うように手を振った。

    「シッ」
    犬は驚いたように後ずさった。
    「え、かわいそうじゃない?」私が言うと、彼はすぐに答えた。
    「祖父の犬だから嫌いなんだよ」
    「見たくもない」

    その言い方が、怖かった。彼は私にはとても優しかったし、将来の話や私にどうしたいかも熱心に聞いた。でも、彼にとって恋愛は、“自分の人生に合うかどうか”なのではないか、と思った。そこから外れるものを、彼は簡単に切り捨てる気がした。

    結婚したときは、ずっと一緒に生きていく相手だと思っていたのに、気づけば、ただ一緒に暮らしているだけになる。同じ部屋にいても、話をしなくなる。恋愛は、言葉がなくても、相手の気持ちを推し量ろうとする。それが変わる。

    犬を追い払った彼の結婚式の写真をみせられた。
    満面の笑みをうかべ、ウエディングキャンドルをかざしていた。


    第十二章:サンティール

    名古屋でバーをやっていた叔母がいた。店の名前は「サンティール」。
    叔母は、いしだあゆみを、もう少し悪女っぽくしたような人だった。

    私は叔母が大好きだった。二十歳のとき、店を手伝わせてもらうことになった。

    「かわいいねえ、新人?」
    常連客が言う。

    叔母はすぐに答えた。
    「ヤギよ」
    「え?」
    「メー、メー、姪」

    店の奥で氷を割っていたボーイまで吹き出した。叔母は、わざと歯に海苔をつけて客を笑わせるような人だった。きれいなのに、平気で変な顔をした。
    でも、ときどき冷たい顔つきになるときがあった。

    アルバイトは楽しかった。常連客はみんな優しかったし、何より、年上の男性と話すのは、緊張もしたけれど、面白かった。

    Yさんと親しくなった。
    既婚者で、まだ若くて、小さい会社をやっていると言っていた。
    彼は他の客と違って、背広を着ていなかった。

    ある日、Yさんとふたりで食事に行くことになった。
    「Yさん、商売がちょっと裏側だから、他の客さんとは少し違う世界の人なの」とだけ、叔母は言った。そういう人と食事にいくことになったのに、心配はしていなかった。きっと人を見る目には自信があったのだろう。

    何を食べたのかも、どんな話をしたのかも、あまり覚えていない。ただ、車の中で、私がふと、「なんか、せつないね」と言った。彼は、その瞬間、急に黙った。そして、私を見た。射るような目だった。あんなふうに見つめられたことが、なかった。

    「Yさんの会社ね、社員をほとんど抜かれちゃったらしいの」
    「もうだめかもしれないって言ってた」

    お店での華やかな談笑は、別世界の話だということを知った。

    別の客は、東京で会ったとき、「愛人にならない?」と、驚くほど直接的に言った。また別の客は、大学教授だった。真面目な人で、学生だった私の就職を、本気で心配してくれた。

    みんな、だいたいは一人でお店にきて、静かに話をした。酒を飲み、少し笑いながら、どうでもいい話をして、帰っていく。それだけだった。

    私はまだ小娘程度の歳だったけれど、一日の仕事を終えた男の人の、つかのまの居場所が見えた気がした。そこは、仕事の仲間と愚痴をいいあう場所でもなく、カラオケを歌って騒ぐ場所でもなく、家族団らんの場所でもない。ただ、ひとりでいられる場所なのだ。

    店の終わりは、いつも「さよならルンバ」だった。
    ♪「このまま お別れしましょう」

    陽気なリズムなのに、どこか寂しい歌だった。


    第十三章:ゴースト

    きれいに折り目の入ったYシャツにズボン、いつも上品な着こなしの同僚と、ときおりランチを一緒に食べ、オフィスのあれこれを愚痴ったりしていた。

    ある時、その同僚は、昼休みになると熱心に旅行の情報サイトをみくらべていて、少し声をかけにくい雰囲気だった。

    彼はランチ定食を食べながら、言った。

    「旅行の計画をたててるんだけど、細かいところまでしっかり決めないといけないから、結構大変なんだ」

    そして、彼は、自分の彼女は病気で、あと数年の命だと私に言った。だから籍は入れられないし、家族も認めてくれないのだと。最後の旅行は体の負担がないように計画したいんだと。

    彼女は亡くなった。

    「一番近い席に座れなかったんだよね、最愛の人なのに」
    その言葉がずっと残っている。

    私は、一緒にいれば、それでいいと思っていた。今のことだけ考えていた。波風を立てたくなかったし、いつか時間が解決するのだと思っていた。

    母は、反対していた。
    「どうして私の幸せを考えてくれないの?」
    母は黙っていた。
    「お母さんだって、彼のこと嫌いだって言ってたじゃない」
    それでも、何も言わなかった。ただ、怖い顔をしていた。

    私は離婚をして、その時、一緒にいたいと思った人といたかった。 たとえ、その人に奥さんがいても。そして私は、母は当然、自分の幸せを一番に考えてくれる人なのだと思っていた。

    母とは、一年以上、連絡を取らなかった。そのあと、何事もなかったように関係は戻った。でも、私が一緒にいた人は、母の前では存在しない人になった。

    ゴーストだった。
    名前を口にすることもない。

    家をでるときに「今日はすぐ帰ってくるの?」 と聞かれても、「ううん、遅くなる」としか答えなかった。母も、それ以上聞かなかった。でも、見えていないはずはなかった。車で迎えに来る影。見えていて、見ないふりをしていた。

    初めて知った。母には、母の恋愛の形があったのだ。

    父は、家に帰らなくなった。 そして、いつしか別の女性と暮らしていた。当然のように、両親は離婚した。私は、母にとって、その女性と同じ側に立っていた。だから、許せなかったのだ。

    いろいろな方法を使って、少しずつ、その人を「存在する人」に変えていった。母がそれをどう思っていたのかは分からない。

    恋愛には、人だけではなく、形がある。正しい形。 間違った形。私の恋愛は、母には受け入れられない形だった。

    ただ、それだけだったのだと思う。


    第十四章:ペンパル

    父の腕に4針ほどぬった傷があった。私が小学生の頃、学校までおくってもらった車の助手席に座っていたときに気づいた。どうしたのかは聞かなかった。

    父は小さい倉庫会社の社長で、早朝からよく働いていた。初めは狭かった会社もビルにかわっていた。何台も新車を乗り継いでいたし、よく社員をつれてアジアに旅行にいっていた。

    両親が離婚するまでに、いろんなことがあった。毎日鳴り響く電話に、座布団をかけたことを覚えている。今思えば、電話線をぬけばよかったのに。腕の傷はそのころのことだった。

    父はいなくなったけれど、私は困ることなく成人し、いい仕事にもついた。いつ、父に再会したのか覚えていないが、父には別の家庭があり、私は父が同居していた祖母と叔父に会いにいっていた。

    「パパ―」
    といって、小さい子供が父の膝のうえに飛び乗った。
    「それは、私のパパ」と、心のなかでつぶやいていた。
    その時の光景が今も目に焼き付いている。

    その父の相手の人は、私のことを名前でよんだ。そして、いつも食べ物をタッパーにいれて手渡した。その人は祖母を看護し、叔父を看取り、今も父と一緒にいる。

    父と連絡がつかなくなった時期があった。行方不明者を探す人の気持ちがわかる気がした。その人がどうであれ、わからない、ということがたまらなくいやなのだ。孤独ではないことがわかり、誰といようが関係なく、ただ私は安堵したのだ。

    父はいまだに母のことが好きだと言い、母は父のことを悪く言わない。
    それでも、別々の居場所があり、二度と会うことはない。

    父と母はペンパルだった。恋愛のはじめとおわりである。


    第十五章:青いポロシャツ

    パン屋は目黒権之助坂にあった。地下にはパーラーがあり、上階は中華料理店だった。

    高校生の時、パン屋でアルバイトをはじめた。そこで出会った人は、アマチュアのボクサーだった。爪を守る為だといってマニキュアをぬっていた。

    「自分がホワイトカラーだったら、すぐに結婚を申しこむんだけどな」
    と言っていた。その人は初めてキスをした人だった。

    同じアルバイトをしていた子は、その人のことが好きだった。3歳年上の大学生で演劇をやっているといっていた。真っ黒なおかっぱ頭が印象的な、切れ長の目をもった人だった。

    私は、地下のパーラーで働く、サーファーの男の子が好きだった。その子は定時制の高校にかよっていた。ジャニーズ系ですごくもてたと思う。
    もう一人、パーラーの厨房でアルバイトをしていた男の子とデートをした。その男の子はペアのTシャツをくれた。

    たまに、パン屋に同じクラスの子がパンを買いにきた。私のことが気になっていたのかもしれない。高校の頃、ものすごく仲良しの男の子がいた。髪の毛はくるくるパーマだった。いつもおしゃべりをしていて、いつも一緒に先生に注意されていて、最後には強制的に席を遠くに離された。たぶん、好きだったと思う。その男の子は、私の友達に告白した。

    花の学生時代の記憶である。

    今思えば、その誰一人として、私は彼らを知らなかったと思う。何を考え、何を共にしたのか、中身がない。その一瞬の時間をこうして今も覚えているだけ。それでも、それはとても懐かしく、はかなく、綺麗な想い出となった。

    大人になると、気持ちの方を覚えている。あの時の嫌な気分、悲しい気持ち、腹を立てながらも、期待して待っていた時間。その重さを、どこかで記憶してしまっているのだと思う。

    「あの時、泣いてくれたらよかったのに」
    最初にデートした場所で、彼は言った。

    彼は、私と過ごした時間を全部返してきた。

    写真。
    プレゼント。
    手紙。

    全部整頓されて、緑色の四角い箱に入っていた。

    最初にデートした湖畔にいる、青いペアのポロシャツを着た私の写真があった。その時のことはよく覚えていない。けれど、その写真をみた瞬間、息をはくことを忘れた。

    今は、その写真がどこにあるのかもわからない。


    第十六章:根っこ

    最近同棲を始めた男友達にあった。

    「どう、彼女とうまくいってる?」
    「まぁ、大丈夫かな、根っこのところが似てるからさ」

    彼は私とは全く違う性格だった。だから、きっと根っこは似てない。

    私は、似ている人と一緒にいるほうがいいのだと思っている。若い頃は、違う人に惹かれた。知らない世界を見せてくれる人。自分にないものを持っている人。でも、年齢を重ねると、違うことは刺激にはなっても、安らぎにはならない。

    言わなくても、同じ方向を見ている。
    言わなくても、同じものを選んでいる。

    いちいち言わなくてもいいから、億劫になる年齢になると、それが楽なのだろう。

    私は、あの頃彼が何を考えているのか、全くわからなかった。
    聞いても、答えないこともあった。
    「あの山の上のホテル、いいよね。どんなところなんだろう。」

    えてして、この言葉には、行ってみたい がふくまれている。
    彼にはそれがわからなかった。

    「え、行きたかったの?」
    「気づかないんだ、やっぱり」

    それでも私の友達は、
    「なんかすごく心配してたよ、いいね、そんなに心配してくれる彼がいてさ」と言っていた。

    そんなことを感じたことはなかったし、なんとなく一緒にいて、なんとなく結婚した。

    湖畔で車を止めた。
    私は、何でもいいから言ってほしかった。

    怒っているのか。
    悲しいのか。
    もう嫌なのか。

    私は二時間ねばった。
    でも彼は、一言も発しなかった。

    窓の外に、暗い湖が見えていた。
    あの時が、最後だったのだと思う。

    根っこのところが、違ったのだ。


    第十七章:雰囲気

    「あれ、だれ?」
    「ん?どの人?」
    「あー、あれはS君だよ。」
    「え、誰それ」

    同窓会のとき、どうしても誰だかわからない人がいた。

    その人は、一人でウイスキーを飲んでいた。
    グラスの持ち方。
    視線。
    笑わない感じ。
    顔ではなく、一連の動きが、とても素敵だった。

    好みのタイプ、というものがある。顔の好みなら説明できるかもしれない。
    でも、その人がまとっている雰囲気を、言葉にするのは難しい。

    誰だか分からないくらいだから、話しかけることもなかった。

    「俺わかる? ブルースって呼ばれてたんだよ」
    「言われなくてもわかるよ。そのままだもん」

    たくさんの懐かしい顔をみた、S君を除いては。

    毎日電車でみかける人がいた。スーツにはしわが目立ったし、いつも髪がぼさぼさだったけれど、その目がもつ雰囲気が好きだった。

    名前もしらない、ちょっと身長が低い先輩がいた。どこが好きだったのかわからない。けれど、大勢生徒がいる中で、どうしてか見つけることができてしまう。文化祭のフォークダンスで、その先輩の順番がきたとき、胸がものすごく高鳴って、しあわせな気分になれた。

    恋愛というにはちょっと違う。話をしたいとか、つきあいたいとかじゃない。

    ただ、どうしても、むしょうに惹かれる雰囲気をもつ人が、私には何人かいた。


    第十八章:黒い矢じり

    「・・・プリンス」

    白いポロシャツに白い半ズボン、白いソックスに、白いスニーカー。
    肌は浅黒く、髪はカラスの濡れ羽色、長いまつげに、歯並びのいい真っ白い歯。白いテニスボールを投げ、眩しそうに太陽を見るその黒い瞳。

    私は射貫かれたように、動けなかった。

    その人はパキスタンの人で、会社の研修旅行でその姿をはじめてみた。
    まさしく貴公子だった。

    その人は幸か不幸か、私の上司になった。誰よりも年下の上司という、異例の抜擢だった。不思議と誰もが、そのままに従った。

    その人は、歩くも座るも、映画のようだった。ワイシャツのカフスが輝き、スーツの着こなしも抜群だった。それほど稀にみる状況だったのに、どういうわけか、私は仕事を淡々とこなしていた。

    その人はほどなく恋人と結婚し、私たちは広尾の家に招待された。センスのいい家具に、あっけらかんとした明るいアメリカ人の奥さんだった。

    その人は数年で栄転になり、アメリカにもどった。

    その人の前で悔しくて泣いたことがある。仕事で泣くなんて生涯はじめてだ。私は理論を通したかった。その人は上司として、人間を通したかった。
    正しいとか間違っているとかではなかったことは、今になってよくわかる。

    その人は、一瞬に目の前をかすめた矢じりのようだった。

    恋焦がれたこともないし、ドキドキしたこともない。あまりに現実離れしていたのだと思う。

    もしかしたら、夢だったのかもしれない。


    第十九章:声

    昔から、たまらなく好きな声があった。いつも前川清のラストソングを歌ってくれた、叔母の店のお客さん。その声を言葉で言い表すことは不可能だ。

    歌詞がつよくてもいけない、メロディーがうるさくてもいけない、耳にそよぐ、たまらなく心地よい声。

    たぶん、大好きな彼と一緒にいるときと似ているようにも思うけれど、その、ちょっと震える気持ちよりも、すべてをなげだせる心地よさ。

    そんな声が、今、たまらなく恋しい。

    好きだった人たちの声は、思い出せない。声は、脳裏にうかべることができる情景じゃないからだ。言葉にも、場面にもならないその声は、私のどこに記憶されているのだろう。

    さがすすべはない。


    第二十章:転生する地点

    自転車にまたがる小学生の男の子。つま先を精一杯に伸ばして、地面にかろうじて着地している。まだほっぺたがふっくらしている。ハンドルを握って、顔はちょっと困った風だ。

    「そうか、もしそこまで戻って転生したら、この子にはあえなかったってことか」

    人生やり直せたら、どこまで戻りたいかという話をしていたことがあった。

    それは幾人かの元カレに出会わないということだ。もどる地点を決めたところで、それらの彼は存在しなかったことになる。

    「いや、ちょっとまって、息子にあえないってことは、やっぱりつらいな」
    「他の誰かの子になるだけで、同じじゃないの?」

    「いや、違うんだよね」
    「違う顔、違う魂だからね」
    「この子が存在しないというのが、我慢できないかも」

    もともと子供好きだったわけじゃない。いなくてもいいぐらいに思っていたこともあった。「あなたの子供だからほしい」とかいうセリフがあったけれど、それは、違うと思った。

    私には愛おしい猫もいた。もどるなら、連れていく。

    どうしてだろう。
    彼は変わってもかまわないと思うのに。


    第二十一章:ハチマキ

    長くまっすぐなストレートヘア。ちょっと目を伏せて、クルっと背をむけるしぐさ。少し鼻にしわをよせてすねる顔。

    その子は、流行りのドラマをいつもまねしていた。

    「あ、またやってるよ」
    「本当だ、がんばるよね」と、女友達。

    「聞いてると嫌な感じだと思うけどさ、でも、自分の彼女だったら、かわいいと思うんだろうな」
    男友達の本音。

    題名は忘れたけれど、恋を成功させる術、みたいな本を何度も繰り返し読んでいた気がする。そこには、アロマとかバスソルトとかリップクリームとか、ほんのりと女の子の香りをださせるアイテムがならんでいた。

    いつもブラシを片手にトイレにいく子がいた。鏡の前で笑顔をつくっていた。彼女が好きだった男の子は、何時もぼさぼさの髪の毛で、机にうつぶせてよく寝ていた。

    恋をしている時は、どれぐらい自分を飾るんだろう。
    恋をしている相手には、どれぐらいそれが伝わるんだろう。

    高校の文化際で私のクラスはお化け屋敷をやった。写真をみると、私は学ランをきて、ながい黄色のハチマキをして、応援団をやっていた。

    お化けメイクの彼と、ハチマキの私が写真にうつっていた。

    お互いあきらかに、違う意味で飾っていた。


    第二十二章:その先にある一歩

    ファミレスの扉が開いて、彼が入ってきた。手には、たくさんの鍵がついたキーホルダー。ちょっと茶髪。店内を見渡して、私をみつけて足早に近づいてくる。

    私の彼は、私の友達によく会いたがった。
    そして、すぐに私の彼をみてみたいという友達がいた。

    彼は友達に会うことで、自分の存在を認めたかった。
    友達は、私の彼を見て、自分と比べて安心したかった。

    声をかけると、すぐに駆け付ける彼がおおかった。彼女想いのいい彼氏を演出していたのかもしれないし、私はすぐに来てくれる彼が自慢でもあった。

    社会人になってからのつきあいは、お互いにそんな時間はなくなる。

    「時間に少し遅れる、わるい」

    日常の情報交換をしたり、たまに記念日ディナー。旅行は日程を合わせるのに一苦労。会うときはいつもビジネスカジュアル。

    「今日はどうしようか、最近忙しくて、ゆっくりできてないね」
    「ともかく、なんか食べよう」

    そんなことが何度となく繰り返されるうちに、当たり前になっていく。

    うっすらと、「二人で暮らした方が早い」なのか、「一人でこのままの関係がらく」なのか考えるときもある。

    もう、友達の為の彼や彼女は存在しない。

    そして、その先にある一歩が見えないふりをするのが、上手になる。


    第二十三章:シーン

    イケメン俳優の壁ドンが画面いっぱいに映った。
    ふたりの眼差しが交差して、顔が近づいてくる。

    ラブシーンって、子供のころは、見ていいのかよくわからなくて、なんとなく恥ずかしくて、目をそらせたりする。好きな人ができたりすると、そのラブシーンは、憧れに重なるのか、自分に重なるのか。

    つきあいはじめた頃は、手をつないだだけでその日一日がバラ色になった。
    その次のシーンは、いつ自分の身に訪れるのか、デートのたびにドキドキして待った。それが訪れると、今度はまたその次のシーンを想像した。

    「今日はこれからホテルいってもいい?」
    うつむきながら首を縦に少しふる。

    「今日はうちにくる?」
    だんだんと、それはいつものパターンになっていく。

    いつの頃からだったろうか、ラブシーンが美しくみえなくなったのは。
    触れられる、その瞬間を期待し、余韻にあふれていたのは。

    彼は、TVをみていた。普通の情報番組だ。
    彼のお腹の下に、私はいた。

    「TV消してよ」
    「わかった」
    すごく嫌な気分だった。でも彼は悪気もなかったし、私は彼のことが好きだった。

    そのうちに
    「あ、この俳優この間他のにもでてたよ」
    私もそんなことをいっていた。

    恋人同士が見つめあい、言葉なく抱き合い、ベッドにくずれおちる美しいラブシーンから、それはもっと肉体的で、汗まみれなものにかわった。


    第二十四章:嫌いなしぐさ

    小学校のとき、バイオリンを弾く、ちょっとおしゃれな女の子がいた。
    ふたりで同じベルボトムジーンズをはいて、小さいアップリケをつけた。
    仲良しだったから、よく家に遊びに行った。

    いきなり、肘をつつかれた。
    ある時は、ナイフの向きをかえられた。

    「肘をついて食べたら、行儀悪いんだよ」
    「ナイフの刃は相手にむけたら、それは敵意をもってるってことなんだよ」

    少しむっとしながらも、彼女の博識からずいぶんと学んだ。
    しかし、二人して生意気な小学生だったな。

    好きな人ができて、まずみえるのが、その人のしぐさ。
    しぐさで好きになることさえある。

    一緒に食事にいくと、そのマナーが目につく。

    「箸の先で、お皿をひっぱる」
    「平皿のライスを、お茶碗みたいにもって食べる」
    「コップに箸を入れる」
    「テーブル席であぐらかいて座る」

    だめだめオンパレード。

    でも、これって、家族をこよなく愛し、豪快な笑顔で、誰からも信頼された
    昭和の大将によく似ている。

    テーブルの向こうで、彼は平皿のライスを持ち上げた。

    「あ、それやるんだ」
    言葉には出さなかったけれど、思わず笑った。


    第二十五章:もう一度会いたい

    もう一度会いたい人って、誰だろう。

    いろんな顔がうかぶ。
    脳みそをたたいて、他に誰かいなかっただろうかと、考える。

    「結構難しいもんだね」
    「死ぬほど好きだった彼は、ちがうの?」
    「うーん、もう一度会ってはみたいけど、どうしてもじゃないんだよね」

    顔を思い浮かべると、必ず付随する記憶も一緒にでてくる。
    たぶん、それがもう一度会いたいを、思いとどまらせるのだ。

    会ったところで、どうするんだ。という結果を考えるからだ。純粋に会いたいという気持ちだけにはなってくれない。

    「俺はさ、もし別れたら、きっとまたもう一度会いたいと思うよ」

    おまえ、ほんとかよ。
    時の流れは、よく言うように残酷なんだよ。と、言いたくなった。

    私は、最近はまっている、韓ドラの彼らを、死ぬ前までに、超身近でみてみたい。


    第二十六章:隣にいる

    その人は限りない優しさをもっている。

    たくさんの悲しみと、たくさんの苦しみを知っている。
    でも強いわけじゃない。

    果てしない我慢のしかたを知っているに違いない。

    つい声をあらげてしまう。
    「耳が遠くなって、話にならないよ」
    「イライラしちゃうよ」

    黙っている。
    私の言葉に怒っている風でなく、穏やかだ。

    「聞こえてないの?」
    「やんなっちゃうよね、年取ると」

    「そうだけど、まだ頑張るんだ」
    「ひとりにはさせないって決めたんだ」

    彼は、いつも私の隣にいる。

     
     
    エッセイ、ショートショート、小説を執筆。 著書に『職場のどうぶつ図鑑』『BLACKWORDSシリーズ』ほか。 Zen Cat(PatternedZen)も制作しています。https://jp.pinterest.com/ichimatsuda

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